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尾崎

シンガーソングライタ

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死亡日 1992425

死亡地 東京都 東京 日本医科大学付属病院

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15 件以上を表示

 

三船小仏さんのDVDから、ビックリ、ビックリが出てきました。コピーします。分かりにくいと思い、少し手を入れました)



リチャード・コシミズ氏はユダヤ陰謀論者の振りをしたある陰謀論者なのである

尾崎豊(親は創価学会、自身も創価学会員)の死を覚醒剤中毒へと誤誘導しようとするリチャード・コシミズ氏

尾崎豊は覚醒剤中毒で死んだのではない。
しかし、リチャード・コシミズ氏は尾崎豊は覚醒剤中毒で死んだとYoutube で誤誘導しようとしている。

ベンジャミン・フルフォード氏との対談を見ると良い。これが陰謀論者である。

誤誘導ーーーーこれが陰謀論者の仕事であり使命である。

リチャード・コシミズが何処に雇われた陰謀論者であるか、これで分かるであろう。

尾崎豊は離婚で拗れており。多くの若者の心を掴んでいた尾崎豊から反乱(創価学会を悪く言うこと。尾崎豊は熱情的な性格でした。熱情的に創価学会を叩いたことは確実です)。

尾崎豊はある宗教団体を批判しており、未だにその宗教団体の熱心な信者であった婦人と激しい諍いを起こしていた。

それ故の離婚騒ぎであった。

「輿水 公明党議員」で検索されると分かる。リチャード・コシミズ氏と同じ町(町全体が全て輿水という姓であることから部落と呼んだ方が適切であろう)出身で、同じ青山大学出身。4歳違い。さゆふらっと氏の動画で見たときは、総務省か何処かの長をされていた。すなわち国会議員である。



さゆふらっと氏のyoutube にこれを解説した部分が有るが、動画は消されているかな?

顔は瓜二つ。

リチャード・コシミズ氏は「家の宗教は日蓮宗身延派」とYoutube で言っているが、日蓮宗身延派という単語は創価学会員が造った単語である(創価学会員以外は使わない)。

日蓮宗日蓮宗本元である誇りから信者は言う。決して日蓮宗身延派とは日蓮宗の信者は言わない。日蓮宗身延派という単語を使うのは創価学会員のみである。

もし、日蓮宗身延派という単語を使うと、それで創価学会員ということが判明してしまうほどでした。決して他の人は日蓮宗身延派という単語は使いません。

もしも、日蓮宗の人に日蓮宗身延派という単語を使うと「言い直せ」と怒られるほどでした。

つまりリチャード・コシミズ氏は創価学会員である。近い親族が公明党国会議員になっているということは一族は熱烈な創価学会の信者で固められているということである。

公明党国会議員になるには弁護士または医師であるならば成りやすい。しかし、弁護士でも医師でも無い人が公明党国会議員になったということは一族全部が一人の反逆者もなく超熱烈な創価学会員ということになる。

リチャード・コシミズ氏は創価学会を酷く貶すため、ある創価学会員が数千人の署名を集めて創価学会本部に「リチャード・コシミズ氏を訴えろ!」と訴えに行ったが、追い返された。

また、コシミズ氏の主張する保険金殺人事件は存在しない。これは本丸から目を逸らさせるための誤誘導である。本丸は東村山女性市議ビル飛び降り殺人事件と伊丹十三映画監督殺人事件である。

すなわち、リチャード・コシミズ氏はユダヤ陰謀論者の振りをしたある陰謀論者なのである。

リチャード・コシミズ氏はバックは中国で決定なのである。と言うことは……….不味い、非常に不味い。自民党が危ない。公明党イクオール創価学会である。公明党を連立与党から外すべきだ。そうしないと日本が危うい。

池田大作の本当の師匠・須山秀吉氏が、非常に熱心な親中国であった。非常に拙い。国家緊急事態である。朝堂院大覚氏に知らせないと行けない。



(須山秀吉氏は東大卒で右翼の最高頭脳と言われていた人です。須山秀吉氏は熱心なキリスト教徒だったため自殺することが許されず、唯一の生き残りになったのです。何故か、熱心な親中国だったのです。これは満州事変で有名な日蓮宗身延派の熱心な信者だった石原莞爾氏が大東亜圏での発展を考えていたことに酷似します)


また、三船小仏さんのDVDから出てきました。コピーします)


何故、創価学会が親中国なのか?
それは池田大作の氏・須山秀吉氏が親中国であったことに由来します。

須山秀吉氏は太平洋戦争が終わった8月15日に起こった事件(愛宕山事件)です。しかし、このwiki は創価学会により書き換えられています。

須山秀吉=極右=ユダヤ金融資本 という図式が成り立ちます。
 
終戦時に起こった大事件(国家内乱罪)を起こした犯人たちの唯一の生き残りが「須山秀吉」です。


>> この事件で、天皇の玉音放送がなされた8月15日、徹底抗戦派の陸軍の策謀は、阿南陸相の自決によって回避された。 だが、降伏に抵抗する一部の右翼と軍人は東京の港区の愛宕山に立て籠もり徹底抗戦を叫んだ。 指導者は右翼の尊壌同士会の「摺建富士夫」であり拳銃や日本刀・手榴弾で武装してクーデターの発生を期待したが 、警官隊に包囲され、0000氏の説得も失敗に終わり、警官隊の一斉攻撃のまえに、 全員輪になって手榴弾を使用し爆死した。<<
 11人のうち生き残ったのが「須山秀吉」ただ一人だったのです。

戦争に反対したから牧口常三郎氏などが逮捕されたのではなく、日蓮正宗を国教として用いないと日本は必ず戦争(太平洋戦争)に負けると強く主張を繰り返していたため、逮捕に成ったのです。

決して戦争に反対だった のではなく、むしろ戦争を褒め称えていました。

牧口常三郎氏は共産主義思想に走った若者を転向させる名人として名高かったのです。
そのため、日蓮正宗を国教として用いないと日本は必ず戦争(太平洋戦争)に負けると強く主張を繰り返していたにも拘わらず、なかなか逮捕されなかったのです。

日本を中国へ売り飛ばす創価学会。
牧口常三郎氏以下、第3代まで、極右です。

余計なのを書いてしまいました。

 

日蓮宗の人は決して日蓮宗身延派とは言いません。創価学会員以外は、そういう名称さえ知らないはずです。

日蓮宗の人が「日蓮宗身延派」という新しく造られた単語を知っていることは考えられません。

 

「日蓮宗身延派」とは本にも載っていません。

(リチャード・コシミズ氏)=(創価学会)で確定です。

 

陰謀論者の役割は焦点反らしです。コシミズ氏は創価学会の悪口を言いながら、焦点反らしをしているのです。本丸は女性市議飛び降り自殺事件と伊丹十三自殺事件です。

本丸から逸らさせるために、本当は無い保険金殺人事件を言っているのです。

同じ名前の国会議員と顔が瓜二つです。従兄弟と思います。

 

 

致死量を超える覚せい剤を自分で飲むことは苦すぎて絶対無理です。
尾崎は死亡時に致死量の2.6倍の覚せい剤を飲まされていた。
体中傷だらけで顔はボコボコに殴られていた。<

とにかく他殺である、自殺では無い。

 

>日蓮正宗信徒の者です。 尾崎豊さんは""創価学会員ですね。 創価学会破門後、御父様である尾崎健一さんと亡きお母様。兄の尾崎康さん(現役の裁判官、昔の制度の弁護士)と尾崎豊さんは、御家族で日蓮正宗法華講に移籍され、尾崎豊さんは直後に変死されました。 未亡人と尾崎裕哉(息子)さんは未だに学会員のままの様ですが、可哀想ですね。<

 

>創価学会が日蓮正宗から破門されたのが199111月。 

創価学会が日蓮正宗から破門されると同時に 尾崎の父健一氏は創価学会を脱会している。 

多くの学会員は創価学会側につき、日蓮正宗と袂を分かつ事になるが 創価学会に批判的だった学会員は 創価学会を脱会し日蓮正宗側に戻った。 

尾崎の父親である健一氏、兄の康氏もその時の脱会者。 

尾崎豊も父や兄(裁判官)に倣い創価学会を脱会したが 妻の繁美は創価学会に残った。 

創価学会はそんな脱会者を裏切り者呼ばわりし、 有り得ない嫌がらせの限りを尽くした。 

昨日までの同志はそれ以来互いを仇敵として憎み合うようになった。 

尾崎豊が変死を遂げたのは破門から半年後の19924月。<

 

ワープロでの遺書............誰でも書ける

当時人気のあった尾崎豊に、テレビで創価学会についてネガティブ発言をされてしまったら困るということで、尾崎豊は殺されたというのです

 

 

 

親中国の創価学会と何故、自民党が組むのか、全く理解出来ません(これが主題)。

今は中国侵略の危機です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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斉藤由

 

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出身地: 日本 東京都練馬

活動期間: 1983 - ‎1992

学歴: 青山学院高等部中退

ジャンル: ロック; ‎フォーク

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『弟尾崎豊の愛と死と』|感想・レビュー - 読書メーター

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尾崎 康『弟尾崎豊の愛とと』の感想・レビュー一覧です。ネタバレを含む感想・レビューは、ネタバレフィルターがあるので安心。読書メーターに投稿された約8 の感想・レビューで本の評判を確認、読書記録を管理することもでき ...



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尾崎豊は死してもなお愛される、「過ぎ去った時間」と ...

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2019/02/19 — そして音楽業界に衝撃を与えたのは、当時26歳だった尾崎豊だった。 この年の425日早朝、尾崎は自宅マンションから約500メートル離れた、足立区千住河原町の民家の軒先で、全裸となり傷だらけの状態で倒れている ...



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2019/12/27 — 尾崎豊を探して。尾崎太郎さんの映画レビュー(感想・評価)。評価4.0。みんなの映画を見た感想・評価を投稿.



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『弟 尾崎豊の愛と死と』(尾崎 康)|講談社BOOK倶楽部

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実兄が知られざる話で書き下ろす豊の真実!尾崎豊の数々のメッセ-ジは何を訴えていたのか。弟の悩みごとの相談相手だった兄がこれまで語られなかった豊の青春、ドラッグ、世間との闘い、最後の言葉を綴る.



尾崎豊 謎の死因 - YouTube

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尾崎豊の遺書、2通あった!鮮血で綴った“謎の死”の真相とは

2011.11.09

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はやくも没後20年。尾崎豊さんの最期の言葉が明かされた【拡大】

 伝説のロックシンガー、尾崎豊さん(享年26)が残した2通の「遺書」が10日発売の月刊文芸春秋に全文掲載されることが9日分かった。1992年に民家の軒先で全裸で死亡。その後、他殺、事故死、自殺と諸説流れ、法廷で争われるなど社会問題にも発展した。ジャーナリストの加賀孝英氏が執筆した「尾崎豊の『遺言』」では、謎に満ちた行動と死の直前の心境に迫っている。

 92年4月25日、未明の東京・足立区。泥酔した尾崎さんは、面識のない民家の軒先で服を脱ぎ捨て、のたうち回り、傷だらけになって息絶えた。後で致死量の2・64倍もの覚醒剤を摂取していたことが警察の調べで判明する。

 人気絶頂のロックシンガーの突然の死に衝撃を受けたマスコミなどは尾崎さんを悼む一方で他殺、自殺で真っ二つになった。だが、同誌では〈尾崎が死の間際まで肌身離さず持ち歩いていたセカンドバック。この中に、小さく折り畳んだ白い封筒が入っていた。(中略)尾崎が書き遺していた「遺書」だった〉とし、当初から遺書があったことを明かしている。

 1つ目の「遺書」はB5サイズのルーズリーフに記され、縦書きの全17行。〈先立つ不幸(ママ)をお許しください〉で始まり、〈先日からずっと死にたいと思っていました。死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、(中略)そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません〉。最後は〈さようなら 私は夢見ます〉で結ばれている。

 2通目の遺書は、尾崎さんの自宅に飾られていた実母の写真の脇から見つかり、小さく折りたたんだ便箋に繁美夫人宛なのか、〈尾崎繁美となりたもうた女神よ〉と自身の鮮血で書いてあったという。〈繁美、あなたは本当に女神なのですよ〉〈××、君は間違いなく天使なのですよ〉(××は息子の実名)とあり、〈私はただあなたを愛する名の神でありつづける〉と、2人への愛をしたためていた。

 加賀氏が繁美夫人、遺族に徹底取材し、死へと突き進む尾崎さんの心境を綴った衝撃的なリポート。同誌の木俣正剛編集長は「尾崎さんが亡くなってから来年で20年を迎えます。ご遺族に了解を得た上で(遺書の)全文を載せることにしました」。謎の死の真相がいま明かされる。

 

 

 

 

2017.09.13

シリーズ「あの人はなぜ死に急いだのか?スターたちの死の真相!」第1

尾崎豊、26歳の変死 尾崎豊の死因は?自殺か?遺書の信憑性は?

この記事のキーワード : あの人はなぜ死に急いだのか?スターたちの死の真相!オーバードーズメタンフェタミン中毒肺水腫

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没後25年・尾崎豊、26歳の変死〜自殺か?他殺か?遺書の信憑性は?真相は?の画像1

写真はシングル「I LOVE YOU」より

 酒、ドラッグ、セックス、精神破綻……。27歳の交差点の迷走。それは、誰も避けられないのだろうか。27歳で夭逝するロックスターたちが余りにも多すぎる。「27クラブ」の破綻・失墜だ。

 「悪魔に魂を売った」ブルース歌手ロバート・ジョンソン、「ローリング・ストーンズ」のギタリストブライアン・ジョーンズ、神がかりの「天才ギタリスト」ジミ・ヘンドリックス、ヘロインのオーバードーズ(過剰摂取)で「ブルースに葬られた」ジャニス・ジョプリン、ロックバンド「ドアーズ」の名ボーカル、ジム・モリソン、グラミー賞にも輝いた不世出の人気歌手エイミー・ワインハウスなど、枚挙にいとまがない。
 
 その葬列に向かって爆走した男がいる。尾崎豊だ。

尾崎豊の死因は覚醒剤 (メタンフェタミン)中毒 による肺水腫と診断されたが……

 1992(平成4)年425日午前545分ごろ、尾崎は自宅マンションから約500m離れた足立区千住河原町の民家の庭で転倒、全身創痍・全裸のままで住人に発見される。119番通報で墨田区内の白鬚橋病院に搬送、診察を受けるが、妻・兄と共に自宅マンションに戻る。だが、10時ごろに容体が急変、呼吸停止したため、119分に119番通報。搬送先の日本医科大学付属病院で治療を受けるが、午後06分に死亡する。

 死因は、致死量の2.64倍以上の覚醒剤 (メタンフェタミン)のオーバードーズ(多量摂取)による肺水腫と診断される。春雨のそぼ降る中、東京都文京区の護国寺で執り行われた葬儀・追悼式におよそ4万人が参列。密葬は日蓮正宗で営まれる。戒名は「頌弦院智心碩豊居士」。墓所は埼玉県所沢市にある。

 尾崎の死因については、様々な異論や疑惑が取りざたされることがある。なぜか?

 発見当初は、事件性がないため行政解剖が行われる予定だった。だが、全身にすり傷があり、右目の上にコブもあることから、千住署、警視庁、検察庁が協議の末、司法解剖に切り替える。東京監察医務院の医師らが検視・解剖した結果、死因は肺に水がたまる肺水腫であると発表される。

 しかし、2年後の1994年、尾崎の体内から検出された覚醒剤に言及した司法解剖の結果を記載した「死体検案書」のコピーがマスコミに流出。当初の司法解剖の結果に疑念が生まれる。検死を担当した司法解剖医の支倉逸人によれば、死因の肺水腫の原因が覚醒剤中毒である事実は伏せられたが、内臓も覚醒剤を経口摂取した形跡があり、肺にも覚醒剤中毒の症状が見られたという。

 また、他殺の疑惑もある。尾崎の遺体には全身に多数の擦過傷と打撲傷があった。だが、検死した支倉逸人によれば、擦過傷と打撲傷を調べたところ、暴行によって生じる傷害と異なる状態であり、頭部の外傷性くも膜下出血も極めて微量の出血のため、死に至るほどの重症ではないと結論づけている。支倉逸人によると、覚醒剤の致死量は個人差が大きく、薬殺の手段として用いるには酒と同じくらい不確実性が高いと述べている(支倉逸人『検死秘録』より)。

 さらに、20111110日発行の文藝春秋に「遺書」全文が公開されるが、父・尾崎健一は、尾崎の遺書である事に疑問を払拭できず、「いまとなっては、他殺だとは思ってないけど、あれは自殺ではない。豊じゃないからわからないけど、なんで死んだんだって…いまでも思ってます」と自殺を否定している(尾崎豊の遺書公開に実父「本当の遺書?」「自殺じゃない」 NEWSポストセブン20111118日)。

 何れにしても、このような様々な異論や疑惑は、確証するに十分な根拠に基づいて論証しなければならない。したがって、ネット上に流れる信憑性のない憶測や推定は、死因の事実を覆す明白な根拠がない限り、尾崎の死因は揺るがないだろう。

 

シリーズ「あの人はなぜ死に急いだのか?スターたちの死の真相!」第1

尾崎豊、26歳の変死 尾崎豊の死因は?自殺か?遺書の信憑性は?

この記事のキーワード : あの人はなぜ死に急いだのか?スターたちの死の真相!オーバードーズメタンフェタミン中毒肺水腫

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死因は重症外傷による心不全、肺の損傷、薬物、覚醒剤の加熱吸引など

 さて、尾崎の死因とされる肺水腫とは何か? 肺水腫(pulmonary edema)とは、肺の気管支、肺胞に水分が染みだして溜まった状態をいう。溜まった水分によって肺のガス交換が障害されるので、低酸素血症となり、呼吸不全に陥り、ピンク色・泡沫状の痰が出る。

 肺は酸素を取り入れ、体内で生じた二酸化炭素を排出するために、肺胞と呼ばれる小さな袋状の構造物に空気を取り入れる。肺胞の周りには網目状の毛細血管が取り巻き、空気と血液との間で酸素と二酸化炭素が交換される。

 肺の中には、ガス交換する小さな穴が開いている毛細血管が無数に走っている。毛細血管は、血液中の水分(血漿)を血管外に染み出して灌流させ、周囲の細胞に酸素や栄養分を補給しつつ、老廃物を回収する。正常な状態なら、染み出す量と回収量はつり合っているが、バランスが崩れて染み出す量が上回ると、細胞の周りは水浸しになり、やがて気管支や肺胞に水が溜まる。この状態が肺水腫だ。

 肺水腫の原因は何か? 主に心臓疾患を原因とする内因性と外傷などを原因とする外因性がある。

 内因性は、左心不全や僧帽弁狭窄症による血管内圧の上昇、肝硬変やネフローゼ症候群による血漿膠質浸透圧の低下、重症肺炎による血管透過性の亢進によって生じる。

 外因性は、窒息剤、糜爛剤などの有毒ガスの吸入、感電、重症外傷による心不全、肺の毛細血管の損傷、薬物、覚醒剤の加熱吸引、燐化水素の吸引、サイアザイド系(チアジド系)利尿薬による急性アレルギー、高山などの低気圧環境によって生じる。

 つまり、尾崎の場合は、外因性のうち、重症外傷による心不全、肺の毛細血管の損傷、薬物、覚醒剤の加熱吸引などが死亡の誘因に関わった可能性が高い。

 治療は、毛細血管圧を下げ、心臓の働きを高める強心薬(ジゴキシンやジギトキシンなど)や、分な水分を排泄する利尿薬(フロセミドなど)のほか、血管拡張薬(マレイン酸エナラプリルやロサルタンカリウムなど)が処方される。尾崎の治療を行なった搬送先の日本医科大学付属病院の処置の詳細は不明のため、憶測はできないが、強新薬、利尿薬、血管拡張薬が処方されたのだろうか(参考:一般社団法人日本呼吸器学会)
http://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=31

I LOVE YOU」の総売上は全世界で1000万枚以上!息子・裕哉もデビュー

 尾崎豊。19651129日、東京都練馬区生まれ。高校在学中の18歳の時、シングル「15の夜」とアルバム「十七歳の地図」でデビュー。青山学院高等部中退。血液型B型。身長178cm。父親は元陸上自衛隊の尾崎健一、息子は歌手の尾崎裕哉。

 オリジナルアルバムは、「十七歳の地図 」(1983年)のほか、「回帰線 」(1985年)、「壊れた扉から - 」(1985年)「街路樹 」(1988年)、「誕生 - BIRTH」(1990年)、遺作「放熱への証 」(1992年)の6アルバム全71曲。代表曲の「I LOVE YOU」は、世界各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1000万枚以上に達する。

 反抗、反支配、自由を求めながら、真実の愛、贖罪にも目覚めた尾崎。息子・裕哉の生声に目頭を熱くしているだろうか?
(文=佐藤博)


佐藤博(さとう・ひろし)
大阪生まれ・育ちのジャーナリスト、プランナー、コピーライター、ルポライター、コラムニスト、翻訳者。同志社大学法学部法律学科卒業後、広告エージェンシー、広告企画プロダクションに勤務。1983年にダジュール・コーポレーションを設立。マーケティング・広告・出版・編集・広報に軸足をおき、起業家、経営者、各界の著名人、市井の市民をインタビューしながら、全国で取材活動中。医療従事者、セラピストなどの取材、エビデンスに基づいたデータ・学術論文の調査・研究・翻訳にも積極的に携わっている。

 

 

 

 

尾崎豊の遺書全文公開の波紋!創作ノート発見と伝説は続く

尾崎豊の遺書全文公開も自殺と断定できず!?妻・尾崎繁美の証言に疑問の

尾崎豊という10代のカリスマシンガーの不審死から20年が経過した2011年、彼自身が書いたとされる2つの遺書全文が「文藝春秋12月号」に掲載されました。1通は、尾崎豊が死の直前まで持ち歩いていたとされるセカンドバッグから発見されたもので、「先立つ不孝をお許しください」から始まり、「さようなら、私は夢を見ます」と結ばれています。

もう1通は、尾崎豊の自宅に飾られていた実母の遺影の脇で発見。「繁美、あなたは本当に女神なのですよ」、「裕哉、君は間違いなく天使なのですよ」と、鮮血で妻と息子への愛を綴られていました。記事を書いた記者は、遺書の公開に伴い、かねてから囁かれていた尾崎豊他殺説を否定し、自殺であったと結論付けています。

ところが、セカンドバックから遺書を発見した当事者とされる尾崎豊の実兄が、この遺書の存在を否定。実兄が発見したと証言したのが、謀殺が囁かれ続けていた妻・尾崎繁美だっただけに、遺書ねつ造疑惑さえも勃発しています。尾崎豊の死は、四半世紀が過ぎようとする今も謎が深まるばかりです。

尾崎豊の創作ノート60冊が単行本化!次々と出版される関連本が根強い支持を象

尾崎豊の遺書に続き、2012年には、全60冊にものぼる「創作ノート」が発見されたことが話題になりました。また、このノート60冊分を完全収録した単行本「NOTES:僕を知らない僕1981-1992」が、同年4月に新潮社から発売されています。ノートには、生前の尾崎豊の心の葛藤や、若者たちが心酔した楽曲にまつわる真実が綴られたものでした。

盗んだバイクで走り出すの歌詞で知られる「15の夜」が、当初は「無免許」というタイトルで書かれた曲だったことや、数ある名曲のお蔵入りになったフレーズなど、古参ファンによらず大変興味深いものです。尾崎豊の死後、多くの作家や、実父、実兄、妻・尾崎繁美による著書が出版されてきた尾崎豊は、金のなる木と揶揄されることも少なくありませんでした。

尾崎豊の創作ノートを保管していたのは、彼のほぼすべての楽曲の発表に関わってきたプロデューサー・須藤晃。彼の腹の中も気になるところですが、これらの出版本に需要があるということ自体、尾崎豊の生前の影を追い求めるファンがいかに多いかを物語っています。

尾崎豊の名曲「ダンスホール」制作秘話!「15の夜」CM使用は問題アリ?

尾崎豊の始まりと終わりを飾った名曲「ダンスホール」は実在の事件がテーマだった

尾崎豊の初期作「ダンスホール」は、16歳で参加したCBSソニーのオーディションで歌った曲でもあり、人生最後のライブのアンコール最終曲でもあった名曲中の名曲です。「あたいぐれはじめたのは」、「長いスカートを引きずってた」と、ディスコにたむろする不良少女の肖像を、「俺の胸で眠るがいい」と柔らかく包み込むような楽曲。しかし、その制作背景には、1982年に実際に起きた凄惨な事件の影響があっといわれています。

新宿のディスコから連れ去られた2人の女子中学生が暴行され、殺害された「赤いスポーツカー事件」と呼ばれる未解決事件。尾崎豊は、その少女たちへのレクイエムとして「ダンスホール」を作曲したといいます。歌詞の中には、タバコや酒といったワードが散りばめられていますが、1980年代は、荒れた若者像がクローズアップされた時代で、他にも考えられないような凄惨な事件が起きています。尾崎豊の楽曲からは、こうした激動の時代に揺れ動いた若者たちの叫びが聞こえてくるものが多く見られます。

尾崎豊「15の夜」をCM使用したGUの意図!犯罪助長とクレーム相次

尾崎豊の代表作の中でも、おそらく認知度NO.1を争うであろう名曲「15の夜」。この曲は、GUCMソングとして使われていましたが、20163月の放映直後から、「犯罪を助長するのでは?」として、BPOに多くのクレームが寄せられる事態となってしまいました。GUCMは、スカンツ&マキシスカートを紹介するために、女優3人がキックスケーターで海沿いを軽快に滑走するというもの。

GU広報の説明によると、その疾走感が、盗んだバイクで走り出す~のフレーズにピッタリだったため、尾崎豊の「15の夜」を採用したとのことでした。しかし、「バイクを盗む」という犯罪行為を軽妙に扱った上、物を売る店舗のCMで「盗み」を助長するとは言語道断と、不快に感じた視聴者はが多かったようです。

「昔のヒット曲に噛みつくなんてバカバカしい」と、肯定的な意見も少なくはありませんでしたが、このような楽曲の使い方が、尾崎豊の意図したところだったかどうか。倫理的な問題もさることながら、選曲のセンスが疑わしい気がしなくもありません。

尾崎豊の遺書の真贋やいかに?息子・尾崎裕哉の生き方が証明する真実

尾崎豊が、妻・尾崎繁美と、息子・尾崎裕哉に、血文字で書いたとされる遺書は、今でも真贋を問う声が多く聞かれます。尾崎繁美が1998年に出版した著書「親愛なる遥いあなたへ尾崎豊と分けあった日々」でも、遺書の一部が引用されていることに、反感を持つファンが多いのも事実です。

しかし、「裕哉、君は間違いなく天使なんですよ。私はただあなたを愛する名の神であり続ける」との一説は、できれば真実であってほしいもの。尾崎裕哉もまた、息子でありながら、2歳の時に死別した父親の真実を知らない1人だからです。2004年、2005年に発売された尾崎豊のトリビュートアルバムで「15の夜」を歌唱して以来、尾崎裕哉自身のオリジナル曲で構成されたコンサートが超満員になったこともありました。

2012年に出演した「金曜日のスマたち」では、「(尾崎豊の息子と言わないと)誰も集まってくれないでしょ?」と割り切った発言も残しており、彼もまた伝説のカリスマ・尾崎豊の名の下に生きていくのかと軽視した人もいるかもしれません。しかし、20167月放送のTBS「音楽の日」で、「I LOVE YOU」を生歌唱した尾崎裕哉には、かつての尾崎豊の面影を生き写しながら、まっすぐに生きていた形跡がうかがえました。

尾崎豊の息子として生まれたプレッシャーと葛藤しながら、誰よりも生前の尾崎豊の姿に影響を受けたであろう尾崎裕哉。彼が自然体で「音楽で社会貢献がしたい」と突き進むことができるのは、あの遺書があったからかもしれません。

 

あの当時に発表された第一報とは.

2019/03/06 · アップロード元: yutakaozakiJJ

 

 

 

 

 

 

 


尾崎豊の死因にまつわる謎!その時、妻・尾崎繁美がとった行動とは

·       I LOVE YOU尾崎豊

尾崎豊の死因の真相!その時、妻・尾崎繁美がとった行動とは?

尾崎豊の死因・肺水腫にまつわる謎!あの日、26歳のカリスマに何があったのか

尾崎豊という若者たちのカリスマシンガーが、東京都足立区の民家の庭先で、異様な姿で発見されたのは、1992425日早朝のこと。同日、自宅で亡くなった尾崎豊の死因は、医学的には「肺水腫」とされています。生前の尾崎豊が、ほぼ食事や睡眠を摂らず、ウィスキーを浴びるように飲んでいたとの証言は、「肺水腫」という死因に、身体衰弱という説得力をもたらすものでした。

しかし、尾崎豊には、過去に薬物での逮捕歴があったことから、身体衰弱には、別の疑惑も向けられたのは事実です。発見時の尾崎豊は、満身創痍だった上に、全裸の状態でした。目撃談によると、尾崎豊は、持っていたセカンドバッグの中身をぶちまけ、ブロック塀に何度も頭を打ち付けていたといいます。搬送先の病院に駆け付けた妻・尾崎繁美には、「薬物はやっていない。医師が打った鎮痛剤でおかしくなっているだけ」と説明したそうですが、後の裁判で、体内から薬物反応が検出されていたことが明らかになりました。

尾崎豊を妻・尾崎繁美が病院から連れ帰った理由!集団リンチはあったのか

尾崎豊は、病院に搬送されてから約1時間半で、妻・尾崎繁美に引き取られて帰宅し、それから2時間余りで亡くなっています。尾崎繁美は、病院側が、脈も体温も正常と答えたため、尾崎豊を連れ帰ったと説明。しかし、実際に検出された薬物の量は致死量を超えていたといい、病院側が帰宅を許可したとは、一般的には考えにくい状況です。病院側の鎮痛剤過剰投与を疑うこともできますが、それから15年後に飛び出した新証言は、それらを根底から覆すものでした。

証言をした、黒い組織に所属する匿名の男性によると、あの日、素面の尾崎豊を、薬物入りの酒で錯乱状態に陥らせ、数人で集団リンチを加えたのだといいます。この証言は、尾崎豊が、薬物を経口摂取していた事実と、警察の死体検案書に記載されていた死因が「肺水腫」ではなく、「外傷性くも膜下出血」と書かれてあったとの報道と合致。

男性は、「暴行の理由は言えない」としていますが、尾崎繁美の一連の行動に伴って、妻の謀殺説も浮上しました。ただし、証言の真偽は定かではなく、謀殺を説いた記者は、妻の尾崎繁美が起こした裁判で敗訴しています。

尾崎豊と斉藤由貴は不倫関係だった?名曲「I LOVE YOU」にまつわる噂

尾崎豊と斉藤由貴の不倫関係を案じた父親、妻・尾崎繁美とは離婚調停

尾崎豊と斉藤由貴の交際が始まったのは、「月刊カドカワ」199011月号誌上の企画対談がきっかけとされており、翌年には、写真誌で、何度かデート現場が報じられています。対談は、薬物事件での留置所生活中に、斉藤由貴のグラビアで心を慰めていたという尾崎豊が志願して実現したもの。「月刊カドカワ」同号に掲載された尾崎豊の短編小説「フェアリーウィスパー」は、斉藤由貴への愛の告白とも取れる内容でした。

事件当時の尾崎豊は独身でしたが、対談時は、妻・尾崎繁美と結婚し、息子・尾崎裕哉が生まれて間もない頃。斉藤由貴は、2人の関係を「同志」と表現していますが、不倫関係は、誰の目から見ても明らかだったようです。尾崎豊の父親から、「息子のために2人を別れさせたい」と、妻の尾崎繁美の実家に相談があり、その数日後には、尾崎豊が尾崎繁美に離婚を切り出したという話もありました。

尾崎豊は離婚調停も行っていたそうですが、不倫発覚年の秋、どういう心境の変化か、一方的に斉藤由貴へ別れを告げたそうです。

尾崎豊が斉藤由貴に捧げた曲?「I LOVE YOU」リリースの背

尾崎豊の名曲「I LOVE YOU」は、斉藤由貴との道ならぬ恋を歌ったものではないかと、後世に渡って噂されています。「I LOVE YOU」のシングルが発売されたのは、尾崎豊と斉藤由貴の不倫関係が取り沙汰されている真っ最中の1991321日。男性の背中に長い髪の女性が寄り添うジャケットアートや、歌詞の内容は、まさしく当時の2人を連想させるものでした。

しかし、実際に尾崎豊が「I LOVE YOU」を作曲したのは10代の頃。この曲がプロデューサーの目に留まって、デビューのきっかけになったとされています。斉藤由貴と不倫関係になったのは20代半ばですから、はじめから斉藤由貴に捧げる曲として作られたわけではなさそうです。

しかし、1992年に発売された「汚れた絆」もまた、斉藤由貴との破局理由を吐露しているのか、はたまた妻・尾崎繁美との復縁への心境を綴ったものかと物議を醸しました。尾崎豊自身に起こった事柄と、楽曲の歌詞がここまでリンクすると、「I LOVE YOU」のリリース自体に、斉藤由貴に捧げる意が込められていた可能性を否定できなくなります。

尾崎豊の息子・尾崎裕哉がまるで生き写し!「I LOVE YOU」に込められた苦悩と夢

尾崎豊の死から四半世紀が過ぎようとしていますが、10代の若者の代弁者たるカリスマを、人々は片時も忘れることはできません。そんな中、2016716日に放送されたTBS「音楽の日」で、「I LOVE YOU」を歌唱した尾崎豊の息子・尾崎裕哉は、「まるで尾崎豊の生き写しのようだ」と大変な反響を呼びました。

尾崎裕哉は1989724日生まれの、現在28歳。尾崎豊が死去した当時は、まだ3歳にも満たなかったため、父親から受け継いだものといえばくらいなもの。長く父親が死んだという実感も沸かず、むしろ10代の頃に、尾崎豊に熱狂したファンのほうが、その存在を強く感じているという奇妙な環境で育ちました。

幼少期を米国で過ごし、慶應義塾大学大学院を出た2015年から音楽活動をスタートさせた尾崎裕哉。世間は、彼に、「尾崎豊の遺志を継ぐ息子」を求めますが、彼にとってのその作業は、尾崎豊の楽曲や、関連著書から繋いでいく父親探しの旅でした。

当然、尾崎豊の壮絶な死にまつわる不穏な噂も、息子・尾崎裕哉の目に触れたことでしょう。尾崎裕哉がこの辛い作業を辞さないのは、「父親の意思を未来へ繋ぎ、社会問題を音楽家として解決に導きたい」という夢があるからだといいます。26歳で時を止めてしまった尾崎豊は、社会に苦悩する若者の代弁者でした。彼が歌った愛や自由は、息子である尾崎裕哉に連れられて、新たな存在価値を築こうとしているのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

尾崎豊の死因

 読んだことのある人は 尾崎豊の死因2

 



 今では、日本版ジェームスディーンと木村拓也が言ったように、もうすっかり伝説化してしまった尾崎豊。亡くなった当時は、彼の死因について、いろいろな人やいろいろなテレビが、たくさんの考察をしていた。なぜ、あれほどたくさんの考察が必要だったのだろう。結局、尾崎豊のことをほとんど知らない人たちが、にわか仕立ての知識を持って、尾崎豊のことを論じていただけなんだろう。ほんとうにあきれ返るような話もたくさんあった。

 このページでは、尾崎の死因と、その死へのいきさつについて、僕なりに出した考察を書いてゆきたいと思う。僕個人の見解で書くことに関して、そうじゃないと思われる人もいるかもしれないけれど、僕の知っている尾崎の姿と、その行動と思索を追って考えた上での、僕なりの考察を書いてゆこうと思う。

 

 

 僕は、高校1年の15歳の頃から尾崎の歌で過ごしてきた。別に、ぐれていたわけじゃない。真面目な高校生だった(かな?)。でも、このころから尾崎の歌をずっと聴いてきたし、尾崎の行動を見続けてきた。高校から大学、そして社会に出てからも尾崎の歌をずっと聴いてきた。自分のいちばん楽しかった時代は、尾崎の歌とともにあり、想い出は尾崎の歌をなくしては語れない。それほど尾崎にハマっていた。

 そして、社会人になってすぐの頃、尾崎の死。正直言ってショックだった。高校から大学、いつでもいつの時でも、尾崎の歌を聴き続けていた。もちろん、ほかのミュージシャンの歌も聴いていた。でも、やっぱり尾崎は特別だった。神格化するわけじゃないけれども、その歌の力にはいつも魅せられていた。だから、亡くなったときはやっぱり、涙を流した。尾崎の死への涙と言うよりも、あまりにもたくさんの自分の想い出が尾崎の歌とともにあったから、その想い出と、その過去への決別のために涙を流したとおもう。

 

 

 テレビを見ていたら、尾崎の死因についてたくさんの報道があった。医学的に言えば、死因は「肺水腫」だった。これは、肺に水がたまるというものだ。その原因としては、覚醒剤の疑いがあると、マスコミの報道でいっていた。過去に一度、覚醒剤で捕まったことがあるから、その疑いを尾崎が死んだ時も向けられたのだろう。

 それは尾崎の過去の行動から、何も知らないマスコミにそういった見方をされるのは、くやしいけれど仕方がないことなのかもしれない。でも、尾崎なら、一度反省した過去は、歌を歌い続けようとする尾崎である限り、ファンを裏切らないと言う意味でも、決して繰り返さないはずだ。15歳の頃から尾崎豊のことを知って、ずっとその行動や思索を見ていたから、このことについて間違いはないだろうと確信できる。

 

 尾崎の性格からいっても、もう一度同じ過ちをするとはまったく考えられない。とすると、尾崎の死因で、覚醒剤というものは当てはまらないはず。警察の発表は、解剖結果はあくまでも「肺水腫」というものだった。だから、噂されていた覚醒剤という文字は、亡くなった当時は一度も、警察発表からは出てこなかった。あくまでも、死因は「肺水腫」であって、覚醒剤ではないのである。

 警察は、もちろん、薬物反応を調べていただろうし、その結果を隠したりなんかはしないだろう。さらに、言葉を重ねるなら、警察は、薬物反応が出たとしたら、こんなことを隠すことはまず考えられない。再発をおそれるために、かなりの詳細な調査や発表をするであろう。マスコミに流して、覚醒剤撲滅キャンペーンをはじめるきっかけにもできるので、隠す必要は全くなかった。でも、覚醒剤じゃなかった。死因は、あくまでも「肺水腫」だったのである。

 

2001/9/23 追加

 2001/8/28 尾崎裁判と呼ばれる裁判で判決があり、「多量の覚醒剤の反応はあった」ということが裁判で証拠として認められた。

そうなってくると、3年前に僕が書いたこれらの文章の、「覚醒剤の薬物反応に関する公式発表はなく、覚醒剤使用の事実はないはず」という前提が崩れてしまった。

けれども、謎が残る部分もあるので、これらの文章は書いた当時、僕が考えていたまま残しておこうと思う。また後述で、もう少し文章を加えます。

 

 ところで、尾崎の亡くなる直前の行動などを調べてみると、吉岡という俳優が尾崎と仲が良かったという報道があって、その吉岡が、尾崎の死の直前の頃の行動について詳細に語っていた。僕は、それまでは吉岡という俳優が尾崎と仲がよいとはチラと聞いただけだったけれども、その吉岡が語った尾崎のその死の直前の頃の行動自体が、完全に死因に結びつくことを表していると思った。

 

 肺水腫というものは、体の持つ力というものが相当弱ってくるときに起こるものである。別のことを調べるために医学書を読んでいたら、偶然にもそんな記述をみつけた。体力が弱ってきたとき、肺に水がたまる。だけど、普通なら、それを自然のうちに吸収して排出するという機能が人間には備わっているから、水がたまるということはないのである。でも、普通じゃない状態、病気などで体の衰弱がとてもはげしいときなどは、そういうことも起こりうるのである。

 尾崎は、なぜか、その水を排出する機能がうまく働かなかった。なぜだろう。それは、尾崎のその頃の生活に関係してくると思う。その頃、尾崎の体の衰弱がとてもはげしかったのだろう。死の直前は、レコーディングと酒浸りの生活が続いていたという。食事も睡眠時間も、ほとんどとらなかったという。

 

 吉岡という俳優も、尾崎と二人で飲んでいて、尾崎がウイスキーのボトルをいつも2、3時間くらいであっという間に飲み干していたのを、何度も見ているという。これはまず、並大抵の酒量ではない。尾崎の好きな酒は、かなり強いお酒である。(好きなお酒はなんだったか、ど忘れしてしまった)これでは、普通の人間なら体がおかしくなってもしかたがないはず。また、食事もあまりとらなかったという。

 食事も睡眠もあまりとらず、どうやって毎日を過ごしていたのだろう。さらに、レコーディング中も、毎日のようにアルコールのにおいがするほどだったという。そんな毎日が続いていた・・・ アルコールの量と、深夜まで続くレコーディング、睡眠不足の3点を考えるだけでも、体が衰弱するのはどう考えても否定できないはず。もちろん、たばこも吸っていたし、わずかにとる食事も、まともなものをとらなかったという。おそらく、このころの尾崎は、体が完全にボロボロになっていたのだろう。

 

 

 そう考えていくと、肺水腫は死因としておかしくないような気がすると思う。こんな生活では、どんなタフな人間であっても、体のほうが衰弱するだろう。ボトルを2.3時間であけるって、これは、いくら肝臓が強くても、毎日のようにしているのであれば、体がおかしくはなるのは間違いはないだろう。こう考えると、尾崎の死因の肺水腫は説明がつくはず。絶対だとは言い切れないものの、完全に否定できることはないと思う。また、覚醒剤を打っている人間が、どう考えても、お酒をあびるほど飲むとは思えない。
 

九州にある大学の付属病院の医薬従事者の方より、肺水腫と覚醒剤に関する貴重な情報をいただきました。許可をいただいたので、一部引用させていただきます。 (2001年5月15日追加更新)

肺水腫の原因にはいろんなものがありますが、排泄されるべき水分が体内に残ってしまうという点では、共通の原因があります。

大別すると、心原生(心臓が原因)のものそれ以外、になります。

覚醒剤で、そのような障害(肺水腫)を起こす事は、かなり難しい事だと思います。

そこまで大量に投与すると、いわゆる中枢神経障害のほうが先に起こると思われます。

20021031日 肺水腫に関して追加 

肺水腫は、クモ膜下出血でもおこります。 (詳しくは、「クモ膜下 肺水腫」で検索)

尾崎は、検視の結果、外傷性のクモ膜下出血が確認されています。

となってくると、以下に書いた衰弱死という言葉は、あてはまらないかもしれない。

しかし、なぜ外傷性のクモ膜下出血があったのだろうか。。。

 
 とすると、尾崎の死因は肺水腫で、つまるところ衰弱死だといえるかもしれない。けれど、一概にはそれが答えだとは言い切ることも問題であると思う。邪推するマスコミの、尾崎の奥さんがどうのこうのという報道もあったけれど、奥さんがいい人間か悪い人間かはわからない。でも、尾崎の奥さんがどうのこうのというよりは、もっと別に、誰も指摘しなかった重要な問題が残されていると思う。ここから先は、その重要な問題 尾崎の死の隠された事実への論証 について書こうと思う。
 

2001/8/28 尾崎裁判で出された判決について (2001/9/23文章追加)

尾崎裁判の判決では、尾崎の覚醒剤反応があったということが、事実として裁判で認められた。

そうなってくると、尾崎が覚醒剤をうったのか、誰かに覚醒剤をうたれたのかという事にもつながってくるかもしれない。

その件に関しては、事実関係の整理(今後の裁判)によって見えてくるものだろうから、ここではあえて触れないでいようと思う。

ただ僕は、尾崎個人の行動と思索を追いながら、僕なりに尾崎の死因を考察してみたいと思って書いたものだから、今も昔も、ここに書いていることは同じ考えでいている。

けれども、そのほかのさまざまな可能性を否定しているわけではない。
僕は今後も、裁判の行方を見守っていきたい。

20021031日 覚醒剤反応について

覚醒剤は、うったのではなく、経口で摂取していたことがわかっています。

ただ、その量は、致死量以上だったそうです。

 

 


 

尾崎の死の隠された事実への論証

 

尾崎は、なくなる直前に、最後のアルバムである、

「放熱への証 CONFESSION FOR EXIST ~生きること。それは日々を告白してゆくことだろう~」

を録り終えている。このアルバムのタイトルは、尾崎がつけたものである。アルバムの名前は、じっと考えてみれば、なんとなく意味深な題名である。これは、一般の尾崎ファンでない人でもわかると思う。でも、これは実は隠された意味を持つ題名だといってもおかしくはないのかもしれない。尾崎が死んだからそう思えるんだ、といわれてみればそうかもしれない。でも、やっぱりこのアルバムのタイトルには、奥深くに隠された言葉(メッセージ)が題名になっているのである。

 アルバムのタイトルの言葉の中に、「告白」「CONFESSION(この二つの言葉は、同じ意味)という文字がある。もちろん、アルバムのタイトルも、サブタイトルも、尾崎自身がつけた名前である。このアルバムのこの「告白」と「CONFESSIONという言葉に、尾崎のすべての気持ちが隠されているように思えてならない。すなわち、この言葉が、すべてのキーワードになっているのである。

 

 

 尾崎は、ものすごくむずかしい本などを読んでいた時があった。やっぱり、迷い悩むことの多い青春時代には、自我の確立をするために、たくさんの本を読んでいたのだろう。尾崎は、哲学・思想学などや、そのほかたくさんの本を読んでいたようである。むずかしい本もたくさん読んでいたという。写真やビデオなどで残っている尾崎の姿でも、よく小説を読んでいる姿が映っているのを見かける。けっこう読書家だったという。

 実際に、LOVE WAYという曲では、たくさんのむずかしい言葉が出てきて、理解することも歌いこなすことも、非常に困難な曲に仕上がっている。たとえば、普通の人に「共同条理の原理の嘘」なんていっても、理解できる人なんてほとんどいない。こういったところでも、尾崎がたくさんの本を読んでいたことがわかると思う。

 

 

 ところで、アルベール・カミュという人が書いた本で、「シーシュポスの神話」というものがある。この本は、神話の部分はさわりだけで、あまりきちんと書いていない。物語は、ほんとに短い記述だけである。アルベール・カミュの書いたこの本は、神話を書いている本ではなくて、哲学的な事を書いている本だといえる。でも、この本を読んでいる人なら、きっと尾崎のこのラストアルバムの タイトルの意味 が分かると思う。尾崎は、どういった気持ちでアルバムを世に送り出そうとしたかということを。

 

 この本で、アルベールカミュは「不条理な論証」を書いている。不条理とは、「理屈にならぬ理屈」「何とも筋道の通らない論証」という意味で定義づけられている。この中に、「不条理な自殺」というものがある。

 そこに尾崎の死因のヒントが隠されているのである。おそらく、尾崎もこの本を読んでいたと思う。
それだからこそ、

「放熱への証 CONFESSION FOR EXIST ~生きること。それは日々を告白してゆくことだろう~」 

というタイトルにしたのだろうと思う。このタイトルと、シーシュポスの神話とが結びついてくるのである。

 

「不条理な論証・不条理と自殺」のなかで、カミュはこう書いている。

  おのれを殺す、これはある意味で、そしてメロドラマでよくあることだが、告白するということだ。
  生に追い抜かれてしまった、あるいは、 「生が理解できない」 と告白することだ
  おのれを殺すとは、「苦労するまでもない」 と告白すること。

カミュ シーシュポスの神話(新潮文庫) 「不条理な論証・不条理な自殺」  P14より抜粋

 

 尾崎の最後のアルバムのタイトルは、

「放熱への証 CONFESSION FOR EXIST ~生きること。それは日々を告白してゆくことだろう~」

 CONFESSION FOR EXISTというのは「放熱への証」と訳されているのだろう。でも直訳すれば(文法的に問題があるけれど)、「生きることに対する告白」となる。それが、「生きること、それは日々を告白してゆくことだろう」となる。

ここで出てくる「告白」という言葉と、カミュの書いた文章に出てきている「告白」という言葉と、ここで重なってくるのである。

 カミュが書いているのは、告白という意味は、おのれを殺すと言う意味なのである。尾崎はこのラストアルバムで、自分を告白しようとしていたのである。その告白(おのれを殺す)の意味が、尾崎の最後のメッセージになっているのである。

 

 

 このアルバムのタイトルは、何度も書くようだけど、もちろん尾崎がつけたものであり、尾崎がタイトルからジャケットから配色からデザインまで、すべて決定を下していたという。そうやってアルバムの企画に追われ、コンサートツアーの準備に追われ、レコーディングに追われ続けていた。そして、酒浸りの生活、不規則な食事、睡眠不足の状態が続いていた・・・

 ここで、アルバムのデザインについても、どこかで誰かが書いていた言葉がある。これはうろ覚えなので、内容だけを書くけれど、(十字架の上に尾崎が横たわるデザインのジャケットは尾崎自身が決めた。死を意味するかのような不吉なジャケットだが、あえて尾崎はこれを選んだ)と書いていた。尾崎はなぜ、このジャケットにしたのだろうか。


 尾崎の最後のアルバムだけを考えてみても、アルバムのタイトル名「放熱への証CONFESSION FOR EXIST ~生きること。それは日々を告白してゆくことだろう~」とジャケットの「不吉」なデザイン。すなわち、隠された意味で考えると、「告白(おのれを殺す)」と「死」この二つを、尾崎自身が自分で決めたのである。さらに、尾崎の行動、言動を考えあわせると、答えが見えてくると思う。

 

自殺にならない自殺

 

 これが尾崎のとった結論だと思う。死因からすると、自殺じゃないのは確か。警察の調査も「他殺ではない」という結果も確かだろう。死因はあくまでも肺水腫。直接、死と結びつくような外傷もなかった。自殺にならない自殺。そう考えると、おそらくすべての答えが出てくるんじゃないかと思う。

 

 


 その頃の尾崎の取り巻く環境をとってみても、かなり傷ついた生活で、すさんだ生活になっていた。ものすごく神経質な面を持つ尾崎が、社会生活に適応してゆけるかを考えるだけでも、大変だったのがわかるはず。さらに不倫、別居、裏切り、母親との死別など、ほんとうに大変な精神状態になっていただろうと思う。そして、ひとりぼっちだった。とても寂しかったと思う。人一倍寂しがりやだったし。

 また、仕事は殺人的な忙しさだったという。社長である尾崎自身が、あちこちのコンサート会場に電話を入れて打ち合わせをするくらいだったという。さらに、レコーディングの企画、構想、準備、手配、打ち合わせ、レコーディング、ミキシングなど、ありとあらゆる事をこなしていたという。そんな忙しい日々を送っていた。

 

ラストアルバムに「太陽の瞳」という曲がある。こんなフレーズがある。

「こんな仕事は早く終わらせてしまいたい まるでぼくを殺すために働くようだ」

こういう生活だったのである。さらに、アルバムの中に、「闇の告白」という曲がある。ここでもまた、 告白 という言葉が出てきているのである。この、「闇の告白」の中でのフレーズにこんなものがある。

「疲れの中弾丸をこめ引き金を引く」
「罪を背負い何時しかやがて銃の引き金を引く いつの日か自分を撃ち抜く」

というフレーズがある。「闇の告白」「自分を撃ち抜く」という言葉が出てくるのである。もう、ここまでくると、なんの解説もいらないと思う。尾崎の死は、他殺でも覚醒剤でもなんでもないのだろう。

 

自殺のようで自殺じゃない、自殺にならない自殺

 

 

 

 

 以上、かなり長いことを書いてきたけれど、これが僕の尾崎の死に対する考察である。たくさんの見方があるとは思うけれど、僕のなかではこの見解しか浮かばない。でも、なぜ尾崎が死んだのかは、尾崎の1ファンとして、ずっと考え続けていた事だった。衝撃的な死の直後のマスコミの報道は、単なる興味本位で、ほんとうにあきれてしまった。登校拒否から覚醒剤、不倫という過去を簡単に組み合わせただけの、いいかげんな話ばっかりだったから。

 でも、時がたつにつれ、尾崎の死の前後が詳細に明らかになってきた。それらの事実を組み合わせて、いいかげんな情報は切り捨てて考えてゆくと、僕は上に書いてきたような結論にたどり着いた。自殺にならない自殺、これが尾崎の死に対する、僕なりの答えである。1ファンとして、尾崎を見続けてきた僕の、尾崎へのレポートである。

 

 僕は今でも、尾崎も、尾崎の歌も詩も好きだ。今でも尾崎の曲を聴き続けているし、今でも尾崎のファンであることは、尾崎がいなくなった今でもなんにも変わっていない。いま、尾崎の生きてきた道を想うと、尾崎のその生き方すべてが壮大な詩であり、音楽だったように思えて仕方がない。彼は素晴らしい曲を残してくれ、すごい生き方を僕らに見せてくれたと思う。これほど情熱的でひたむきな生き方をした本物のアーティストは、これからも出てくることがあるのだろうか。。。

 

 

 


尾崎豊の死因

   
尾崎はカリスマ的存在だと言われていたけれど、僕は彼はカリスマそのものだと思う

 

 

 まず、いちばんはじめに、この文章は「あくまでも事実や過程から導いた一個人の考察」であることをご了承下さい。 

 尾崎の死に関しては、「これまでに真相は明らかにはなってない」のを、勝手に僕が「個人的に」考察してみたのを書いているだけです。当事者の方からすれば、誤解と矛盾に満ちた、バカげた第三者の「たわごと」にすぎないかもしれません。

 ですので、これからはじまる文章は、あくまでも、尾崎ファンの一人が勝手に考察をしてみたというだけの「一個人」の「考察」とご了承の上で読んでいただければ、と思っています。

 

前回の考察の 尾崎豊の死因 を読んでいない方は、まずは前回の考察 尾崎豊の死因 (こちらをクリック) をお読み下さい。

前回の考察を読んでいないと、たぶんこちらの考察は、ほとんど理解してもらえないと思います

 

 また、この考察の一番下に この考察のアンケート そして この考察の続編 のリンクがあります

 

 

目 次

長いので目次をつけました

 

はじめに


 1. 「繁美さんが医師のいうことを聞かずに連れて帰った」という報道について

  1-1 尾崎に意識があった

  1-2 本人が帰りたいと言った

  1-3 報道は誤り

     補足考察1   医師が帰宅を容認した件についての考察
 

 2. 「殺人依頼・陰謀説」

  2-1 繁美さん一人ではなく、三人で看病していた

  2-2 不完全な陰謀説

     補足考察2   問題を一つずつわけて考える大切さ
 

 3. 覚醒剤が検出されたことが事実として認められたこと

  3-1 常習していたのか

  3-2 なぜ覚醒剤が尾崎の胃から多量(致死量の約3倍)に検出されたのか
 
    3-2-1 覚醒剤を誰かに「飲まされた」のか

    3-2-2 自分の意志で飲んだのか
 
     補足考察3   外傷性クモ膜下出血
 

 4. みえない一本の線
 

 5. 問題の背景にあるもの(繁美さんと大楽さんの関係)
 
  5-1 繁美さん 

    5-1-1 ファンではなく妻としての立場 

    5-1-2 ニセの遺書 

    5-1-3 尾崎が自ら選んだ人 

    5-1-4 今回の考察の前提条件

  5-2 大楽さん

    5-2-1 身内と他人との中間的な存在

    5-2-2 部妙な立場と軋轢

    5-2-3 いまだに残る深いこころの傷

  5-3 繁美さんと大楽さんとの問題

    5-3-1 DV(家庭内暴力)と、その頃の繁美さんと大楽さんとの関係

    5-3-2 憎しみの構図

    5-3-3 尾崎を介した二人の立場の違い

 6. 複雑にからまってしまった相対的な問題
 

最後に 

 

 

はじめに

 


 月日は流れるのは速く、 尾崎がいなくなって、もう10年以上もたってしまった。その間に尾崎裁判とよばれる裁判が終わり、新しい事実も出てきて、今は10年前とは事実関係が少し変わってしまった。

 裁判で認められた「あたらしい事実」があり、僕は前回の考察の答が破綻していないかどうか、いろいろ考え、その検証をしてみた。あまりにもまとはずれだとしたら、みっともないので書き直すか、HP上から撤去しようと考えていた。 ( 前回の考察 尾崎豊の死因 (こちらをクリック) )

 けれど、結果的には、前回の考察をふまえたような形になってしまった。

 それが正しいのかどうかはわからないけれども、いろいろな事を一つ一つ自分なりに解き明かしてゆくと、基本的には、他殺説や覚醒剤常習説といった事はなかったであろうという結論にも達してしまった。

 今回はそういった、どうもあやしげで腑に落ちない説を中心にとりあげて、考察を書いてゆきたいと思います。

 

 まず、これから書いていく考察は、主に、下記の「本の内容の事実関係を元にして考察をした」ものです。

 

考察上、参考にした書籍

Say good-by to the sky way.

尾崎豊、尾崎康、大楽光太郎、吉岡秀隆、アイソトープ

弟尾崎豊の愛と死と

尾崎康 (尾崎豊の兄)

誰が尾崎豊を殺したか
7
年目の真実

大楽光太郎 (兄・康の小学生の頃からの友人 尾崎を幼い頃から知る幼なじみであり先輩でもあり友人でもあった人 最後のマネージャー)

親愛なる遙いあなたへ 

尾崎繁美 (尾崎豊の妻)

 

 尾崎の死の前後を考えるとき、やっぱりいちばん参考になるのは、その場にいた人(尾崎康、大楽光太郎、尾崎繁美)たちの言葉(証言)だろうから、その場にいた人の複数の言葉の「一致点」を見ていけば、あまり間違った考察にはならないと思います。

 僕はマスコミなどの伝聞や、その場にいなかった人たちが、いくら死因について語っても、アテにはならないと思ったので、ほかの書籍は参考にする程度にしました。

 

 たくさん考察をした中でも、まず、いちばんはじめに取り上げておきたいのが、なぜか見受けられる尾崎繁美夫人の「陰謀説」「犯人説」です。

 これに関して、僕の見方はまったく否定的です。推測理由は、いくつかあげることができます。まずは、いちばんはじめに、その誤解を招くきっかけになった、報道の件から取り上げてゆくことにします。

 

 

 

 

1. 「繁美さんが医師のいうことを聞かずに連れて帰った」という報道について

 

 はじめに、尾崎が(通称・尾崎ハウスと呼ばれる小峰さん宅から)はじめに救急車で病院に運ばれたとき、「繁美さんが医師のいうことを聞かず、尾崎を自宅へ連れて帰った」というような報道がありました。

 そのため、異変に気がつくのが遅れ、尾崎が死に至ってしまった、というような記事があり、話の筋としてはなんとなく通っており、そのため実際そう信じている方もいるようです。

 

 が、どうやらこれは事実をよく見る必要があると思います。そうでなければ、まったく違った事実を見てしまうことになります。

 この件に関しては、以下の枠に書いてある 2つのポイント からみてゆくことにします。

 

尾崎は、救急車で運ばれてからも、「意識があった」こと。(泥酔状態ながらも)

「夫人が」無理矢理連れて帰ったのではなく、「尾崎自身が」「家に帰りたいと希望した」こと。

 

 

 1-1 尾崎に意識があった

 
 まず、尾崎の意識があったということ、これはいちばんの大きなポイントになります。意識がなければ、尾崎をどのような状況にもできます。尾崎を医者から無理矢理引き離すこともできるし、そのまま入院させることもできる。けれども、尾崎は病院にいたときも、自宅に戻ってからも意識はあった。

 兄・康さんの本では、康さんが午前7時30分頃に大楽さんと一緒に尾崎のマンションの前に到着したときに、尾崎は「ああ、アニキ、わるい、わるい」と話したと書いてあります。これは、尾崎がこの時意識があり、兄・康をきちんと認識できていたということになります。

 そして、自宅にもどってからも、もがいていた尾崎は、「病院で強い薬をうたれた」と話した(薬=鎮静剤のこと)。これは、病院で暴れていた尾崎に医者が鎮静剤の注射したことです。この言葉から、尾崎は病院でもきちんと意識があったということがわかります。

 尾崎の意識があったことは、死の前後に立ち会った三人が記述した本の内容から 「一致」 しています。

 だから、まず、尾崎の意識がある以上、繁美さんひとりの意志で、医者の言うことも聞かずに尾崎を連れて帰ったというわけではない、ことがわかります。

 

 

 1-2 本人が帰りたいと言った

 
 その次に、Saygood-by to the sky way.という本には、具体的に父親の健一さんから大楽さんに電話があり「どうしても本人が帰りたいと言って、マンションに帰ったようだ」という一文がある。これから、尾崎自身が自分の意志で家に帰りたいと希望していた事がわかります。

 そして兄・康さんの本でも、「かけつけた繁美さんに尾崎は帰りたいといった」といった内容の記述があります。「医師も深酒のみと診断」との記述もあります。

 だから、上記の報道は、事実関係をよく見る必要があります。「繁美さんが、尾崎が意識のない状態なのに、尾崎を無理矢理自宅に連れて帰った」という意味であるならば、この本の内容とは、まったく対立するというおかしな話になってしまいます。

 これから、新聞報道か兄・康さんのどちらかが 事実と違う内容 を書いていることになります。

 

 僕は、もし、医師が少しでも引き留めた事実があるのならば、「繁美さんが医師のいうことを聞かずに連れて帰った」という報道は、「医師のいうことを聞かなかった尾崎が、無理矢理繁美さんに自宅に連れて帰ってもらった」と考えるべきだと思います。

 そして医師も、あまりにもひどい外傷があるのを見て「大丈夫かな」と思ったにせよ、泥酔状態で、暴れたりしていて、意識があったので、「深酒のみ」との判断から、帰宅を容認したと考えるべきだと思います。

 複数の本の内容の一致点から、「繁美さんが連れて帰った」のは事実だろうけれど、医師のいうことを聞かずに自宅に帰りたがっていたのは尾崎であり、表現の微妙な違いだけれど、「尾崎が自宅に戻りたがったから」「繁美さんが連れて帰った」ということになってしまうのかもしれませんが、「繁美さんがむりやり尾崎を病院から連れ戻した」ということではないようです。

 

 

 1-3 報道は誤り

 
 Saygood-by to the sky way.の本では、特にこの辺のことを、具体的かつ、明確に書いています。

 報道は誤り、だと。

 そして続く文章を要約して抜粋すれば、「尾崎が自宅に帰ることを強く希望し、繁美さんは入院させて欲しいと言ったが、尾崎はどうしても帰るといって聞かなかった」 ということが載っています。

 とすれば、根本的に報道の内容はおかしいことになります。

 

 この報道をきっかけにして繁美さんへの疑惑がでてきたと思いますが、僕は本の内容からみた上記の3つの考察から、この報道自体に疑問を持っています。

 

 

  

補足考察1  医師が帰宅を容認した件についての考察


  

僕も高校一年生の時、友人が急性アルコール中毒になったとき、救急車を呼んだことがあります。

けれども、その時の救急隊員は、僕らが高校生であることを知って、「意識がなくなったら、すぐに119するように」といい、すぐに帰っていきました。「意識があるうちはまだ大丈夫だ。病院に運んでもいいけれど、そうすると、警察や学校にまで連絡がゆき、よくて停学、わるくて退学処分になる。違法行為だから」、と言われたのです。

そのかわり、意識がなくなったらすぐに119通報するように言われました。そして、「大丈夫だと確認できるまで、この場所(救急車が到着した場所)を絶対に動かないように。通報してもらえば、すぐにここの場所に来るから」とも言われました。 (エッセイ 生徒会会長 参照)

すなわち、飲酒による急性アルコール中毒の場合、意識があればまだ大丈夫で、意識がなくなったときは、ほんとうに危険な状態ということなのかもしれません。

 

救急隊員の判断と、この場合の医師との判断は、同じだと考えることができる「かも」しれません。

医師は、泥酔状態でも尾崎の意識があったから大丈夫だ、と判断をしたのかもしれません。(意識があるというよりも、暴れていたので鎮静剤をうたれるほどだった)

さらに尾崎の場合は、はじめに発見されたとき、救急車とともに警官も調べにやってきたのですが、警官もざっとした調査のみで、詳しく調べずに引き上げています。

警官も、その時はたんなる泥酔とみて、事件性はないものと判断したようです。その時の医師が「泥酔」と判断したのも、おかしくはないのかも知れません。

 

 

 

 

 

 2. 「殺人依頼・陰謀説」

 

 どうも、夫人の「殺人依頼・陰謀説」といったような見方もあるようです。

 が、これは、上記のような疑問の残る報道の件や、尾崎の死後、不審な点から真相究明のための再捜査のために署名活動を行っていたときに、それに協力しないように呼びかけた(この件に関しては後述)ということなどから、こういった見方がされるのは仕方がないかも知れませんが、この件に関しても、僕の考えは、完全に否定的です。

 

 2-1 繁美さん一人ではなく、三人で看病していた


 まず、尾崎が救急車で運ばれてからの繁美さんの行動をクローズアップしてみても、三人の本の中に、疑問となるような行動や発言が見あたらない。もし、殺人依頼などをしていたのなら、なんらかのおかしな行動があってもおかしくはないはず。

 邪推すればいくらでもできるけれど、本のなかの繁美さんの行動は、尾崎が暴れるのを三人で押さえつけたり、介抱のために毛布を持ってきたり、こどもをあやしにいったり、別になんの問題もみあたらない。

 また、もし陰謀であったとすれば、誰かに依頼して口から覚醒剤を無理矢理飲ませておいて、救急病院に担ぎ込まれたことがわかれば、上記のような「医師のいうことを聞かずに連れて帰った」ということになるはずです。

 けれども、あくまでも「自宅に戻る」と言ったのは、「尾崎」自身だった。さらに「陰謀」であったのなら、自宅に戻っても、わざわざ繁美さんは義父や兄・康さんに応援の連絡を入れたり、他の人に連絡を入れたりはしないはず。「病院に連れて行こう」と言われると、いろいろ調べられるかも知れず、そうなると困ったことになってしまうから。

 だから、たった一人で介抱し、息絶えるのを見守る事になると思います。



 しかし、そうじゃなかった。繁美さんは連絡を取り合い、一人ではなく、義父と一緒に、病院から尾崎を自宅に連れて帰った(Say good-by to the sky way.より)。そして、自宅マンション前で康さんと大楽さんが合流するまで待っていた。それからは、三人で介抱しつづけ、三人が考えもしなかった尾崎の最期の瞬間まで立ち会っていた。

 また、上にも書いたけれど、様子がおかしいのに病院に入院させなかったことに関しては、介抱していた3人が、おなじように「泥酔」と判断し、3人とも、「しばらくすると良くなる」と信じていたから。

 繁美さんが「大丈夫」と言い張り、康さんと大楽さんが「入院させるべきだ」と言い争うことがあったとは、誰の本にも一言も書いていない。だから、どう考えてみても、尾崎の死の原因がすべて繁美さんに帰結するこの陰謀説には、説明をつけにくい。

 

 まとめてみれば、尾崎が病院に担ぎ込まれて、自宅に戻って、最後の瞬間までの一連の記述では、死の前後に立ち会った三人の記述からは、繁美さんの行動に不可思議な行動につながるような行動は、なにも読みとれない。尾崎が自宅に戻ってから、康さんと大楽さんと繁美さんとの会話の内容も、取り立てて不自然なところもない。

 だから、「当時の状況から考えて、繁美さんはまったくクリアー」だと僕は考えています。

 

 2-2 不完全な陰謀説


 また付け加えるなら、尾崎が自宅に戻ってからは、3人(尾崎康、大楽光太郎、尾崎繁美)が介抱しつづけていた。

 それも、3人で介抱をしていたのは数時間以上であり、その間に、3人のうち誰かに、尾崎に死の影がやってきているとの予感があれば、尾崎はまた病院に運ばれたはず。けれどもその時は、3人とも「泥酔」だと判断し、「しばらくすれば良くなる」と思い、3人で介抱をし続けていた。そして。。。

 とすると、尾崎の死の責任が誰かにあるとするならば、たった一人だけ、それも繁美さんにあるということは、どう考えても考えられない。

 

 この時、尾崎が暴れるので、自然と介抱をしていた時の主導権は、兄・康さんと大楽さんにあった。

 繁美さんは、こどもをあやしに行ったり、お茶を持ってきたり、毛布を持ってきたりしていて、尾崎の実際の介抱からは離れていた。

 繁美さんが二人を別の部屋で待機させておいて、陰謀を成し遂げるため、たった一人で介抱をしていたのなら、陰謀説も成り立つかもしれない。

 でも、ちがった。介抱をしていた時の主導権は、兄・康さんと大楽さんにあった。

 だから、あくまでも誰かの陰謀であるという恣意的な見方をするのなら、医師の手を離れてからのことを考えると、陰謀説は兄・康さんや大楽さんにふりかかってくるはず。でも、そうなるともう動機も何もなく、話は無茶苦茶である。

 結局、介抱をしていたときの状況からは、どう考えても繁美さんによる陰謀説のようなことは、まったく考えることはできない。

 

 

 さらに言葉を重ねるなら、検死をした医師の言葉にもあったけれど、殺人の方法として、こんな不確実な方法をとるとはあまり考えられない。

 救急車で運ばれると言うことは、警察にも通報が行くのは当たり前のはなしであり、その時に意識があれば、おそわれたりしていたのなら、かならずその事情を話すことになる。実際尾崎が「病院で強い薬を打たれた」と言ったように。

 もし、殺人依頼というのであれば、警察に尾崎が発見される時には、口をきけないように、もうすでに命を奪っておかないといけない。そうでなければ、事情を話されて、逆に捜査をされてしまうから。

 

 客観的に見て、僕はこの尾崎の死に関する陰謀説は、矛盾だらけで、あまりにも不完全すぎるような気がしてならない。

 

 

  

補足考察2    問題を一つずつわけて考える大切さ

 


 ただはじめに書いたように、尾崎の「死後」、夫人の行動が、あまりにも不可思議な点が多いことで、この「陰謀説」ができてきたと思いますが、これは、

「尾崎の死の前後で、問題をわけて考える必要がある」

と思います。なぜなら繁美さんは、尾崎がいたときと、尾崎がいなくなったときと、彼女の立場は完全に変わってしまっているからです。

 


 尾崎が生きているあいだは、彼女は専業主婦として、外に働きに行くこともなく、子育てと家事をしていたので、どちらかというと、世間を知らなくても気楽にできた。

 

 けれども、夫(尾崎)なきあと、彼女は小さな子供を育てながら、夫なきあとの夫の事務所を守ってゆかなければならなくなってしまった。

 またさらに、彼女は残された小さな子供を、子供が独り立ちするまで、たった一人で育ててゆくことになってしまった上で、彼女にはかぞえきれないほどの不安があったはず。

 けれど、彼女は働いたことがないというくらい、世間を知らなかった。夫(尾崎)なきあと、「事務所に入らなくてはいけないし、小さな子供を一人で育てていかなければいけないのに、これからどうやって生きていけばいいんだろう、これから誰を頼って生きてゆけばいいんだろう・・・」と不安と迷いの中に入ってしまったのだろう。。。

 

 で、彼女はだれか、信頼できて頼ることのできる人が欲しかったはず。それも、右も左もまったく知らない未知の音楽業界のことを、多少なりとも知っている人であれば、なおさら都合がよい。夫(尾崎)の残してくれたものを有効に活かしてくれる、頼りのなる存在となる人がいないのだろうかと。

 振り返ってみると、大楽さんも、兄・康さんも、音楽業界のことに関してはほとんど素人のため、信頼できるとは言えない。

 さらに、彼女自身、働いたことがなかったので、社会性や社会での常識的な行動規範など、ほとんどわからなかったはず。

 そんな中、社会的な知識も経験もほとんどなかった夫人は、あやしげな人たちに不安につけ込まれ、いろいろなことを吹き込まれ、そしてあおられ、入れ知恵をされ、簡単に操られてしまったのではないか、そう僕は推測しています。そしてその被害者となったのが、大楽さんであり、康さんであり、そして繁美さん本人ではないかと思うのです。

 



 このことに言葉を加えるならば、尾崎なきあと、事務所に出入りするようになってきた人たちがいますが、大楽さんの本(誰が尾崎豊を・・・)を読むと、 その人たちとは、過去から親交はあったものの、  はじめから繁美さんとの「深い信頼関係」があったというわけではなく、  彼らは「徐々に」彼女の信頼を取り付け、  いろいろなことを吹き込み、  不安をあおり、  最後には夫人は彼らを完全に信頼しきってしまって、  そして康さんと大楽さんが出ていかざるをえなくなってしまった、ようです。

 このへんのことはここの話題からそれるので、おいておきますが、康さんの本の中で、繁美さんに関しての記述は「豊を支えた、ただ一人の女性」と書かれてあります。そして、「事実は直視されなければならない」、「(尾崎と)結婚に至るまでには、重い意味を持つプロセスがあった」とも書かれています。このことは、僕たちファンもこころに留めておくべき言葉だと思っています。



 また、尾崎の死の疑惑に対する署名活動に否定的であったのは、ひょっとすると彼女がいちばん尾崎の死を理解していたからかもしれません。このことは下記の考察にかかわってくることですが、もし僕の下記の考察が正しいということであれば、繁美夫人の行動も理解されるかもしれません。

 この件に関して、具体的に後述します。

 

 

 

 

 3. 覚醒剤が検出されたことが事実として認められたこと

 

 3-1 常習していたのか

 

 尾崎の胃から覚醒剤が検出されたことが事実として認められたことから、尾崎は覚醒剤を常習していたのではないかという推測もあります。これはおそらく違うと思います。

 まず、覚醒剤をしている人は、すぐにわかると言います。

 三人(尾崎康・大楽光太郎・尾崎繁美)の本には、「覚醒剤を日頃から使用していたとは思えない」という認識に共通一致があることから、これも間違いはないはずです。



 裁判で「覚醒剤が検出された」と認められる以前に、兄・康さんが書いた本の中では、康さんは「死因は肺水腫」とし、「(ドラッグを使用していたということは)そんなことはありえない」 「(弟の)わずかな変化でも気がつく」 「ドラッグの影響下にあるときの特徴はあらわれていなかったと断言できる」とまで言い切っています。

 同じように、大楽さんの本でも、繁美さんの本でも、常習使用していたという示唆はなかった。

 だから、覚醒剤をふだんから使用していた可能性は 「まったくない」 と考えてもいいと思います。

 

 

 

 

 3-2 なぜ覚醒剤が尾崎の胃から多量(致死量の約3倍)に検出されたのか

 

ではなぜ覚醒剤が尾崎の胃から多量(致死量の約3倍)に検出されたのか、という疑問が残ります。

これに関しては、まず以下の前提を元に推測してゆきます

 


 前提 
   

覚醒剤は、すさまじく苦くて、簡単に飲めるようなものではない

アルコールなどに入れて「だまして」飲まそうとしても、はっきりとわかるものすごい苦さ

尾崎は覚醒剤の経験があり(経口摂取)、その「味」を知っているので、だますことはできない

けれども、尾崎の胃から検出されていた
   

 

 

 3-2-1 覚醒剤を誰かに「飲まされた」のか

 

 まず、覚醒剤を誰かに「飲まされた」という仮定をたてるとします。

 まず、前提条件の通り、尾崎は覚醒剤使用の経験があり、その覚醒剤のすさまじいまでの苦さは、十分に知っている(経口摂取していた)ので、お酒に混ぜられてだまされてのまされるということは、まず考えられないと思います。

 

 けれども、裁判で認められた事実として、頭に「クモ膜下出血」があることから、ひょっとしたら誰かに「殴打され飲まされた」、ということが仮定できます。

 けれども、もしそうであるならば、救急車で運ばれた時、意識があった尾崎は、かならず「その事情を告げる」と思います。ケンカをしたとか、襲いかかられたとか。そして、「とてもにがいものを飲まされた」とか。

 しかし、尾崎が「誰かに殴られた」とか「殴られてなにかを飲まされた」と言ったということは、どこの誰の本にも書いていない。

 

 また、救急病院から帰宅したときも「意識はあった」という、共通の記述があります。体中傷だらけで、顔も腫れ上がった状態なのに、介抱をしていた三人の本には「喧嘩をした」とか「殴られた」とか「薬を飲まされた」という尾崎の言葉は一度も出てきていない。 

 具体的には、康さんの本では、自宅マンションの前で大楽さんと共に到着したとき、「ああ、アニキ?わるい、わるい」と言ったとあります。この時もまだ、尾崎は「しっかりとした意識を持っていた」という言葉がSaygood-by to the sky way(本)にあります。だから、おそわれたり喧嘩をしたとかいうことではないと考えられます。

 そう考えると、ここでも他殺説や陰謀説というものは説明に限界があり、「殴打されたあげく、無理矢理に覚醒剤を飲まされた」という仮説は、とても考えにくいものとなります。

 

 

 3-2-2 自分の意志で飲んだのか



 まず、「苦くて飲めるようなものではない」のが覚醒剤ですが、すさまじく苦くても「無理矢理に自分の意志で飲む」ということはできると思います。

 また尾崎は、一度つかまったときには注射痕がなく、口から飲んでいたといわれています。

 さらに、覚醒剤を使用する人は、致死量がどのくらいのものかということは知っているはずです。使ったことのある人なら、「使用」するだけならば普通の量を飲むだけだろうけれど、「ある目的で飲む」なら「ある目的の量を飲む」だろうし。。。

 

 救急車で病院に運ばれたとき、尾崎は「自宅に帰る」と言った。医師や繁美さんの意見を聞かずに、もがき暴れながら「自宅に帰る」と言い張った。

 死因に関係する(下記に詳述)といわれている、クモ膜下出血があるというくらいだから、この時にはかなりひどい頭痛がおこっていたかもしれず、自分自身の体調の異変などには、気がついていたかもしれない。しかし尾崎は「自宅に帰る」ことを希望した。

 基本的には、尾崎は大の病院嫌いだった。けれどさらに尾崎には、病院にいてはいけない理由があったのかもれない。また、大きな病院には行けない、そしてどうしても帰らなければならない理由が尾崎にあったとするなら、それはいったいなんだろうか。

 

 また、兄・康さんの本では、尾崎は 「薬はやらない」と話した という言葉があります。

「だまされて飲まされても、苦くてわかるはずの覚醒剤」なのに、尾崎は一言も「覚醒剤を飲まされた」とか「覚醒剤を飲んだ」とかは、話さなかった。味を知らないわけではないのに、尾崎は「薬はやらない」と話した。

 けれども、なくなった尾崎の胃からは覚醒剤が致死量の約3倍が検出されていた。それも、嘔吐を繰り返していたあとの胃の中から。

 それはいったいなぜなんだろうか・・・

 

 

 

  

補足考察3    外傷性クモ膜下出血


  

 尾崎が自宅に戻ったあとの尾崎の行動は、康さんの本には「上半身を起こしたかと思うと、急に仰向けにばたんと倒れた。それで何度か頭を床に打ちつけた。繁美さんの持ってきた毛布で、頭を守った」という記述があります。大楽さんの本でも「のたうちまわっていた」とあり、康さんと彼を押さえつけていたとあり、「頭を打ちつけようとしていた」という一文もあります。

 ということであれば、尾崎自身が薬の影響からか、はじめて救急車で保護されるまでに、こういった行動をしていて、すでに何度も頭を打ちつけており、もうすでにクモ膜下出血につながる外傷をつくったのではないかと考えることもできます。

 また、死因となった「肺水腫」 は、「クモ膜下出血」 によっても 「起こります」。

 とすれば、尾崎には外傷性のクモ膜下出血があることから、これが引き金となったのかもしれないことになります。

 九州の医学従事者の方からの情報では、「覚醒剤で肺水腫を起こすことは難しく、中枢神経障害がまず起こる」とあります。とすれば、外傷(クモ膜下出血)による肺水腫の可能性が非常に高くなります。

 

 クモ膜下出血は、頭痛や吐き気・嘔吐を伴います。

 ただ尾崎は、嘔吐を繰り返していたけれど、アルコールの臭いがあり、嘔吐はアルコールのせいだと思われてしまい、嘔吐による異常には、非常に気がつきにくい状態だったのはたしかだと思う。

 ただ、頭痛に関しては、誰の本にも一言も書いていないところをみると、尾崎はクモ膜下出血によるひどい頭痛がおこっていたかもしれないのに、「頭が痛い」とは訴えることがまったくなかったように思える。痛みがそれほどではなかったのか、それとも、ひょっとすると、尾崎は病院に戻されることを避けたかったのかも知れない。

 ただ、「苦悶の表情を浮かべていた」と誰かの本に書いていたことから、僕は、尾崎はなにも言わずに、ただ、もがき苦しみながら、クモ膜下出血によるひどい頭の痛みと、ずっと戦っていたのかもしれません

 

 

 

 

 

4. みえない一本の線

 

 尾崎の兄の親友だった、尾崎の最後のマネージャーの大楽さんの本で、「誰が尾崎豊を殺したか」という本があります。この本は、犯人を名指ししている本ではなく、尾崎の死の前後の出来事にクローズアップしている本でもあります。この本のいちばんはじめのほうに、著者の「当時の」結論が出ています。それは「限りなく他殺に近い自殺だ」と。

 そして同じく大楽さんの本にあったマンションでのやりとりにあった尾崎の生の姿。ナイフで引き裂かれていたベッド。モデルガンをひとりうち続けていた傷だらけのカレンダー。サンドバッグがわりになっていた冷蔵庫。中にはドリンクだけで、引き出しは家庭薬だらけ。生活感のないマンションで、とても孤独でひとりぼっちでいた尾崎。

 

 そして、尾崎の兄・康さんの本に書いてあったのは、母親の死と尾崎の死の関連を「何か因果関係があるのではないか」と、示唆しているところがあります。また、亡くなる一週間前、尾崎が兄・康さんに「仕事を一緒にするのなら、今しかないんだよ」と話していたのは、なぜなんだろうか。なぜ「今しかない」という言葉があるのだろうか。

 

 中学時代の親友と、俳優の吉岡秀隆と最後にあったとき、尾崎が「なにか言いたいことがあったようだ・・・なにかを言いかけてやめた」というのは、尾崎は親友とも呼べる友人たちに、何を話したかったのだろうか。何を告げたかったのだろうか。

 

 なぜ、「昔家族で暮らしていた家に似ているところ」で尾崎は発見されたのだろうか。

 

 そして、繁美さんの本に書いてあった内容だけれど、自宅に貼ってあったコンサートの日程を書いたスケジュール表を、尾崎はなぜ剥がして、ビリビリに破いてしまったんだろうか。また、尾崎がなくなる5日前に「俺がもし一緒に死んでくれ、と言ったら、一緒に死んでくれるか」と繁美さんに聞いた言葉。なぜそんな質問をしたんだろうか。

 

 前回の考察にも書いたけれども、不規則で、疲れ果てていた生活。母の死。そして「太陽の瞳」や「闇の告白」の歌詞の内容。さらに、ラストアルバムの十字架に横たわる尾崎のアルバムジャケット。「告白」と言う言葉。尾崎はこのアルバムにどんな想いを込めていたんだろうか。なぜ「告白」という言葉を使ったのだろうか。そして、僕たちファンに、ほんとうはいったいなにを伝えたかったんだろうか。

 

 これらから考えてゆけば、前回の考察と同様、一本の線でなにか結論的なものが出てきてしまいます。

もう、ここでは前回の考察と同じ事の繰り返しは書かないでいますが、尾崎は肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまっていた日々の生活の中で、最後に残されたただ一つの安らぎを求めていたの「かも」しれません。

 

 この考察が正しいのか間違っているのかはわからないけれど、これまでずっと考察を続けていた思索の中では、少なくとも基本的には、あやしげな陰謀説や覚醒剤の常習などといったことはなかったと僕は考えています。

 

 

 

5. 問題の背景にあるもの  - 謎になってしまった、繁美さんと大楽さんの関係 -

 

 5-1 繁美さん

 

 ここから以下は「僕の考察の背景的なもの」を書いてゆきたいと思うのですが、僕は基本的にはやっぱり、繁美夫人は、尾崎の事をいちばん理解していた人ではないかと思うのです。

 

 上記と重なりますが、繁美さんの本の中では、尾崎が繁美さんに「一緒に死んでくれるか」と、心中をほのめかしていたところがあります。尾崎が繁美さんだけにこの言葉を言うことができた背景を、まず僕らは知らなくてはならないと思います。

 繁美さんは、尾崎がニューヨークに行く前に知り合ったという、古くから尾崎とつきあいのあった人です。一度覚醒剤でつかまったっときも、尾崎と一緒の部屋にいた、そしてそのあたりの事情もしっていた人です。

 踏み込んで言えば、家族以外に幻覚の中にいる尾崎を支えようとしていたのは、彼女以外にはいなかったのです。

 そして、彼女は獄中の尾崎に何度も面会にゆき、そのころの尾崎のもっとも心の支えとなった人です。

 その後、彼女は尾崎にプロポーズをされ結婚した。尾崎にとっては文字通りの、特別な存在の人です。

 だから繁美さんは、尾崎の生きてきた道程を振り返るときには、やはりかけがえのない存在だったのは否定できないと思います。

 いちばんつらかったときには、いつも繁美さんがいた、そのことを理解しておかないといけないと思うのです、

 そしてやっぱり、一緒にいたときの長さや、いろいろな二人の時間を通して、尾崎の微妙なこころの動きには、だれよりもいちばん敏感に感じることのできた人だと思います。

 

 だから繁美さんは、おそらく、尾崎の死の意味を十分理解していたのかもしれません。尾崎のこころとからだの中に深く刻み込まれてしまっていた「たくさんの傷」を、十分すぎるほど彼女は理解していたのかも知れません。

 とすれば、彼女は受け止めざるを得ない尾崎が出してしまった結論を受け止め、彼女なりに生きてゆくことになった・・・

 

 

 5-1-1 ファンではなく妻としての立場


 僕たちファンは、尾崎なきあと、彼女のまわりに起こった様々な問題を考えるとき、繁美さんは、尾崎のファンではなく、あくまでも尾崎の妻であることを前提に考える必要があることを忘れてはいけないと思うのです。

 

 以前、尾崎の死への真相究明の「署名活動」がありました。これは、彼女は完全に否定的で、尾崎ファンがボランティアで行っていた署名活動に「参加しないように」呼びかけた。これに関して、憶測を呼んで、「尾崎の死は繁美さんの謀略だった」という謀略・犯人説のような話がまたでてきてしまった。

 けれど、夫(尾崎)の死の意味や背景を十分理解していた彼女にとって、夫が出してしまった「最後の結論」を尊重し、そして妻として、夫を静かに、そして安らかな眠りにつかせてあげたいという気持ちがあったのであれば、署名活動に否定的になるのは、なにも間違ってはいないと思います。

 夫が傷つき、ボロボロになって、最後に出した結論の意味を知っている夫人にとっては、「自分の夫」の死を見も知らない人たちに興味本位で詮索されるというのは、とてもつらかったのではないかと思うのです。

 ファンにとっては興味本位ではないのですが、妻としての立場からすれば、あくまでも自分の夫であり、また興味本位の人たちもなかにはいるだろうし、そんな中で自分の夫の死が、第三者の他人に、死後も騒がれ続けるというのは、とても耐えられなかったのではないかと思うのです。

 だから署名活動などには 「絶対的な反対の立場」 を貫いていたと、僕は考えるのです。

 彼女には、自分の夫のことに関して、署名活動の成り行きを見守るということが出来ず、たったひとり悲しみと絶望の中で「だれもわかっていない」、そう思っていたのではないかと思うのです。そうでなければ、あれだけの絶対的に否定的な(反署名活動の)立場を貫けないと思うのです。自分の夫に安らかに眠って欲しいと強く願うがゆえに、彼女は誤解を恐れず、そういった行動をとったのかもしれないと思うのです。

 

 

 5-1-2 ニセの遺書


 また、ニセの遺書という話もでてきたのですが、僕は、彼女がどうしても署名活動を否定したかった、やめて欲しかったために、やむにやまれず、架空の遺書を出してしまったのではないかと推察しています。

 逆に、これが大きな疑いをよんでしまったけれども、調べればすぐにわかるようなことをもちだすという、あまりにも単純な方法を思い浮かぶ人が、陰謀説のようなほとんど完全犯罪に近いことができるとは、どう考えても考えられない。

 調べられればすぐにわかることをあえてやってしまったことには、僕は、彼女には感情の起伏の激しさは感じてしまいますが、嘘を真実として作り上げてしまう計画的な狡猾さはないという性格的なものも感じてしまいます。

 

 

 お父さんの尾崎健一さんは、尾崎がなくなったときに、尾崎のなきがらに向かって「ゆっくり眠れ。もういい。お前は頑張った」といったそうですが、お父さんも尾崎が仕事で疲れ果て、ボロボロになっていく姿に気づき、その姿を見つめていた人なのかも知れないです。

 ある対談で健一さんが語っていた言葉だけれど、母親の百ヶ日には 「因果な商売だな。とにかく早くやめろ、と冗談半分、真面目半分で言った」 くらい、疲れ果てていた尾崎に気がついていたようです。

 いつも尾崎のいちばん身近にいた繁美さんは、それ以上に、疲れ果てていた尾崎を知っていたのだろうと思う。

 

 母親が亡くなってからは、毎日疲れ果てるまで働き続け、前にいた女性マネージャーがツアーをすべてキャンセルしてやめたり、深夜まで続くレコーディングがあったり、夜は飲みに行ったりもし、弁護士を解雇したことから前にいた事務所から訴訟を起こされたりして、身も心もボロボロになっていく尾崎の姿を、いつも毎日間近で見ていた。

 だから、尾崎の死の意味を十分理解し、死後、愛した夫を静かに、そして安らかに眠らせてあげたかったのかもしれないと思うのです。そして、自分の愛する夫が静かに眠るのを、誰にも邪魔をされたくはなかったのではないか、と思うのです。

 

 

 5-1-3 尾崎が自ら選んだ人

 

 そして一部内容が重複しますが、康さんの本を読む限り、尾崎が自ら選んで妻にした人が繁美さんであり、様々な夫婦間の問題があったにせよ、繁美さんが100%正しい行動をしていたとは限らないですが、逆に、尾崎がいつも100%正しい行動であったということも限らないはず。

 なにより、真実をと叫び続けていた尾崎が妻に選んだのが、繁美さんだということ。そしていろいろなことがあったけれども、康さんの本の中で、繁美さんに関しての記述は「豊を支えたただ一人の女性」と書かれてあります。そして、「事実は直視されなければならない」 「結婚に至るまでには、重い意味を持つプロセスがあった」とも書かれています。

 そしてこの言葉は、尾崎の兄の言葉であることに、大きな意味を持つのではないかと思う。康さんは、繁美さんをとりまくあやしげな人たちに事務所を追い出されてしまうという仕打ちを受けたけれど、康さんの著書の中からあえてこういった 「豊を支えたただ一人の女性」 「事実は直視されなければならない」 「結婚に至るまでには、重い意味を持つプロセスがあった」 という言葉が出てきたということは、やはりとても重要なポイントではないかと思う。

 

 ただ、この辺は、僕はあったことも話したこともない人なので、あくまでも事実を元にした推察の話です。第三者の個人的な推察なので、まったくの勘違いかも知れません。けれども、尾崎の死の前後の事情を考えるとき、どうしても繁美さんの行動が何か大きな意味を示唆していると感じて仕方がなかった。

 僕も、陰謀説をはじめとして、いろいろな視点から尾崎の死をとらえては見たものの、あまりにもうさんくさい陰謀説は、「事実だけ」を整理する中で、どうしても成り立たなかった。

 けれども、尾崎を取り巻く「人のこころの動きを見つめること」で答えがでてくるのではないかと思って、色々な視点から尾崎の死をとらえてみると、今回のような考察の結果がでてきてしまった。

 

 

 5-1-4 今回の考察の前提条件

 
 今回の考察をする上での、繁美さんに関する前提条件は、尾崎への愛です。尾崎を愛していなかったのならば、上記の考察はすべて崩れてしまうと思います。

 けれども彼女は、尾崎の死後5年以上すぎてから、尾崎との想い出をつづった「親愛なる遙いあなたへ」を出版した。いろいろな邪推はできるかもしれないけれど、この本は、彼女と尾崎との生きてきた道を知る上で、かなり参考になる本だと思います。

 また彼女は今、ニューヨークのマンハッタンにいる。彼女は本の中で、「ここは、尾崎との思い出の場所だから、ここにすむことを決めた」という。

 もし、彼女が陰謀説のような悪意に満ちた女性であるのならば、尾崎との想い出のある場所には、まずどう考えても住むことはないだろう。

 思い出の場所には、行くことすら避けるはずです。

 また、住むのなら、できるかぎり尾崎との想い出のある土地を避け、まったく違う別の場所を選択していたはず。

 けれども、彼女は彼女自身の選択で、尾崎との想い出の残る場所に移り住んだ。おそらくそこは、彼女にとってほんとうにかけがえのない大切な大切な思い出の場所だからだと僕は思うのです。

 タイミング的にも、彼女は精神的にも疲れ果てていたであろう頃に移り住んでいたし、そしておそらく今でも、尾崎との大切な想い出と一緒に、誰にも邪魔されずに、そこで静かに暮らしているのだろうと思う。

 

 

 甘い発想なのかも知れませんが、尾崎が選んだ人なので、僕は悪い人ではないと思っています。そうでなければ、尾崎は、それまで行動してきたように、信頼関係を失った瞬間に、事務所を辞めると言い出したり、ものすごい攻撃や、マネージャーの場合は解雇としてきている明確で断固たる行動をしていたことから見て、夫婦ゲンカのあとは、尾崎が謝って仲直りをしていたし、結局繁美さんとは離婚までいくことがなかったことを考えると、尾崎は繁美さんを基本的には信頼をしていた、信頼する気持ちが根底にあったと思うのです。

 だから、「一緒に死んでくれるか」と繁美さんに言えた。また、だから尾崎は自宅に帰って最期を迎えた。路上ではなく、病院でもなく、自宅に戻り、妻や子供、兄、気がついたときからいた幼なじみという、信頼のできる人たちのそばで、最期の息をひきとった。。。

 

 あくまでも推測の話ですが、自分なりに考えた思索の終わりは、上記の考察に収束してしまったのです。

 けれども、これほど尾崎を深く愛し、尾崎のことを想って行動していたのに、ファンや世間からはかなり誤解されてしまった境遇を想うとき、彼女の悲しみはどこまで深くあるのか、察することはほんとうに難しいと思っていまいます。今までうけた中傷や誹謗は、かなりのものだと思います。そして、今でも殺人疑惑説が根強く残っています。僕は、天国から尾崎が繁美さんを守ってくれていることを願っています

 

 

 

 

 5-2 大楽さん

 もうひとり取り上げておきたいのが、大楽さんのことです。大楽さんは、尾崎豊の最後のマネージャーであった人ですが、尾崎との関係は、尾崎が意識ができはじめた小さな頃からの歴史があり、尾崎の友人というか知人というか幼なじみというか、簡単に書いてしまえない立場の人です。ですので、ここですこし、大楽さんと尾崎との関係の背景を説明してゆきます。

 

  5-2-1 身内と他人との中間的な存在

 
 大楽さんは、兄・尾崎康と6歳のころに知り合い、友人として現在まで至っています。兄・康さんと知り合ったころは、尾崎豊はまだ1歳くらいの時です。尾崎にとっては、意識が芽生えはじめたとき、「アニキの友人として、気がついたら大楽さんがいた」という感じだったようです。

 尾崎が中学生になることはもう、大楽さんは兄・康さんと同様、同じ年の対等の友人として尾崎と接していたそうです。だから尾崎は、アニキと大楽さんのよい影響も悪い影響もみな受けることになって、思春期を育ってゆくことになる。

 大楽さんから見れば、最後は尾崎豊のマネージャーとして「社長」とよんでいたものの、尾崎が小さな頃から知っている兄・康の弟であり、友人というか幼なじみというか、末っ子だった大楽さんにとっては、実の弟のような存在だったといいます。

 兄・康さんの本では、大楽さんの位置づけは、尾崎豊にとって「兄貴的」であり「友人的」である「年長の他人」であり、「身内」と「他人」との中間だという、たくさんの表現をしている言葉があります。ほんとうに一言では関係を説明しきれない関係だったようです。

 そんな大楽さんの、兄貴でもないけれど、友人でもない、身内と他人との中間的な存在という、とても微妙な立場だったことから、尾崎の死後、大楽さんは混乱の中に巻き込まれてしまうことになります。

 

 大楽さんは、30歳をすぎて「これから」というときに、尾崎から「マネージャーになって欲しい」と言われ、迷ったけれども、それまでにいた会社を辞め、尾崎のマネージャーとして、未知の世界ではたらき出すことになった。

 また、もともと古くから尾崎家とつきあいがある大楽さんは、ふだんは尾崎を「豊」と呼んでいたけれども、マネージャーの仕事をすることになってからは、「社長」と敬語を使って話すようになった。

 これは、当然と言えば当然なのかも知れませんが、「社長」と呼ぶと言うことは、これまでの幼なじみからの関係ではなく、それまでの関係を捨てて「社長」と「マネージャー」という関係になるという、過去との決別の決意があったということが背景にあると思うのです。これは、大楽さんが「本気で尾崎豊に協力をする」という意志のあらわれであったと思います。

 尾崎はその点しあわせだったのではないかと思います。信頼できない人たちのたくさんいる業界の中で、尾崎が信頼でき、自分のことを弟だと思ってくれている人がそばにいてくれるというのは、やっぱり安心だったと思う。

 実際、大楽さんはわずか二ヶ月だったけれども、尾崎のマネージャーを初めてからすぐに胃を壊し、身体をボロボロにしてでも、全力で尾崎の生活リズムにあわせ、やってきた。

 

  5-2-2 部妙な立場と軋轢

 
 けれども、わずか二ヶ月で尾崎が亡くなってしまった。そして、尾崎の経営していた会社の運営方針を巡って、あやしげな人にコントロールされた繁美さんとの摩擦が始まった。

 ここにきて、上にも書いたけれども、親類でも兄弟でもなかった大楽さんは、いちばん弱い立場にあった。尾崎との信頼関係が強くあっただけだったので、その尾崎なきあと、大楽さんは立場上、簡単に追いつめられてしまうことになったようです。

 脅され、恫喝され、ののしられ、最後には事務所をやめざるをえない状況にまで追いつめられ、見るに見かねた社長である康さんに(大楽さんの身の安全を守るため)「社長権限として辞めさせ」られ、(康さんも追われるように辞任)、身に覚えのない汚名を着せられ、そして裁判にまでなってしまう(のちに大楽さんが勝訴)

 僕は大楽さんの境遇を考えるときに、尾崎豊という存在のために、会社を辞め、全力で尾崎と共に身体を壊してぼろぼろになってがんばってきたのに、わずか二ヶ月で尾崎が他界してしまった。

 そしてそのあとは暴力行為や脅迫行為、そして破壊行為までを含め、あまりにもひどい仕打ちをされ、事務所を追われてしまった事情を察してしまいます。はっきり言えば、泣きっ面に蜂よりも、もっとひどい悲惨な状況だったと思います。

 辞めた事務所から言いがかりをつけられ、マスコミには根も葉もないことを流されて、週刊誌には半ば犯人扱いの記事が掲載され、尾崎ファンからは冷たい視線を向けられ続け、時には飲みかけの缶ジュースを投げつけられたこともあったそうです。

 尾崎のために会社を辞め、必死になって支えようとしていたのに、その努力が報われるどころか、理解されないばかりでなく、誹謗や中傷のあらしに巻き込まれてしまったその無念さは、計り知れないものだと思います。

 

 

  5-2-3 いまだに残る深いこころの傷


 また、大楽さんは、「尾崎がなくなったのは自分の責任である」と書いていました。この言葉には、大きな意味があると思います。いまだに「(尾崎の命を)守りきれなかった」というやりきれない想いが、この文章には入っているのではないかと思えるのです。

 大楽さんは、尾崎を弟のような存在と思い、ボロボロになってでも支えてゆこうとした人です。おそらくきっと、「尾崎がなくなったのは自分の責任である」とという告白は、後悔と悲しみの中で自分を責め続けていた言葉かもしれないと思います。

 

 大楽さんは尾崎に頼られ、全力でその期待にこたえようとして、尾崎に「そばにいること」を約束した。そしてマネージャーになった。そしてその約束を全力で果たそうとしていた。商品扱いされる音楽業界の中で、ボロボロになっている尾崎の存在を守ろうとしていた。

 けれども結果的には、尾崎がいなくなってしまうのを防ぐことができなかった。尾崎が天国に行ってしまうのを止めることができなかった。その自責の念が、ずっとこころの中に抱いているのだろうと思います。

 大楽さんは、もともとかなり飲む人だったようですが、尾崎なきあと、一滴のお酒も飲まなくなったそうです。おそらく、その日の自分の行動を許すことができず、今でもその責任を感じているのだろうと思います。

 

 

 

 

 5-3 繁美さんと大楽さんとの問題

 大楽さんと繁美さん、尾崎が信頼していた二人のあいだの葛藤は、尾崎の死後おこったと考えるべきではなく、その前に原因が発生していたような可能性があります。それは、繁美さんと大楽さんとの接点上での出来事を見る必要があると思います。

 

   5-3-1 DV(家庭内暴力)と、その頃の繁美さんと大楽さんとの関係

 
 尾崎がなくなる前の最後の夫婦喧嘩で、繁美さんが尾崎に暴力を振るわれた件があります。この件が、いちばん繁美さんと大楽さんとの接点上で、共通して書かれている件になります。

 大楽さんの本(誰が尾崎豊を殺したか)によると、「繁美さんは、頭と腕に包帯を巻いて、顔は左半分がアザになって腫れ上がっていた」という言葉があります。そして「今回は本当に殺されるんじゃないかって・・・本当に怖かったんです。」と繁美さんが話したとあります。

 繁美さんの本によると、この暴力の具体的な事情が書いてあります。そして、ひどい怪我を大楽さんにも見せた理由があります。ただ、長くなるので説明は省きますが、大楽さんへの攻撃的な文章でもなく、暴力の背景の事情が非常に淡々と書かれており、内容は具体的で背景まで言及されています。

 

 このへんのことは、大楽さんと尾崎と繁美さんとの間の関係を見るとき、参考になる出来事だと僕は思うのです。

 このへんの記述では、「尾崎が生きていたとき」、繁美さんは大楽さんをどのように見ていたか、そして大楽さんは繁美さんをどう見ていたか、お互い尾崎を通して相手をどういうふうに理解しようとしていたか示唆する言葉があります。

 尾崎が一方を非難するとき、非難するのを聞いた方は、非難された方をかばっています。大楽さんは「そのような女性がいるはずはない」、繁美さんは「素人だからわからない部分もあって仕方がない」と、お互いがお互いを「思いやる言葉」「認めようとしていた文章」があります。

 けれども、尾崎なきあと、尾崎という防波堤がいなくなってしまい、直接同じ事務所で接することになり、その伏線がいっきに露見しはじめて、問題がこじれていってしまう・・・

 

 

   5-3-2 憎しみの構図

 
 大楽さんの本(7年目の真実)に、大楽さんと繁美さんとの裁判の時の繁美さんの言葉で、大楽さんの行動を繁美さんが「具体的に」述べた非常に気になる言葉がある。

「レコーディングの時に、踊っていた」
「仕事ぶりに関しては、迎えに来る時間にも遅れたり、
 豊が疲れているにもかかわらずよく飲みに誘ったり、女の話ばかりをしていたと豊から聞いている」 

 これを大楽さんは「下劣で悪意に満ちていた」と斬り捨てて書いています。

 けれども、残念なことに、この言葉はすべて尾崎の言葉である可能性があります。大きなポイントは3つ。

 

 1. まず、レコーディングの時に「踊っていた」かどうかを知っているのは、繁美さんのまわりには「尾崎」しかおらず、繁美さんはレコーディングのときに一緒に立ち会っていた訳がないので、情報は尾崎からしか入らない。

 それなのにレコーディングのことが繁美さんの口から出てきたのは、わけがあると思う。やはり尾崎が繁美さんに、そのレコーディングの時の話をしていたのではないだろうか。

 ただ、、どう考えても大楽さんが尾崎のレコーディング中、本当に踊っていたとは思えず、神経をこわいくらいに張りつめて真剣に全力をふりしぼってレコーディングをしている尾崎が、大楽さんがリズムにあわせて身体を少し揺すったのを見て不真面目に思い、尾崎が繁美さんに「踊っていた」と、そう話していたかもしれない。

  
 2.また、遅刻は微妙なところだけれど、迎えに来る大楽さんがほんとうに遅刻したかどうかは「尾崎」しかわからないし、道路事情もあるだろうし、その場合「遅刻」かどうかは尾崎が感じる事。

 
 3.そして、「豊が疲れているにもかかわらずよく飲みに誘ったり」というのは。大楽さんは本(7年目の真実)で、尾崎を「飲みに誘ったことは一度もない」と断言してまで書いていることから、尾崎は飲みに行った理由を「大楽さんが飲みに誘ったから」と繁美さんに言っていた(言い訳していた)可能性もあります。

 飲みに行った大楽さんが尾崎に「女の話ばかりをしていた」かどうかは、繁美さんはその場に一緒にいないことから、知っているのは「尾崎」しかいない。

 それをなぜ繁美さんが知っていたのか?と考えると、やっぱり尾崎が繁美さんに「そういったこと」を話していた可能性があります。

 

 もし仮に、尾崎が繁美さんに、大楽さんのことをそんなふうに話していたとすれば・・・、繁美さんは大楽さんのことをあまり信頼できない人だと、尾崎がなくなる前から考えていた(考えはじめていた)のもおかしくはないです。

 もちろん、事実ではない可能性もありますが、けれども、もしそれが尾崎の言葉から来たものだとしたら、尾崎の死後、繁美さんから大楽さんへとむけられた攻撃は、たやすく理解することができてくるように思えます。

 

 

   5-3-3 尾崎を介した二人の立場の違い

 
 繁美さんは、尾崎から大楽さんのことを聞いて、「レコーディング中は踊るわ、遅刻してくるわ、疲れはてている夫(尾崎)を誘って飲みに連れて行っては、女の話ばかりするわ、なんてひどいマネージャーなんだろうか」と心底、信じられない思いで大楽さんのことを見ていたのかも知れません。

 そして尾崎の死後、もしかすれば、「大楽さんがよく尾崎を飲みに連れて行ったりしたことも、自分の夫に死を近づけた原因の一つかも知れない」と、繁美さんは誤解をしてしまったかも知れない。そして憎しみの感情を持ちはじめた。

 そして、あやしげな人から「大楽はマスコミからお金をもらっている」とかを吹き込まれたときはもう、簡単にその言葉を信じてしまう土壌がすでにできてしまっていたのかもしれない。

 そうであれば、繁美さんが大楽さんを攻撃したという理由もわかるような気がします。

 

 また逆に、大楽さんは、繁美さんのことを尾崎から「かなりひどい女性である」と聞かされていたそうですが、ひょっとすると、尾崎は「大楽さんには繁美さんの話」を、「繁美さんには大楽さんの話」をしていた可能性があるのではないかと、僕は思っています。仕事のストレスは繁美さんにグチを聞いてもらい、家庭でのストレスは大楽さんに話していた可能性があるのではないかと、僕は推測しています。

 それが尾崎の死後、直接同じ事務所で接することになり、お互いのこころの中につちかわれた批判的な見解が一人歩きをはじめてしまって、誤解が誤解をうみ、憎しみが憎しみを呼び、確執へと発展してしまったのではないかとも思っています。

 

 

 

 

 6. 複雑にからまってしまった相対的な問題

 

 最終的には、尾崎をもっとも愛した人たちが、尾崎の死後、対立したり、見解が違ったり、様々な状況を生みだしていました。けれども、すべては尾崎との関係や立場が違うという相対的な関係の中で、摩擦が発生し、問題が起こってしまい、興味本位のマスコミの報道もあって、この問題が大きくなったように思えるのです。

 音楽業界の人から見た尾崎豊、親から見た尾崎豊、兄から見た尾崎豊、幼なじみとしての尾崎豊、妻としての尾崎豊、ファンから見た尾崎豊、商品価値としてみた尾崎豊、ジャーナリズムから見た尾崎豊、雑誌を売るための話題づくりのための尾崎豊、野次馬として見た尾崎豊、何も知らない人が事実の断片だけをとらえていただけで判断した尾崎豊。

 尾崎の姿は、僕たちファンの中でも、とらえ方はまったく変わってきます。ほんとうの尾崎豊とはまったく違った姿を見て、ファンだということもあります。詩は好きだけれど、生き方はきらいだとか、尾崎の仕草が好き、ルックスが好き、すべてが好き、あれは嫌いだけれど、ここは好きというように、僕たちファンでさえ、尾崎へのとらえ方はまったく違います。

 結局は、みな尾崎を見て、それぞれの人の中で尾崎を考えた姿は、違ってくると思います。それによって導かれる印象も違ってきます。尾崎の死への結論も、同じように違ってくると思います。尾崎の死の謎は、そういった相対的な問題をはらみつつ、問題が複雑化してしまったように思えます。

 

 

 相対的な問題の中で、いちばん大きかったのが、大楽さんと繁美さんとの関係、これは尾崎が残してしまった課題になってしまいました。尾崎が死の直前、血のつながりのある家族以外に深い信頼をおいていたのは、繁美さんと大楽さんだったのに、尾崎の死後、その二人に、なぜか対立が生じた。

 それは尾崎との関係の違い、そして相対的な立場の違いから、二人が尾崎を愛していた気持ちの分だけ、問題が大きくなってしまったのではないか、と僕は思っています。

 そしてそれは僕たちファンをも巻き込んで、問題が大きく広がってしまうことになったのではないかと思います。

 

 

 尾崎の死後は、そこには様々な正義があり、みな亡くなった尾崎のために行動していた。そしてなくなった尾崎の意志を考えて、みな行動をしていた。(利用することを目的としてやってきたあやしげな人という例外はのぞいて) 

 それは、それぞれの人の立場で、間違っていたのかもしれないし、間違っていなかったのかもしれない。

 けれども僕は、それぞれの立場で、全力でやってきた結果がでてしまったことだろうから、誰も裁かれる必要はないと思っています。

 それよりも、尾崎を愛し支えてくれていたすべての人たちが許され、また、こころの重荷から解き放たれることを願っています。

 

 

 

最後に

 

もう、この考察もほとんどすべてを書き尽くした感があります。

最後になりますが、一つだけ書き添えておわりにします。

 

病院から連れて帰ったときに介抱をしていた3人は、介抱をし続けて「良くなるだろう」と思っていた判断ミスに責任を感じ、尾崎の死後、人知れず、ずっとその重い十字架を背負っていきているのではないだろうかと思います。

兄・康さんは口を閉ざし、大楽さんはいまだにこころに大きな重荷を背負い、繁美さんは想い出を求めて海外にでてしまった。

 

ただ、誤解を恐れずに書けば、その死は悲劇的でもなく、

尾崎にとっては、いちばん理想的な最期だったのかもしれないと思っています。

死を迎えるにあたって、寂しがり屋の尾崎が、人知れずさみしく孤独に最期を迎えることなく、

心を許すことができる人たちだけに囲まれ、そして最愛の我が子がそばにいた自宅でなくなった。

ただ、この尾崎の最期の瞬間は、3人にとっては結果的に、とても重い十字架を背負うことになったかもしれない。

けれども、尾崎にとっては、最期を迎えるのには、いちばん理想的な最期を迎えたのではないかと思う。

人知れずさみしく孤独な最期を迎えたのではなく、自宅に戻り、愛する人たち、信頼する人、そして我が子のそばで、最期の瞬間を迎えた尾崎は、こころの中ではとてもやすらかな気持ちだったんじゃないかと思う。

 

 

 

今回の考察の目的は、尾崎ファンとして、尾崎豊のために、覚醒剤の常習だとかといった、せめてもの誤解を解くことが大きな目的でした。

そして、アーティストであった尾崎にとって、天国から僕たちファンに望むことは、死因を追及することよりも、
これからもずっと歌を聴き続けていくことをなによりも望んでいるかもしれないと思ったからです。

 

尾崎は僕たちに、これからも歌い続けることを約束してくれた

僕は、でも、尾崎はこの世からいなくなって、約束を破ったわけではないと思う

尾崎は約束はきちんと守ってくれている

いつでも尾崎は僕たちのために歌ってくれている

こころのなかで、そして街角に流れるBGMで、こころをこめて歌い続けてくれている

今でも尾崎は、歌やメッセージ、映像を通して、熱い感動や情熱的に生きる力を僕たちに与えてくれている

 

この世にいなくなっても、感動を与えてくれる尾崎

尾崎はカリスマ的存在だといわれていたけれど、僕は尾崎はカリスマそのものだと思う

 

 


僕たちは忘れてはいけない こころをいつでも輝かしてなくちゃならないってことを