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日蓮宗の歴史と教義

     ーーーーー主に日蓮正宗に関してーーーーー

 

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1 問題の所在

 日蓮正宗の教義についての学者による研究は、執行海秀『日蓮宗教学史』や望月歓厚『日蓮宗学説史』で、日蓮宗各派の教義の歴史的展開の一部として、考察されているほかに、執行海秀の遺稿を編纂した『興門教学の研究』ではこの問題に焦点を絞った考察がなされている。執行はまた日蓮宗教化部長金子弁浄編『創価学会批判』の「教学面からの批判」を執筆している(執行1 p.2) これらの研究に共通しているのは、文献学的考察に基づいて、日蓮正宗の教義の歴史的展開過程を明らかにするということであり、それによって、現在の日蓮正宗の最も特徴的な教義である日蓮本仏論は、日蓮正宗の派祖である日興(1246-AN52)の教学思想とは異なっていることを証明するということである。 これらの研究に対しては、創価学会教学部編『日蓮正宗創価学会批判を破す』などの反論がある。だが創価学会による反論の問題点は、文献学的考察において、直接文献を確かめた上で反論するということができなかったということにある。 日蓮正宗はいくつかの重要な文献に関して、日興正筆の存在を主張するが、その主張を客観的に証明するための文献資料の公開をしていなかった。部外者の学者のみならず、在家信者の創価学会員にも、また日蓮正宗の一般僧侶にも公開していなかった。 さらに創価学会は日蓮正宗の在家団体であり、日蓮正宗の教義の解釈権を持たず、教義の最終的解釈権は日蓮正宗にあるから、創価学会がそれなりの自立的な研究により、日蓮正宗の公式見解とは別の見解を発表するということも制度的に不可能であった。しかし現在創価学会は日蓮正宗とは教義的には無関係な教団となったのだから、日蓮正宗とは無関係にその教義の説明責任を果たさなければならない。 現在、第一次宗門問題以後に日蓮正宗から分離した細井日達前法主系の僧侶集団である正信会の僧侶たちが立ち上げた興風談所の地道な研究により、『日興上人全集』(以後『興全』と略称)『日興上人御本尊集』が出版され、日興正本の写真版により、従来未公開であった日興の資料的問題はある程度解決済みとなっていると思われる状況にある。 もっとも編者大黒喜道は「『日興上人全集』正編編纂補遺」において本来は写真版ではなく古文書原本を参照すべきであるが、直接原本に接することができたのは数点のみであったことを述べ、「その原因は専ら文書の非公開性にある」(大黒p.321)という現状を指摘している。 これらの資料を駆使して、日蓮正宗の教義的問題に批判的検討を加えたのが、東祐介「訂正 佑介 以下変更する。指摘があるまで、著者名の転換ミスに気づかず、著者に対して大変申し訳なく思っています。また指摘してくださった方に感謝します。」(2009/4/10)の『大石寺教学の研究』である。これらの研究状況を踏まえて、日蓮正宗の教義を再検討し、創価学会が日蓮正宗のどの教義を否定し、どの教義を継承すべきかを試論的に検討することが、私の『創価学会研究』理念編第1部日蓮正宗論の課題であるが、本論はその一部をなす日興の教学思想の諸問題を検討する。(結果的に紙幅の関係で今回は(1)資料編のみを公表する。) 第二次宗門問題が発生して以来10年以上が経過して、創価学会は会則変更により日蓮正宗との教義的関係を会則からは消去したが、創価学会自身の教義書を未だに発行していない。私の理解では、創価学会は日蓮本仏論のひとつの派生形態である法主=日蓮代理人説(血脈相承説)に関して、現法主の血脈断絶を主張しているとは思われるが、日蓮正宗の教義はそもそも法主の不在を想定していない教義であるから、そのような事態が生じた場合に、日蓮の救済の秘儀はどのようにして継承可能かという新しい血脈の理論が必要となる。 正信会は、創価学会と同様に現法主の血脈が断絶したことを主張したが、日蓮からの血脈が断絶したという事態を避けるために、『日興遺誡置文』を根拠にして血脈二管論を主張し、血脈は法主だけでなく同時に僧侶集団にも継承され、法主の血脈が断絶した場合は、僧侶集団によって継承された血脈を新しい法主に注入するという議論をしている。 これは日蓮正宗の歴史において異流義の要法寺系の僧侶によって法主が継承され、法主の血脈が断絶した時代にあっても、僧侶集団に継承された大石寺の血脈がやがて日寛に注入され、日寛が法主となり本来の大石寺教学を完成したという歴史を説明する議論としてはそれなりに説得力を持つ。(これに対して日蓮正宗はその時代にあっても法主に正しい血脈が継承されており、異流義である造仏論を主張した法主はいなかったと主張している。現在の創価学会は正信会と同じく法主に異流義があったと見ている。) 血脈問題に関して創価学会はかっては血脈二管論には否定的であり、現在は御書を通じて得た信仰にも日蓮の救済の秘蹟はあるとする信心の血脈論を採用しているようであるが、この議論は実は室町時代の顕本法華宗の派祖である玄妙日什(AN33-111)の経巻相承論と表面的には同じであると考えられるかもしれない。 なるほどこの経巻相承については例えば創価学会の『折伏教典』においては「仏法の真髄は血脈相承・師子相承といって、かならず面授口決のご相伝によらなければならない。・・・しかるに日什の場合には予言の経証もなく、面授口決ももちろんないままに、経巻相承と立てて、自己の正統を主張するのは、仏法を破壊する根本原因となるのである。日蓮宗なら、どんな宗派でも御書と法華経を手にするのはとうぜんであるが、それでいて多数の邪流邪義を生ずる理由は、まったく経巻相承という増上慢をおこすからである。」(『折伏教典』 p.132)と批判を加えている。  創価学会の信仰の正しさは少なくともどの法主からも面授口決されていないようであるから、この批判はそのまま現在の創価学会にも当てはまるのではないかと質問されたら、どのように回答するのだろうかという疑問が生ずるかもしれない。それに対しては一例として以下のような回答が可能であろう。 「創価学会は唯授一人面授口決による血脈相承という日蓮正宗の伝統法義を遵守してきたことは確かであり、その法義自体が誤っているとは考えてはいないが、細井日達法主から阿部日顕への面授口決による血脈相承という事実があったかどうかに関しては、これまでのさまざまな法主の地位をめぐる裁判の過程で、阿部日顕が、自分に相承があったことを、説得力をともなって証明できなかったことから、血脈相承がなかったと判断している。面授口決による血脈相承が存続している限りは、それを無視して御書を根本にして信心の血脈を主張するのは、経巻相承にあたるかもしれないが、現在面授口決による血脈相承を受けた法主は誰もいないのであり、また法主による血脈相承が断絶したという日蓮正宗では全く想定もしていない事態が生じたのであるから、日蓮の指導を記した御書から直接学ぶ以外に成仏への道はない。」という創価学会の回答が予測される。 正信会の血脈二管論は、僧侶集団にも法主による血脈と同等の血脈が流れているために、法主による血脈が断絶した場合は、僧侶集団の血脈から再び法主への血脈を修復、復活することが可能であることを主張している。しかしこの議論がどのように文献的に根拠づけられるかに関しては、かなりの困難が指摘されている。 創価学会は法主による血脈が断絶すれば、修復不可能という立場に立っている。わたしはこの創価学会の立場はそれなりに整合的な考えであると考えるが、問題は法主が永遠に不在となったという現状を踏まえて、どのような教義を形成していくかということである。 日蓮正宗の教義は、日蓮、日興から唯授一人面授口決による法主の存在を大前提にして、形成されている。日蓮正宗管長や大石寺住職は選出可能であるが、それは法主ではなく、法主がいなくなれば、日蓮正宗に伝わった日蓮の救済の秘儀を人々に伝える手段が断絶することを含意しているのが日蓮正宗の教義であり、そのような事態が現実に起こってしまったと創価学会が判断する限りは、説得力のある新しい教義をできるだけ早く形成する責務があると私は考えている。 また、このほかにも、信心の血脈は広宣流布を目指す日蓮直結の信心であるとして、法主の血脈よりも根本的なものとする考え方が創価学会にはあるが、この点についても、いわゆる経巻相承との相違を明示することが要請されると考える。 先にあげた立正大学の学者たちは、日蓮正宗の教義と日興の教義とは異なっていることを主張しているが、このことは日興から日蓮正宗の法主への血脈相承を否定するということを意味している。 日興教学と日蓮正宗教学は同じであるのか、それとも異なっているのか、私なりの検討を加えたい。そのためには、第一段階として日興の確実な正本資料を基礎にして、どのような日興の教学思想が構成できるのかということを明らかにし、第二段階として写本資料しかないが、偽作の可能性が薄いと多くの研究者によって認められている資料も使用すると、どのような日興の教学思想が構成できるのかを明らかにし、第三段階として日蓮正宗の日興の教学思想に関する主張の資料的問題点を検討したい。(なお以下の論述では文献が日蓮滅後何年頃に成立したかが重要な論点になるので、日蓮のなくなった1282年(弘安5年)をAN1年として、以下『富士年表』の年代記述を基本にしてAN年代を表記する。)

 

 2 日興関係文献の検討

 

 日興がどのような教学思想を持っていたのかについて検討するにあたって、どのような文献的資料が存在するのか、またその文献的資料が信頼できるのかどうかを検討することは、学問的には必要な手続きである。 興風談所による『日興上人全集』は日興の真筆が現存している文献(疑義のある文献も含む)を正編とし、日興撰として写本で伝承された文献を続編として収録している。文献学的な考察も丁寧にしてあり、多くの写真版も掲載され、信頼するに足る資料集であるが、『日蓮宗宗学全書』(以下『宗全』と略称)第2巻所収の日蓮撰日興相承とされる相伝筆録分は収録されていない。 日蓮正宗の教義と日興の教学思想との関係を検討する場合、この日興相伝筆録分の検討を欠かすことはできないので、これらについての文献学的考察も必要な範囲で行ないたい。以下で述べることは先行研究を私なりに確認する作業であり、三証の中の文証を確定するという基礎的な作業にあたるが、多くの読者にとっては退屈な部分となることと思われる。 執行海秀は『興門教学の研究』において、『宗全』第2巻の構成に準拠して、日興関係文献として、次の六種類に区分して、資料的価値を検討している。(執行1 p.97)
(1) 日蓮聖人より唯受一人相承の血脈相伝類(2) 日蓮聖人の口決を日興が筆録した口伝類(3) 日興自身の述作した著書類(4) 日興の口述、あるいは講義を弟子が筆録した講述類(5) 日興の消息類(6) 日興の記録した文書、要文類、申状、置文等私の見るところでは、執行の文献学的検討は充分なものとは言えないが、日興関係文献のまとまった考察としては他にないようなので、以下においてこの区分に従って、文献学的検討を加えたい。なお文献の名称は『富士宗学要集』(以下『富要』と略称)に従い、『宗全』の名称が異なる場合は( )で表記した。『興全』が資料集としては最適であるが、一般には入手しにくいので、『富要』と『宗全』からの引用を主とする。

 

 (1)血脈相伝類

 この部類に算入されるのは、『本因妙抄』(『法華本門宗血脈相承事』)『百六箇抄』(『具謄本種正法実義本迹勝劣正伝』)の両巻血脈書である。また教義的には重要ではないが、血脈相承を証拠立てるとされる『身延相承書』(『身延相承』)『池上相承書』(『池上相承』)の二箇相承書も便宜上ここに含めておく。

 

 ()『本因妙抄』

 『本因妙抄』(『富要』1-1『宗全』2-1)の最古の写本は大石寺六世の日時(?-AN84-125)写本とされている(『富要』1-8)。ただし日時写本には執筆年次が書かれていないうえ、写本の原本が日興正本であったかどうかも言及されていない。 東佑介の『大石寺教学の研究』によれば、興風談所の大黒喜道が『興風』第14号の「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書()」において、『本因妙抄』の日時写本の字体が、日時の他の文献の字体と異なっていることを指摘し、日時写本ということに疑義を提出していることが紹介されている( 40)。 私は活字資料を基礎にして考察しているので、活字資料になる以前の写本資料の作者の確定という問題は既に解決済みという前提で議論していたのだが、この問題が解決済みでないということは、『本因妙抄』と日蓮日興の結びつきへの信頼が一層揺らぐということを意味している。 次に古いのは要法寺日辰(AN227-295)の写本(AN279)である(『宗全』2-10、『富要』1-8)。『宗全』は日辰本によっているが、『富要』は諸本を校合したとあり、『宗全』の最後の系図の部分が『富要』では欠落している。日辰本の奥書によると、日辰は、日興の直弟子である日尊(1265-AN64)筆とされる写本を写したとあるが、日辰自身はその写本に日尊の花押がなく、字体も日尊筆であるかどうかを確認できないことを認めている(『宗全』2-10) したがって日尊本が発見され、それが日尊自筆であることが証明されれば、『本因妙抄』が日興日尊と継承されたことを推測できるが、日尊本の所在が確認されていない現状では、『本因妙抄』を日尊の時代まで遡及させることはできない。 『本因妙抄』の引用文献に関しては日興の薫陶を受けた三位日順(AN13-75-?)の『本因妙口決』(『富要』2-69 『宗全』2-294 執筆年次不明 写本は日棟本(写本年代不明)、日俊(AN356-410)本)があり、次いで日眼の『五人所破抄見聞』(『富要』4-1 『宗全』2-503 AN99? 写本は日諦本(AN377))がある(下記注) もし日順の『本因妙口決』が日順自身の作であるなら、日時写本より古いことになるが、その文章の中に日順の活躍当時には決して使用されなかった「日蓮宗」という用語が使用されていることから、後代の偽作とみなされている。 (下記注)で考察するように日眼が妙蓮寺5世日眼(?-AN88-AN103)であるとすれば、ほぼ日時と同時代の引用である。これらのことから、日蓮正宗に好意的に見ても、『本因妙抄』は文献学的には日蓮滅後100年前後までしか遡れない。 内容的にも現行資料のままでは、日蓮滅後に日蓮宗各派の中で論争となった本迹一致、勝劣の論争に言及しているから、日蓮から日興への直授とはみなせない。堀日亨は『富要』では「後加と見ゆる分には一線を引く」(『富要』1-8)として、現行資料から時代的に適合しない部分を削除しているが、その削除が妥当であるかどうかの文献学的根拠は何も示されていない。 執行は『本因妙抄』は日時によって書かれたことを示唆している(執行1 p.23)。東は大黒の説を踏まえて日時写本説を否定して、また堀日亨の『隠れたる左京日教師』の記述も参考にして、日尊門流による偽作説を主張している( p.42) 日時写本への疑問が生じてくれば(私は堀日亨の古文書鑑定能力をかなり信用しているのだが、後述の『滝泉寺申状』が日興筆であるという堀日亨の鑑定に対して、堀日亨が活躍していたときには、まだ未公開であった富木常忍の直筆資料の写真版と比較検討して、興風談所の菅原関道が富木常忍筆という見解を発表したことを見れば、古文書鑑定の難しさ、資料の公開の必要性を実感する)、私には『本因妙抄』が誰によって作成されたかの判断はできないが、日興との結びつきが文献学的に証明できないことだけで、この資料を日興の教学思想の解明のために第一段階や第二段階で利用することを差し控える十分な理由となる。

 

 (注) 宮崎英修は「富士戒壇論について」の中で、『五人所破抄見聞』に伝奏衆として勧修寺、広橋氏が挙げられている点を取り上げて、この両者が伝奏として活躍するのは、AN190年頃であり、ゆえに日眼はAN100年頃の妙蓮寺5世日眼ではなく、AN190年頃の西山本門寺8世日眼であると主張している(宮崎 p.652) これに対して当時日蓮正宗教学部長であった阿部信雄(日顕)は、資料は明記しなかったが、両者が伝奏であった時代は南北朝以来であり、妙蓮寺日眼とすることに問題ないという反論をした(阿部1 p.30) 同僚の坂井孝一に尋ねたところ、足利義満のころには伝奏が制度化されており、当時の資料、例えば三条公忠の『後愚昧記』などを調べるとよいだろうと教えていただいた。それを調べる前に義満時代を描いた今谷明の『室町の王権』を調べたところ、今谷は上記資料などを使用しながら、義満がそれまで幕府との折衝役であった朝廷の武家申次(九清華家の一つである西園寺家が担当)に代えて、それより身分の低い伝奏衆をあたかも自分の部下のように使用していたこと(今谷p.42)、伝奏衆として勧修寺経顕、万里小路嗣房、日野資康、広橋仲光を挙げ、特に広橋仲光は義満の意を受けて、寺院の人事を裁定していたことを述べている(今谷 p.68) このことから見ると義満時代のAN100年頃には伝奏衆が制度化されていたのであり、日眼を妙蓮寺5世日眼とすることを伝奏衆という論点で否定するという宮崎の議論は破綻している。このことは日眼を妙蓮寺5世であると断定する理由とはならないが、宮崎のように無理な論拠で『五人所破抄見聞』の成立をさらに遅らせることにはそれほど意味のあることとも思えない。重要なのは『本因妙抄』の引用が日時写本(?)とほぼ同時期にまでしか遡ることができないということであり、日蓮、日興との関係を文献的資料によっては証明することができないということである。「追記 東佑介は『二箇相承の真偽論』において、『五人所破抄見聞』の記述内容を検討し、日代・日仙の論争の記述内容から西山系ではないこと、本仏論に関して、左京日京に代表される在世は釈尊が本仏であり、上行が脇士となるが、末法では釈尊は脇士となり、上行が本仏となるという互為主伴論を展開していること(また日郷系の三河日要にも見られる)、また同じく左京日京の『穆作抄』(九州日向で著作)で展開される、代々の法主に妙法が伝わるという議論を展開していること、また大石寺三世の日目の業績を高く評価していることから西山日眼説を否定し、また妙蓮寺は日目系の寺院であるという論拠がないことから、妙蓮寺日眼説も否定し、結論的には日目の弟子日郷が開いた保田妙本寺の、地方の中心拠点である日向の日郷門徒の中で形成され、日向出身で後に保田妙本寺を継承した三河日要も左京日京の議論を受け入れたと推測している(東 2006-1, p. 40-47)。この議論では筆者日眼は事跡不明となるが、互為主伴説がAN100年ごろに既に妙蓮寺にあり、その思想が後代の大石寺九世日有には見られず、その後の左京日京、三河日要に見られるというのも不自然であるから、思想史的方法論から見れば、東の議論はある程度妥当であると思われる。」(2009/3/22  

 

 (b)『百六箇抄』

 

『百六箇抄』(『富要』1-9『宗全』2-11)の写本は要法寺日辰本が最古の写本として現存している。その奥書によればAN31年に日興から日尊に授与され、AN61年日尊から日大・日頼に授与された。しかし日辰自身が誰の写本によったのか、またいつ書写したのかは不明である。(『百六箇抄』の内容は、『宗全』『富要』とも同じであるが、創価学会版の『日蓮大聖人御書全集』では著しく異なっており、日尊系統から伝承されたことの記述が削除されている。) また堀日亨は『富要』において『百六箇抄』の多くの箇所とともに、「弘安三年・・・日蓮在御判」の日付、署名部分を後加として二線をつけて削除している(『富要』1-23)。『本因妙抄』の日付、署名部分には後加記号がつけられていないのに、『百六箇抄』に付けられているのは、いかなる意味があるのか不明であるが、堀日亨が『百六箇抄』を日蓮の相伝書とは見なしていないということなのだろうか。 『百六箇抄』の引用文献としては、日尊系の住本寺本是院日什(AN147-208-?) (後に大石寺に帰服して左京日教と名乗る)が大石寺9世日有に帰服する前に書いた『百五十箇条』の中に、「百六箇条の本迹口決」(『富要』2-180)とあり、またその中に「文明十二(AN199)年」(『富要』2-211)の語が見えるので、日蓮滅後200年頃には成立していたと推測できる。左京日教の帰服以前に大石寺に『百六箇抄』が存在していた文献的証拠はない。 日朗門流から派生した勝劣派の日陣門流に所属する越後本成寺8世日現(AN178-233)が書いた『五人所破抄斥』(執筆年代不明)に「百六箇等種々異義」(『宗全』7-182)とあり、『百六箇抄』が引用された『百五十箇条』の執筆後まもなく他門流にもその内容が知られ、『百六箇抄』が偽書として批判されたことがわかる。 以上のことから『百六箇抄』も日興相伝として認定するに十分な文献学的証拠は見出せないので、この資料も日興の教学思想の解明のために第一段階、第二段階で使用することは差し控えるべきであろう。

 

 (c)二箇相承書 

 二箇相承書(『宗全』2-33)に関しては『宗全』では単に古写本を校合したとあるだけで(『宗全』2-34)、写本がどの時代に遡れるのか不明である。『富士年表』によれば、AN187年の住本寺日広(?-AN187-206)の写本がある。 堀日亨は『富士日興上人詳伝』(以下『詳伝』と略称)で天正9 (AN300) 年に正本が紛失したと述べているが(『詳伝』 p.140 ただし本文は「天文九年」と誤植されている)、そのとき紛失した文書が正本であったという根拠は充分ではない。その紛失以前のAN278年に要法寺日辰が北山本門寺にあった日蓮自筆正本とされる文書を臨写したが、日辰写本によっては正本とされる文書の字配は確認できても、筆跡は日蓮筆とは確認できず(臨写本は筆跡もできるだけ似せて書写するのが通例であるが)、堀日亨は佐渡世尊寺蔵の日健(AN280-344)写本も同じ字配であったことから、日辰写本が信頼できることを主張しているにすぎない(『詳伝』p.155) 二箇相承書の引用に関しては、既に『本因妙抄』の項で述べた日眼の『五人所破抄見聞』に「日蓮聖人之御付嘱弘安五年九月十二日、同十月十三日の御入滅の時の御判形分明也。」(『富要』4-8)とある。したがってAN100年頃には二箇相承書が成立していたと推定できる。 この二箇相承書が日蓮から日興に直授されたということは、日興在世の文書では確認できないので、この資料も日興の教学思想の解明のためには第一段階、第二段階で使用できない。「追記 上述の追記で述べたように、『五人所破抄見聞』の成立時期をAN100年頃とするのは、思想史的に無理がある。なお東佑介は『二箇相承の真偽論』で、二箇相承の成立時期に関して、日興の下で重須学頭として活躍した三位日順の『摧邪立正抄』の「大聖忝くも真筆に載する本尊・日興上人に授くる遺札には白蓮阿闍梨と云云」という記述に注目し、「白蓮阿闍梨」という尊称が使われている文献を検討し、この遺札に該当するのは、二箇相承しかないと判断し、その偽作者も三位日順であろうと推測している(東 2006-1, p. 62-64)。東は「 遺札」に注目しているが、私はその前の「真筆に載する本尊」に注目している。現存する日蓮筆の曼荼羅本尊には「白蓮阿闍梨」あるいは「日興」宛の曼荼羅はない。六老僧の日昭などにはその名を示書した曼荼羅本尊を授与しているのに、なぜ日興に授与した本尊がないのか不思議に思っていた。大石寺では戒壇本尊を日興に与えた本尊であるとするが、三位日順は「白蓮阿闍梨」という示書のある本尊があると述べている。その曼荼羅本尊はどうしたのだろうか。日興が書写した曼荼羅はすべて「滅()後二千二百三十余年」となっているが、戒壇本尊は「二十余年」となっている。日興が書写したオリジナルの本尊は戒壇本尊ではなく、「三十余年」と書いてある本尊である蓋然性が高いが、その本尊が三位日順が言う「白蓮阿闍梨」という示書がある曼荼羅なのだろうか。日蓮から与えられた文書類を厳重に保管した中山法華経寺でも、かって存在した冨木常忍に与えられた曼荼羅本尊が所在不明となっている現状を考えれば、「白蓮阿闍梨」宛の曼荼羅も紛失したという可能性もある。そしてまた、同様に白蓮阿闍梨宛の遺札も紛失したかもしれない。現存する資料から判断すれば、遺札に該当する資料は二箇相承であるという東の議論はそれなりの説得力を持つが、『摧邪立正抄』においては、御書の真偽問題がテーマにされているのに、わざわざ周辺で偽作された二箇相承を議論の中で使用するだろうか。私はいまいち腑に落ちない。もっとも「阿闍梨」という示書のある曼荼羅本尊の存在にも疑念をもっているので、東の議論を適用すれば、二箇相承と同様に「白蓮阿闍梨」という示書を持つ曼荼羅本尊も偽作されたのだろうか。三位日順の記述の背景については、不明なことが多すぎる。」(2009/3/22)
「追記 池田令道『富士門流の信仰と化儀』の「第5章師弟子の法門」の「『二箇相承』の考察」でも「一つは、二箇相承そのものが文献的に信頼できないこと三師伝や聞書類などの後の有力史料が二箇相承について沈黙していることも含めて。二つには、上代の門下全般の状況と二箇相承によって想定するそれとの懸隔があまりに大きいこと六門徒同格と日興上人一人を付弟にすることとの相違の大きさです。」と述べて、二箇相承偽撰説を主張する。http://home.att.ne.jp/blue/houmon/ikeda/kegi.htm(2009/3/29)

 

 

(2)日興筆録の口伝類

 この部類に算入されるのは、『産湯相承事』『寿量品文底大事』『教化弘経七箇口決大事』『御本尊七箇相承』(『御本尊七箇之相承』)『上行所伝三大秘法口決』『御義口伝』である。

 

 (a)『産湯相承事』

 『富士年表』によれば、『産湯相承事』(『富要』1-27 『宗全』2-35)の最古の写本はAN279年の要法寺日辰写本(現存するのは日辰写本を書写したAN347年の日精(AN319-402)本であるが)であるとする。しかし『宗全』にはそれ以前の左京日教の写本も存在しているとしている(『宗全』2-38)『富要』では年号、署名部分に後加を示す二線が引かれており(『富要』1-29)、堀日亨は日蓮の親撰であることを疑問視しているのかもしれない。なお『本尊論資料』には日興門流の相伝として日辰写本の後半部分が欠如した『御実名縁起』(AN215 日意写本)が異本として記載されている(『本尊論資料』 p.335)
 『産湯相承事』の引用は、『百六箇抄』で述べた左京日教の『百五十箇条』にある(『富要』2-232)。したがって文献的にはAN200年頃には存在したと言えよう(ただしいくつかの異本のうちのどの『産湯相承事』が存在していたかは不明である)内容的には「国をば日本と云ひ、神をば日神と申し、仏の童名をば日種太子と申し、予が童名をば善日、仮名は是生、実名は即ち日蓮なり。・・・是生とは日の下の人を生むと書けり。日蓮は天上天下の一切衆生の主君なり、父母なり、師匠なり。」(『宗全』2-36,『富要』1-28)とあり、日蓮の出家名(仮名)が「是生房」であったという前提で記述されているが、日蓮自身は金沢文庫蔵の『授決円多羅義集唐決』の自筆写本の奥書において「是聖房」と書いている。日蓮が自分の出家名を間違って覚えていたということはありそうにないから、『産湯相承事』を日蓮親撰とみなすことはできない。 なお日朗門流の相伝書である『当宗相伝大曼荼羅事』にも仮名が「是生」(『本尊論資料』p.280)とあるが、身延門流の相伝書である日意の『日蓮大聖人五字口伝』には「仮名ハ是性房」(『本尊論資料』p.178)とあり、左京日教の『百五十箇条』にも「是性」(『富要』2-232)とあり(このことは左京日教の日文字相伝は『産湯相承事』とは異なる異本であった可能性が高い)、日蓮の仮名は音で「ぜしょうぼう」と伝えられたが、漢字では伝わらなかったことを示している。また日道の『御伝土代』にも、日蓮の伝記が書かれた『法華本門宗要抄』にも日蓮の仮名は言及されていない。 また『本尊論資料』には日常門流の日実筆とされる多くの相伝書が掲載されているが、その中には日興門流とは異なった『日文字相伝』もあり、他の門流にも法華経神力品の上行菩薩を喩えた文に即して、日蓮を日月と読むことの相伝も数種類ある。これらのことから考えると多くの日文字伝説のひとつである『産湯相承記』を日蓮撰日興相伝とみなすことはできない。「追記 東佑介は『産湯相承事の真偽論』において、種々の考察を加え、特に出雲の日御碕神社に関する記述に注目して、出雲の日尊門流において、AN140年以後に偽作されたと見ている( 2007-1, p. 17-24)。日御碕神社に十羅刹女が祀られたのが特定の時期に限られるという神道研究が妥当であれば、東の結論も妥当であろう。」(2009/3/22)

 

 (b)『寿量品文底大事』 

 『富士年表』には『寿量品文底大事』(『富要』1-43 『宗全』2-44)への言及は全くないので日興の筆録であることを否定しているようだ。『富要』『宗全』では保田妙本寺14世日我(AN227-AN305)の弟子の日山(?-?)写本を最古としている(『富要』1-43『宗全』2-45)。『富要』では文末の「日蓮日興記」が後加記号により削除されている。 引用に関しては不明であるが、内容的には『本因妙抄』を継承していると思われる。寿量品文底大事と命名されているけれども、寿量品のどの文に文底が秘沈されているのかという議論に立ち入っていない。また「一所の所判に末法に入りぬれば余経も法華経も詮無し乃至妙法蓮華経に余行を交へばゆゝしき僻事なりと遊ばさるゝ此の意なり」(『富要』1-43『宗全』2-45)という日蓮の御書の引用があり、また日蓮に対して敬語を使用している。この部分に後加記号が当然必要と思われるが、付加されていないのは、堀日亨が日蓮親撰を否定しているからであろうか。資料的には日興の教学思想の構成のためには使用できない。

 

 (c)『教化弘経七箇口決大事』

 『教化弘経七箇口決大事』(『宗全』2-39)については、写本は『宗全』では日山本が挙げられている()。しかし『富要』には収録されていない。内容的には法華経文上によって、法華本門宗と天台宗を含む他宗との相違の要点を七か条挙げたもので、日蓮=上行説であり、日興から日尊、日代への血脈相承を述べており、大石寺3世日目を除外している。『富要』に収録されなかったのは、編者堀日亨が日蓮日興の口伝書とは認めなかったということだろう。ただし『富士年表』には12821010日に日蓮がなくなる直前に日興に口伝したとある。この資料も使用不可である。

 

 (d)『御本尊七箇相承』

 『御本尊七箇相承』(『富要』1-31『宗全』2-41)については、写本は『宗全』では日山本が挙げられている(『宗全』2-44)。『富要』では年号と日蓮在御判に削除記号が付されている(『富要』1-33)。引用は不明であるが、日有より日格がAN177年に聞書したとされる文書に「本尊七箇・十四箇の大事の弘決之あり」(『富要』2-160)とあり、この時代には存在していたと思われる。(ただし、以下で述べる『本尊論資料』の『御本尊七箇大相承』を考え合わせると、どのような内容の「本尊七箇相承」が存在したのかは不明である。) 内容的には、本尊を十界曼荼羅と規定し、そのうえで十界を日蓮の己心と解釈している。重要なのは本尊書写には「日蓮()御判」と書くことを明記し、さらに追加箇条で大石寺嫡々代々と書くことも明記し、その理由として歴代(大石寺住職)法主が日蓮の代理であることを明記している。日蓮正宗では最も重視される本尊相伝の書である。 なお『本尊論資料』には日興門流の相伝書として『御本尊七箇大相承』が掲載されているが、そこでは相承の内容は七箇条であり、大石寺嫡々代々などの追加項目はない(『本尊論資料』 p.369)。この身延写本がいつ頃のものかは明記されていないが、他の相承書同様に、次々に後代の相伝継承者が付加していったことを推測させる資料である。その点ではこの『御本尊七箇相承』も使用できない。

 

 私の自宅の本尊は、北海道から上京してきたときにいただいた細井日達筆の形木本尊、その後阿部日顕筆の特別形木本尊、そして現在の日寛の形木本尊と変わってきたが、その本尊は、歴代法主が戒壇本尊を書写した本尊であると教えられ、ある時期までそれを素朴に信じていた。大石寺には数多く参詣し、戒壇本尊にも何度も目通りしているが、奉安殿の御開扉のときには、本尊に関する教義的な疑問は全く持っていない時代であったので、自宅の本尊と戒壇本尊との異同などには無頓着であった。正本堂の御開扉のときには、あまりにも距離がありすぎて戒壇本尊に何が書いてあるかはほとんど読み取れなかったのが実情である。現在ではweb上で戒壇本尊の写真が公開され、戒壇本尊に何がどのように書かれているかが明確にされている。 それを調べてみると、歴代法主による戒壇本尊の書写という説明にそれなりの疑問が生じてくる。戒壇本尊の讃文には「仏滅後二千二百二十余年」とあるのに対して形木本尊の讃文には「仏滅度後二千二百三十余年」とある。普通書写するならばわざわざ年号を変えて書写することはありえないと思うのだが、どうだろうか。また戒壇本尊には中央の日蓮の署名の下に花押が描かれているが、形木本尊には花押の代わりに「在御判」の文字が書かれている。これは、花押は本人しか使用してはならないという暗黙の前提があるから、説明がつく相違である。また戒壇本尊にはない大石寺住職の名前と花押が形木本尊には書かれている。これも書写した人の証明書であるから説明がつく。ただ戒壇本尊には功徳罰を説いた讃文が欠如しているが、形木本尊には書かれている。書写ならば、手本とした本尊にない項目を書き加えるということは避けるべきであると思うのだが、どうだろうか。 日蓮正宗の公式教義書である『日蓮正宗要義』には、「大石寺血脈の法主の略本尊」(p.200)の宗教的意義に関して、「万年の流通においては、一器の水を一器に移す如く、唯授一人の血脈相伝においてのみ本尊の深義が相伝されるのである。したがって、文永・建治・弘安も、略式・広式の如何を問わず、時の血脈の法主上人の認可せられるところ、すべては根本の大御本尊の絶待妙義に通ずる即身成仏現当二世の本尊なのである」(p.201)と述べられて、戒壇本尊を書写したとは明言されていず、戒壇本尊の内証を(あるいは相伝された深義の内証を)法主が書写したものであり、法主の認可があれば、「戒壇本尊の妙義に通ずる」として、戒壇本尊とその他の本尊との救済論的関係を保証する者としての法主の役割を強調しているだけである。 戒壇本尊と伝統的に書写されてきた本尊との様式の相違については、説明がないのでどのように教義的に解釈されるのか不明であるが、法主の中でもこのことに疑問をもって、「仏滅度後二千二百二十余年」と書いたのが阿部日開であった。しかし彼はこの本尊が相伝書と異なるとして批判され、謝罪文を書かざるを得なかったという出来事があった。その実子阿部日顕は、父の不名誉を雪ごうとして、讃文はどちらでも構わないと主張しているが、その根拠は法主の内証によるとしているだけで、あたかも法主の内証次第では、相伝書だろうが、伝統法義であろうが、何でも変える権限を、法主が日蓮代理人としての資格において持っていると言わんばかりの主張をしている。(阿部2 p.48)
 ここで問題にすべきは、本尊書写は戒壇本尊を忠実にコピーするのではなく、別の指示に従ってしなければならないということであり、その指示には少なくとも法主であった阿部日開も従わざるをえなかったということである。その指示とは何かといえば、ここで問題にしている『御本尊七箇相承』である。 そこでは滅度讃文に関して「一、仏滅度後と書く可しと云ふ事如何、師の曰はく仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるゝ儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)とあり、この滅度讃文は戒壇本尊の滅度讃文のコピーとは無関係に指示されている。 なおこの滅度讃文の年号については『本尊論資料』には身延門流の相伝として日朝談日仁筆の『本尊相伝事』の「仏滅後二千二百二十余年等アソバシタルハ建治文永等ノ御本尊ニ爾カアソバシタル也。是ハ未再治御本尊ナル故也。サテ二千二百三十余年等アソバシタルハ弘安涅槃ノ時分ニ爾カアソバシタルナリ。故ニ身延今家ノ形木ノ本尊ニハ二千二百三十余年等アソバシタル也。」(『本尊論資料』 p.3)が記載されており、「二十余年」にすべきか「三十余年」にすべきかを論じている。同様なことは日朝の『大曼荼羅事』( p.33)でも論じられている。 また日常門流では「二十余年」と書くことが伝統となっているが、『本尊論資料』には日常門流相伝書として日実の『仏滅度後等之事』に「弘安以前を取り合わせて二千二百二十余年也。さて弘安以後は三十余年とお書き也云々。別の御義之無し。」( p.432)とあり、「二十余年」と「三十余年」には教義的区別はないことを述べたうえで「二十余年」と書くことを継承している。あるいは同じ日実の『御本尊図給年号事』には「弘安年中の御本尊は随自意と習う也。よって三十余年と云えるは随自意の辺なり。」( p.445)とあり、随自意優位ならば「三十余年」と書くべきだということを暗示しながらも、別の資料である『首題五字五種妙行事』では「二十余年」と伝えることが血脈であるとしている( p.490) このように「二十余年」か「三十余年」か、という問題は日蓮の図顕した本尊に二種類あることから、各門流でも議論されたのであり、『御本尊七箇相承』が戒壇本尊の「二十余年」を手本にしながら、それと異なる「三十余年」と書写すべきだとするなら、当然説明があってしかるべきだと思われ、この点でも『御本尊七箇相承』ならびに戒壇本尊の資料的価値は疑われる。 次に日蓮の花押ではなく「在御判」と書くことについて「日蓮と御判を置き給ふ事如何(三世印判日蓮躰具)、師の曰はく首題も釈迦多宝も上行無辺行等も普賢文殊等も舎利弗迦葉等も梵釈四天日月等も鬼子母神十羅刹女等も天照八幡等も悉く日蓮なりと申す心なり、之に付いて受持法華本門の四部の衆を悉聖人の化身と思ふ可きか。 師の曰はく法界の五大は一身の五大なり、一箇の五大は法界の五大なり、法界即日蓮、日蓮即法界なり、当位即妙不改・無作本仏の即身成仏の当躰蓮花・因果同時の妙法蓮華経の色心直達の観、心法妙の振舞なり、又本尊書写の事予が顕はし奉るが如くなるべし、若し日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」(『富要』1-32『宗全』2-42)とあり、日蓮花押の代わりに「(在)御判」と書くことを明示している。 なお『本尊論資料』にはAN174の日朗門流の筆者不明の相伝書『御本尊相伝』があるが、そこには「問首題の下に必ず日蓮判と遊ばす義如何 答日向門徒には法華堂をば皆御影堂と習うなり。その故は首題の下に日蓮と遊ばしたるは妙法全く我が身なりといえる御心中なる旨なり。左右の脇士はまた日蓮聖人の脇士なり。諸堂みな御影堂なりと申す伝なり。また首題の下に御名を遊ばすは人法一体能弘所弘不二なることを顕すなり。真間流の人は大聖人の大の字を制して書くなり。定めて人法一体の意なり。その故は地湧の四大士と中央の首題と引き合わせて習うに、首題は空大なり、四菩薩は四大にて、その義通ずる故に空大妙法と聖人とは全く一体となれば、日蓮空聖人という意にて大聖人と書くなり。大は空の義の故なり。」(『本尊論資料』 p.314)とあり、後に日蓮正宗で主張される本尊の首題と日蓮を一体にして人法一体と解釈するという議論が既に日有の時代に日朗門流や真間門流には存在していたことを示している。日有自身には人法一体の議論はまだない。 次に戒壇本尊にない法主の名前と花押を書くことについて『御本尊七箇相承』の後半の追加部分には、「日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり。」(『富要』1-32『宗全』2-43)と述べて、歴代の法主がそれぞれの時代の日蓮であり、日蓮の救済の秘儀を伝えるために、必要な存在であるということを主張している。しかもこの文には歴代の法主の備えるべき資質、資格などには一切言及していない。その意味でどんな人格を持とうが、法主である限りは、日蓮の代理人として、日蓮の救済の権能を継承する制度カリスマを主張しているのである(この点ではカトリックと同じ救済論を持っているが、カトリックの場合には日蓮正宗のような面授相承を主張せず、教皇に就任することによって自動的にイエス、ペテロから継承された聖職者カリスマが生じるとしている。日蓮正宗の場合には、聖職者カリスマは断絶の可能性があるが、カトリックの場合にはない)。 以上述べたように日蓮正宗に由来する本尊は、戒壇本尊のコピーではなく、日蓮の代理人としての権限において、法主が書写した本尊であるということは明確である。この『御本尊七箇相承』の主張は、日蓮の救済の秘儀は、戒壇本尊ではなく、歴代の法主にあるということを明確にしている。創価学会は法主の血脈断絶という事態に対応して、法主僭称者である阿部日顕筆の本尊を会員に安置させ続けることは、信仰上問題があるとして、緊急避難的に、多くの会員にも教学学習上でなじみのある日寛筆の本尊に差し替えるようにし、私の自宅にもそれが安置されているわけだが、法主不在の下では当然法主の認可はない本尊であり、今後も永遠に法主不在の時代が続くのであるから、法主の存在を前提とした『御本尊七箇相承』や『日蓮正宗要義』の議論とは別の本尊の宗教的意義付けを必要としていると私は考えている。   なお興風談所によって『日興上人御本尊集』が刊行され、現在では日興の書写した本尊を写真で見ることができるが、その中で『御本尊七箇相承』の記述とは合わない本尊もかなり見られる。特に初期の本尊には、「在(御)判」の代わりに「聖人」と書いた本尊も見られ、また讃文に関しても「仏滅度後」ではなく「仏滅後」や「如来滅後」と書いた本尊も多数見られる。このことは、日興は日蓮から直授されたとする『御本尊七箇相承』を守らずに本尊書写をしたということを意味しており、むしろこの『御本尊七箇相承』の資料的価値を疑わせるものである。 なお菅原関道は「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」において、日興のみならず、日興門流の本尊の中には「日蓮聖人」「日蓮大聖人」とだけ記して、「在御判」がない本尊が少数ではあるが、存在することを述べている(菅原 p.342)。このことは『御本尊七箇相承』がまだ存在しなかったか、あるいは存在しても厳格には守られなかったかということを示している。 東は『本尊論資料』に収録されている『御本尊七箇大相承』には日蓮本仏論が見られるから、本文七箇条は日時以降に成立し、附文の部分は稚児貫主である日鎮を擁護するために左京日教が書いたものと見なしている( p.53)。いずれにせよ、この資料を日興の思想解明のためには使用できない。

 

 (e)『上行所伝三大秘法口決』

 『上行所伝三大秘法口決』(『富要』1-45『宗全』2-46)については、『宗全』では要法寺日辰がAN279年に『産湯相承事』と同日に記録した写本をAN351年に日精が書写したものが挙げられている(『宗全』2-49)。『富要』でも同様である(『富要』1-47)。しかし同時に『宗全』はほぼ同じ内容の口伝書が八品派日隆の系統に「直受日弁」として伝えられたことも述べている(『宗全』2-50) 内容的には勝劣派に共通の日蓮=上行説に基づいて、法華経神力品の偈を解釈しているもので、特に日蓮正宗特有の内容があるわけではない。むしろ神力品強調は八品派日隆の特徴であるから、その系統の口伝書が日興門流に入ってきたと見るほうがよいだろう。

 

 (f)『本尊三度相伝』

 『本尊三度相伝』(『富要』1-35)については、『宗全』には収録されていないが、『富要』に日興の相伝書として挙げられている。『富要』では水口日源(?-?)(訂正 1296-?)(2009/3/22)の写本が挙げられている。しかしその内容に関しては、初めの「一、本尊口伝」の部分は『本尊論資料』に収録されている、日朗門流池上本門寺・比企谷妙本寺4世日山(AN57-AN100)の『本尊五大口伝』(『本尊論資料』 p.286)とほぼ同じであり、次の「二度 本尊の聞書」の部分は、日朗門流の筆者不明の『本尊ノ聞書』( p.324)とほぼ同じであり、最後の「三度 本尊相伝」は日朗門流日学(?-?)の『本尊相伝』( p.319)とほぼ同じであり、これはさらに日興の弟子の三位日順の『本門心底抄』(『富要』2-31)ともほぼ同じである。『本門心底抄』では日蓮の口伝としては述べられていず、三位日順自身の解釈として述べられている。執行海秀は『本門心底抄』をもとに、『本尊三度相伝』『本尊相伝』が作成されたと見ている(執行1 p.60)。また『富要』では日興相伝、日蓮在御判に後加の記号が付されている(『富要』1-38)。この資料も使用不可である。「追記 東佑介は『本尊三度相伝の真偽論』において、詳細な考察を加え、写本の筆者日源が水口日源ではなく、京都の日尊系日大の弟子本是院日源(?-1406)であり、『本尊三度相伝』は日大がAN68-85年に偽作したものであるとしている( 2006-2, p. 23)。」(2009/3/22)

 

 (g)『御義口伝』

 『御義口伝』は『宗全』『富要』ともに掲載していないが、それは日蓮遺文の範疇として扱われているからである。写本は『富士年表』によれば、日隆門流に属する日経本(AN256)が最古である。引用は一致派日像門流の円明日澄(AN160-AN229)の『法華経啓運抄』(AN211)が最古とされている。日興筆録とされているが、大石寺には古い写本は残っていない。この資料も日興直筆を根拠として使用する第1段階の議論や、多くの研究者が日興筆と認める資料を根拠として使用する第2段階の議論としては使用不可である。

 

 

収録されている『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』がある。

 

 (a)『三時弘経次第』

 『三時弘経次第』(『富要』1-49『宗全』2-52)については、『宗全』には写本などの出典を挙げていないが、(『興全』では後続の『神天上勘文』と一体の資料として、了玄日精写本としている)、『富要』では筆者不明の写本によるとしている。『興全』には関連文献として『連陽房聞書』を挙げているので(『興全』 p.286)、日有の時代には存在していたと見られる。なお『富要』では日興正筆の『本門弘通事』が同趣旨の内容であるとして引用されている。この『本門弘通事』は後出の『安国論問答』に続く文章として、堀日亨の『詳伝』に収録され、また『興全』に収録されている。 『三時弘経次第』は内容的には天台宗の戒壇=迹門、法華宗の戒壇=本門という台当相対した本迹勝劣、戒壇論を主張している。日興の直筆正本が残っていないので、第一段階においては使用できないが、第二段階においては使用して差し支えない資料と思われる。

 

 (b)『神天上勘文』

 『神天上勘文』(『宗全』2-54)については、写本は重須8世日耀のAN261年の写本に由来する了玄日精本が『宗全』では挙げられている。『富要』には掲載されていないが、編者堀日亨は日興の著作であるとは認めていないようだ。また同氏の『詳伝』でも著作類には含まれていない。『富士年表』には日耀写本を筆写した日辰本を根拠にAN18年日興が『神天上勘文』を著したとしている。 『興全』では日蓮のことを「高祖」と書いていること (『興全』p.260)、室町時代に偽作されたとされる鴨長明『歌林四季物語』が引用されていること( p.265)、また日蓮教団を「当宗」と書いていること( p.264)、日興の執筆年代が「正安元年正月」となっているが、正しくは「永仁七年正月」であることなどから( p.267)、資料的には問題があることを示唆している。私もこの指摘には同意している。

 

 (c)『引導秘訣』

 『引導秘訣』(『富要』1-267『宗全』2-63)については、『宗全』では了玄日精がAN384年に西山本門寺で古写本を筆者したものが最古の写本として挙げられている。『富要』では、西山本門寺に古写本がないこと、また日有の『化儀抄』の内容と矛盾することをあげ、日興の著作であることを否定し、筆者不明として扱われている(『富要』p.271)。ここでも日蓮を「高祖」「蓮祖」(『富要』p.269)と呼び、日興の確実な文献の呼称名とは異なっているので、資料的には使用不可である。

 

 (d)『安国論問答』

 『安国論問答』(『宗全』2-68)については、『宗全』には日興正本によることが明記されている(『宗全』 p.78)。しかし『富要』に収録されていない。その理由は多分堀日亨の『詳伝』で、『安国論問答』の初めに「聖人注之坐」とあること、また日向の『金綱集』にもほぼ同様の内容が記載されていることから、両者が日蓮の抄録から転写されたものと解釈して、日興自身の著作とは認めていないことによると思われる(『詳伝』 p.412) 『興全』には写真版が掲載してある。『興全』によれば日興直筆の外題として「安国論問答並申状」とあるが(『興全』 p.3)、後欠のため申状の部分は現存しない。また『興全』は日蓮の注釈の部分と日興の記述の部分との区別が不明確なため、「私云」が日蓮の意見なのか、日興の意見なのか不明であるとしている( p.9)また内容的には日蓮の『災難興起由来』『災難対治抄』とほぼ同様な趣旨の部分があり、日興独自の著作と認めるには問題があるが、日蓮の著作には書かれていない部分もあるので、日興の著作と見ることが妥当と私には思われる。 なお大黒喜道も「『日興上人全集』正編編纂補遺」において、「全体としては宗祖の抄録・記述を日興上人が書写し、さらに自らの記述を多少加えた上で編纂されて、本書は出来上がった」(大黒p.298)としている。

 

 (e)『五重円記』

 『五重円記』(『宗全』2-88)については、『宗全』では要法寺系の嘉伝日悦のAN420年の写本が挙げられている。奥書によれば岡宮光長寺の日興正本を光長寺日賀が書写したものを、日悦が書写したとある。しかし岡宮光長寺は日興に破門された日法が開いた寺院であり、そこに日興の正本が存在したというのは疑問が残る。また『富要』には収録されていない。また『詳伝』にも日興の著作類の中には含まれていない。『興全』では資料的評価をつけずに、続編に収録している(『興全』 p.268) 内容的には中古天台本覚思想の五重(権・迹・本・観心・元意)の円の思想に対して、上行所伝の本因妙の思想を元意の円とするもので、四重興廃よりも発達した形の中古天台本覚思想が日興の活躍していた時期に成立していたかどうかは疑問の余地があり、日興のものとしては使用不可である。

 

 (f)『仏法相承血脈譜等雑録』『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』『禅天魔所以事』『律国賊事』『本門弘通事』

 これらの資料については『興全』に述べているように日興筆の『安国論問答』に続く一連の日興筆の文献であり(『興全』p.29)、『興全』には写真版が掲載されている。『仏法相承血脈譜等雑録』は『安国論問答』の内容に直接関係するメモであり、『史記抄録』『高麗・新羅・百済事』は『興全』の見解では、『立正安国論』に関係するメモであるとされる(『興全』p.20, p.23 ) 『禅天魔所以事』『律国賊事』はそれぞれの表題に関する資料メモである。『本門弘通事』には「迹門 比叡山」「本門 富士山 蓮華山 大日山」(『興全』p.28)とあり、日興が富士戒壇説を持っていたことの傍証とみなされている。

 

 (4)日興の講述類

 この部類に含まれるのは、重須学頭日澄作、日興印可とされる『富士門徒存知事』と、三位日順作、日興印可とされる『五人所破抄』である。

 

 (a)『富士一跡門徒存知事』

 『富士一跡門徒存知事』(『富要』1-51『宗全』2-118)については、『宗全』ではAN141年に日算(AN77-AN141-?)が書写した写本を、重須僧日誉が日郷系の宮崎県の寺院でAN240年に書写したものが挙げられている。引用の初出は不明である。 本書が重須学頭日澄の作であるとするのは、日澄の弟子で重須学頭を継いだ三位日順の『日順阿闍梨血脈』に、日澄が日興の命により「数帖自宗所依の肝要を抽んず」(『富要』2-23『宗全』2-336)とあり、しかも日澄は五一の相対について「深く此の意を得るも筆墨に能えずして空しく去りぬ、」(『富要』2-23『宗全』2-337)とあり、日澄の書が未完であったことが述べられていることによる。 『富士一跡門徒存知事』は本文と追加との部分に分かれ、本文は日澄の作であり、追加の部分は日興の作であるというのが、日蓮正宗の主張である(堀米日淳 p.1136)。執行は「比較的日興の思想を伝えるものと思われる」(執行1 p.100)として、著者の問題はあるにせよ、使用可能な資料と判断している。私も第二段階の資料としては使用可能であると判断している。

 

 (b)『五人所破抄』

 『五人所破抄』(『富要』2-1『宗全』2-78)については、写本は日興の甥の西山日代の写本が残っている。日代本の末尾に「嘉暦三戊辰年七月草案 日順」が他筆で書かれていることが『宗全』で述べられている(『宗全』2-87)。『富要』ではこの加筆部分が三位日順の筆であると述べられている(『富要』2-8) そして日順の『日順阿闍梨血脈』において、「汝先師の蹤跡を追ふて将に五一の相違を注せよと云云、忝くも厳訓を受けてに紙上に勒し粗ぼ高覧に及ぶ、」(『富要』2-24『宗全』2-337)とあり、日興の命によって五一の相対に関する著書を書き、日興に読んでもらって内容を印可されたとあることから、この著書が『五人所破抄』であると日蓮正宗は主張している。 宮崎英修は作者を日代としているが、執行は「日順の草案を日代が清書したものではないかと思う」(執行1 p.100)と述べて、日興の教学思想を解明するために使用可能であると判断しているが、私も同意見である。

 

 (5)日興の消息類

 『興全』には正編に89編、続編に5編の手紙を収録している。この中で特に重要なのは、日興の身延登住の事情を記した『美作房御返事』、身延離山の事情を記した『原殿御返事』『与波木井実長書』、師弟関係を強調した『報佐渡国講衆書』である。

 

 (a)『美作房御返事』

 『美作房御返事』(『宗全』2-145)については、『宗全』によれば正本はなく、AN279年の要法寺日辰の『祖師伝』に出典を明示せずに、全文引用されている。引用の初出も不明である。日蓮滅後の身延の状況を記述した唯一の資料であるが、古い写本なども無いのが気にかかることである。しかしこの書簡を疑問視する研究者はいないのであり、第二段階の資料として使用するには問題はないと思われる。

 

 (b)『原殿御返事』

 『原殿御返事』(『宗全』2-170)については、『宗全』によれば正本はなく、要法寺日辰の『祖師伝』に出典を明示せずに、全文引用されている。ただし引用に関しては、身延11世行学日朝(AN141-AN219)の『立像等事』に抄録があり(『本尊論資料』 p.113)、また中山久成日親(AN126-AN207)AN189年の『伝燈抄』に長文の引用がある(『宗全』18-22)。この資料についても疑義が提出されていないので、第二段階の資料として使用可能である。

 

 (c)『与波木井実長書』

 『与波木井実長書』(『宗全』2-169)については、『宗全』によれば、正本が大石寺にあるということであるが( 2-170)、堀日亨の『身延離山史』では正本の存在を否定している(『身延離山史』p.143)。『本尊論資料』には身延日朝の『立像等事』に全文引用がある(『本尊論資料』p.114)

 堀日亨は『身延離山史』の中で、「偽文書にはあらざるが、但しこの状の骨子奈辺にあるや、愚推に能わず、必ず首尾の文または引文の中間にも断章ありしものと思わるる、それらが整束して始めて本状の意義が判明するであろう」(『身延離山史』p.144)と述べて、日興のものであっても、不完全な文書であるから、使用には注意すべきであるとしている。

 現在の日蓮正宗の立場では、高橋粛道の『日興聖人御述作拝考1』によれば、真偽未決とされている(高橋 p.52)。私は堀日亨の考察を妥当と考えているので、第二段階の資料としては使用可能であると思われる。

 

 

 (d)『報佐渡国講衆書』

 『報佐渡国講衆書』(『宗全』2-177)については日興正本があり、『興全』には日興正筆の写真版が掲載されている。日蓮から続く本弟子六人の師弟の関係を重視し、それを成仏の条件としているようにも解釈でき、また六人以外の日蓮の弟子たちが日蓮の直弟子であることを名乗ること謗法として非難している。この日興の師弟関係の重視は、後述の日興の『本尊分与帳』との内容的関連を示している。「追記 小林正博の「大石寺蔵日興写本の研究」(『東洋哲学研究所紀要』第24号、2008)によれば、『興全』の写真版の筆跡鑑定により、ひらかなのいくつかの字体(変体かな)の使用が他の日興の標準的な字体(変体かな)の使用とは大きく相違していることを指摘し、この文献が日興のものであることを否定している(前掲論文 p. 20-21)。私には小林の議論は説得力があるように思われるのだが、学究諸氏の検討をお願いしたい。疑義が示された以上この文献を第一段階の資料として使用することはできない。」(2009/2/26)

 

 

 (6)要文、記録類、申状その他

 この部類には要文類として、『詳伝』によれば、『開目抄要文』、『内外見聞双紙』、『内外要文』『法門要文』などがある。 記録類として(以下の表記は『興全』により、( )内で『宗全』の表記を記す)、『宗祖御遷化記録』『墓所可守番帳事』(『身延墓番帳』)『御遺物配分事』『弟子分本尊目録』 (『本尊分与帳』)がある。 申状類として、『実相寺衆徒愁状』『実相寺住僧等申状』『滝泉寺申状』『四十九院申状』『申状』(正応二年、嘉暦二年、元徳二年)がある。 その他として、『遺誡置文二十六箇条』(『日興遺誡置文』)『定大石寺番帳事』『日興跡条々事』(『日興跡條條事』)『日興置状(日代八通遺状)(『日代譲状並置状八通』)『日興付属状』(『日代等付属状』)『日興覚書』(『与日代書)『与日目日華書』『与日妙書』『佐渡国法華衆等本尊聖教等事』『定補師弟並別当職事』『日盛本尊相伝証文』(『与了性房日乗書』)『日興置文』『日興譲状』『本門寺棟札』などがある。

 

 (a)要文類

 『開目抄要文』『内外見聞双紙』『内外要文』『法門要文』」などは、『詳伝』によれば日興の正筆が存在している。しかし日興独自の思想を述べたものではないので、公開の必要はないとしている(『詳伝』p.411)。『興全』はこれらの一部も収録しており、写真版で『諸宗要文』『内外見聞双紙』『法門要文』『玄義集要文』が収録されている。

 

 (b)記録類

 『興全』に写真版で収録されている『宗祖御遷化記録』(『興全』p111『宗全』2-101)『墓所可守番帳事』(『興全』p.117『宗全』2-106)は一連の文書であり、継ぎ目に四人の本弟子の加判がある。『宗祖御遷化記録』の最後の部分に「御所持仏教事」があり、釈迦立像と注法華経の扱いについての遺言が書かれている。なお『墓所可守番帳事』と同種の池上本門寺蔵『久遠寺輪番帳』があるが、『興全』は「筆致・花押ともに日興上人筆とは認めがたい」(『興全』p.117)としている。私もこの判断に従う。 『御遺物配分事』(『興全』p119『宗全』2-107)は、後半部分については日興正本が池上本門寺にあり、前半部分は日蓮の弟子日位写本がある。しかし『興全』は「後半の御筆は花押といい書風といい、日興上人のものとは認めがたい。内容的にも疑問があり、全体的に問題が多い」(『興全』p.119)としている。私もこの判断に従う。 『弟子分本尊目録』(『本尊分与帳』)(『興全』p.121『宗全』2-112)は『興全』に写真版が掲載されている。

 

 (c)申状類

 『実相寺衆徒愁状』(『興全』p.93)『実相寺住僧等申状』(『興全』p.109)は『興全』に写真版が掲載されている。 『滝泉寺申状』(『創』p.849『定』p.1677)は『詳伝』によれば、前半部分は日蓮の真蹟であり、後半部分は日興の正筆である(『詳伝』p.75)。なお興風談所の菅原関道は、字体の比較研究により、後半の部分は日興ではなく、富木常忍であるという見解を発表したが、比較された字体に関しては、その見解に説得力があると思われる(興風談所御書システムのHPの平成17年2月コラム「『滝泉寺申状』の異筆は誰か」) 『四十九院申状』(『興全』p.315『宗全』2-93)には日精写本がある。『原殿御返事』にこの申状についての言及がある(『興全』p.358『宗全』2-175)。したがって第二段階の資料としては使用可能である。 『申状』(『興全』p.318『宗全』2-93)については、正応二年、嘉暦二年、元徳二年のものが、3通挙げられているが、いずれも上代の古写本はない。うち正応、元徳の2通は幕府への申状で、嘉暦の1通は朝廷への申状である。いずれも伝教大師弘通の天台宗を迹門とし、日蓮弘通の本門とを区別している。なお『五人所破抄』には上で挙げた嘉暦年間の朝廷への申状が引用されている(『富要』2-2『宗全』2-80)。また『門徒存知事』には2つの幕府への申状に共通する文言がほぼ引用されている(『富要』1-51『宗全』2-119)。また日道の『御伝土代』には元徳年間の申状が引用されている(『富要』5-9『宗全』2-251)。したがって第二段階の資料としては使用可能である。

 

 (d)その他

 

 (d-1)『遺誡置文二十六箇条』(『日興遺誡置文』)

 『遺誡置文二十六箇条』(『興全』p.282『宗全』2-131)については、『宗全』によればAN255年保田妙本寺日我写本がある(『宗全』2-133)。『詳伝』でも古写本が存在しない理由を訝っている(『詳伝』p.433) またAN52年の日道の『御伝土代』の日興伝には『遺誡置文二十六箇条』については全く言及されていない。AN51年の「日興御遺告」に関しては詳しい記述があるのに(『富要』5-9『宗全』2-251)、翌年亡くなる前に定めたとされる『遺誡置文二十六箇条』に言及していないのは不思議である。また古い引用に関しても知られていない。内容的に問題があるとは思えないが、文献考証を基礎とした議論をする場合には、使用を差し控えるしかないだろう。「追記 東佑介は『日興門流文書とその真偽論』において、『遺誡置文二十六箇条』の記述内容を検討し、この資料の中で御書の真偽問題について言及しているが、日興在世中には、日興門流所蔵の御書に関して他門流から真偽論を提起された形跡はないこと、また本迹一致を説く偽書の存在について言及しているが、それは『法華本門宗要抄』を指す可能性が強いこと、神社参詣を厳禁することが、大石寺日有の『化儀抄』とは異なること、年号使用の異常なこと、日道『御伝土代』の「日興上人御遺告」との整合性などの理由により、日興撰述であることを否定している。( 2007-2, p. 2-8)その上で日興門流諸派の中で偽作した可能性が高いのは重須であるとし、日有が『化儀抄』を講義した時期には、重須も神社不参を主張したと推定できることを根拠に、偽作の時期を『化儀抄』成立の時期から日我写本成立の間としている(同、p. 21-22)。この議論は大石寺が主張する日時写本の存在を否定した上で成立する議論であるが、大石寺が日時写本を公開していないので、私にも判断しかねる。」(2009/3/22)

 

 (d-2)『定大石寺番帳事』

 『定大石寺番帳事』(『興全』p.339『宗全』2-129)については『宗全』によればAN279年要法寺日辰の写本がある(『宗全』2-130)。しかし内容的には『弟子分本尊目録』(『本尊分与帳』)で弘安年間に日興に離反したと記述されている越後阿闍梨日弁を当番にしているなど不審な点がある。 堀日亨の『詳伝』では参考史料の扱いであり、日弁の問題ともども要検討としている(『詳伝』p.363)。同年の日郷正筆の『日興上人御遷化次第』には越後公日弁は挙げられていない(『宗全』2-270)。『興全』も堀日亨の見解を引用して、内容を疑問視している(『興全』p.339)。資料としては使用不可と考えられる。

 

 (d-3)『日興跡条々事』(『日興跡條條事』)

 『日興跡条々事』(『興全』p.130『宗全』2-134)については、『興全』には写真版が掲載され、「本状には置状・譲状としては年号のないことや全体の筆使いから、日興上人筆には疑義が提出されている」(『興全』p.130)という注が付けられている。 『宗全』の堀日亨の注に「おおよそ四字は後人故意にこれを欠損す。授与以下に他筆をもって「相伝之可奉懸本門寺」の九字を加う」(『宗全』2-134)とあることから、いろいろの文献的問題が生じていた。 しかし堀米日淳は堀日亨の他筆という見解を否定して、日興自身の加筆であるとした(堀米p.1462)。高橋粛道によれば、『日興跡条々事』には、走り書きの案文と清書の本文の二つがあるが(高橋p.413)、いずれも公開されていないので、高橋も後述する山口範道も原資料を直接見ていないが、堀日亨の本文と案文との二通の模写本が存在しており、その模写本を山口範道が古文書鑑定したことが述べられている(高橋p.412) 問題は本文と案文にそれぞれ、どのような文章が書かれているのか、その案文、本文ともに日興筆であると判定できる根拠があるのかということである。 『興全』の写真版は『宗全』に掲載された資料ではなく、堀日亨によって欠損、加筆されたとする資料が掲載されている。東佑介の考察によれば、堀が『宗全』に掲載したのは案文であり(p.57)、案文には「御下文」が書かれていたが、本文は写真版にあるように四文字分が空欄になっている。また案文にはなかった「可奉懸本門寺」が本文に加わった(p.58) 東佑介は日興正本が大石寺にありながら、日付だけに限っても3種類の異本が存在することから、日興正本の存在を疑っている(p.65)。さらに東は写真版の花押を他の日興の花押と比較して、日興筆を疑っている(p.66)。また東は、山口範道が『日蓮正宗史の基礎的研究』の中で、『日興跡条々事』の署名・花押として挙げているもの(山口p.223)は、写真版(『興全』p.492)とは異なり、花押部分だけ見れば『日興跡条々事』の写本(山口p.217)と酷似していることを指摘している(p.67)。この写本は高橋粛道が述べている堀日亨の臨写本と思われる(高橋p.412)。日蓮正宗内で古文書鑑定に関して最も優れているとされる山口範道でも原資料を鑑定できないという状況が存在していることに私は問題があると考えている。 さて私の見る限りでは、『興全』の『日興跡条々事』の写真版は墨痕がかすれて見える箇所がかなり見られ、山口範道が『日興跡条々事』の署名・花押として挙げているもの(山口p.223)は確かに写真版とは異なって見える。しかし写真版の基となった正本にかすれて見える部分が確かに書かれているならば、日興の花押でないとは言えないと思う。正本の開示が問題を決着させるしかないだろう。 これとは別に写真版の欠損部分が墨で消されているのではなく、空欄になっていることに私は不思議さを感じている。案文を基にして、正本を書くときになぜわざわざ空欄を作らなければならないのか、私にはわからない。大石寺が資料の公開を拒否している限りは、与えられた写真版で判断するしかないが、『興全』の注に従って、日興の資料としては使用を差し控えるのが妥当であると思われる。

 

 (d-4)『佐渡国法華衆等本尊聖教之事』『定補師弟並別当職事』

 『佐渡国法華衆等本尊聖教之事』(『興全』132『宗全』2-142)と『定補師弟並別当職事』(『興全』133『宗全』2-142)の2通の日満への譲状については、『宗全』によれば佐渡妙宣寺に正本があるとのことであり(『宗全』2-143)、『富要』でも「此の二通の日満への置状は開山上人譲り状中の整美なるものなり、文態、事項、筆格無双なり」(『富要』8-145)と高く評価している。 しかしこの二つの日満譲状については『興全』には写真版が掲載されているが、年号使用の問題を指摘して、「本状を上人のものと断定することは躊躇される」(『興全』p.132)としている。筆跡などで日興筆と判断できればそれで十分だと私は考えていたが、写真版ではその判断ができないのであろうか。疑義がある以上、日興の資料としては差し控えるしかない。「追記 東佑介は『日興門流文書とその真偽論』の中で、『定補師弟並別当職事』の署名の「興」の筆跡鑑定を根拠に、日興筆であることを否定している( 2007-2, p. 12-13)。この鑑定に対して他の研究者がどう判断するのか、注目したい。」(2009/3/22)

 

 (d-5)『日盛本尊相伝証文』(『与了性房日乗書』)

 『日盛本尊相伝証文』(『興全』p.135『宗全』2-141)については、『宗全』では古写本によるとしか書いていない。『興全』では正編に収録されており、正本大石寺蔵とあるが、写真版はない。『詳伝』には日興正本が大石寺にあるとしている(『詳伝』p.496) ただし本文に「六人判形可有之」とあるが、その六人を本六の弟子と考えると、AN51年の『日盛本尊相伝証文』より前に(『富士年表』AN48)本六の一人日秀は亡くなっている。その点で疑問は生ずるが、堀日亨が正本の存在を明言しているから、信用してもよいのではないかと思われる。大黒は前記論文においてこの資料に関しては日興御筆写真がないため、校訂に関して諸問題が生じたことを述べている(大黒p.308)

 

 (d-6)『日興置状(日代八通遺状)(『日代譲状並置状八通』) 『日興付属状』(『日代等付属状』)『日興覚書』(『与日代書』)『与日目日華書』『与日妙書』『日興譲状』

 『日興置状(日代八通遺状)(『興全』p.325 宗全』2-135)は『宗全』によれば西山本門寺に正本の臨写本があるということであるが(『宗全』2-139)、『詳伝』によれば、西山本門寺にはなかったということであり、偽作と推定している(『詳伝』p.361)。『興全』も資料的価値を疑い、続編に収録している(『興全』p.325) 『日興付属状』(『興全』p.334『宗全』2-139)については、『宗全』によれば、単に古写本によるとのことであるが(『宗全』2-141)、『富要』によれば、後世の偽託であるとしている(『富要』8-143)。『興全』も同様の判断をしている(『興全』p.334)  『日興覚書』(『興全』p.335『宗全』2-140) 『与日目日華書』(『興全』p.336『宗全』2-143) 『与日妙書』(『興全』p.337『宗全』2-141) 『日興譲状』(『興全』p.338)の諸譲状についても、前述の『日興付属状』と同様に判断されている。

 

 (d-7)『本門寺棟札』

 『本門寺棟札』(『興全』p.137『宗全』2-111)については、『宗全』によれば正本が重須北山本門寺にある(『宗全』2-111)。『富要』にも『三堂棟札』として日興直筆と判断されている(『富要』8-142)。『興全』では「日興上人の常の書体とは異なるように判断される」(『興全』p.137)としている。この資料も使用を控えることが無難であろう。

 

 略記一覧 姓のみを記した略記は下記の文献一覧を参照のこと 『興全』 日興上人全集編纂委員会編 『日興上人全集』 『宗全』 立正大学日蓮教学研究所編 『日蓮宗宗学全書』 巻数と頁数のみを付けた 『詳伝』 堀日亨 『富士日興上人詳伝』 『創』  創価学会版『日蓮大聖人御書全集』 『定』  立正大学宗学研究所編『昭和定本日蓮聖人遺文』 『富士年表』 富士年表増補改訂出版委員会編『日蓮正宗富士年表』 『富要』 堀日亨編 『富士宗学要集』 巻数と頁数のみを付けた 『本尊論資料』 身延山短期大学出版部編『本尊論資料』改訂版

 

 

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漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する(1)

 

1 はじめに

 

私は日蓮の著作の中で、本尊について、法本尊と仏本尊との区別を示し、両者の関係を述べた唯一の資料である、『本尊問答抄』の記述を根拠にして、法本尊=曼荼羅本尊正意説を主張しているが、その議論の過程で、久遠実成仏を仏本尊とする日蓮宗各派も、久遠元初仏=日蓮御影を仏本尊とする日蓮正宗も、仏本尊を定立するという点では、法本尊正意説から逸脱しているという批判を展開した。私の議論に対して、日蓮宗の方からも、日蓮正宗の方からも、いろいろ批判が寄せられており、それに対して私なりの返答をしなければ、とは思っていたのだが、腰痛のため、長時間机に向かっていることができず、また長時間集中して文章を作成する習慣が身についているので、時間を区切って仕事をすると集中できないため困っていたが、最近バランスチェアを使用することにより、3時間くらいは集中して仕事ができるようになり、ようやく宿題に着手することができそうである。 さまざまな批判の中で、創価学会の関係者の方からは、日蓮御影が仏本尊であるという御影本尊論が日蓮正宗の教義であるということに関して、私の誤解ではないかという指摘をいただいた。創価学会員はそれほど日蓮正宗の教義に興味があるわけではないから、『富士宗学要集』を読むことも殆どないし(購入している人はそれなりにいると思われるが)、私が監修した第三文明社発行の『牧口常三郎 獄中の闘い――訊問調書と獄中書簡を読む』の中で、堀日亨の『日蓮正宗綱要』を使用しながら、牧口が日蓮正宗の本尊について、法本尊=曼荼羅を説明した後で、人本尊(=仏本尊)として「末法には人格者としての日蓮大聖人を信じ奉って木像にも絵像にも作って、なお生きておられる如く敬い奉るのであります。」(同書 p. 113)と述べていることを明示し、牧口が入信時期には、法本尊=曼荼羅本尊正意説であったのが、ある時期から日蓮正宗の伝統教義を受け入れ、日蓮御影を仏本尊とする考えに変わったことを暗示したが、それに気づいた読者がどれくらいいるかは心もとないようだ。目白の牧口宅には日蓮御影がある時期から安置され、その御影が八王子の牧口記念会館の記念室に開館初期には安置してあったのだが、現在はどのようになっているかは不明である。また正本堂にも日蓮御影が安置してしたのだが、そのことにどれだけの創価学会員が気づいていたのだろうか。 このように多くの創価学会員が御影本尊論に無知であることについて、私の議論を批判した高橋粛道は『御影本尊論』の中で、「宮田氏は宗祖御影について『なぜ創価学会は日蓮御影本尊論を全く無視することになったのか』(130)と得意気に言うが、狡猾が入り混じっている。事実は御影本仏を知らなかったからではないか。恐らく日淳上人から教えられなかったのではなかろうか。和泉覚が総本山の御堂に入堂した際、『あの人形はなんだ』と言ったという有名な話があるが、これは『無視』でなく『無知』であったことを如実に示すものであろう。」(p. 12)と述べている。私も多くの創価学会員が御影本尊論に関して無知であることは否定しないが、上述したように牧口常三郎は御影本尊論を受け入れていたし、戸田城聖も御影本尊論については知っていたと思われる証言を得ている。戸田家に御影本尊があったかどうかについては知る由もないが、私が東洋哲学研究所の学術大会で牧口常三郎について発表し、御影本尊論に言及したとき、出席していた篠原誠に、戸田城聖が御影本尊について何か言ってなかったかと質問したことがあった。すると彼は、池袋の寺院で戸田が住職も同席して青年部の幹部と懇談していた折、戸田が「創価学会の本尊には本当に功徳がある。」という話を強調していたので、創価学会の本尊も日蓮正宗の本尊も同じなのに不思議なことを言うなと思って、篠原がどういう意味かと尋ねたところ、住職に向かって、戸田は「お前のところの本尊はよく見えないじゃないか」と日蓮御影の陰になって、曼荼羅本尊が見えないことを指摘し、後に寺院から日蓮御影が撤去されたというエピソードを紹介してくれた(小野不一によれば、寺院は常在寺で、住職は後の管長となる細井日達だそうだ。)(2011/9/16付加)。このエピソードは、戸田城聖が日蓮御影を本尊とすることに対して無知だったわけではなく、否定的見解を持っていたことを示していると私は考えている。

戸田が日蓮御影について否定的見解を持った理由については、高橋粛道が同書で「曼荼羅を法本尊、御影を人本尊とする人法一箇論は、人法が一幅の曼荼羅に存在するという教学が浸透するにつれ、末寺や塔中では曼荼羅一幅の奉安様式に一律化していったようで御影本尊論は忘れかけられていった如くである。しかし論議されないから御影本尊論はなかったとか、不要とかいうことではなく、折伏の妨げになることや、本尊の全体が拝せないなどの理由で御堂式は用いられていない。」(同)と述べているように、布教上の理由が大きいと思われる。私が仄聞した話では、初期においては、創価学会員も法華講員と同様に、ある程度信行が進めば(もっとも法華講員の場合は、それなりに所属寺院と本山に寄付することが必要であったらしいが、創価学会員の場合についてはわからない)、常住本尊が下付され、その折に、常住本尊を板曼荼羅にし、それと同時に日蓮御影を購入し安置するという日蓮正宗の儀礼を採用した創価学会員もいたということであるが(私は板曼荼羅が安置されている創価学会員については見聞したことがあるが、御影本尊を安置している創価学会員については知らない)、真偽のほどは御影本尊を作成していたという赤澤朝陽あたりに確かめるしかないのだが、関係者がまだ存命しているかどうかもわからない。その後布教活動が進みすぎて、急激に会員数が膨張すると、下付すべき常住本尊(曼荼羅に授与者の名前が書き込まれることによって即身成仏が決定するという教義的意義づけもあったのだが)の作成が困難になり、元来は常住本尊が下付されるまでの一時的な仮本尊とされていた形木印刷の曼荼羅も常住本尊と同じ宗教的功徳があるというように教義変更されて、創価学会員に対する常住本尊の下付は停止されたとのことである。曼荼羅を幸福製造機と言って憚らなかった戸田城聖が、布教対象の貧しい人々に、信徒格差の象徴である常住本尊と御影本尊の重要性を強調することはありえないだろうと私は思うし、創価学会にとっては、御影本尊論は布教の邪魔になる教義でしかなかった(『戸田城聖全集』第2巻「質問会編」には「奉安殿の大御本尊様、ここの客殿の御本尊様、私どものいただいている常住御本尊様、あなた方が拝んでいる御形木御本尊様、それぞれ違うのです。違うのですが、こちらの信心の仕方で少しも違わない結果を出せるのです。すべてそれは信力の問題です。」p. 29とあり、堀日亨が『有師化儀抄註解』において主張した、常住本尊=真本尊、形木本尊=仮本尊という議論とは全く異なる)(2011/9/16付加)(他方、戸田は「このたび、御法主猊下にお願い申し上げて、一千幅の常住御本尊様を下付くださるようお願いしました。」と述べて(『戸田城聖全集』第4巻「講演会編」p. 422) 、宗教的意義を曖昧にしたままで、学会活動に功績があった者に常住本尊を下付することを決定したが、日蓮正宗の伝統的な常住本尊解釈に明確に反論せずに、本尊の格差を是認する戸田の態度は、宗教的権威を日蓮正宗に頼らざるを得ない宗教運動指導者としての限界を示している。)(2011/9/27付加)    しかし高橋粛道が述べているように御影本尊論は伝統的な日蓮正宗の教義として存在していたのであり、そのことを否定することはできない。

さて私の議論に対しては、日蓮宗の僧侶である村田征昭(ハンドルネーム川蝉)がそのHP法明教会に批判論文を掲載しており、また『法華仏教研究』第5号(20107月)に「『本尊問答抄』をめぐって」という論考を発表しているので、それを参照していただきたいが、それに対する私の回答は準備の都合上、しばらく延期させていただきたい。日蓮正宗からは、『富士学報』第39号(2007年)に「(課題論文)創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ。」という論文名で、「堀部正円」「漆畑正善」の2名の論文が掲載されており、また上述の高橋粛道の『御影本尊論――宮田幸一説を批判する』(2008年妙道寺事務所発行)が公表されている。『富士学報』は日蓮正宗の僧侶の教学研修機関である富士学林研究科が年1回発行する論文集であるが、非売品でもあり、発行機関に問い合わせても頒布してもらえず、大学などの研究機関の紀要とは国会図書館での扱いが異なるため、ネットで検索しても電子ファイルを入手できず、どうしても読みたければ国会図書館に直接出向くしかないという論文集である。私が以前に所属していた東洋哲学研究所には、第2次宗門問題以前には学術交流の一環である交換雑誌として『富士学報』が毎号送られてきており、私もそれを読んで日蓮正宗の研究をしていたが、第2次宗門問題以降は交換雑誌も途絶え、聖教新聞社の資料室にも最近のものはないので、古書店から出品があればその都度購入しているという状況であり、私もそれらの批判論文の存在は知っていても、直接見ることができなかったので放置してきた。今回ようやくそれらを入手することができたので、ある程度学術論文の形をとっている漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討したい。学術的な専門学会の論文発表では当然「破折」に対しては「反論」をするのだが、彼の論文はそういう性質の論文でもないし、それらの議論の説得性を判断する専門学会という議論の場もないので、ここでは議論の説得性の判定は読者に一任するとして、できるだけ漆畑論文を詳細に紹介し、その議論のどういう論点に私が疑問を持っているかを提示するだけにしよう。 なお高橋論文については「日寛上人は諸法実相抄の文から妙法蓮華経を本仏とされ、本尊問答抄は御影本尊を説顕する御書として用いられていて、それを当家では文底読みと称している。文底読みは当宗独自のもので創価学会などから批判を受ける筋合いのものではない」(前掲書、p. 11)と述べているように、「文底読み」という学術的な専門学会では認められない独自の解釈方法を採用しているので、私も反論のしようがないところがあるので今回は割愛させていただく。

 

 

 

1 はじめに

 今夏、2ヵ月半ハーバード大学ライシャワー日本研究所の客員研究員として在外研究をしてきたが、8月中旬にプリンストン大学でストーン教授(以下敬称略)に会って、上記の著書の内容に関する、いくつかの疑問について答えていただくことができた。この著作は中世日本仏教に関する多くの先行業績を集大成した1999年に出版されたストーンの労作であるが、英語文献で、しかも専門性が高いため、一般の読者にはほとんどその内容が知られていないので、ここでその内容を概説し、あわせてその意義について検討してみたい。 この著作は全体として三部構成になっており、第1部「諸見解と諸問題」で、第1章「『本覚思想』とは何か」で、本覚思想をめぐる諸学説を検討し、第2章「天台本覚思想と鎌倉新仏教:競合する諸理論」で、天台本覚思想と鎌倉新仏教との関係についての従来の定説を検討している。第2部「中世天台世界」では、第3章「秘伝の文化」で天台本覚思想を生み出した文化的社会的背景が示され、第4章「解釈学、教義、『観心』」で、天台本覚思想の特色が考察され、第5章「天台本覚思想と鎌倉新仏教:再評価」で両者の関係に関して従来の見解とは異なる相互交流的見方を提示している。第3部「日蓮とその後継者たち」では、第6章「日蓮と新しいパラダイム」で日蓮と天台本覚思想との関係について考察し、第7章「法華天台交流と日蓮本覚論の出現」で日蓮滅後の日蓮法華宗と天台法華宗(特に関東天台)との関係から、日蓮法華宗内部での本覚思想文献の形成が考察されている。私の個人的関心は第3部にあるが、この議論自体がそれ以前の議論を前提としているので、必要な範囲で第1部、第2部の内容を概説しておこう。

2 第1部の概要

 第1章では、本覚思想のルーツとして、中国撰述とされる『大乗起信論』や華厳、天台の中国仏教と、平安初期から中期にかけての日本仏教、特に日本天台の思想的展開を考察している。私が興味を持った後者について少し述べたい。ストーンは最澄、円仁、円珍、安然は「本覚」という用語を稀にしか使用しなかったが、平安後期から展開される中世本覚思想を、4つの点で準備したことを論じる。 第1点は法華経の密教化である。最澄は密教を法華経に含む意味で円密一致を主張したが、円仁、安然は密教優位の立場で円密一致を主張し、この傾向は法華経、天台教学を密教的観点から解釈する傾向を生み出した。 第2点は仏の再定義である。法華経寿量品に説かれる久遠本仏は、文字通りに解釈するならば、菩薩行の後で成仏したから、始まりを持ち、また長遠であっても寿命が尽きれば涅槃に入る仏である。しかしこの久遠本仏は無始の法身仏である毘盧遮那仏(大日如来)と同一視され、久遠本仏は無始無終とされた。また法身仏はすべての現象に内在するから、凡夫も本質的には仏でありうる。それゆえ存在論的には、悟りを得た者と悟りを得ていない者との間には、なんらの区別もありえない。安然の時代に、もしくは安然自身によって編纂されたと考えられている偽経の『蓮華三昧経』の最初の部分である「本覚讃」はこの思想を述べており、この「本覚讃」は天台本覚文献によく引用された。 第3点は現象世界の肯定(valorization)である。中国天台思想では現象(事)の観察から真理(理)の普遍性を探究したが、事と理の二分法は密教と結合すると、新しい意味を持つようになった。空海は現象世界が法身説法の現れであり、三密の修行により自身に法身を顕現できることを主張した。このことにより密教的修行の観点から、理は法身、すなわち己心に内在する無時間的な原型(paradigm)という意味を帯び、事は実際の修行の中でのその身体的時間的に模倣するあるいは表現することという意味を帯びた。また理は、修行においては、心により視覚化、観想化された仏であり、他方、事は仏壇に安置された仏像という意味をも持つようになった。またここから法華経は意密を説く理密にすぎないが、大日経は印と真言も備えた事密であるという台密における区分が生じた。密教修行における印と真言という現象世界の出来事は法身の聖なる行為と言葉として価値的是認を持つようになった。法華経方便品の「是法住法位・世間相常住」は現象世界が聖なる世界であることの文献的根拠として、後の天台本覚思想の中で多用された。 第4点は修行の短縮化、易行化である。奈良仏教は成仏のための歴劫修行を主張していたが、空海は、現在では偽作とされる『菩提心論』を根拠に『即身成仏義』を著し、哲学的には法身と修行者とに共通する六大の普遍性を根拠にして、即身成仏を主張した。ほぼ同時期に最澄は、密教を根拠にするのではなく、法華経提婆達多品の竜女の即身成仏をあげて、法華経の功力を根拠にして、即身成仏を主張した。後に即身成仏を一生成仏とみなし、凡夫にも到達可能であるとする傾向が生じた。中世天台文献には一念成仏という思想さえ見られるようになった。 第2章では天台本覚思想と鎌倉仏教との関係について3つの見解を紹介し、それらに共通の天台本覚思想に対する想定を考察し、その想定に対してストーンは疑問を呈する。第1の見解は島地大等に代表される、天台本覚思想を鎌倉仏教の母体とみなす見解である。第2の見解は、鎌倉新仏教は天台本覚思想を否定することによって新しい宗教運動を展開したという見解である。第3の見解は田村芳朗に代表される、後期の鎌倉新仏教は天台本覚思想と法然の念仏選択思想からから弁証法的に(=複雑な思想的対決により)出現したという見解である。 ストーンはこれらの見解は、天台本覚思想に対して共通した4つの想定を持っているとする。第1に、本覚思想は仏道修行の必要性を否定したという想定である。第2に、本覚思想は知的な抽象性に関心を持っていたという想定である。第3に、本覚思想は絶対的、無批判的な現世肯定であるという想定である。第4に、本覚思想は僧侶の堕落の主要な原因でもあり、またその現われでもあるという想定である。ストーンはこれらの想定が正しいならば、どうして中世から近世にかけてほぼ600年にわたって本覚思想が繁栄したのか、説明が困難であることを指摘し、これらの想定が正しいのかどうか、資料的な吟味を加える必要を主張する。

3 第2部の概要

 第2部の「中世天台の世界」の第3章「秘伝の文化」では、平安末期から鎌倉時代にかけての政治的、社会的、経済的背景と秘伝の文化との関係が論じられている。本覚思想は恵心、檀那諸流によって秘伝という形で発展、伝播していったが、その原型は平安中期の東密、台密における密教儀礼の分派、秘伝化に求められる。平安仏教界に摂関家や皇族出身者が門跡として流入すると、その門跡の継承パターンは世俗の家督の継承パターンと同様なものになり、公地公民から私的荘園制への大きな流れの中で、寺院資産、儀礼、教義の私物化、家業化が進行した。天台本覚思想もこのような私物化を基礎とする秘伝の文化の流れの中で発展していったが、このことは必ずしも黒田俊雄の顕密体制論における、本覚思想は顕密体制のイデオロギー的現れであるという主張を正当化するわけではない。本覚思想は鎌倉時代には、京都から関東へと伝播したが、都天台が修法、儀礼と一体化していたのに対して、関東天台では論議、教義的な研究が中心であった。都天台は顕密体制の本流に関係していたが、関東天台は、顕密体制とはある程度まで距離を置いた独自の展開を示している。中古天台は平安初期の上古天台とは内容的にかなり違った発展を示すので、「旧仏教」と言うより、むしろ鎌倉新仏教と並ぶ、新仏教の一つの形態としてかんがえるべきであるとストーンは主張する。 第4章「解釈学、教義、『観心』」では、天台本覚思想で強調される観心主義的解釈は「観心」という瞑想的宗教体験、修行に基づく教義の新しい解釈方法でありうるが、それが「四重興廃」の教義により絶対的権威を与えられると、『三重七箇大事』に見られるように、その視点から従来の天台教学を再組織化するという方向へ発展していった。したがって天台本覚思想を天台教学の衰退と見ることは、誤りであるとストーンは主張する。 第5章「天台本覚思想と鎌倉新仏教:再評価」では、『真如観』『三十四箇の事書』を資料に、天台本覚思想と鎌倉新仏教との共通のパラダイムを持つことを強調する。第1には、成仏を長い修行の後の目標とする段階的思想を否定し、悟りが一瞬において生じうるという非段階的思想(nonlinearity)を持つこと、第2に成仏は多様な修行に基づくのではなく、唯一の修行方法または心構えによってのみ獲得できるという唯一条件的思想(single condition)を持つこと、第3にその修行方法や心構えは成仏に至る多くの段階の初歩的行為ではなく、すべての悟り、功徳を含む包括性(all-inclusiveness)を持つという思想を持つ。第4にこの唯一の修行は、あらゆる衆生の成仏の可能性を保証するから、いかなる悪業も成仏の障害とはならないという悪人成仏、悪人往生の思想を共通に持つ。これらの共通な新思想は、鎌倉仏教に大きな影響を及ぼし、中世仏教の主流となっていった。それゆえ天台本覚思想を、鎌倉新仏教の母体と考えたり(matrix theory)、鎌倉新仏教の否定対象と考えたり(radical break theory)、天台本覚思想と法然の念仏選択思想から後期鎌倉新仏教の出現を主張し(dialectical emergence theory)、天台本覚思想を、修行を無視した観念的な堕落した思想運動と考えることは、歴史的にも、思想的にも成立せず、むしろ両者を共通のパラダイムを持つ、二つの新しい仏教運動と見なす相互交渉的立場(interactive theory)で考える必要があることをストーンは強調する。

4 第3部の概要

 私にとって最も関心のある第3部において、まずストーンは第6章「日蓮と新しいパラダイム」で、日蓮と天台本覚思想はともに中世の新しい成仏概念、非段階的成仏概念のパラダイムから出発し、異なった社会的、制度的脈絡の中で、異なった思想的主張をしたという、彼女の相互交渉的立場を述べる。ストーンは日蓮には二つの救済論的方法 (soteric modalities) があることを指摘する。日蓮の外面的な救済方法においては、末法という時代において法華経流布のために自分の命をかけて、他者の宗教的誤りを厳しく正す折伏を行い、それが引き起こす迫害に耐えることにより、過去世に犯した法華経誹謗の罪を償い、未来の成仏の原因を作るという修行方法であり、これが日蓮の代表的な思想として後世まで継承されてきた。他方日蓮には天台本覚思想と共通の、内面的な救済方法もあり、それは末法においては、法華経への信と唱題行によって、即身成仏できるという修行方法である。後者の思想は日蓮が学んだ台密の伝統との連続性を示している。この唱題行の瞬間に成仏を実現しているという思想は、中世日本仏教の新しい非段階的な成仏概念を示している。日蓮の成仏思想は、天台大師智顗の一念三千論、とりわけ十界互具論に影響を受けている。智顗は法華経では成仏の原因の位である九界と結果である仏界とが同時に一念に含まれているという諸法実相論を説いたが、この思想は中世日本天台では因果倶時論として解釈され、日蓮も『開目抄』『観心本尊抄』ではこの思想を採用している。後の過激的な天台本覚思想家たちは、教相としての法華経は文字通りには有始有終であり、観心の一念三千論は法華経を超越するという四重興廃説を主張したが、日蓮は観心は教相と一体であるとして、法華経への信を主張した。 九界が仏界を具有するという因果倶時論はストーンによれば存在論的言明にすぎず、迷いの凡夫は、仏と同様に世界を見たり、行動したりはできない。迷いの意識を変えるには修行が必要であり、智顗の一念三千論は仏性を実現するために修行方法として内観的観法を説く。それに対して日蓮は、智顗の修行方法が末法においては無効であり、その意味では理 (principle) にすぎず、自分の修行方法は事 (actuality) であるとして差別化を図った。『観心本尊抄』では、事は密教の事相という意味で使用され、唱題や本尊は密教的な真言 (mantra) 曼荼羅 (mandala) として理解され、後には題目、本尊、戒壇という三大秘法が霊鷲山において久遠釈尊から末法のために上行菩薩に直授されたという思想も説かれるようになった。

 題目は二つの観点から分析されている。題目は、仏の教えを全て包括するものであり、天台における観心修行は末法においては唱題行に含まれるという点が第一の論点である。第二の論点は仏種という概念であり、これは智顗の『法華玄義』の種熟脱の議論に基づき、法華経を種として成仏するという思想は、日蓮ばかりでなく、中世天台文献にも見える。両者の違いは日蓮が仏種を題目として規定したことにある。種熟脱の思想は段階的な修行方法を意味しているようにみえるが、日蓮においては、因果倶時によって、種熟脱は同時に生じうる過程であり、種即脱という思想が日蓮に見られるとストーンは主張する。 本尊については、日蓮においては儀式のための物理的聖像という用法とその聖像が体現している原理または実在という用法が区別される。後者においては、さらに本仏と法華経が本尊として言及されている。この両者は矛盾するように見えるが、本仏は久遠仏であり、法報応の三身であるから、本仏と法としての法華経とは同一のものの二つの側面であるとストーンは主張する。日蓮滅後法本尊と仏本尊との論争が生じたが、日蓮在世には教団が統一された本尊を持つべきだという見解はまだ生じていないとストーンは見ている。日蓮の曼荼羅本尊は台密の影響によるが、絵曼荼羅ではなく、文字曼荼羅であるのは、密教のサンスクリット文字曼荼羅の影響だろうとストーンは推測する。 戒壇については『三大秘法抄』の真偽問題とは別に、日蓮が朝廷によって認可された戒壇の建立を想定していたとストーンは判断している。晩年に現れた霊山浄土思想については、現世に実現すべき仏土と来世に行く霊山浄土とは対立せず、霊山浄土とは曼荼羅に描かれた世界を来世まで投影し、そこに亡くなった信者たちを含めた概念であると考えてもよいだろうとストーンは言う。 以上のような日蓮の宗教思想を検討した後で、ストーンは日蓮と鎌倉仏教の新しいパラダイムとの関係を考察し、非段階的思想に関しては、唱題の瞬間に、本仏の本因本果が含まれているから、悟りが実現されているという思想が日蓮に見られるとストーンは解釈している。ストーンは信仰の持続を日蓮が強調したのは、将来の目標としての成仏に至る進歩としてではなく、たえず現在において悟りにアクセスできるという意味であるとしている。専修思想については、唱題という行為を含む法華経への信仰のみが悟りへの唯一の方法とされている。包括性については、法華経の題目に仏のすべての教えが含まれるという日蓮の考えが指摘されている。また罪障思想に関しては、日蓮教団においては、伝統的な僧侶の妻帯禁止などの戒は守られていたが、日蓮は唱題によりすべての悪道への罪障は消滅することを強調し、末法無戒を主張した。これらの点から日蓮が鎌倉仏教の新しいパラダイムを共有していたことをストーンは確認する。

 第7章においては、 室町時代の天台本覚思想と日蓮法華宗との相互交流が検討されている。日蓮滅後東国の日蓮法華教団は地方の地頭クラスが保護者となり、一族の繁栄を祈り、氏寺を建立し、地頭の息子達がその寺院の住職となる傾向が強かった。それに対して関西では、日蓮法華宗は新興の都市商工業者の支持を受け、町衆文化の形成に大いに影響を与えた。また日蓮の門流の本家争いからさまざまな教義論争が生じたが、その最大のものは一致勝劣論争であるが、これは上古天台ならびに中世日本天台との関係に関する対応の相違でもある。関東における日蓮法華宗のライバルは川越仙波を拠点とする関東恵心流の天台本覚思想であった。富木常忍と論争した了性房は関東に恵心流を初めて伝えた河田谷信尊であると推測され、彼は口伝書『河田谷傍正十九通』を編纂していた。彼の弟子円頓房尊海は仙波に恵心流の談義所を設置し、それが関東天台本覚思想の中心拠点となっていた。仙波の入門書である『初心勧学抄』には権実一致が主張され、日蓮法華宗の権経否定を批判している。開会の思想の解釈に関して、仙波側は他の経も一乗、法華経に包括されるから、他の経の修行も法華経の修行であるという解釈(絶待開会)をしていたのに対して、日蓮法華宗側は、法華経は他の経典を超えるから、他の経典の修行をすることは、法華経の独自性を失うことだという解釈(相待開会)をしていた。仙波側が絶待開会の立場を強調したのは、日蓮法華宗側の相待開会の主張に対抗するためであったと見られる。また止観勝法華の教義は色々な中世天台口伝書に見られ、新しい中古天台の教判である四重興廃をもとにした教義であった。尊舜の『二帖抄見聞』等によるとこの教義は特に仙波に独特の教義であった。この教義に対して日蓮法華宗の京都本覚寺真如院日住は『御書抄』で止観勝法華の教義は比叡山の恵心流では承認されなかったことを伝えている。中山日全は『法華問答勝義抄』で静明の弟子政海が止観勝法華の教義を初めて主張したが、比叡山では否定されたことを伝えている。日全の議論は日蓮法華宗が止観勝法華の思想を強く批判していたことを示している。日朗門流の日伝は『十二因縁抄』で四重興廃の教義を強く非難していた。身延日進は四重興廃を批判するために日蓮に仮託して『立正観抄』を偽作したと推測されている。このように室町初期においては特に関東天台本覚思想と日蓮法華宗とが激しく対立していたことが文献的に示された。 しかし14世紀後半になると日蓮法華宗と関東天台本覚思想との交流が頻繁に行われるようになった。日蓮法華宗の学僧たちは智顗、湛然、最澄の文献の正しい理解を折伏のためにも必要とし、その学習のために仙波談義所に行った。また天台宗の学僧で日蓮法華宗に改宗する者も多かった。これらの元天台僧たちはその学識を認められて、日蓮法華宗の主要な本寺に設置された学問所の学頭に任命された。例えば身延の学頭であった元天台僧和泉房日海は自分の学んだ天台本覚思想の影響のもとで日蓮の教義を解釈した。また身延七世の上行院日叡も本覚思想の影響を強く受けていた。天台口伝法門の文献が身延に保存されていたのは、両者の良好な関係を示している。一致派の教学において重要な役割をはたした身延11世行学院日朝も仙波の学頭であった元天台僧を師僧にして出家し、その本覚思想の影響を強く受けていた。彼は四重興廃の止観勝法華の止観を題目と解釈して、四重興廃説を日蓮法華宗の教義に取り込んだ。 日蓮法華宗内部における門流の本家争いは自派の優位性を強調するために、本覚思想の濃厚な口伝文献を捏造し続けた。富士門流においては、止観勝法華は、文底=題目は文上=法華経を超えるという解釈となって現れた。そして題目の教主と法華経の教主とが区別され、日蓮本仏論という特殊な教義が現れた。構造的には天台本覚思想で見られた智顗の己心の悟りは釈尊によって説かれた法華経を超えるという思想によく似ている。種勝脱、修勝証(因勝果)、上行勝釈尊という思想は天台本覚思想に見られる観心流の解釈方法を示している。富士門流と天台宗との交流は三位日順、日時、日有に見られた。 ストーンは豊富な文献考証により、日蓮滅後の天台本覚思想と日蓮法華宗との思想的交流、相互影響の強さを示し、彼女の鎌倉新仏教と天台本覚思想との相互交流という見方の典型的な事例としている。

5 本書の意義

 私は仏教の専門家ではないので、本書の学問的意義を論ずる資格はないが、私の問題関心上には大きい意義を持っている。私の個人的関心は創価学会の思想的意義を現代の文化、社会の中で解明するということにあるが、創価学会がその母教団である日蓮正宗の伝統的教義に固執していることに関しては、以前から疑問を持っていた。特に明治以降の仏教学や日本仏教の学問的成果と、それらの学問が成立する以前の室町、江戸時代に形成された宗学の間には大きなギャップが存在することを、創価学会が無視しつづけることは困難であろうと思っている。(注1) 日蓮正宗の宗学への批判は、まず現代の日本仏教研究者の文献学的考察から生じている。浅井要麟、執行海秀などから始まる日蓮遺文の文献学的考察が明らかにしたことは、現在日蓮遺文として使用されている文献には、通常の歴史学における文献考証の基準から見ると、明らかに日蓮自身の著作とは認められない文献が数多く含まれているということであった。室町時代に日蓮に仮託されて偽作された日蓮遺文が、その後の宗学形成期に日蓮自身の思想を示す文献として使用され、日蓮宗各派の宗学の基礎となっていた。 現代の日蓮研究は、このような歴史的経過によって虚実混合している伝統的日蓮思想観を、どのような方法論によって日蓮自身の思想を明らかにするかという反省から生じている。その一つの方法論は、歴史学的にも珍しい事例である豊富な日蓮の真筆文献を基礎にして、そこから日蓮の思想を再構成しようという試みである。私個人としては、現存の真筆文献に、曽存が確実であると判断できる文献、ならびにこれまでの文献学的考証からその信憑性が高く評価されている直弟子の写本文献まで、使用可能な文献であると考えている。孫弟子の時代になると各門流の本家争いが激化し、日興の甥の日代が日蓮滅後60年頃に作成されたと見なされる『法華本門宗要抄』を偽書であると書いていることや、身延3世日進が『立正観抄』を偽作したと見なされていることから、孫弟子写本文献は要注意文献として扱うべきだと考えている。 このような立場から見ると、日蓮正宗の宗学は、文献学的には偽作の可能性が高い『本因妙抄』『百六箇抄』などを文献的根拠として成立していることが、明らかになる。(注2) さらにこの文献学的考察が思想的考察と結びつき、これらの偽書の可能性が高い文献が、天台本覚思想と類似した思想を示していることから、本覚思想を示す文献はすべて偽書であり、日蓮は本覚思想を否定していたという解釈も生じた。しかしこの解釈にも無理があった。日蓮が、最初の著作とされる『戒体即身成仏義』において台密思想の中で展開された天台本覚思想を持っていたことは明確であり、その本覚思想を自己批判して、唱題行を提唱したと見なすことも可能ではあるが、『開目抄』の本因本果論や『観心本尊抄』の己心の仏界論は、天台本覚思想と共通する思想と見なされうるので、日蓮に本覚思想がなかったという解釈は極端であると見なされた。 その後関東天台本覚思想の研究が注目を浴び、それと日蓮教団との関係が歴史学的に考察されると、両者の思想的交流の事実が明らかになり、日蓮本覚思想文献の作成が歴史的脈絡の中でその蓋然性が強く示された。 ストーンの研究はこれらの先行業績を集大成し、天台本覚思想と鎌倉新仏教の共通の思想的パラダイムを示し、また天台本覚思想の歴史的形成過程を鎌倉、室町期に求めることにより、両者の相互交流という新しい見方を提供したが、このことは今後の日蓮ならびに日蓮教団研究の基本的見方を示すものと私は見なしている。 私はストーンの日蓮解釈や日蓮教団解釈を基本的に支持するが、長い間わからないままになっていたいくつかの疑問点があり、プリンストンで直接彼女に質問し、教えを求めたことがある。一つは宗教体験と宗教制度との関係に関わる問題であるが、日蓮が立宗宣言をした後の真筆文献に『不動愛染感見記』があるが、そこには「生身愛染明王拝見正月一日日食之時」「生身不動明王拝見自十五日至十七日」と書いて、不動、愛染の絵が描かれ、「自大日如来至日蓮二十三代嫡々相承 建長六年二十五日」「日蓮授新仏」と書かれている。私はこの文献は日蓮が立宗宣言以後も台密の制度に則り、新仏という人物に、ある種の相承を行ったことの証明書ではないかと推測しているが、このような文献が台密文献にも他にもあるのかどうか、またこの絵像は日蓮自身が描いたのか、それとも絵師に描かせたのか、またこの絵像は日蓮が直接夢想などの宗教体験を得て、それを描いたのか、それともすでに様式化された絵像が存在して、それを描いたのにすぎないのか、という問題である。不動、愛染は後の日蓮の文字曼荼羅にもサンスクリット文字で書かれる特殊な意義を持っており、日蓮の宗教体験がそこに反映しているという解釈が主流であるが、私個人はそのような宗教体験が欠如した生き方をしているので、日蓮のメンタリティ、ならびに当時の文化状況を理解する意味で何か先行研究があるのかどうか質問したが、特に思い当たる研究は知らないが調査してみるという回答をいただいた。 次に日蓮が修学時代にどのような宗教思想を持ったグループと関係していたのかという問題である。本書でも日蓮の修学時代のことはほとんど分からないことが述べられ、当時の延暦寺総学頭の恵心流の俊範が念仏批判を明確にしていたことと、日蓮の出自が低かったため俊範とは直接的な師弟関係を持つことができなかったであろうこと、それゆえ文献を通じて仏教を学ぶしかなかったことが示されていた。本書でも日蓮は開会の思想に関して相待開会の立場を採用し、それは後の仙波の絶待開会と対立したことも述べられているが、日蓮は『唱法華題目抄』では「予が流の義」と述べて、爾前の円を嫌う理由を挙げているが、これは日蓮がこの相待開会の立場を関西において、特に園城寺系の思想グループから学んだ可能性を示唆しているが、そのような思想グループが天台宗の中に存在していたのか、文献的に確認できるかどうかを尋ねてみたが、まだ確認されていないとの回答であった。 次に日蓮はある時期から日蓮阿闍梨と自称し、阿闍梨号を使用するようになるが、鎌倉時代において阿闍梨号の使用に関してどのような制度があったのか、一定の資格を得て、年限が来れば、自称しても構わない制度であったのか、それとも授与の制度があり、そこで何らかの機関によって授与されるのか、という問題である。後者であれば、日蓮が阿闍梨号を使用するまで、制度的には日蓮が天台宗に所属していたことが天台宗側からも認知されていたことを示すものであり、また日蓮の直弟子達が阿闍梨号を使用する場合にもその制度が有効であれば、日蓮教団が天台宗教団からどれほど独立していたのかという問題を考えるヒントになるかもしれない。これについては天台宗の制度史に詳しい先生の研究に何かあるかもしれないという回答であった。 次に日蓮の非段階的成仏思想という核心部分に関して、私は唱題即悟りという非段階的成仏思想と、唱題行という修行の結果、将来成仏するという段階的成仏思想とが、日蓮の中には同時に混在しているのではないか、という疑問を投げかけた。その理由は『観心本尊抄』で己心に仏界が存在することを証明するために、日蓮が挙げた事例は、印度の釈尊と、中国の儒教の伝説的人物である尭、舜が「万民において偏頗無し、人界の仏界の一分なり」と限定的に認められていることだけであり、事実上成仏の困難さを認めていると思われることにある。初期の『戒体即身成仏義』では悟りがいかにも容易なように考えていた日蓮が『観心本尊抄』では成仏の現証という場面で、人類史上たった一人しか挙げることが出来なかったということは、己心に仏界を具えているという存在論的場面と、それを現証として示すという実践論的場面とを区別していると私は解釈しているが、それについてどう考えるかという問題である。それに関しては、この両面が区別されているというより、両面が実践上でも含まれている、それは日蓮の成仏論の二面性でもあり、法華折伏・破権門理に励み、それによって難に会い、過去の謗法を滅罪して仏界に至るという外的側面も確かに大事だが、題目を唱えた瞬間にも仏界にアクセスできるという内的側面に相即して、日蓮の「受持即成仏」の思想には両方が含まれている。今まで西洋の研究では外的側面に力点が置かれていたが、鎌倉新仏教の「新パラダイム」との関係を示すため、内的側面に焦点を当てたという趣旨の回答であったと私は理解している。 そのほか現代における宗教、特に仏教の可能性について貴重な教示をいただいたが、本書とは直接関係無いので、ここでは割愛する。夏休みの貴重な研究時間を割いていただき、私の不躾な質問にも丁寧に、しかもすべて日本語で答えていただいたことについて、ストーン教授には深く感謝したい。ただ帰国後原稿締め切りまで一月しかなく、授業と校務と家事の間に、急いで書いたので、本書の理解に関して不十分で、場合によっては誤りがあると思われるが、その点に関してはお許し願いたい。

(注1)歴史的に見るならば、創価教育学会は牧口の『尋問調書』に示されるように、日蓮正宗の信仰に価値創造論を加えた在家仏教団体であった。しかし戦後戸田城聖が創価学会の独自の宗教法人資格を取得するために日蓮正宗と合意した3項目により、創価学会は日蓮正宗の教義を信奉することを義務づけられた。戸田や池田大作は日蓮仏法を現代の文化状況に適合させるためにさまざまな現代的解釈をしてきたが、日蓮仏法の教義解釈権については、第1次宗門問題後に確認されたように、日蓮正宗の教導権を認めざるを得ず、日蓮正宗の教義を検討することは不可能であった。第2次宗門問題以後、法主の権限をめぐる教義的解釈問題などから、日蓮正宗教学への学問的検討が可能となり、2002年には創価学会の規則から正式に日蓮正宗への言及部分が削除され、教義的にも独立した。今後創価学会が独自の教義を再構築するにあたって、私は、仏教、日蓮思想、歴代会長による現代的解釈の3つを統合する必要があると考えている。その場合に、現代の仏教学、歴史学の成果をある程度踏まえて現代の学説に大きく離反しないようにすべきだと考えている。(注2)私は偽書とされる文献について、日蓮個人の思想ではないが、日蓮の思想のある面を展開した文献として、日蓮仏法に含めることは十分に意味のあることだと考えている。それは大乗仏典が釈尊個人の思想を記述したものとは認められないが、釈尊の救済思想を展開した文献として重要なものであり、仏教の思想的遺産として十分に役立っているということと重なる。宗教を創唱者個人の思想に限定するのは歴史学的には意味のあることかもしれないが、宗教が社会、文化に果たす役割を考えれば、後世の解釈、付加部分も重要な宗教の要素なのである。

 

 

 標準文献としての『守護国家論』

『守護国家論』は、日蓮の初期の、むしろ全ての著作の中で、最も体系的な内容構成を持つ教学書である。真筆は身延にあったが、火災で焼失してしまった。系年はその中に記述されている自然現象の年号から、正元元年と推定されている。著作の意図は法然の『選択集』を批判し、末法においては『法華経』を正法と定め、法華経の題目を唱えることによって、三悪道から離れることができることを、経典を根拠に整然と証明することにある。そのため『立正安国論』と同様に、鎌倉幕府の要人に謗法禁断、正法護持を訴えようとして著述されたものと推定されている。 しかし本書の意義は、何よりも日蓮の初期の教学思想を、非常に体系的に、また明確に叙述していることにあり、その点では『立正安国論』よりも重要な著作である。この『守護国家論』で展開された教義を基本としてみれば、同時代の御書とされる文献に関してさまざまな疑問が生じる。以下においては第一部(本稿)において、標準文献として『国家守護論』を採用した場合、どのような問題が生じるかを、文献学的、かつ思想的に検討してみたい。次稿においては『守護国家論』の教義上の特色と内在的諸問題を論じる予定である。

1-1 系年順で見た初期の日蓮遺文

 『守護国家論』とほぼ同時代に著作された御書を、『編年体日蓮大聖人御書全集 創価学会版』(以下『創』と略称)と『昭和定本日蓮聖人遺文』(正篇)(以下『定』と略称)とに従って、立宗宣言の年とされる建長五年から、伊豆流罪の年弘長元年の前年まで、系年順に列挙してみると極めて興味深いことがわかる。

建長五年 『富木殿御返事』(真筆中山、『創』未収録)

建長六年 『不動愛染感見記』(真筆保田妙本寺、『創』未収録)

建長七年  『蓮盛抄』(録外)

建長七年□×『諸宗問答抄』(日代写本、録外)

建長七年 『念仏無間地獄抄』(録外)

建長七年『一生成仏抄』(録外、対告衆富木常忍)

建長七年 『主師親御書』(録外)

建長七年 『回向功徳抄』(他受用、『創』未収録)

建長七年 『一代聖教大意』(日目写本、録内)

建長七年 『一念三千理事』(録内)

建長七年『総在一念抄』(録外、『創』未収録)

正元元年 『武蔵殿御消息』(身延曾存、延山録外、『創』年次不明)

正元元年 『十住毘婆沙論尋出書』(延山録外、『創』年次不明)

正元元年『十如是事』(録内、『定』続篇)

正元元年×●『一念三千法門』(録外、『定』続編)

正元元年 『守護国家論』(身延曾存、録内)

正元元年  『念仏者追放宣旨事』(録内、『定』図録)

正元元年『十法界事』(録内)

正元元年 『爾前二乗菩薩不作仏事』(身延曾存、録内)

正元元年 『爾前得道有無御書』(録内、『創』未収録)

正元二年 『二乗作仏事』(延山録外、『創』年次不明)

正元二年 『災難興起由来』(真筆中山、『創』未収録)

正元二年 『災難対治抄』(真筆中山、録内)

文応元年 □●『十法界明因果抄』(日進写本、録内)

文応元年 『唱法華題目抄』(日興写本、録内)

文応元年 『立正安国論』(真筆中山、録内)

文応元年 『一代五時図』(真筆中山、『定』図録)

弘長元年 『椎地四郎殿御書』(録外)

弘長元年『船守弥三郎許御書』(録外)

 ここでは真筆がある、あるいは曾存したテキスト、は直弟子写本があるテキスト、は孫弟子写本があるテキストという文献学的記号である。または本覚思想が濃厚なテキスト、×は天台宗批判をしているテキスト、は僧侶による追善供養を強調しているテキストという内容上の記号である。一覧するとのテキストには本覚思想のも、天台宗批判の×もなく、のテキストになって初めてや、×が現れ、には古い写本もないという文献学的差違と思想的差違の並行性が見て取れる。

1-2 日蓮の初期の本覚思想との関わり

 日蓮が非常に早い段階から本覚思想を知っていたということは、日蓮の最初の著作とされる仁治三年の『戒体即身成仏義』(録内、『創』未収録)に次のようにあることから分かる。 「法華の覚を得る時、我等が色心生滅の身即不生不滅也。国土もかくの如し。此国土の牛馬六畜も皆仏なり。・・・法華経の悟と申は、此国土と我等が身と釈迦如来の御舎利と一と知る也。・・・ 法華経を是の体に意得れば則ち真言の初門也」(『定』、p. 14)。ここでは覚りにおいては衆生も、国土も本来的には仏であるという本覚思想が述べられ、そのことが「我等が色心生滅の身即不生不滅也」(ただし後の本覚思想の中で多用された「我が身即本覚の如来」などという定型的な表現は使用されていない)という用語で述べられ、この本覚思想が真言、この場合では台密と密接な関係があることを示唆している。 日蓮が、立宗宣言の年とされる建長五年以後も、台密の影響下にあったことは、建長六年の『不動愛染感見記』に「自大日如来至日蓮二十三代嫡々相承」(『定』、p. 16)とあることによって分かる。 日蓮の修学期にどのような本覚思想があり、またどのような本覚思想の文献があったかについては、あまり確実なことは分かっていないが、大石寺の後の資料には、恵心流の俊範や静明の名が出てきており、日蓮が彼らから相伝書を学んだとは思えないが、本覚思想について多少の知識はあったと思われる。

1-3 日蓮初期の本覚思想文献について

 日蓮遺文の初期の文献の中にも本覚思想を展開しているものは多いが、それらは文献学的には不確実な遺文である。例えば本覚思想を極端な形で述べた×●『一念三千法門』を見てみよう。そこにはまず、「我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う、知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。・・・本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり、究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり、本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり、仏は我等が所生の子なり、・・・凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず、委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふむなんど悪口す、大なる僻事なり。」(『創』、p. 50, 『定』、p. 2034)という記述がある。 ここでは、衆生、凡夫も仏も本来的には「本覚の仏」であるという本覚思想がまず明確に述べられている。両者の違いは単に凡夫は「迷」いの中にあり、仏は「悟」りの中にあるということにあるが、強調点は相違よりも、本質的同質性にある。その上で理即の凡夫が「妙覚の如来」であり、仏は「本覚の仏」である、また「凡夫」は「父母」であり、「仏」は子であるという、凡夫と仏を対比して、凡夫に優位を与えるいわゆる凡夫本仏論が主張されている。そしてこの凡夫本仏論を「毘盧の頂上をふむ」と批判する者に対して、それは全く誤った見解であるとしている。この「毘盧の頂上をふむ」という批判は、実は禅宗に向けられた批判であり、例えば『蓮盛抄』にあるように、「(禅宗の是心即仏・即身是仏を、)理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ増上慢に堕つ」(『創』、p. 2,『定』、p. 19)という批判なのである。つまり本覚思想は禅宗の理性仏の思想と同じだという批判が既にある時期からなされていたということを×●『一念三千法門』は示している。さらに×●『一念三千法門』には天台宗の観念観法と比較して、(日蓮)法華宗(注1)の唱題行の優位を主張するという論点もある。まず「法華経は念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば、我が身本覚の如来なること悟り出され、無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく、父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、」(『創』、p. 51,『定』、p. 2036)と述べて、天台宗における観念観法によって即身成仏することを一応認める。 そのうえで、「一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、・・・さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る、」(同)と述べて、唱題によっても観念観法と同じく即身成仏できることを述べる。 次いで「一念三千・一心三観等の観心計りが法華経の肝心なるべくば、題目に十如是を置くべき処に、題目に妙法蓮華経と置かれたる上は子細に及ばず、・・・智者は読誦に観念をも並ぶべし、愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会う可し、此の妙法蓮華経とは我等が心性・総じては一切衆生の心性・八葉の白蓮華の名なり、是を教え給ふ仏の御詞なり、無始より以来、我が身中の心性に迷て生死を流転せし身、今此の経に値ひ奉つて、三身即一の本覚の如来を唱うるに顕れて、現世に其内証成仏するを即身成仏と申す、死すれば光を放つ、是れ外用の成仏と申す、来世得作仏とは是なり、」(『創』、p. 53, 『定』、p. 2038)と述べ、末法の愚者にとっては唱題行が唯一の成仏の修行法であることを主張する。 次いで「法華経の行者は如説修行せば必ず一生の中に一人も残らず成仏す可し、譬えば春夏田を作るに早晩あれども一年の中には必ず之を納む、法華の行者も上中下根あれども必ず一生の中に証得す、玄の一に云く『上中下根皆記別を与う』と云云、観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方かけたる人なり、」(『創』、p. 54, 『定』、p. 2039)と述べて、天台宗の観念観法の限界を指摘し、「凡そ此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず、故に皆成仏道とも云ひ、又平等大慧とも云う、善悪不二・邪正一如と聞く処にやがて内証成仏す、故に即身成仏と申し、一生に証得するが故に一生妙覚と云ふ、」(『創』、p. 54, 『定』、p. 2040)と述べて、唱題行こそが皆成仏道を説く法華経の真意であることを主張し、天台宗に対する日蓮法華宗の優位を強調する。この×●『一念三千法門』に散見する「本覚の仏」「知る、悟る=如来」「知らざる、迷う=凡夫、衆生」「凡夫=父母」「如来=子」「本有常住の如来」「八葉蓮華」「内証成仏」「一生成仏」「一生妙覚」という術語は本覚思想を特徴づける術語としてよく使用されているものである。術語使用の上から同時期の他の本覚思想の見られるテキストを見てみよう。

 『一生成仏抄』は対告衆が富木常忍になっているが、富木氏に与えられた御書の多くは真筆が残っているから、この御書に真筆が残っていないことには疑問が残る。ここには、「衆生本有の妙理を観ず」(『創』、p. 21、『定』、p. 42)、「迷=衆生、悟=仏」の二法(『創』、p. 22、『定』、p. 43)、「一生成仏」(『創』、p. 22、『定』、p. 44)という術語が見られる。
●『総在一念抄』には、「此の身即本有の一念三千」(『定』、p. 81)、「本有の仏体」(『定』、p. 83)という用語があり、さらに「実相観」(『定』、p. 81)=「理」と「唯識観」(『定』、p. 82)=「事」という観念修行の区別を述べ、そのうえで「事理体一の不思議の総在一念」(『定』、p. 82)、「理を悟る人は仏と等しく」(『定』、p. 83)、「悟りの仏とは此の理を知る法華経の行者」(『定』、p. 85)と述べて、「本迹雖殊不思議一」(『定』、p. 85)ということを強調し、本迹一致の立場から本覚思想を展開している。
●『十如是事』には、「我が身三身即一の本覚の如来」(『創』、p. 48、『定』、p. 2030)、「衆生=迷い、如来=覚り」(『創』、p. 48、『定』、p. 2031)の対比、「今生の中に本覚の如来を顕わして即身成仏」(『創』、p. 49、『定』、p. 2031)、「上中下の三根」と稲の譬え(『創』、p. 49、『定』、p. 2032)、「一生に本覚の如来を顕わし」(『創』、p. 49、『定』、p. 2032)、「妙法蓮華経の体=心性の八葉の白蓮華」(『創』、p. 49、『定』、p. 2032)という術語が散見される。 『十法界事』には、「迹門の大教起れば爾前の大教亡じ・本門の大教起れば迹門爾前亡じ・観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず」(『創』、p. 111、『定』、p. 140)という四重の興廃が述べられている。これは法華経という教相よりも、観心、すなわち天台本覚思想では観念観法の修行、日蓮法華宗では唱題行を重視する立場であり、術語的には本覚思想の流れの中で形成されてきた。
□●『十法界明因果抄』には身延三世日進の写本があるが、ここでは他の文献には現れない「相待妙の戒、絶待妙の戒」(『創』、p. 136、『定』、p. 182)という区別がなされ、日蓮の弟子達の間で論争があった受戒問題に対して、日蓮法華宗の戒を「信」に求める(つまり比叡山の大乗戒壇で受戒しない)という日進なりの回答を示した文献と見ることができ、ここにも「凡夫一生の中に妙覚に入る」(『創』、p. 137『定』、p. 183)という本覚思想の中で主張された一生成仏論が見られる。
●『船守弥三郎許御書』には、「久遠五百塵点の当初唯我一人の教主釈尊とは我等衆生」(『創』、p. 181『定』、p. 230)、「凡夫即仏・一念三千即我実成仏」(『創』、p. 181『定』、p. 231)という本覚思想の術語がある。

このように日蓮初期の御書とされるテキストの中には、本覚思想を展開したものは多いが、それらはみな真筆、直弟子写本がなく、最も古い写本が孫弟子の日進の写本である。天台の一念三千論では、仏にも九界が備わり、凡夫にも仏界が備わっていることが主張され、仏と凡夫が連続的に捉えられているから、凡夫も本来は仏であり、ただ迷いの中にあるから、自分を仏と悟った仏と区別されるにすぎないという本覚思想への思想的展開は、ある意味で自然であるかもしれない。ただ理性として仏界を持つ凡夫と、修行の結果ある境涯に到達した仏とを、同一視することは、『蓮盛抄』で主張されている「理性の仏を尊んで、己れ仏に均しと思ひ、増上慢に堕つ」という禅宗批判の言葉が当てはまるかもしれない。本来の天台の一念三千の理論と本覚思想との微妙な差違は、よく注意しなければ見落としかねない理論的差違であるとも言えよう。

1-4 天台宗批判の初期文献

また日蓮遺文の初期の文献において、天台法華宗を批判しているものもある。上述の×●『一念三千法門』には、天台宗の本覚思想の中で主張された観念観法よりも、日蓮法華宗の唱題行の優位を明確に説いていた。
□×『諸宗問答抄』には大石寺開山の日興の甥、日代の写本があるが、ここでは天台宗の側から(日蓮)法華宗に対して質問されたことに回答するという趣旨で議論が展開されている。注1で述べたように、「天台宗」から独立した宗派として「法華宗」を自称したのは、明確には日蓮の死後からであり、もちろん日蓮自身が、「法華宗」という宗名を自称していたとは思われない。この法華宗と天台宗を区別(『創』、p. 6、『定』、p. 22)するという議論が初期になされていたかどうかは、疑問が残る。ただ議論の内容は、天台宗の開会の法門を批判し、爾前の円を、法華の体内に開会しても、体内の権であって、実ではない(『創』、p. 9、『定』、p. 26)と述べて、法華独勝を主張しているのであり、この開会の法門批判自体は日蓮の初期の他の文献(例えば日興写本のある『唱法華題目抄』)にも見られる。次にこの文献では真言宗批判を教主の問題から展開しているが、この議論自体は後の時期の文献には散見されるものだが、やはりこの時期になされたかどうかは、疑問が残る。また念仏批判に伝教の『法華秀句』(誤り 『守護国界章』が正しい08/9/11 訂正)の「有為の報仏は夢中の権果・無作の三身は覚前の実仏」を引用しているが、日蓮が伝教のこの句を引用しているのは、この文献のみであり、念仏批判をわざわざ本覚思想の中でよく利用された伝教のこの句を引用して展開するというのも極めて異例である。

1-5 真筆、曾存の初期文献における本覚思想との関連

 ところがのテキストの中で、教義について論じた最初のテキストである『守護国家論』では、この本覚思想について全く言及していない。それどころか、「(爾前経においては)凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界も顕れず、・・・今法華経に至って九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る・・・此の時に二乗菩薩始めて成仏し凡夫も始めて往生す」(『創』、p. 86, 『定』、p. 124)と述べて、まず教義的に十界互具論によって成仏論に制限を加え、次いで凡夫には成仏ではなく、往生しか許さないという制限も加える。そして「解心」なく法華経の題目を唱えるだけの凡夫については「今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善あるが故に此の経の名を聞いて信を致す者なるが故に悪道に堕せず」(『創』、p. 89, 『定』、p. 127)と述べて、不堕三悪道という功徳しか認めていない。また『爾前二乗菩薩不作仏事』においても、爾前経では二乗作仏を許さないから、厳密に言えば、菩薩の成仏もないことが、源信の『一乗要決』、円仁の注釈書などを使用して、論証している。ここにも本覚思想は見られない。 次に『災難興起由来』、『災難対治抄』はほぼ同内容の文献であり、『立正安国論』の準備段階の草稿と推測できるが、そこでは『選択集』を信じる者と、法華真言の諸大乗経を信じる者とが対比されている。これは『立正安国論』でも、法華・涅槃などの立場から『選択集』を批判するという姿勢が取られており、本覚思想の片鱗も伺えない。 このように真筆、曾存の文献においては、本覚思想への言及がないばかりか、『守護国家論』に見られるように、唱題の功徳として不堕三悪道しか認めないという立場は、本覚思想とは異質である。例えば×●『一念三千法門』には「此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る」と述べて、唱題を通じて成仏(それは即身成仏、一生成仏などど表現されている)が可能であることを強調しているが、この二つの立場が同時期に同一人物によって主張されたということを説得するのにはかなりの説明が必要であると思われる。

1-6 真筆の初期文献における天台宗への言及

 初期の真筆御書で天台宗を全体として批判して、(日蓮)法華宗を別立するという箇所はない。例えば『一代五時図』(Aとする)については、系年に問題があるが、内容的には当時の真筆御書と矛盾するわけではない。そこでは『法華経』に基づく宗名として「法華宗」が線で結ばれ、その下に「天台宗」が線で結ばれている。この資料では経と宗名とは線で結ばれているが、二つの宗名が書かれている箇所はここだけであるので、日蓮の不確実な文献に見られるように法華宗と天台宗とを区別して書いたものか、それとも法華宗は経から名づけた宗名で実体的には天台宗と同じという意味なのかは、これだけでは簡単には判断できない。 しかし執筆年次未定とされる『一代五時図』(Bとする)(『創』、p. 1408、『定』、p. 2299)では『法華経』に基づく宗名として、「顕露宗、最秘密宗、仏立宗、法華宗、天台宗」(『創』、p. 1410、『定』、p. 2301)と書かれており、これらは同格と見なしうるから、天台宗と法華宗とは同じ宗名であると推測できる。 また同様に執筆年次未定の『一代五時鶏図』(Aとする)(『創』、p. 1435、『定』、p. 2333)にも、『法華経』に関係する宗名として、「諸宗依憑宗、仏立宗、天台宗、法華宗、秘密宗、顕露彰灼宗」(『創』、p. 1439、『定』、p. 2337)と書かれており、天台宗と法華宗とは同格であると見なすことができる。またこの『一代五時鶏図』(A)には、各宗の本尊が書かれているが、そこでは天台宗の本尊として「久遠実成実修実証の仏」として「久成の三身」が「無始無終」として位置づけされている(『創』、p. 1444、『定』、p. 2342)が、法華宗の本尊については何も言及されていないので、天台宗と法華宗とを区別する姿勢はまだなかったと見てよい。 このことは同じく執筆年次未定の『一代五時鶏図』(Bとする)(『創』未収録、『定』、p. 2355)には、例えば禅宗は「仏心宗、達磨宗」と呼ばれているように、「天台宗、仏立宗、法華宗」(『定』、p. 2357)は同格で呼ばれている。 また同じく執筆年次未定の『一代五時鶏図』(Cとする)(『創』未収録、『定』、p. 2384)には、「天台法華宗、仏立宗」(『定』、p. 2386)と書かれてあり、また別の『一代五時鶏図』(Dとする)(『創』未収録、『定』、p. 2388)には「法華宗、仏立宗」とだけ書かれ、その「法華宗」に「天台大師、伝教大師」の名が線で結ばれている(『定』、p. 2390) またそれぞれの宗名を内容によって特徴づけた『十宗判名の事』(『創』、p. 1537、『定』、p. 2391)には、十宗の名として通常使用される天台宗の代わりに「法華宗」と書かれ、その特徴として「仏立宗」と書かれている(同)。 これらの諸文献には本覚思想も全体としての天台宗批判も全く見られない。ただ『一代五時図』(A)の最後に「一切の天台・真言等の諸宗の人々法然が智分を出でず、各々その宗を習えども心は皆一同に念仏者なり」(『創』、p. 177、『定』、p. 2388)とあるが、これは『立正安国論』などにも散見される天台宗の僧侶たちが法然に影響されていることを批判したものであり、天台宗の教義自体を批判したものではない。こうしてみると日蓮が十宗の分類に言及した真筆テキストにおいては、「法華宗」と「天台宗」とは同じ宗派の異なった名称として使用されていることがわかる。したがって□×『諸宗問答抄』に見られるような、「法華宗」と「天台宗」とを異なった宗派の名称として使用している文献には、疑義が生じると言えよう。

1-7 直弟子写本に見られる本覚思想、天台宗批判に関連した記述

 直弟子写本が残っている『一代聖教大意』と『唱法華題目抄』は、教義的には『守護国家論』を補完する重要な文献である。 日目写本の残っている『一代聖教大意』ではまず、天台の四教説に従って、蔵・通・別・円の四教を区別し、さらに円教に関して爾前の円と法華・涅槃の円とを区別する。次いで五時説に従って、法華最勝を主張する。その後『法華経』の意義について問答し、「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(『創』、p. 36、『定』、p. 66)と述べ、日蓮が学んだ天台宗内部でも、この問題に関して流派によって解釈が異なることを示唆している。そのうえで爾前の円を否定し、法華の円のみを認める立場を主張する。その論拠として十界互具を挙げ、爾前の円教には二乗の仏性を認めないから真の円教とは言えないとしている。次いで諸経にも悪人、女人、二乗、凡夫の成仏・往生を説いていることに対して、「予の習い伝うる処の法門・此の答に顕るべし、此の答に法華経の諸経に超過し又諸経の成仏を許し許さぬは聞うべし、秘蔵の故に顕露に書さず。」(『創』、p. 39、『定』、p. 71)と述べて、詳論を避けているが、爾前の円を否定する立場から、爾前経で説く成仏・往生を否定してる。しかも爾前の円を否定する立場は、「予の習い伝うる処の法門」と述べて、天台宗の特定の流派に伝わった解釈であることを示唆している。この爾前の円と法華の円を区別する立場を、相待妙の立場、あるいは能開の立場として説明し、日蓮自身が両者を区別する立場であることを示している。この『一代聖教大意』は、日蓮が天台宗の特定の流派に所属している、あるいは所属していたこと、さらにはその流派の解釈を維持していることを示している。したがって天台宗の中でも爾前の円を認める流派に対して批判しても、天台宗全体を批判する姿勢はなかったと考えるべきだろう。このことは『唱法華題目抄』になるともっと明確に述べられている。そこではわずかでも『法華経』への信仰があれば、浄土への往生あるいはこの娑婆世界での即身成仏の可能性があるのかという問いに対して、不堕三悪道のみを認めている(『創』、p. 138、『定』、p. 184)。さらに六道輪廻から脱するためには、「一分のさとり」(『創』、p. 140、『定』、p. 188)が必要であるとしている。次いで爾前の円と法華の円との勝劣に関して、五時説を基礎とする約部の場合は、爾前経よりも『法華経』を優れたものとするが、蔵・通・別・円の四教を論じる約教の場合には、爾前の円も法華の円も等しく円教としていることについて天台宗内部のさまざまな解釈を挙げている。その上で「予が流の義」として「四の筋目」(『創』、p. 149、『定』、p. 201)を挙げて、最終的には法華の円は爾前の円よりも優れているという立場を取る。この記述は日蓮が天台宗の特定の流派の教義を継承していることを明確に示している。 次いで日常の修行方法を述べた箇所で、「常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏・多宝仏・十方諸仏・一切の諸菩薩・二乗・天人・竜神・八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」(『創』、p. 149、『定』、p. 202)と述べて、愚者の修行法として、唱題を勧めるが、もし能力が有れば、一念三千の観念観法をすべきであるとしている。このことは愚者は唱題行を修行することにより三悪道に堕ちないようにすべきであるが、六道輪廻から脱するために必要な「一分のさとり」を得るためには、さらに一念三千の観念観法をすべきだという立場を示していると考えられる。この立場は例えば、『一念三千法門』の「観心計りにて成仏せんと思ふ人は一方欠けたる人なり」という観念観法を批判する立場とは異なっている。 もちろん『唱法華題目抄』においても、唱題の功徳を述べた箇所で、「法華経の肝心たる方便・寿量の一念三千・久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、・・・妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏・諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。」(『創』、p. 150、『定』、p. 202)と述べて、『一念三千法門』と同様に唱題の功徳が他の諸経の修行の功徳よりも優れており、一念三千の法門を説く『法華経』と同じ功徳があることを強調している。 しかし『唱法華題目抄』のこの箇所ではまた「妙法の二字は玄義の心は百界千如・心仏衆生の法門なり止観十巻の心は一念三千・百界千如・三千世間・心仏衆生・三無差別と立て給う、一切の諸仏菩薩十界の因果・十方の草木・瓦礫等・妙法の二字にあらずと云う事なし、」(同)と述べている。本覚思想の文献であれば、同内容を「衆生本有の妙理」「この身即本有の一念三千」「三身即一身の本覚の如来」などと表現しているが、この『唱法華題目抄』には天台、伝教の教相を踏まえるという姿勢が貫かれている。これらの直弟子写本のテキストを見ると、この時期には日蓮は自分を天台宗の特定の流派に所属しているものとして議論を展開していると見なすことができ、天台宗から独立したという意識を明確に持っていたとは考えにくい。真筆が残っている『御輿振御書』には比叡山の中堂が炎上したことを聞いて、「山門破滅の期・その節に候か」と述べた後で、「滅するは生ぜんが為、下るは登らんが為なり、山門繁昌の為にかくのごとき留難を起こすか」(『創』、p. 219、『定』、p. 438)と述べて、日蓮の末法における法華復興の運動により天台宗が復興する可能性を示唆している。また一部真筆が残っている文永三年の『法華経題目抄』には「根本大師(=伝教)門人 日蓮撰」とあり、日蓮自身の意識としては天台宗の改革派という位置づけであったのかもしれない。ただしこれより古い文献には「本朝沙門」という用語が使用され、「天台沙門」を自称していないので、この問題は解釈が難しい。天台宗と区別される法華本門の立場がはっきりと明確にされるのは、佐渡期以後の三大秘法の名目が示されてからであるとは言えるが、それ以前の天台宗との関係は微妙である。

1ー8 論点の整理

 日蓮は建長五年に唱題行という新しい修行方法を人々に勧め始めたということは、確実であろうが、その唱題行にどのような宗教的意義があるかを、どのように人々に説明したかは、検討の余地がある。 法然は、称名念仏だけで極楽往生ができる(専修)と主張し、他の修行方法は末法においては無効である(排他)と主張した。しかし、これは伝統的な天台教学における、称名念仏は機根の低い衆生の低級な修行方法であり、それだけでは往生できないし、ましてやそれ以上の高級な修行方法が無効であるなどということはないという解釈を真っ向から批判したものであった。そのために、異端、邪説として天台宗から批判され、朝廷からも弾圧された。日蓮の真筆や真筆曾存、直弟子写本の文献では、唱題行には不堕三悪道の功徳はあるが、六道輪廻を越えるには一分の悟りが必要であるということを述べている。これは唱題行の功徳は、伝統的な天台教学の枠内に収まっていることを、日蓮が認めていることでもある。しかし本覚思想文献には、×●『一念三千法門』のように、唱題だけで本覚の仏が現れる=成仏する、しかも今生、一生という短い期間で成仏が可能だとする専修思想があり、また、天台宗の観念観法は末法においては唱題より劣るという思想を主張しているが、これは、唱題行以外は末法では無効であるという排他思想に発展する可能性を示している。 日蓮が法然と同様に専修、排他思想を持ち、天台宗の枠外で、活動したと解釈するならば、初期本覚思想文献が日蓮の著作であると認めてもよいだろう。しかし、日蓮が天台宗の学僧としての立場を対外的には取り続けたとするならば(少なくとも『立正安国論』は天台宗の学僧の立場から主張されていると見てよいだろう)、もし万一、本覚思想文献を他の学僧に閲覧可能な形で表明したならば、日蓮はその二重基準を他の学僧から責められたであろう。唯一、初期本覚思想文献を日蓮の著作とする道は、日蓮は多くの弟子達には天台宗の学僧としての立場から、不堕三悪道の功徳がある唱題行を勧め、ごく一部の弟子にのみ、本覚思想により成仏の直道としての唱題行を勧めたという二重基準を持つ秘密主義者日蓮という解釈しか残されていないと思われる。 どのような日蓮像を描き、どのように日蓮の宗教思想を解釈するかは、現在の日蓮解釈者の自由と責任とに任されているが、私としては二重基準を持った宗教者という日蓮像は好きではない。その意味で初期本覚思想文献が文書として存在したということは否定したい。ただ日蓮が他人には話さなかったが、心の奥底に、唱題によって成仏が可能だという確信を持っていたかもしれないという可能性までは否定していない。日蓮が宗教的迫害を乗り越えて唱題行を勧める姿には、特別な宗教的確信が存在していたであろうことを推測させる。しかし私が想像する日蓮は、宗教的確信をそのまま叫ぶ修行者ではなく、その宗教的確信を理論化し、説得力を持たせようと努力している学僧の側面も持っている。『開目抄』で「智者に我義やぶられずば用いじ」と述べて、義=説得力に自己の宗教的存在を賭けている日蓮像は宗教者の一つの典型だと考えている。 以下においては、『守護国家論』において、日蓮は法然の専修、排他思想に対して、どのような批判を加えているかを検討する。その批判の仕方が伝統的な天台教学による批判とどのような共通性と差異性があるかを見て取ることによって、唱題行の専修、他宗排他という佐渡期以後の日蓮の思想への萌芽が見えてくるのかもしれない。

注1 「法華宗」という名称は「天台宗」という名称の別称でもあり、「天台法華宗」という用語も使用されていたし、日蓮の文献でも両者は同義に使用されている箇所が圧倒的に多いし、「法華宗」「日蓮宗」を自称している文献には疑義が生じる。しかし日蓮の死後、日蓮の弟子達は天台宗から独立した宗派としての意識を持ち、特に日像が後醍醐天皇の帝都弘通の勅許の綸旨を得たことは「宗派」として朝廷に認知されたことと解釈され、 自分たちを「法華宗」と呼び、天台法華宗を「天台宗」と呼んだ。「法華宗」という宗名使用に関しては、天台宗からたびたび非難が加えられたが、後醍醐天皇の綸旨を盾に、「法華宗」を自称しつづけた。しかし後に天文法華の乱において、天台宗に破れた法華宗は、以後「法華宗」の宗名使用を禁止され、「日蓮宗」を自称するようになった。

 

 

巻、p. 690)と、善導と法然の教義の相違を述べている。この善導の義による念仏を承認していることは、「称名行を非とせず、善導の釈に背かず。正念正見の念仏者に於いて悉く帰命頂礼を奉らば、必ず来世引導を蒙るべし。」(同、p. 676)と述べていることにも示されている。明恵は、「善導和尚は文殊般若経等に依りて、称名を以て宗と為し、三昧を以て趣と為す。真念を得さしめんがための故に称名を勧むるなり。是れが故に此等の文を引きて、証と為し、念仏の義を成ず。更に一向称名を以て本と為し、心念に関わらざるに非ず。」(同、p. 689)と述べて、善導の念仏とは真実の念仏、つまり念仏三昧、観想念仏が根本であり、称名念仏はそのための手段に過ぎないと主張する。あるいはまた「口称と念想とは必ず具足するなり。然りと雖も両種を相対する時は、念心を以て勝と為す。称名を以て劣と為す。劣を隠し、勝を顕すを名づけて念仏と為すなり。」(同、p. 691)と述べて、念仏三昧、観想念仏が称名念仏より優れているという立場を示している。 また善導が『観経疏』で正雑の二行を立て、さらに正行の中でも称名を正業とし、その他の礼拝などの行を助業とし、それ以外の行を雑行として斥けたたことについて、明恵は、「善導の正助の二業を作るは、能起の菩提心を以て置いて之を論ぜず。所起の諸行に就いて之を分別するなり。仏法諸行、皆まさに功を菩提心に譲るべし。菩提心は是れ体にして、称名等は是れ業なるを以ての故に。是れが故にもし菩提心と称名との二行に就いて之を論ずる時は、菩提心を以て正業と為す事、理在り、絶言すべし。是れを以て観経疏の第一の初めに、道俗時に衆等、各無上心を発せよと云う」(同、p. 688)と述べて、善導においても、称名念仏が念仏の根本ではなく、菩提心に基づく念仏三昧、観想念仏が根本であることを主張する。 このような立場から明恵は、法然の『選択集』においては、称名念仏が選び取られ、菩提心は捨てられていると非難する。このような法然の邪法が放置されれば、「三宝は滅し、国土を損じ、善神国を捨て、悪鬼国に入る。三災興り、十善廃る。」(同、p. 676)と嘆き、また「師及び弟子ともに大地獄に堕つ。」(同)と呪っている。また明恵は、末法になれば諸行の功徳がなくなるという主張に対して、「若し其の機根有る者は、悪世と為ると雖も、必ず発心す。若し発心する者は、必ず其の果有るべきなり。」(p. 715)と述べて、末法においても諸行の有効性は変わらないと主張する。この明恵の立場は、法然の専修・排他を批判しているのであって、兼修・諸行往生を認めれば、称名念仏をもそれなりの功徳のある修行として容認するものであった。

ー2 日蓮の法華経至上主義

 明恵は称名念仏容認の立場から法然の専修理論批判を展開したが、日蓮は法華経至上主義に基づいて法然批判を展開した。その議論を展開したのが、大文の第一の部分である。日蓮はこれをさらに4つの部分に分け、「大文の第一に如来の経教に於て権実二教を定むることを明すとは此れに於て四有り、一には大部の経の次第を出して流類を摂することを明し、二には諸経の浅深を明し、三には大小乗を定むることを明し、四には且らく権を捨てて実に就くべきことを明す。」(『創』、p. 56、『定』、p. 90)と述べる。法華経至上主義の立場はこの四の部分で示されるが、その部分を検討する前に、各々の部分を検討してみよう。 一の部分は天台宗の五時説を経文によって証明しようとする試みであるが、この五時説は中国、日本に伝えられた経典の大部分が直接釈尊によって説かれたという、今日では承認されない前提に立脚した議論である。諸経典は相互に無関係に作成されたものが多いから、それらの記述から、この前提に立って、諸経典の説時の前後関係を定めるということは、不可能に近い試みである。日蓮自身もこのことが困難であることを認めている。伝統的な五時説では、華厳、阿含、方等、般若、法華・涅槃の順に経が説かれたとされていた。ところが日蓮も「問うて云く、無量義経に云く、『初めに四諦を説き、乃至・次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説く』、此くの如き文は般若経の後に華厳経を説くと相違如何、」(『創』、p. 57、『定』、p. 91)、あるいは「問うて云く、無量義経には般若経の後に華厳経を列ね、涅槃経には般若経の後に涅槃経を列ぬ、今の所立の次第は般若経の後に無量義経を列ぬる、相違如何」(『創』、p. 58、『定』、p. 92)と述べているように、諸経典の記述は相互に矛盾していた。 日蓮は前者の無量義経の記述に関しては、「答えて云く、浅深の次第なるか、或は後分の華厳経なるか、」(『創』、p. 57、『定』、p. 91)と答え、無量義経の記述は、経典の説時の前後を述べたものではなく、経典の内容の浅深を述べたものであると解釈するか、あるいは華厳経の説時を二つに分け、華厳経の一部(初頓の華厳経)は最初に説法されたが、残りの部分(後分の華厳経)はかなり後で説法され、無量義経では後分の華厳経の説時について言及していると解釈するか、二つの可能性があるとしている。 また後者の無量義経の記述と涅槃経の記述との矛盾に関しては、「答えて云く、涅槃経第十四の文を見るに、涅槃経已前の諸経を列ねて涅槃経に対して勝劣を論じ、而も法華経を挙げず、第九の巻に於て法華経は涅槃経より已前なりと之を定め給う、法華経の序品を見るに無量義経は法華経の序文なり、無量義経には般若の次に華厳経を列ぬれども、華厳経を初時に遣れば般若経の後は無量義経なり。」(『創』、p. 58、『定』、p. 92)と述べて、その矛盾を回避しようとする。 日蓮はこの五時説を支持した後で、「大部の経大概是くの如し、此より已外諸の大小乗経は次第不定なり、或は阿含経より已後に華厳経を説き、法華経より已後に方等般若を説く、皆義類を以て之を収めて一処に置くべし。」(『創』、p. 59、『定』、p. 93)と述べて、五時説が完全なものではないことを認めてはいるが、五時説に従うべきだとしている。この日蓮の五時説の解釈の問題点については後に検討する。 五時説を主張した後で日蓮は、諸経の内容の浅深、価値について二の部分で論じる。そこで重要な役割を果たすのが、無量義経である。日蓮は「無量義経に云く、『初に四諦を説き[阿含]、次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説き、菩薩の歴劫修行を宣説す』、亦云く、『四十余年には未だ真実を顕わさず』、又云く、『無量義経は尊く過上無し』、此等の文の如くんば、四十余年の諸経は無量義経に劣ること疑い無き者なり。」(『創』、p. 59、『定』、p. 93)と述べて、特に「四十余年には未だ真実を顕わさず」という部分に着目して、無量義経以前の諸経は方便の教えであり、仮の教えであり、真実ではないという立場を取る。その上で無量義経と法華経を比較して、二乗作仏と久遠実成という教説が無量義経にはないから、法華経が優れているとする。さらに日蓮は「問うて云く、法華経と涅槃経と何れが勝れたるや、答えて云く法華経勝るるなり、問うて云く何を以て之を知るや、答えて云く、涅槃経に自ら如法華中等と説き、更無所作と云う、法華経に当説を指して難信難解と云わざるが故なり。」(『創』、p. 59、『定』、p. 94)と述べて、法華経が最も優れた経典であることを主張する。 三の部分は法華経に対すれば、他の大乗経も小乗経となるという主張であり、それほど大きな意味を持たない。 最も重要なのは、「第四に且らく権教を閣いて実経に就くことを明さば」(『創』、p. 61、『定』、p. 95)から始まる部分である。ここで「権教を閣く」と述べて、法華経以外の価値を認めないという法華経至上主義の立場を鮮明にしている。日蓮はその証文として十箇所を挙げているが、特に重要なのは「法華経に云く、『但大乗経典を受持することを楽て、乃至余経の一偈をも受けざれ』[是一]、涅槃経に云く、『了義経に依つて不了義経に依らざれ』[四十余年を不了義経という][是二]」(同)の二つであり、補足的に重要なのは、末法における法華経の有効性を述べた、「法華経第八普賢菩薩の誓に云く、『如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめて断絶せざらしめん』[是六]、法華経第七に云く、『我が滅度の後・後の五百歳の中に閻浮提に於て断絶せしむること無けん』[釈迦如来の誓なり][是七]」(『創』、p. 61、『定』、p. 96)の二つである。 是一の証文の「余経」を「法華経以外の経」と解釈すれば法華経至上主義の証文としては決定的な重みを持つ。是二の証文は、「了義経」がどの経であるかは諸宗によって異なるという問題はあるが、大文一の第一、第二の部分で法華経が最も優れていることを経文によって証明したと考えた日蓮にとっては、了義経とは法華経であり、法華経以外の諸経は不了義経となる。もし法華経や涅槃経の中にこれらの記述と矛盾する諸行往生の思想がなければ、日蓮の法華経至上主義の議論には十分な根拠があると言えるだろう。是六、是七の証文は末法においても法華経が有効であるという証文とされるが、これは法華経の末法についての記述を見なければ、いかなる重要性を持つのかまだ不明である。これについては次の節で検討しよう。

ー3 末法理論の受容

 明恵は末法になれば、優れた機根の衆生は少なくなるが、それでもその機根に応じて修行すれば、正法時代と同様な宗教的功徳を得ることができるとしている。この立場はまた道元においても変わらない。しかし日蓮は「大文の第二に、正像末に就て仏法の興廃有ることを明すとは、之に就て二有り、一には爾前四十余年の内の諸経と浄土の三部経と末法に於て久住・不久住を明す、二には法華涅槃と浄土の三部経並に諸経との久住・不久住を明す。」(『創』、p. 65、『定』、p. 100)と述べて、法然と同様に末法においては有効な経典と無効な経典とが区別され、またそれに応じて有効な修行方法と無効な修行方法があることを容認する。 この一の部分では、爾前の諸経典の範囲内では「諸経に於ては、多く三乗現身の得道を説く故に、末代に於ては現身得道の者之少きなり、十方の往生浄土は多くは末代の機に蒙らしむ、之に就て西方極楽は、娑婆隣近なるが故に、最下の浄土なるが故に、日輪東に出で西に没するが故に、諸経に多く之を勧む、随つて浄土の祖師のみ独り此の義を勧むるのみに非ず、天台妙楽等も亦爾前の経に依るの日は且らく此の筋あり、亦独り人師のみに非ず、竜樹・天親も此の意有り、是れ一義なり、」(『創』、p. 66、『定』、p. 101)と述べて、末代においては、成仏は困難であるから、浄土三部経に基づく極楽往生を願う修行方法の意義を一応は認める。しかし他方では「亦仁王経等の如きは、浄土の三部経より尚久く、末法万年の後・八千年住す可しとなり、故に爾前の諸経に於ては一定すべからず。」(同)と述べて、末法において有効なのは浄土三部経だけであるという主張を明確に否定している。しかしより重要なのは二の部分である。日蓮は「第二に法華涅槃と浄土の三部経との久住・不久住とを明さば、問うて云く、法華・涅槃と浄土の三部経と何れが先に滅すべきや、答えて云く、法華涅槃より已前に浄土の三部経は滅す可きなり、問うて云く、何を以て之を知るや、答えて云く、無量義経に四十余年の大部の諸経を挙げ了つて、『未顕真実』と云う故に、雙観経等の『特り此の経を留む』の言は皆方便なり虚妄なり、・・・身を苦しめ行を作すとも、法華涅槃に至らずんば一分の利益無く、有因無果の外道なり、在世滅後倶に教有つて人無く、行有つて証無きなり」(同)と述べて、無量義経以前の諸経典の説は全て無効であるから、大集経・雙観経の末法における有効性の議論も無効であり、正像末の三時に関わりなく、他の諸経典に基づく修行は無効であることを、「在世滅後倶に教有つて人無く行有つて証無きなり」と断定する。ここの議論で重要なのは、末法理論も爾前経で説かれるだけであったなら、日蓮は無効な議論として捨て去ることが可能であったということである。日蓮はこの後の箇所で薬王品の「我が滅度の後・後の五百歳の中に広宣流布し閻浮提に於て断絶せしむること無けん」(p. 54c, p. 605)を引用して、釈尊滅後の法華経の有効性を主張している。しかし、例えば後の『教機時国抄』に「日本国の当世は如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当つて、妙法蓮華経広宣流布の時刻なり、是れ時を知れるなり、」(『創』、p. 190、『定』、p. 244)とあるのとは異なって、「後五百歳」を特に末法の初めの五百歳であるというようには規定していない。法華経において末法理論がどのように記述されているのかということは重要な問題であるので後で検討しよう。

-4 日蓮の法然批判

 日蓮は「大文の第三」において法然の『選択集』を謗法と非難し、その理由を詳述している。その非難に対して、浄土宗の立場から予想される反論を、「問うて云く、一代聖教を聖道・浄土・難行・易行・正行・雑行と分ち、其の中に難・聖・雑を以て時機不相応と称すること、源空一人の新義に非ず、曇鸞・道綽・善導の三師の義なり、此亦此等の人師の私の案に非ず、其の源は竜樹菩薩の十住毘婆沙論より出でたり、若し源空を謗法の者と称せば、竜樹菩薩並に三師を謗法の者と称するに非ずや、」(『創』、p. 77、『定』、p. 106)と述べる。それによれば、法然の見解は竜樹・曇鸞・道綽・善導の解釈の伝統を踏まえているのである。 それに対して日蓮は、「答えて云く、竜樹菩薩並に三師の意は法華已前の四十余年の経経に於て難易等の義を存す、而るに源空より已来竜樹並に三師の難行等の語を借りて、法華真言等を以て難・雑等の内に入れぬ、」(同)と述べて、法然は竜樹以来の解釈の伝統を誤解していると批判する。 日蓮は法然の誤りを「選択集の第一篇に云く、道綽禅師・聖道浄土の二門を立て、而して聖道を捨てて、正しく浄土に帰するの文と約束し了つて、次下に安楽集を引いて、私の料簡の段に云く、『初に聖道門とは、之に就て二有り・一には大乗・二には小乗なり、大乗の中に就て、顕密権実等の不同有りと雖も、今此の集の意は唯顕大及以び権大を存す故に、歴劫迂回の行に当る、之に準じて之を思うに、応に密大及以び実大をも存すべし』[已上]選択集の文なり、此の文の意は、道綽禅師の安楽集の意は、法華已前の大小乗経に於て、聖道浄土の二門を分つと雖も、我私に法華・真言等の実大・密大を以て、四十余年の権大乗に同じて、聖道門と称す、『準之思之』の四字是なり、・・・総じて選択集の十六段に亘つて無量の謗法を作す根源は、偏に此の四字より起る誤れるかな、畏しきかな。」(『創』、p. 71、『定』、p. 106)と述べて、道綽は聖道門の中に、法華・真言を入れていないのに、法然は法華・真言を歴劫迂回の修行として、聖道門に入れたことに、誤りを見出している。確かに法華・真言は歴劫迂回の修行ではなく、速疾頓成の即身成仏の修行を説いているから、法然が歴劫迂回として実大、密大である法華・真言を聖道門に入れたのは誤りと言えよう。

-5 日蓮の唱題理論

 

 法然が道綽の聖道門の定義を拡大解釈して、法華・真言を歴劫迂回の聖道門の修行としたことは、理論的には誤りであったかもしれないが、道綽・法然の、末法の時代の衆生は機根が低く、修行しても証得することができないという主張は、理論的にはともかく実感的には説得力があったろう。 日蓮は最初期の著作である『戒体即身成仏義』において、念仏批判を展開した後で、「法華経の悟と申すは易行の中の易行也。只五戒の身を押へて仏因と云ふ事也。五戒の我体は即身成仏とも云はる也。……此の法華経は三世の戒体也。……此五戒を十界具足の五戒と知る時、我が身に十界を具足す。我が身に十界を具すと得意し時、欲令衆生仏之知見と説て、自身に一分の行無くして即身成仏する也。」(『定』、p. 13)と述べて、在家信者の戒である五戒を守るだけでも、法華経の十界互具を悟れば、即身成仏できるとしていた。 しかし問題はこのように述べたことから始まる。悟るとはどういうことなのか、単に十界互具の理論を知ることで悟ることになるのか、それとも悟るということは『摩訶止観』に説かれるような一心三観のような修行を必要とするのであろうか、あるいは台密における特殊な密教儀式を受けることが必要なのであろうかという修行方法の問題が生じる。そして「易行の中の易行」と言うほど簡単な修行であるはずの「法華経の悟」を得て、即身成仏した人間は誰であり、また本当にいるのか、という証得の問題が生じる。法然は、このような問題に対して、既成の仏教の修行方法では、この世で即身成仏することは事実上無理であり、それならば来世極楽往生を願うべきだという結論を出したのである。日蓮は『守護国家論』で法然批判を展開した後で、法華経に基づく易行を提示し、それが宗教的にどのような意義を持つのか、代案を提出しなければならなかった。それが称名念仏に対抗する唱題行であった。平安時代においても三宝に対する讃歎の儀式で南無妙法蓮華経と唱題されたことはあったが、称名念仏と同じような修行方法として主張したのは日蓮が最初であった。それゆえ日蓮は唱題が法華経に基づく一つの修行方法であることを論証しなければならなかった。日蓮は大文の第六において、「法華涅槃に依る行者の用心を明さば、一代教門の勝劣・浅深・難易等に於ては先の段に既に之を出す、此の一段に於ては一向に後世を念う、末代常没の五逆・謗法・一闡提等の愚人の為に之を注す、」(『創』、p. 87、『定』、p. 125)と救済の対象となる衆生を挙げる。次いで日蓮は唱題行の文証として、「但法華経の題目計りを唱えて三悪道を離る可きことを明さば、法華経の第五に云く『文殊師利是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず』第八に云く『汝等但能く法華名を受持する者を擁護する福量る可らず』提婆品に云く『妙法華経の提婆品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄餓鬼畜生に堕ちず』大般涅槃経名字功徳品に云く『若し善男子善女人有つて是の経の名を聞いて悪趣に生ずと云わば是の処有ること無けん』[涅槃経は法華経の流通たるが故に引けるなり]。」(『創』、p. 87、『定』、p. 125)と述べて、唱題行に関する経典上の根拠を示す。まず安楽行品の、仏滅後においては受持読誦の修行をする者はおろか、法華経の名字を聞くこともできないという記述はそれほど重要ではないが、次ぎの陀羅尼品の、受持読誦の修行者を擁護することはもちろん、法華名を受持する者を擁護することすら功徳が多いことを述べた記述は重要である。提婆品の記述は唱題行には直接は関係がないが不堕三悪道の証文としての役割を果たしている。これらの記述が唱題行の根拠として十分であるとは思われないが、陀羅尼品の受持法華名の一つの形態として法華名を唱えるという修行形態を提唱することは可能であろう。さらに日蓮は大文の第三の問答の易行問題に関連した箇所で、妙楽の解釈を引用して、「妙楽大師の、末代の鈍者無智の者等の法華経を行ずるに、普賢菩薩並に多宝十方の諸仏を見奉るを易行と定めて云く『散心に法華を誦し禅三昧に入らず坐立行・一心に法華の文字を念ぜよ』[已上]此の釈の意趣は末代の愚者を摂せんが為なり、散心とは定心に対する語なり、誦法華とは八巻一巻一字一句一偈題目一心一念随喜の者五十展転等なり、坐立行とは四威儀を嫌わざるなり、一心とは定の一心に非ず理の一心に非ず散心の中の一心なり、念法華文字とは此の経は諸経の文字に似ず一字を誦すと雖も八万宝蔵の文字を含み一切諸仏の功徳を納むるなり」(『創』、p. 74、『定』、p. 110)と述べて、誦法華の一部として題目を誦することを挙げている。この文脈との関連においては、法師品の一念随喜の箇所にある、「聞妙法華經一偈一句。乃至一念隨喜者。我皆與授記。當得阿耨多羅三藐三菩提。」(p. 30c, p. 384)、あるいは「若復有人。受持讀誦解説書寫妙法華經乃至一偈。於此經卷敬視如佛。」(同)という記述は、一偈一句の受持読誦を推奨しており、その一偈一句を妙法蓮華経という題目と解釈することを日蓮は提案しているとも読むことが可能である。

 『守護国家論』の諸問題

ー1 五時説の諸問題

 

 日蓮は諸経典の記述により五時説を論証するという方法を使用した。諸経典が釈尊によって説かれたという当時の仏教界の共通理解が、今日においては承認されないという、現在の文化基準から生じる外在的問題はここでは論じないことにする。むしろ私は日蓮の方法を使用して、五時説の論証が成功しているかどうか、内在的に検討したい。 日蓮の議論の中で最も重要なのは無量義経の扱いであろう。無量義経は「四十余年未顕真実」(p. 386b, p. 88)という記述により、それ以前の全ての経典の価値を否定した、日蓮にとって最も重要な経典の一つである。ところが無量義経の中に「初説四諦。爲求聲聞人。而八億諸天來下聽法。發菩提心。中於處處演説甚深十二因縁。爲求辟支佛人。而無量衆生發菩提心。或住聲聞。次説方等十二部經摩訶般若華嚴海雲。演説菩薩歴劫修行。」(p. 386b, p. 90)という記述があり、この脈絡からは、四諦、十二因縁、方等、般若、華厳という順に説いていったとしか読めない。 日蓮はこの説が天台の五時説と矛盾することを回避しようとして、(1)、無量義経は説時の前後ではなく、経典の内容の浅深を説いている、あるいは(2)、初頓の華厳経ではなく、後分の華厳経のことを述べていると解釈している。しかし無量義経には後分の華厳経という記述は全くなく、(2)の解釈には無理がある。また(1)の解釈については、方等経の説時に関して、無量義経の同じ箇所の記述を根拠に挙げて、阿含経の後に配置しているいるが(『創』、p. 57、『定』、p. 92)、これは無量義経が説時の前後を説いているという解釈を採用していることであり、(1)の解釈とは矛盾する。一つの経典の同じ箇所を説時の前後と経典の内容の浅深という二重の基準で解釈することは恣意的な解釈であると見なされてもしかたがないであろう。 無量義経の記述を重視すれば、天台の五時説は成立せず、無量義経の記述を無視すれば、四十余年未顕真実が成立しないというジレンマがここに生じている。したがって諸経典の記述を根拠にして五時説を立証するという日蓮の試みは失敗していると思われる。ただ日蓮にとって重要なのは、無量義経以前の経典の説時の順序がどうあれ、それらはすべて無効であるということである。五時説の論証という理論構成ゲームとしての日蓮の試みは失敗しても、法華至上主義のために無量義経の重要性を強調することの意義は失われない。

-2 末法理論の問題

 日蓮は当時の支配的思想であった末法理論を受け入れているが、やはりここでも私は、釈尊の仏滅年代に関する当時の共通理解が今日の歴史学では認められないという外在的問題は扱わないことにしよう。ただ法華経が正像末の三時説を説いているかどうかという問題は、法華経解釈の重要な論点であるから、内在的問題として検討しよう。 法華経(羅什訳『妙法蓮華経』)の中には「末法」という用語は、安楽行品の中に一ヶ所「又文殊師利。如來滅後。於末法中欲説是經。應住安樂行。」(p. 38a, p. 453)とあるが、 安楽行品においては「末法」という用語よりも、「後悪世」(5ヶ所)、「後末世」(4ヶ所)という用語が多用され、これらは相互に同じ意味で使用されている。したがって「末法」という用語の存在が三時説における末法概念の存在を根拠づけているわけではない。さらに譬喩品以降の釈尊の弟子達への授記の記述においては、「仏の寿命」「正法」「像法」(それも十二小劫、二十小劫などという長期間続く)という順で説明され、像法に続く末法の時代があることは予測されていない。したがって法華経には正像末の三時説がないという解釈は妥当であると思われる。「付記 分別功徳品に「悪世末法時」という語句があると指摘され、SATの大正蔵のデータベースで確認したところ、「末法」というテキストと「法末」というテキストの2種類があった。日蓮の真蹟遺文でも引用されているとも指摘があり、御書検索したところ『開目抄』に「分別功徳品」「悪世末法時」とあった。日蓮は分別功徳品に「末法」という用語がある法華経テキストを使用していた。」(2009/4/10)
 法華経には三時説がないけれども、その代わりに釈尊滅後の時代を表現した用語として「悪世」が法師品、宝塔品、勧持品で、「後悪世」「後末世」が、勧持品、安楽行品で使用され、また「後五百歳」の用語が薬王品では2ヶ所、普賢品では3ヶ所使用されている。これらの用語が釈尊後いつの時代を指すのかは定かではないが、法華経作成の時代が紀元前後であるとすれば、法華経制作者たちの意図としては釈尊滅後の第二の五百年であったろうと思われるが、北伝仏教の中では時代確定は明確ではなかった。そのため後に日蓮は薬王品の「我滅度後後五百歳中。廣宣流布於閻浮提無令斷絶」。(p. 54c, p. 605)の「後五百歳」の時期を確定するために、法華経の中でこれらの時代相を記述した部分に注目することによって、日蓮が生きていた時代(それは大集経の第五の五百歳、末法の初めの五百歳にあたる)が「後五百歳」に当てはまると解釈するようになったが、『守護国家論』の段階では、そこまで込み入った解釈はせず、単純に三時説を前提にし、それと「教行証」の議論とを結びつけ、末法において有効な経典と無効な経典があるという議論を展開している。ただしここで留意しなければならないことは、法華至上主義という議論においては、末法理論は付随的な議論であり、無量義経の「四十余年未顕真実」の証文のほうが日蓮にとっては決定的な重みを持ったということである。

-3 法華経至上主義と法華専修

 天台法華宗では法華経が最高の経典であることを認めた上で、四種三昧という諸経典に基づいた修行方法の有効性をも認め、諸行往生、諸行得脱の立場をとっていた。日蓮は大文第一の議論において、無量義経の記述などを論拠にして法華経こそ真の了義経、最高の経典であり、修行は法華経に基づくべきだと主張した。しかし問題は、法華経が最高の経典であると認めたとしても、それが法華専修を直ちに意味するかどうかを、検討しなければならないというところにある。 属累品には、「未來世に於いて、若し善男子善女人有って、信如來の智慧を信ぜん者には、当に爲に、此の法華經を演説して、聞知することを得せしむべし。其の人をして佛慧を得せしめんが為の故なり。若し衆生有って、信受せざらん者には、当に如來の餘の深法の中に於いて、示教利喜すべし。」(p. 52cp. 586)とあり、ここには法華経を信受しない者には、法華経以外の教えを説けと法華経自身のなかに説かれている。これは大文第一の四の是一の「大乘經典。乃至不受。餘經一偈」(p. 16a p. 248)という証文とは全く矛盾する記述である。 是一の譬喩品の引用された文の近くにも是一と全く矛盾する文がある。例えば「斯の法華經は、深智の為に説く。淺識は之を聞いて、迷惑して解せず。」(p. 15b p. 239)とあり、ついで「驕慢懈怠にして、我見を計る者には、此の經を説くなかれ。凡夫の淺識にして、深く五欲に著せるは、聞くとも解する能はず。亦た爲に説くことなかれ。」(p. 15bp. 240)とあり、機根の悪い者には法華経を説くことを禁じている。実は日蓮が引用した是一の文も「但だ楽って、大乘經典を受持して、乃至、餘經の一偈をも受けざる有らん、是くの如きの人に、乃ち爲めに説くべし。」(p. 16a p. 248)という文脈の一部であり、機根のよい人の一例を挙げて、その人に法華経を説けという意味であり、「余経の一偈も受けるな」という意味ではない。したがって法華経は法華経の修行のみを勧め、他の経の修行を無効としているわけではない。その意味で法華経至上主義は法華専修を意味するわけではない。法華経を信受しない者に浄土信仰を勧めることは属累品の記述によって正当化されうる。 『守護国家論』においては、日蓮は法華経至上主義の立場は固めることができたが、法華専修の立場を正当化することはできなかったと見てよいだろう。後に法華専修の理論として展開される本未有善、而強毒之の思想をまだ日蓮は発見していなかった。

-4 法華経の多様な修行方法

日蓮は大文の第六において陀羅尼品の「受持法華名」に着目して唱題行を提唱したが、『守護国家論』では、唱題行以外の修行としては謗法対治、正法護持などを強調するだけで、法華経の代表的な修行方法である五種の妙行については全く言及していない。日蓮は唱題行の功徳を不堕三悪道に限定したが、それは日蓮が大文の第六で唱題行の根拠として引用した、安楽行品、陀羅尼品の文が、いずれも五種の妙行に言及し、「(法華の)名字を聞く」ことや「受持法華名」は五種の妙行より劣るとしているから、唱題行の功徳を五種の妙行よりも優れたものとは主張できなかったことによる。 法華経には実に多様な修行方法が説かれている。代表的な受・持・読誦・解説・書写の五種の妙行については法師品以降で数多く言及され、その修行を行う者は「已曾供養十萬億佛。於諸佛所成就大願。愍衆生故生此人間。」(p. 30c, p. 384)の大菩薩であるとされ、「是諸人等於未來世必得作佛。」(p. 30c, p. 385)と未来の成仏を約束されている。また法師功徳品においては五種の妙行により「以是功徳莊嚴六根皆令清淨。」(p. 47c, p. 541)と、六根清浄の位に昇ることが述べられている。天台の六即の位では、五種の妙行の修行者は観行即、六根清浄を得た者は相似即に配当されている。またより容易な修行としては、法師品では「聞妙法華經一偈一句。乃至一念隨喜者。我皆與授記。當得阿耨多羅三藐三菩提。」(p. 30c, p. 383)と述べられ、法華経の一偈一句を聞いて随喜することも修行の一つであり、未来世の成仏を授記している。この随喜の心については分別功徳品に「如來滅後若聞是經。而不毀呰起隨喜心。當知已爲深信解相。」(p. 45b, p. 523)とあり、受持読誦の修行の前段階として位置づけされており、天台は観行即の五つの位の中では最初の位としている。 さらに容易な修行としては、法華経を聞くことも修行であることは、方便品に「聲聞若菩薩。聞我所説法。乃至於一偈。皆成佛無疑。」(p. 8a, p. 174)とあり、ここでは随喜の心への言及もない。 方便品には、過古仏の下での修行として、「乃至童子戲。聚沙爲佛塔。如是諸人等。皆已成佛道。」(p. 8c, p. 180)、あるいは「乃至童子戲。若草木及筆。或以指爪甲。而畫作佛像。如是諸人等。漸漸積功徳。具足大悲心。皆已成佛道。」(p. 9a, p. 181)、あるいは「若人散亂心。入於塔廟中。一稱南無佛。皆已成佛道。」(p. 9a, p. 182)ということが記述されており、これらの修行とも言えないほどの行為が成仏の因となることを示している。さらに安楽行品の中には「如來滅後。於末法中欲説是經。應住安樂行。若口宣説若讀經時。不樂説人及經典過。亦不輕慢諸餘法師。不説他人好惡長短。」(p. 37c, p. 453)とあり、悪世末法においては、他宗、他師を非難することがないように指示している。そのような安楽行品の指示を守って法を説く場合には、「有人來欲難問者。諸天晝夜。常爲法故而衞 護之。能令聽者皆得歡喜。」(p. 38c, p. 462)と述べて、諸天の加護があることを約束している。 あるいはこれらとは逆に、薬王品には厳しい修行として、「若有發心欲得阿耨多羅三藐三菩提者。能燃手指乃至足一指供養佛塔。勝以國城妻子。及三千大千國土山林河池。諸珍寶物而供養者。」(p. 54a, p. 599)と、焼身供養が説かれている。また勧持品には、悪世の中で迫害に堪えて法を説く菩薩の覚悟が述べられている。さらに修行の功徳として、さまざまなことが法華経では説かれている。薬王品には「若如來滅後後五百歳中。若有女人。聞是經典如説修行。於此命終。即住安樂世界阿彌陀佛大菩薩衆圍繞住處。生蓮華中寶座之上。」(p. 54b, p. 603)とあり、女人が法華経の修行をして阿弥陀仏の極楽世界へ往生できることを述べている。また普賢品では「若有人受持讀誦解其義趣。是人命終爲千佛授手。令不恐怖不墮惡趣。即往兜率天上彌勒菩薩所。」(p. 61c, p. 667)と述べて、未来仏である弥勒菩薩の兜卒天に往生できることを述べたりもする。あるいは普賢品には「若後世後五百歳濁惡世中。比丘比丘尼優婆塞優婆夷。求索者。受 持者。讀誦者。書寫者。欲修習是法華經。於三七日中應一心精進。」(p. 61b, p. 664)と、21日間の精進修行を勧め、その修行が完成すれば「滿三七日已。我當乘六牙白象。」(p. 61b, p. 665)と述べて、普賢菩薩が白象に乗って現れるという奇瑞が生じることを約束している。 また提婆達多品では竜女の即身成仏が、「當時衆會皆見龍女。忽然之間變成男子。具菩薩行。即往南方無垢世界。坐寶蓮華成等正覺。三十二相八十種好。普爲十方一切衆生演説妙法。」(p. 35c, p. 433)とある。 法華至上主義の論証に成功し、法華専修(=法華経に基づく修行)をうまく主張できたとしても、法華経が容認するこれらの多様な修行方法の中から何を選ぶべきか、あるいはこれらの中では直接言及されていない唱題行を唯一の修行であると述べるためには、日蓮はどのような議論を提案すべきなのだろうか。『守護国家論』で展開された議論は、日蓮の三大秘法専修への苦しい道のりを暗示している。

 

 

 

『本尊問答抄』について(1)

 

1 問題の所在

 私は既に発表した『日有の教学思想の諸問題』の付録「『創価学会研究』理念編第1部『日蓮正宗論』の概要」において次のように述べた。 「日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。」 さらに追記として次のような文章を付加した。

 

 「追記 『本尊問答抄』には真蹟がなく、日興写本が一部あるのみであり、これに対して、「曼陀羅正意を立てる日興門流の祖、日興上人の写本しか残されていない遺文を使って、『本門の本尊とは、南無妙法蓮華経だ』と論じても、日興門流以外の人たちの納得は得られないと思います。ですから、僕は、本尊問答抄は真蹟が無いので考察の基礎資料とはしない、という姿勢で考えています。」という見解もある(ネットに掲載されている『富士門流信徒の掲示板』のスレッド「本尊と曼荼羅」の「93問答迷人」書き込み(http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/))。しかし『本尊問答抄』に関しては、他の日興写本の信頼性によって、日興門流以外でも日蓮親撰と認める学者が多いと私は理解している。日蓮親撰ということを前提にしたうえで、日蓮宗に所属する川蝉は、「『本尊問答抄』は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。」と『本尊問答抄』の意義を説明し、「宗祖にとっては、法華経の題目は法華経の肝心であり、久遠釈尊の証悟でありますから、法華経の題目=釈尊でありましょう。ですから、『本尊問答抄』は、この御書では、『釈尊本尊を否定するばかりではなく、『法華勝釈尊劣』を明言しております。』と云って『法本尊正当説』であると単純には断定できないのです。」( 『富士門流信徒の掲示板』の別スレッド「日蓮聖人の本尊観」の「28」の書き込み(http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1028023669/))と述べて、法本尊正当説に対して異議を申し立てる。この問題については、第2部の「日蓮論」で検討する予定であるが、第一部の「日蓮正宗論」では必要ないと考える。」(2009/3/30)

 

 さらに漆畑正善が「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」において、私の『本尊問答抄』に対する解釈を批判したことに対して、次のように述べた。

 

 「『本尊問答抄』については、きちんとした議論が必要であるから、別の機会に行う予定であるが、漆畑の議論で私が疑問に思うのは、『即ち『本尊問答抄』の法勝人劣の御指南は、脱益の釈尊についてのものであり、人法一箇の本因妙の仏に対するものではない。』という解釈である。少なくとも『本尊問答抄』には『脱益の釈尊』や『人法一箇の本因妙の仏』という表現はない。つまりこれは『本尊問答抄』の議論と日蓮の他の著作の議論との関係をどのように解釈するのかという問題になるのである。日蓮の他の著作の中で本尊を法と仏とに分類して議論している箇所を私は知らないが、その意味では『本尊問答抄』は日蓮の著作の中で最も精密に本尊について議論している著作であると私は考えるが、この点について漆畑は同意してくれるだろうか。」

 

 私の主張は創価学会の本尊論=曼荼羅本尊正意説が、日蓮正宗の本尊論(本因妙の仏像=日蓮御影プラス曼荼羅説)や日蓮宗の本尊論(久遠実成仏像プラス曼荼羅説)とは違うということを示し、創価学会がそのような本尊論を採用するのは『本尊問答抄』によるのだということにある。しかし私の解釈に対して日蓮正宗の側も日蓮宗の側もそれぞれの立場から批判を加えているので、私の考えを説明したい。 私の論点は第一に、そもそも『本尊問答抄』というテキストには何が述べられているのかという点において、私や日蓮正宗、日蓮宗の間に果たして合意が形成できるのかということである。これは『本尊問答抄』という古文のテキストをどのように読むのかという読解問題であるが、この点で合意ができなければ、どんな議論もかみ合わなくなる。しかしこの点に関してある程度古文の読解能力がある人々の間に大きな相違があるとは思えず、しかも上記のように日蓮宗の川蝉(村田征昭)も日蓮正宗の漆畑正善も『本尊問答抄』が表面的には法勝を主張していることを容認しているらしいので、私は楽観している。 第二に、『本尊問答抄』の本尊論は日蓮の他の著作の本尊論とどういう関係があるのか、という問題である。この点においても、日蓮遺文の調査という学術的な問題であるから、ある程度私は合意形成が可能であると考えている。 第三に『本尊問答抄』の本尊論と他の著作の本尊論が整合的であれば何の問題も生じないが、不整合である場合、それらの著作の価値をどのように評価するのかという問題、つまりどの著作の本尊論を重要と考えるのかという問題である。この点では多分三者の主張の隔たりは大きいと思われる。 第四にそれでもなおかつ私が曼荼羅正意説にこだわる理由を説明したい。

 

 2 『本尊問答抄』の大意

 『本尊問答抄』の本文や大意については、ネットで検索すれば、容易に見つけることができるので、詳しく述べることはしないが、議論の必要上大事な要点だけ挙げておこう。以下の文中で私の注釈は( )によって表記する。なお引用に関しても紙媒体の頁番号を付けるのは煩わしいし、ネット検索が容易にできるのでしない。 まず冒頭で、「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」と述べて、「法華経の題目」を本尊とすべきことを明示する。次いで文献的根拠を検討し、『法華経』法師品の「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」(ここで経巻の中に如来の全身があると述べていることは、後で述べる能生・所生の議論とは別である)、『涅槃経』如来性品の「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり」(これは能生・所生の議論である)、天台大師智顗の『法華三昧懺儀』の「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」(これは『法華経』法師品の指示に従っている)という文章を挙げる。 これに対して智顗の『摩訶止観』や不空の『法華観智儀軌』では仏像を本尊とすることを述べていると疑問を呈したことに対して、智顗の『摩訶止観』よりも同じ智顗の『法華三昧懺儀』を重視すべきこと、また不空の『法華観智儀軌』(密教系の法華絵曼荼羅の図顕の方法を示している)は『法華経』宝塔品の文章を根拠としており、『法華観智儀軌』では「法華経の教主」を本尊としているが、それは「法華経の正意」ではないとする。(『法華経』法師品には経巻を安置せよという指示があるが、『法華経』宝塔品には教主釈尊を本尊とせよという指示はないから『法華観智儀軌』で「法華経の教主」を本尊とすることは不空の独断であり、「法華経の正意」ではない、と主張していると、これまでの文章との続きの上からは解釈できるが、別の解釈として宝塔品の教主釈尊は迹門の教主であり、本門の教主でないから「法華経の正意」ではないとしている解釈もありうる。しかしこの『本尊問答抄』では本迹の教主の議論はしていないからこの解釈は強引だと思われる。それでも「法華経の本意」がこの『本尊問答抄』内部で述べられていることでとりあえず完結するのか(これは前者の解釈である)、それとも例えば本迹の議論など他の著作で「法華経の正意」として扱われていることを参照しなければ理解できないことなのか(これは後者の解釈である)は、この『本尊問答抄』全体の解釈に大きく関わってくる)。次いで日蓮は「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」と述べて「上に挙ぐる所の本尊」すなわち冒頭の文にある「法華経の題目」を本尊とすることを再度主張する(だがこれまでの議論を詳細に見てくると「法華経」を本尊とせよという議論はあったが、「法華経の題目」を本尊とせよという議論はなかった)。 次いで上述の議論を別の論点から展開し、他の宗派では仏像を本尊としているのに対して、なぜ天台宗だけ法華経を本尊とするのか、また「仏と経といづれか勝れたるや」という疑問を提出し、「本尊とは勝れたるを用うべし」と答え、「仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」と答えたことに対して、再び「云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや」という疑問を提出し、「上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」と上述の議論を繰り返して述べた上に、その理由として、「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり」と述べて、『法華経』から釈尊、十方の諸仏が生じた(=『法華経』を修行することにより成仏できたと解釈するしかないだろう)から、『法華経』は能生であるがゆえに本尊とするのだと主張する(これは「仏と経といづれか勝れたるや」という議論との関連で述べられているから、法華経=能生が勝れ、仏=所生が劣っているという議論だと解釈するしかないだろう)。その上で『法華経』が能生であるという文献的根拠を『法華経』の結経とされる法華三部経の一つである『普賢経』の文章を引用して示す。そして「此等の経文仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神なり」と述べて、能生、所生の議論をまとめ(ここでは仏=所生=身、法華経=能生=神(たましい)という対応関係が確認できると思われる)、次いでその議論の適用例として「然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし」と述べて、開眼供養は能生の法華経によるべきであり、「今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり」と述べて、密教系の開眼供養を否定する(この開眼供養の議論は全体の文脈の中での解釈が難しい。法華経により開眼供養すれば仏像を本尊としてもよいということを含意しているのか、それとも密教系の開眼供養を否定するための前振り、導入部分に過ぎないのか、前者であればこれまで述べてきたことと整合的ではなく、後者であれば、仏像は本尊ではないのだから不必要な議論であろう)。 次いで真言密教批判を展開するが、この部分は本尊論とはほぼ無関係な議論であり、省略する。最後の部分で「此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間・一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず」と述べて冒頭の本尊が、日蓮が図顕した曼荼羅であることを示し(どうして冒頭の「法華経の題目」としての本尊が日蓮図顕の曼荼羅になるのかは説明されていない)、日蓮は『法華経』でこの本尊を弘通すると予言されている上行菩薩ではないが、上行菩薩に先駆けて弘通して諸難を受けていると述べて(この文の解釈も難しい。三位日順の『摧邪立正抄』で、この文を日像門流では日蓮が上行菩薩ではないことの証文と見なし、日興門流では日蓮が上行菩薩の振る舞いをしていることを通じて上行菩薩だと主張している証文だと見なしており、水掛け論になっていることを述べている。)、「他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給い候へ」と『本尊問答抄』を与えた浄顕房に対して修行の仕方を教示している。

 

 多分素直に読解すれば、『本尊問答抄』では、法華経は能生であり、仏は所生であるという理論的根拠から、能生の法華経が勝れており、それゆえ「法華経の題目」を本尊とすべきであり、その「法華経の題目」を本尊とした具体的な本尊は日蓮が図顕した曼荼羅であるという理論構成になっていると思われる。 だがこの理論構成には多くの問題も含まれている。『法華経』の中で仏舎利ではなく経巻を安置せよと指示している法師品では、その理論的根拠として能生・所生の議論ではなく、経巻に如来の全身が在るからだと述べていることにより、経巻が仏より勝れているという能生・所生の議論を無効にしているとも解釈できる。日蓮はこの『本尊問答抄』では、『法華経』からの引用に限定すれば、『法華経』法師品だけを本尊論に関する『法華経』の指示であるとしているから、たとえ法華三部経の一つである『普賢経』に能生・所生の議論があっても、その議論が『法華経』法師品の議論よりも優先するということは示していない。能生・所生という議論は『本尊問答抄』にとって決定的に重要な議論なのだが、その議論は『涅槃経』『普賢経』の議論でしかないということは『本尊問答抄』の素直な読解を危うくさせる。 しかも法師品は法華経を安置せよと指示しており、智顗の『法華三昧懺儀』もその指示に従っているのに、なぜ『法華経』ではなく「法華経の題目」が本尊となるのだろうか。このことも何も説明されていない。例えば初期の著作の『唱法華題目抄』では「法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、・・・故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏諸経の題目は法華経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。」と述べて、題目即ち「妙法蓮華経」の一部分である「妙法」に「法華経の肝心」の法門が含まれているから、「法華経の題目」は尊いのだという説明をしているが、この『本尊問答抄』ではそのような説明は何もない。 しかも文末でその「法華経の題目」を本尊とすることが日蓮図顕の曼荼羅とされているが、両者が同一であることの理由も何も説明されていない。曼荼羅全体が法華経の題目の本尊に当たるのか、それとも中央にある「南無妙法蓮華経」が、あるいはその一部の「妙法蓮華経」が、あるいは日蓮正宗が解釈するように「南無妙法蓮華経日蓮」が「法華経の題目」の本尊に当たるのか、説明は何もない。 また開眼供養の議論も全体の議論とどのように関係しているのかも不明である。能生の法華経で開眼供養すれば、仏像を本尊とすることは容認されていると解釈すべきか(そう解釈すれば、仏像ではなく法華経を本尊とすべきという全体の議論との整合性がなくなる)、あるいは真言による開眼供養を否定するための導入部分にすぎないのか、どちらかの解釈をとるべきかに関する指示は『本尊問答抄』にはない。 また「法華経の正意」についても明確な説明がなされているかどうか、解釈が分かれるところである。『本尊問答抄』の文脈からは「法華経の正意」とは最初の部分に述べられた法華経法師品が経巻を本尊とせよと指示していることを指すと思われるし、さらにその後で「上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊・法華経の行者の正意なり」と述べ、さらにその後で「上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり」と述べて、法華経法師品と智顗の『法華三昧懺儀』の議論を重視していることを繰り返し確認しているから、私は『本尊問答抄』内部の文脈だけで、「法華経の正意」を理解することは可能だと思っているが、後に述べる優陀那日輝は「法華経の正意」とは本迹の教主の区別であり、不空が宝塔品によって釈尊を本尊としているのは迹門の始成正覚の仏であるから「法華経の正意」ではないとしているのだという解釈をし、その解釈を後に述べるように日蓮宗の村田征昭は支持しているのだから、問題としては残しておく必要があるだろう。 これらの点から『本尊問答抄』は説明を要する箇所がそれなりに残っている、不完全あるいは不十分な議論であると見なすこともできるだろう。

 

 

 

るために、わざわざ『観心本尊抄』の文章によって補足するという読解方法は素直な読解とは言えないということは認めなければならないであろう。ただこの場合の読解でも本尊としての「本門の教主釈尊」と「妙法蓮華経の五字の本尊」との関係については何も述べられていない。

 

 3-4 その他の著作

 3-4-1 『新尼御前御返事』

 その他の本尊に関する著作はあまり大きな意義を持つとは思えないが、参考までに引用すると佐渡流罪の赦免後身延に入ってまもなくの文永期に書かれた『新尼御前御返事』には次のように述べている。

 

 「但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候、今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが、金色世界の文殊師利兜史多天宮の弥勒菩薩補陀落山の観世音日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士我も我もと望み給いしかども叶はず、是等は智慧いみじく才学ある人人とはひびけどもいまだ法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし、我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、あなかしこあなかしこ我が滅度の後正法一千年像法一千年に弘通すべからず、」

 

 ここで「御本尊」として述べられているのは、日蓮の図顕した曼荼羅のことであるが、その「御本尊」とどういう関係があるかは明示されないままに法華経本門の「教主」である久遠実成「釈尊」が「真の弟子」である「上行菩薩等」に「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字」を譲り、末法時代に弘通させるということが述べられている。「御本尊」が「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字」と同じなのか、それとも「法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字」の一部なのかは、文脈によっても判断しにくい。

 3-4-2 西山本『一代五時鶏図』

 次に著述年代が不明な(建治年間と推定されているようだが)西山本『一代五時鶏図』には諸宗の本尊と比較して天台宗の「御本尊」として次のように述べている。

 

 「華厳のるさな真言の大日等は皆此の仏の眷属たり  久遠実成実修実証の仏天台宗の釈迦如来       応身  有始有終始成の三身  報身  有始無終       真言の大日等       法身  無始無終       応身久成の三身  報身  無始無終       法身華厳宗真言宗の無始無終の三身を立つるは天台の名目を盗み取つて自の依経に入れしなり。」

 

 天台宗の「御本尊」である「久遠実成実修実証の仏」について、「久成の三身」の「無始無終」を述べている。ただこの西山本『一代五時鶏図』では脇士の問題が全く言及されていないが、天台宗の釈尊の脇士は文殊・普賢菩薩などであり、本化の四菩薩が脇士となっているものは日蓮が生きていた時代にはなかったようであるから、脇士によって釈尊の位を判断するという日蓮の『観心本尊抄』の議論からすれば、天台宗の本尊は、理論としては法華経本門の久遠実成釈尊の位置づけではあっても、脇士の安置様式から判断するとまだ法華経迹門の始成の釈尊にすぎないとされるであろう。

 3-4-3 『四条金吾釈迦仏供養事』

 ちなみに仏像造立に関しては四条金吾に与えた建治期の書状である『四条金吾釈迦仏供養事』には、次のように述べている。

 

 「御日記の中に釈迦仏の木像一体等云云、・・・されば画像木像の仏の開眼供養は法華経天台宗にかぎるべし・・・此の仏こそ生身の仏にておはしまし候へ、優填大王の木像と影顕王の木像と一分もたがうべからず、梵帝日月四天等必定して影の身に随うが如く貴辺をばまほらせ給うべし」

 

 四条金吾に授与された曼荼羅は、後述する妻の日眼女と同時期の弘安三年の曼荼羅が現存しているが、上述した文永期の『新尼御前御返事』には在家信者の新尼に曼荼羅が授与され、その母親の大尼の曼荼羅授与の希望を拒否していることなどから推測すると、現存する曼荼羅以前に、鎌倉在住の在家信者の中心者であった四条金吾にも早い時期に曼荼羅授与がなされていたとも想像できるが、四条金吾関連の書状は、真蹟、直弟子写本が残っていないものが多く、確定的なことは言いにくい。もし曼荼羅が授与されていたとするならば、四条金吾は仏像造立以前には、曼荼羅を安置して、それに対して唱題をしていたと思われるが、それに満足することなく釈尊像を造立したことに対して、日蓮が賞賛していると読解できる。ここでは在家信者が仏像造立することを日蓮が賞賛している事実だけは確認できる。

 3-4-4 『日眼女造立釈迦仏供養事』

 また弘安期に書かれた『日眼女造立釈迦仏供養事』には、次ぎのように述べている。

 

 「御守書てまいらせ候三界の主教主釈尊一体三寸の木像造立の檀那日眼女御供養の御布施前に二貫今一貫云云・・・釈尊一体を造立する人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり、・・・今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし」

 

 ここで「御守」と書かれているのは現存する日眼女に授与した曼荼羅(1紙)のことである。四条金吾の妻の日眼女が三寸(約9cm)の大きさの「三界の主教主釈尊」の木像を一体造立したことに対して「今日眼女は今生の祈りのやうなれども教主釈尊をつくりまいらせ給い候へば後生も疑なし」と誉めていると素直に読解できるだろう。ここで注目すべきは曼荼羅を「御守」と表現していることと、日蓮が日眼女の釈尊像造立を知りながら、あえて「御守」と表現されている曼荼羅を与えたことである。しかもこの書状の中では曼荼羅のことについては何も言及せずに、ひたすら釈尊像造立の功徳を賞賛しているのである。日眼女の信仰生活において、造立された小さな仏像が安置され、それを本尊として唱題することが推測されるのに、それに対して否定的な見解を述べることなく、賞賛しているのだから、在家信者が釈尊像を造立することに対して、積極的に容認していると思われるが、それにもかかわらず御守としての曼荼羅を授与していることにどのような意味があるのかは不明である。この曼荼羅を釈尊像とともに安置すべきであるとも指示されていないので、この「御守」としての曼荼羅には、「本尊」としての機能、すなわち室内に安置し、それを対象にして唱題するという機能があるのか、それとも「御守」としての機能、すなわち日常的に携帯して、身の安全を祈るという機能しかないのであろうか、これもよく分からない問題である。現存する四条金吾に授与された曼荼羅は3枚継であるのに対して日眼女に授与された曼荼羅は1紙で大きさがかなり違い、その違いが、集会などで本尊として奉掲すべき曼荼羅と、御守として携行、所持する曼荼羅の相違を生み出したのだろうか。

 3-4-4 『真間釈迦仏御供養逐状』

 また寺院に安置された釈迦仏として、日蓮が竜の口の法難直後に相模の依智において冨木常忍に与えた『真間釈迦仏御供養逐状』に「釈迦仏御造立の御事、無始曠劫よりいまだ顕れましまさぬ己心の一念三千の仏造り顕しましますか、はせまいりてをがみまいらせ候わばや」と言及があり、やはり賞賛している。 なお身延期の本尊安置様式に関しては、『忘持経事』において、「室に入り教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し歓喜身に余り心の苦み忽ち息む」とあるから、釈迦仏像を本尊としていたことは確認できるが、「妙法蓮華経の五字の本尊」に関しては明確な記述はないが、多くの弟子・檀那に曼荼羅を授与しながら、身延の庵室に曼荼羅が安置されていなかったとは想定しにくいとされている。信者の供養を「法華経の御宝前」に供えたという記述はそれなりに見られるが、この「法華経」が法華経の経巻を指すのか、それとも曼荼羅を指すのか、何も明確なことは分からない。

 

 3-5 まとめ

 ここまでの他の著作に見られる本尊論をまとめてみれば、初期の著作である『唱法華題目抄』では『法華経』法師品、神力品を文献的根拠として、法華経、題目を本尊とし、経済的余力があれば、その左右に釈迦多宝のニ仏を安置し、さらに余力があれば十方の諸仏、普賢菩薩等を安置するよう指示している。神力品には釈迦を礼拝供養することを述べた文章もあるが、それを無視して、第一に法華経を安置するように指示していることは興味深い。また法華経のみならず、題目をも本尊としてよいという指示は文献的根拠がないだけに、日蓮の易行化への傾向を示すものとして注目すべきだろう。日蓮が曼荼羅を図顕する以前にどのような本尊安置様式をとっていたかは、『神国王御書』によれば、釈迦仏像の周囲に一切経を安置していたようで、『唱法華題目抄』の指示を日蓮自身が遵守していないことが分かる。

 『観心本尊抄』では仏像が本尊となる理論的根拠は「一念三千の仏種」であり、それは「釈尊の因行果徳の二法」と言い換えられ、末法においては「妙法蓮華経の五字」であるとされ、次いで「妙法蓮華経の五字の本尊」として曼荼羅の相貌が示される。その後仏像の脇士の問題をとりあげ、「本門寿量品の本尊並びに四大菩薩」への言及がなされ、文脈から「本門寿量品の本尊」は久遠実成釈尊を指していると思われる。『観心本尊抄』では「一念三千の仏種」=「釈尊の因行果徳の二法」=「妙法蓮華経の五字」が根本の法として述べられ、その根本の法と本尊との関係については説明されずに、「妙法蓮華経の五字の本尊」と「本門寿量品の本尊」とに言及され、また両者の関係についても説明されることがない。『顕仏未来記』においては「本門の本尊妙法蓮華経の五字」が流布されるべき法として挙げられ、「本門の本尊」と「妙法蓮華経の五字」との関係については相変わらず何も説明されず、また「本門の本尊」についての具体的な言明もない。

 三大秘法について述べた『法華行者逢難事』においては「本門の本尊と四菩薩」が三大秘法の一つとして言及され、これは『観心本尊抄』との整合性から「本門の本尊」は久遠実成釈尊を指示していると解釈できる。『法華取要抄』では『法華行者逢難事』において「本門の本尊と四菩薩」と表現されていた部分が「本門の本尊」という表現に変更されている。この変更により「本門の本尊」が具体的には何を指すのかは不明瞭になるが、「妙法蓮華経の五字の本尊」も「本門の本尊」として解釈可能になる。>br>  『報恩抄』には「一には日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし」とあり、前半の文により「本門の教主」=久遠実成釈尊が本尊となることは明らかであるが、後半の文の読解意が難しい。「脇士」となるのは直前の「四菩薩」だけなのか、それとも「並びに」があるから「外の諸仏」も「四菩薩」と同格になり「脇士」になるのか、また「宝塔の内の釈迦多宝」には述語がないから、これも「脇士」の主語になるのか、この文だけを素直に読解するなら述語は一つしかないから、「所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩」全体が主語となり、「所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩」が「脇士となるべし」と読むしかないだろう。しかし前文で「本門教主釈尊」が本尊となることが明示されているのにもかかわらず、後文の「釈迦」が同じ対象を指示しているなら、それが「脇士」となることは論理的に矛盾している。前文の「本門教主釈尊」と後文の「釈迦」とは異なった対象を指示しているとするのが日蓮正宗の解釈である。これに対して後文は不完全な文であり、多くの語句が省略されているという解釈もあり、似たような文章である『観心本尊抄』の「妙法蓮華経の五字の本尊」について述べた文章から省略部分を補うと「所謂宝塔の内の釈迦多宝(は妙法蓮華経の左右にあり、)外の諸仏(は大地の上に処し給い、)並に上行等の四菩薩(は塔中の末座に居して、)(釈尊の)脇士となるべし」となり、論理的矛盾は解消するが、この解釈によれば『報恩抄』では前文で「本門教主釈尊」を、後文で「妙法蓮華経の五字の本尊」を、本尊として認めているということになる。だがここでも二種類の本尊の関係は説明されていない。

 その他の著作では『新尼御前御返事』では曼荼羅のことが「御本尊」と表現されているが、その後の文中に出てくる「妙法蓮華経の五字」との関係は説明されていない。西山本『一代五時鶏図』には天台宗の「御本尊」として「天台宗の釈迦如来」が「久遠実成実修実証の仏」として表現され、「無始無終」の「久成の三身」とは記述されているが、この著作では脇士の問題が全く言及されていないので、「天台宗の釈迦如来」は理論的には久遠実成仏であっても、脇士から判断するとまだ法華経迹門の始成仏となるだろう。その他に日蓮の生前に仏像造立をした四条金吾とその妻日眼女に与えた書簡から、日蓮が曼荼羅授与とは無関係に釈迦仏造立を賞賛していたことを確認し、次いで曼荼羅にも大きさの違いから、集会に奉掲する本尊としての曼荼羅と、身に携帯する御守としての曼荼羅がありそうだということを示した。また寺院に釈迦仏像を安置することを日蓮は賞賛していた。

 以上見てきたように、日蓮の本尊論は『唱法華題目抄』では本尊として『法華経』の経巻を最初に挙げ、次いで「釈迦多宝」の仏像を挙げ、また『観心本尊抄』では「「妙法蓮華経の五字の本尊」がまず示され、次いで「本門寿量品の本尊」として四菩薩を脇士とする法華経本門教主の久遠実成仏が示される。両者とも法本尊を先に説き、後で仏本尊を説くという論理展開になっているが、その理由については何も説明していない。特に『唱法華題目抄』では文献として挙げられた神力品には釈迦を礼拝供養の対象とすることが述べられているのに、その記述を無視する理由も挙げていない。三大秘法関係の著作では久遠実成仏を本尊とする記述が多いが、『報恩抄』のように多様な読解を許容する表現もある。その他の著作では曼荼羅を本尊と表現しているものもあるが、釈迦仏の造立を賞賛している箇所もある。日蓮の松葉が谷の草案では釈迦仏像が中心に安置されていて、『唱法華題目抄』の指示は遵守されていない。これらのことから分かることは、日蓮自身は法本尊と仏本尊の両方を積極的に容認していたことであり、たとえ法本尊を優先するかのような表現があっても、その表現は仏本尊を排除することを含意するわけではないということである。ただ両者の関係について述べた箇所は全くない。

 また『観心本尊抄』では「一念三千の仏種」=「釈尊の因行果徳の二法」=「妙法蓮華経の五字」が根本の法として述べられたが、その法と本尊との関係についても説明されることがない。成仏という救済の秘儀を示す「妙法蓮華経の五字」の修行には一体何が必要なのだろうか。私がここで「救済の秘儀」という用語を使用したのは、キリスト教カトリック派では7つの秘儀(サクラメント)(洗礼 聖体(ミサ) 婚姻 叙階(聖別) 堅信 告解 終油)が救済のために必要だとしたのに対してプロテスタント派では2つの秘儀(ミサと洗礼)のみで十分だと主張したという論争を念頭においている。日蓮は初期においては『唱法華題目抄』で本尊並びに日常的な修行について次のように述べている。

 

 

 「行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志あらん人は必ず習学して之を観ずべし。」

 

 常の所行として「題目を南無妙法蓮華経と唱うべし」ことを強調していたから、成仏するためには唱題が必要であることは当然としても、本尊までうるさく教導したかどうかは不明である。しかしながら『唱法華題目抄』では「法華経を信じ侍るはさせる解なけれども三悪道には堕すべからず候六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか」と述べて、「法華経を信じ侍る」ことには唱題が含まれるであろうが、その功徳は「三悪道には堕すべからず」であり、「六道を出る」には「一分のさとり」が必要であるという天台教学の当然の立場も主張されている。この立場では成仏するためには、唱題のみならず、「一分のさとり」も救済の秘儀として要求されている。 『観心本尊抄』になれば「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」と述べて、成仏のためには「一分のさとり」はもはや不必要となり、「妙法蓮華経の五字」の修行だけで十分とされるが、その「妙法蓮華経の五字」の修行が唱題だけでよいのか、それとも他の秘儀、例えば本尊が必要なのかということは全く説明がなされていない。三大秘法が強調される頃には、「妙法蓮華経の五字」の修行には、「本尊」に向かって題目を唱えることが必要とされると想定されるが、「戒壇」がどのように「妙法蓮華経の五字」の修行に関わってくるのか不明である。日蓮の生前には日蓮系の戒壇は存在していなかったから、「戒壇」がなければ成仏できないという意味ではないだろう。せいぜい言えることは、戒壇建立目指して、布教活動しながら、本尊に向かって唱題するということが三大秘法の修行ということになるだろう。 それにしても真蹟、身延曽存、直弟子写本以外の文献にそれなりにこれらの問題について明確なものが多く、例えば『三大秘法抄』には「正法には天親菩薩竜樹菩薩題目を唱えさせ給いしかども自行ばかりにしてさて止ぬ、像法には南岳天台等亦南無妙法蓮華経と唱え給いて自行の為にして広く他の為に説かず是れ理行の題目なり、末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」とあり、題目の修行に「自行」としての唱題と化他行=布教活動がふくまれることを明示し、「戒壇」についても具体的に言及している。私はこれらの文献が、日蓮自身の著作に含まれると考えることに対しては慎重であるが、日蓮仏法を日蓮個人の著作と、そこから抽出される思想とに限定することに対しては反対している。日蓮が明確にしなかったことは数多くあるので、後世の日蓮の信奉者が、その不明確な問題に対して、自分の信仰に基づいて、何らかの回答を提案し、それを日蓮に仮託することは、少なくとも不明確な問題を何とか説明しようとする努力が見られる点で、宗教としては大いに望ましいことであると思う。このことは後で再び論じよう。

 

 

 

 

『本尊問答抄』と他の著作との関係

 

 4-1 日蓮正宗の解釈

 『本尊問答抄』に関する日蓮正宗の解釈をネットで検索すると、日蓮正宗法華講連合会の機関誌『大白法』第658号の掲載論文が転載されていたので、利便性のためにそれを利用して検討してみよう。(「日蓮正宗法華講本部の現在の指導教師は八木日照(東京・法道院主管、総監)、水島公正(所沢・能安寺住職、宗務院教学部長)、阿部信彰(東京・常在寺住職、宗務院布教部長)の3名。」とあるので、機関誌『大白法』もその指導の下に発行されていると考えてよいだろう。) 「本抄の大意」として、次のように述べている。

 

 「まず、末代悪世の凡夫が本尊とすべきものは法華経の題目であると標示せられ、法華経(『法師品』)や涅槃経(『如来性品』)、天台の『法華三昧懺儀』といった経釈を引用してこれを証明し、 『上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり』と断言されています。 次いで、諸宗の本尊を一々に破折され、釈尊や天台大師が法華経を本尊とされた経釈に基づき、仏は所生で法華経は能生であることから、釈尊を本尊とはせずに、能生の法である法華経を本尊とすべきことを述べられています。(中略) 最後に、大聖人様の御図顕される御本尊が仏滅後未曾有にして末法弘通の本尊なることを教示せられると共に、父母と師匠と一切衆生に対し、法華弘通と謗法呵責の功徳を回向していくことの祈請をしていることを披瀝され、浄顕房にも他事を打ち捨てて授与の御本尊に後生を祈っていくことを強く勧められ、本抄を結ばれています。」

 

 少なくともこの読解に関して私には異存はない。 次いで「拝読のポイント」として、まず「本門戒壇の大御本尊こそ成仏の根源」ということが次のように述べられている。

 「第一に、末代悪世の私たち凡夫が尊崇すべき本尊とは、末法の法華経の行者・御本仏日蓮大聖人様が建立あそばされた、本門戒壇の大御本尊に在すということです。(中略) また、『法華経の題目』こそ末法の法華経の行者の正意であるとの意は、まさに御本仏日蓮大聖人様によって、初めて建立弘通されるべき御本尊であるということです。 すなわち、それは『観心本尊抄』において、 『在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字なり』」(御書 656頁)  と、在世と末法との本門の異なりを判じ、末法流通の正体として示された、寿量文底・本因下種の南無妙法蓮華経を指すのであり、それが末法の一切衆生即身成仏のための本門の大曼荼羅本尊として建立されたのです。」

 

 ここまでの解釈に関しては、「本門戒壇の大御本尊」「御本仏日蓮大聖人様」「寿量文底・本因下種の南無妙法蓮華経」という日蓮正宗の独特の見解を除けば、それほど問題はないだろう。しかしそれに続いて次のように述べられると急に違和感が生じる。

 「さらに述べると、この南無妙法蓮華経の大漫荼羅本尊は、『御義口伝』に、『本尊とは法華経の行者の一身の当体なり』(同 1773頁)と御教示のとおり、人本尊たる末法下種の御本仏大聖人様の御当体として、その御魂を御図顕あそばされた、人法一箇・事の一念三千の法本尊に在すのです。 さらに大聖人様の御化導より拝すると、出世の本懐として建立御図顕された、弘安二(一二七九)年十月十二日の本門戒壇の大御本尊こそ、『法華経の題目を以て本尊とすべし』との仰せの本意であると知るべきです。」

 ここの議論で『御義口伝』を引用することによって、能生・所生の議論が否定され、法本尊としての曼荼羅と人本尊としての「末法下種の御本仏大聖人様」が同格の本尊として位置づけられ、曼荼羅は「人法一箇・事の一念三千の法本尊」として、人本尊の意味も含むという議論展開となる。私は『御義口伝』を日蓮親撰とは認めていないが、その議論については、『漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する』を参照していただきたい。さて「人法一箇論」が日蓮正宗において議論されたのが、いつ頃なのか、私にはよく分からないが、少なくとも日有の議論にはない。しかし日蓮宗全体で見れば、日有と同時代には既に存在していた。このことは既に『日興の教学思想の諸問題』で指摘しておいたが、以下に引用する。

 

 「なお『本尊論資料』にはAN174の日朗門流の筆者不明の相伝書『御本尊相伝』があるが、そこには『問首題の下に必ず日蓮判と遊ばす義如何 答日向門徒には法華堂をば皆御影堂と習うなり。その故は首題の下に日蓮と遊ばしたるは妙法全く我が身なりといえる御心中なる旨なり。左右の脇士はまた日蓮聖人の脇士なり。諸堂みな御影堂なりと申す伝なり。また首題の下に御名を遊ばすは人法一体能弘所弘不二なることを顕すなり。真間流の人は大聖人の大の字を制して書くなり。定めて人法一体の意なり。その故は地湧の四大士と中央の首題と引き合わせて習うに、首題は空大なり、四菩薩は四大にて、その義通ずる故に空大妙法と聖人とは全く一体となれば、日蓮空聖人という意にて大聖人と書くなり。大は空の義の故なり。』(『本尊論資料』 p.314)とあり、後に日蓮正宗で主張される本尊の首題と日蓮を一体にして人法一体と解釈するという議論が既に日有の時代に日朗門流や真間門流には存在していたことを示している。日有自身には人法一体の議論はまだない。」

 

 あるいは三位日順の『誓文』に、「本尊総体の日蓮聖人」という用語があることをもって、人法一箇の思想が三位日順にあったという議論を日蓮正宗ではするが、この『誓文』が起請文と呼ばれる文書様式に沿った文献であり、誓約の具体的な神仏として「本尊総体の日蓮聖人」が勧請されたにすぎず、日蓮御影でも代行可能な表現であることは『漆畑正善論文「創価大学教授・宮田幸一の『日有の教学思想の諸問題』を破折せよ」を検討する』でも述べておいた。 また「本門戒壇の大御本尊」「種脱相対」の議論に関しては日蓮正宗の信仰の問題であって、学術的な議論を上記の「拝読のポイント」で行おうとしているわけではないので、ここで議論することは差し控えよう。 次いでもう一つの「拝読のポイント」として「本尊とは勝れたるを用ふべし」ということについて、次のように述べている。

 

「第二に、仏と経のどちらが勝れているか、との問いに対し、『本尊とは勝れたるを用ふべし』と示されていることです。(中略) そして、大聖人様は、本尊とは勝れたるを用うるべき道理から、諸仏所生の根源である南無妙法蓮華経の法体を本尊と定め、そこから様々に生じた仏像等は本尊とすべきでないと決せられました。 したがって、諸宗で立てる爾前迹門の様々な仏像はもとより、第二祖日興上人が、 『聖人御立ての法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為すべし、即ち自筆の本尊是なり』(御書 1871頁) と明確にお示しのとおり、他門日蓮宗等で立てる釈迦・多宝等の仏像も、本来、末法の法華経の行者・日蓮大聖人様の正意に背くものであることを知りましょう。」

 

 これもほぼ『本尊問答抄』で述べていることなので、それほど問題がないが、最後の日興の見解として、『富士一跡門徒存知事』を引用しているが、日興にはここに見られる曼荼羅正意説以外の本尊論もあるので、これのみを挙げるのは片手落ちであろう。また曼荼羅以外の仏像を本尊として日蓮は容認したが、そのことには一言も触れず、日興の議論によって仏像造立を否定していることも興味深い。 また日蓮正宗には日蓮御影=久遠元初本因仏とする御影本尊論があったが、そのことに全く言及していないし、現在でも奉安堂には日蓮御影が安置されているが、その宗教的意義について全く説明されていないが、これは仏像安置になり、『本尊問答抄』の曼荼羅正意説には反するのではないか、という問題にも言及していない。まるで御影本尊論など日蓮正宗にはなかったことにしたいようであるが、しかし日蓮本仏論を日興が持っていたというときに文証として使用されるのが、日興が御影に供養を奉げ、その返書で御影について述べた表現なのである。日蓮正宗の見解では、日興は日蓮御影を仏像として、礼拝供養していたから日蓮本仏論を持っていたということになるが、そうなると日興は日蓮御影という仏像を本尊として認めていたということになり、曼荼羅正意説とは矛盾するのだが、この点に関する説明が全くない。しかも『富士一跡門徒存知事』には本尊とは別項でわざわざ日蓮御影について次のように述べている。

 

 「一、聖人御影像の事。 或は五人と云い或は在家と云い絵像・木像に図し奉る事・在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。 ここに日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け・有りの儘に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩・聖人を見奉る仁等・一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概そ相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間・後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と之を付け置く。」

 

 ここで明白に御影について「御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり」と述べて、本尊としての扱いをしないことを述べているが、このことに関しても十分な説明がない。 以上日蓮正宗の『本尊問答抄』に関する見解を見てきたが、日蓮本仏論を採用する立場から、日蓮を仏本尊として認めるための議論をするために、『御義口伝』を引用し、あたかも曼荼羅本尊が人法一箇の本尊であるかのような議論で済ませようとする最近の日蓮正宗の傾向が示された解釈であるが、日有、日寛、日亨と歴代に継承された御影本尊論を無視してはその議論の説得力を欠くことは明らかである。これについては拙論の『日有の教学思想の諸問題』を参照していただきたい。

 

 4-2 日蓮宗の解釈

 日蓮宗が『本尊問答抄』と他の著作との関係をどのように考えているかを検討するためには、望月歓厚『日蓮教学の研究』あたりの議論を検討しなければならないのだろうが、個人的事情でそれができない。あまり体調がよくないので、原稿を書くことが、夏休み一ヶ月と春休み2ヶ月しかなく、授業が始まると授業の準備やら疲労やらで論文を書く体力、気力がなく、せいぜい前期は英語の宗教哲学関係の文献を読むことと、後期は牧口常三郎の価値論の英訳をするのが精一杯であるようだ。紙媒体の書籍を読んでそれについて論じる場合に、引用文を入力するということでは時間がかかりすぎ、またスキャナーで読み込む場合も、PDFファイルなら簡単だが、テキストファイルで読み込むとなると、誤りが多すぎて、その訂正にかなり時間がかかり、それで消耗し、論文を書く気力が残っていないということが多い。(どなたかテキストファイルに読み込むのに精度の高いソフトを使用している方がいれば教えていただきたい。特に仏教関係は、縦書き、漢字が多いという特徴があるので、それを横書きにうまく転換できるソフトがあれば、紙媒体の文献を使った議論が可能になるので、実際に使用して、お勧めのソフトがあれば教えていただきたい。)ネットで検索しても望月歓厚の本尊論に関する著作、論文について一部引用はあったが、全文は電子ファイルとしてUPされていないようなので、ネット検索で使用可能な日蓮宗の解釈として、村田征昭(ハンドルネーム川蝉)の論文を対象にさせていただく。なお彼の『本尊問答抄』に関する論文は、『法華仏教研究』第5号にも掲載されているので、紙媒体がお好みであれば、そちらのほうを読んでいただきたい。 村田はネット上に「『本尊問答抄』をめぐって」という論文をUPして、詳細な議論をしているが、全文紹介は読者にとって不必要であると思われるので、必要な箇所だけを引用して、議論を進めたい。

 

 4-2-1 「証悟の重視」

 「一 証悟の重視」においては、「本抄述作に至って法重思想が確定したか否かを論究してみます。」として、次のように述べる。

 

 「仏像では脇士を添えなければ如何なる仏格の釈尊か一見判別困難です。その点、法華経の題目なら、法華経の肝心・釈尊の神・事の一念三千の証悟を端的に示すことが出来ます。 『仏は身なり法華経は神なり』なので、釈尊像は神である法華経乃至題目が籠もってこそ釈尊像たり得ると云う視点から云えば、題目の方が直截に、法華経の肝心・釈尊の神・事の一念三千の証悟を表示出来ると言い得ます。」

 

 一往は題目が仏像よりも優先するという法重思想があることを容認する。ただここの村田の議論で気になるところは『本尊問答抄』の冒頭にある「法華経の題目」という用語が「法華経の肝心・釈尊の神・事の一念三千の証悟」を表示していると解釈しているようだが、私は「釈尊の神」は言えても、「法華経の肝心・事の一念三千の証悟」という議論は『本尊問答抄』にはないので、両者の同一性については慎重に考えている。 しかし法重思想は必ずしも仏像を禁止したものではなく、「一念三千の証悟」を持った釈尊であることを示す四菩薩が脇士となる仏像であれば本尊として容認可能であることを次のように述べる。

 

 「しかし、『本尊問答抄』にも『然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし』と、法華経で開眼すれば釈尊像は本尊となり得るとの考えが窺えます。故に『此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず』とあるのは、不空三蔵が宝塔品の文による釈尊を本尊としているが、寿量品の釈尊でないので、法華経の肝心・事の一念三千の証悟を神とした釈尊でないので、『法華経の正意にはあらず、』と評していると思われます。」

 

 この議論で注目すべきことは「此れは法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず」という『本尊問答抄』の文を、不空の釈尊=法華経の教主は迹門宝塔品の教主であって、本門寿量品の教主でないから「法華経の正意にはあらず」と述べているのだという解釈をしていることである。この解釈は後に述べる優陀那日輝の議論を前提にした解釈であるが、「法華経の正意にはあらず」という文の意味を『本尊問答抄』では何も述べていない本迹の教主の区別という議論を導入しなければ理解できないのであれば、この解釈も妥当だとは思うが、『本尊問答抄』内部の議論で理解可能であるならば、そのように解釈する必要はなくなるだろう。この問題は後で論じることにしよう。

 

4-2-2 「本抄の『法華経の題目本尊』」

 次いで「二 本抄の『法華経の題目本尊』」について次のように述べる。

 

 「『本尊問答抄』には『上に挙ぐる所の本尊は釈迦・多宝・十方の諸仏の御本尊、法華経の行者の正意なり』と、法華経の題目本尊が正意であるとしていますが、冒頭七行の記述『答ふ、法華経の第四法師品に云く、薬王在々処々に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住之処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべし 復舎利を安んずることを須いず。所以は何ん。此の中には已に如来の全身有す等云云。涅槃経の第四如来性品に云く、復次に迦葉 諸仏の師とする所は所謂法なり。是の故に如来恭敬供養す。法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり云云。天台大師の法華三昧に云く、道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利竝びに余の経典を安ずべからず唯法華経一部を置く等云云。』によれば、『上に挙ぐる所の本尊』とは法華経二十八品の題目を指していることが分かります。」

 

 しかし私にはこの議論がよく分からない。上記引用の冒頭七行の記述には「法華経」という言葉は使用されているが、「法華経の題目」は使用されていない。つまり「上に挙ぐる所の本尊」とは「法華経の題目」であると冒頭に書かれているが、「法華経二十八品の題目」とは書かれていず、引用された7行には「法華経」はあるが、「法華経の題目」はないのである。厳密に言えば、日蓮の議論は「法華経の題目」を本尊とすることを法華経の文章を引用することによって根拠付けることには何も成功していないのである。日蓮は読者に対して、「法華経」を本尊にすることと「法華経の題目」を本尊とすることとは、説明しない、あるいは説明できないけれども、同じことなのだよ、分かって欲しいなと言っているに過ぎないのであり、私は、それは違うだろうと思っているから、突っ込みを入れているのである。同じことは村田の「法華経の題目」を「法華経二十八品の題目」と言い換えていることにも当てはまる。この二つの表現が同じだとすると村田はなぜわざわざ原文にない「二十八品」を入れたのであろうか。論理的には不必要な言い換えであるとしか思えないが、このことも後で問題にしよう。

 4-2-3 「優陀那日輝師の本抄評価」

 次いで「三 優陀那日輝師の本抄評価」において、次のように述べる。

 

 「優陀那日輝上人が『本尊略弁』において、 『法師品の『塔を起てて供養すべし』の文や、涅槃経如来性品の『諸仏の師とする所はいわゆる、法なり』の文。天台大師の法華三昧の文を引証とし、『是れ私の義に非らず。上に挙げた経文と天台大師の釈を本にして、法華経の題目を以て本尊とすべと主張するのである』と書かれている。引証は迹の文を挙げて本門の文を引いていない。また迹化の天台大師の文を引いている。『迹門や天台の義に依るのみ』とは随他意語・未顕真実の趣である。『是れ私の義に非らず』との言葉は、随自意(本当の見解)でないと云う意を含んでいると見られる。『本尊問答抄』の末部に、大曼荼羅が御本尊であることを明示してあるので、寿量所顕の法体たる題目を密に示して居るが、分明に寿量品や神力品を引用して解説していない事は、ほぼ本化弘通の本法であることを示しているが、その実義は述べられていない。ただ迹仏に簡んで、本門の本尊を示して、その法体は本仏であることを明示されていない。浄顕房の機根が未だ熟していないので権実相対の立場から迹門ならびに天台の義によって解説されている御書である(取意)』と述べ、『本尊問答抄』が随他意・未顕真実の法門である旨を指摘していますが、宜なるかなと思います。 大曼荼羅御本尊を説示するのに、天台大師の文や迹門の文をもとに法華経二十八品の題目として説明していることから『本尊問答抄』が対機説法的傾向が強い御書であると言えましょう。」

 この優陀那日輝の議論がどれほど説得力を持つかは問題にされるべきである。宗学においては、優陀那日輝の主張は、宗派的には尊重されるべきものであるだろうが、文献資料を用いて日蓮思想を研究する場合には、優陀那日輝の江戸時代と現在の学者たちとでは、日蓮の文献として何を認めるかについて、大きな隔たりがあることは明らかであり、それゆえ優陀那日輝が日蓮の随自意と考える思想と、現在の学者たちが日蓮の根本思想と考えるものとが同じであるかどうかも分からず、「『本尊問答抄』が随他意・未顕真実の法門」であることが、学問的に認められるかどうかも分からないが、村田は「宜なるかな」と述べて、優陀那日輝の議論に賛同しているようだ。 優陀那日輝は『本尊問答抄』が「引証は迹の文を挙げて本門の文を引いていない。また迹化の天台大師の文を引いている。」ということを理由に、「未顕真実の趣」であると主張する。『本尊問答抄』では「本尊」としての「法華経の題目」を論じているが、これは『観心本尊抄』でいう「妙法蓮華経の五字の本尊」の議論とほぼ同じだと考えられるが、『観心本尊抄』においても「妙法蓮華経の五字の本尊」を法華経の文章によって根拠付けることはしていないし、少なくとも上記の「3 他の著作に見られる本尊論」の考察が及ぶ範囲においては、いずこにおいても「妙法蓮華経の五字の本尊」が法華経のどの文章に理論的根拠を持つのかは全く明示されていない。つまり「妙法蓮華経の五字の本尊」に関する限り「本門の文を引いていない」のは『観心本尊抄』や三大秘法関係の著作においても同じことが言えるのであり、そこから優陀那日輝は『観心本尊抄』や三大秘法関係の著作も「未顕真実の趣」という結論を下すのだろうか。優陀那日輝が「妙法蓮華経の五字の本尊」に関して「本門の文を引いて」議論していると考える日蓮の著作が何であるのか、私には分からないが、少なくとも真蹟、身延曽存、直弟子写本のある著作にはないと私は考えている。 また優陀那日輝は「『是れ私の義に非らず』との言葉は、随自意(本当の見解)でないと云う意を含んでいると見られる。」と解釈しているが、この解釈ははたして妥当な解釈なのだろうか。『本尊問答抄』では「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、」という文脈の中で「私の義にはあらず」と述べているのであり、日蓮自身が「法華経迹門」の引用や迹化の天台大師の『法華三昧懺儀』の議論に賛成しているのか、反対しているのかという点に関しては、明らかに賛成しているのであり、「私の義にはあらず」は「私の個人的考えだけではなく、釈尊も天台大師も同じ意見なのですよ」と述べていると読解するのが普通の読解だと思われるが、これを優陀那日輝のように「随自意」ではない、つまり「私の本当の意見ではないのですが」と読解するのは、余程の理由がなければならないと思われるが、優陀那日輝はそのことをどのように説明しているのだろうか。 また優陀那日輝は「寿量所顕の法体たる題目」という用語を使用しているが、この用語が日蓮のどの著作に述べられているのかも分からない。少なくともネット検索した限りでは日蓮の用語ではなく、優陀那日輝の用語であるようだ。私なりに「寿量所顕の法体たる題目」を日蓮の用語に置き換えると、多分『観心本尊抄』の「寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字」になると思われるが、「妙法蓮華経の五字」の日蓮の説明に関して、「寿量品」「神力品」を使用して説明している箇所をネット検索すると、『観心本尊抄』で「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す」に関する説明で、釈尊の「因行」と「果徳」について、寿量品を引用して説明しているが、これは妙法五字を直接説明しているわけではない。また同じく『観心本尊抄』では「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う」と述べて、八品には寿量品、神力品は含まれるが、どの文章かは具体的には述べられていない。 同じく『観心本尊抄』において、「神力品」の結要付属に関連して次のように述べている。

 

 「『爾の時に仏上行等の菩薩大衆に告げ給わく諸仏の神力は是くの如く無量無辺不可思議なり若し我れ是の神力を以て無量無辺百千万億阿僧祗劫に於て嘱累の為の故に此の経の功徳を説くとも猶尽すこと能わじ要を以て此を言わば如来の一切の所有の法如来の一切の自在の神力如来の一切の秘要の蔵如来の一切の甚深の事皆此の経に於て宣示顕説す』等云云、天台云く『爾時仏告上行より下は第三結要付属なり』云云、伝教云く『又神力品に云く以要言之如来一切所有之法乃至宣示顕説[已上][経文]明かに知んぬ果分の一切の所有の法果分の一切の自在の神力果分の一切の秘要の蔵果分の一切の甚深の事皆法華に於て宣示顕説するなり』等云云、此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て上行安立行浄行無辺行等の四大菩薩に授与し給うなり」

 

 日蓮宗のどの宗派(日蓮正宗もこの点では同じだが)もここの部分を重要視して、「如来の一切の所有の法如来の一切の自在の神力如来の一切の秘要の蔵如来の一切の甚深の事」が「妙法蓮華経の五字」を指していると解釈しているが、この文章では明らかに「果分の一切の所有の法果分の一切の自在の神力果分の一切の秘要の蔵果分の一切の甚深の事」という最澄の解釈を同時に引用しているのであり、「妙法蓮華経の五字」が因行を含むという既に引用した『観心本尊抄』の記述とは矛盾するのであり、たとえ日蓮が両者を同じであると見なしたいと考えているとしても、上記の引用文を論理的に考察する限りは、同じであることの証明に成功しているとは言えない。 『曾谷入道殿許御書』では「爾の時に大覚世尊寿量品を演説し然して後に十神力を示現して四大菩薩に付属したもう、其の所属の法は何物ぞや、法華経の中にも広を捨て略を取り略を捨てて要を取る所謂妙法蓮華経の五字名体宗用教の五重玄なり」と述べて神力品において、「妙法蓮華経の五字」が付属されたことを明確にしているが、同時に「名体宗用教の五重玄」と述べて、迹化の智顗の『法華玄義』の解釈によることも示している。 資料的には問題のある『御義口伝』には寿量品と「妙法蓮華経の五字」との関係について次のように述べている。

 

 「御義口伝に云く此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り寿量品の時事顕れ神力属累の時事竟るなり、如来とは上の寿量品の如来なり神力とは十種の神力なり所詮妙法蓮華経の五字は神と力となり、神力とは上の寿量品の時の如来秘密神通之力の文と同じきなり、」

 

 優陀那日輝が「妙法蓮華経の五字」を寿量品の文章によって説明しているとする箇所はこの『御義口伝』かもしれない。同様に寿量品の「如来秘密神通之力」に注目している箇所は『御義口伝』には「第廿五 建立御本尊等の事 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。」と述べている。 「如来秘密神通之力」でネット検索してみると、同じく資料的には問題のある『諸法実相抄』には「されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合い給ふ、・・・されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く『如来秘密神通之力』是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし」とあり、寿量品の「如来秘密神通之力」を根拠にして「妙法蓮華経の五字」について説明している。 また同じく資料的には問題のある『三大秘法抄』に「三大秘法其の体如何、答て云く予が己心の大事之に如かず汝が志無二なれば少し之を云わん寿量品に建立する所の本尊は五百塵点の当初より以来此土有縁深厚本有無作三身の教主釈尊是れなり、寿量品に云く『如来秘密神通之力』等云云」とある。その他に、『草木成仏口決』にも似たような文章がある。 このように「妙法蓮華経の五字」について寿量品を使用して説明している箇所はすべて「如来秘密神通之力」の文を挙げるのだが、その箇所がすべて資料的に問題のある、真蹟、身延曽存、直弟子写本以外の著作であるということは何を物語っているのであろうか。少なくとも「妙法蓮華経の五字」を、寿量品を使用して根拠付けている箇所は、江戸時代の文献学の基準ではどうかは分からないが、現在の文献学の基準ではどこにもないということであり、「妙法蓮華経の五字」を、寿量品を使用して説明していないから「未顕真実の趣」があるという議論は全く成立していない。 信頼できる資料では「妙法蓮華経の五字」についてどのように説明しているかを見てみるならば、『報恩抄』では「如是我聞の上の妙法蓮華経の五字は即一部八巻の肝心、亦復一切経の肝心一切の諸仏菩薩二乗天人修羅竜神等の頂上の正法なり」と述べて、「妙法蓮華経の五字」が法華経のみならず「一切経の肝心」であり、『本尊問答抄』の能生に当たることを述べているが、寿量品、神力品を使用して説明しているわけではない。 同様のことは『四信五品抄』でも「問う何が故ぞ題目に万法を含むや、答う章安の云く『蓋し序王とは経の玄意を叙す玄意は文の心を述す文の心は迹本に過ぎたるは莫し』妙楽の云く『法華の文心を出して諸教の所以を弁ず』云云、濁水心無けれども月を得て自ら清めり草木雨を得豈覚有つて花さくならんや妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なるのみ、」と述べられている。ここでは智顗の『法華玄義』に含まれている章安大師潅頂の「法華私記縁起」の文章を引用して「妙法蓮華経の五字」について説明しているが、優陀那日輝はこの『四信五品抄』も迹化の引用だから、「未顕真実の趣」と判断するのだろうか。 同様に『法華経題目抄』では「問うて云く題目計りを唱うる証文これありや、答えて云く妙法華経の第八に云く『法華の名を受持せん者福量る可からず』正法華経に云く『若し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量る可からず』添品法華経に云く『法華の名を受持せん者福量る可からず』等云云、此等の文は題目計りを唱うる福計るべからずとみへぬ、一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広なり、方便品寿量品等を受持し乃至護持するは略なり、担一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり、広略要の中には題目は要の内なり。」と述べているが、これは本門八品が終了した後の、陀羅尼品を引用して「題目」を説明している。本門八品以外の文を根拠にして「妙法蓮華経の五字」を説明している『法華経題目抄』も優陀那日輝は「「未顕真実の趣」と判断するのだろうか。 このように日蓮の著作を見てくると、「寿量品」の「如来秘密神通之力」によって「妙法蓮華経の五字」や「本尊」について説明している箇所はすべて資料的には問題のある箇所であり、「神力品」では上行付属と関連した箇所で「妙法蓮華経の五字」に言及された箇所はあるが、どの文章に「妙法蓮華経の五字」があるのかとなると『観心本尊抄』に結要付属の「如来の一切の所有の法如来の一切の自在の神力如来の一切の秘要の蔵如来の一切の甚深の事」が「妙法蓮華経の五字」に相当すると主張したいと思わせる表現があるが、それは「釈尊の果徳」だけを述べたという最澄の注釈も同時にあり、日蓮の両者を同じだとする議論は、もしあったとしても成功していない。したがって優陀那日輝が「寿量所顕の法体たる題目」を「分明に寿量品や神力品を引用して解説」している箇所とするものは、資料的に問題のある『御義口伝』などの寿量品の「如来秘密神通之力」を根拠とした箇所やその説得力に問題のある「神力品」の結要付属の箇所しかないのであり、寿量品や神力品を引用していないから『本尊問答抄』は「未顕真実の趣」があるという優陀那日輝の議論はそもそも成立していないと私には思えるが、村田も賛同してくれるだろうか。

 4-2-4 「法華経と釈尊との一体観」

 村田は「四 法華経と釈尊との一体観」として次のように述べる。

 

 「法華経の『法師品』には、『また舎利を安ずることを須ひず。所以は何ん、此の中には已に如来の全身います』と、法華経と釈尊を一体と見るべき事が明示され、日蓮聖人は、 『仏は身なり法華経は魂なり』(本尊問答抄・昭定一五七五頁) 『釈迦仏と法華経の文字とはかはれども、心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給ふは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし』(四条金吾殿御返事・昭定六六六頁) 『色心不二なるがゆへに而二とあらはれて、仏の御意あらはれて法華の文字となれり』(木絵二像開眼之事・昭定七九二頁) 『今の法華経の文字は皆生身の仏なり』(法蓮抄・昭定九五〇頁)等と、法華経と釈尊とは一体であると明示されています。 また、 『釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す』(観心本尊抄・昭定七一一頁) 『六度の功徳を妙の一字にをさめ給いて』(日妙聖人御書・昭定  六四四頁)と、妙法蓮華経の五字は釈尊の智慧功徳そのものであると教示しています。 故に題目の方が法華経の肝心・事の一念三千の証悟を直截に表示出来るけれど、法華経の肝心・事の一念三千の証悟は久遠釈尊の神なので題目即久遠釈尊と宗祖は観じていたと言えます。」

 この文章も微妙な表現なので、いくつか確認しながら議論を進めていく必要があるだろう。法師品の経巻の中に如来の全身があるという表現は、法華経と釈尊が一体であるという議論と見なすことができ、日蓮も同じ考えであると見なしてよいだろう。ただその次の『本尊問答抄』の「仏は身なり法華経は神なり」を法華経と釈尊との一体観を示した文であると認めてよいかは疑問の余地がある。この文は「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、(中略)此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり。」という文章中に含まれる文なのであり、全体として能生・所生の議論をしている中で使用されている文だから、「仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり」を一連の文章と見なして、仏=身=所生、法華経=神(魂)=能生と読解するのが普通の読解だと思うが、どうだろうか。そして『本尊問答抄』の上記引用文には「問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。」という文章が先行しているのだから、能生=勝、所生=劣という結論が論理的に導かれると思うのだが、この読解(先に引用した日蓮正宗も同じ読解をしている)は私には普通だと思われるが、どこかおかしいところがあるのだろうか。 その次の『四条金吾殿御返事』も引用文が曖昧だから、前後を引用してみると、次のようになる。

 「其の中に法華経は釈迦如来の書き顕して此の御音を文字と成し給う仏の御心はこの文字に備れり、たとへば種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず。 釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり、然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし、」

 

 ここでは釈迦仏と法華経は別物であるけれども、「心」が同じだから、両者は同じですよという議論をしている。「種子と苗と草と稲とはかはれども心はたがはず」という場合、「種子と苗と草と稲と」の同一性を支える「心」とは何かということを現代の人ならば、DNAが共通だろうと答えるだろうが、日蓮が生きていた時代の人はこの同一性の根拠となる「心」をどのように考えていたのだろうか。植物の「心」のことなど私には理解不可能だからこの問題に突っ込むことはしないが、「釈迦仏と法華経の文字と」の場合は、前文にある「仏の御心はこの文字に備れり」ということが理解の鍵となっている。この文は「仏の主張したいことは法華経の文によって表現されている」というほどの意味であろうが、「仏の御心」とは「仏の主張したいこと」でもあり「法華経の文によって表現されていること」でもあるということになろう。この場合は釈迦仏と法華経との同一性の根拠としての「心」がそれなりに示されているが、次の『木絵二像開眼之事』においても「仏の御意あらはれて法華の文字となれり」とあるから、『四条金吾殿御返事』と同様の趣旨であると判断できよう。  次の『法蓮抄』の引用は簡潔すぎて、よく分からないで、前後を引用してみると、次のようになる。

 

「されば十方世界の諸仏は自我偈を師として仏にならせ給う世界の人の父母の如し、今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、・・・今の法華経の文字は皆生身の仏なり我等は肉眼なれば文字と見るなり、たとへば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見天人は甘露と見る、水は一なれども果報にしたがつて見るところ各別なり、此の法華経の文字は盲目の者は之を見ず肉眼は黒色と見る二乗は虚空と見菩薩は種種の色と見仏種純熟せる人は仏と見奉る、」

 

 ここでは、「法華経の文字」を「生身の仏」と見るのは「仏種純熟せる人」だけであり、多くの人にとっては「我等は肉眼なれば文字と見るなり」という状態であり、必ずしも「法華経と釈尊との一体観」を示すものではなく、引用部分の前の箇所ではむしろ能生・所生の議論となっている。 その次の「妙法蓮華経の五字は釈尊の智慧功徳そのものである」という結論もどうして導かれたのか、私にはよく分からない。『観心本尊抄』は「釈尊の因行果徳の二法」が「妙法蓮華経の五字に具足す」ということだけが述べられているのであり、「釈尊の因行果徳の二法」が「釈尊の智慧」だとは述べていない。釈尊の「因行果徳の二法」により釈尊が修行し、証得したとしても、それがどうして「釈尊の智恵」になるのだろうか。寿量品では釈尊の因行を「我本行菩薩道」と述べているが、その菩薩行を誰かに教わったのかどうかは何も書いていない。既に述べた西山本『一代五時鶏図』では久遠実成釈尊を無始無終の三身と規定しているから、それより先に久遠実成釈尊に菩薩道を教えた人はいないだろうと推測されているが、日蓮正宗では久遠実成釈尊に菩薩道を教えた仏が久遠元初仏であると解釈しているし、八品派の日隆は『私新抄』で「本門顕本トハ久遠ノ仏凡夫ニテ名字即ニ居シ、或従知識或従経巻シテ知識ノ口ヨリ南無妙法蓮華経妙と受持受戒シ玉ヘリ」と述べて、本因の修行のときに、その修行を教える経巻や知識(僧侶)が存在したという繰り返し顕本を前提とした議論をしているから、この辺の議論は宗学の領域であり、「無始無終」という哲学的には概念規定できない用語を含んだ問題を学問的に議論することはできないようだ。つまり「妙法蓮華経の五字」が「釈尊の因行」を含んでいたとしても、その修行が釈尊自身のオリジナルな知恵なのか、それともオリジナルな智恵ではなく誰か釈尊に教えた別の仏なり経巻なり知識がいたのか、宗学が異なれば、異なった回答となるから、「釈尊の」という形容詞をつけることにどんな意味があるのか不明である。「釈尊の智恵」なんだけれど、実はその知恵は他の人から教えてもらったものなんだよということも許容する意味で「釈尊の智恵」と表現しているなら、私も突っ込むことはしないが、どうも村田は後で述べる山川智応の議論を援用して、そのような幅広い意味を許容しているとは思えない。 また既に上述の議論で私は「仏は身なり法華経は神なり」は「釈迦仏と法華経の一体観」を示す文ではなく、むしろ釈迦仏=所生、法華経=能生を示す文だと読解しているから、「法華経の肝心・事の一念三千の証悟は久遠釈尊の神なので題目即久遠釈尊と宗祖は観じていたと言えます。」という村田の議論には同意することはできない。 また日蓮が「釈迦仏と法華経の一体観」をもっていることを容認したとしても、『四条金吾殿御返事』『木絵二像開眼之事』の場合は両者の同一性の根拠について述べられているし、『法蓮抄』ではその一体観は特殊な事例であり、多くの人には一体観は生じないとしており、また文脈的には能生・所生の議論を引き継いでいるとも解釈できるので、無条件に両者の一体観を容認するわけにはいかない。さらにこれらの一体観の議論は最初の法師品の引用を除けば、本尊論とは直接関係がないことも明らかである。本尊論について言及した3の議論において、「妙法蓮華経の五字の本尊」=曼荼羅と「本門寿量品の本尊」=四菩薩を脇士とする法華経本門の教主との関係について、優劣があると述べている箇所も、一体であると述べている箇所も、どこにもないのである。

 

 4-2-5 「法重を語る御書類」

 次に村田は「五 法重を語る御書類」という議論を展開するが、その議論は「『本尊問答抄』述作時分に至って、宗祖のお考えが法重に定まった事が推せられる旨の見解を述べる人」を批判する意図を持って展開されたものであり、私は日蓮の考えが法重に定まったとは思っていず、むしろ曖昧な状態が続くと思っているので、この部分の議論は割愛する。しかし最後の部分で次のように述べていることに関しては、少し補足がいるだろう。

「なお、『本尊問答抄』の『今の日蓮も仏と天台との如く、法華経を以て本尊とするなり。其の故は法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目なり。釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり』(一五七四頁)や、『兄弟抄』の『さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。』(昭定九二〇頁)との文に拠って、『法華経は釈迦の本師、能生である。法の方が釈迦より尊い、と宗祖は認識していた』と言う人が居ます。 そこで、久遠釈尊が先仏所説の法華経を本師としたか否かを検討する必要が有ります。」

 ここで、「法華経は釈迦の本師、能生である。法の方が釈迦より尊い、と宗祖は認識していた」と言えるかどうかは、他の著作との関係を考察しなければ「宗祖の認識」は分からないが、少なくとも『本尊問答抄』では「法華経は釈迦の本師、能生である。法の方が釈迦より尊い」という議論をしているということは、私も、村田も認めるところであろう。

 4-2-6 「無始古仏と法華経」

 次に村田は山川智応の『本門本尊論』に収録されている「本門本尊唯一精義」の議論を紹介しつつ、「六 無始古仏と法華経」という議論を次のように述べている。

 

 「本化妙宗の山川智応博士が、 『『本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、(開目抄)』とあって、法界に無始の十界の存在をいはれています。 無始の無明縁起を認めれば、真の円教は『一起一切起』でなければなりませぬから、無始の法性縁起をも認めねばなりませぬ。 即ち無始の九界縁起と同時に、無始の仏界の縁起をも認めねばなりますまい。 これは法界の自然任運の縁起で、決して造作によったものでないのですから『無作』といはねばなりませぬし、無始の縁起とすれば『本有』といはねばなりませぬ。 経に『我本行菩薩道』といはれ、『我実成仏已来無量無辺』とあるのはそれです。 そうすると本因の時にも、すでに法身のみではなく、報身の智慧功徳と、応身の慈悲喜捨もともに動いておりますが、いまだ全分を円満化せられたのではありませぬ。 そこに三身始めより事実に存在はしたが、報応は全分的に動いて居いないから、横に並有していたのではないことが分かり、而も始めは無明縁起で迷っていたといふのでなく、無始の始めから法性縁起で、菩薩行をせられていたのですから、始めは法身のみで、次に報・応と縦に出て来たともいへませぬ。即ち不縦不横の三身があります。 そこでこれについて明らかにせねばならぬのは、法性縁起の仏界の本因の菩薩行の境界と、無明縁起の菩薩界の縁起の境界との相違で、おれをここでいっておかぬと、この二つの差別がつきませぬ。 法性縁起の仏界の本因行では、前表に出した本有十界の理法を、法性縁起の自然法爾として、全体的に円満に覚知するのです。覚知はしても未だ実践されていませぬ。そこでその覚知によって本因の菩薩行を起こされます。それは事の一念三千の智慧慈  悲行です。三身に約すれば法身の全面を覚ると、同分に報応の智慈が行ぜられるのです。 然るに無明縁起の菩薩界は、無明縁起の故に法性の全体理法の全体を円満に先ず覚ることができず、部分的にしか偏にしか法界の理法を、見る事ができませぬ。 かの法華経開顕以前の二乗に対立したる権大乗経の菩薩行が無明縁起の菩薩行を代表したもので、『無量義経』に『無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐるとも終に無上菩提を成ずることを得ず』(十功徳品)とあるのはこれです。 ですからそこには法身の体のみあって、円満な覚知すらなく況(ま)して報応二身は存在しないのです。 本因の菩薩行では、始めから理法の全体を覚って乗法において分分に修因得果して行かれるのですから、法身の全体を覚るのみでなく、直ちに全体に即する部分的活動を開かれているので 報・応二身もすでに始めから存在することになるのでして、そこに『三世に於いて等しく三身あり』。而も最初から不横の三身の常住を説くことができるのです。』(本門本尊論収録・本門本尊唯一精義四六頁)と久遠釈尊の本有について説明しています。 山川智応博士の指摘のように、久遠釈尊が無始仏とすれば先仏所説の法華経を受けて開覚成道した仏ではないと云うことになります。」

 

 初めに明確にしておきたいことは私には「無始」という概念は全く理解できないということである。「無始」という言葉はどうやら時間に関係ある概念らしいが、それは例えば現代の宇宙物理学が理論的前提とするビッグ・バンとどのように関係しているのだろうか。多分日蓮はビッグ・バンなど何も知らなかったであろうから、両者の関係も分かるはずがない。山川智応の時代の自然科学もビッグ・バンなどは想定していないから、これも当然分かるはずもない。しかし村田は現代に生きているのだから、それなりに回答可能かもしれない。ビッグ・バンはその標準理論によれば137億年前に生じたと推定されている。ちなみに仏教の時間概念である「劫」をネット検索すると、wikipediaにはヒンドゥ教では「1 = 432000万年」とされるが仏教では具体的な定義はされず、大乗仏教の論書である『大智度論』には「140里(現代中国の換算比で20km。漢訳時も大きくは違わない)の岩を3年に1度(100年に1度という説もある)、天女が舞い降りて羽衣でなで、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間を指す」というたとえ話が載っているとあり、このたとえ話から1劫が何億年になるのか、私は物理学者ではないので計算できない。しかし『法華経』寿量品で説かれる五百塵点劫は1劫よりもはるかに長い時間を指すようだから、どうやらビッグ・バン以前の出来事と計算されてしまい、自然科学的には無意味な概念となるだろう。もちろんこれまで述べてきたことは冗談に過ぎず、だれも五百塵点劫が具体的にはいつかなどとは問うことすらしないだろう。それは「五百塵点劫」という用語が宗教用語であり、現実の世界の出来事を説明する用語ではないとお互いに了解しているから、具体的にはいつかなどと問うことがないのである。そして重要なことは『法華経』には「無始」という用語は使われておらず、釈尊の成仏した時も、たとえ話で説かれ、そのたとえ話の時間を「五百塵点劫」と後の注釈者が呼んだだけのことである。当然『法華経』の中では釈尊が成仏する以前の修行のことが書かれているから、釈尊が成仏したのは「無始」ではなく「五百塵点劫」という昔の時点である。つまり厳密に『法華経』を読むと「無始」ではなく「有始」であることは明白であり、無始に関する議論は『法華経』とは直接関係ない。 だから日蓮が「本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、」と『開目抄』で述べていることも、『法華経』とは直接関係ない議論なのである。『法華経』で説かれる「五百塵点劫」も日蓮が説く「無始」の議論も、現実の時間とは無関係であるという点で、アニメのガンダムの宇宙世紀79年にジオン独立戦争が生じたというお話と、同じなのである。事実に関して何も述べていない用語を使って、「無始の無明縁起を認めれば、真の円教は『一起一切起』でなければなりませぬから、無始の法性縁起をも認めねばなりませぬ。」と述べる山川智応の言葉を私はどのように理解したらいいのだろうか。無始という時に、無明縁起が生じているのかどうかも分からないのに、「法性縁起を認めねばならない」と言われても、そうなの、としか言いようがない。『法華経』に書かれていることならば、『法華経』の用語法を調べて、ある種の議論がその用語法に適切であるかどうかを判断できるが、『法華経』にない用語ではどうしようもない。 この山川智応の議論を読んでいると、私は後期ハイデガーの「Seyn」という言葉を想起する。ハイデガーは『存在と時間』においては、すべての存在者を存在者たらしめている存在(Sein)が存在者の根底にあり、存在について現存在(Dasein、人間)はそれなりに存在了解しているという立場をとったが、後期になると存在は、顕わしつつ隠れるという議論を展開し、存在の背後にはSeynがあるという議論を展開する。日本の翻訳者はこの「Seyn」を「存在・」と翻訳しているようだが、私には後期ハイデガーの議論自体が言語使用のルールを逸脱していると見なしているので、「存在・」は単にハイデガーの「Seyn」という用語を置き換えただけで、どんな意味があるか分かりませんということを示しているだけである。山川智応も「無始」というよく分からない言葉を使用して、よく分からない議論を展開しているが、言葉を並べて分かったつもりになるというのが形而上学的議論の特徴であり、論理実証主義なら、「無始」という言葉が有意味に使用されるための真理条件を示してみよと批判するところだろう。 あるいは日蓮の用語法に限って検討してみても、「無始」の「縁起」あるいは「因果」で検索すると『開目抄』の「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし、」という用例がヒットする。この文章は『法華経』寿量品で久遠実成釈尊の本因と本果とを明かす議論と関連することが分かるが、それを「無始」の因果と述べているのだとすると五百塵点劫の「我本行菩薩道」と「我実成仏已来無量無辺」がその因果になることになり、これは「無始」ではないだろうと思われる。 さらに「無作」は『開目抄』にはない用語だし、真蹟、身延曽存、直弟子写本の中には使用されない用語であり、孫弟子写本になってようやく「無作」が引用文の中にでてくるぐらいである。そのような日蓮の用語でない言葉を使って、日蓮の「無始」「無作」の三身論を議論されても、どのように判断していいのかすら分からない。 「本有」に関してもネット検索すると信頼できる資料の中では、唯一『観心本尊抄』で「華厳経大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん、」で使用されるだけで、ここでもこれ以上の詳しい説明はない。「本有」が使用される他の資料は『御義口伝』『御講聞書』『百六箇抄』『本因妙抄』『三大秘法抄』『日女御前御返事(御本尊相貌抄)』『最蓮房御返事』『諸法実相抄』『十八円満抄』などいずれも明治時代まではどの日蓮宗の宗派でも重要視された著作であるが、現在の文献学では疑問符がつく資料ばかりである。しかもそれらの資料の多くに共通に使用されるのが「実相の深理本有の妙法蓮華経」という妙楽大師湛然の言葉であるが、SATで検索してもヒットせず、またネット検索してもこの言葉が湛然のどの著作に書かれているのか明示したものは見当たらず、湛然に仮託された文献に記載されているものを後世の日蓮信奉者が使用したものである可能性を疑わせる。 あるいは「無始」に関しても、『観心本尊抄』で「寿量品に云く『然るに我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗劫なり』等云云、我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり、経に云く『我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり』等云云、我等が己心の菩薩等なり、地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり、」と述べているが、日蓮正宗では「五百塵点乃至」を「五百塵点劫よりも前に」と読み、「無始の古仏」とは久遠実成本果釈尊ではなく、久遠元初本因仏=日蓮であると解釈している。私は、この解釈は文脈を無視した解釈であり、「五百塵点乃至」はその前の引用文の「我実成仏已来」を指す、すなわち「五百塵点劫」を指すと読解するのが素直な読みであると思っている。(ただし学問とは無関係な信仰に基づく宗派的な読み方を否定するものではない。)「無始の古仏」とは『法華経』を引用しているこの文脈では久遠実成釈尊のことであると解釈するしかないだろう。 そうなるといろいろと山川智応が日蓮にはない用語を使って無始の三身について議論しているが、日蓮の『開目抄』『観心本尊抄』ならびにそこで引用されている『法華経』寿量品の本因の修行と本果の成道のことのみが、日蓮ならびに『法華経』が許容する「お話の世界」(universe of discourse 論議領域)であり、そこに山川智応のようにごちゃごちゃと別の話を混入させれば別の「お話の世界」になるしかない。桃太郎の「お話の世界」に金太郎を登場させたら、桃太郎の「お話の世界」でもなければ、金太郎の「お話の世界」でもなくなる。つまり私が言いたいのは、山川智応は自覚していないだろうが、「本有」「無作」という用語を使用することによって、日蓮とも『法華経』とも無縁の「お話の世界」を構成しているということなのだ。だから「山川智応博士の指摘のように、久遠釈尊が無始仏とすれば先仏所説の法華経を受けて開覚成道した仏ではないと云うことになります。」という村田の結論は、山川智応の「お話の世界」では「久遠釈尊が無始仏とすれば先仏所説の法華経を受けて開覚成道した仏ではない」というのに過ぎず、日蓮正宗の「お話の世界」では「久遠元初仏が久遠実成釈尊を教えた」ということになり、八品派の日隆の「お話の世界」では久遠実成釈尊は「凡夫ニテ名字即ニ居シ、或従知識或従経巻シテ知識ノ口ヨリ南無妙法蓮華経妙と受持受戒シ玉ヘリ」ということになる。どの「お話の世界」も『法華経』で説かれた「お話の世界」とは微妙に異なっており、日蓮の『開目抄』や『観心本尊抄』の「お話の世界」とも異なっている。学問には学問なりの「お話の世界」の構成の方法が定められており、それは信仰に基づく「お話の世界」とは異なることもあるだろうし、どの「お話の世界」が魅力的で、有用かは一概には言えないのである。

 

 4-2-7 「始成仏と法華経」

 次いで村田は「七 始成仏と法華経」として、『兄弟抄』の「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目、教主釈尊の本師なり。」のように、一見して法重と思われる箇所をどのように解釈すべきかについて、検討する。方便品や常不軽品に説かれる始成仏の修行や、智顗の『法華玄義』の議論などを引用して、次のように述べる。

 

 「諸経や法華経迹門、涌出寿量の二品を除いた本門に見える釈尊の因行は、釈尊が久成後に方便的に示した迹因であると云う意味です。 ですから、『兄弟抄』に『法華経を修行して成仏したのだから、法華経は釈尊の本師である』と書かれているのは、法華経に背いたり捨てる事の罪の重さを強く示す為めに、釈尊も先仏の法華経を修行したと説くところの迹門の教相を用いたものと考えるべきです。 宗祖は対機説法のために爾前・迹門的教示、則ち流通還迹の教示をされることがあるのです。『本尊問答抄』の『法華経は釈尊の父母、釈迦は法華経より出生し給へり。故に今能生を以て本尊とするなり』(一五七四頁)との教示は、対機説法のための流通還迹の教示であり、宗祖随自意の教示とは言えないと思います。 『十章抄』に『阿弥陀釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり』(昭定四九〇頁)とあるのも、『化城喩品』の『十六王子』の修行譚を採用しているものと見るべきと思います。」

 

 しかし村田は『兄弟抄』が迹門の教相を説いているという解釈を『兄弟抄』の文章によって根拠付けることをしない。これは優陀那日輝を批判した場合に述べたことでもあるが、あるテキストを理解する場合、できるだけテキストに述べていること以外の情報を使用しないでテキストを読解するということが、テキスト理解において第一に要請されることである。テキストをそのテキスト以外の情報によって理解するならば(代表的には日蓮正宗の文底読みが挙げられるであろう)恣意的な解釈が生じ、いかなる情報を使用するかは、解釈者に任されるということになれば、学問的にテキスト理解に関する合意は得られないからだ。テキストの読解と解釈とは区別されなければならない。 村田は『兄弟抄』は迹門の教相を説いたものだと主張するが、『兄弟抄』を丁寧に読んでいくと、そうは言えない箇所が見えてくる。今それを引用すると、まず冒頭で「夫れ法華経と申すは八万法蔵の肝心十二部経の骨髄なり、三世の諸仏は此の経を師として正覚を成じ十方の仏陀は一乗を眼目として衆生を引導し給ふ、」と法重と思われる主張をしたあとで、「別して経文に入つて此れを見奉れば二十の大事あり、第一第二の大事は三千塵点劫五百塵点劫と申す二つの法門なり、」と述べて、迹門の「三千塵点劫」と本門の「五百塵点劫」に言及し、「一仏二仏十仏百仏千仏万仏乃至億万仏を殺したりともいかんが五百塵点劫をば経候べき、しかるに法華経をすて候いけるつみによりて三周の声聞が三千塵点劫を経諸大菩薩の五百塵点劫を経候けることをびただしくをぼへ候」と述べて、法華経を捨てる行為は五百塵点劫にわたる影響を及ぼすことを述べ、「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、一字一点もすつる人あれば千万の父母を殺せる罪にもすぎ十方の仏の身より血を出す罪にもこへて候けるゆへに三五の塵点をば経候けるなり、」と再び冒頭の主張を繰り返し述べているのである。ここから『兄弟抄』の議論は本門寿量品の教相を踏まえたうえで、「さればこの法華経は一切の諸仏の眼目教主釈尊の本師なり、」と述べていることは明らかであると私は読んでいるが、この点に関して村田はどのように理解しているのだろうか。 『本尊問答抄』の読解については既に述べたので繰り返さないが、『十章抄』の読解に関しても問題がある。『十章抄』の必要な箇所を引用すると、次のようになる。

 

 「止観に十章あり大意釈名体相摂法偏円方便正観果報起教旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観十境十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず何に況や爾前に分たへたる事なり、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る爾前は迹門の依義判文迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし、されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。 但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり、法華経に十七種の名ありこれ通名なり別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり、阿弥陀釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり、」

 

 ここでは、一念三千は「一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る」と明確に一念三千と本門との関係を示し、そのうえで「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、」と述べて、在家信者が唱題することは一念三千に対応した修行であることを述べた後で、「阿弥陀釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり」という今扱っている文へと続いている。私にはこの文を、日蓮が一念三千、本門との関係を意識して述べているとしか理解できないのだが、村田はこれをどのように理解しているのだろうか。 次に村田は身延の本尊安置様式についての考察をするが、私は『忘持経事』に「教主釈尊の御宝前に母の骨を安置し五躰を地に投げ合掌して両眼を開き尊容を拝し」と述べていることから、村田と同様に、釈迦仏像と法華経、さらには曼荼羅が安置されていたであろうと推測しているので、実際の本尊安置様式から判断する限り、「法とか人とか偏重は無いように窺えます」という村田の結論には同意する。

 

 4-2-8 「一体表裏観が基本思想」

 最後に村田は「八 一体表裏観が基本思想」として次のように述べる。

 

 「以上のように考察すると、題目と久遠釈尊と一体表裏の関係と云う認識が宗祖の生涯一貫した考えで有ったとすべきと思われます。 山川智応博士が『観心本尊抄講話』に於いて、 『四十五字の法体は本仏果上の一念三千であり、真の仏智内証の境界である。四十五字の法体を迹門十四品に之れを説かずとことわって、直ちに『此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於いては』とあるから、四十五字の法体と南無妙法蓮華経とは、その内容が同一のものであるはず』(四五〇頁の取意)と述べており、また、本化妙宗の高橋智遍居士著『六難九易の法門』に於いて、 『『観心本尊抄』の四十五字法体段は『本仏の一念の三千』であり、『開目抄』の『まことの一念三千』であり、八品儀相は本仏の一念三千を身土の相を示している。『報恩抄』の『本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂、宝塔の中の釈迦・多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩、脇士となるべし』とあって、『八品儀相』をもって『教主釈尊』としている。故に大曼荼羅こそは久遠本仏・教主釈尊の『自受用身・一念三千』の尊容である』(二八〇~二八五頁の取意)と論述してありますが、宗祖の大曼荼羅観を穿ち得ていると思います。本仏の一念の三千と本門の肝心南無妙法蓮華経の五字とは同体異相の関係であり、また本門の教主釈尊と大曼荼羅も同体異相であると両師とも見ています。 『観心本尊抄』に窺える法仏一体・同体異相の認識は『本尊問答抄』述作当時に至っても変わってないと思うので、『本尊問答抄』に至って、法重に立場を確定したとは断定できないと思います。 法華経の『寿量品自我偈』に『常に此に住して法を説く』『我もまたこれ世の父 諸の苦患を救う者なり』等と、釈尊は教主であり救護者であることを明言しています。 法(法華経)を尊び重んじる事は、法華経の所説を尊び重んじることですから、法華経の教示を信順して、釈尊と法華経とを同様に重んじなければならない道理なので、宗祖が法重に傾くことは無かったとすべきだと思います。 序でですが、インターネット上で大石寺系信徒が本抄の『法華経を以て本尊とするなり』の文を重用し『大聖人弘宣の妙法五字は法華経二十八品本門の肝要ではない。大聖人弘宣の妙法五字は釈尊および法華経二十八品に基づいて居ない。釈尊が説いたものではない』などと主張する場合があります。しかし、本抄冒頭で云う』本尊とすべき題目』とは、二十八品の法華経一部の題目を指しているので、大石寺系信徒の主張の文証にはならないものです。」

 

 まず冒頭に「題目」という言葉が出てくるが、この言葉はどういう意味で使用しているのだろうか。少なくとも「題目」「妙法蓮華経の五字」をネット検索すると「題目」という言葉には4つの用法があるようだ。 第一の用法は多分ここで村田が使用していると推測される用法、すなわち久遠釈尊によって上行菩薩に付属された「妙法蓮華経の五字」という意味を持った用法である。もっとも例えば『唱法華題目抄』のように初期の著作で、上行付属が語られる前にも「妙法蓮華経の五字」が使われる場合があるが、この場合には「法華経の肝心たる方便寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり」などという文脈において使用されているから、第一の用法であることが分かる。いずれにせよ「題目」並びに「妙法蓮華経の五字」にさまざまな修飾語(「本門の肝心」など)や、特有の文脈(上行付属など)があるから、この用法であると理解できる場合が多い。 第二の用法は典型的には三大秘法の一つとしての「題目」であり、唱題という形態で実行される行為である。日蓮は初期の頃から唱題を修行のひとつとして勧めていたから、唱題行を「題目」という表現で使用することも多い。 第三の用法は経典の名称という意味で、『報恩抄』で「阿含経の題目」という用例や『法華経題目抄』に「大方広仏華厳経大集経大品経大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし」という用例があるが、この場合は文脈で判断できるだろう。 第四の用法は『本尊問答抄』の冒頭で出てくる「法華経の題目」を本尊とせよという場合の「題目」のようによく分からない用法である。どうやら「法華経の題目」を本尊としたものは、『本尊問答抄』の末尾に出てくる日蓮が図顕した曼荼羅のようであるが、曼荼羅には中央に「南無妙法蓮華経」と書いてあり、その他に釈迦多宝のニ仏、上行等の四菩薩、並びに日蓮の署名と花押、さらに「仏滅後」云々の讃文などが書かれているのが通例であるが、曼荼羅全体が法華経の題目を指すのか、それとも「南無妙法蓮華経」のみをさすのか、それとも「妙法蓮華経」のみを指すのか、あるいは日蓮正宗の解釈のように「南無妙法蓮華経日蓮」を指すのか、全く言及されていない。また法華経と「法華経の題目」との関係も述べられていないので、第一の用法とも判断できず、また文脈から第二、第三の用法とも判断できない、つまり意味規定がなされない「題目」という用法があるのである。 私がここで「題目」の用法にこだわったのは、分析哲学の基本的考えに、1、言葉が違っていたら意味も違っている可能性が高い、2、言葉が同じでも意味が複数あって、それが適切に分析されていないために、議論が混乱している可能性がある、ということがあり、特に宗教言語は事実に関する言語と異なり、その言語が使用される文脈に応じてその意味規定がなされるために、多義的になりやすく、議論が混乱しやすいという特徴があるので、言語分析の必要があるという考えによっている。宗教言語を使用した文は事実との関係で真偽を定めることができない文が多く、その場合にはその文がその宗教が許容する「お話の世界」に基づいて適切に使用されているかどうかを基準にして、妥当な議論かどうかを判断するしかない。「お話の世界」に基づいて適切に使用されているかどうかは、その宗教が認める聖典(それは創唱者の作成した聖典に限られる必要はないことは、大乗仏教の事例、キリスト教の福音書の作成過程を見れば理解されるだろう。日蓮正宗のように日蓮親撰ではないと学問的に認められている著作を聖典とすることも宗教的には十分な理由がある。)ならびに解釈の伝統によるのであり、宗派が異なっていたり、学問的研究をする場合では「お話の世界」そのものが異なってしまい、異なった「お話の世界」を前提にしていては、トーマス・クーンが『科学革命の構造』の中で主張したように異なったパラダイムに基づくならば、相互の議論に共約可能性が生じない、つまりお互いの議論がかみ合わないので、妥当な議論が成立しないことも多いのである。 さてそれではあらためて村田の「題目と久遠釈尊と一体表裏の関係と云う認識が宗祖の生涯一貫した考えで有った」という結論について、考察してみよう。村田は「四 法華経と釈尊との一体観」という議論をしていたが、そのときには「一体観」という用語を使用し、「八 一体表裏観が基本思想」では「一体表裏観」という用語を使用している。この両者に意味の相違があるのかどうか、文脈上では特に違いがなさそうであるが、それではなぜわざわざ異なった用語を使用したのか、私にはよく分からない。もし同じ意味であれば、異なる用語を使用することは議論の混乱を招く原因となるから、避けたほうがいいというのも、分析哲学の基本的考えのひとつである。ここでは「題目と久遠釈尊との一体表裏観」が主題となっており、「四 法華経と釈尊との一体観」とは異なっているかのような印象を与えるが、「四 法華経と釈尊との一体観」の議論を見ると、「法華経」は「法華経八巻」のことではなく、「法華経の肝心・事の一念三千の証悟は久遠釈尊の神なので題目即久遠釈尊と宗祖は観じていた」という結論から判断すると、「法華経の肝心」としての「題目」、つまり上述の第一の用法のことであり、「釈尊」も「久遠釈尊」のことであるから、この「八 一体表裏観が基本思想」は基本的には「四 法華経と釈尊との一体観」と同様の主題を別の形で述べていることになる。 そして4-2-4で私は「また既に上述の議論で私は『仏は身なり法華経は神なり』は『釈迦仏と法華経の一体観』を示す文ではなく、むしろ釈迦仏=所生、法華経=能生を示す文だと読解しているから、『法華経の肝心・事の一念三千の証悟は久遠釈尊の神なので題目即久遠釈尊と宗祖は観じていたと言えます。』という村田の議論には同意することはできない。」と述べたように、「八 一体表裏観が基本思想」での「題目と久遠釈尊と一体表裏の関係と云う認識が宗祖の生涯一貫した考えで有った」という結論にも同様に同意できない。その同意できない点はこの文に「生涯一貫した」という用語があるからである。少なくとも『本尊問答抄』では「釈迦仏=所生、法華経=能生」と主張し、この釈迦仏が「久遠釈尊」を指すか、「始成釈尊」を指すかは明言されていないのであり、「題目」と「久遠釈尊」が一体であるかどうか不明な箇所があることは明確であるからだ。また4-2-7で述べたように、『兄弟抄』『十章抄』では本門の教説を踏まえたうえで、法重の立場を主張していると読解できるから、「生涯一貫した」というのは著作から判断する限り、成立しない議論であろう。正確には「日蓮には法重の著作もあるし、一体観を示す著作もあるし、両者の関係が不明な著作もある」ということになるだろう。 次に山川智応の議論の引用であるが、ここにも注釈が必要であろう。山川は「四十五字の法体は本仏果上の一念三千であり、真の仏智内証の境界である」と述べているが、ここで日蓮宗教学に詳しくない人のために説明しておくと、「四十五字の法体」とは『観心本尊抄』の「今本時の娑婆世界は三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり仏既に過去にも滅せず未来にも生ぜず所化以て同体なり此れ即ち己心の三千具足三種の世間なり」の部分のことを言う。そして「四十五字の法体」でネット検索すると「立正大学の学長清水竜山教授と国柱会の山川智応博士」の論争が紹介されており、問題は「己心」が凡夫である信仰者すなわち「行者の己心」でもあるのか(清水説)、それとも「仏の己心」に限られるのか(山川説)ということに関わり、さらに「所化以て同体なり」で言うところの「所化」とは誰のことかということにも関わるということが明らかになる。「所化」とあるからには「能化」すなわち仏ではなく、修行者のことを指すことは明確であり、「所化以て同体なり」とは、素直に読めば「所化」である修行者も「能化」である仏と同体、同じなのですよ、ということになるだろうが、当然修行者と仏が同じなら、なんでわざわざ修行者が仏になろうとして修行しなければならないのか、あるいは同じならなぜわざわざ「仏」とされる存在を措定しなければならないのか、などという問題が生じてくる。 この『観心本尊抄』の議論は当然『開目抄』の「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此即ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備りて真の十界互具百界千如一念三千なるべし」という議論との関わりが想定され、「無始」が「今本時の」に対応し、「九界も無始の仏界に具し」という部分が『観心本尊抄』の「所化以て同体なり」と同趣旨であると解釈しうる。そうすると『開目抄』では「本門の十界の因果」「本因本果の法門」とあるから、「四十五字の法体」も「所化以て同体なり」を含むから、山川智応の主張するような「本仏果上の一念三千」ではなく、『開目抄』の用語も使用して表現すれば「本仏の本因本果の一念三千」になるのではないか、という疑問も当然生じるだろう。 もし「四十五字の法体」が「本仏果上の一念三千」であるならば、「四十五字の法体」に「因行」が含まれていないと解釈され、「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」は釈尊の「因行果徳の二法」であると規定されているから、「四十五字の法体と南無妙法蓮華経とは、その内容が同一のものであるはず」という山川智応の結論は論理的に導き出すことはできない。だが「四十五字の法体」を「本仏の本因本果の一念三千」と解釈すれば、「四十五字の法体」と「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」とは同体、同じとなる。この解釈では『開目抄』の「仏界も無始の九界に備りて」という箇所を考慮に入れれば、「己心」は「行者の己心」でもありうるという清水説も成立可能となるだろう。 次に高橋智遍の『六難九易の法門』の議論であるが、『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂、宝塔の中の釈迦・多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩、脇士となるべし」という読解が非常に難しい箇所について、「『八品儀相』をもって『教主釈尊』としている。故に大曼荼羅こそは久遠本仏・教主釈尊の『自受用身・一念三千』の尊容である」と述べている。どうして『報恩抄』の文章が高橋智遍のように解釈できるのか、よく分からないが、多分『報恩抄』の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」という文と「所謂、宝塔の中の釈迦・多宝、外の諸仏、並に上行等の四菩薩、脇士となるべし」という文とを「即ち」という接続詞で結ばれると解釈し、両者は同じことを指していると解釈しているようだ。 しかしながらこの二つの文の間に接続詞がないことは明白であり、日蓮は両者の関係については何も述べていないのである。二つの文を「そして、かつ (and)」(論理学でいう連言、)、「または (or)」(選言、)、「ならば(if ,then )」(条件法、)、「即ち (only if ,then )」(双条件法、)のどの論理的接続詞で結合するかによって、その接続詞で結合された複合文の真理値は大きく異なるということは、命題論理学の基本であるが、高橋智遍は「即ち」という双条件法で結合されていると解釈しているが、その解釈の根拠を少なくともこの箇所では示していない。 だから山川智応や高橋智遍の議論を援用して「本仏の一念の三千と本門の肝心南無妙法蓮華経の五字とは同体異相の関係であり、また本門の教主釈尊と大曼荼羅も同体異相であると両師とも見ています。」という文に関して、両者が「同体異相」であると見なしていることは正しいが、その見解が正しいとは言えないことも明らかである。 次に「『観心本尊抄』に窺える法仏一体・同体異相の認識は『本尊問答抄』述作当時に至っても変わってないと思うので、『本尊問答抄』に至って、法重に立場を確定したとは断定できないと思います。」と村田が述べていることに関しては、まず『観心本尊抄』では「本仏の一念の三千」と「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」とが同体異相であることは容認したとしても、そこから本尊論において、「妙法蓮華経の五字の本尊」と「寿量品の本尊」、すなわち曼荼羅と四菩薩を脇士とする久遠実成釈尊との同体異相については何も述べていないし、また論理的に「本仏の一念の三千」と「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」との同体異相から、導き出されると考えることもまだできない。それは「妙法蓮華経の五字」と曼荼羅とがどのような関係にあるかを、日蓮はどの著作においても明示していないからだ。ましてや久遠実成釈尊の木像が仏像になるためには「法華経による開眼供養」が必要なことが明言されているのだから、「本仏の一念三千」と「本門の肝心南無妙法蓮華経の五字」とは同体異相の関係にあるのかもしれないが、同じ関係が並行的に「寿量品の本尊」と「妙法蓮華経の五字の本尊」との間に成立しているとは言えないことも明らかである。 明らかに村田は結論を急ぎすぎている。日蓮はその著作においてさまざまなことを述べているが、そこに何か整合的な、首尾一貫した論理があるに違いないと想定することは、信仰者としては当然の態度であるかもしれないが、人間の考えることは絶えず揺れ動き、十分に考え抜いて発言することは稀だし、当人は整合的であると考えていても、よく検討すると矛盾があるという事例を見出すことは数多いし、他者に指摘されて初めて自分の誤解に気づくということも私の経験上数多くあったのだから、日蓮だって必ずしも整合的な思想展開をしているわけではないと想定するほうが、学者としてはふさわしい態度かもしれない。もし日蓮が、研究時間も研究資料もたっぷりある学者であったら、自分の過去の著作を参照して、整合的な思想展開をしたかもしれないが、日蓮が自覚していたように「仏滅後二千余年」に「未曾有」の「本尊」を図顕するという宗教的には革命的行為を行ったのであるから、そこには前代未聞の事業を展開する場合に生じる、さまざまな試行錯誤、説明不足があったと考えるのが当然であろう。日蓮に整合性を性急に求めるのではなく、それぞれの著作において日蓮が何を述べているのかを、できるだけ先入見を持たずに解読し、その上で他の著作で述べていることとどのような関係にあるかを、丁寧に見ていく必要があるだろう。私は学問には研究方法と研究対象の相違による学派の対立はあっても、宗派的な対立はありえないと思っている。私がナンシー・マーフィの紹介をした中で「リベラリズムと原理主義との対立は宗派の間の対立ではなく、むしろどの宗派の内部にも生じている研究方法による対立であり、それゆえ根が深い」という趣旨のことを述べたが、私も村田も宗派は異なっていても、日蓮の思想がどのようなものであったのかを日蓮の著作を資料として探求したいという学問的関心が同じであれば、それなりに合意可能な部分はあるだろうと楽観している。

 

 

 

条の引用した箇所の前の部分に「(日澄は)去る永仁年中・新堂を造立し一躰仏を安置するの刻み、日興が許に来臨して所立の義を難ず。聞き已つて自義と為し候処に正安二年民部阿闍梨彼の新堂並びに一躰仏を開眼供養す。爰に日澄・本師民部阿闍梨と永く義絶せしめ日興に帰伏して弟子と為る。此の仁・盗み取つて自義と為すと雖も後改悔帰伏の者なり。」とあるから日向はまず釈迦の一体仏を造立した後で四菩薩を造立したことが分かる。次に小室妙法寺の日伝も一尊四士を造立したことを述べている。 この『富士一跡門徒存知事』でよく分からないことは、「日興の義」が単に一尊四士の造立だけを指すのか(それならば『観心本尊抄』でも述べられていることだから「日興の義」にはならない)、それとも『原殿御返事』で主張していた一尊四士同時造立を指すのか、どちらなのかということである。日蓮門下であれば『観心本尊抄』を読んで一尊四士の重要性は直ちに理解したであろうが、経済的事情で同時に造立できないということは多かったに違いない。だが釈迦一体仏を造立してこれで十分と考えたとは思えない。だから日興とその他の弟子たちとの相違は、一尊四士の時間をおいての造立を認めるか、それとも同時造立を主張するかの相違であると考えられるのだが、『富士一跡門徒存知事』だけでは何とも判断しかねる。 さて日興は一尊四士の造立を「日興の義」として容認していたことは示されるが、それが積極的な容認でなかったことも上記の本尊に関する記述から分かるし、また日興門流で一尊四士の造立がなかったことからも分かる。日興の晩年の檀越の経済的余力がどうであったかはよく分からないが、消息類には「仏事にも事欠く」ような記述も見え、それほど裕福でなかった様子も伺われるが、日興は長命であったから、もし一尊四士の造立が重要であると考えていたなら、檀越にそれなりの貯蓄を指示していたろう。日興に『原殿御返事』で経済的余力のなさを指摘された波木井氏でも、最終的には日興の存命中に一尊四士の造立に成功したのだから、日興門流でもその意思さえあれば、一尊四士の造立は可能であったと推測するのが当然であろう。 なぜ一尊四士の造立が無かったかと言えば、考えられる理由は一尊四士よりも曼荼羅を本尊として重要視すべきだという『富士一跡門徒存知事』にも表明されていた考えであり、その淵源は日蓮の『本尊問答抄』に求める以外にはない。日蓮はその事跡において曼荼羅以外に釈迦の一体像も本尊として認め、また著作でも『観心本尊抄』では「妙法蓮華経の五字の本尊」=曼荼羅と「寿量本の本尊」=一尊四士とを同時に本尊として認めていたが、唯一『本尊問答抄』では法勝仏劣、能生所生の議論により「法華経の題目」=曼荼羅を仏像より勝れていると主張していた。それ以外の著作には本尊論としてはこのような考えは見られないのだから、日興がこの著作を重視して、これを『観心本尊抄』よりも重要だと考えたと推測してもよいだろう。

 

 5-3 宗教の発展と教義の深化、進化、泥沼化?

 日興は五老僧との対立を意識していたが、そこにはどのような理由が存在したのだろうか。日興が最初に五老僧との違和感を覚えたのは、日昭、日朗が日蓮の遺言に背いて、それぞれ、『注法華経』、釈迦立像を持って、鎌倉へ帰ったということであったろう。(日蓮正宗では日昭、日朗は日蓮の百ケ日法要が終わり、引き続いてその年だけ輪番を守ったのかもしれないが、それが終わり下山するときに持って行ったとしているが、確実な資料に基づく記述ではない。)日興が記述した「御所持佛教事」には次のように述べている。

 

「御遺言云佛者 釈迦立像 墓所傍可立置云々経者 私集最要文名註法花経同篭置墓所寺六人香花当番時可被見之 自余聖教者非沙汰之限云々仍任御遺言所記如件弘安五年十月十六日 執筆日興  花押

 これは、日昭、日朗、日興、日持の花押が押された文書である。だからこの『注法華経』と釈迦立像の二つは特に日蓮門下の共通の重宝として身延の墓所の寺に安置するように遺言されたのであるが、日蓮と日昭、日朗との間に個人的な譲渡関係の約束あるいは密約があったのかもしれないが(それが日位の『大聖人御葬送日記』の記録に反映されているのかもしれない)、そのようなことには全く触れず、身延の墓所への安置を遺言として六老僧が相互に認めたと見るしかない。少なくとも日昭、日朗の行為は日蓮の遺言に背く約束違反であると日興には感じられたであろう。しかもこの文書の引用文の後に書かれている墓番の取り決めも反故にされ、日興にしてみれば、墓番は遺言ではあるが、具体的なことは老僧の間の自発的取り決めなのだから、もし活動地域などの問題で実行困難であるなら、取り決めをする前に、そのような事情を説明し、墓番制度を抜本的に見直すなり、あるいは実行可能なように修正するなりすればよいだろうに、それもせず約束を反故にするということは人間的信頼の問題に関わってくるという気持ちになっても当然であろう。 次に日興が日昭、日朗に対して落胆したのは、『本尊分与帳』に「故聖人御弟子六人中、五人者一同改聖人御姓名号天台弟子爰欲被破却住坊之刻、行天台宗而致御祈祷之由、各各依捧申状免破却難了具見彼状文」とあるように、日蓮死後4年目の弘安8年に幕府が鎌倉の寺院に国祷を要求し、それを拒否すると寺院が破却される恐れがあったので、日昭、日朗は幕府の要求に従って国祷をし、次のような申状を提出した。

 

 「天台沙門日昭謹言上(中略)先師日蓮忝為法華行者専顕仏果直道、酌天台余流(中略)日昭雖為不肖之身為兵火永息奉為副将安全構法華道場致長日勤行」 「天台沙門日朗謹言上(中略)日朗忝相伝彼一乗妙典鎮奉祈国家」

 それぞれ「天台沙門」と号し、国祷をしたことを明示している。前年の『美作房御返事』で「聖人より後も三年は過ぎ行き候に安国論の事御沙汰何様なる可く候らん(中略)さればとて老僧達の御事を愚かに思い進らせ候事は法華経も御知見候へ、地頭と申し某等と申し努々無き事に候」と述べて、重宝を身延から持ち出したこと、墓番を守らなかったことなどの不満はあっても、鎌倉の地で老僧たちによる立正安国論に基づく幕府への諌暁を期待していた日興にとって、日昭、日朗の申状は大いに落胆させるものであった。 日道の『三師御伝土代』には次のような日興のそのときの感想が述べられている。

 

 「冨山仰に云く、大聖は法光寺禅門、西の御門の東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給ふ、諸宗の首を切り諸堂を焼き払へ、念仏者等と相祈りせんとて山中え入り給ふぞかし、長日謹行何事ぞや、天台は迹化、上行は本化、天地雲泥の相違なり、何ぞ地涌の遺弟と称しながら誤つて天台沙門というや。」

 

 諸宗禁断もなく、国祷をすることは、佐渡流罪赦免後に「法光寺禅門」(川添昭二 「北条時宗の研究-連署時代まで-」によれば北条時宗の法号)が日蓮に対して鎌倉に(「西の御門の東郷入道屋形の跡」はネット検索すると「鶴ケ岡八幡宮の東にあたる地で、鎌倉の中心地ともいえるところです」という解説が1箇所だけヒットした)寺院を建立寄進するという懐柔策を提案したことに対して、日蓮が諸宗禁断を求めて拒否し、身延入山となった経緯を台無しにする裏切り行為と日興には思われた。日興は『原殿御返事』に「今年の大師講にも、敬白の所願に天長地久御願円満左右大臣文部百官各願成就と(日向が)の給い候いしを、此の祈は当時は致すべからずと再三申し候いしに、争でか国恩を知り給わず候べきとて制止を破り給い候いし間、日興は今年問答講仕らず候いき。」と述べて、日向が天台大師講の折、国祷をしたことを厳しく非難している。 日興にしてみれば、日蓮の宗教運動のアイデンティティの一つとして法華経至上主義に基づく諸宗禁断という要求があるのであり、それなくして国祷をすることは『立正安国論』の神天上の法義に反することと思われたのである。以後日興は鎌倉の老僧たちが自ら日蓮の法義から転落したものと判断し、独自に日蓮の法義を再解釈し始めたのである。その場合に、日興が自らの正当性を主張する根拠となったのは、日蓮の諸著作であった。神社参詣問題に関する日興の頑なな態度は、日蓮の事跡を考慮にして生じたものではなく、『立正安国論』の神天上の法門を絶対視することから生じた。『原殿御返事』の一尊四士同時造立説は『観心本尊抄』の厳格な解釈から生じた。『富士一跡門徒存知事』に見られる曼荼羅正意説は『本尊問答抄』を本尊論に関する他の著作よりも重視するということから生じた。このように見てくると日興は日蓮の著作を絶対視する原理主義者のように見えないこともない。 しかしながら日興を原理主義者と見なすにはいろいろ問題も多い。それは修行論に関して、日蓮が教えたことは、方便品、寿量品の読誦と唱題であったろうが、その他の修行については著作の中で明確な指示はしていない。特に書写行に関しては法華経の中でも五種行の一つとして挙げられ、日本の古代、中世において伝統的に行われてきた修行法であり、日蓮自身も『月水御書』で勧め、身延で行っていた修行だから、老僧たちがその修行を積極的に認めたことは、伝統との摩擦を避ける意味でも当然の選択であったと思う。しかし三位日順の『五人所破抄』では次のように述べられている。

 「五人一同に云く、如法・一日の両経は共に以て法華の真文なり、書写・読誦に於ても相違有るべからず云云。 日興が云く、如法・一日の両経は法華の真文為り雖も正像転時の往古・平等摂受の修行なり、今末法の代を迎えて折伏の相を論ずれば一部読誦を専とせず但五字の題目を唱え三類の強敵を受くと雖も諸師の邪義を責む可き者か、此れ則ち勧持・不軽の明文・上行弘通の現証なり、何ぞ必ずしも折伏の時摂受の行を修すべけんや、但し四悉の廃立・二門の取捨宜く時機を守るべし敢て偏執すること勿れ云云」

 

 ここでは、日蓮の著作を引用することなしに(しようとしてもできないだろう)、末法相応の修行でないという理由で書写行を否定する。(私はここの文章に「但五字の題目を唱え」とあり、二品読誦が挙げられていないから、方便品寿量品の読誦も末法の修行には必要ないのではないかとも思っている。) つまり日興は日蓮を上行再誕と見なしたから、その上行にふさわしい修行という観点から、日蓮が容認した修行を再解釈し、たとえ一般的に法華経の修行として容認されていた書写行であっても、たとえ著作の中で明確に禁止されているわけではなくても、上行にふさわしくない修行として拒否したのである。 私はある理念の下に教義を再解釈することはそれなりに必要なことであると思っている。日蓮不在の時代に、日蓮の教えの独自性とは何かを自問自答すべき状況に置かれた日蓮信奉者は何らかの仕方で、回答を見出すしかない。日興はそれを上行再誕ということの中に見出し、その観点から日蓮の教えを再解釈、再構成していったのである。そしてこのような態度は日興一人の態度ではなく、それなりに日蓮の信奉者たちにも共有されていたから、六老僧につながる門流という宗派間の対立としてではなく、宗派を超えた研究態度(あるいはパラダイム)として本迹論争が、それぞれの門流内部で生じたのである(私がナンシー・マーフィの紹介をしたときにはこのことも念頭に置いていた)。 そして日興の同時代人で日興から影響を受けつつも、この問題を取り上げたのが天目であった。日蓮が上行菩薩であり、本門の修行を強調するなら、なぜ迹門である方便品を読誦しなければならないのかという問題を提起したのである。日興は日蓮の著作から方便品読誦の根拠を見出すことができずに、「所破」という回答で切り抜けようとしたが、それほど説得力をもたず、『五人所破抄』で三位日順は「所破」「借文」という回答を用意した。(これが日興の見解ではなく日順の見解であることは『日順雑集』に「日順云く方便品を読む事は第一は所破なり、第二は下文顕已通得引用の筋と云云、但し日興上人は但所破と云うべし迹を借りて本の助に置くとは云うべからずと仰せ有るなり」と述べている。)それでも説得力がなかったことは日興死後まもなく日仙日代の間に方便品読誦に関する論争が生じ、日尊もそれなりに回答を用意したということにも表れている。 また方便品読誦を禁止している日蓮の著作も偽作されるようになったが、これらはすべて日蓮の本意が本門弘通であるなら、迹門の方便品を読誦することにどんな意義があるのかという当然の疑問から生じているわけで、日蓮自身はそのような問題意識をもっていなかったから、日蓮には回答を求めることができず、弟子たちがあれこれ理屈を探したり、偽書を作成して日蓮の権威でその議論を封殺しようとしたと見なすことができる。 日蓮の著作の偽作はこれにとどまらない。日蓮自身に本覚思想があったことは明確であり、『観心本尊抄』の「四十五字法体段」も本覚思想の一つの表現と見なすことができるが、「所化以同体」の議論はやがて『諸法実相抄』の凡夫本仏論へと展開していくことが次のように示されている。

 

 「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし、釈迦多宝の二仏と云うも妙法等の五字より用の利益を施し給ふ時事相に二仏と顕れて宝塔の中にしてうなづき合い給ふ(中略)されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ、経に云く「如来秘密神通之力」是なり、如来秘密は体の三身にして本仏なり、神通之力は用の三身にして迹仏ぞかし、凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、(中略)釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、然れども迷悟の不同にして生仏異なるに依つて倶体倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、(中略)実相と云うは妙法蓮華経の異名なり諸法は妙法蓮華経と云う事なり、地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」

 

 私個人は、日蓮が凡夫本仏論までは持っていなかったろうと推測しているが、もし所化である行者の己心に仏と同じ悟りの境地が内在しているなら(これは清水説であるが)、凡夫である行者は本来仏であるという解釈が生じることも、議論の展開としてありうるだろう。「妙法蓮華経こそ本仏にては御座候へ」というのは、理としての「妙法蓮華経」が事としての「釈迦多宝のニ仏」よりも根本であるということを主張していると解釈でき、そこから理即の凡夫が、事としての「釈迦多宝のニ仏」より勝れているという論理展開をしていると見なすことができる。「万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」という一節に、安然の『斟成草木成仏私記』』(869-885 成立?)の「草木國土悉皆成佛」という本覚思想との類似を見るのは私一人であろうか。 本門戒壇についても日蓮の確実な著作には明確なことを何も書いていないから、『富士一跡門徒存知事』では次のように主張している。

 

 「一、本門寺を建つべき在所の事。 五人一同に云く、彼の天台・伝教は存生に之を用いらるるの間・直ちに寺塔を立てたもう。所謂大唐の天台山・本朝の比叡山是れなり。而るに彼の本門寺に於ては先師・何れの国・何れの所とも之を定め置かれず、と。  爰に日興云く、凡そ勝地を選んで伽藍を建立するは仏法の通例なり。然れば駿河国・富士山は、是れ日本第一の名山なり。 最も此の砌に於て本門寺を建立すべき由、奏聞し畢んぬ。広宣流布の時至り、国主此の法門を用いらるるの時は、必ず富士山に立てらるべきなり」

 日蓮正宗では「奏聞し畢んぬ」という表現を、日興が日蓮に「奏聞」したと読解し、富士山に本門寺を建立することは日蓮の意志でもあると主張しているが、普通「奏聞」という言葉は天皇などに奏上することを言い、日興の他の著作で、日蓮に対して「奏聞」するという用語を使用しているならともかく、そうでないならば、日興が申状を通じて天皇に奏聞したと素直に読解すべきであろう。 ここで「本門寺」と書かれているのは単にそういう名称の寺院を建立するという意味ではなく、「本門戒壇」の寺院である本門寺を建立するという意味である。だから上記引用の後で、「右、王城に於ては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中仏法は王法と本源躰一なり。居処随つて相離るべからざるか。仍つて南都七大寺・北京比叡山・先蹤之同じ後代改まらず、然れば駿河の国・富士山は広博の地なり。一には扶桑国なり。二には四神相応の勝地なり。尤も本門寺と王城と一所なるべき由・且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり。」と平安京から富士山のふもとまで遷都することをも主張している。 この『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』では富士戒壇説は主張されているが、『三大秘法抄』の引用はない。日興門流に知られていなかっただけなのか、それともこの頃には存在していなかったのか、私には分からないが、戒壇について最も明確に述べているのは、『三大秘法抄』であり、日蓮の確実な著作では明確になっていなかった戒壇について「勅宣」「御教書」という法的手続きを明記し、延暦寺の大乗戒壇と同様な本門戒壇を建立すべきことを明確にしている。私は大田乗明に授与された著作なのに、大田乗明の子である中山2世日高の跡を継いだ中山3世日祐の『本尊聖教録』にも記載されていないなど疑問が多いので、偽書だと思っているが、それでも日蓮の延暦寺の大乗戒壇を重視する思想を受け継ぎ、その戒壇建立の手続きを参照した上で、さらにその当時の権力構造を踏まえた上で、日蓮の意志を代弁するという自覚を持った者が『三大秘法抄』を著したのだと推測している。 偽書の多くは日蓮が曖昧にしたままで、解明していない事柄に関して、後世の日蓮信奉者が、自分なりの研鑽を積み、日蓮の思想を再構成する中で、日蓮が語らない部分を日蓮に成り代わって表現するということによって生じたと私は思っているし、このことについては佐藤弘夫の『偽書の精神史』を参照していただきたい。日興の『原殿御返事』にも「聖人や入り替らせ玉ひて候ひけん」という表現があったが、この自覚こそが、日蓮が語らなかったことを、日蓮に代わって主張するという態度につながっていくのである。 学者であれば、確実な文献資料には本門戒壇については何も明確なことは述べていないですよということですますことができるが、信仰者の立場であれば、本門戒壇を実現することが日蓮の三大秘法を実現することになると思えばこそ、具体的にどうすればいいのかを求めるだろうし、そのうえで『三大秘法抄』に述べられていることが、自分にとって納得のいくことであれば、『三大秘法抄』の指示に従った行動をとるのも当然であると思う。創価学会の二代会長戸田城聖は『三大秘法抄』を受け入れつつ、「勅宣」「御教書」という法的手続きは不可能だから、国民主権に照らして「国会の過半数の議決」という法的手続きによって本門戒壇を建立しようとした。これもそれぞれの時代に適応した本門戒壇の実現に向けての運動であり、後に三代会長池田大作が「国会の過半数の議決」ということは日本国憲法の政教分離原則に違反するという指摘を受けて、憲法を変えるという選択肢もありえたけれども、政教分離原則が思想、信条の自由を保障するために重要な原則であるという考えが多くの人に支持されているという事実を受け入れて、「国会の過半数の議決」という戸田の運動方針を撤回し、本門戒壇は民衆立であるという考えを表明したのも、『三大秘法抄』とは無縁であっても、その時代の本門戒壇実現に向けての努力の表れであろう。この池田大作の考えに反対して、あくまでも「国会の過半数の議決」を求めようとした現在の顕正会は『三大秘法抄』を重視し、戸田城聖の解釈の下で本門戒壇の実現に向けて努力している。この二つの方針のいずれが妥当であるかなどという問題に関しては、多くの人に認められる判断基準はない。一方は社会的文化的状況に応じて宗教運動を進めていくことが正しいと考え、もう一方はあくまでも聖典に基づいた宗教運動こそが正しいと考えているからだ。これもリベラリズムと原理主義の争いの一つの形態である。 その意味では日蓮の語らなかったことについて、日蓮に成り代わって回答しようとする態度から、教義の深化あるいは進化が生じるが、場合によってはそのことが教義論争の泥沼化をももたらすこともありうる。

 

 

 

5-4 現代の文化状況と曼荼羅正意説

 

 5-4-1 私の個人的研究過程

 私が曼荼羅本尊正意説を採用するのは、日蓮の『本尊問答抄』の能生所生の議論を受容しやすい議論として受け入れているということ、また私の所属する宗教法人が日興門流から大きな影響を受けており、その日興が曼荼羅正意説を採用していることなどが宗教的理由になるのだが、実は私個人はそのような宗教的理由についてはあまり重きを置いていない。私は学生の頃に池田大作会長の指示だと言われて、東大法華経研究会編の『日蓮正宗創価学会』の改訂版の原稿を作成する作業をしたことがある。そのときに一緒に作業していたメンバーが元創価学会広報室長の故西口浩、現SGI教学部長の斉藤克司、現創価大学文学部教授の中野毅などであった。その後西口、中野とは新学生同盟の責任者として一緒に活動することになり、その時期に池田とはそれなりに懇談する機会もあり、いろいろな指導も受けた。なにしろ40年近い昔のことなので、今では記憶も薄れ、どのような指導を受けたかは定かではないが、自分なりに指針としていることがいくつかある。ひとつは、これは新学生同盟のメンバーとの懇談の機会であったが、西口が「純信とは何か」という質問をした中で、池田が「いろいろ創価学会に問題を感じるかもししれないが、それは皆さん方で変えていけばいい。私も戸田先生のやり方で納得できないことは変えてきた。」という趣旨の指導である(この趣旨の指導はアメリカでも行われたということをSGI-USAのメンバーから聞いたことがある)。もう一つは多分第二東大会の結成式の折だったと思うが、「皆さん方に創価学会を守って欲しいとは言わない、しかし創価学会を支えている庶民を守っていただきたい。」という指導である(このときのメンバーで国家権力機構の一員になってそれなりの立場になった者もいるが、かれらがこの指導をまだ覚えているかどうかは分からない)。 また一連の懇談の中で池田の人となりをそれなりに知ることもあり、私が池田を宗教指導者として信頼することになるエピソードとして今でも覚えていることは、私が大学院に進学してまもなくの頃、北条浩、山崎正友の下で共産党対策の作業をしていたころ(西口の配慮により、また私の無能により、危なそうな活動をしなくてすんだが、このことに関して西口には感謝している)、たまたま信濃町を歩いていたときに、池田から声をかけられ、そのまま若手本部職員対象の御書講義に参加させていただいたことがあった。そのときの教材が『諸法実相抄』であり、たまたま戸田城聖の獄中の悟達の虚空会の儀式の神秘体験の話題になったとき、池田ははっきりと自分にはそんな体験はないと明言した。私はそれまで、戸田に可能であった体験ならば、自分にも体験可能かもしれないと思い、それなりに長時間の唱題をしたりして努力したこともあったのだが、池田にあっさりとそう言われ、神秘体験は成仏とは関係ないんだと私なりに納得した。(ちなみに法明教会のHPで村田征昭は『本尊は日蓮聖人奠定のままです』というブログで「大曼荼羅を対向として読経唱題するさい、大曼荼羅座配の如く霊山虚空会の聖衆が影現していると信じて礼拝信行しています。」と述べている。日蓮宗の信仰についてはよく分からないが、このような考えが一般的なのだろうか。)宗教指導者であれば、例えば現在の幸福の科学の大川隆法の霊言体験のように一般会員にはない特別な神秘的宗教体験を、自分の宗教的カリスマを飾るために主張することが通例だと思っていた私は、池田のそのような神秘的宗教体験の必要性を認めない、率直な物言いにある種感動を覚えたのも事実である。池田に関してはいろいろな毀誉褒貶があるが、創価学会を神秘的宗教体験なしでも信仰可能な形態に指導したという点では、私は高く評価している(この点では立正佼成会を長沼妙佼の神秘的な指導から解放して、教義の合理化を進めた庭野日敬と通じるところがある)。戸田城聖に関しては、「肉牙」に関する受け入れ難い解説などがあり、私の科学に対するそれなりの信頼感とは抵触するものがあるが、池田の公的な発言に関しては大きく違和感を持つことは少ない。 その後大学院修了後、新潟短期大学に奉職している頃、創価学会国際局から海外向けの創価学会の教義書を作成したいという話があり、学生時代のメンバーに現創価大学文学部教授の菅野博史やその他匿名にしておくべき学者が数名参加して『創価学会の理念と歴史』を作成することとなり、第1次宗門問題以後の日蓮正宗による教導の時期だったので、教義に関しては『日蓮正宗要義』を踏まえた記述をするように言われ、私の本格的な日蓮正宗研究が始まった。『創価学会の理念と歴史』は諸般の事情で出版されることはなかったが、その過程で書かれた原稿の一部は私や菅野の論文に、それとは明記されていないが、発表されている。 このような経験の中で、当然西山茂の内棲宗教論も学び、創価大学文学部に転職してまもなくの頃、哲学概論の授業で、その紹介をして、創価学会と日蓮正宗の分離の可能性に言及したところ、学生からそれなりのブーイングの答案をもらったこともある。しかし私は創価学会と日蓮正宗との思想的相違はそれなりに感じていたので、創価学会のアイデンティティを探求する作業を続け、東洋哲学研究所で日蓮や日蓮正宗の資料を小林正博などとともに一緒に研究した。そのような研究過程の中で、池田の『人間革命』の中では否定的に述べられていた牧口の価値論に注目するようになり、学生の頃は手に入りやすい戸田城聖補訂版の『価値論』を使っていたが、もともとの『創価教育学体系』第2巻の「価値論」との差異も目に付くようになり、本腰を入れて研究し始めた。

 

 5-4-2 牧口常三郎の日蓮仏法選択

 その過程で私は「第5章 価値の系統 第6節 宗教と科学・道徳及び教育との関係」において次のような牧口常三郎の議論に出会った。

 

 「吾吾の為して居る科学は事実の総合統観によって真理を明かにし、之を更に現実の証拠に当て嵌めて見て、然る上に信用するのであるが、法華経に於てはこれ等の道理と現証との外に文証といふ経文明記の教詔を加へ、此の三事具有を以て、法文上の所論の必須条件とされてある。即ち道理と文証と現証との具有にあらざれば、仏法論述の自由を禁ぜられてある。 内道と自称する仏法から観た外道の教へは勿論、仏法中に於ても法華経以前の教説即ち四十余年の諸経に停滞する宗派は、信仰の対象が人格的の神又は仏と名づける具現的の本体であって、之を崇拝する各個人の意識の内に構成する所の或る物に外ならないから、科学の対象とし理想とする真理、法則とは全く異って居るのである。乃ち宗教と科学の背反する所以で、従って道徳とも一致せぬ所以である。然るに法華経に於ける肝心はその名題の表す通り『法』であり、これを賛嘆した『妙法』であり、泥中から出た純潔清浄な法に遵った生活をなして法を具現した仏に譬えた『蓮華』、これを又教説した『経』であり、これに賛嘆帰入するのが『南無』であり、即ち『南無妙法蓮華経』であって見れば、全世界の科学者の憧憬して向ひつつある所と合致するものではないか。 法といひ、則といひ憲といひ道といひ規といひ準といふ。文字は各各に異っても内容を等しうするもので、普遍妥当ののりであり、自然の法則であり、人間の踏むべき道に外ならないのである。従って科学に根底を置く所の道徳とも背馳しない所ではないか。 道徳と科学との関係をば、可なり有識階級でさへも、相互に没交渉乃至背馳するものの如く考へえて居る様だが、余は社会学の対象たる社会法則に順応したる生活を道徳というて差支ないと思ふ。此の主張を誤りなしとすれば、当然宗教の説く所と道徳とも背反する所はない筈である。これに関しては詳しくは別に言ふこととする。 『仏法即世法、世法即仏法』との釈尊の教へは究竟する所、又道徳と科学と宗教との一致を意味するものであるのみならず、仏法の中に悉くが包容される事を意味するものでらう。或は宗教を理解せぬ低級なる科学的解釈として謗法の罪は免れ難いかも知れぬ。切に叱正を待つものである。 唯だもし所あるとすれば、倫理道徳の取扱ふ所の人道即ち社会的因果の法則(道理)は現世に限られ、科学の取扱ふ所の因果の法則は各分化の現象のみに限られて居り、総合科学たる哲学と雖も現世を超越し得ざる人生観、世界観に限られて居るに対して、仏教の教へる所は、吾吾の肉眼の外に天眼、慧眼、法眼、仏眼の五智眼を以て、世間及び出世間即ち過去、現在、未来の三世に亙っての因果流転の法則を明にした所にあると思はれる」

 

 この部分は戸田城聖補訂版の『価値論』では大幅に書き換えられて原型をとどめていない。しかし私は牧口常三郎が日蓮仏法を選択した3つの理由として重要視している部分である。第一に日蓮仏法は自然科学が合理的な理論と実験証明によって成り立っているように、仏法上の議論も合理的な理論(理証)と実験的(体験的)証明(実証)さらには文献的論証(文証)によって成立していて、その点で科学的真理と仏法的真理とは類似関係にあると牧口は見なした。 ちなみにこの三証の強調は戸田城聖にも継承され、『折伏教典』には「宗教批判の原理」の一つとして挙げられている。この三証が布教上でどのような機能を果たしたかと言えば、文証の議論は文献的蓄積が弱い神道や新宗教を批判する場合に使用され、理証の議論はキリスト教が認める自然法則を超えたさまざまな奇跡(それには処女懐胎や復活の奇跡も含まれる)を挙げて非科学的な宗教であると批判する場合に使用され、現証の議論は葬式仏教的機能が強い既成仏教を批判する場合に使用された。 第二の議論は本尊論に関する議論であるが、牧口は信仰対象となる人格的神仏の像は、それを制作する彫刻家、絵師あるいは制作を依頼する人々が「各個人の意識の内に構成する」ものにしか過ぎないと批判する。それに対して法華経で信仰される「南無妙法蓮華経」は「普遍妥当ののり(法)」「自然の法則」「人間の踏むべき道」と言い換えられており、「純潔清浄な法に遵った生活」を送ることにより実現される「法を具現した仏」になることを教える法を信仰対象とする全く違った宗教であると主張する。これについては後述する。 第三の議論は仏法が、自然科学、道徳科学、哲学と矛盾せず、これらはすべて因果の法則を研究するという点で共通し、仏法は他の学問を包容する全体と部分という関係にあるという主張である。牧口はこのような仏法解釈を「宗教を理解せぬ低級なる科学的解釈として謗法の罪は免れ難いかも知れぬ。切に叱正を待つものである。」と述べて、必ずしも多くの宗教者に受け入れられる解釈ではない可能性を自覚しつつも、これが正しいと思っていることを述べる。 このような牧口常三郎の宗教に対する考え方は珍しいものではなく、創価学会の会員には牧口の著作を読んだことがなくても、同様の考え方をする人もそれなりにいるだろう。(創価学会の会員がどのように宗教を考えているかは、日本国内に関しては、十分な調査が許可されていないのでよく分からないが(調査されていないから誰もその実態については分からない)、イギリス、アメリカの会員の意識調査に関しては、宗教社会学者によるある程度十分な調査が行われ、その調査結果に関しては書物として出版されてもいる。)本論文では本尊論を扱っているので、それに関わる第二の論点だけに注目しよう。 第二の論点で人格的な神仏よりも普遍的な法を信仰対象とすることが望ましいと牧口は考えているが、これを『本尊問答抄』の議論に絡めて論じると、法本尊が仏本尊よりも勝れているという議論につながりやすく、仏が「純潔清浄な法に遵った生活」を送った結果生じた「法を具現した仏」として位置づけられている。これは法と仏を能生、所生の関係で牧口が考えていると見なしてよいだろう。しかも法を「普遍妥当ののり(法)」「自然の法則」「人間の踏むべき道」と言い換えることにより、法の普遍妥当性、自然に内在すること、また道徳的内容を含むことを主張している。 この法についての言い換えの中で、「人間の踏むべき道」について牧口は「普遍妥当ののり」としているが、『創価教育学体系』第2巻価値論の中では主に善の価値として議論されており、その議論の特徴は、善は公益=社会全体の利益として定義され、社会によって内容が異なるという社会相対主義の主張が強くなされていることである。牧口にとって社会とはその当時の歴史的状況においてはほぼ国家に等しく、国家を超えた社会はまだ成立していなかったから、人類全体にとっての善を決定する社会制度は存在しない。牧口が国際連盟を人類全体の善を代表するものとは見ていなかったことは、満州事変に関するリットン報告書を採択した国際連盟の決定を第3巻で非難していることからも窺われる。(アニメガンダムシリーズのファンであるならば、国連に相当する連邦政府が地球の一部の特権階級の利益を代表し、多くの宇宙コロニーの利益を搾取する機関となっているというイメージを持つであろうが、牧口にとっても国際連盟は大国(その一つに日本も含まれるということが牧口の議論を危うくさせてもいるのだが)の利害を調整する機関に過ぎず、日本の利益が守れないのであれば国際連盟脱退も選択肢の一つになると牧口は考えていた。これは池田大作の国際連合を中心に人類益を実現しようという考えとは異なる。) 牧口にとって社会に相対的な善を超えた人類全体にとっての善は、宗教によって与えられるはずのものであった。牧口はそれを次のように述べている。

 

 「善的、道徳的価値の節に於て吾人は善悪の判定の標準を規定したことはご承知の通り。世法即ち社会法則としては恐らくはこれ以上には標準を求められないものではないか。 さはあれ、以上は相対的の善で、最高至上の絶対的のそれではない。人類の現世に於ける生活法則を対象とする道徳科学としては、これ以上に踏み込む力はない様である。科学の力ではこれ以上に至ることは出来まいが、人生に於ける要求はこれに留まらない。そこに宗教の領域が展開するのである。 三世常住、永久不滅の霊魂の生活を対象として、そこに一貫する因果の法則を見出して、絶対至高なる正邪善悪の標準を確立し、その規範に則ることによって、初めて至幸至福といふべき生活を遂げんとするのが人心の深底に横たはる要求で、宗教の起る所以である。」

 

 私自身は、牧口のような宗教による善悪の決定ということには懐疑的である。一つには宗教による倫理的判断が、具体的な倫理的問題に対してどのようになされるか不透明であるということである。現在の地球温暖化の一つの要因として、人口が多い中国やインドの人々の生活水準の向上=エネルギー消費の増大ということは科学的に根拠があることだろう。かれらの生活水準が向上したといってもそのエネルギー消費は一人当たりに換算すれば、アメリカや日本と比べれば、はるかに少ないことも明かである。このような事情があるときに、中国やインドのCO2排出量制限問題にどのような判断を宗教が下せるだろうか。中国やインドが、先進国の過去の責任は問わないが、平等性の原理を主張して、アメリカや日本の一人当たりエネルギー排出量を現在の半分にせよ(それでも彼らの十倍近くになるだろう)と要求したら、どのように判断できるのだろうか。おそらくそれなりの規模の宗教運動の指導者であれば、中国やインドの人々が潜在的な信者予備軍であると見なされる場合、この問題にあえて回答をしようなどという無謀なことはしないだろう。あるいはアメリカの中絶問題をめぐって、同じプロテスタントの宗派に所属する人々の間でも、リベラルな人々は中絶容認の立場であり、原理主義者並びに福音主義者は中絶禁止の立場であるというように分断されているのが現状である。 もう一つにはある社会において、特定宗教が多くの人に受け入れられている場合には、その宗教の善悪の判断がその社会の善悪の判断として受け入れられることは可能であろうが、そのような多数派の宗教が存在しない場合には、宗教の倫理的判断は、少数派の意見として事実上あまり影響を与えないということがある。現在の日本の宗教をめぐる状況がどのようであるのかは、よく分からないが少なくとも宗教に対して好意的であるとは思えない。私の趣味であるアニメやコミック、ライトノベルの分野では宗教は無視されるか、マイナスイメージで扱われることが多い。谷川流の人気ライトノベル『涼宮ハルヒの驚愕』では「神とは、人間の観念が生み出したものだから、有史以来、この惑星のどこにだって神様は不在だ。」というフォイエルバッハの『キリスト教の本質』で主張されるような言葉が高校生の日常的な会話の一つとして語られたりする。あるいは上橋菜穂子の『神の守り人』では「よい人を救ってくれて、悪人を罰してくれる神には、まだ一度も出会ったことがない。悪人を裁いてくれるような神がいるなら、この世に、これほど不幸があるはずがない」と主人公が発言しているが、これに答えるのにライプニッツの最善説を持ち出したとしても、うまく説得できそうにもない。少なくとも日本では宗教者が、宗教以外の分野に関して発言したとしても、それほど大きな影響力はなさそうだ。つまり宗教は文化全体の中ではマイナーな存在となっている。(創価学会の池田の政治的影響力が語られることがあるが、それは政局に関してはあるだろうが、政策に関しては皆無に等しいだろう。このことはロバート・キサラの『平和の預言者たち』で分析されている。) 文化宗教としての宗教的儀礼はそれなりに尊重されているが、教義、教団については必ずしも宗教にとって本質的な要素になっているとは見なされていない。創価学会もかっては日蓮正宗の影響もあり、教義的な問題にこだわっていた時期があったが、日蓮正宗と分離してからは、その教義がどのように変更されたのかはそれほど問題にされることもない。それは日常的信仰生活にとって必要な宗教的指針は複雑な教義理解とは無関係であるからだ。「冬は必ず春となる」「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」「桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見」などという宗教的指針は、日蓮個人の著作に根拠を持つかどうかとは無関係に、日蓮仏法の信仰上の遺産としてどの日蓮宗の宗派においても共通にその役割を果たしていると思われる。 私は、「人間の踏むべき道」が「普遍妥当ののり(法)」であるという牧口の考えには賛成していないが、牧口が「普遍妥当ののり(法)」を「自然の法則」と考えていることには賛成している。現代の多くの人は、法の中でも法律などは人間集団が人為的に作ったものであり、その適応されるべき集団を超えた普遍性を持たない相対的なものに過ぎないが、自然科学の法則は、そのような人為的な法律とは違い、自然に内在する原理を明かにした普遍的な法則だという考えを持っているだろう。量子力学に関するコペンハーゲン解釈やトーマス・クーンの『科学革命の構造』におけるパラダイムの強調などもあり、自然法則は自然に内在するものではなく、自然を人間がどのように見るのかということに関係しているというカントの『純粋理性批判』における現象の世界の構成論に近い考えも、それなりに見られるが、多くの人は中学、高校の理科教育の中でなされる内在説を支持しているだろう。牧口もそのように考え、宗教は宇宙に内在する人間の生活に関する因果法則を究明するものだという考えを持っていた。その考えが戸田城聖に継承され『生命論』として展開され、仏法は宇宙生命に内在する因果の理法を解明したものであり、その法則に順応した生活を送れば、個人の生命が浄化され、幸福な生活を送ることができ、その法則に反すれば、個人の生命は汚染され、不幸になると主張される。池田はそれを継承し、唱題は宇宙生命に内在するリズムに自分の生命を調和させる行為であると説明していた。

 

 5-4-3 理法と教法

 仏法をこのような生命論で解釈することが創価学会の大きな理論的特徴の一つになっているが、私自身もこのような考えにはなじんでいて、それほど違和感を持っていなかった。ところが第1次宗門問題で、このような仏法を宇宙に内在する理法と考えるのは根本的な誤りであると細井日達から厳しく批判された。第1次宗門問題に関しては、創価学会にも日蓮正宗にもお互いに不満はあったにせよ、あそこまで大騒動する必要性は今でも見出せない。創価学会にとっては教義的正統性を日蓮正宗によって保証してもらうことは、自前の教義を持つ能力がない以上、必要不可欠であり、日蓮正宗にとっても、弱小教団から日本を代表する大教団へと発展するためには、創価学会の人的経済的支援は必要であったろう。だからこそ、正本堂が本門戒壇であるかどうかをめぐって生じた創価学会と妙信講(現顕正会)との争いで、従来の教義からは妙信講に理がありながらも、創価学会を日蓮正宗が擁護したと思われる。(この辺の分析は西山茂の諸論文に詳しい。)私はその当時は大学院生であったので、創価学会の本部の意向を知る立場にはなかったが、第1次宗門問題が生じる少し前に、実質的に私の信仰指導をする立場にあった野崎勲から創価学会本部へ呼び出しを受け、私も所属していた伸一会のメンバーに池田から「・・・桜」という揮毫が与えられ(中には原島崇のように「新弟子」という称号まで授与されたメンバーもいたらしい)、そのときに野崎から「これから大変なことが起きるかもしれないが、しっかりと本部についてくるように」と言われ、私には事情は飲み込めなかったが、後になってこういうことかと思った。私は基本的にリベラルであり、自分の宗教体験を重視する人間なので、日蓮正宗の宗教的権威などは認めていなかったので、問題が生じてからも、創価学会に行きすぎはあっても、何もお詫び登山までさせることはないだろうと思っていたが、仏法は宇宙に内在する理法であるという考えは根本的に間違っているという細井日達の批判には、一体どうしてそのような議論が生じるのか、正直分からなかった。 その後日蓮正宗の教義を研究する中で、法についての理解が創価学会と日蓮正宗では決定的に相違していることが分かった。創価学会は既に述べたように、仏法も自然科学の法則と同様に宇宙に内在する法=理法であると見なしているが、日蓮正宗では仏法は仏がその悟りを人々に教えるために説いた法=教法であると見なし、それゆえ仏の悟りを媒介にせず、直接法を修行するということはありえないと考える。しかも日蓮正宗は単に仏法を教法と見なすだけではなく、その教法はまだ完全には人々に示されていず、その一部は仏である日蓮の後継者につながる大石寺住持にのみ口伝されているという考えも持っている。それゆえ本仏日蓮の救済の秘儀は大石寺住持に何らかの仕方で結びつくことによって可能になる。カトリックのサクラメント論で言えば、聖別(聖職者の介在による救済)というサクラメント(プロテスタントでは否定されたが)が絶対必要であるという理論になっている。このことは例えば第1次宗門問題のときの『法華講連合会 総講頭・池田大作に辞任を勧告』の中で「如何なる時、如何なる場合においても、御法主上人猊下の御言葉を仏の金言として受け入れていくことが古来日蓮正宗信者の道であります。御法主上人視下の御心をないがしろにすることは、もはや信者の道を逸脱していると申せます。」という法華講連合会の公式文書にも表れている。大石寺住持=日蓮代理人説が日蓮正宗の根本的教義の一つなのだ。 日蓮正宗の大石寺住持=日蓮代理人説は日蓮宗では採用することはないが、法を教法と見なし、法勝仏劣説を否定する見解は日蓮宗でも共通である。上述した村田征昭は法明教会のHPに田中智学の法仏関係の見解をまとめて紹介している。私の世代の研究者にとって田中智学は戦前に日蓮仏法を天皇制に適合するように歪曲した張本人というイメージしかないので、批判点を探し出すために読むことはあっても、田中智学から日蓮仏法について学ぶものがあるとは全く思っていなかったので、村田からメールで田中智学について教示していただいたときには少し驚いたものであった。田中智学の議論で当面必要なものを法明教会のHPから転載させていただくと「第二項 仏勝法劣対迹門」で次のように述べている。

 

 「即ち諸宗が区々の諸仏を本尊としているから、これを統一するに、ただ久遠実成の釈尊というても、また久遠実成の弥陀とか、大日法身とか、いろいろの理屈が生じるから、何等理屈をいふ余地のないのは、諸仏の成仏は法によりて得たものであるから、法を諸仏の師であることは明白であるゆえに、法勝仏劣の義によりて、法本尊を主張せられたので、即ち諸宗の本尊統一の為めであるから対他門としたのである、しかるにその法を本尊とするといふ法は、爾前権迹共通の理円常住の法ではない、本有十界互具百界千如一念三千の法で、即ち事円常住の妙法である、この妙法の中心は本仏である、かの権迹共通の理円の法の如きは、本門の仏の顕発によりて、根底より打壊(うちこは)される法である、ゆえに単に法というても迹門爾前の法は本尊となることは出来ない、此の迹法に対しては、本門の仏は遙かにすぐれて、法の枢鍵を握る仏陀であるから『本門の教主釈尊を本尊とすべし』と人本尊を主張せられたものである、ゆえに法本尊は本法、人本尊は本仏で、理に約して本法、事に約して本仏といふのである、事理もとより一体であるから、法仏は要するに一体の両名である、而して他門に対するときは理に約せる法を以て統一し、迹門に対しては事に約せる仏を以て破折せられたものである。・・・されば法仏同体としても、法と仏を同時に呼ぶわけにいけないから、その場合によりて、法を以て仏を呼ぶこともある、これ法は仏の外面であるからである、また仏を以て法を呼ぶこともある、これ仏は法の内容であるからである、かく仏と法と二致あるものでなく、一体に名づけられたるものぞといふことを研究するが次の人法一如の問題である、(日蓮主義教学大観第四巻2490~2505頁より抄出)」

 

 この田中智学の議論は「爾前権迹共通の理円常住の法」と「事円常住の妙法」とを対置して、前者においては「諸宗の本尊統一の為め」という「対他門」において「法勝仏劣の義」が主張されたが、後者においては「法本尊は本法、人本尊は本仏で、理に約して本法、事に約して本仏」であり、「事理もとより一体」(ここに本迹一致派の見解が明かであるが、勝劣派がこの議論を容認するかどうかは分からない)であるが、「迹門に対しては事に約せる仏を以て破折」するので「仏勝法劣」が「対迹門」において成立すると主張している。このような田中智学の解釈は少なくとも『本尊問答抄』においては明確になっているわけではなく、また優陀那日輝の議論を別の箇所で援用しているし、また『御義口伝』の引用(その箇所は日蓮正宗がよく「人法一箇」を示すとして引用する箇所「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」と同一である)があるなど現在の日蓮思想についての議論の基本的前提と抵触するのであるが、理法=「爾前権迹共通の理円常住の法」、教法=「事円常住の妙法」と解釈すれば、理法よりは教法が勝れているという日蓮正宗と同様な立場である。

 

 5-4-4 現代の文化状況と理法、教法

 さて法を理法と考えるか、教法と考えるかという問題は、私にとっては、法を自然科学のように宇宙に内在する普遍的な法則として考えるか、それとも何らかの集団なり個人が、人為的に考える法律や規則として考えるかという問題と並行的な問題に思われる。もし法が教法として考えられるべきだというなら、それはその法を教えた仏の個人的見解に過ぎず、どうして普遍性を主張できるのかという問題が生じる。ある人が成仏するためのある法を発見したとして、その人が自分で発見した法を実行してみたら、確かに仏(それがどのような状態なのか私には分からないが)になったとしよう。でも仏になるための法はその人が発見した法しかないのか、それとも他にあるのか、あるいはその人が発見したよりももっと簡単で効果のある法があるのか、という疑問に対して、どのような回答が可能であろうか。(仏法内部でどのような修行があるタイプの人々に最も有効な修行かという問題は常に扱われていたのだから、このような問いもありだろう。)(しかし、この議論はなんとなく、化粧品や健康食品、健康器具のセールストークに似ているように感じてしまうのは私だけであろうか。) この問いは別の脈絡では、論理実証主義者のモーリッツ・シュリックとウィトゲンシュタインの倫理的原理に関する見解の根本的相違とも関連する。シュリックは『倫理学講義』において、倫理的命法、規則の根拠は神の定めによると考える人々に対して、「もしその神の定めた命法が受け入れ難いものであったら、たとえ神の命法であっても、われわれは実行するであろうか。神の命法が受け入れられるのは、その命法が、神の命法であるということとは無関係に、われわれにとって受け入れることができる命法だからだ。」と主張した。たしかにアズテカの神のように、太陽は神々の力によって運行されているのであり、人間の心臓を神に捧げなければ太陽は滅んでしまうという教えを説き、その生贄を獲得するために周辺諸国を武力で征服するという行動規範が生じるような場合、アズテカの人々にとっては受け入れられる神の生贄の要求であっても、周辺諸国にしてみれば受け入れ難い神の要求と見なされただろう。兵力で劣っていたスペインが、アズテカ帝国を打倒することができたのは、周辺諸国のアズテカへの不満を組織化することに成功したからだとされているが、神の命法が普遍的な命法であるかどうかはアプリオリに定まるわけではない。その意味でシュリックの考えはそれなりの説得力を持つだろうし、私もそれなりに支持している。 ところがウィトゲンシュタインは「もし神が命法を定めたのでなければ、どのようにして人々が一致してその命法を受け入れることができるのだろうか。」と述べて、シュリックを批判した。行為の選択基準を各人の良心などに任せてしまえば、倫理規範は人によって違うものになりかねないので、むしろ神の権威を持ち出すことによって、その議論を封殺したほうがいいという意見であろう。ウィトゲンシュタイン自身が、自分のこの見解がどれほどの説得力を持っているかについて自信を持っているかどうかについては怪しいものがある。ウィトゲンシュタインは自分が自然科学的な世界像とともに生きていることを自認しており、それとは異なったカトリックの世界像があることを認めていたが、神を持ち出すことによって、カトリックの世界像を持つ人々を説得することは可能であるかもしれないが、ウィトゲンシュタイン自身が属する自然科学的世界像を持つ人々を説得することはできない。「人々が一致して」受け入れる倫理規範は実際には成立しないだろう。 このシュリックとウィトゲンシュタインとの論争は、別の脈絡で言えば、リベラルな人々と原理主義者との論争とも重なるだろう。リベラルな人々はある宗教の教えが受け入れられるのは、その人が自分の宗教体験を通じて納得する場合であり、その体験がなければ、たとえ聖典にどのようなことが記述されていても、それが受け入れられることはないだろうと考える。私は50年以上創価学会と関わりを持ち続け、かってはそれなりに仏法対話をしてきたが、そのときに使用したのが、生命論的解釈をほどこした十界論を説明した後で、「論より証拠、ためしにこの御本尊に唱題して、自分で生命力の変化を実感してみなさいよ、私にも体験できたのだからあなたにも体験できるでしょう。」という論法であった。人によってはこの議論に初信の功徳の話、法罰の話などを加える人もあったようだが、私は個人的に功徳体験があまりなかったので(多分功徳を欲求する気持ちが強くなかったのがその理由だと思われるが)、その話はしなかったが、布教対象者に宗教体験をさせた後で、教義の詳しい説明をするというのが創価学会の布教方法であったと私は理解している。海外布教の場合は、本尊の下付自体が諸般の事情で長期間不可能だった地域もあり、そのような地域では壁に向かって唱題することによって宗教体験を感得させようという布教方法をとったこともあった。伝統宗教であれば、檀家制度という基盤の上で、聖典に基づく教義の説明なども可能であったろうが、新宗教である創価学会にとっては、とにかく宗教体験を通じてそのよさを知ってもらう以外にはなかったろう。当然試した人が全員宗教体験を得るということはなく、試したけれど何も感じなかったという人もでてきて、その人たちは自然と退会するということになり、布教の累積数と現実の宗教的実践者数との間に大きな乖離が生じることになる。新宗教としての創価学会には宗教体験重視というリベラルな考えに基づく布教活動しか選択の余地はなかったのであるが、伝統仏教としての日蓮正宗は、宗教体験に基づく布教活動を積極的に行わないのであれば、檀家制度に立脚して、聖典に基づいて、信徒に教義を教えることが可能であった。牧口常三郎は聖典による布教を真理観に基づく布教であり、創価教育学会が行うのは宗教体験による価値観に基づく布教であり、後者が勝れていると主張していた。第1次宗門問題のときの細井日達の言葉に「700年間守り続けてきた伝統と教義の根本はあくまで守り伝えなくてはならないのであります。これをふまえなかったならば仮にこれからいくら勢力が増しても、広宣流布は見せかけのものであったか、との後世の批判を免れることはできないのではないか、と心配いたします」という発言があるが、これは創価学会が体験主義に基づき布教活動を行うことを、聖典に基づく教義を守るという点から、批判したものであり、両者の立場の相違をよく示している。 私のように、仏法を自然科学の法則と似たようなものと考え、教法よりも理法を重視する人間にとって、仏とはどういう存在なのだろうか。私は、仏を宇宙に内在する成仏の法を最初に発見し、最初にその法を自ら修行し、その法の有効性を証明した人と考えている。このような解釈は私だけのものではなく、日蓮信奉者の中にも智顗の『法華玄義』を参考にして『当体義抄』を作成した者は次のように述べている。

 

 「当体蓮華の釈は玄義第七に云く「蓮華は譬えに非ず当体に名を得・類せば劫初に万物名無し聖人理を観じて準則して名を作るが如し」文、又云く「今蓮華の称は是れ喩を仮るに非ず乃ち是れ法華の法門なり法華の法門は清浄にして因果微妙なれば此の法門を名けて蓮華と為す即ち是れ法華三昧の当体の名にして譬喩に非ざるなり」(中略)此の釈の意は至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり(中略)問う劫初より已来何人か当体の蓮華を証得せしや、答う釈尊五百塵点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して世世番番に成道を唱え能証所証の本理を顕し給えり、」

 

 ここの議論では「劫初」という時点を「五百塵点劫の当初」と置き換えて、そのときに、聖人が、それまで名づけられていなかった「至理」に「妙法蓮華」という名称を与え、その法を修行して、成仏したという構成になっている。この文章で「聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば」とあるので、「能証所証の本理」とは妙法蓮華が「能証」、仏が「所証」という関係になっており、その因果の法則が「本理」と表現されている。智顗もこの『当体義抄』作成者も自然科学の法則については何も知らなかったが、「万物」の中に「至理」がもともとあり、それに妙法蓮華という名称を与えたという議論は、理法が仏の出現以前に宇宙に内在し、仏はそれを発見して、修行、実証したという私の考えに近いと思われるが、どうだろうか。 もし仏が自然科学における法則の第一発見者に近い存在だと見なされた場合、仏と法則との関係は偶然的と見なされうるであろう。また仏は第一発見者としての栄誉を受けることがあっても、それはその発見した法則が人類にとってどれだけの価値があるかによって左右される。もしその法則の発見者が、日蓮正宗が考えるように発見した法則の一部を秘密にして、容易にその法則が予言する結果(成仏)を実証できないようにしたとしたら、他の科学者たちは、追実験ができないような法則は法則の資格を有しないとして否定してしまうだろう。法則が予言する結果が非常に望ましいものであれば、それを得ようとする人々の中には、法則の秘密を握っている継承者に一種の特許料のようなものを払って、追実験し、その結果を得ようとするかもしれないが、成仏などというもともと曖昧な結果を求めて、そこまでする人は多分ごく少数であろう。 私は少なくとも日本においては宗教が文化的にはマイナー、あるいは周辺的な役割しか持たず、多くの人の日常的な思考にはそれほど大きな影響を与えていないと見なしており、法についても、自然科学の法則のように宇宙に内在する法=普遍的な法と、法律のような人によって作られた法=相対的な法との区別という理解が一般的であると考えている。文明開化以前においては、自然科学的知識が存在しなかったがゆえに、仏教は儒教などと並んで人々の思考に大きな影響力を与えており、その中で聖典がそれなりの権威を持っていたことがあり、仏の教法もそれなりに普遍的であると見なされたかもしれない。しかし現代のような宗教がマイナーな文化となってしまったら、教法であるということは普遍性の理由には全くならず、普遍性は自然科学の法則をモデルにする以外にはなくなる。 このような文化状況を考慮に入れれば、牧口常三郎が日蓮仏法を成仏するための「普遍的なのり」「自然の法則」と見なし、それを継承した戸田城聖が仏法を宇宙生命に内在する法則として生命論を説き、池田大作が唱題を宇宙のリズムに合致するための修行と述べたのも、伝統的な教法重視という点から見れば問題があるだろうが、日蓮仏法が全人類の救済を目指すのであるならば(日蓮は全人類救済=一閻浮提広宣流布を想定しているが、宗教によっては全人類救済ではなく、一部の信仰者のみの救済の約束をするものも多い)、その救済の普遍性を何らかの仕方で保証しなければならず、その普遍性を自然科学の法則の普遍性と類似したものとして説明することには十分な理由があると私は考えている。したがって仏法は宇宙に内在する理法であるという考えは根本的に間違っているという細井日達の批判には、宗教をとりまく文化状況についての無認識があると思う。(西山茂の言葉を借りれば、もはや日蓮正宗の印籠教学の印籠の威光は失われている。)しかも現在では日蓮の宗教思想も宗派による宗学的解釈のみが権威をもつわけではなく、学問的研究による日蓮の宗教思想の解明もそれなりに進み、それを無視しては宗学も説得力を持たなくなっていることも確かだろう。

 

 5-4-5 曼荼羅正意説のメリット、デメリット

 私が曼荼羅正意説を主張するのは、このような文化状況を背景にしてのことである。救済の普遍性を理念として掲げるなら、それにふさわしい教義を理論として用意することは宗教運動の責務だと思うが、果たして仏像本尊論は救済の普遍性を示すことができるであろうか。仏像制作は歴史的には釈尊がなくなってから数世紀隔てた頃、ギリシャ文化の影響を受けて始まったとされているが、識字率が低く、仏教の教義理解がごく限られた人々にのみ可能であった時代においては、芸術の力を借りて、救済の理念を感じさせようとすることは自然の流れであり、仏像が釈尊の平安な心や、慈悲心などを芸術的に表現している限りは、大いに仏教を広めるのに役立ったであろうし、その意味では仏像本尊にも十分な歴史的文化的背景があったといえよう。私は日本の伝統文化にもそれなりになじみがあり、古寺の仏像などを拝観するとそれなりに敬虔な気持ちになることもあるが、異なった文化圏の人々が仏像に対して同様な気持ちを持つかどうかは分からない。中国文化圏では仏像は立像、あるいは坐像が一般的であると思われるが、南伝仏教では涅槃像も見られるが、横になった釈尊像を尊いと感じるか、それとも行儀が悪いと感じるかは分からない。 ミケランジェロの『最後の審判』は、作成当時、多くの登場人物が裸体で描かれていたが、ミケランジェロの死後に教皇の命令によって腰布や衣服が付け加えられていくが、現在では作成当時の状態に修復されているという。ミケランジェロが宗教画として信者に信仰心を喚起させる目的でこの絵を描いたのかどうかは私には分からないが、少なくとも聖職者たちはミケランジェロの『最後の審判』は信仰心を喚起させるという目的にはふさわしくないと判断したから加筆させたのであろう。黒い聖母像はいくつかあるが、その由来については不明なことが多いが、メキシコの『グアダルーペの聖母』は白い肌の女性として描かれていず、インディオの肌の色をしているが、そのことによってインディオに深く信仰されたが、インディオにとっては征服者と同じ肌の色の聖母に対して何らかの違和感があったのかもしれない。神仏の像が人間によって作成される限りは、無意識のうちに自文化中心主義を反映するものとなり、異なった文化を持つ人々に違和感を与える可能性は排除できない。 このような文化的相違をどのように克服して普遍性を担保するのかという問題は極めて解決困難な問題であり、カントやヘーゲルのヒューマニズムの普遍性に訴えるという方法も、結局は西洋中心主義に基づくヒューマニズムであり、被抑圧民族の人権を含んだヒューマニズムではないという批判にさらされているのが現状である。現在のところ文化的相対性を超えて普遍性を有しているのは、多分自然科学と論理学であろうと私は考えている。もちろん自然科学や論理学をマスターするにはそれなりの教育投資が必要であり、それが可能な豊かな国とそれができない貧しい国との間には大きな格差があるという主張にもそれなりの説得力があるが、適切な研究方法に基づき、ある程度価値のある研究成果を挙げれば、アマルティア・センの経済学上の業績が、彼が開発途上国のインド出身であるということで過小評価されることは学問の世界では生じなかったように、その研究者がどのような文化圏に所属しているかは問題にされないという普遍性はあるだろう。 もし仏法が救済の普遍性、さらには平等性を主張しようとするなら、自然科学をモデルにした、理法としての仏法という側面を強調し、聖別というサクラメントを排除して、それぞれの修行者が実修実証するという方法を採用するのが現在の文化状況においては適切であると私は考えている。救済の普遍性という理念を分かりやすく表現できるのは、仏像よりも、妙法蓮華経が中央に描かれ、その周りに十界の衆生が配置された曼荼羅が最も適切であると思われる。 もちろん曼荼羅にも文化相対主義的問題はある。それは曼荼羅が大部分漢字で書かれているという問題である。漢字文化圏に所属する人々であれば、曼荼羅を見て、その普遍的な救済理念を知ることができるが、漢字文化圏に所属していない人々には、何が表現されているか全く分からない。 世界宗教にはキリスト教、イスラム教、仏教があるが、文化相対主義と関連した言語問題に関しては、仏教、キリスト教とイスラム教とでは全く異なった対応をとる。仏教はインドで発生したが、仏教がさまざまな地域、民族に伝播していく過程で、発生時の言語表現は失われ、教典はさまざまな言語に翻訳され、儀礼もそれぞれの言語で執行されるようになった。これはキリスト教も同様で、旧約聖書はユダヤ民族が救済対象であるからヘブライ語を使用していたことは当然だが、そこから発生したキリスト教はイエスの言語表現が失われ、新約聖書の最古の写本はイエスが使用することのなかったギリシャ語であるというのが研究者の大多数の見解であり、その後ローマの国教となったことからキリスト教は大きく発展するようになり、そのためラテン語聖書が中世ヨーロッパでは使用されたが、やがてプロテスタントが積極的に聖書の自国言語への翻訳を進め、それとともに儀礼もそれぞれの言語で行われるようになった。これらに対してイスラム教では神はアラビア語でムハンマドに語りかけたと見なし、アラビア語聖典とアラビア語による儀礼の執行を遵守し、聖典の翻訳は理解のためであって、翻訳された聖典を儀礼に使用することはない。 このような宗教伝統を考慮すると、仏教はもともと多言語主義だから、曼荼羅が聖別を必要としないのであれば、救済の普遍性のメッセージを伝達することができればよいのだから、曼荼羅も漢字で書かれる必要性はなくなるだろう。日蓮は方便品、寿量品の読誦を必要な修行と認めたが、それも何も漢字の経典を、日本語化した中国語式発音で読誦する必要もないだろう。私は、祖母の葬式で日蓮宗の僧侶が法華経の提婆達多品を書き下し文で読誦しているのを見聞して、それまで日蓮正宗の読誦方法しか知らなかったので、妙に新鮮に思ったことがあった。当然漢字文化圏の外では、それぞれの言語に翻訳した方便品、寿量品を使用することも救済の普遍性という観点からは許されるだろう。唱題くらいは漢字で表現されているが、その一部はサンスクリット語に由来する「南無」であり、残りは中国語の漢字だし、発音は日本語化した中国語という国籍不明な言語で表現されているのだし、短い表現だから世界共通の表現としてもよいだろうとは思っているが、そこも突っ込まれると何とも返答しにくい。そのときは日蓮の『報恩抄』の「日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」という文言を引用して、日蓮の権威で議論を封殺するしかないかもしれない。 実は曼荼羅に関しても日蓮はその曼荼羅を文字で表現せよという指示はしていないようだ。日興は曼荼羅を文字で表現するのが当然だと考え、『原殿御返事』でも「聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし」と述べているが、日向が絵師に描かせたという絵曼荼羅について批判をしている様子はない。日興は「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども」とも述べているのだから、もし一尊四士の絵曼荼羅であったならば日興が批判する理由もないだろうと思われる。曼荼羅の具象化という作業は日蓮信奉者の中では早くから着手され、中山3世日祐の『本尊聖教録』には「打物題目、釈迦多宝二尊像並びに四菩薩像各一体」とあり、一塔両尊四士という先に紹介した藻原寺の本尊安置形態が、それよりはるか昔に実現されていたことが分かる。打物題目だけは文字で表現されるが、それ以外は絵像、木像で表現されるという表現様式であり、諸尊が文字で表現されるか、絵像、木像で表現されるかの相違はあっても、宝塔の中心部にある「南無妙法蓮華経」によって十界の衆生が光明を与えられるという理念はそれなりに表現されているだろう。ただ問題もいろいろあり、曼荼羅では釈迦多宝の二尊だけがこちら側を向き、その他の衆生は妙法蓮華経ならびに釈迦多宝のほうを向いているのだが、絵像、木像にした場合、二尊以外の向きをどうするのかということがすぐ生じる。日蓮宗の一塔両尊四士の安置様式は、全員こちら側を向いているようだが、そうなると曼荼羅では右尊左卑を表して上行菩薩は向かって右側に配置されているが、全員こちら側を向いている場合、上行菩薩を曼荼羅に合わせて、向かって右側に配置するか、それとも右尊左卑の原則を守り、向かって左側に配置するのかという問題まで生じてしまう。日蓮宗蓮城寺のHPの「本門の本尊」の項には「一塔両尊四士といって、真ん中の宝塔には、南無妙法蓮華経と書かれ、向かって左に釈迦如来、右に多宝如来が一つの蓮台に乗っていて、右に上行、無辺行のそれぞれの菩薩が、また左に浄行、安立行のぞれぞれの菩薩が奉安される形式です。また、これには文殊・普賢・四天王・不動・愛染の諸尊も添えられる場合があります。(中略)その前の中心線上に日蓮大聖人の御尊像と法華経八巻を乗せた経机が奉られています。もちろん、大聖人の御尊像は御本尊でないのは言うまでもありません。本化上行菩薩応現の大聖人の教えを通して御本尊を観なければならないということです。」とあり、文字曼荼羅に合わせて、向かって右側が多いようだ。 文字曼荼羅の具象化としての一塔両尊四士の安置形態は言語による文化的障壁を越えることが可能かもしれないが、今度は絵像、木像が持つ感性的な文化的障壁の問題が生じる。このジレンマはそれぞれの言語に翻訳された曼荼羅が作成されるまでは解消しないだろう。

 

 5-4-6 暫定的な結論

 読み返してみても、自分でも読むのが嫌になるほど、長々と議論をしてきたが、当初は日蓮、日興の議論で終わらせて、理法、教法の議論は別の機会にしようと思っていたのだが、この議論をしなければ法勝仏劣の議論は説得力を欠くと思い、プラン変更をしたため、ここまで長くなってしまった。しかし夏休みもそろそろ終わりに近づき、新学期の準備もしなくてはならないので、話をまとめるとしよう。 私が曼荼羅正意説を採用するのは、以下の理由による。日蓮教学の上では、『本尊問答抄』だけが、法本尊と仏本尊との関係を明示し、能生・所生という論点から、法本尊が仏本尊より勝れているという議論をしていること、他の本尊論に関する日蓮の著作では法本尊=曼荼羅と仏本尊=一尊四士との関係は明示されていないこと、また日蓮自身の事跡を考察しても両者を本尊として認めており、そこに両者の関係の明示がないこと、また著作の本尊安置様式と実際の安置様式とは一致しないことなどから日蓮の本尊思想が首尾一貫していたとは言い難く、そこからすべての人を納得させるような統一的な本尊論を導き出すことは困難であることなどを示した。次いで日蓮教団史の上から、日興が一尊四士を容認しつつも、実際には一尊四士の造立をせずに、文字曼荼羅のみを本尊と認めたことを示し、その理由は『本尊問答抄』に求めるしかないことを示した。ここから『本尊問答抄』ならびに日興の事跡から判断すると、曼荼羅正意説が日興門流としては当然の結論になることを示し、日蓮正宗が『御義口伝』などを使用して人法一箇説を主張することは無効であり、日興の本尊論とは違うことなどを示した。 さらに理法と教法の議論をすることによって、仏が法を発見するかどうかとは無関係に、理法は宇宙に内在するということを主張した。教法であればそれを説いた仏の悟りの内容を配慮する必要があるだろうが、理法であれば、自然科学の法則が、それなりの実験によって真偽を確かめることができるように、その理法に述べられていることが真であるかどうかは、それなりの手続き(宗教体験)によって確かめることができるかもしれない。牧口常三郎はこのように考えて、宗教に関する実験証明を主張した。この考えは宗教に関するリベラリズムの考えであり、聖典を根拠とする原理主義とは異なる。 そして創価学会の布教方法は、本尊に対する唱題を通じて、各人が宗教体験を得ることを重視したリベラリズムに基づくことも主張した。創価学会はかっては日蓮正宗の影響を受けて、聖別された本尊(大石寺住持によって印可された本尊)のみに、功徳が生じ、聖別されていない本尊は、たとえ日蓮が図顕した本尊であっても、功徳はないと主張していたが、この主張が正しいかどうかは、教義が決めることではなく、宗教体験のさまざまな事例によって判断するしかないと考えるのがリベラリズムの考えである。 功徳がどういう現象であるかは定かではないが、例えば長期的な視点から、一族の繁栄の維持ということも、どうやら人々が宗教に願うことの一つであったようだから、これをとりあえずメルクマール(判断の手がかり)としてみよう。大石寺の最大の功労者は南条時光であろうが、その子孫は二つに分裂し、日道と日郷の争いに関わり、鎌倉幕府の滅亡とともに、一族は衰退し、やがては日蓮が時光に授与した曼荼羅も手放さざるを得なくなったが、少なくとも南条一族の繁栄の維持は結果として実現できなかったようだ。これに対して日興が身延離山を余儀なくされた謗法を行った波木井実長の子孫は、その分家が東北の地で栄え、やがて南部氏として江戸時代は大名の地位を維持した。波木井一族の繁栄の維持はある程度実現できたようだ。これらは分かりやすい事例を挙げただけであるが、どのようなメルクマールを選んだとしても、特定宗派のみに功徳があり、その他の宗派には功徳がないということを社会統計学的に示すことはできないだろう。 功徳は、個人がそれぞれの実存状況において、何かを願い、その宗教的指針を信じ、行動する中から、それぞれが体験するものであるから、聖別があるどうかは、その体験においては殆ど考慮されない。創価学会が日蓮正宗と分離してから、創価学会は大石寺住持の印可のない本尊を授与して、会員はそれを本尊として信仰生活を送っているが、印可があった本尊を信仰していた時期と、印可のない本尊を信仰している時期とで、大きく宗教体験が変わったのだろうか。日蓮正宗が主張するように、印可のない本尊を信仰すると不幸が起るという主張が正しければ、多くの会員は不幸になっているはずであるが、少なくとも私の見聞した範囲では、不幸な出来事も生じているが、幸運な出来事も生じており、大部分の会員にとっては大きな変化はなく、明白に日蓮正宗の主張が正しいことを証拠立てる事例はそれほど多くはないようだ。 日蓮正宗は聖別のサクラメントを強調するが、これはカトリックがローマ教皇=ローマ初代司教のペテロ(新約聖書では「ペトロ=岩盤」のたとえでイエスの後継者とされる)のカリスマを継承する者という建前から聖別のサクラメントを主張するのと類似して、日蓮の救済のカリスマが歴代の大石寺住持に継承され、その時代の大石寺住持は日蓮の代理人であるという怪しげな文献『御本尊七箇相承』を根拠にして主張されていることである。そして聖別のサクラメントの内容の一つとして本尊書写権は大石寺住持のみにあるという主張も含まれる。 日蓮正宗は日蓮の救済のカリスマは日興のみに日蓮から授与されたと主張するが、曼荼羅書写に関しては、現存の直弟子曼荼羅に関する限り、日朗が日興より早いし、また『富士一跡門徒存知の事』には「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽賤する由、諸方に其の聞え有り。所謂日向・日頂・日春等なり。」とあり、他の門流がどのような曼荼羅を授与していたかについてそれなりの情報収集をしていたことが伺われるが、日朗などの老僧が自ら曼荼羅を書いて授与していたことを非難していない。また京都の日尊門流の日大の『尊師実録』に「本尊書写事 尊仰云大聖人御遷化之刻六人老僧面面二書写之給ヘリ然而無異議」とあることから、日興だけが本尊書写権を持っていたのではなく、他の老僧も持っていたという認識が日興門流の一部にあったことは確かである。また三位日順の『摧邪立正抄』においても、「第八に挙ぐる所の日蔵(日像)書筆の本尊題目の下の判形等の事・是非の問答又枝葉たり、其の故は先づ書する所の本尊率都婆を見聞するに敢て聖人御筆の漫荼羅に似ず、其の体異類にして物狂逆態なり、何ぞ大都の違背を閣いて徒に愚判の所在を論ぜんや、」と述べて、日興門流とその他の門流では「日蓮在判」の部分の書き方に大きな相違があるが、その点に関して、日順は些細なことであるとし、日像が髭題目の髭の部分を曲線で描き、グラフィック的には華麗な表現(これは私の個人的感想に過ぎないが)をしたことに対して、日蓮の曼荼羅に似ていないと非難をしている。日蓮正宗では「日蓮在判」と書くことが、日蓮から継承された曼荼羅書写様式であり、他の門流では日蓮からの継承がないから書写様式が違うという主張をして、非常に重要視している点だが、日順はその「日蓮在判」の問題よりも、髭題目の書き方のほうを重視している。 また『尊師実録』に「富士門跡ハ付弟一人可奉書写之由日興上人御遺戒也云々其故ハ賞法燈以為立根源也云々依之本尊銘云仏滅後二千二百三十餘年之間一閻浮提之内未曾有大曼羅也云々予モ叉存此義之処日興上人御人滅後於一門跡面面諍論出来互ニ成偏執多起邪論人人面面奉書写之云々」とあることから、日蓮正宗は、日興の生前は日興とその付弟日目だけが本尊書写権を持っていたと主張するが、それに反する事例が『富士宗学要集』に「日仙上人御筆大漫荼羅の分。元徳四年二月彼岸、□□成に之を授与す、 同(讃岐) 中之坊。」とあり、日興の生前に本六の一人日仙が本尊を書写していることを記述している。この矛盾を説明するために松本佐一郎は『富士門徒の沿革と教義』において、「この当時の高瀬(讃岐)は富士との連絡が不便だったであらうから、檀家の請を容れ一鋪だけ書いたのが元徳四年のものではあるまいか。」と述べているが、日興が讃岐関係者に与えた本尊で日仙が書写したのと同年の本尊が二体あることが、『富士宗学要集』の日仙の曼荼羅の記述のすぐ上に記述されている。松本佐一郎もこの記述は読んだであろうが、それを無視していることに私は作為的なものを感じるが、遠隔地であっても日興の曼荼羅は讃岐に届いていたのであるから、それを理由に日仙の曼荼羅書写を合理的に説明することはできないだろう。結論は唯一つ、本六の日仙は日興、日目のみが本尊書写権を持つということを認めなかったということであろう。日興の死後讃岐関係者に対して、大石寺住持が曼荼羅を授与したことは記録されず、日仙の曼荼羅授与のみが記録されている。日興、日目が相次いで亡くなってからは、有力な日興の弟子たちが本尊書写をしたことは、日大の記述の通りである。 以上述べたように本尊書写権という聖別のサクラメントが日蓮、日興、歴代の大石寺住持にただ一人継承されているという説は学問的には否定するしかないだろう。曼荼羅の作成様式は日興門流とその他の門流では「日蓮在判」があるかどうかで大きく違っているが、この相違は日蓮の指示によるものだろうか。日蓮正宗は日興のみが本尊作成様式を日蓮から口伝されたと主張するが、私は、日蓮の生前に、日蓮に対して、日蓮死後の曼荼羅の作成様式について、尋ねることができるほど度胸がある弟子がいたかどうかを疑問に思っている。そんな向こう見ずなことをしそうなのは、日蓮の弟子の中で唯一日号を使用せず、六老僧全員を相手に論争し、『御本尊七箇相承 』で「日蓮の蓮の字に点を一つ打ち給ふ事は天目が点が一つ過ぎ候なりと申しつる間・亦た一点を打ち給ひて後の玉ひけるは・予が法門に墨子を一つ申し出す可きものなり、さてこそ天目とはつけたれと云云。」という日蓮の曼荼羅図顕に対して突っ込みを入れたという伝説がある天目ぐらいであるが、六老僧に選任されなかった天目に曼荼羅作成に関する伝授があったとも思えない。そうならば日蓮が自ら弟子に教えたという可能性もあるが、一人だけに伝授して、他の弟子には伝授しなかったとすれば、それは日蓮死後の揉め事の大きな原因になるから、他の弟子たちにも教えるか、あるいは一人だけに教えたから、それを守るようという趣旨のことを他の弟子たちにも伝えるだろうと思われるが、そのような事実はないようだ。ここから想定されることは曼荼羅の作成様式については誰も日蓮から伝授されず、それぞれの弟子たちの曼荼羅作成に対する解釈によって作成されたということであろう。日興のように曼荼羅を書写すると考えた者は、「日蓮在判」を日蓮花押のあった位置に書いたであろうし、日朗のように、曼荼羅作成の責任を明確にするために日蓮花押の位置に自署、花押を書いた者もいたし、日向、日頂のように日蓮の曼荼羅を模写して形木印刷した者もいたということであろう。 日蓮は仏道修行にとって本尊が必要なことについて、何も説明せず、当然のこととしている。日蓮信奉者の中で、本尊の意義を明確にしようとして建治3年に系年されている『日女御前御返事(本尊相貌抄)』を作成した者は、(ここでも出典不明の「実相の深理本有の妙法蓮華経」が使用されている)次のように凡夫の己心本尊論を述べている。

 「(十界の衆生が)此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。(中略)此の御本尊全く余所に求る事なかれ只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等正直捨方便不受余経一偈と無二に信ずる故によつて此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなりたのもしたのもし」

 

 日蓮は『観心本尊抄』で無始の古仏が己心に内在すると主張していたし、一部真蹟が残っている弘安元年の『日女御前御返事』には「宝塔品の御時は多宝如来釈迦如来十方の諸仏一切の菩薩あつまらせ給いぬ、此の宝塔品はいづれのところにか只今ましますらんとかんがへ候へば、日女御前の御胸の間八葉の心蓮華の内におはしますと日蓮は見まいらせて候」とあるから、このような『日女御前御返事(本尊相貌抄)』の議論は比較的多くの日蓮信奉者に受け入れられたであろう。 同様の己心本尊論の趣旨は『法華初心成仏抄』でも次のように述べられている。

「凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王帝釈等の仏性と舎利弗目連等の仏性と文殊弥勒等の仏性と三世の諸仏の解の妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり、故に一度妙法蓮華経と唱うれば一切の仏一切の法一切の菩薩一切の声聞一切の梵王帝釈閻魔法王日月衆星天神地神乃至地獄餓鬼畜生修羅人天一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕し奉る功徳無量無辺なり、我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり、譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まるが如し、空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵王帝釈の仏性はよばれて我等を守り給ふ、仏菩薩の仏性はよばれて悦び給ふ、」

 

 凡夫の己心に本尊が内在するという己心本尊論を明確にした著作がいずれも真蹟、身延曽存、直弟子写本にはないが、これらの著作を作成した者たちは、日蓮の本尊論の真意を表現したと自負していただろうし、それゆえこれらの著作は日蓮の思想として多くの日蓮信奉者に受け入れられてきたのであろう。 日蓮信奉者の中には、例えば本門仏立宗の長松日扇のように一遍首題の題目に脇書を書き、これを「要法本尊」と称し、従来の十界曼荼羅を「別勧請本尊」として禁止するという過激な立場を表明する者もいた。私個人は「Simple is Best.」という趣味の持ち主であるから、日扇の考えは好みであるが、多くの信仰者は単純すぎて、ありがたみがないと思うだろう。曼荼羅制作に関して日蓮の教示があったことは学問的には証明できないし、あとは宗教運動なのだから、多くの信仰者が納得できる曼荼羅を教団の独自の見解で作成すればよいと思われる。 私がこのように主張すれば、「創価学会は池田本仏論を準備して、独自の本尊作成を考えている」などと邪推するものが出るかもしれないが、この論文は私の個人的見解であり、私の所属する宗教法人、学校法人の意思、意向とは全く無関係である。そもそも「・・・本仏論」なる議論が何を言いたいのか私には分からない。どうやら日蓮本仏論は、日蓮正宗にとっては、日蓮正宗以外はみな誤った宗教だから、日蓮の教えを正しく継承している大石寺住持に服従しなさいというプラグマティックな意味を持っているようだが、そのような日蓮本仏論は創価学会においては信仰されていないようだ。私が見るところ、創価学会では日蓮本仏論は凡夫本仏論の一部をなす理論であり、凡夫が仏である、あるいは仏になれるということの、手本として日蓮本仏モデルが採用されているのに過ぎないだろう。(このような見解の代表例が松戸行雄の『人間主義の「日蓮本仏論」を求めて』や『日蓮思想の革新ーー凡夫本仏論をめぐって』の議論であろう。私と松戸は東洋哲学研究所で同じ研究員として何度も意見を交換しているが、私が日蓮思想を真蹟、身延曽存、直弟子写本に限定するスリム日蓮説を採用するのに対して、松戸はそれ以外の文献も日蓮思想に含めるというファット日蓮説を採用するという点にあったが、松戸の凡夫本仏論から現代の日蓮思想の可能性を探るという考えに関しては、日蓮個人の思想に基づくというなら賛成できないが、日蓮に淵源を持つ日蓮仏法に基づくというならそれなりに賛意を表明している。)(2011/9/28 付加)だからモデルすなわち参考事例に過ぎないから、日蓮の議論に誤りがあっても、日蓮本仏論が破綻するわけではない。日蓮は鎌倉時代という状況の中で凡夫=仏としての姿を示しているのであり、それと別の時代においては、別の凡夫=仏の姿がモデルとしてあってもよいだろうという程度のことに過ぎない。創価学会の壮年部の教育者がある壮年向けのセミナーで「成仏というのは、例えば、生きているときは多くの人の手助けをして、一家繁栄し、健康、長寿で、死ぬ時には、多くの友人、知人が葬式に集まり、感謝されるような生き方だと思う」という趣旨のことを述べていた。私個人としては、いろいろ突っ込みたいところもあるが、このように成仏を自分の言葉で理解し、それを目指して生きていくという点においては、私も傾聴すべきものがあると思う。私のように文献資料を相手に、オタク的な研究をしている者には、私なりの宗教体験があり、彼とは別の成仏モデルがあるが、多様な宗教体験と、そこから生じる多様な教義理解を、互いに容認することが、リベラリズムのあり方であると思っている。

 

 

 

 

 

 

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 日蓮宗系の立正大学の学者たちは、明治以降の西洋の文献学的仏教学研究をモデルにして、日蓮遺文の文献学的研究を始め、日蓮本仏論の根拠として使用される文献はすべて日蓮死後百年以上たってから出現した資料であり、日蓮本仏論には文献学的に根拠がないことを示した。 

 私は日興から日道に至る大石寺の初期の指導者に日蓮本仏論の議論があるかどうかを調べたが、信頼できる文献には皆無であった。

 さらに創価学会と日蓮正宗の表に出ない本尊に関する不一致として日蓮御影本尊論に気がつき、その歴史的経緯を調べたが、人本尊として日蓮御影を本尊とする議論は日興から日道まで見られなかった。その時代は人本尊を否定する『本尊問答抄』により曼荼羅本尊正意説であった。

 それが日有の時代には日蓮御影本尊論と日蓮本仏論との両方が見え、日寛の時代には曼荼羅正意説の『本尊問答抄』を否定する議論として人法一箇論が主張されていることに気づいた。このことから私は人本尊の具体的対象として日蓮御影を認め、その教義的理論化として日蓮本仏論を日時以降の伝統であると解釈している。 

 もうひとつのサクラメント論に関しては、日蓮正宗は上記相伝書のほかに二箇相承などを持ち出して、日蓮は六老僧の中でも特に日興のみに血脈を相承し、その相承が代々の大石寺住持に継承されているという法主=日蓮本仏代理人説を主張するが、その代理人説が明確にされたのは日有の頃である。

 日興から日道に至るまで、日興門流が日蓮の正義を維持しているが、他の門流は正義から転落したという意味での日興正統論はあるが、血脈相承の議論は全くない。

 相承書は問題が生じたときに裁判資料として使用される性質の文書であり、日興が身延離山の時や、他の門流との教義論争の時に、その資料を使用しなかったのは当時の裁判制度から見れば理解しがたいことであるから、私は二箇相承が存在しなかったと考えている。

 さらに血脈が正しく相乗されていないという証拠を『開目抄』の「文底秘沈」の文はどれかという日興門流の議論をたどることによって示した。このことにより日蓮の救済のカリスマが法主に継承されているという日蓮代理人説は日興から日道に至るまでの考えとは相違すると結論づけた。

 さらに戒壇本尊=本門本尊という議論は日寛の議論であるが、戒壇本尊の記事は戦国時代末期に始めて現れ、それ以前は日興に与えた本尊は言及されていても、その宗教的意味や具体的形態については全く論じられていなかった。

 戒壇本尊が成仏という救済に関して不可欠な要件であるならば、それとの宗教的結びつきが与えられなかった日蓮正宗の全信徒は成仏できない信仰を大石寺に捧げていたということになり、大石寺の無慈悲さが明瞭になる。救済の必要条件が日蓮死後300年以上経過してから明らかにされるということは私には理解できない。戒壇本尊が日蓮自身によるものだとしても、それが唯一の本門本尊だという宗教的意義は説得力が無い。 

 以上の私の考察が創価学会にとってどのような意味を持つのか検討する。創価学会は本尊として法本尊=曼荼羅本尊しか認めていない。人本尊を別に立てれば、それが久遠実成の釈尊像か久遠元初仏の日蓮御影かで論争になるが、人本尊を必要としなければ(当然人法一箇論も採用しない)、日蓮が上行菩薩再誕であっても、久遠元初仏の再誕であっても、どちらでも構わない。

 そのうえで日蓮本仏論を維持するメリットをあげれば、これまでの創価学会の教義を変える必要がない、本仏日蓮の教えは最高であるということを言いやすいということがある。

 しかしデメリットをあげれば、日蓮本仏論が文献学的には(=学者の間では)支持者がいない、日蓮本仏論は仏教の歴史の中では異端と判断される(文鮮明を第二のイエスとする統一神霊協会がキリスト教とはみなされないように)、本仏日蓮の継承者としての大石寺住持の権威を認めることにつながりやすい(=創価学会の日蓮正宗からの自立の障害になりやすい)ということがある。 

 日蓮本仏論を採用しなくても、創価学会が日蓮の正統を継承しているということは、日蓮正宗も他の日蓮宗も、日蓮の『本尊問答抄』の議論に反して法本尊以外に人本尊を立てているが、創価学会だけが日蓮の教えの通り法本尊のみを本尊としているという点に求めることができる。正統性は血脈にではなく重要な教えをそのまま実行しているかどうかで判断するという論点は日興の立場でもある。以上のメリット、デメリットをあわせて考えれば、私は日蓮本仏論を採用する必要性はないと考えている。

「追記 『本尊問答抄』には真蹟がなく、日興写本が一部あるのみであり、これに対して、「曼陀羅正意を立てる日興門流の祖、日興上人の写本しか残されていない遺文を使って、『本門の本尊とは、南無妙法蓮華経だ』と論じても、日興門流以外の人たちの納得は得られないと思います。ですから、僕は、本尊問答抄は真蹟が無いので考察の基礎資料とはしない、という姿勢で考えています。」という見解もある(ネットに掲載されている『富士門流信徒の掲示板』のスレッド「本尊と曼荼羅」の「93問答迷人」書き込み(http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1017873018/))。しかし『本尊問答抄』に関しては、他の日興写本の信頼性によって、日興門流以外でも日蓮親撰と認める学者が多いと私は理解している。日蓮親撰ということを前提にしたうえで、日蓮宗に所属する川蝉は、「『本尊問答抄』は、真言教学になずんで居た人達に対して、大日如来でなく釈尊を本尊とすべしと説明し納得させるには、大日如来と久遠本仏釈尊との違いなどを論拠を挙げて長々と説明しなければならない。それよりも、法勝を面に出して「法華経の題目を以て本尊とすべし」と断定したほうが、理解させやすい。そこで法勝の義を面にして論述されている、と先学(優陀那院日輝・本尊略弁)が、説明しています。」と『本尊問答抄』の意義を説明し、「宗祖にとっては、法華経の題目は法華経の肝心であり、久遠釈尊の証悟でありますから、法華経の題目=釈尊でありましょう。ですから、『本尊問答抄』は、この御書では、『釈尊本尊を否定するばかりではなく、「法華勝釈尊劣」を明言しております。』と云って『法本尊正当説』であると単純には断定できないのです。」

 

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日興筆と伝えられる「富士一跡門徒存知事」には、「立正安国論」、「開目鈔」、「撰時鈔」、「下山鈔」、「親心本尊鈔」、「法華取要鈔」、「四信五品鈔」、「本尊問答鈔」、「唱法華題目鈔」などの主要遺文が列挙されているにもかかわらず、後世、富士門流が最も重大視している「三大秘法鈔」の名が記されていない。おそらく日興在世のころ、「三大秘法鈔」はまだなかったのであろう。もしあったとすれば、本門戒壇に関する唯一の顕文釈をふくむこの本鈔を、日興が看過するはずがない。なお本鈔と対応する「波木井殿御書」については、姊埼博士が十五箇条の理由をあげて偽作と判定したことがある。

 

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金沢法難 

 名君の誉れ高い前田綱紀が五代目藩主となったのは1661(寛文元)年のことでありました。当時、三代将軍・徳川家光により「武家諸法度」が制定され、大身の前田藩主とても加賀と江戸との遠距離を参勤交代しました。前田家の江戸屋敷の近くに富士派の常在寺があって、綱紀は江戸表に在住の折には機会あって常在寺に參り、日精上人の講義を拝聴したようです。綱紀は仏法の道理を説き、その真髄を明確に示す講義に感激し、近習の人々や果ては後に出会った水戸光圀にまでもその時の模様を語っています。そして「日本国に文武二道に達したる英才士は日蓮御坊なり」と常々洩らしていたと云います。

 綱紀の学問好きは有名で、藩内に書物奉行を置いて学術の振興を図り、新井白石をして「加州は天下の書府なり」と驚嘆せしめました。結局に綱紀自身は信仰を持つには至りませんでしたが、こうした主君の寛容さに入信しやすい気運が藩内に生まれていきました。役付き老中でない禄高もごく低い無名の青年武士逹の入信者が相次ぎました。

 金沢の地において最初の大石寺信者の誕生をみたのは1671(寛文11)年頃、杉本小左衛門尉がその人であると云います。総本山大石寺に登山した折、御本尊を下付されていることが分かっているばかりで、それからするとかなりの信心歴を持ち、活躍していたことが伺えます。

 長い間、封建制に慣らされた武士達は日蓮大聖人の精神を脈々と伝える大石寺の法門に清新の気風を取り戻していきました。そして日々の信仰に励む中に大聖人の仏法に対する確信は、たちまち強固なものとなっていったのです。藩主の大名行列が東海道を往復する途中、吉原の宿に一泊すると青年逹はその夜、陣屋が寝静まるのを待って秘かに宿場を抜け出し、一路大石寺目指して15kmの道を馳せ付けるのでした。青年信徒達は、真冬の凍るような寒さもいとわず石畳の上に坐り、大御本尊に向かって一心不乱に唱題を重ねたと云います。やがて東の空の白むころ彼らは人々の目覚める前に陣屋へ戻らねばなりませんでした。当時これを『抜け参り』と呼ばれました。

 1680(延宝8)年頃、既に加賀の地には可成りの入信者があって自然のうちに相寄って金沢法華講中と称するようになりました。幕府の宗教政策が宗門改め・寺請制度など厳しい方針で臨むようになり、前田藩でも六代目・吉徳の性格が進取の気風に欠け、いわゆる型の如きであったため藩の政策や諸事に対する姿勢も大きく転換しました。牽制の第一弾が1723(享保8)年に「改宗寺替の儀に付」として下されました。「妻子は父・夫と同宗同寺の筈であるところ或いは受法を申立て又は祈祷に事よせ他宗に仕える義無き筈である。もし仔細ある場合は檀頭方へ相談すべき事を申渡す、又寺方は寺社奉行迄相談し、指示を受ける可き事」という内容でありました。翌1724(享保9)年になって、家老・奥村丹波守の家臣で砲術指南番・福原次郎左衛門昭房の入信が表沙汰となり、大きい波紋になりました。宗門改め奉行の側・神尾主殿から寺社奉行の永原左京・生駒右京にあてて富士派の実情につき質問状が出され、調査資料を持たない生駒右京は、やむなくこの一件を配下の役寺である妙成寺(身延派)へ照会しました。

 もとより富士派に対して根深い憎悪を抱いている妙成寺のことですから、当然その内容は大石寺をあからさまに誹謗したものでした。この回答が奉行所の役人や藩の重臣たちの判定の根拠となり、富士信徒弾圧への姿勢がようやく鮮明となりました。

 1726(享保11)年に加賀慈雲寺(身延系)の青年僧・了妙は京都の小栗栖檀林で修学していましたが、大石寺に伝わる正義・富士門流に接し改宗を決意して大石寺に登山しました。そして、細草檀林への修学の許可を得たのです。一方この事実を知った慈雲寺は、藩の寺社奉行に訴えるかたわら了妙に対し直ちに帰国するよう要請しました。寺社奉行も事態を重大視し、直接に了妙あてに帰国命令を出したようですが、むしろ逆効果となり、いよいよ信心の炎は燃え上がりました。了妙は師匠・日義にあてて「たとえ身命に及ぶ程の事之有り候ても帰伏の心底相改め申す義、聊か以て御座無く候」と書き送ったのでした。寺社奉行は藩の宗教政策上、放置して置けず富士派信徒の実態を調査し始めました。これに対し総本山大石寺も加賀藩内に末寺を建立することと合わせて法華信仰の解禁を求める日詳上人(第28世)の願書を日義(常在寺住職)に託して前田藩江戸屋敷に差し出しました。すぐさま取り次ぎに出た半田権左衛門から家老に報告されましたが、藩は態度を改めず、日詳上人の願書さえも突き返し、以後大石寺の信仰禁止を数回にわたって厳重に徹底しました。総本山としてもこれ以上要請を続けても却って前田家を刺激するだけであると判断して事態を静観しました。

 1740(元文5)年あたりから寛政年間(1789~1801)にかけて迫害は一層激しくなり、藩命を拒んで入牢する者も跡を絶たぬ有様でした。信徒のリーダー・池田宗信は奉行所の目をかいくぐっては同志と語らい、講を結成して登山会を敢行しています。「加賀を夜中に出て敦賀の山を越え、東海道を上り関ヶ原を通り、十三日にて遂に富士の裾野より輝く太陽が昇る多方富士大石寺を見て、皆とめどなく流れる涙を止めることができ得なかった。」と登山の感想文が現存しています。

   

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「阿部喜七・佐藤恒佐等、専ら切支丹類似の富士門流に惑溺し、故に伊勢守入道殿を阿鼻に堕落し玉えりと誹謗し、尊威を冒涜し庶民を誘導す。豈に之を等閑視して可からんや」との訴状を受けた藩側では早速に実情調査をするようその筋に命じています。ところが何処までも抜け目の無い慶孝院一味は藩の老臣・野中頼母、目付役・玉江三太夫、荒木彦右衞門らの重役に賄賂を贈り、富士派絶滅への計画が円滑に運ぶよう陰険に立ち廻りました。そして、寺社奉行・中里弥右衞門をも贈賄して、秘かに気脈を通じようとしましたが、言下に跳つけられてしまいました。もっとも弥右衞門は当時藩内でも知られた気骨の持主であり、冷厳なまで完璧な人でありました。ここに一味の行動は暗礁に乗り上げ、空しく月日を送るのみでした。

 やがて弥右衞門が老齢のため引退すると、一味は待ってましたとばかり一挙に行動を開始しました1844(天保15)年、物々しく武装した一団が喜七ら同志を襲いました。捕吏によって数珠繋ぎになった七名の同志は奉行所へ引き立てられ、安置の御本尊を没収されました。残された家族の者さえ謹慎の刑を受けました。

 玄妙房はいち早く所払いを受け、他の領地へ追放されています。問注所に引き立てられてからの七名は、吟味とは名ばかりで、まさに苛酷な責めの連続でありました。しかし「吾等之より寸分の犯せる所あらず、富士大石寺に相伝する三大秘法を持って、いささか国家安穏君民倶楽を祈るの外なし、何をはばかってか恐れ入るべき」とか「王地に生まれたれば身をば隨えられ奉るやうなりとも心をば隨えられ奉るべからず」と堂々たる確信を申し立て、速やかに処断せよと迫りました。そして、一同揃って合掌唱題に入りました。

 この時、居並ぶ役人逹は赤面沈黙して、しばし発言する者もありませんでした。その後、四ヶ月ほど経ってようやく「其方儀、派違いの富士派を信仰致し宗法相背き候旨、本寿寺より申出候に付き………御国に之無き派違いの宗旨信心致し候段、畢竟宗法取乱し候………重畳不届の至りに候。之に依て入牢仰せ付けられ候。天保十五辰 九月」との判決を受け、約30日間入牢して一同赦免となりました。但し、阿部喜七のみは首謀者と見られ追放の刑を受けました。自在の身となった喜七は喜び勇んで富士大石寺を目指し、日英上人(第51世)の門に入って出家し泰雄日承と称しました。他の信徒逹は信心が褪せるどころか益々団結をし、総本山の喜七と連携を密にし、常に座談会を開いては励まし合いました。

 

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  宝永年中(1704~1710)竹内八右衛門は熱烈な活動を展開して役人ににらまれるところとなり、遂に入牢の身となりました。三年一カ月もの入牢の後、一応赦免はされましたがかなりの負債がたまっていました。しかし、八右衛門はこの借金を返しつつ加賀領せましと折伏に動きました。しかも1785(天明5)年には、捕らわれていく同志のために朋友・田中長左衛門と共に藩へ諌言書を送ったのです。勿論二人は即刻入牢となり、八右衛門は翌年に衰弱してそのまま牢獄の中で激動の生涯を閉じました。葬儀の際には加賀の信徒数百人が故人を慕って集まったと云います。また長左衛門の方は釈放されたものの一切のお役御免で扶持も没收され、実質は藩領内追放の刑でした。もとより動ずる気配のない長左衛門は一路大石寺を目指し、出家して宗和房日安と号しました。そして、京都住本寺の第19代住職となりました。

  秋山孫次郎泰忠は甲斐国中野に住していた時、日興上人の折伏を受けて父・光季と共に入信し弟子となりました。後に入道して沙弥日高と号し、立派な信者として知られました。その後、幕府の命により父・阿願入道と共に讃岐へ下り、1289(正応2)年に丸亀の地に寺院を建てました。沙弥日高は自ら帰依した仏法の崇高な教義を学ぶため、また南海広布を願って師匠・日興上人に然るべき導師の派遣を懇願しました。かくして、日興上人の直弟子である寂日房日華が遣わされ、丸亀を拠点にして日夜折伏に打込みました。ところが日興上人御遷化の報を耳にした日華は急いで富士に帰り、その後は老齢のため大石寺に留まって、弟子である百貫房日仙が日寿を伴って渡讃することとなりました。尤もこの亊は日興上人の存命中に決まっていたもので、『西国三十一箇国ハ法華ノ頭領讃岐阿闍梨日仙ニ之ヲ付嘱ス。正中二年卯十月十三日 白蓮阿闍梨日興判』との付嘱状があります。折り悪しくも丸亀の拠点が争乱のとばっちりを受けて灰となる災難があって、沙弥日高は三豊郡高瀬郷内の地を寄進し、1325(正中2)年に日仙を迎えて高永山本門寺を開きました。この地の折伏はいよいよ本格化し高瀬郷一帯の人々はそのほとんどが大石寺に帰依するというふうに、溌剌とした盛り上がりを示していきました。

 時代は下り群雄相争う戦国の時代に入って時の主権は織田・豊臣へと移って行きましたが、交通の不便から四国は南海に孤立していました。豊臣秀吉の四国平定により秋山家所領は多く没収され、高松城主・生駒氏の管轄下に置かれて大石寺と本門寺との交信も一時やや疎遠となりました。しかし、徳川の時代となって舟便など交通の便も整い、四国の地からも遥々大石寺に参詣することができるようになりました。草創の時に日興上人が住んで重須談所として宗門を担う若き俊秀を育成していたいわば学問所ともいうべき北山本門寺は日興上人の直弟子である日華・日仙が創建した寺院であるところから末寺にすることを画策していました。慶長年間(1596~1615)に讃岐本門寺の第14代日円は日華・日仙の旧跡を訪れ、大御本尊に御目通りするため大石寺に赴き、帰り道に北山本門寺境内の近くにある日興上人の墓に参詣したのです。北山側はこの時とばかりに八方手段を講じて日円を誘い、優待厚遇の限りを尽くしてもてなし、密かに能化職に補任する意のある文字を記した一幅の本尊を付与しました。これは北山が暗に本門寺の寺号を削除し、後年自山の末寺たる証拠にして讃岐を併合しょうとする伏線にほかならない策略でした。

 讃岐第16代日教の1647(正保4)年、北山は突然に讃岐はわが末寺なりと言い出しました。しかし、讃岐側の明確な答弁と立証にあって目的を遂げることができず、遂に北山の代表格・日優は幕府寺社奉行にあてて「本門寺は古来自山の末寺であるのに、みだりに自山と同寺号の本門寺と僭称し、その他本尊・式服・制度等は総べて他門の大石寺に模倣し、一も本寺たる自山の命令に服従しない。これら非法の行為が重畳したことにより厳に、制裁を請う」と出訴の暴挙に出ました。日教はやむなく寺社奉行の命令によって出府して力の限りを尽くして抗弁しました。けれどもどのように手が廻されたものか、讃岐側の陳述は一つも採択されませんでした。1648(慶安元)年に幕府は自讃毀他の政策から寺社奉行・松平勝隆と安藤重長が「讃岐本門寺は北山本門寺の末寺であること紛れもなし、以後北山本門寺の下知に従わねばならない」との判決を下しました。そして、高永山本門寺の寺号と共に数戸の坊を持つ本寺としての格式さえ削除され、法華寺と改称させられ北山の末寺という虚名を冠せられました。

 こうして一応法律上では北山の末寺となりましたが、不正・不自然な関係に讃岐の僧侶・信徒はもとより従いませんでした。北山を素通りして大石寺に参詣し、御本尊を受けていました。僧侶達も大石寺や江戸常泉寺、京都住本寺で修学し、歴代住職の墓も厳然と大石寺に建てました。1753(宝暦3)年に大石寺復帰への姿勢がやや弱まりかけたのに対し、讃岐本門寺塔中・中之坊の第13代敬愼坊日精が覚醒を図りました。敬愼坊は初め真言宗僧侶検校の弟子でありましたが、故あって讃岐本門寺の僧・日周の弟子となり、修学してその宗義を究めました。また更に求道の心厚く江戸の常在寺に住んで法門を学び、帰って高瀬中之坊の住職となりました。その修学のほども広く、土地の人からは竜樹・天親にも劣らずと云われました。敬愼坊はあくまで日蓮大聖人の観心たる法華経を修め、仏道修行しなければならないと主張し、かつ大聖人の正法は富士大石寺にありと大石寺への復帰に熱烈な運動を展開しました。いかなる法論にも敬愼坊は堂々と挑み、ついに讃岐本門寺第19代日達を覚醒させ復帰運動に同意させました。檀徒の中の大庄屋・真鍋三朗左衛門も敬愼坊に心服して壮烈に活動しました。

 あわてた北山側は種々の偏見を持ち出し、果ては本寺に向かって不届き至極と領主に訴え厳しい処罰を要請しました。直ちに敬愼坊と真鍋三朗左衛門は捕縛入牢されました。敬愼坊は獄中で「日蓮大聖人の化儀化法を修する時は、死身弘法又不自惜身命ならでは叶ふべからず是ならでは三徳報謝を現じ、抜苦与楽の仏法を体得するに及ばず」と毅然たる態度を終始し、また「吾は渇しても盜泉の水は呑まぬ」といいきって21日間というもの何も口にせず、絶えず朗々と唱題を重ね最後に及んでも笑みをたたえ、妙法を身読歓喜のうち真鍋三朗左衛門と共に悠然として獄死しました(1757=宝暦7年)。

 その後、大石寺への復帰を願う訴えは幾度となく出されましたが、寺社奉行の役人達は最初の裁定書に固執して脅迫的な調印をさせ、末寺の虚名を廃しようとはしませんでした。

 

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(仙台法難)

 東北における富士派の歴史は古く総本山第三祖・日目上人は陸前国登米郡の生まれでした。日蓮大聖人遷化の翌1283(弘安6)年に祖先の領有していた新田に下って死身弘法の闘いを展開しました。日目上人の熱烈な折伏に信徒は急速にその数を増し、それに伴って宗門新寺院の建立も次々となされました。いわゆる奥四ヵ寺”―本源寺・上行寺・妙教寺・妙円寺はこの頃建立されています。

 仙台藩は伊達政宗の時代に〔奥州王政宗〕として独自にローマと交渉を持っていました。その関係で切支丹を信仰する者もかなりありました。ところがローマとの通商はそう長く続かず、ある事件がもとで通交は断絶し、1620(元和6)年には三カ条の禁教令を出して逆に切支丹信者の追放を図り迫害しました。従って新しい宗教活動に対しては全て危険思想の一端とみなされたのです。

 日真上人は1764(明和元)年に法主上人になると歴代の猊下の例に習って各地の正宗寺院を巡教し、率先して宗門の興隆に意を注ぎました。まさに妙法とは実践の仏教であります。日真上人も遠く奥州仙台方面に数回巡教の歩みを記しました。仙台には古くから御本尊を頂き信仰に励んでいた賀川権八という信徒がおり、用人も置いて町家でも相当に富裕でありました。日真上人巡教の際には賀川家では次に誕生する男子は総本山に登らせて出家させ、日真上人の弟子とする事を約しました。

 その後、賀川家の願は叶い、無事男子(日衣、字は活如、後の日相上人)の出生をみました。1764(明和元年)に日真上人は約束通り日衣の幼年期の師として、覚林房日如を後見させ仙台へ派遣しました。日如は1740(元文5)年に生まれ、初め日因上人を慕って得道し、後に日真上人の弟子となりました。向学心を燃やす若き学僧の日如は、出家してまもなく上総の細草談林に学びました。集解部・玄義部と習得し、文句部に入った時なぜか談林を離れ、総本山大石寺の日因上人または日真上人に直々の指導を受けています。恐らくは談林で学ぶ天台の哲理が、あまりに空論的で難解なばかりの羅列で、講義自体のマンネリがあったと思われます。賀川家に出入りし日浄寺に逗留していた日如は、いずれ総本山に帰る予定をしていた。

 しかし、賀川氏は以前よりこの地に富士派の寺院建立を念願していましたから、日如に強いて逗留を懇願しました。そして、出羽最上氏の一族で伊達・準一家1400石の天童備後の邸の中に東有堂を建て日如を迎えました。 賀川家は寺院建立の目的を果たすため、ここに一計を案じました。上行寺の支配下にあった登米郡加賀野(宮城)の廃寺・本道寺を復興することを妙教寺・上行寺と談合しました。日如は妙教寺塔中・東陽坊に移り、仙台・南宮・八幡・柳目と東北各地を往復して着々と本道寺再興の準備を整え、弘教の布陣を進めました。

 自己の宗旨に執着する役人達や他宗の僧等の誹謗により仙台藩では、邪教「切支丹」とみなして真っ向から弾圧し、全信徒を片っ端から捕らえ始めました。1765(明和2)年に日如は伊勢屋平兵衛宅で勤行中、突然に嫌疑を受けました。同時に洞の口の信徒(甚六・市郎兵衛・治三郎)も目付役宅に連行され、翌日には日如を先頭に賀川権八(浄性)中沢氏等が入牢となりました。城下でも仏眼寺・日浄寺・妙教寺の信徒檀家は残らず喚問入牢となりました。日真上人は学頭職・日穏上人を仙台へ派遣して、真相の調査と奉行所への弁明に当たらせました。日穏上人は信徒一同に「正法であるが故に起こった三障四魔の実体であり、これはこの地から奥州一円に仏法が流布される瑞相である」励ましました。しかし、折り悪くも日真上人が遷化して帰山を余儀なくされ、代わって教真院日善が派遣されました。その間を謀って奉行所は一挙に処断を下しました。覚林房日如は「他領出家であること。邪法を弘める中心者であること。塩釜神社の神酒用の田を荒らしたこと」により石巻湾に浮かぶ孤島・網地島へと流されました。天童備後は日如の布教を助けたとして役目を解任され、一家は閉門となり、他家とは一切往き来できなくなりました。備後の家にあった中沢三郎左衛門は他国追放、富沢惣右衛門は閉門・隠居となりました。中心者の賀川権八にしても仙台追放となり、この地で折伏の指揮をとり、寺院を建立して奥州広布の拠点を作る念願も実現することは不可能となってしまいました。その他、町民の伊勢屋平兵衛・服部屋五郎兵衛・石田屋儀衛門は一年間の労役に服することとなりました。

 網地島の根組に仮の小屋を建て流人の生活に入った日如の奥州広布の意欲は、いささかも衰えることはありませんでした。仏法に無知であった島民逹が日如の深い人柄に触れ、その折伏によって入信帰依する者が増えていきました。島の生活は非常に厳しいもので、信徒からは僅かの金銭や味噌・塩・米などの供養が送られていました。なかでも原町の信徒からは、島は寒いであろうと衣を送ってきました。そして、実に27年間、こうした厳しい境遇の中でも島民の折伏や指導と、各地に散在する信徒の激励を瞬時も忘れませんでした。各地の信徒逹も、こうした温情あふれる日如の檄文を受け、いやが上にも奮い立ち一層の修行に励んでいきました。

 1791(寛政3)年に仙台藩では八代を斉村が継承し、従四位下・左近少将兼陸奥守に任ぜられ、その祝賀で特赦が行われました。この時、ついに日如も赦免されました。日如は余生をひたすら有縁の地を巡教することに専念し、長渡(ひたわたし)に要声堂、洞の口に事光堂、古川に永寿堂を建立し、柳目に日有上人報恩講を結成しました。1812(文化9)年に日如は、73歳の老体にムチ打って再び網地島に渡り、光齢という信徒に要声堂を継がせ翌文化10(1813)年に仙台の洞の口で波乱に滿ちた生涯を閉じました。

   

   

(伊那法難)  

 坂倉家は代々伊那小出郷で農耕を営み、郷名主を務めたこともありました。坂倉家はもともと曹洞宗常輪寺の檀徒でありましたが、どういう訳か伴蔵あたりから内々で日蓮宗に帰依していました。伴蔵は『奉真読大乗妙典三千部供養』と認めた塔を建てて、熱心に法華経読誦をしていたと思われます。このような家庭環境のもとに1754(延享2)年、茂左衛門が生まれました。茂左衛門は父・伴蔵の影響を受け、幼い頃から日蓮宗の法門を学び、深妙寺(身延日蓮宗系)は絶好の学習の場でありました。

 しかし、当時の僧侶逹は形式主義に流れ、研鑽修行を怠る風潮にありましたから、利発な茂左衛門が納得いく真理を得られる筈はありませんでした。1763(宝暦13)年、19歳になった茂左衛門は法門に対する疑念を晴らすため、いくつかの法華寺を回り、本山の身延山久遠寺で勉学に励みました。

 しかし、期待していた身延でも得心のいく回答は求められませんでした。それどころか返って疑惑は広がるばかりでした。茂左衛門が質問を浴びせた談所の一人は「お前の主張はまるで富士派ではないか」と決めつけました。茂左衛門が富士大石寺の名を聞いたのは、実にこの時が初めてでありました。すぐさま大石寺へと向かい、そこで初めて求めてやまなかった日蓮大聖人の仏法に巡り会い、深遠な妙法の哲理について学ぶ亊ができました。大石寺には一ヵ月ほど滞在して研鑽に励み、御本尊をも受持しました。

 壮烈な折伏の実践を心に決めて、故郷伊那谷へと帰ってきた茂左衛門は、まず小堂を建てここに御本尊を安置し、妙法山蓮光寺と記した扁額を掲げました。日蓮大聖人の仏法の偉大さを訴える青年・茂左衞門の折伏に伊那の農民達は、信仰と云うものに対し目覚めていきました。入信者も初めは近郊の人に限られていましたが、後には遠く高遠の城下方面にも誕生を見ました。厳しい幕府の宗教政策を尻目に、折伏の手をいよいよ逞しくしました。最初のうちは高を括って意にも留めていなかった常輪寺・深妙寺は富士派信仰が下火になるどころか、年月が経つに連れ勢いを増していくのを見て、内心穏やかでありませんでした。ことに坂倉家が元々檀家であった常輪寺は、本格的に茂左衞門追放の下準備に取りかかりました。まず、茂左衞門に法門の誤りを責められた深妙寺を味方に引き入れ、次いで光久寺とも同盟を結びました。

 1784(天明4)年に三寺の住職は連名を以て、遂に代官・秋山五郎右衞門に事の次第を訴え出ました。代官・秋山はすぐさま郡代(高遠藩・寺社奉行)正木軍左衞門に届け出ました。茂左衞門は夕食の最中に奉行から繰り出された与力・同心の捕手36名により急襲を受けました。「予てより覚悟のこと、仏道修行の身として有難きことである」と自ら手を差し出し、そのまま毅然と縛についたのです。この時、小出郷で左平治・藤右衞門・政右衞門・勇八ら9名、隣村の殿島では甚三郎・重郎右衞門らの農民、高遠の城下町でも商人・阿波屋忠治が共に囚われて、富士派信徒のほとんどが一網打尽となりました。

   

 役人達は茂右衞門らを邪教徒かキリシタン教徒として扱い、詮議もことのほか過酷に行い、徹底した家宅捜索をしました。なおこの際に、茂右衞門の子・亀之助は10歳ながら役人の問いにテキパキと応答し、却って法門を説き聞かせるなど大人も及ばない沈着さと弁舌の才を示しました。一方の茂右衞門はいかに吟味されようとも臆せず、大石寺に厳存する日蓮大聖人の教義こそ最高峰に位置する法門であることを堂々と主張しました。そこで寺社奉行はそれらの説がいかなる宗派によるものかを見極めるため、近在の身延日蓮宗寺院の僧侶を集めて茂右衞門と対決させました。

 寺社奉行は対決の内容から茂右衞門の宗旨が仏教であることを知りましたが、法門・教義には無知でしたから、寛文五年の『諸宗御条目』により禁止されている新説を唱え出していると判断しました。茂右衞門らに対する投獄は続き、吟味も一段と過酷さを増し、言語に絶する拷問にまで及びました。茂右衞門は拷問の取調にも富士大石寺の教えこそ諸宗が尊ぶべきで、この教を持った身にいかなる仕置きを受けようと、それは経文通りであり決してお上を恨まないとキッパリ申し立てました。更に命ある限りは題目を唱える決意であると言い切ると、その後は一言も語ろうとせず朗々と唱題に入りました。

 いかに責め立てようとも不動の確信を貫く茂右衞門の姿には、さすがの奉行も成すすべもなく、吟味も益無しとその後の拷問は取り止めになりました。そして、茂右衞門は一家所払いを受け財産を没収されて、太田切川原に住み着くこととなりました。しかし、茂右衞門は日純上人(第39世)からしばしば書状を受けて内々に帰郷し、伊那の信徒達を実質的に指導しました。子供達もその後数年を経て帰郷し、各々養子や嫁ぐなどして落ち着きました。

その後、高遠藩からいつ許されたか茂右衞門は再び誕生の地・小出郷に帰り我が家を拠点に広布への実践を展開しました。揺るぎ無き茂右衞門の信仰は、むしろその死後に強信者が輩出したことから伺われます。

信徒達は、上辺だけ従来の寺院(常輪寺・深妙寺)に所属しているように装って夜毎に集まり、座談会を開きお互いに信仰を深めました。しかし、信徒達の活動は勢い表面化を避けられず、遂には一斉に富士派への転宗を図りました。

 天保から弘化(1830~1848)の年代に入ると、再び藩の圧迫は厳しくなり1845(弘化2)年には藩が『御触れ』を出して、富士派の取締を行いました。けれども権威の圧迫などで信仰の炎は消えず、迫害さればされるほどいよいよ結束を固め大石寺への登山会を敢行するまでに至りました。

   

   

(尾張法難)

 尾張広布の幕開けは1788(天明8)年に時の第37世・日王奉(にっぽう)上人が、杉本平次郎なる人に御本尊を下付した事に始まります。次いで1793(寛政5)年ころ永瀬清十郎が生まれ、事実上はこの清十郎によって拓かれました。清十郎は武蔵国川越の辺りに生まれ、江戸へ出て来て目黒に住んでいました。始め身延日蓮宗(一致派)に属し、団扇太鼓を叩き千箇寺詣りと称して盛んに各地を布教して巡りました。しかしその後、ある事が機縁と成り富士大石寺の清流に浴する身となり、登山して第48世・日量上人の弟子となり、日蓮大聖人の仏法について本格的に研鑽を始めました。清十郎は我が非を悟ると、以前に身延派の教義をもって教化して巡った達に、もう一度折伏し直すことを決意しました。たとえ入信前であったとはいえ、かりそめにも大聖人の教義を曲げて弘めた行為は清廉な富士派信徒となった今、強く反省しなければならない。これを放置しておくことは正義感がとうてい許さなかったのでした。

 1822(文政5)年の頃、清十郎は尾張の地にやってくると、一軒も残らず訪問して以前の非を詫び、大石寺の正義を訴えました。ほとばしる誠意と情熱が多くの人の心を打ち何人かは改宗しました。この中に高崎たよという後に信徒の中核として活躍する高崎勝次の母がいました。清十郎はこの成果に止まらず、更に折伏を進め名古屋の町からいよいよ北在一帯へと手を延ばしました。ここには清十郎の折伏によって寄木村に平松増右衞門、小牧村に岩田理蔵、外山村に木全右京、小木村には船橋儀左衞門という強信徒が住んでいました。この人達は清十郎に巡り会う以前、大聖人の御書判にまかせて天台ばりの微温的な教義を盛んに攻撃する一致派の説法僧・本用院日就や京都・求法談林で教鞭を執っていた玄收院日明より様々な法門を学びました。

 永瀬清十郎は日量上人から直接の指導を受け、相当の修学を積み揺るぎ無い確信を抱く立派な信徒となっていました。理路整然として核心を衝く清十郎に対して、他宗の者は誰一人として太刀打ちできませんでした。1823(文政6)年こんな恐るべき論客がいよいよ名古屋の町に入ってくると聞いた人々は、何とか食い止めてあわよくば法論を以て清十郎の自信を砕き、二度と尾張の地に来られぬほどの打撃を与えんと方策を練りました。そこでこの地方では最も雄弁を以て知られる平松増右衞門が対決するハメとなりました。公開の席で行われ、結局は清十郎の折伏に増右衞門は自らの誤りを悟り、程なく入信の運びとなりました。次いで直ぐに木全右京・岩田理蔵・船橋儀左衞門らも改宗しています。清十郎は尾張での活動がひとまず落着すると、日量上人に従って遠く仙台へ出発しました。なお、清十郎は時の権力の詮索をかわすため「富木要逹」とか「遠山照作」などの別名を用いました。

 かくて清十郎により入信した人々は自然のうちに相寄り結果を求める動きが活発となりました。名古屋の町では真っ先に改宗した高崎たよが中心となり井上俊弥の母、綿屋金七の母、綿屋伝兵衛の母に働きかけて『六日講』と称するグループを作り上げました。たよは婦人の身でありながら、なかなかの闘士で息子の勝次を入信させ、更に講の充実を図りました。勝次の信仰は急速な成長を遂げ「六日講」を発展解消して『本因妙講』を結成しました。そして「本因妙講極書」を作り、一糸乱れぬ団結を誇りました。

  一、受け難き人身を受け、逢い難き大法に逢うは真に爪上の土なり。

    願わくは仏恩報謝、信心倍増、所願成就のため、年々御本山に参詣し………

  一、始めて入講の輩、受戒の後は異体同心の旨相守り、若し異心発り候節は、義理文証を以て互いに

    遠慮無く難じ………決し難き儀は御本山へ伺い申すべき事。

  一、毎月御講相勤め、信心増進のため、御書を拝読致すべき事。

    <中略>

    文政七年十一月

   全九項目から成っています。

 1824(文政7)年は高崎勝次・井上俊弥・岩田理蔵らが総本山に登山するなど信徒の意気は高く、草創の息吹は盛り上がりを示していました。折伏も大いに進み、他宗のリーダーと各地で舌戦を展開し、悉く論破していきました。

 

   

【文政の法難】  

 1825(文政8)年7月のことでありました。ささやかな人数でしたが信仰を持つ喜びと明るさに溢れた会合が松本治左衛門方で行われました。木全右京も信徒指導のためここに出席していました。勤行の終わった後、御書の一節を読み始めると突如「木六月に竹八月、木全の頭今が張りどき」と罵声を張り上げ、土足で踏み込んだ暴徒数名は、いきなり右京に暴行を加えました。この暴徒逹は、日頃から右京ら富士派信徒の折伏に憎悪を抱いていた他宗の信者でありました。障魔の影はこうした純粋な同志らに早くも激しく襲いかかってきたのです。

 ここに入信して間もない京屋善兵衛という人がいました。大石寺の法門と身延日蓮宗側の主張とが分別できず、自らの疑問や不審を身延派僧侶・本用院日就に宛てて書き送りました。しかし、日就は大石寺の教勢拡大を不愉快に思っていましたから、『富士門評破』なる一巻を書き善兵衛に送りました。この書は高崎唯六(勝次)ら同志の手に入ることとなりました。破邪なくして顕正はないとの観点から日就折伏のメンバーが選ばれました。本因妙講の中核として活躍する高崎唯六・綿屋金七・綿屋伝兵衛・岡崎九兵衛・井上俊弥の五人でありました。

 文政八年八月『尾州内得信者本迹論』と云われる尾張問答が本因妙講の五名と日就とその付添三名の間で行われました。高崎らは「『富士門評破』なる書は日就ご自身の著作に相違ないか」と確認すると、日就は「勿論我が執筆である」と自信ありげに構えていました。問答は『富士門評破』の冒頭にある教相と観心という基本問題から入りました。日就の論法は支離滅裂で要領を得ず、彼等の流派内に伝えられる二、三の書物を引用しての弁明でありました。高崎らは「本書は誤り多いため、あくまで御書の文によって明快な解答を願いたい」と迫りました。

 しかし、日就は列挙する文証も適切でなく早くも閉口しました。日就が「本迹は一致なり」と御書の文をこじつけながら主張してくると、高崎らは=爾前迹門は正法・像法或いは末法は本門の弘まらせ給うべき時なり、今の時は正には本門・傍には迹門なり=と四菩薩造立抄の一節を引き、日就の邪説を粉砕してしまいました。ここに於いて日就は再び閉口し、明確な文証を提示されては全く応答のスベはありません。そこで、僧衣の色について「富士門流では白一色を着用し黒衣を用いぬが、その明らかな証拠を示されたい」と居丈高に詰め寄りました。しかし高崎らは一代五時継図の=法鼓経に云く黒衣の謗法なる必ず地獄に堕す=の明文を示しました。日就は最後の気力を絞って本尊論を問おうとしましたが、高崎らに「本迹のことさえ分別のつかない人に論じてみても、所詮は無駄なことであろう」と一笑されてしまいました。高崎ら五名は法論の内容を詳細にまとめ、末文に「所詮本用一々閉口し五人者誠に勝理を得申し候、是全く私の力にあらず、正法を信ずるゆえに大聖人樣の御加護なるべしと、五人の者は申すに及ばず講中各々悦び申し候」と認めて、総本山の日量上人および日荘上人に報告しました。折伏の気運はここに一層の高まりを示していきました。

 今まで弱小教団と蔑視していた大石寺の信徒逹に、一方的な躍動を許してはもはや存続すら危うくなろう。特に身延日蓮宗系の流派の受けた打撃はことさらに大きく、離檀者の続出という事態になりかねませんでした。憎悪の果ての思案は、権力と結託して富士派信徒の団結を瓦解させる亊でありました。1826(文政9)年の夏の夜、迫害の魔手は勤行中の木全右京を雷雨を突いて襲いかかりました。その先頭には村長の和右衛門さらに奉行派出所の役人・島田治右衛門、種田権六らの捕吏、案内役として身延系の僧侶一名も加わっていました。彼等は座敷の表から土足のままで押し込んでくるや、右京をはじめ勤行最中の家人を捕らえてさんざんに乱暴し、仏壇に安置された御本尊まで奪い去りました。そしてこのような狼藉を受けたのは右京だけでなく、合計六幅の御本尊が取り上げられています。かくて北在を中心に富士派信徒弾圧の嵐はいよいよ吹き荒れることとなりました。さんざんに破折を受けた他宗の僧や講頭は巧妙に立ち回って奉行所の役人を煽動し、迫害の炎を各所に挙げました。

 日量上人は名古屋の同志に「今度の法難こそ正法正師正義より起るところ、御入滅後二陣三陣の法難に候えば………退転なく信心を励まし候の程、希うところに存じ候。大聖人曰く「此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし、況滅度後の大難の三類甚しかるべしと、然るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども大小の難来る時は今始めて驚き肝をけして信心を破りぬ(如説修行抄)」と、叱咤激励の手紙を送り、時の日荘猊下や満山のご僧侶と共に大御本尊を御開扉して、信徒逹の無事と不退転を祈念しました。また、江戸にいた永瀬清十郎からも折々激励の文が飛んでいました。

   

【尾張三烈士】

 岩田理蔵は三井村に農民・岩田新六の子として1795(寛政8)年に生まれました。少年の時より勉学の志は甚だ厚く、青年となって收玄院日明なる僧に就いて日蓮大聖人の御書を編集する機会を得て、その折り初めて富士大石寺について耳にしました。以来、憧憬の念を抱き続けました。若くして父の元を離れ、小牧村の染物屋・八右衛門に奉公し、1831(天保2}年に独立を果たして大阪屋という店舗を構えました。27歳の時に永瀬清十郎の折伏を受けて入信し、直ちに総本山へ参詣しました。総本山において勉学の才を見抜かれ『日目上人譲状』等の重宝級の宗門書の書写を許されています。俳句をよくした人で理超という雅号がありました。

 平松増右衛門は寄木村に常八郎の子として1789(寛政元)年頃に生まれました。農業を家業としましたが、若くして学問に長じ塾を開いて村童に習字を教え、製薬業も営みました。34歳の時に清十郎の折伏によって入信しました。俳句も巧みで二丁なる俳号を持っています。

 木全右京は小木村の百姓・浅右衛門の子として生まれ、少年時代に既に卓越したものを持っていました。役人の島田治右衛門の後援によって村の八幡神社の神官となりました。しかし、やがて自ら神官の道を捨てて熱烈な富士派信徒となった為、島田からは激しい憎悪を受けました。

 

 

【弘化の法難】  

 身延派の講中では、どうすれば活発な富士派に再起不能の鉄槌を下す事ができるであろうか。密告したくらいで怖じ恐れる者逹ではないし、ということで富士派の得意とする法論の上で口を封じる事に決しました。そこで、名古屋近辺で大寺とされる大光寺(身延山久遠寺の末寺)の老僧・菩提院が屈服させる役割を務めることとなりました。

 1846(弘化3)年、日蓮大聖人の御書講釈という触れ込みで、北在の長遠寺に名士を集めて、その場で富士派信徒の主張を一気に崩し、葬り去る計略がなされました。菩提院の講義が始まりましたが、岩田理蔵と平松増右衛門の発したほんの二、三の質問にたちまち詰まり、立ち往生してしまいました。終に菩提院は恥ずかしさのあまり引っ込んでしまいました。

 翌弘化4年になって平松増右衛門の娘婿・常蔵とその兄・喜八が突然に寺社奉行所へ連行され、一日痛めつけられた末に、本遠寺なる大寺へ身柄を引き渡されました。ここに待っていた役僧・智定院は二名を教学に未熟とにらんで卑怯にも対決を強要しました。返す言葉も解らない二人は、ほとんど一矢をも報いることなく、身延派の企みにはまって詫び状を書く羽目となりました。本遠寺を始め、他宗の講中は見事な計画の成功に手を打って喜ぶ有様でした。この一札はある程度の溜飲を下げたらしく、しばらくは迫害の手が休まりました。しかし、多くの中堅信徒逹はなお健在であり、いよいよ信仰を貫く決意を固めさせたので、返って逆効果となりました。そこで身延派らは、多数を頼み資力を傾けて藩権力を煽動し、いよいよ本格的な弾圧にでてきました。

 

   

【嘉永の法難】  

 1848(嘉永元)年、尾張信徒弾圧の主謀格に智定院がおさまりました。最初に木全右京が狙われ、巧妙な挑発行為が仕組まれました。智定院は右京の法輪に熱心な点に目を留め、これを逆用しょうと図りました。まず、数名の人数で懇談のため会見したい旨を申し入れましたが、右京は案に反してこれを断っています。そこで再び手先の僧侶や信者逹を差し向け、自宅へ招待しましたが、右京はこれにも応じませんでした。

  智定院は右京の檀那寺である妙楽寺に出向いて右京・左京の父子を招き、昨日の招待を謝絶した詫び証文を書けと迫りました。しかし、右京はその場を努めて物静かに断り、そのまま帰宅しています。尾張信徒のリーダーたる強い自覚と責任感が軽率な行動を戒め、且つ策謀をも見抜いたのでした。

 智定院は、またもや右京親子を本遠寺に呼びました。折り悪しくも右京が病床にあったため、子の左京のみが出頭しました。左京はそのまま一室に監禁されたのですが、病気中との理由もあって騒ぎは一応納まるかに見えました。しかし、今度は左京自身が単身呼び出しを受け、かって右京が詫び証文を書かなかったという罪状をもって神職の解任と村からの退去を求められました。まさに横暴ともいいようがなく「当方に何らの過失はない。あくまで正当の立場を貫く以外になかろう」と父子共々、悲壮な決意をかためました。

 突然に寺社奉行の命令が下され、右京は本遠寺に召還を受け、奉行所へ強制的に送り込まれました。そして岩田理蔵・善之衛門・浄健などの同志もぞくぞくと捕えられました。実に大石寺の信仰を貫いているという一点の理由を以て、残酷を極める拷問が行われ、信徒逹は半死半生の目に合いました。このすさましい拷問の嵐の中、右京をはじめとする同志一同は息も絶え絶えとなりながら、遥か富士の大御本尊を慕い唱題を絶やしませんでした。捕縛を受けなかった増右衞門は各所に潜伏して嘆願書を書き続け、あらゆる手づるを頼って赦免に奔走しました。しかし、首謀とみられた右京と理蔵だけは最後まで残され、なかなか赦免されませんでした。責めと折檻が一ヵ月程も続いたある日、増右衞門の地下工作が実って国家老の山澄右近を動かす事ができ、遂に帰村することとなりました。両名は全く体の自由が利かず、駕篭のような物に乗って帰ったと云います。   

【法華寺問答】  

 奉行所としても右京ら信徒逹の命を賭けた鉄石の信仰の前には、さすがに考える所があったようで法論をもって解決するように諮りました。嘉永元年の秋、三回の対決が行われ、富士派信徒の鋭い舌鋒に攻めたてられた他宗連合軍は、全く完璧に敗北し致命的な醜態を演じました。

 

 

 

(八戸法難)

 雑貨商・吉田屋喜七の家では先代の命日に当たって帰属する日蓮宗本寿寺の僧侶に依頼して、法要を営んだところでありました。親族一統が集まって、故人の話しに花が咲いている時、表に立って案内を乞う旅僧がありました。主人の喜七は今日は折りよく先祖供養の日でもあるからと、この僧を招き入れました。僧は仏壇の前に坐って故人を回向する勤行に移り、居合わせる親族一同も和していきました。ところがどうでしょう、朗々と唱える声には微塵の乱れも無く、爽やかな余韻と豊かな声量は気高いまでの響を放って実に快く聞こえ、鍛錬修行の程が相当である事が伺われました。旅僧は一同と向かい合うと、湯茶のもてなしを受けながら自分は駿河国富士大石寺に所属する仙台仏眼寺の住僧・玄妙房であると名乗りました。一同は玄妙房を囲み仏門の事、先祖供養の事など様々に尋ね、明快な玄妙房の明快な回答もあって、およそ法要の席に似合わぬ活気を呈しました。確信に溢れて仏法の偉大さを訴える玄妙房の話しに主人の喜七、喜七の姉婿・豊作の二人は感銘を深くし、妙法の真理を求める心が燃え上がっていきました。玄妙房は請われるままに吉田屋に逗留し、入信を決意した喜七・豊作と共に八戸一帯の布教に力を注ぐのでした。連日の激しい折伏の結果、布屋清兵衛・三崎忠助・桝屋清助・伊藤屋大治郎・瀬戸屋善吉の面々がほとんど日を置かず同志となりました。この七名が法難に際して一歩も引かず、壮烈なまでに闘い抜くリーダーとなりました。

 桝屋清助は紀伊国の出身で父は権兵衛円直といいました。ある縁により八戸の佐藤五兵衛の養子として迎えられました。ところが五兵衛夫婦の間に一男が誕生すると、清助は別居し一軒を構えて穀物販売をしました。佐藤(桝屋)清助は最初は日什門流の檀徒でしたが、富士派に入信してからは八戸狭しと折伏に励み、同志の志気を大いに鼓舞する程に成長を示しました。

 阿部(吉田屋)喜七宅では七名が力を合わせ、友人知己を誘って折伏座談会がほとんど毎日のように行われました。玄妙房の滞在する間に、相当数の同志の増加がありました。これら一連の激しい折伏は、狭い八戸の町に大きい反響を呼び、風評はそれからそれへと伝わって、法華信徒の活動はたちまちこの地で、誰知らぬ者も無いまでに有名となりました。

 しかし、当然のように悪口誹謗の声も日増しに高くなっていきました。なかでも阿部喜七・佐藤清助・三崎忠助の三名はいよいよ団結の絆を固め、申し合わせ状を記しています。

   

  一、此度三人諸共兄弟の義を結び向後御書判(御書)に任せて折伏を致すべき事。

  一、強折に依て諸人に嫉まれ家業立たざる節は相互に救うべき事。

  一、三人の中に於て万一法難に値い頻出等に預る者之有る節は一同退去を遂げて剃髪を致すべき事。

  (中略)

  一、剃髪の後は、三人諸共同居を致し如法に修行して生涯を送るべき事。

   

 このように喜七・清助らの活動は果敢の一語に尽き、確信に満ちたものでありました。

 三崎忠助が身延日蓮宗系の某信者を訪問した際に、談たまたま法門の事に及びました。忠助は先方の本迹一致の説を完璧なまでに破折し、仏法の因果の理法の上からなお其のまま信仰を続けるならば、地獄は間違いないと言い切りました。その信者の憤りは激しく、何とか復讐しょうと日什門流の本寿寺に訴え、富士派攻撃の応援を依頼しています。本寿寺住職の慶孝院も最近教勢とみに振るう富士派を快からず思っていましたから、よきついでと妨害策を練りました。事の次第は露骨な敵意と欺瞞を以て藩主・南部信真に訴えました。「阿部喜七・佐藤恒佐等、専ら切支丹類似の富士門流に惑溺し、故に伊勢守入道殿を阿鼻に堕落し玉えりと誹謗し、尊威を冒涜し庶民を誘導す。豈に之を等閑視して可からんや」との訴状を受けた藩側では早速に実情調査をするようその筋に命じています。ところが何処までも抜け目の無い慶孝院一味は藩の老臣・野中頼母、目付役・玉江三太夫、荒木彦右衞門らの重役に賄賂を贈り、富士派絶滅への計画が円滑に運ぶよう陰険に立ち廻りました。そして、寺社奉行・中里弥右衞門をも贈賄して、秘かに気脈を通じようとしましたが、言下に跳つけられてしまいました。もっとも弥右衞門は当時藩内でも知られた気骨の持主であり、冷厳なまで完璧な人でありました。ここに一味の行動は暗礁に乗り上げ、空しく月日を送るのみでした。

 やがて弥右衞門が老齢のため引退すると、一味は待ってましたとばかり一挙に行動を開始しました1844(天保15)年、物々しく武装した一団が喜七ら同志を襲いました。捕吏によって数珠繋ぎになった七名の同志は奉行所へ引き立てられ、安置の御本尊を没収されました。残された家族の者さえ謹慎の刑を受けました。

 玄妙房はいち早く所払いを受け、他の領地へ追放されています。問注所に引き立てられてからの七名は、吟味とは名ばかりで、まさに苛酷な責めの連続でありました。しかし「吾等之より寸分の犯せる所あらず、富士大石寺に相伝する三大秘法を持って、いささか国家安穏君民倶楽を祈るの外なし、何をはばかってか恐れ入るべき」とか「王地に生まれたれば身をば隨えられ奉るやうなりとも心をば隨えられ奉るべからず」と堂々たる確信を申し立て、速やかに処断せよと迫りました。そして、一同揃って合掌唱題に入りました。この時、居並ぶ役人逹は赤面沈黙して、しばし発言する者もありませんでした。その後、四ヶ月ほど経ってようやく「其方儀、派違いの富士派を信仰致し宗法相背き候旨、本寿寺より申出候に付き………御国に之無き派違いの宗旨信心致し候段、畢竟宗法取乱し候………重畳不届の至りに候。之に依て入牢仰せ付けられ候。天保十五辰 九月」との判決を受け、約30日間入牢して一同赦免となりました。但し、阿部喜七のみは首謀者と見られ追放の刑を受けました。自在の身となった喜七は喜び勇んで富士大石寺を目指し、日英上人(第51世)の門に入って出家し泰雄日承と称しました。他の信徒逹は信心が褪せるどころか益々団結をし、総本山の喜七と連携を密にし、常に座談会を開いては励まし合いました。

 追放を受けた喜七について、何とか藩に取りなして晴れて赦免の身となるよう尽力した人がいました。一人は江戸表八戸藩南部屋敷の奥女中きさのであり、もう一人は第九代藩主・信順の実家・薩摩藩に出入りしていた高野周助でした。二人は御本尊を受け熱心な信心を続けていました。二人は何時の頃か信順に機会をみては入信を薦め、遂には信徒としています。1855(安政2)年に喜七は改めて僧籍を日英上人に返し、赦免となって八戸の地へと帰参しました。そして、分家の豊作と力を合わせ家業を大いに発展させ、1857(安政4)年には藩から〈諸穀物一切問屋〉の脇支配人という重大な立場を命じられました。

 1856(安政3)年に日英上人より御本尊を受けた信順は八戸に富士派の寺院を建立したい旨を呈上しました。そして窮乏藩であった為、歴代藩主のための別荘を改築し、1861(文久元)年に《玄中寺》を誕生させました。

 それに引き替え、喜七ら同志をさんざんに苦しめ迫害し拔いて御本尊まで没収した一派のうち、藩主・信真は三年経たない内に熱病を患って三日三晩虚空を掴み悶乱して長逝しました。野中頼母・玉江三太夫・荒木彦右衛門も次第と訳の分からない病を得て、苦しみ悩んで死んでいきました。

   

   

(新興宗教の成立)

 江戸幕府は既成宗教の保護に力を注いだため、返って宗教の形式化を招来しました。

 一方泰平のうち続いた江戸中期以降は年中行事・俗信仰の流行、お陰参り、霊社大祠の巡拝などが盛んになって、庶民の祈願内容は主に病気平癒・災厄除護・現世利益・安心立命の卑近なものでした。また、宗教活動は僧侶中心から信徒中心へと移行していきました。従って既成宗教は庶民の宗教的要求から遊離して新興宗教の成立を促しました。

 

  

   

(勝劣八品派仏立講)(本門仏立宗)

 長松清風 18171890 1817(文化14)年に京都蛸薬師室町で生まれました。姓は大路、後に長松家を継ぎました。26歳の時、母が死去した事が動機となって本能寺の長遠寺(八品派)に出入りし、29歳の時に院主秀典日雄の教化によって浄土宗から日蓮宗に改め、入信と共に八品講の発起人となりました。32歳で出家しましたが、まもなく還俗して居士となりました。東山・西行庵において島田弥三郎と協力し妙蓮寺日耀のもとに、久遠派と皆成派に分かれていた隆門八品講の改革に乗り出しました。清風は『御法のしるべ』を著して高松八品講の頼該に贈り、協力して皆成派に反対しました。そして、1857(安政4)年に本門法華宗より離脱し、京都八品堂の谷川浅七宅において華洛八品講を興し仏立講という在家の講を開き、高松八品講より分離独立しました。清風は己が仏立講の勢力拡大に専念し、1862(文久2)年に大津に法華堂(長松山仏立寺)を建てました。

 こうした清風の行動は他寺(本応寺・大津64ヵ寺)の反感をかい、1868(明治元)年に直訴され「切支丹の法を使った」という罪名のもとに入獄しました。そして、三途(地獄・畜生・修羅)不成仏の新義を立てない事、勝手に本尊を書写しない事、山命師命に背かない事、日熹の弟子になる事を条件に釈放されました。頼該門下の太田日信は華洛仏立講と協力して備後に一派を興すと、再び皆成派と久遠派が争い始めました。

 清風は1878(明治11)年、門下の御牧現喜と共に妙蓮寺日耀を助けて妙蓮寺の別派独立に意欲を燃やしました。しかし、1882(明治15)年には本門法華宗の五山(尼崎本興寺・鷲栖鷲山寺・岡宮弘長寺・京都本能寺・京都妙蓮寺)の和融が成立し、妙連寺と太田日信は妥協して妙蓮寺の別派独立はなりませんでした。清風の別派独立への専念は、自らの講内部にも波及し、分派が盛んとなっていきました。この為、清風は一時身を引き、1890(明治23)年に大津において講内の改革を図ろうとしましたが、大阪玉江組の招きに赴く途中の淀川で横死し、真っ黒な死相であったといわれます。死後は日扇と呼ばれました。

 日扇の死に疑いを持った幹部は先に折伏を受けていた日蓮正宗に次々と改宗し、関西で仏立講は壊滅同様となりました。しかし、そのほとぼりが醒めた頃、日教が影響の少ない関東に進出し、京都の宥清寺を本山に東京渋谷の乗泉寺を根城にして、邪義を弘めました。

 開祖を日隆、開導を日扇とし、本尊は日蓮聖人奠定の法華経本門八品の教説に基づく大曼陀羅と称した日扇書写の金丸本尊を拝み、教義は法華経本門八品(涌出品~嘱累品)に顕説され上行菩薩に付嘱された要法・南無妙法蓮華経を信仰の本源とし、「南無妙法蓮華経」(題目)を信心口唱し自他平等の観念になることに努めるとしています。しかし、この八品は妙法の末法流通のため、地涌の菩薩への付嘱の儀式を明かしているに過ぎません。付嘱の正体である本尊と仏の極説は寿量品に有ります。不相伝の日隆や日扇は、たとえ本迹の勝劣を立てても文上脱益に執着し、文底下種の法門は知るよしもありません。大聖人を単に上行菩薩としてしか見ていません。根本の本尊に迷える宗であり、大聖人の御正義とは全く相反します。

 黒衣をまとった僧侶が信者をまわり、信者は拍子木を叩いて仏前に多量の水を供え、不幸があるとこれを飮んでいます。

   

   

(教派神道の発生)

 神社を中心とする神道には、特定の教祖さえ無く教典も無いのが普通でした。ところが中国語に翻訳されたキリスト教の聖書が入ってきて強い影響を与え、加えて儒教(朱子学)や仏教の刺激を受け、盗み取って教義体系を整えることが大流行し、現世利益を説く色々な教派が生じました。特に平田篤胤による神道は、尊皇論の背景として世の流行思潮となり、明治維新の廃仏毀釈の運動の源流をなしました。

 明治時代に入って天皇主権の必要上、神道が利用され一躍に国教的地位を勝ち得ました。伊勢神宮を中心とする官・国弊社の制度が創られ祭政一致の原則により一切の費用は官公庁から支出されました。

 仏教は廃仏毀釈運動によって衰亡し、弾圧を恐れて神道との融和を図るのさえ出てくる始末となりました。

 政府が公認した教派神道(13派)は、伊勢神宮(神社本庁)・東京招魂社(靖国神社)を別格に

   

 古神道中心教派

   純神道系出雲大社──────出雲大社教

       神道本局──────神道大教

   儒教系──神道大成派─────神道大成教

   

 古神道に外来宗教を加味する教派

   儒教系───────神道修成派

   山岳系───────御岳教・実行教・富士一山講社(扶桑教)

   禊系────────吐菩加美講(神習教)

   

 教祖中心系教派

   純神道系──────神理教

   禊系────────禊教

   農民系祈祷・禁厭──天理教・金光教・黒住教                  

があります。

 

 

 

    

 

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                (完) 

 

 

 

 

【参考文献】

邪教集団・創価学会:隈部大蔵、室生忠著:月刊ペン社:1975

創価学会の野望:内藤国夫:日新報道:1977

真実の証明:阿部日顕:日新報道:2001

絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007

池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002

再び、盗聴教団の解明:山崎正友:日新報道:2005

創価学会と「水滸会記録」:山崎正友:第三書館:2004

創価学会・公明党の犯罪白書:山崎正友:日新報道:2001

信平裁判の攻防———続々「月刊ペン」事件:山崎正友:第三書館:2002

法廷に立った池田大作——続「月刊ペン事件」:山崎正友:第三書館:2001

「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001

懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994

懺悔滅罪のために!:原島嵩、山崎正友:慧妙編集室:2007

池田大作の素顔:藤原行正:講談社:1989

私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五十年:矢野絢也:講談社:2009

黒い手帳 創価学会「日本占領計画」の全記録:矢野絢也:講談社:2009

闇の流れ 矢野絢也メモ:矢野絢也:講談社:2009

創価学会 もうひとつのニッポン:島田裕己、矢野絢也:講談社:2010

池田大作の品格 part2:小多仁伯、小川頼宣:日新報道:2009

池田大作の品格:小多仁伯:日新報道:2007

カルト創価の終焉:福本潤一、小多仁伯:日新報道:2010

創価学会・公明党「カネと品位」:福本潤一:講談社:2008

池田大作・創価学会の脱税を糾弾する:竜年光:日新報道:1994

創価学会からの脱出:羽柴増穂:三一書房:1980

邪教集団・創価学会:室生忠、隈部大蔵:月刊ペン社:1976

変質した創価学会:蓮悟空:六芸書房:1972

反人間革命:段勲:リム出版:2005

誰も知らない創価学会の選挙:北川紘洋と五月会:はまの出版:1995

池田大作・幻想の野望———小説「人間革命」批判:七里和乗:新日本出版社:1994

池田創価学会の真実:戸口浩:日新報道:1992

実録 創価学会=七つの大罪:吉良陽一:新日本出版社:1986

小説 聖教新聞:グループS:サンケイ出版:1984

これが創価学会だーーー元学会幹部たちの告白:植村左内:あゆみ出版:1970

司法に断罪された創価学会:乙骨正生:かもがわ出版:2009

公明党=創価学会の真実:乙骨正生:かもがわ出版:2003

公明党=創価学会の野望:乙骨正生:かもがわ出版:1999

蒼碧集(1~11)法華講員の体験談集:理境坊所属妙観講 広報部:暁鐘編集室

創価学会のいうことはこんなに間違っている:日蓮正宗法義研鑽委員会:大日連出版:2008

創価学会は「破仏法」の新興宗教:島田正人:第三書館:2010

破折:島田正人:日新報道:2006

民族化する創価学会 ユダヤ人の来た道を辿る人々:講談社:2008

公明党・創価学会の真実:平野貞夫:講談社:2005

公明党・創価学会と日本:平野貞夫:講談社:2005

池田大作「権力者」の構造:溝口敦:講談社:2005

池田王国の崩壊:永島雪夫:リム出版:1992

人間革命をめざす池田大作 その思想と生き方:高瀬広居:有紀書房刊:1965

創価学会とは何か:山田直樹:新潮社:2004

創価学会:島田裕己:新潮社:2004

池田大作「権力者」の構造: 溝口敦:講談社:2005

イケダ先生の世界:ベンジャミン・フルフォード:宝島社:2006

創価学会Xデー:島田裕己、山村明義、山田直樹、溝口敦 他:宝島社:2008

となりの創価学会:別冊宝島編集部:宝島社:2008

池田大作なき後の創価学会:島田裕己、山村明義、山田直樹、溝口敦 他:宝島社:2007

お笑い創価学会 信じる者は救われない:佐高信、テリー伊藤:光文社:2002

創価学会解剖:朝日新聞アエラ編集部:朝日新聞社:2000

カルトとしての創価学会=池田大作:古川利明:第三書館:2000

シンジケートとしての創価学会=公明党:古川利明:第三書館:1999

システムとしての創価学会=公明党:古川利明:第三書館:1999

アメリカの創価学会 適応と転換をめぐる社会学的考察:栗原淑江:紀伊國屋書店:2000

タイム トウ チャント イギリス創価学会の社会学的考察:中野毅:紀伊國屋書店:1997

家庭内宗教戦争:美濃周人:山手書房新社:1992

日蓮入門 現世を撃つ思想:末木文美士:筑摩書房:2010

完全教祖マニュアル:架神恭介、辰巳一世:筑摩書房:2009

法華経入門:菅野博史(かんのひろし):岩波新書:2001

日蓮の本 末法の世を撃つ法華経の予言:学習研究社:1993

忘れられた殉教者 ——日蓮宗不受不施派の挑戦——:奈良本辰也、高野澄:小学館:1993

「法華経」を読む:紀野一義:講談社:1982

法華経の奇跡:謝世輝:KKベストセラーズ:1984

信じない人のための「法華経」講座:文藝春秋:2008

日本「霊能者」列伝:蓮見清一:宝島社:2008

「救い」の正体:別冊宝島編集部:宝島社:2008

心に狂いが生じるとき ——精神科医の症例報告——:岩波明:新潮社:2011

精神障害者をどう裁くか:岩波明:光文社:2009

狂気という隣人 ――精神科医の現場報告――:新潮社:2007

悪魔が殺せとささやいた ――渦巻く憎悪、非業の14事件――:「新潮45」編集部:新潮社:2009

精神鑑定 脳から心を読む:福島章:講談社:2006

犯罪精神医学入門:福島章:中央公論新社:2005

人格障害の時代:岡田尊司:平凡社:2004

人格障害かも知れない:磯部潮:光文社:2003

パーソナリティー障害:岡田尊司:PHP新書:1998

精神病:笠原嘉:岩波書店:1998

精神鑑定の事件史:中谷陽二:中公新書:1997

憑依の精神病理:大宮司信:星和書店:1993

天才の心理学:E.クレッチュマー:内村祐之訳:岩波書店:1982

病跡学とオカルト:伊東高麗夫:勁草書房:1980

天才の秘密:伊東高麗夫:勁草書房:1979

初期分裂病/補稿:中安信夫:星和書店:1996

初期分裂病:中安信夫:星和書店:1994

分裂病症候学——記述現象学的記載から神経心理学的理解へ:中安信夫:星和書店:1991

対談 初期分裂病を語る:中安信夫:星和書店:1991

DSM−Ⅳ−TR:精神疾患の分類と診断の手引き:医学書院:2007

統合失調症の診療学:岡崎裕士:中山書店:2002

気分障害の診療学:神庭重信:中山書店:2002

老年期の幻覚・妄想:松下正明:中山書店:2002

リエゾン精神医学とその治療学:山脇成人:中山書店:2002

精神疾患における認知のメカニズムとその対策:武田雅俊:中山書店:2002

精神科治療の語りと聴取:加藤敏:中山書店:2002

病の自然経過と精神療法:新宮一成:中山書店:2002

          etc.

 

 

【最後に、一番大事なこと】

 創価学会の改革は不可能に近い。現実問題として不可能である。日蓮正宗法華講に入ることです。

 創価学会の改革は夢物語に近い。現実問題として不可能である。日蓮正宗法華講に入ることです。

 以前、選挙の度に「謗法選挙」と言うビラを配っていた創価学会内部改革派憂創同盟の人が癌で亡くなられたことは、創価学会の謗法の垢が強く染み込こんだ御本尊に祈っていたからであろう。どんなに創価学会内部改革派憂創同盟という気概を強く持っていても、謗法の垢が強く染み込こんだ御本尊に祈ると悪いことが起こる。これは筆者も経験している。

 日達上人の御本尊であっても謗法の垢が強く染み込こんだ御本尊は日蓮正宗の住職から“お清め”を受けないと悪鬼が去らない。悪鬼の住む御本尊にどんなに創価学会内部改革派憂創同盟という強い気概で祈っても悪いことが起こる。“魔”の御本尊と異なり、日達上人の御本尊に祈ると強い歓喜が湧くが、“お清め”を受けない限り、悪鬼が住んでいる。このことは十分注意しなければならない。もちろん、平成五年から配られた日寛上人の御本尊は“魔”の御本尊であり論外である。

 また、本人も勧誡式という御授戒のようなものを受けないといけない。強く謗法化してしまった創価学会の垢を払うためである。

 創価学会に残っていては不幸になります。日蓮正宗法華講に入ることです。

 重ねて書く。創価学会に残っていては不幸になります。日蓮正宗法華講に入ることです。

 

 

【あとがき】

 これは出版することにする。広宣流布のためだ。何処かの出版社の方、宜しくお願いします。適当に編集・推敲してください。もう一度書きます。適当に編集・推敲してください。

 書いた時期が様々であるため重複しているところが多いことお許しください。3年ほど前に書いたものも多く混じっております。2009年頃に書かれたものが多い。

 なお、これはあくまで匿名で出版することにします。自分が書いたものとは分からないようにするようにします。その点、宜しくお願いします。匿名出版です。印税などは要りません。勝手に推敲、訂正などお願いします。

 匿名は創価学会内部改革派憂創同盟残党とします。

 なお、自分にはお金がありません(熱心な創価学会員である女房にお金を握られています)。自費出版も無料でないと無理です。

 正義感のある出版社の方、無料で出版を宜しくお願いします。たくさんの苦しむ無知な創価学会員を救うためです。

 この本は出版されなければならない。何故なら、池田大作の悪を知らしめるためだ。池田大作の悪を知らない素朴な創価学会員が余りにも多過ぎる。そのためだ。池田大作の悪を知らしめさないとあまりにも素朴過ぎる無数の創価学会員が可哀相である。純朴過ぎる創価学会員を幸せの道へと導くためだ。

                                       (3月6日2010年記す)

 

 

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 これは幻の書である。

 ここに書かれていることは夢幻である。

 これは一つの文学作品である。宮殿革命は不可能である。

 重ねて書く。これは一つの文学作品である。宮殿革命など考えては居ない。

 もう一度、重ねて書く。これは一つの文学作品である。

 この本は夢幻のように消えてゆく。

 ただ、インターネット上に夢幻のように置いておく。

 

 人生とは仏法上の厳しい因果律に則ったものなのでしょうか。それとも夢幻なのでしょうか。私には分かりません。

 私は隠れ法華講として大人しく生きてゆこうと思います。安穏とした生活を私は望んでいるのです。卑怯かもしれません。しかし私は安穏とした生活を望んでいるのです。

                          作者:夢幻(ゆめまぼろし)

 

 

 

 

 隠れ法華講員として生きていると元気になる。生きている一瞬一瞬が歓喜となる。しかし、自分は安穏な生活をも望んでいるのです。迷い煩悶しているのです。

 日如上人様、自分は法華講に入りたいですが家庭的に入ることが出来ません。妻の一族が狂信的な創価学会員です。妻の両親は昭和30年からの創価学会員で支部長を長年やってました(早く死ね!)。妻を改心させるために全力を注がねばなりません。でも容易いことではないと思います。

 可愛い幼い子供とこのまま暮らしたい。その一心です。また、その子供を自分の親が溺愛しています。親孝行をしなければなりません。

 そこに立ちはだかっているのが家庭内宗教問題です。これはあまりにも大きな大きな問題として立ちはだかっています。どうしたら良いか、全く苦しんでいます。

 妻はあまり熱心ではありません。しかし創価高校卒です。友達は創価学会員しかいません。周囲の創価学会員の刷り込みが最近は激しいです。妻も他の3人の兄弟のように狂信的な創価学会員になる可能性は大きいです。

 

 隠れるんだ。隠れるんだ。隠れ法華講員として過ごすんだ。隠れ法華講員として過ごすんだ。

 

 

                     (完)

 

 

 煩悶しています。

 このホームページはあなたが造ったことにしてくれないでしょうか? パスワードも教えます。というよりコピーして新しいところに造ってください。

 自分の極めて危険な状態を案じてください。

 そして僕は隠れ法華講員として慎ましやかに生きてゆく…しかし、法華講員として戦うべきだ。

 創価学会にも情があることを期待しています。

 自分がこのホームページの作者であることが知れると拙いのです。家庭が崩壊します。(これは大袈裟でした)

 その心配で一度はこのホームページを削除しました。

 このホームページの作者が自分であることが知れると自分は破滅です。(破滅は大袈裟でした)

 しかし今までこのホームページが問題にならなかったのは不思議だ。ヤフーの知恵袋で盛んに宣伝しているのですけど。

 自分は幻のように消えます。

 自分は幻となります。

 それともこのホームページを幻のようにインターネット上に残しておくか?

 これからは手を付けずに。

 自分は煩悶しています。

 信仰弱い自分なのです。

 何も手に着きません。心配ばかりで。

 再び、このホームページは消そうかと考えています。

 このホームページが価値があるか?という考えがあるのです。広宣流布のために。

 しかし正義感がそうはさせないのです。

 まだ幼い可愛い二人の子供がいます。その子供を自分の親が溺愛しています。離婚することが許されないのです。

 

vvv23274@yahoo.co.jp

 

         

 

http://sky.geocities.jp/mifune008/

 

【補記】

 これは転載自由です。池田大作の悪を知らしめるために積極的に転載、コピーして掲載してくださることを希望します。但し、出典は明記してください。

 創価学会による日本制覇の危険性がすぐそこに迫っているのです。

 

 適当に編集して出版して下さい。

>>三船小仏は体調悪く、推敲、編集することが困難です。<< 

 

 

http://sky.geocities.jp/mifune008/

vvv23274@yahoo.co.jp