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日蓮正宗あるいは日蓮宗三船派
三船小仏青年
激しい精神的葛藤でした。
創価学会の御本尊は“魔”の御本尊……これは否定しようのないことです。
日蓮正宗の御本尊に向かって題目を上げたときの歓喜と全く異なります。創価学会の御本尊には悪鬼が入っているのです。
創価学会内部改革派憂創同盟が言っていたことは真実です。創価学会員に不幸が起こるのはトップが池田大作であるからです。
そのため、日蓮正宗に入ることを考えました。しかし、教義的矛盾は否定しようありません。また、旧態依然とした教義に凝り固まっています。また、末端は美しいですが、中央は腐敗しているとも言われています。中央のことは末端の私には分かりません。
日蓮正宗の清々しい歓喜は素晴らしく、創価学会の濁りきった歓喜とは全く異なります。そのため今も、日蓮正宗に入ることを考えても居ます。創価学会製の御本尊は“魔”の御本尊です。否定できない真実です。
ところが、日蓮正宗の御本尊……実家の御本尊は日蓮正宗の御本尊である……歓喜が全く異なります。創価学会はこれから加速度的に疲弊してゆくことは確実と思います。学会会館で大きな御本尊に向かって勤行唱題しても心は満たされません。しかし、日蓮正宗の御本尊に向かって勤行唱題すると清々しい歓喜に心は満たされます。
日蓮正宗で元創価学会の純朴な人たちと一緒に信仰をする……素晴らしいことです。命を賭けた友情が再び生まれるでしょう。迷っていることは真実です。
信仰は理屈ではありません。信仰は感性です。ところが日蓮正宗は理屈で今も折伏をしています。日蓮正宗には大きな改革が必要と思います。
昨夜、苦しみの中で「戒壇の大御本尊、戒壇の大御本尊」と心の中で唱えると言いようのない安心感に包まれることを強く実感しました。題目を唱える必要がありませんでした。後世の偽作説は否定しようがありませんが、仏の魂が入っていることは真実です。
池田大作教になっている創価学会にはもはや未練は全くありません。創価学会は池田大作というヤクザを信仰しています。池田大作は貧しい創価学会員から寝ている老人の布団を引きはぐ行為をしてきたヤクザです。師匠は須山秀吉氏です。戸田城聖氏を馬鹿にしていました。そして信仰心は全くなかった。
一人で信仰を貫くことは難しく、日蓮正宗に正式に入ることを考えています。迷っています。
日蓮正宗に正式に入ることが無難な気もする。
御本尊はどうする……これが最大の問題です。どの御本尊を印刷しようか、全く迷っています。
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創価学会のうつ病性障害など精神障害の発症は全く減っていない
平成になってから創価学会員のうつ病性障害の異常大量発生が創価学会本部を揺るがした。それまでは統合失調症、不安障害が多かったが、うつ病性障害が多くを占めるようになった。
あまりに東京の創価学会本部職員および家族にうつ病性障害が異常発生するため、週一回、創価学会員専門の精神科クリニックから精神科医が来るようになった。患者は隣接する聖教新聞社からも来ていると言われる。
薬を処方することはクリニックの申請を保健所にしなければいけないため、処方は行われていないだろう。
昭和50年頃、未だ「創価学会から訴訟起こされる」と精神医学学術専門雑誌が怖れる以前、折伏大行進時代に創価学会員から「急性精神病状態」すなわち「統合失調症の急性型」が異常発生し、精神科病院はその急患の入院でおおあらわになっていたことが詳細に述べられている論文があった。
私が創価学会員であるため、私の上司が心配して創価学会の信仰を辞めさせようと私の机の上に置いていたのである。
ところが、この論文を掲載しているはずの精神医学学術専門雑誌のその号が東京の国立図書館、大阪の国立図書館にも無いのである。誰かが、その号だけを、お腹の中に隠したりして持って出てしまったと考えられる。
個人の精神科病院の図書館、あるいは医学部の図書館から、コピーするしか無いであろうが、見つけ出すのは至難を極める。国立図書館のように整理が為されていないからである。
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思えば私は以前にも日蓮宗三船派を造ることを決意していた(以下、そのまま引用)
「信じ切れるものがないならば、造れば良いではないか」…………三船小仏はそう決意し、日蓮宗三船派を造ることを決意しました。
思えば、激しい精神の葛藤でした。もう、宗教は信じ切れないと、政治の世界に関心を持ち始め、最終的にはベンジャミン・フルフォード氏に師事したつもりになっていました。しかし、自分は政治家には向かない…………そういう激しい精神の葛藤でした。
三船小仏はそうして死の病床より起き出で、立宗宣言を決意しました。お墓の中より起き出で、もう批判ばかりに終始することは辞め、自分で自分の派を造ることを決意しました。三船小仏、お墓の中より、立宗宣言をします。
信じ切れる派が日蓮宗に有るかも知れないと、様々な日蓮宗の派を研究しましたが、無いような気がしました。何処も矛楯を持っていると考えざるを得ませんでした。
日蓮聖人よりも日蓮上人が、どうしても正しいのです。日蓮上人は生涯、日蓮上人のつもりで有られました。日蓮聖人、日蓮大聖人は、どうしても後世が造った名称でしか有り得ないのです。
見延派日蓮宗が理論的には最も正しいような気がしていましたが、見延派日蓮宗は宗教的に堕しています。鬼子母神などを拝んだりしているようでした。
日蓮上人を信じると「生きる力が湧いてくる、歓喜が湧いてくる」…………この不思議な否定しようもない現実に、日蓮上人を否定し切ることができないで悩んでいました。「信じ切れるものがないならば、造れば良いではないか」…………三船小仏はそう決意し、日蓮宗三船派を造ることを決意しました。
「三船小仏、日蓮宗三船派を造ることを決意する」…………この大決意に三船小仏は達したのです。
「宗教は理屈ではありません。宗教は感性です」…………私は一貫してこのように主張してきました。法華経は釈迦が造ったものではないことは学術上、確立されており、批判することは不可能です。しかし、法華経は釈迦が造ったものになっています。宗教は理屈ではないからです。
「生きる力が湧いてくる、歓喜が湧いてくる、生きている一瞬一瞬が歓喜となる」「過去には医学上、不治の病が多数、奇跡的に確かに治癒していた」…………これは否定しようにも否定できないことです。「信仰は医学を超える」…………これも否定しようにも否定できないことです。
昭和二十年代、三十年代、四十年代に、医学より見放された難病が日蓮正宗創価学会の信仰により治癒していたことは歴史的真実です。否定の仕様がありません。池田大作でさえ、死ぬはずの重症な結核が奇跡的に治癒しています。
他の死ぬはずの重症な結核が奇跡的に治癒した例は非常に多いのです。
「医学はオカルトである」…………これはアメリカの著明な医学者が語った有名な言葉であります。医学とはオカルトなのです。何故ならば、地球上の様々な生物の存在は進化論では説明不可能なのです。神のような、遥かに超越した存在が、造ったものとしか説明不可能なのです。動物は植物は数億年を掛けて偶然に出来たものでしょうか? 偶然に出来たものではありません。誰かが超高度超精密な研究室のような処で造ったものとしか説明不可能なのです。「進化論」は誤っている、これは常識なのです。生物は神のような超越した存在が造ったものということは常識なのです。
五時八教判は確かに学術的に間違っています。法華経は釈迦が説いたものではなく、釈迦の死後、五百年から六百年頃に出来たものということが学術上の常識です。これは否定の仕様がありません。
しかし、信仰は理屈を超越した処に存在するものです。信仰は現在の科学では説明不可能でしょう。信仰は人の心を安楽にもし、鎖で縛りもします。信仰は限りない力を生みます。信仰は悪い意味でも良い意味でも限りない力を人間に与えます。「宗教は理屈ではありません。宗教は感性です」…………人智と理屈を超えた処に存在するのが宗教です。
日蓮上人の時代に戻るべきです。その頃は五時八教判が常識でした。また、日蓮上人の御書全集には後世の信者が創作したものが非常に多数、混じっていることを認識するべきです。どれが日蓮上人の書かれたもの(正撰)で、どれが後世の信者が創作したもの(偽書)か、判別するべきなのかも知れませんが、良い意味での(偽書)も多く、日蓮上人が書きたくても書けなかったものを後世の信者が書いたと考えて良いものも多数あると思います。(正撰)と(偽書)の判別は不要な気もします。(正撰)にも日興上人が書き加え、書き換えたものが多数有るとも言われています。鎌倉時代、紙は非常に高価で貴重品でした。録音機、ビデオもありませんでした。日蓮上人の真意を知ることは困難を極めると言っても過言ではないと思います。
池田大作批判は当然のことです。彼は日蓮上人の真意をかなり曲げていると言って良いと思います。彼は日蓮上人の真意を知ることは到底不可能であり、信仰心もありませんでした。池田大作批判は強く続けます。私のホームページ(創価学会内部改革派憂創同盟)を参考にして下さい。
池田大作批判が強く起こらなければ、創価学会が蘇生することは不可能であり、創価学会が衰退して行くことは当然です。創価学会の歴史から池田大作を完全に排除することが創価学会が蘇生するためには絶対的に不可欠です。
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ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
日蓮正宗や、その信徒団体であった創価学会が、日蓮遺文の教条主義的解釈から「日蓮原理主義」と揶揄される程の独善的・排他的教義を構築していることは周
知の事実ですが、創価学会が「御書根本主義」を掲げる以上は、その「文証」たる日蓮遺文の真贋如何が論議されることは必然の道理と言えます。
日蓮遺文集の中で最も権威有る書と言われる『昭和定本遺文』に収録されている日蓮遺文の総数は434編に及びますが、その内日蓮真撰とされるものは222編・真偽未決が157編・偽撰が55編であると一般では見做されています。
しかし、日蓮真撰とされているものの中にも偽撰の疑いが濃厚なものもあり、文献学上は真偽未決の殆ど全てが偽撰と見做されていますので、実に現存する日蓮遺文の粗半数が「偽書」だと言う事です。
文献学の分野に於ける真贋判定の技術は日々進歩していますので、これから益々、日蓮や彼の高弟(六老僧)の遺文に対する学術調査は進展することでしょう。
さて「偽書は、どういう理由で作られたのか?」という御質問ですが、日蓮遺文に関して日蓮遷化後の「六老僧」の弟子達が、自流派の正統性を主張せんが為に、宗祖や派祖を騙って遺文を捏造或いは改竄したと見たほうが自然だと思います。
中には、信者の信仰心の鼓舞を目的とした悪意の無いものもあれば、自宗にのみ「宗祖日蓮の佛法」が相伝されたかの如く偽装する悪質なものまで様々です。
日蓮正宗や創価学会が自宗にのみ「宗祖日蓮大聖人」の佛法が相伝されたという「唯授一人血脈相承」の「文証」となる「血脈書」すなわち『百六箇抄』・『本因妙抄』は明らかな偽書です。
これらは日蓮真筆が無く、『本因妙抄』には大石寺日寺の写本が伝わっていますが、写本の経緯が詳らかならず、加えて筆跡が他の日時筆のものと相違が見らるので時代写本とは認められません。
また、文体に於いても後世の多くの加筆の形跡が認められ、資料としての信憑性はありません。
その他、『二箇相承』(『身延相承書』・『池上相承書』の総称)も、同時代の他の資料からは全く痕跡が認められず、写本と伝わるものも、その経緯が曖昧なため、多分に京都での布教の便宜上、興門流が捏造した可能性が指摘されています。
したがって、「日蓮=久遠元初自受用報身如来」とする「日蓮本物論」も「唯授一人血脈相承」なる大石寺歴代住職のみが「正嫡」とする根拠は「文証」上は皆無と言ってよいでしょう。
現在、創価学会教学部は、この問題についての外部からの問い合わせについては一切応じていません。
日蓮正宗や創価学会が唱えていた教義は日蓮の教えそのものではなく、後世に捏造されたもののようです。
その兆しは派祖日興の遷化直後からあり、やがて5代日時或いは9代日有の時代には、少なくとも「日蓮本物論」の原型は形成されていたと見てよく、殊に9代
日有の時に他門流(要法寺系)の僧であった左京日教あたりが、中古天台流の相承観を大石寺に移入して「唯授一人血脈相承」なる神秘的な相承観の基礎を築 き、やがては江戸時代中期の26代堅樹院日寛が完成させたと見られています。
殊に日寛は日蓮が弘安二年十月十二に図顕したとされる「楠板彫刻本門戒壇大本尊」を日蓮一期の究極の曼荼羅であると評していますが、その学術的な根拠は無
く、元日蓮正宗信徒らによって「贋作とされる問題提起」まで出される始末ですから、事によると日蓮正宗自体の宗教的な立場そのものを危うくしかねない情況 のようです。
この際、日興遺文について簡単に触れておきます。
富士門流の「奥義書」と評される『就註法華経口伝』(『御義口伝』)は、富士門流の書物ではなく、日蓮遺文や日興遺文としては学術上は扱われていません。
最古の写本と伝わるものは日隆門流の日経が写本したとされるものであり、引用文献に関しては一致派日像門流の円明日澄の『法華経啓運抄』が最古のもので、いずれも日蓮遷化200年以降のものであり、富士門流には日興真筆はおろか時代写本すらありません。
所謂『御義口伝』なるものは、日蓮の『法華経』講義を弟子の日興が筆録したものであるかのように伝承されていますが、その痕跡は皆無なのです。
また、多くの信者が日興の著書と信じている『五人所破抄』・『富士一跡門徒存知事』などは、日興の筆ではなく、その弟子の三位日順・寂仙房日澄が書いたも
のとされていますが、日代写本と伝えられているものでも、その允可書に不審な点があり、後世に写本した京都要法寺の広蔵院日辰ですら日代の筆跡であること に疑義を呈しています。
【お奨め図書】
『真贋の科学』「計量文献学入門」
同志社大学教授 村上征勝 著
(朝倉書店)
ご参考まで。
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仏教における聖人(しょうにん)の敬称についてお伺いいたします。ウィキペディアでは、日蓮・法然・親鸞の三人の高僧を「聖人」と呼ぶことがあると記載されていました。
例えば浄土宗では「聖人様」と言えば勿論法然聖人のみですし、浄土真宗では親鸞聖人のみでお師匠の法然でさえ別の敬称(上人)で呼んでいます。
日蓮聖人系の宗派を信仰されている方々は何故日蓮大聖人とお呼びになるのでしょうか?
広く仏法に精通されており他の聖人と呼ばれる方々よりずっと優れているからといえばそうなのですが、それならば親鸞さんや法然さんを聖人とお認めになられて法然聖人とお呼びになられる事があるのでしょうか?
rsd37264さん
編集あり2010/2/909:11:12
「聖人」(しょうにん)と呼ばれるに値する者について、大乗経典や諸論書には次のように規定しています。
『涅槃経』巻十一
「何等の故を以て、佛菩提を名つ゛けて聖人と為すや。佛菩薩は聖法・聖戒・聖定慧・七聖財・七聖覚を有るが故に、聖人と名つ゛く」
(大正12-433・書き下し)
また、アビダルマ佛教の『俱舎論』には「四向四果」(預流・一来・阿那含・阿羅漢)を聖人とし、大乗佛教の『成唯識論』には大乗の菩薩の位で、初地、通達位以上を聖人とすると説かれています。
我が国に於いて「聖人」と称している場合は、以上のような経論に必ずしも依拠することなく、尊敬されている僧侶に対する敬称として用いられています。
聖人は上人と同じ意味合いで用いられていますが、一般には上人よりも聖人の方が重く見られています。
要するに、日本の場合には祖師達(諸上人)の中でも、その人自身が単に高僧と言うにとどまらず、信仰の対象にまでなっているような場合は聖人と呼ばれている場合が多いのです。
日本の佛教の特色の一つに「祖師信仰」がありますから、浄土宗では「法然聖人」、浄土真宗では「親鸞聖人」と言うように、飽く迄も自宗の開祖に「聖人」の尊称で呼んでいるのです。
勿論、親鸞は法然の弟子でしたから、真宗も敬意を表して「法然上人」の呼称を用いますが、飽く迄も親鸞の教えを中心にしているので「親鸞聖人」と呼んでいるのです。
日蓮宗各派では「日蓮聖人」と一般的には呼ばれていますが、「日蓮大聖人」と呼ぶ場合には二通りの意味が有るのだそうです。
即ち日蓮宗各派で「日蓮大聖人」と呼ぶ場合には「偉大な聖人」という意味合いであり、「日蓮大菩薩」と同義ですが、日蓮正宗系の教団では聖人を仏陀の意味に解して日蓮を末法の「御本佛(釈尊よりも偉い根本佛)」として「日蓮大聖人」と呼んでいるのです。
(仏様の中の仏様という意味合い)
さて、日蓮宗や日蓮正宗では法然や親鸞は仏の教えを誤って広めた人達であるとして「聖人」とは認めていないのです。
特に日蓮正宗では南都六宗・天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・黄檗宗等の自宗以外の全ての宗派は、信者を地獄に堕す「邪宗教」と言って否定しています。
だから、法然や親鸞に限らず、他宗の祖師達に「聖人」はおろか「上人」の尊称で呼ぶことは絶対にありません。
日蓮系の宗派には排他性・攻撃性はつきものですが、現在において日蓮宗各派の多くが、他の宗派を「他宗」として、その存在意義を一応は認めているのに対して、ごく一部の宗派では「邪宗教」として全否定している現状です。
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日蓮正宗の勧誘で、しつこく脅しかけられたのですが、悪質宗教なのでしょうか?
勧誘で、話を聞いて入らないと、悪いことが起こると、言われました。
妻が脅されて、入らされようとしました。
この質問は、活躍中のチエリアンに回答をリクエストしました。
rsd37264さん
編集あり2010/6/212:47:30
日蓮正宗は日蓮系の宗派の中では唯一カルト視されている佛教宗派です。
現在、ドル箱であった創価学会を破門した為、800万にも上る檀家が激減した為に、法華講という信徒組織を利用して「折伏」(しゃくふく)と称する執拗な勧誘に余念がありません。
彼らは、自分達の宗教を信じないと「良くない事が起きる」とか、話を聞かないと「罪障を積む」とか、果ては「地獄に堕ちる」等の脅し文句を使いますが、言っている事は全てマヤカシです。
絶対に接近しない方が無難です。
日蓮正宗は一応は伝統宗教に属し、古い由緒のある大石寺を総本山にしていますが、その実態は「自宗以外の宗教は全て邪宗教」と罵る、排他的・独善的な「日蓮原理主義」と揶揄される程のカルト的教団です。
彼の創価学会がフランスでセクト/カルトの指定を受けた際に、日蓮正宗の排他的・独善的な教義が取り上げられています。
「妻が脅されて、入らされようとしました」
人に脅迫観念を植え付けて勧誘するような宗教に、ろくなものはありません。
日蓮正宗は勧誘活動を「法華講」(ほっけこう)と言う信徒団体に主に任せていますので、宗教被害は信徒団体名で挙がることが多く、伝統宗教の皮を被っていますので、他の新興宗教よりも騙されやすい特徴があります。
入信すると、神社にも参詣できなくなりますし、クリスマスパーティーにも行けなくなります。
その排他的な教義は以下のサイトを御覧ください。
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/
宗教被害[日蓮正宗@Wiki]
http://www11.atwiki.jp/anti-religion/pages/17.html
【追記】
相手が奥さんに「日蓮正宗」と名乗ったのであれば日蓮正宗でしょう。
法華講の中でも妙観講は見境なく勧誘するそうです。
今、彼らは以下のような「鼓舞歌」を歌っているそうです。
http://www.myokan-ko.net/menu/kobu/kobudemo.htm
「宗教には正邪があり、浅深勝劣」があるとして、自宗教が「最高最尊」とする思想は文化人類学にいう「自文化中心主義」です。
多様な価値観や文化を認めないというエゴイズムが宗教に起因する様々な確執や軋轢を生み、戦争や不当な人権弾圧の温床になっているのです。
日蓮正宗の攻撃性は宗祖日蓮の遺文を絶対視し、一種の原理主義に陥っている事にあります。
現在、学術的にもこの宗派の教義形成の歴史が解明されつつあり、日蓮正宗の教義は宗祖日蓮や派祖日興の教学思想とは異なるものである事が解明されつつあります。
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rsd37264さん
2010/12/1909:08:42
鎌倉時代の宗教家である日蓮(1222年~1282年)は鎌倉新仏教のラストランナー的な存在だったので、自分独自の宗派を樹立する為には、旧来の仏教は言うに及ばず、他の新仏教全てを排斥する必要に迫られていたと言えます。
日蓮は「真言亡国・律国賊・念仏無間・禅天魔」という『四箇の格言』を掲げて激しく他宗批判を展開したのですが、では他の宗派の祖師方が全く他宗派を批判しなかったかと言うとそうではありません。
禅系の祖師方は浄土系の宗派には批判的でしたし、旧仏教側も禅系や浄土系を権力と結託して迫害したりもしています。
勿論、浄土系だって旧仏教側の修行の在り方を「聖道門」であり得道できない等と言って批判しています。
ただ、日蓮の場合には歴史的な立ち位置が最後だった事もあって、際立ってしまったと言うべきでしょう。
728年も前に世を去った日蓮が、今、日蓮門下の何処の宗派を評価しているかという問いには答える術がありません。
日蓮が弘安五年十月十三日(西暦換算1282年11月21日)に死亡して肉体と意識は崩壊しているので、既に消滅した者に聞く術はなく、日蓮系の各宗派
は、それぞれに派祖の主観的な日蓮観に依拠して宗派を立てているので、それらの中で何処の宗派が果たして日蓮の意図に合致しているかを云々するの容易でな いばかりか無用な確執を生む恐れがあります。
私は、他宗派を低く評価する傾向性は偏に日蓮系(法華系)だけに認められるものではなく、各宗派の唱える教義に拘泥する態度に由来するものと考えます。
仏教のパイオニアである釈尊は、如何なる宗教を奉じる人でも、また如何なる民族であっても、認めざるおえない理法を説かれたのであって、宗教の教義を説かれたわけではありません。
諸宗教や哲学の説く教義なるものは偏見であるとして釈尊はこれを排斥しています。
また、仏教で説く様々な教えもまた「方便」にほかならないのであります。
それは仮初めの筏(いかだ)のようなものであり、目的を達したならば捨て去らねばなりません。
筏である教法にしがみついているのは、単に言葉に対する執着に過ぎません。
700年以上も前に死んだ人間の言葉に執着して言い争うのは愚かなことです。
《釈尊の言葉より》
「『わたくしはこのことを説く』ということが、わたくしにはない。もろもろの事物に対する執着を執着であると、確かに知り、もろもろの偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ、内心の安らぎを私は見る。」
(Sn837)
ご参考まで。
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rsd37264さん
2010/12/1815:49:20
鎌倉時代の宗教家である「日蓮聖人」(1222年~1282年)の遺文には「文証(文献的)・理証(論理的)・現証(実態的)」の「三証」によって、他宗派批判を展開されましたが、その「現証」の一つに死者の死相や遺体の状態に言及した箇所が幾つも見られます。
貴方の言われている内容に最も近い日蓮遺文を以下に紹介します。
『千日尼御前御返事』(録内十九ノ六十一)
「女人の御罪は漆(うるし)の如し、南無妙法蓮華経の文字は白物(おしろい)の如し、人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちび
き)の石の如し、善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛(がもう)の如く、やわらかなる事兜羅緜(とろ めん)の如し」
本書簡は弘安二年(1279年)十月十九日に佐渡国の阿仏房日得の妻・千日尼に宛てたものです。
ただ、実際にそのような事が起こっていたかどうかは今となっては検証不能です。
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rsd37264さん
編集あり2010/12/1918:02:00
精神科医の三船先生にこんな事を言うのは”釈迦に説法”よりも酷い話かもしれませんが、恒常性(ホメオスタシス)を御存知ないのでしょうか。
先生は精神科医として創価学会員に鬱病患者が多い事実を十分に認識している筈です、そしてその原因についても。
慢性的な鬱病患者の場合には、鬱病患者は鬱病患者なりにその恒常性を保っているのです。
しかし、慢性的な鬱の状態から脱却しようとすると、紛いなりにも保たれていた恒常性が崩壊してしまうため、慢性鬱の状態よりも苦痛を味わう事になります。
まあ、これは一種の好転反応でしょうが。
その苦痛を克服しなければ、本当に慢性的な鬱からは解放されることはないと言えるのです。
貴方は創価学会が垂れ流す精神的麻薬の慢性中毒患者のようなものです。
その貴方が、”これではいけない”と決意して、その麻薬から手を切ろうとした瞬間から激しい禁断症状に襲われて、結局は”己心の創価学会員”の甘言に誑かされて、また麻薬を服用してしまったのです。
貴方の別の回答を見ましたが、古巣に舞い戻って貴方の精神は安堵感に浸っているのです。
お互いに惨めな疵の舐め合いをする創価学会員に貴方は心底馴染んでいるのですよ。
「日蓮聖人」の仰せられた「広宣流布」とは、真に主体性を確立した人間が社会に立派に貢献することであって、目先の御利益信仰を広めることでは決してないと思うのです。
せっかく多くの善智識に巡り会いながら、貴方は死王の領域を超えることが出来なかったのです。
貴方の言われる「創価学会内部改革派憂創同盟」なるものは、所詮は創価麻薬の中毒患者の妄想の産物に過ぎません。
その残党である貴方は、麻薬から手を切ることのできない患者が、麻薬からの脱却を訴えているようなものです。
惨めな負け犬の遠吠えのようなものです。
貴方の一連の行動は、如何に創価学会の施す洗脳が深層心理の奥底まで汚染しているのかを如実に示すものであるとともに、創価学会から脱会して良識を取り戻した方々が、如何に勇気と強靭な意志の力で、魔の領域を打ち破ったかを示して余りあるものでしょう。
まあ、そうしてウダウダと人生を浪費してくださいませ。”光陰矢のごとし”と申します。
あっと言う間に人生は過ぎ去ってゆくのですよ。
お大事に。
【追記】
三船先生、貴方は創価学会”狂宣部”じゃないのかね?(笑)
【usotukimeguさん】
「本門戒壇大本尊」の画像解析に使用された写真は由井一乗が提供して『日蓮上人』に使用されたものです。
ネット上に流出した奉安堂安置の同本尊と照合済した結果、映像が合致したのです。
正宗側がネット上に出している同本尊と「日禅授与之本尊」は縮尺補正ぜずに並べただけのものだから、反って嘘臭くなるのです。
仏眼寺の通称「飛び曼荼羅」といい「本門戒壇本尊」といい、日蓮図顕の本尊でないことは、曼荼羅評論家の阿部日顕氏がお詳しいようで。
雉も鳴かずば撃たれまいに。
日蓮正宗の人の決まり文句の登場ですね。すなわち「守文の徒」とかね。その程度しか言い返せないわな。
「縁遠い」ので結講ですよ。
私はただ、第三者の視点から回答してきただけですからね。
「依義判文」などという自家撞着の文献解釈は致しません。
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rsd37264さん
編集あり2010/12/2601:19:59
『大方廣仏華厳経』「盧遮那仏品」第二には以下のように説かれています。
「一一の塵の中に、一切の刹(くに)を現ず。譬えば幻化の如く、亦虚空の如く、諸の心業の力の、荘厳する所なり。
一一の塵の中に、衆生の数に等しき、諸の化仏の雲の、神力も自在なり、微塵の中に於て、善く仏刹を住するは盧遮那仏の法を現ずるも是の如し」
(旧訳・六十華厳より)
『華厳経』には一つの毛孔(毛穴)の中にも量り知れない多くの仏の国土が具わっているのであると説いています。
これは現象世界に於ける常識では考え難い事ですか、「法界」すなわち法(ダルマ)の領域の世界に於いてはそのように説くことができるのです。
法とは、現象世界の具体的事物を成立せしめるところの”ありかた”であると言えます。
「ありかた」である以上は、その法によって成立している現象世界の具体的事物と法とは次元が異なるものであると言える訳です。
鉛筆でも消ゴムでも、私達の眼前にある具体的事物は個々別々に存在している訳ですが、その”ありかた”の領域すなわち「法界」(法の世界)に於いては密接に繋がり合っていると言う事であり、互いに相手を必要として存在していることに気つ゛く筈です。
例えば、一粒の米は、物理的には単なる一粒の米でしかありませんが、法の領域すなわち具体的事物を成立せしめている”ありかた”の世界に於いては無限の宇宙をその内に包摂していると言えるのです。
なんとなれば、一粒の米には「一粒百行」と言われるように、稲を育てる人手が加わっていますし、その人には親兄弟があり、数え切れないほどの先祖の存在がある訳であり、また、社会や国は言うに及ばず世界中と繋がり合っている訳です。
また、一粒の米も一人の人間も、地球と太陽や月の恩恵を受けて成立していると言えますし、それだけではなく太陽系の他の惑星や銀河系、果ては無限の大宇宙の存在と関わって存在していると言える訳です。
また、時間的には無限の過去からの大宇宙の営みの中に銀河系が生まれ、その中に太陽系が生まれ地球が誕生し、約40億年の生命進化の果てに人類が誕生し、そして米を作る人と一粒の米の存在があるのです。
すなわち、一粒の米の中には時間的・空間的な大宇宙の全てが厳然と住していると言えるのです。
勿論、『華厳経』で説く「塵」とはサンスクリット語で「パラマーヌ」のことであり、ほぼギリシャ哲学に於ける「アトム」と同義であると言えましょう。
極微の中に極大がある、否、極微即極大であり、一即一切一切即一の一全相対突破の世界観と世界の形状をも『華厳経』は説いているのです。
すなわち「一塵が全宇宙を包摂している」からこそ、この世界に存在するものは、如何なるものも孤立しているのではなく、お互いに限りなく関わり合い、通じ合い働きあっている。
その無限の連鎖の頂点に全ての存在はあるがままに成立しているのですから、全ての存在はかけがえのない唯一無二の尊極な存在なのであり、その繫がりが全宇宙を造り出していると言えます。
では、その造り出す主体とは何か、それこそ”心”に他ならない。
人の心は、ただ単に外の世界をそのまま映し出しているのではなくて、自ら外の世界に働きかけ、その世界を創造しているのであり、あらゆる存在は、かけがえのない世界の創造者である。
地獄を造り出すのも心なら極楽を造り出すのも心。
実に心こそは世界に主であると『華厳経』は説いています。
ご参考まで。
【追伸】
茄様、My知恵袋を読ませていただきました。蔭ながら祈っております。
合掌。
茄様。倶会一処です。御先に失礼致します。長生きしてくだされや。
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2010/12/813:52:43
日蓮聖人の仏法について。末法の三学の件ですが開目抄では「内典わたらば戒定恵を知り易からしめんがため」三学は大切だと説明しており、 四信五品抄では三学は必要ないととれる文章があり、日蓮聖人の本意はどこにありますか?
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/12/1319:40:48
『開目抄』は「日蓮聖人」が文永九年(1272年)二月に流罪地の佐渡で著し、日蓮門下一同に与えた重書であり、正筆は残念ながら焼失しものの、日興筆の時代書写本が北山本門寺に現存しています。
一方、『四信五品抄』は「日蓮聖人」が建治三年(1277年)に身延から富木常忍に与えた返信文書であり、正筆は富木常忍所縁の中山法華経寺に現存し、日興写本が富士大石寺に現存します。
さて、御質問の趣は『開目抄』には戒・定・慧の三学に肯定的な見解が述べられているのに、方や『四信五品抄』には否定的とも受け取れる見解が示されているが、果たして「日蓮聖人」の本意はどこにあるのか?という事であろうと思います。
『開目抄』は外典・内典の勝劣から説き始めて内典である仏教の諸経典の浅深勝劣を主張しているので、これは日蓮独自の教相判釈を明らかにしているとも言えます。
「孔子が此の土に賢聖なし、西方の仏図という者あり、此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり。礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすか
らせんがため、王臣を教て尊卑をさだめ・・・(中略)・・・妙楽大師云く「仏教の流化実に玆に頼る、礼楽前に馳せて真道後に啓らく」
『開目抄』を冒頭から読めば理解できると思うのですが、ここでは儒教等の外典と内典すなわち仏教の相違は戒・定・慧の三学が説かれているか否かと、三世の因果が説かれているか否かによって判別できるのであり、又、内外の浅深勝劣を判釈することが出来るというものです。
しかし、儒教等の外典には真実は説かれていないとは云うものの、仏教が弘まり易くするために先に弘まった人倫の道であり「仏法の初門」であるとも評価しているのです。
言わば、三学は仏法の仏法たる由縁であって、三学が説かれていない仏法は仏法に非ずと言っているようなものです。
要するに、その三学の立て方によって内典すなわち仏教内に於ける浅深勝劣の差別が生じていると言うのが「日蓮聖人」の主張とも云えそうです。
貴方が『四信五品抄』では三学は必要ないととれる文章があり」と仰せの文章とは、恐らく以下の箇所ではないでしょうか。
「問う末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や、・・・(中略)・・・所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る、慧又堪ざれば信を以って慧に代え信の一字を詮となす。不信は一闡提謗法の因・信は慧の因、名字即の位なり」
『四信五品抄』は『法華経』「分別功徳品第十七」に説かれる現在の四信と滅後の五品に関連して、末法に於ける『法華経』修行者の位は「一念信解初随喜」の位であることを述べ、五波羅蜜の制止と法華唱題こそが末法に相応しい修行であると説かれているのです。
『法華経』に於ける三学を天台大師智顗は『摩訶止観』で闡明した一念三千の円頓止観に総摂させており、我が国の伝教大師最澄もその教学を継承して一念三千の止観を以って三学一体としています。
「日蓮聖人」は「以信代慧」の立場から、末法に於ける初心者の仏道修行は布施・持戒・忍辱・精進・禅定の五波羅密の修行を制止して、「南無妙法蓮華経」を唱える一行の中に三学が具足するとしていると考えられます。
従って「日蓮聖人」の義は「三学」そのものを否定したのではなく、戒・定・慧の三学に小乗→大乗→法華経(天台)の円頓止観→末法の南無妙法蓮華経の浅深 があることを主張して、「南無妙法蓮華経」こそは末法相応の戒・定・慧の三学であると主張していると捉えるべきでしょう。
この「日蓮聖人」の思想は、後世の教学家達によって更に明確にされることになり、「日蓮聖人」の生前の講義を弟子の日興が筆録したとされる『註法華経口伝』(御義口伝)には以下のように記述されています。
『寿量品第二十七箇ノ大事」中
「第二十五建立御本尊等ノ事」
「御義口伝ニ云ク、此ノ本尊ノ依文トハ如来秘密神通之力ノ文ナリ、戒定慧の三学ハ寿量品ノ事ノ三大秘法是ナリ、日蓮慥ニ霊山ニ於テ面授口決セリ、本尊トハ法華経ノ行者ノ一身ノ当体ナリ云々。」
ご参考まで。
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一仏乗は『法華経』のみに説かれている思想ではなくて、ブッダ本来の仏教はもとより一仏乗だったと言えます。
大乗仏典を例に挙げれば、既に般若経典群の最古層に属する『道行般若経』には「一道」という表現で説かれています。
また『華厳経』や『勝鬘経』等の他の大乗経典にも説かれています。
殊に『法華経』はアビダルマ仏教側(声聞乗・縁覚乗)と大乗仏教側(菩薩乗)との対立の解消を意図する「宥和一致」の立場から「開三顕一」が力説されていますので、初期大乗仏典の中では最も一仏乗の思想が力説されていると言えましょう。
本来、仏陀の内証の悟りは「不可説」であり、経典や論書は全て「其れなりの文章」な訳ですから、悟りに至る方法論を言葉を用いて様々に説くことは可能ではあるが、仏陀の内証の悟りは、修行者が感得するより他はないのです。
これを「因分可説果分不可説」と言います。
『法華経』「方便品第二」では、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗は、それぞれ本来は成仏への道ではあるけども、衆生は自乗への愛執を生じて、余乗を見下す傾
向にあり、一切衆生を成仏させようとする仏の本願を知らないから、三乗格別の立場に留まっているが、自乗への執着を捨て去れば、三乗は悉く一仏乗に帰すと 説いています。
ここで言う「方便(ウパーヤ・upaya)」とは「三乗格別」の教法が「手段・方法」であり一仏乗が真実だと言う事を示しています。
【補足への回答】
原始仏典『スッタニパータ』の中に以下のように説かれています。
「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なもの
でも、粗大なものでも、目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと 欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」
(『ブッダの言葉』中村元博士訳(スッタニパータ)・岩波文庫P37)
ブッダの思想には人類エゴイズムなるものはありません。まして、特定の宗教的な立場や教団に属する者達だけが救済されるというような選民思想的なものは微塵もありません。
具体的でなおかつ何物も漏れることのない「生きとし生けるもの」すべての幸せをブッダは願われたのです。
これが、仏教本来の一仏乗であると申せましょう。
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さん
2010/12/1400:25:45
般若心経とは鎮魂ではないのですか?
世界の全ては無より生じる、世界は無なり。これを理解することによって世界そのものを掌握できる。
生きていた世界にも死んだ後のあるかどうか分からない世界にも差はない。
よってあなたの生と死に意味はない。
あなたは生きているあいだにそれに到達できたか?出来なかったのならあなたは生まれることすら出来なかったのだ。
時を終えたあなたにここに正解を提示する。これがこの世界全ての真実だ。
この正解に意味がないと理解していたら、おめでとう。
あなたはたしかに「あなた」だ・・・・。
そんな意味として理解しました。意味は全然違っているかもしれません。
でもそれにも意味はないのかもしれないね。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11982230
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rsd37264さん
編集あり2010/12/1418:45:27
『般若心経』ほど様々に解釈されてきた経典はないかも知れません。
貴方の解釈はまた、それなりに興味深い視点だと感じました。
なる程、『般若心経』の説くところの大乗仏教の空観を悟れば、現世に対する過剰な執着を払い除けることが出来るのですから、ある意味では「鎮魂」と言えるかも知れません。
現実にお坊さんが慰霊祭なんかで『般若心経』を唱えることがありますから。
『般若心経』は「法」(ダルマ)の「空」なることを説いた経典ですが、法の領域に於いては一切法は空なるが故に、現象世界には生死があり、変遷が成立するのです。
「色即是空」であるならば、受想行識も「空」であり、「空」なるが故に色受想行識の法は仮設として成立している、すなわち「空即是色」な訳でしょう。
人生には「意味はある」、「意味はない」と言う”有りと無し”という顛倒夢想を離れて涅槃を究竟する訳です。
『般若心経』で説く「空」とは果たして「無」と同義かと言うと、答えはNOと言うしかありません。
同経の中には「無」の記述がありますが、それは「法有」(法に実体有り)という見解を打ち破る便宜上、漢訳の際に「無」を使用したに過ぎず、原典がサンスクリットである仏典の場合には漢字の常識が通用しない場合がしばしばあります。
『般若心経』の観点からすれば、「無は無ではない」ということになります。
この論法は「AはAである」と言う同義反復(ト―トロジー)の否定形な訳ですから、形式論理学上では何ら意味をなさないことになりますが、形而上の領域に於けるエグジステンスとしては重要な意義を有することになるのです。
では「無は無ではない」とは如何なる意味なのかが問題になるのですが、「無」(非存在)と言う概念は常になにものかの「無」なのであって、「有」(存在)という概念を前提にして成立していると言えます。
その逆に「有」(存在)もまた常に、その反対概念である「無」(非存在)に束縛されて成立している概念なのです。
つまり、「有」(存在)と「無」(非存在)は互いに相手を必要として成立する相互依存相互限定の関係にあり、互いに相手を必要として成立する以上、そのイデーは自らの内に自らの本質を欠いている、つまり”実体ではない”と言うことが言える訳です。
この形而上の領域に於けるすべてのイデーの実体の否定を「空」(シューニャー)と表現します。
従って『般若心経』が否定しているのは、形而下(自然的)領域、換言すれば現象世界に於ける具体的な事物の存在ではなくて、その具体的事物の成立を可能な
らしめるところの、形而上(超自然)の領域、換言すれば”法の領域”に於ける「法」(ダルマ)には実体はないと主張していると言えます。
『般若心経』に於いては、法の領域に於ける全てのイデーは否定され、極限に於いては「有」(存在)と「無」(非存在)さえも、固定観念で捉えることを否定するのです。
従って『般若心経』で説く「空」は「有に非ず無に非ず」と言うことができます。
「空」の前提として、存在するもの全ては相互に依存し相互に限定し合っているという関係性を仏教では「縁起」と表現しています。
存在するもの全ては、それは縁起によって存在している訳ですから、それら全ては実体ではない、もしも現世における具体的事物を成立せしめる「法(ダルマ)」が実体であるならば、現世には変化が起こらないことになってしまう。
しかし、実際には人は生まれ、そして老い病んで死んで逝く、現象世界はかくも変遷万化する無常の世界である。
それは、形而上における「法(ダルマ)」は実体ではなく(空)、かるがゆえに現世は仮設の世界なのであり(仮説)、如何なる形而上学的見解からも離れている(中道)。
したがって、世界は有から生じる事もなく、無から生じることもなく、実に縁起なるものは実体ではない。
すなわち空であるから、「不生不滅」(生じることもなく、したがって滅びることもなく、増えたり減ったりすることもない訳です。
ご参考まで。
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さん
2010/12/1221:04:59
創価学会は宗教を語る資格があると思いますか。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/12/1221:36:15
創価学会は宗教ではなく、仏教や日蓮の教えを「御利益信仰」に化かして金を儲ける宗教ビジネスです。
貴方の提示した「南無妙法蓮華経」の商標登録出願書の写しは、その事を如実に物語っています。
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rsd37264さん
編集あり2010/12/1123:38:45
鎌倉新仏教の祖師である道元禅師(西暦1200年~1253年)と「日蓮聖人」(西暦1222年~1282年)は、生涯に相見えることはなかったのですが、ともに独自の視点から『法華経』に基ついて法門を打ち立てていると言えます。
両者はともに天台法華円宗の伝教大師最澄が開いた比叡山出身の祖師方だけに『法華経』とは切っても切れない方々なのです。
道元禅師は『法華経』を尊重し、坐禅の道に具現すべく『正法眼蔵』等をものせられましたが、その立義は仏陀釈迦牟尼在世の時と今の時は、聊かも仏法の正道
は変わりなく、只管打座した正禅はすなわちこれ釈尊の仏法なりと説かれて末法思想に迎合する事を厳しく戒められています。
道元禅師の著作を拝見しておりますと、禅師の『法華経』理解の底知れぬ奥深さを知ることができます。
一方、「日蓮聖人」は『法華経』に「正法・像法・末法」の「三時説」を取り入れて解釈なさり、末法の衆生は『法華経』の真髄とされる「南無妙法蓮華経」の題目を唱える以外には救いの道は無いと説かれました。
「日蓮聖人」は禅宗を「禅天魔」と激しく排斥してはいますが、彼の数多の遺文には道元禅師や、その著作への批判は全く見当たりません。
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rsd37264さん
編集あり2010/12/1123:08:14
偽善者と悪人を比べた場合に、決定的に違うのは悪人は自己と他者を欺いていませんが、偽善者は偽りの善によって自己と他者を欺いています。
悪人は反面教師としての価値を有しますが、偽善者は邪(よこしま)の一語に尽きるでしょう。
『法華経』の「提婆達多品」は悪人の成仏を説いていますが、偽善者の成仏までは説いていたかは知りません。
世の中でも悪人の看板を掲げて悪い事をしている人達はまだ見分けがつきますが、御尤もな綺麗事を並べて大衆を誑かす輩が最も性質が悪いのと同じでしょう。
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rsd37264さん
2010/12/516:50:07
老子の思索の起点となったものは、春秋戦国時代という混乱した社会と、そこに生きる人間の生々しい幸・不幸の姿だったと言えます。
何故に人間の世界には混乱があるのだろうか?この極めて実存的な考え方が老子の思想の底流にはあります。
確かに儒教で説く道徳的な「道」は言わば人倫の道と言えるものですが、必ずしも倫理的な人が幸福に成るとは限らず、人間社会の実相は、むしろ真逆でさえあります。
まさに「天道是か非か」という想いが老子の頭から離れない疑問であったとも言えるでしょう。
こうした作為的な人間社会の道徳観に対する一種の失望は、いつしか人間の世界と大自然とを対比するものの見方を育てたと言えるでしょう。
人間の世界は絶えず欲望や利害打算が渦巻く混乱の渦中にあるのに、自然は常に混乱がありません。
このような平和と秩序をたもつ自然の奥にこそ真実の「道」があると考えるにいたったものと思われます。
この「道」は孔子の説いた仁・義・忠とか恕という人間社会中心の価値観を根拠とする「道」に非ずして、それら人間の営為以前からあるものであり、万物の奥にあって、万物をそれぞれそれなりにあらしめている本源的なものです。
しかも、それは人間の感覚を超越したものであり、したがってそれを言葉で明確に定義することはできません。
このような「道」のありかたについて、老子は「無」とか、万物を生み育てるものとして「玄牝(げんひん)」或は「玄徳(げんとく)」等と表現しています。
ご参考まで。
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老子と荘子の思想の概略と、老子と荘子の思想の違いを解りやすく教えてください。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/12/515:15:56
老子も荘子もともに春秋戦国の乱世を生きた思想家ですが、荘子の思想は老子の思想を継承して発展させたものと言えます。
彼等の思想に共通する点と言えば、政冶や社会のシガラミと言った煩わしさから解放されて、静かに自己や世界を観じようとするところにあると言えましょう。
彼等は儒教のように「道」を道徳的として考えずに、現象世界をありのままに成立せしめる宇宙の根本原理と捉えています。
老子は生没年代が不詳なために、実在の人物であることを疑う研究者もいるほどですが、その思想の概要は著作とされる『老子道徳五千言』で知ることができます。
老子は人間の世界は混乱しているけれども、自然は秩序が保たれた平和な世界であると説いています。
その自然を自然たらしめている「道」すなわち自然の道は、人が見たり聞いたりすることが出来ないものであり、それは如何なる思考や論議をも離れた「無」或は「無名」と言うべきものではあるけども、この自然の道は万物を生み育む「万物の母」でもあると説いています。
このように自然の道は、万物を無為・無心・無欲・無作為に生み育てているのであるから、人間としての生き方もそのように、小賢(こざか)しい知・欲・偽を捨て去って生きるべきだと説いています。
それを無為自然(むいしぜん)・清浄恬淡(せいじょうてんたん)・柔弱謙下(じゅうじゃくげんげ)という言葉でより具体的に述べています。
○無為自然・・・・作為を弄せず、あるがままの自然に従って生きよ。
○清浄恬淡・・・・限りない欲望や執着心を捨て去って生きよう。
○柔弱謙下・・・・水のように柔軟で謙虚な態度を保ち、強さや賢さをひけらかすこともなく、他者と争うことも捨て去って生きよ。
以上のような老子の思想を継承した荘子(紀元前365年~290年)は、「道」とは現象世界の具体的事物と「道」とは次元が異なるものであると説いています。
すなわち現象世界の具体的事物とは自然的(形而下)の領域であり、「道」は超自然的(形而上)の領域であるとして立て分けています。
「道」は自然的領域に於ける万物を万物たらしめるもの、換言すれば現象を超えたものであるから、現象世界の具体的事物は「道」そのものではありません。
それは、「分別知」すなわち分析的な知性では認識し得ないものであると説いています。
その「道」を会得した者は、真実の世界に目覚め、「道」に学ぶことによって人間世界の狭い価値観に捉われることなく、自然の境地に到達できて真の自由を獲得すると説き、そのような境地を「道に遊ぶ」と表現しています。
以上、御参考まで。
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rds37264さんの儒教についての回答を知恵コレクションに登録しました。
お願いがあるのですが、孟子と筍子の思想について、もう少しだけ詳しく簡単に説明していただけないでしょうか。
何時もお願いばかりですみません。できたら1・・・2・・・というようにお願いします。
補足rsd様。別にもう一つだけ回答して貰えないでしょうか。
ご面倒をかけてごめんなさい。お願いします。拝みます。m(__)m
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/12/415:03:15
「もう少しだけ詳しく簡単に説明」ですか。
実に難しい注文ですね。(苦笑い)
別の方の回答で述べた通り、孔子の説くところは、その弟子達によって主体的内面的な道徳の規範としての「仁」と、外面的社会的な「礼」を強調する学派に大
きく分かれたのですが、前者が性善説に基つ゛く孟子で、後者が性悪説に基つ゛く筍子であることは概ね御理解いただけたことと思います。
以下には貴方の御注文通りに番号を付して孟子と筍子の思想の骨子だけを記述したいと思います。
1、孟子(紀元前372年~289年)の思想。
①孟子は人間の本性は善であると説いています。
なんとなれば、人間は生まれながらに、惻隠の情(そくいんのじょう)・羞悪の心・辞譲の心・是非の心が具わっており、これらはそれぞれに仁・義・礼・智という徳目の糸口となるものであるからです。
この意味に於いて、惻隠(そくいん)の情・羞悪(しゅうお)の心・辞譲(じじょう)の心・是非の心を「四端の心」と呼んでいます。
・惻隠の情・・・溺れている人を見れば、人は利害打算を度外視して、自己の命の危険をも顧みず救おうとする善良な心が具わっている。
・羞悪の心・・・人間には悪いことをして恥じる心が具わっている。
・辞譲の心・・・謙遜して他者に譲る心。
・是非の心・・・正邪・善悪を見分ける心。
②人間として守るべき実践目標として孟子は「人倫五常」を説いています。
「人倫五常」とは即ち「父子に親あり、君臣に義あり、夫婦別あり、長幼序あり、朋友信あり」を常に心がけるのが人倫の道なのです。
・父子に親あり・・・・・父子の関係は親しさが基本です。
・君臣に義あり・・・・・主君と臣下の関係は私情に捉われない公正な義を根本とすべし。
・夫婦別あり・・・・・・夫婦には自ずと成さねばならぬ仕事の別がある。
・長幼序あり・・・・・・年長者と若輩者には自ずと順序が定まっている。
・朋友信あり・・・・・・友達関係は互いの信頼を根本とするのである。
③孟子の説く自己修養の道。
・「浩然の気(こうぜんのき)」・・・大自然の懐(ふところ)で、のびのびした大らかな気持ちを養うこと。
・「夜気を存する」・・・夜のしじまの静けさのように安定した気持ちをもつこと。
「浩然の気」は道徳的な勇気を養い、「夜気を存する」ことによって良心を保つと説いています。
④孟子の政治道徳
政治には王道と覇道とがあり、王道は徳によって人民を治める政冶で、人民は王朝に信伏するが、覇道は権力に任せた政治で、人民は為政者に信伏しない。
従って、政治は王道によるべきであって権力を濫用し私利私欲に耽る王は王としての資格を喪失しているから、その王は廃して別の王を立ててもよいとする思想を述べています。
これを「易姓革命」といい、歴史上、中国では頻繁に王朝が交替したのはこの革命思想があるからなのです。
2、筍子(紀元前315年~236年)の思想。
①筍子は人間の本性は悪であると説いています。
なんとなれば、貧乏な人は富を求め、醜悪なものは美を求めるように、人間が善なるものや美しいものを願うのは、それらが人間には具わっておらず、その本性が悪だからであるという理由です。
②人間の本質は悪なのですから、性悪なる人間を放置すれば社会は混乱するのが当たり前だと筍子は考えました。
だからこそ、人間の主体的な良心に期待するのではなく、「礼」による規律を重視して天下の秩序を保持すべきであるとして、孔子の思想の社会的・形式的な側面を強調する思想を述べています。
③法家の思想のパイオニア
筍子の弟子の韓非子は師匠の思想をさらに発展させて法家の思想を確立させています。
以上は、あくまでも孟子・筍子の思想の骨子に過ぎません。
ご参考まで。
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三船先生ところは大変な御仲間が居られるのですね。
先発の方は今をトキメク瑞喜如来様でございます。
『法華経』譬喩品の経文を振りかざして多くの方々を地獄に誘う恐ろしい如来様ですよ。
これも池田大作が呼び寄せた魔の働きでしょうか。
【瑞喜如来様へ】
大変な騒ぎになっていますね。いや、大盛況じゃないですか。
瑞喜如来様の御説法の会座に斯くも大勢の衆生が参集するとは。
もはや、瑞喜如来様は創価学会にその人ありと謳われていることでありましょう。
さて、瑞喜如来様が恥をかかぬように申し上げますが、保田妙本寺に格護されている『万年救護之大本尊』は富士門流の正統な相伝の印として「日興上人」以来
「日目上人」「日郷上人」と、代々に亘り継承されてきた御本尊であって、大石寺にある真偽未決(限りなく偽)の『本門戒壇板本尊』と異なり、正真正銘の 「日蓮聖人」真筆の曼荼羅であり、特別・国指定重要文化財になっています。
保田妙本寺には「日興上人」の真筆曼荼羅と「日目上人」の真筆曼荼羅が所蔵されていますが、いずれも真筆であり、大石寺の偽の伝日興筆の板曼荼羅とは明暗を分けたものとなっています。
瑞喜如来様は御自分の宗派の歴史に暗いのですね。
三船先生を勉強不足みたいな事を言うのはやめましょうね。
先生は全て御存知なのです。
疑義があるのなら、rsd37264が御相手仕らん。
汝(瑞喜如来)の浅識、深く邪見に執せるは、実を聞きても信ずること能わじ。
所以は何かん。其の心深く自乗に執して仏陀の本願を知らざればなり。
『法華経』に云く、毒気深入
失本心故。等云々。
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
日蓮さんが尊重した『法華経』には以下のように説かれています。
「方便品第二」
「若し人散乱の心にて、塔廟の中に入りて、一たび南無仏と称するも、皆已(すで)に仏道を成じき」
(もしも、心が散乱していても、塔や廟の中に入って、一たびでも南無仏と称えたとすれば、(このような人は)皆すでに仏道を完成しているのである)
仏教の様々な教えや修行はみんな真実なんだよ、とお釈迦様は『法華経』で説いてますよ。
「如来寿量品」
「如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。諸の言説する所は、皆実にして虚しからず。」
(仏様が経典で述べている様々な教えは、それは生きとし生けるものを救済する為なのである。或は自分自身について説いたり、他の(仏の)身体について説い
たり、或は自分自身を示したり、他の(仏の)身体を示したり、或は自分自身の事を示したり、或は他の「仏の)事を示したりするのだ。これら諸々の言葉で説 いたことがらは、それは全て真実であって虚言ではないのです。)
お釈迦様の言葉として『法華経』には以上のように説かれている訳だから、念仏や禅を否定することはお釈迦様の言葉を否定することになり、仏教自体を否定する事になるでしょう。
それに、考えてみれば「南無妙法蓮華経」も一種の真言ですしね。
今頃は極楽の蓮の花の上で、さぞかし「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と言ったことを後悔しているでしょうね。
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八正道の正とは、ものごとをありのままに見ること、言い換えればいかなる偏見も排除して公平に見ることが始めです。
仏教ならずとも、対象を正しく認識してこそ、適切な判断が下せ、最適の行動をとることができます。
そうすれば妄想や誤った判断から生じる不利益を少なくすることができますし、苦しみを軽減することも可能でしょう。
八正道を実践するには主体性が要求されるでしょう。先ずは何事も他人の言葉を鵜呑みにせずに、自分の脳ミソを使って考えてみることです。
他人の意見にばかり影響されて、フラフラしている人は八正道は歩めません。
また、一つの考え方に固執する癖のある人も難しいかも知れませんね。
要するに、自分に都合のいい歪んだ色眼鏡で物事を見たり、思ったりすることなく、常に道理を心掛けなければならない訳です。
実はお釈迦様は「仏教」という宗教を創始したという自覚がまったく無かったのです。
お釈迦様の悟った「縁起の理法」は現象世界(私達の住む世界)に於ける物理法則と同じように、法則性(形而上)の領域における法則ですから、如何なる時代の如何なる民族や宗教に属する人でも当てはまると言えます。
八正道は言ってみれば当たり前の事なのですが、その当たり前の事を私達凡人はなかなか実行できなくて各々勝手に苦しんでいると言うわけです。
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『法華経』の成立は現在のパキスタン辺りで、ゴ―タマ・ブツダの滅後500年頃と推定されています。
『法華経』の28章を通して読めば解ることですが、序品から嘱累品までは一連の物語風になっているにも拘わらず、途中で不自然な場面展開か幾つか見られますが、それらは全て後世の付加品です。
原『法華経』の各章は以下の通りです。
序品・方便品・譬喩品・信解品・薬草喩品・授記品・化城喩品・五百弟子授記品
・授学無学人記品・法師品・見宝塔品・勧持品・従地涌出品・如来寿量品
・嘱累品
後世の付加品は以下の通り。
提婆達多品・安楽行品・分別功徳品・随喜功徳品・法師功徳品・常不軽菩薩品
薬王菩薩本事品・妙音菩薩品・観世音菩薩普門品・陀羅尼品・妙荘厳王本事品
普賢菩薩勧発品
以上の各章の中で、提婆達多品はサンスクリットの原典がありません。
また同品は最古の原典からの漢訳である鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』には欠品となっており、訳出年代の古い竺法護の『正法華経』には見宝塔品の末尾に付加されていますが、これは原典からの訳出ではなく後世の創作付加の部分です。
恐らく、『妙法蓮華経』の中の提婆達多品は、その拡大版である可能性が高いと言われています。
要するに、スムーズに読めないと言うか、一種独特の違和感を感じる事の原因の一つには、こうした後世の挿入が関係しているかも知れませんね。
仏教上の昔からの決り事の一つにインド撰述の経典は正統な仏典と看做すことになっているのですが、『法華経』の開経である『無量義経』は5世紀に中国で創
作された偽経ですし、女人成仏・悪人成仏で名高い提婆達多品はサンスクリット原典の無い後世の付加品ですので、異質なテクストを含む事も読む者に違和感を 感じさせることの原因の一つかも知れません。
また、如来寿量品で説かれる「久遠本佛」の思想は、原始キリスト教の異端説である「キリスト仮幻説」との関係も指摘されており、原『法華経』成立当時のイ
ンド世界が地中海世界と活発な経済交流がなされていた事が、当時の遺跡からローマ帝国のデナリウス金貨が大量に発堀されていることからも裏つけられてお り、原始キリスト教と大乗仏教との思想の交流を考える上に於いても今後の研究が期待されるところです。
要するに原始キリスト教の思想を『法華経』は色濃く受けている可能性がありますので、ある意味に於いてはキリスト教的な要素を読む人に感じさせるために違和感を覚える方々も多いようです。
そう言えば『法華経』を熱狂的に奉じる教団は得てして絶対的一元論的な教義を構築しているのも、その辺りに遠因があるのかも知れませんね。
【補足への回答】
『法華経』には「業病思想」や人種差別の正当化が明確に説かれています。
この思想は、古代インドにおけるハンセン病者や肌の色の黒白による人種差別を大乗仏教徒達が容認していたことの動かぬ証拠でもあります。
勿論、原始仏典から精査されたブツダ本来の思想には業病思想や人種差別は説かれておらず、人間不平等のモデルのような古代インドの社会に於いては一種の危険思想とも言える人間平等の理念によって教えを説いています。
『法華経』は仏教内の宥和一致を謳った優れた面と、数多の信者を獲得する為にインドの習俗に迎合してブツダの本意に背いた面がある事も凝視すべきです。
貴女がおおせのように、ある意味では「堕地獄」や「悪重病」等は信徒獲得の為の脅し文句であると言えるでしょう。
【追記】
漢訳本が滅失している竺法護訳の『薩曇分陀利経』の内容は不明です。勿論、サンスクリット本も残っていません。
提婆達多や龍女の成仏を説く提婆達多品は原『法華経』のテクストには存在しないのです。
資料に依拠しない恣意的な説は得てして日蓮系信者の勧誘に利用されているので採用しない方が無難です。
【参考URL(法華経の翻訳に関連して)】
http://www.furugosho.com/nomadologie/hokke-honyaku.htm
【譬喩品の経文を脅し文句に使う法華経信者の実態】
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251412292
【追記Ⅱ】
『薩曇分陀利経』の梵本は無く漢訳も失訳であり、『正法華経』見宝塔品の末尾の内容に相当する梵本はありません。
従って宗教上の思惑による見解有るも断定して語ることはできません。
これが仏教学上の一般的見解です。
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rsd37264さん
2010/11/3009:58:47
エマニエル・カントの三批判書である『純粋理性批判』・『実践理性批判』・『判断力批判』を一読した者が、「真・善・美」を「利・美・善」にひっくり返すアホな似非哲学を構築したりは致しません。
但し、ドイツ観念論はキリスト教神学の新展開であるだけに、日蓮正宗の絶対的一元論的価値観と教条主義的体質は、彼にとって価値ある宗教と映じた可能性はあります。
まあ、彼のカント理解は日本人独特の「よいとこ取り」の便宜主義なものに過ぎません。
カントの真意の万分の一も理解していませんね。
今の創価学会が日蓮の教えを利用して金儲けに走っているのも「利」を第一義に掲げる「価値論」の弊害と言えなくもありません。
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rsd37264さん
2010/11/3012:02:49
有名なギリシャ哲学者ソクラテスの孫弟子にあたるディオゲネス(紀元前412年?~323年)というギリシャ哲学者が言った言葉に「人間は理性を持たねばならぬ。でなければ首吊り紐を持たねばならぬ」というのがあります。
これがギリシャ哲学の人間観だと言えると思うのです。
地中海の明るい陽光の如く、ロゴス(言葉)をもってギリシャ哲学は誕生したのですが、ロゴスには言葉・行い・光の意味合いがあり、人間は言葉に依って思考する動物であるという事を暗示したものと言えます。
言葉によって人間は論理を獲得したのですが、ギリシャ人が最も重要視したのはディオゲネスの言葉にもある通り理性だった訳です。
古代ギリシャ人は、青年や女神の美しい裸体像が象徴する明るさと、その裏面にある人間は死すべき存在という暗い翳りに支配されていたとも言え、仏教の原点
は、その出発点から人間存在に付き纏う生老病死等への苦を超克する為の理法の体得にあった訳ですから、その点は人間の理性を信頼し、理性の働きによって体 得した「法(ダンマ)」を拠りどころとする仏教の人間観は、ある意味に於いてはギリシャ哲学の人間観と一脈通じるものがあります。
その点、キリストの山上の垂訓にある「髪一すじさえ白くし黒くすることのできない」人間理性と力への断念、さらに自力にては救い難い原罪を説くキリスト教的な人間観は対極にあると言えるでしょう。
要するにギリシャ哲学から見れば人間の努力や理性を信頼した仏教はテオーリアの訳語に観照をあてていることからもわかるように類似性が見られ、原罪を説くキリスト教の人間観とは正反対だと言えそうです。
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rsd37264さん
2010/11/2620:07:40
ゴ―タマブツダ以来の仏教は現象世界(自然的領域=形而下の領域)を、基礎つけ成立せしめるところの「法の領域」(形而上の領域)を、自然的領域から切り離して設定して、仏教は「法の領域」に於ける「法(ダンマ)」を問題にしてきたのです。
「法」とは、言わば現象世界の具体的事物を成立せしめる「かた」であるから、現象世界に於ける具体的事物とは区別されるものです。
この点はプラトンのイデアが現実の世界を超えて現実の世界の根拠になっている原型としての意味合いから、仏教の「法(ダルマ)」との類似性が指摘されています。
「法」は「五位七十五法」とか「五蘊」であると言われるように複数あることから「諸法」と表現されるのです。
ブツダ本来の原始仏教は「法」を「縁起」によって基礎つけていましたが、アビダルマ部派仏教最大の学派であった説一切有部は「法」を実体視して著しく形而
上学的になったことに対して、龍樹は『中論』に於いて縁起を論理的相関関係と捉えることにより「法」を「空」によって基礎つけたと言えます。
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rsd37264さん
2010/11/2720:50:42
「釈迦とキリストの違い」と言うと、ブツダや、キリストで検索すればわかりますから、敢えて触れない事にします。
よく、偉大な宗教家の生涯はその方の最期の様子に顕れるとも言いますから、その視点で捉えれば二人には際立った違いが見られますね。
彼等が世を去る直前に言い残した言葉を比較してみましょう。
イエス・キリストの最期は貴方も知っているとおりゴルゴダの丘で十字架に架けられて刑死したのですが、『聖書』に記録されている彼の最期の言葉は「わが神よ!わが神よ!どうしてわたしを御見捨てになり給うたや」という悲痛なものでした。
方や、ブツダ、ゴ―タマ・シッダルターは沙羅双樹のもとで、多くの在俗信者や弟子達に囲まれ見守られながらの親和感に満ちた一点の曇りもない、安らかでしめやかな最期でした。
彼の最期の様子を記録した『マハーパリニッバーナスッタンタ』に記録されている彼の最期の言葉は「では比丘たちよ、別れを告げよう。もろもろの事象は移ろいゆくものである。怠ることなく修行を完成なさい」というものです。
決してキリスト教を貶している訳ではないのですが、イエスは悲痛な言葉を遺しての悲惨な刑死であり、方やブツダの最期は弟子達に最期の時まで教えを説き、安らかに息を引き取っています。
これ等の開祖の性格や死に方の違いは、その後の宗教自体の性格をも決定つけたとも言えるでしょう。
次にこれ等の宗教が発生した風土的な違いついて言えば、これはセム系の宗教(イスラム教・ユダヤ教・キリスト教)とインド・ヨ―ロッパ系の宗教を育んだ環境の相違だと言えるでしょう。
キリスト教の前身であるユダヤ教などのヘブライの宗教は、一木一草も生えていないような砂漠や荒野の中で発生した宗教だと言えます。
死の恐怖に満ちている厳しい自然環境の風土においては、人は一人では生きてゆくことができないから、部族等の集団の形成と集団への絶対服従が必要となります。
集団からの離脱は、すなわち死を意味するのです。
更に、限られた水資源の確保のために、砂漠の部族集団は他の部族集団との対抗・戦闘を通じてのみ、部族集団としての命脈を維持することができるのです。
この絶対服従と戦闘的という性格が砂漠に生きる民族の特性であり、イスラム教やユダヤ教・キリスト教にも、この二つの性格が色濃く残っていると言えます。
方や、インドで発生した仏教やヒンドゥー教は水資源の豊かな緑あふれる風土の中で育まれた宗教だと言えます。
農耕が生産手段の中心であるということは、人々が協力して開墾し、灌漑施設を造ったり、豊富な水資源がもたらす豊かな自然に甘える姿勢を生み、また動植物の多様性は、多様な思想や哲学を生みだし共存させるという姿勢を人々にもたらします。
勿論、稲作は富の蓄積を生み民族間の衝突を生みますが、言わばその征服も片手に武器、片手に鋤というようなあり方で、知恵を以って包摂するという征服の仕方で、そこには強い戦闘的な色彩は持ちません。
このような風土で育った仏教は、服従すべき絶対者を有せず、また、知恵を重視する哲学的要素が濃厚です。
キリスト教では教義の一元化がはかられ、少しでもはみ出せば容赦なく異端の烙印を押して根絶やしにしてきましたが、仏教は気本的な教えを保持しつつ、民族
や文化の違いを超えて様々なバリエーションを見せているのも、多様な価値観の共存を認める大らかなインド的風土が育んだ宗教の特徴と言えるでしょう。
上記は、rsd37264の視点から記述したものであるから、あくまでも参考程度にとどめて、貴方自身の言葉で、もっと内容を豊にして発表したらよいでしょう。
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大乗仏教と小乗仏教の相違点を「空」と「ブツダ」の相違とその特徴について述べてみましょう。
原始仏典『スッタニパータ』には以下のようなブツダの言葉が記録されています。
「つねによく気をつけて、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死をのりこえることができるであろう」
(『ブツダの言葉』中村元訳・岩波文庫より)
大乗仏教では「一切皆空」すなわち、人間の自我と世界を成立させる「法(ダンマ)」の一切は実体のないものであり、互いに依存しあい限定しあう関係にある
と言う空を説くのに対して、小乗仏教(説一切有部)は人間の自我や世界は実体ではない、すなわち空であると説くのですが、人間存在や世界を構成する、そ の”ありかた”としての「法(ダンマ)」は実体であると説いており、これを「我空法有」と言います。
○大乗仏教・・・「一切皆空」(人法二空)・・・現象世界も、それを成立させる「法(ダンマ)もともに空である。
○小乗仏教・・・「我空法有」・・・現象世界は無常であるが、その世界を成立させる「法(ダンマ)」は実体である。
第二に大乗仏教は、釈尊の他にも諸仏・諸菩薩を想定し、それらは永遠性を帯びた救済者としての理想的存在ないし絶対者的存在として尊崇しているが、小乗仏教は歴史的人物としての釈尊、すなわちゴ―タマ・ブツダのみを尊崇しています。
第三に小乗仏教は国王や貴族或は富豪などの政治的・経済的な援助を受け、広大な荘園を所有するなど、広く民衆救済を目指したブツダ本来の仏教からかけ離れ
て、巨大な僧院の中に籠って煩瑣な教理の研究を行い、自らの解脱を理想としたのに対し、大乗仏教は、それらの自己中心的で民衆救済の志を忘れたありかたを 批判して、民衆の中から興った宗教運動であり、権力者や金持ちにおもねらず、ブツダ本来の”慈悲の精神”に立脚して、生きとし生けるもの全ての救済を理想
としています。
なお、付言するならば、現在、スリランカやタイ・ミヤンマー・ラオス等に伝播している上座仏教(テ―ラワーダ)を「小乗」と言っているのではなくて、アビダルマ部派仏教の中の主に「説一切有部」を大乗の側から「小乗(ヒ―ナヤ―ナ)と貶称(貶して呼んだ)訳です。
ですから、今の南方仏教は「小乗仏教」ではありません。
ご参考まで。
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2010/11/2517:58:54
仏教の八正道の「正」とはどういうことですか。
わかりやすく説明してください。お願いします。
補足000さんのお聞きしたのですが「集諦がない」見方と言うのが解りません。
つまり、苦しみの原因がなければ、苦しみもないと言うのはわかるのですが、「正」ということと苦しみとは別の問題だと思うのですが。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/11/2519:02:21
八正道の正の基準はなにか、という質問かと考えます。
仏教における正しいことの基準としては概ね三つがあげられると言えます。
第一は妄見や偏見から開放されること。
言い換えれば先入観にとらわれず、あるがままに物事の真相を見究めよということです。
智慧を重要視する仏教でなくても、正しい事実認識のうえに立たない判断や評価は正しいとは言えませんね。
第二に”顛倒を離れよ”ということです。
この場合の顛倒とは、価値判断がさかさまになることです。言い換えれば大を大なりと、小を小なりとせよ、ということです。
現実に私達は、どうでもよいようなことを、さも大変なことのように思い、重大視してとらわれている事が多いのです。
第三に、あらゆる見解や思想・主義を絶対視する態度から離れることです。
極端な主張は、ともすれば人々を誘惑し耳目を惹きつけます。
しかし、真理は極端には存在しないのです。これを仏教では中道と言います。
実に八正道は中道の具体的な実践を説いたものだと言えるのです。
平たく言えば、歪んだ色眼鏡を外して、物事を公平に見ること、これが仏教に於ける正しさの基準です。
他の方に仏教に於ける正しさについて回答したものがありますので、宜しければ参考にしてください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1130092096
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さん
2010/11/2315:05:26
rsd37264さん。先程は素晴らしい回答をありがとうございました。
勝手なお願いですが、『中論』の言葉が形式論理学に適合しない理由を教えてください。
また天台の円融三諦についても論理的に破綻してませんでしょうか
できれば、今日中に回答していただきたいのです。
まことに勝手なお願いですが、よろしくお願いします。m(__)m
補足天台の円融三諦については急ぎません。どうか『中論』のことだけでもお答えいただけないでしょうか。
お願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/11/2319:39:16
仏教で説く「法(ダンマ)」とは現象世界を成立せしめる「かた」であり、故に現象世界の具体的事物とは区別して考察する必要があります。
そのことについて中村元氏は以下のように記述しています。
「仏教成立の当初に於いては、自然的存在の領域を基礎つ゛け可能ならしめるところの法の領域を、自然的存在の領域から区別して設定し、仏教はもっぱら、こ
の法の領域を問題とした。(中略)仏教とは実践的宗教者の関心事と映じた「法」をとりあげたのである。法とは一切の存在の規範となって、存在をその特殊性 において成立せしめるところの「かた」であり、法そのものは超時間的に妥当する。(中略)法は自然的存在の「かた」であるから、自然的存在と同一視するこ
とはできない。」
(『龍樹』中村元・講談社学術文庫・P84~P85)
上記の文章の中で、「法の領域」と言うのは「形而上の領域」であり、純粋に存在(有)に於けるエグジステンスを扱う領域という事になるのですが、貴方が西洋哲学を学んで居られる事から、存在論(有論・Ontologie)に焦点をあてて説明したいと思います。
存在(ある)と言う言葉は①「~である」と②「~がある」に分化する性質があります。
ギリシャ語の「オン」にあたる英語のbe動詞にはこれらの両方を含意しているのです。
① This is a pen.(これはペンである)
②Hi is in the
livingroom.(彼は居間にいる)
①の「~である」はコプラ(繋辞・連辞)の「ある」であり、形式論理学の範疇に属するのに対して、②の「~がいる(~がある)」はエグジステンスに於ける存在を取り扱う領域です。
更に「~がある」は②-Aの形而下(自然的領域)と②-Bの形而上(超自然的領域)の領域に分化します。
すなわち。
②-A形而下(自然的領域)・・・・時間的・空間的規定を受けている「~がある」
②-B形而上(超自然的領域)・・時間的・空間的制約を受けない普遍概念の「~がある」
②-Aを扱うのは科学の分野であり、②-Bを扱うのが形而上学です。
プラトンは現象世界の彼方にイデアの世界を想定し、その世界の根源を「善のイデア」としましたが、それとほぼ同様な事をアビダルマ仏教最大の学派である説
一切有部でも、自然的領域を成立せしめる「かた」としての法を想定し、それを「法有」=「法がある」すなわち実体視することによって基礎つけたと言えま す。
西洋哲学に於いても、インド哲学に於いても、同じインド・ヨ―ロッパ語族に共通した「ある」=be動詞の用法の上に思考してきたと言えるでしょう。
但し、仏教はその当初から「法の領域」におけるエグジステンスの「ある」を問題にしてきたのに対し、アリストテレス以降の西洋哲学に於いてはコプラ(繋
辞・連辞)の「~である」を重要視したと言え、それは『聖書』の「ヨハネ福音書」の冒頭の以下の言葉から知ることができます。
「初めにロゴス(言葉)があった。ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神である」
プラトンのイデアがその究極に善のイデアを想定したように、『中論』の論敵である説一切有部も「法(ダンマ)」を実体化する事によって基礎つけたと言え、
それに対して龍樹ら中観派は「縁起」すなわち相互依存・相互限定による「空」によって一切法を基礎つけたと言えるでしょう。
『中論』は出来るだけ論理学を尊重した形で記述されていますが、形式論理学的には適合しない理由の一つは御理解頂けたと思います。
『中論』の論理は相依説に基つ゛いており、その意味に於いては特異だと言えます。
「甲が成立しないから、乙が成立しない」という論法は随所に見られますが、これは確かに形式論理学の上では正しいとは言えません。
なんとなれば、甲と乙が補集合的関係にあるから、甲が成立しなくても必ずしも乙が成立しない、とは言えない訳です。
しかし、これは純粋に存在論の領域に於いてなされている議論である上、相依説を前提としている以上は、形式論理学によって誤謬を指摘することは出来ません。
(但し、形而上と形而下を履き違えている箇所もなくはありませんが)
【補足への回答】
「天台の円融三諦」の件については、宗教カテでは齟齬が生じる恐れがあるので、出来れば教養カテでして頂ければありがたいです。
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「学会員」のことを「池田教徒」と呼んで構わないですよね。
さん
2010/11/1916:38:51
「学会員」のことを「池田教徒」と呼んで構わないですよね。
1 日蓮正宗のことを,池田教は日蓮正宗のことを無断で日顕宗と呼んでいます。
2 池田教徒は,法華経を読んでいません。
これらの法華経の言葉に反しています。
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諸々の苦悩の直接の原因は
むさぼって飽くことを知らないことがもとである
『妙法蓮華経譬喩品第三』
*******************
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
この経を持たもち、布施・持戒・忍辱・心の安定を願い・怒らず
悪口を言わず,塔において礼拝し,さまざまな仲間に謙虚に接し,
「自分だけが偉い」という心を離れ,他人を諫めるときにも怒らず,
穏やかに説明して解決します。もしこのように行動することがよくできれば,
功徳は量りようもありません。
『妙法蓮華経勧持品第十三』
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☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
国王・王子・大臣・官長に親しんで,近づいてはいけない。
『妙法蓮華経安楽行品第十四』
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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もしこの経を説こうとするなら
嫉妬心や腹を立てることや高慢さや
へつらい心や欺く心やよこしまな心や偽りの心を捨てて
常にじみでまじめな行いを修めよ
人を軽蔑せず また教義への無益な言論を慎め
他人を疑わせたり悔やませたりさせて
「おまえは仏になれない」と言ってはならない
『妙法蓮華経安楽行品第十四』
####################
3 日蓮大聖人の言葉にも反しています。
「たとえ公場にて道理にかなった法門を申したからと言っても、≪粗暴・野卑な言動や自慢げな態度を人目にみせてはならない≫。これは浅ましい事である。いよいよ身口意、つまり心と言葉と態度によくよく注意して相手に向かわなければならない。向かいなさい」。
『教行証御書』
釈尊も日蓮聖人も尊敬しないなら,「池田教徒」ですよね。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/11/1918:01:03
創価学会員は、『法華経』や日蓮の教えを利用して私腹を肥やす池田太作に心酔していますから「池田教徒」で構わないと思います。
私は「池田狂徒」と「池田凶徒」の意味も含めて「池田教徒」と呼ばせて頂いています。
創価学会は『法華経』や日蓮遺文の中から自分達に好都合な部分だけを切り取ってきて金儲けに利用しているだけです。
恐らく『法華経』もマトモに読まず、日蓮遺文も自分達に都合が悪いところはスル―しているのでしょう。
『法華経』の「正直捨方便」とか「不受余経一偈」等は切り文解釈もいいとこです。
「日蓮聖人」は生涯に亘り清貧に甘んじた聖僧でしたが、池田太作の年収は数億円、高級幹部の年収は3000万円~5000万円です。
それにひきかえ、末端の「池田教徒」達は「財務」と称する御布施?を搾り取られて極貧生活に喘いでいます。
私は、洗脳されて使い捨てにされている彼等が哀れでなりません
一日でも早く悪夢から覚醒して欲しいと思っています。
質問した人からのコメント
2010/11/19 18:41:37
山崎浩子やアメリカのカルト問題のように,誘拐して脱会させることが適法になることがありますが,池田教がひょっとしてそのような裁判にかけられる日が来るかもしれません。先生のロジックの正確さには敬服申しあげます。
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ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/11/2115:20:41
彼女の御母さんに、以下の項目の内容を記述した誓約書を提出して理解を求めてください。
①騙すつもりではなかった事。(お詫びも含めて)
②貴方自身が宗教的に完全にリベラルである事。
③彼女を創価学会に絶対に入信させない事。(子供も含めて)
④将来的には脱創価学会を志向している事。
⑤結婚生活は子育て等も含めて貴方の両親の干渉の外に置くこと。(別居が前提)
以上の内容を、最低限盛り込んで誓約書を作成してください。
誓約書を提出する際には、何方か社会的にも信用のある方の立会人として、双方が納得した場合には確認の署名捺印をお願いするようにすれば御母さんの了解を得易いと思います。
今は核家族の時代ですから、独立して家庭を営む場合には双方の両親の干渉を受けないで済むことが可能です。
御二人のお気持ちが一番大切ですから、先ずは入籍にこぎつけられるように最善を尽くしましょう。
親は縁を切るとか切らないとか言っていても、孫でもできれば態度は途端に軟化します。
そう云うものですよ。
誰でもマトモな親なら子供の幸せを願っている筈です。
創価学会はセクト主義の弊害の強い教団ですが、親が主体なら将来的には貴方と彼女が主導権を握る事になるでしょう。
余り、悩まず、心配(心配り)するべきことは心配して難局を切り抜けてください。
御二人の幸せを願っています。
ご参考まで。
追伸。
七年間も交際しているのです。やはり、焦ることはありませんが、着実に事態が進展するように努力するべきです。
御二人が誠意を尽くしてもダメなら、その時は御二人の覚悟が試されるのです。
親と子は独立した人格です。いざとなれば非常手段に訴える事だってできるのです。
しかし、先ずは誠意を尽くして、結果次第で次の一手を考えればよいでしょう。
【補足への回答】
貴方の場合には保護者の親御さんが創価学会員なので、したがって子供も親権によって入会手続きをとったのです。
しかし、成人すれは自分の意志が慎重されますから、必ずしも両親の意向に従う必要はありません。
彼女の兄弟の方と大方の話し合いがついたのなら、外堀は埋まっているのでしょうから、お母さんの説得には貴方の難い決意が大切となります。
要は、彼女にとって貴方の御両親の防波堤に貴方が成れるかが鍵ですね。
質問した人からのコメント
2010/11/22 14:55:30
自分の両親にはしっかり話しをして分ってもらえました。縁を切らずに脱会させてくれるそうです。あとは彼女のお母さんですがあきらめず祝福される結婚を目指したいと思います。有難うございました!
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仏教、釈迦について質問です。
釈迦は前世や来世について語らなかったと認識していましたが、今日読んだ本(仏教について本ではありません)に、
「ブッダは前世・現世・来世から物事を捉える。……………これを、前世の業であると考える。」と書かれていました。
釈迦は業、カルマについて語ったのでしょうか?
回答よろしくお願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/11/1914:52:35
「自分」と云うのは言い換えれば”認識の主体”であるとも言えます。
そして、人は瞬間瞬間に過去となる今の一瞬を記憶の糸で繋ぎ止めて物事を認識しているのです。
過去と言っても、何処を探しても過去なるものはなく、未来と言っても観念のみで、そんなものはありません。
人は今の瞬間を決して認識することはできません。
認知せられたものは、もはや、その瞬間ではないからです。
人は意識の流れの中でしか物事を認識することはできず、時間の区分である過去・現在・未来なるものも、概念(言葉)のみあって、そのような分かたれた時間が存在しているのではないのです。
現在は過去と未来に依存し、未来は現在と過去に依存し、過去は現在と未来に依存して成立する概念です。
相互に依存し、相互に限定するイデーは実体ではありません。
実に認識の主体(自分自身)にとっては今の瞬間しか無く、今の瞬間すら今の瞬間に於いて認識することは出来ないのです。
ブツダの言葉に以下のようなものが有ります。
「過去に対するわだかまりを捨て、現在に対する執着を捨て、未来に対する望みを捨てた者の名称と形体は消滅する。そのように観察するものは、過去に後悔なく、今に迷うことなく、未来に対する不安に苛まれることなく、只管に生きることができるであろう。」(趣意)
人は過去は変えられないのだから、何時までもくよくよと思い煩っていても仕方がありません。
しかし、今の自分の置かれた状況から過去の意義を知り、未来に正しく活かす事ができるのです。
これが因果の二法(原因と結果)ですが、原因と言っても結果が無ければ原因とは言えませんし、結果なるものには必ず何らかの原因や条件が伴わなければ現れない以上は、原因や結果も実体ではありません。
釈尊はカルマが有るとも、無いとも説きませんでした。
なぜならカルマは「縁起」であるから、本性については「空」であり、「空」なるが故に「不失」です。
過去のカルマは現在の姿であり、現在のカルマは未来のありかたを決定するのだから、生きているうちは善を心にかけて行動しなさい、と教えられたのです。
要は思い煩っても仕方ないことは思い煩うな、生きて行く上で遭遇する良い事も悪い事も、全ては有りの侭に受け止めて人生を虚しく過ごしてはならないと言う事です。
最古層に属する原始仏典にも釈尊が前世や来世について語ったような箇所が散見されますが、それらは後世の仏教教団による潤色であることが粗解明されています。
カルマを前世・現世・来世に於ける因果応報説と結びつけて固定して捉えれば、インド特有の生れながらの階級社会の是認に繋がりかねません。
釈尊は人間の認識能力を超えた事柄については定見を立てなかったのです。
これを「無記」とか「捨置答」と言います。
今風の言葉で言えばシカトでしょうか。
勿論、悟りについても、悟りに至る方途は説示しても、悟りそのものを説かれた訳ではありません。
これを「因分可説果分不可説」と言います。
質問した人からのコメント
2010/11/19 15:58:13
僕のカルマの認識が間違っていたようです。
僕は、カルマとは必ず前世・現世・来世と結び付いた考え方だと思っていました。
納得できました。
わかりやすい解説ありがとうございました!
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さん
2010/11/1622:09:43
▼look学会員▼が,防戦一方です。行方は?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1050353970
においてまたバトルが始まりました。いや,醜いこと。
ご感想をお願いします。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/11/1701:55:33
創価学会のモット―の一つに「信心即生活」と云うのがあって、戸田城聖以来の重要な教えなのだと聞いた事があるのですが、LOOk学会員は知らないようです。
他の回答者もその事を指摘していますよ。
まあ、譬えて言うなら真宗本願寺派の門徒さんが「南無阿弥陀仏」=「なもあみだぶつ」を知らないようなもの。
可笑しいでしょう。もしかしてLOOk学会員は創価信者じゃなくて、敵対関係にある日蓮正宗信徒か、冨士大石寺顕正会信徒の可能性がありますね。
要するにナリスマシですが、私達外部の者にとっては何れ劣らぬ地獄道でしょうから関係ありませんが。
質問した人からのコメント
2010/11/17 08:57:52
「信仰は日々の暮らしの中に」という日めくりがありました。私も少しずつ勉強したいと思います。
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さん
2010/12/2522:05:43
rsd37264様
法華経に説かれている世界観、宇宙観とは、一切の対立を超えて在るべくして在る。のであるから、全てをプラスの可能性として観るならば、全ては仏(永遠の真理、宇宙の生命)の説法であるということですか
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/12/2607:54:29
質問者の所説の通りです。
『法華経』「方便品第二」で「唯、仏と仏と、乃し能く諸法の実相を究尽したまへり」と説かれていることの真意はそこにあると思います。
一切は重重無尽の縁起の当体であるから一つも残らず塵も残さず全ては真実である。
経文には「一色一香無非中道」と説かれています。
如何なる境涯、如何なる思想や文化も皆、それ自体は唯一無二の掛け替えのない存在なのであり、本質的には一切の差別は無いのであります。
しかし、だからと言って、”あるがまま主義”なのでは決してありません。
一個の人間は他の全ての生きとし生けるものと繋がっています。
決して一人だけで生きている人は一人としていないのです。
私達は大宇宙の全てに生かされている事を自覚すれば、自ずと一切万有への感謝の念を生まれます。
自らの存在がたとえ僅かでも他者の為に役立てるように前向きに努力することが修行であると考えます。
仏の道を志す者は皆平等です。
なるほど、お金持ちの人も居れば貧しい人もおられるでしょう。
また、人の資質も千差万別ですが、全ての人間は他に掛け替えのない尊極の存在です。
なんとなれば、一個の人間の存在の中には無限の宇宙が具わっているからです。
その瞬間瞬間の真理の特質(諸法実相)すなわち自己と宇宙法界の瞬間の関係性を、瞬間の心は決して認識することはできません。
「諸法実相」とは思考や論議を超えたものなのです。
しかし、だからと言って如来は手を拱(こまね)いている訳ではありません。
常に「永遠の真理、宇宙の生命」におわします如来は、救済の手を差し伸べて居られるのです。
妙法蓮華経如来寿量品第十六
(鳩摩羅什訳の訓読)
「我常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って
応に度すべき所に随って 為に種々の法を説く。 毎(つね)に自ら是の念を作さく 何を以ってか衆生をして 無上の道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめんと。」
(相当箇所サンスクリット原文直訳)
23「わたしは常に、生きとし生けるものたちの中に道を行じている者と、行じていないものとがあるのを知っているから、相手に応じて様々な教えを説くのである。
常に私はこのように念じているのである。-どのようにしたら、生きとし生けるものたちを無上の道に誘い、早く仏の身(境涯)となれるようにすることができるのであろうか、と。」
今は亡き中村元博士は『法華経』をして「宥和一致の経典」と評せられ、その意味に於いて「諸経の王」たる風格を備えた経典であると考えられていました。
この『法華経』の寛容の精神は、大乗仏典としての『法華経』の特徴と言うよりも、ゴ―タマシッダルタの本来の仏教精神の発露であるとも言えるでしょう。
最初期の教理が記録される原始仏典のなかでも最古の仏教の姿を偲ぶことができる『スッタニパータ』には次のような釈尊の言葉が説かれています。
「いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。」
(『ブツダの言葉』岩波文庫P37/中村元訳)
仏の本願には、人類だけの、それも特定の民族の価値観や信仰、それに基つ゛く宗教を共にする人々だけが救済されるというような狭隘な思想は微塵もありません。
「生きとしいけるもの」すべての幸せを釈尊は心の底から願われたのです。
「毎自作是念 以何令衆生
得入無上道 速成就仏身」
合掌。
纏まりのない記述で申し訳ありません。病床ですので御勘弁ください。
私儀、rsd37264(等覚寺雅道)の命は残すところ、後二~三か月のようです。
最近は眼が思うに任せません。ものが霞み、おまけに二重に見えてしまうのです。
自宅療養していますので、加減の良い時は、昼夜を問わず回答したく存じます。
良い御質問でありながら納得がゆく回答が出来ず御容赦ください。
どうか、よい御歳をお迎えください。
敬具
(此の場をお借りします)
shamosika先生、御心遣い感謝申し上げます。先生の教えをもっと多く聴聞したかったです。
どうか、pukuma teddybear様にもrsdが感謝していた旨、宜しくお伝えください。
日蓮系の方から破折を受けた時に、援護射撃をして頂いた事、今でもとても深く感謝しています。
合掌。
shiritagaril様。貴重な記述をありがとうございます。立正大学の方々や日蓮宗寺院の住職にも友人や知人がいますので、少しは日蓮聖人の教えも齧らせて貰いました。
私は日蓮聖人を日本仏教の偉大な大先達のお一人として尊敬しています。
聖人の真意は、『法華経』の教主釈尊の教えの肝要「南無妙法蓮華経」以って苦悩に喘ぐ衆生を救済することにあったと拝察申し上げます。
合掌。
質問した人からのコメント
2010/12/26 13:45:36
rsd37264 様 ご返答を頂き心から感謝します。先生の御寿命をお聞きし涙が止まりません。先生は人間を区別無く愛し、その本質を信じておられるからこそ、時には厳しく、 また優しく対し、迷いから救い上げようという努力をされております。どうか病気と闘うのではなく、仲良くして(ひろさちや氏の本より)下さい。先生の御人 格に触れることができ幸せです。どうか寿命の増益を…祈念させて頂きます。失礼な文言をお許し下さい。 合掌
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/12/2215:58:09
ffkinsai_spaceさん。こんにちわ。
瑞喜如来様は益々お盛んで結講な事と存じ上げます。
rsdの爺さんは風邪をひいてしまい、さっぱり健康状態がすぐれません。
今は熱が37度台に下がっていますが、熱が上がれば意識が朦朧となる時もあります。
さて、創価学会のほんまもんの”教授”様が登場されましたね。
私みたいな外部の者ではなく正真正銘の”教授”にましますから、定めし御立派な方なのでしょう。
しかし、いくら相手が論敵であったとしても「馬鹿者」は、ちょっと言い過ぎだと感じました。
ほんまもんの”教授”様は信濃町から来られた尊い方なのでしょうね。
しかし、私はこの信濃町教授は好きにはなれません。
私はアンチだし、創価の方々とは色々と亙り合いましたが、心底嫌いな方は一人もいないのです。
しかし、信濃町教授様には他の学会員さんとは異なる異質なものを感じています。
すこしLOOkさんと似ているかな?
此の手の方と対論する時には、あくまでも余計な事は記述しない方が良いと思います。
解りやすく簡潔に相手は急所を狙ってくるでしょうから、文証を何時でも引用できるように揃えておくことも大切でしょう。
此の度の問答については私はコメントは差し控えさせていただきます。
なんとなれば、余計な事を言って瑞喜さんの邪魔をしたくないからです。
但し、日寛教学に於ける『本門戒壇之大本尊』の真偽の件と「釈尊脱仏・日蓮本佛」に関する件を突いてきた事は、なかなかに信濃町教授は侮れぬ方だと当方は見ています。
しかし、仏教の本質を考えるならば、最後に勝つのは如何なる場合にも慈悲の心を失わなかった方だと思うのです。
御仏の説かれた教法は人を裁くものではありません。
仏の本願はあくまでも衆生の幸せにこそあるのですから。
まあ、私から瑞喜如来さんに余計な事が言えるのは此処までです。
今年はなにかと面白い思いをさせて頂き、厚くお礼を申し上げます。
どうか、よい御年をお迎えくださいませ。
等覚寺雅道 敬具。
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/12/2115:22:55
確かに貴方が指摘する方々の中には異常な方々もいます。
しかし、彼等は言わば創価学会の指導通りに信仰して来られた方々じゃないですか。
なるほどね。来年は統一地方選挙だし、下手をすれば衆議院解散だってあり得ますよね。
そうなると、確かにネット上で非常識な投稿をして一般の利用者の顰蹙を買っている学会員は邪魔だというわけか。
そうですとも、貴方達、創価学会は”御本尊”とやらまで使い捨てにするくらいですから、学会員の10人や20人くらい、いざとなれば何の躊躇もなく切り捨てるのでしょう。
古くなって現状認識に適さなくなった学会員はもはや”反価値”の存在でしかなく、反価値すなわち悪であり醜なわけですな。
彼等は所詮は”道具”ということか。
「利・美・善」じゃなくちゃ創価学会は困るんだからな。
創価学会の掲げる「利」とは”利益”のことだから、それの反対概念は”損失”な訳で、今となっては宗教カテの殆どの創価の住人達は排除されて然るべき用無しの存在でしかない訳ね。
とても理解し易い理屈だが、背筋が凍りそうな冷徹な思想を貴方の記述に感じました。
余程、信濃町で”お偉いさん”になられる方なのでしょうね。
貴方の文章からは鼻持ちならないエリート臭がぷんぷん漂うてきます。
lookoutoverさんやtaketorisutouriさんを何とかしてくれるのなら、それは有り難い限りだが、その反面、彼らもまた使い捨ての存在に過ぎない哀れな方々かと思うと複雑な思いがしないでもありません。
なんだか切り捨てられる学会員さん達が気の毒に思えてきましたね。
質問した人からのコメント
2010/12/23 18:08:11
RSDさん。僕は貴方に大変に失礼なことをしてしまいました。
許してください。仕事で行き詰まり、貴方のようなゆとりのありそうな老人が妬ましかったのです。
謝っても謝りきれませんが、このカテを去る覚悟です。
今まで色んなIDで貴方に嫌がらせをしてしまいました。
この場を借りて謝罪します。
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
2010/12/2606:30:01
rsdさん他、皆様方へ
密教真言的に解釈すると
①↓南無妙法蓮華経と
http://www.youtube.com/watch?v=M2BRj7oQJf8
「釈迦の真言→ナウマク・サマンダ・ボダナン・バク 」は音が同じです。
②↓大悲心陀羅尼と
http://www.youtube.com/watch?v=1i95K4OgYhU
「文殊の真言→オン・アラハシャ・ノウ」は音が同じです。
******************************
だから、文証(もんしょう)では法華経は釈迦直説でなくても、釈迦の思考を具現したお経です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1352462408
たとえば、法華経が後世の人達の執筆であっても、
執筆者が「霊夢で釈迦と会話をして、釈迦が説いた内容」を記せば、
法華経は釈迦の説法を記したものになります。
↓密教真言の音
http://www.youtube.com/watch?v=a0hCCMU7EYc
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/12/2610:43:23
「日蓮聖人」の『開目抄』には以下のような記述があります。
「妙法蓮華経と申すは漢語なり、月支には薩達磨分陀利伽蘇多攬と申す、善無畏三蔵の法華経の肝心真言に云く「曩謨三曼陀没駄南(ノウマクサンマンダボダナ
ン)〈帰命普仏陀〉唵(オン)〈三身如来〉阿阿暗悪(アアアンナク)〈開示悟入〉薩縛勃陀(サルバボダ)〈一切仏〉枳攘(キノウ)〈知〉娑乞蒭毘耶(シャ キシュビヤ)〈見〉伽誐誐曩三娑縛(ギャギャノウサンソバ)〈如虚空性〉羅乞叉儞(アラキシャニ)〈離塵相也〉薩哩達磨(サツリダルマ)〈正法〉浮陀哩迦
(フンダリキャ)〈白蓮華〉蘇多覧〈経〉惹(ジャ)〈入〉吽(ウン)〈遍〉鎫(バン)〈住〉発(コク)〈歓喜〉縛曰羅(バサラ)〈堅固〉羅乞叉〔マ ン〕(アラキシャマン)〈擁護〉吽(ウン)〈空無無願〉娑婆訶(ソワカ)〈決定成就〉」此の真言は南天竺の鉄塔の中の法華経の肝心の真言なり、此の真言の
中に薩哩達磨と申すは正法なり薩と申すは正なり正は妙なり妙は正なり正法華・妙法華是なり、又妙法蓮華経の上に南無の二字をを(置)けり南無妙法蓮華経こ れなり」
(『開目抄』曾存遺文・時代書写
日興上人要文 北山本門寺蔵・録内二ノ一)
「日蓮聖人」は「南無」は梵語でり、「妙法蓮華経」は漢語であると仰せられ、「梵漢共時に南無妙法蓮華経と云うなり」と後世に成立した『御義口伝』には説かれています。
(追記)
尚、現代仏教学に於ける『法華経』等の大乗仏典の評価は、私が愚見を述べるよりも他の方の回答に私は引用させていただいたものがありますので、宜しければ御覧ください。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1250293427
貴殿が末永く活躍されますことを。
質問した人からのコメント
2010/12/30 18:10:15
密教真言は、時代を超越して客観的人間科学です。
現世で会えなくても、来世でお会いしましょう。
あなたは、博識豊かな文殊の音です。
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
2010/12/2501:22:01
rsdさん。今日で年内の仕事が終わりました。何か仏教のお話が聞きたいです。遅くなったので、明日、気がついたらでいいですから。
rsdさんがいんちんばん好きな仏様のお話をしてください。
お願いします。
おひまな時でいいです。
補足さようならなんて言わないでください。また、いいお話を聞かせて下さいね。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/12/2618:47:51
お仕事ご苦労様でした。
では、今、思いついた仏教のお話を致しましょう。
ずっと昔、遠い昔のお話です。
お釈迦様がお生まれになる遥かな遠い大昔に、インドに大きな森がありました。
その森にはお猿さんとタヌキさんとカワウソさんとウサギさんが棲(す)んでおりました。
四匹の動物達は、森のそれぞれの場所で暮らしていましたが、とても仲良しでした。
一日のうちで一度は森の中ほどにある広場に集まって互いに元気で暮らしているかを確かめあっていました。
四匹の動物たちの中で、ウサギさんは一番弱い動物でした。
タヌキさんのように知恵もありません。
カワウソさんのように川で魚をとることもできません。
お猿さんのように木登りもできません。
いつもお腹を空かせていましたので、気の毒に思った仲間が食べ物を分けてくれることさえあったほどでした。
そんなある日のこと、一人のお爺さんが森の中に歩いて来ました。
見ればぼろ布を身にまとい、痩(や)せていてよろけながら歩いていました。
彼は森の中央にある広場の真ん中まで来ると、とうとう倒れ込んでしまいました。
四匹の動物達が修行者の傍に駆け寄りました。
するとお爺さんが言いました。「お腹が減って死にそうです。何か食べ物を恵んでください」と。
四匹の動物達はそれぞれに食べ物を行き倒れのお爺さんのところに持ち寄ることにしました。
木登りが得意のお猿さんはマンゴーの大木に登ってよく熟したマンゴーの実を採って来ました。
タヌキさんは土の中から山芋を掘り出して持って来ました。
泳ぎが得意のカワウソさんは、川で魚を採って持って来ました。
三匹の動物達はお爺さんに言いました。「お爺さん。どうぞお召し上がりください」と。
お爺さんは山芋とマンゴーの実をあっという間に食べてしまうと森の中の小枝を拾い集めてカワウソさんの採って来た魚を焼いて食べてしまいました。
ところで、ウサギさんはどうしたのでしょうか?
実はウサギさんも食べるものが無くてお腹を空かせていたのです。
ウサギさんは体の中に居るノミやシラミを丁寧につまみ出して逃がしてやりました。
広場で三匹の動物達がウサギさんの噂をしているところに、ウサギさんがやって来ました。
見れば手ぶらではありませんか。
すると、ウサギさんが次のように言いました。
「お爺さん。お願いですから、焚火に小枝をたくさん足して下さいませんか」と。
お爺さんは小首を傾げてウサギさんの言う通りにしました。
他の動物達も手伝いました。
焚火の火焔は小枝をたくさん継ぎ足したおかげで勢いよく燃え盛りました。
するとウサギさんは「お爺さん。私は貴方になにも差し上げるものがありません。自分の体を焼きますから、どうぞ私の肉を食べてください。」と言い終わるや否や、火焔の中に勢いよく飛び込んでしまいました。
お爺さんも、動物達も皆びっくりしました。
火焔はパチパチと音を立ててウサギさんの体を焼きました。
お爺さんは大慌てで、そこらじゅうの砂をかけて火を消し止めました。
でも、すでにウサギさんの体は火焔にすっかり焼かれて死んでいました。
お爺さんも三匹の動物達も声をあげて泣き叫びました。
三匹の動物達は泣きながら言いました。「お爺さん。どうぞ。ウサギさんの体を食べてあげてください」と。
お爺さんは泣きながら焼けたウサギさんの体を天に捧げて食べてしまいました。
すっかりウサギさんの体は食べ尽くされて白い綺麗な骨だけになりました。
お爺さんと三匹の動物達は広場の中央に穴を掘ってウサギさんの骨を埋めてあげました。
そしてお爺さんは森を立ち去って行きました。
三匹の動物達も、しょんぼりとそれぞれの巣に帰って行きました。
その夜。不思議なことが起こりました。
お月さまが何時もより明るく輝いていました。すると森中のしずくが集まって天まで届く細長い川となりました。
川は世界中の金や銀を散りばめたように光輝き、月から森の広場まで続いています。
三匹の動物達は驚いて広場に駆けつけました。
広場には大きな燦然と光りを放つ巨大な月船(つきふね)が空中の川に浮んでいました。
月船から一人の髪を髭も衣装も真っ白な天人が降りて来て、ウサギさんの骨を掘り起こすと、骨は光を放ちウサギさんの姿になりました。
三匹の動物達は大喜びです。
天人はウサギさんを月船に乗せると、月船は細い川を伝って月の世界に登って行きました。
三匹の動物達は何時までも何時までも名残惜しそうに見送っていました。
今、月を仰ぎ見ると、そこには心の優しいウサギさんの姿が見えます。
貴女の心の中にもウサギさんのすんでいる月が輝いているのです。
おわり。
よい御歳をお迎えください。さようなら。
等覚寺雅道。
合掌。
【補足への回答】
rsdは病気の年寄りですから、明日の命の保証はありません。
毎日が出会いであり、サヨナラだと思って生きています。
また、明日会えるといいですね。
質問した人からのコメント
2010/12/27 13:32:32
なんど読んでも涙がでてきます。rsdさん、わたしの御爺ちゃんになってください。
いつまでも長生きして、素敵なお話を聞かせてください。
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
さん
2010/12/1813:56:31
@浄土宗@は創価学会と同じような論難教団ですか?
他宗派を邪義と断定し、馬鹿な創価学会員の質問に顔を出して、やれ「十悪」だ、やれ聖道門の教えだ」と屁理屈垂れる浄土宗信徒はいったい何様でしょうか?
参考)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1446769484
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1249205927
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1248761142
馬鹿な創価学会の瑞喜如来から浄土系の信仰を守ってくれた方を、こともあろうに創価学会員オマンコブチコメと一緒になって論難した浄土宗信徒(おそらく僧侶)を法然聖人や親鸞聖人はどのように思われるでしょうか?
(創価学会員の回答はいりません)
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/12/1820:13:27
私はあの方の質問に答えるつもりはありません。また、答える義理もない。
ただ、それだけの事です。
なるほど、私は一宗一派の教義に拘泥して他者に「邪義」だの「異端」だのという輩は嫌いです。
知恵袋の趣旨から言って、個人の宗教観を尋ねる場ではないと思うのですが、聞くのも自由ですし黙殺するのも自由でしょう。
但し、彼が言うように私は「十悪の存在」です。
しかし、私は「聖道門」を「成仏できない」理由に挙げている彼には深く失望しています。
今の時代に、いったい何処の宗派が「聖道門」にあたるのでしょうか。
法然聖人が「聖道門」として「捨閉閣抛」を主張された往時と今とでは日本仏教のありかたは大きく様変わりしているのです。
私の友人にも浄土宗の寺院の住職さんが幾人もいます。
皆さん、ザックバランで気の良い人達ですよ。
貴方が非難している方は20代後半の方だそうですから、聊か理屈っぽいのかも知れません。
あの方の質問は貴方の推察通りにスル―したのですが、だからと言って呼ばれていない貴方が彼の質問に答えて嫌な思いをする必要はないと思うのです。
また「馬鹿」とか言われた貴方に対しても申し訳ない思いです。
今後は私に対する質問は私が答えるか否かを判断しますので、スル―して頂くとありがたいのですが。
質問した人からのコメント
2010/12/18 20:18:18
RSDさん。今回はいささか出過ぎたまねをしたようです。反省しています。
今後ともご指導のほどよろしくお願いします。
♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦
《海外の思想家から観た日本の仏教芸術について簡潔に述べよ》という冬休みの課題があるのですが、どんな些細な事でもかまわないので、教えてください。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/12/1420:04:46
飛鳥時代の作である京都太秦の広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像は、国宝第一号に指定され芸術的に有名であ
るのみではなく、カール・ヤスパース(1883年~1969年)が次のように述べているように、思想の上からも一つの理念を表現しているものとして見逃す ことのできない我が国の仏教彫刻であると言えるでしょう。
ヤスパースは仏教の理念と芸術的な美の一つの凝結した姿として弥勒菩薩半跏思惟像を捉えています。
以下に彼の弥勒菩薩半跏思惟像の評を記述します。
「私は今まで哲学者として、人間存在の最高に完成された姿としての表徴として、いろいろのモデルに接してきました。古代ギリシャの神々の彫像も見たし、
ローマ時代に作られた多くのすぐれた彫像を見たことがあります。しかしながらそれらのどれにも、まだ完全に超克されきっていない地上的人間的なもののにお いが残っていました。理知と美の理想を表現した古代ギリシャの神々の彫像にも、地上的なよごれと人間的な感情が、まだどこかに残されていました。キリスト
教的な愛を表現するローマ時代の宗教的な彫像にも、人間存在の本当に浄化されきった善というものが完全に表現されてはいないと思います。すれらのいずれ も、程度の差はあっても、まだ地上的な感情のよごれを残した人間の表現であって、ほんとうに人間実存の奥底にまで残しえた者の姿の表現ではないのです。
しかるに、この広隆寺の弥勒像には、”真に完成されきった人間実存の最高の理念”が、あますところなく表現されつくされています。それは地上におけるすべ
ての時間的なるもの、束縛を超えて達しえた人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な姿のシンボルであると思います。私は今日まで何十年かの哲学者と しての生涯のなかで、これほど人間存在のほんとうの平和な姿を具現した芸術品を見たことはいまだかつてありませんでした。この仏像はわれわれ人間のもつ心
の永遠の平和の理想を真にあますところなく最高度に表徴しているものです。」
広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は昭和25年(1950年)に文化財保護法施行により、彫刻部門の第一号の国宝に指定されましたが、それにはドイツの実存哲学者、カール・ヤスパースの最大級の賛辞も大きく影響していると言えます。
現在、文化庁では文化財や美術品の価値基準を設けていますが、それらは先行回答者が記述されているフェノロサの件でも理解できるように、主体性の脆弱な我
が国の民族性は独自の「a
standard of value(価値基準)」を持ち合わせていなかったことの証とも言えます。
ご参考まで。
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さん
2010/11/1120:09:32
仏教でいう空観という思考方法は、実際生活に於いて、どのような思考をすることなのでしょうか?
rsd37264さん
編集あり2010/11/1122:43:01
空観を難しく言えばきりがないから、私達の実際の生活に当て嵌めて言えば要するに「偏見を持つな」・「無用なこだわりを捨てよ」・「物事に対する過剰な執着は無用だ」と言う事でよいのではないでしょうか。
始めから一定の主義や主張にこだわり過ぎると、物事を有りの侭に見ることができず、判断を誤る事があります。
だからと言って、以上の言葉を絶対視して、「兎に角、『こだわらない』のだ」・「一切の執着を捨てて無気力になろう」等と考えるのも、それは一つの「こだわらない」と言う立場にこだわった姿だと言えます。
だから、「こだわらない」と言う事も固定的にはとらえないと言う事でもあります。
時には。大いにこだわりを持つ事も必要な訳です。
この世の有り様は、瞬間瞬間に原因と条件の変化につれて変遷万化するものだから、思い込みにはとらわれず、常によく気をつけて観察する事、換言すれば臨機応変の智慧の眼で見る事が「空観」だと言えます。
簡単に言えば以上のような事で良いと思います。
要するに歪んだ色眼鏡をかけて物事を見たりしない事でもあります。
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rsd37264さん
2010/11/1119:07:35
如何なる宗教も、信じる側の妄信や狂信によって危険なものと化す可能性を秘めています。
これを一般的には「カルト化」と呼び、宗教学では「宗教の悪魔化」と呼んだりもします。
何もオウム真理教のような極端なカルト教団だけが危険なのではありません。
如何なる宗教であっても、それがたとえ由緒正しい伝統宗教であっても、極端なドグマシズム(教条主義)に陥りセクトの要件を満たせば危険なカルト教団と化す恐れがあるのです。
キリスト教も過去に十字軍戦争や魔女狩り等によって多くの尊い人命を犠牲にしてきた痛ましい歴史があります。
仏教は比較的穏健な宗教であると言えますが、教義対立から深刻な宗教被害をもたらした例がない訳ではありません。
宗教の為に人間があるのではありません。人間が心豊かに生きて行く為に宗教があるのです。
殊更に、宗教的な立場に固執して人間の本性に背いた思想は、如何なる宗教をも危険なカルトに変えてしまうのです。
私達だけが唯一正しいと他の宗教の存在価値を認めず、また宗教的にリベラルな立場を認めない宗教は特に危険だと言えるでしょう。
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rsd37264さん
編集あり2010/11/1122:48:49
『法華経』は「開三顕一」を説いて仏教内の宥和一致を主張していますが女人や悪人(地獄界)或は畜生界の衆生は「開会」していません。
実は鳩摩羅什の訳した『妙法蓮華経』には「提婆達多品第十二」は含まれておらず、六訳三存中の他の『添品法華経』・『正法華経』にも『提婆達多品』は欠品
となっており、その原典とされる原『法華経』のハイブリッドサンスクリット本にもチベット本にも、それに相当するものは含まれていません。
現代仏教学に於いては『法華経』の「提婆達多品第十二」は羅什が翻訳した『妙法蓮華経』に中国で別本挿入された偽経です。
従って、「これは、法華経でなければ二乗・悪人・畜生は成仏できないと教えていますよね?」とは言えない訳です。
また、羅什翻訳の『妙法蓮華経』は文学的には非常に価値の高い漢訳経典であり、古来より我が国でも尊重されていますが、内容的には原典に必ずしも忠実ではなく、諸外国の仏教学者からは「創作経典の創作的翻訳」と揶揄されている事も認めるべきでしょう。
貴殿等は『法華経』に帰依している訳ではなくて、『法華経』「如来寿量品第十六」に「秘沈」されている「南無妙法蓮華経」に帰依しているのですよね。
だから厳密には『法華経』=「南無妙法蓮華経」ではないと言う事ができますね。
換言すれば究極の『法華経』とは「南無妙法蓮華経」ということになりますよね。
「日蓮聖人」も「余経も法華経も詮なし、只、南無妙法蓮華経なるべし」ですからね。
我が国の仏教は概ねは祖師仏教ですから、それは解釈仏教であり、今の仏教学の水準で言えば「なのに何故、法華経に帰依せず他経に帰依してしまうのですか?」は愚問と言う事になります。
天台教学に多大な影響を与えた「四十余年未顕真実」の文句のある『無量義経』は5世紀に中国で創作された「偽経」です。
また、中国佛教や我が国の『法華経』系の宗派の教義は各自に尊重されて然るべきものではあるが、他経を依経とする宗派を論難するのは時代錯誤と言うべきです。
参考URL。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1049386075
恐らく諸宗の祖師達の中で『法華経』のサンスクリット本を読めたのは弘法大師空海一人だと言えるかも知れません。
【追記】
「提婆達多品」について鳩摩羅什の漢訳した原典には欠本となっており、異本には「見宝塔品」中に含まれていますが、1世紀頃に成立した原典には含まれておらず、中華文明の影響が及んでいたホータンかクチャあたりで3世紀頃に『法華経』に編入された可能性が高いのです。
羅什翻訳の『妙法蓮華経』には欠品であった理由は判然とぜず、『妙法蓮華経』に挿入されたのは羅什以降の中国に於いてです。
『法華経』を格別の経典として祀り上げて行く過程はクチャ以東に始まったと見てよく、その流れの中で当品の不可解な操作や『無量義経』も創作されたと見た方が妥当でしょう。
いずれにせよ「提婆達多品」は正当な仏教教団が創作したものではなく、『法華経』が成立した後に付加された品である事は確かなようです。
また「結要付嘱」が説かれているとされる「如来神力品」は原典に於いては「如来寿量品」の末尾に位置し、その漢訳と原典を読み比べてみても、「結要付属」なるものに末法思想を結び付ける事は不可能です。
日蓮の解釈は一解釈としての価値を有するものであると考えた方がよいでしょう。
『法華経』に限らず大乗仏典の成立過程とは是の如きものであるから、余り経典の優位性を唱えて勝劣を判じるのは意味がありません。
また、「八宗の祖師」である龍樹の思想は、全ての大乗宗派の基礎にあるものですから、取り立てて一宗派のみの正当性を担保するものでもないのです。
鎌倉時代ならいざ知らず、現代に本質問者の如く「法華至上主義」のような事を言えば笑われるだけですね。
天台や日蓮は実に偉大な仏教の先達ではあるけれども、時代的な限界を含む事も忘れるべきではありません。
現代と言う時代に、仏教徒は共に手を携えて世界的諸問題に協力して取り組むべきであり、仏教内に確執を齎す無用な宗論は控えるべきでしょう。
中村元博士は以下のように仰せです。
「仏教はブツダの悟った理法を世俗諦としてのロゴスをかりて説くのであって、教義を説くのではない。諸宗教や哲学で説く教義や原理なるものは、偏見であるとしてこれに固執する態度を誡めている。
ブツダは法の領域における普遍的な理法を言葉をかりて説いたのであって、新しい「仏教」なる宗教を創始した自覚が彼には無かったと言ってよい。」
(『中村元・試論ノ―ト』より)
*インド伝来と言っても「提婆達多品」は原『法華経』に含まれていない別系統テクストの挿入です。
それも原『法華経』が成立した場所とはかなり異なるクチャ辺りで編入されたものです。
本回答では日蓮聖人を責めているのではなく、現代における他宗論難の不当性を主張しているのです。
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さん
2010/11/920:06:51
日蓮は、創価学会員なのですか?
入会証があれば見せてください。
補足「御返事」が入会証と創価学会が言い出すとか。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
編集あり2010/11/1421:38:17
日蓮は創価学会員ではありません。
入会証は持ってはいないのです。
日蓮は「弘安五年十月十三日」に死んでいますが、西暦に換算すると1282年11月21日となります。
創価学会の全身である創価教育学會の設立が1930年ですから、日蓮の死後648年目に出来た事になります。
因みに今年は日蓮の死から728年目にあたっており、創価学会では年に一度の「財務」と称する御布施のシーズンだそうです。
創価学会の会員証である『広布部員証』は先ずは入会金3000円を払って入会し、「財務」で一口1万円のお布施をすれば貰えるようです。(1万円以下の端数は不可です)
有効期間は一年間ですので毎年財務をしなければなりませんが。
【補足への回答】
「御返事」とは日蓮遺文中の「消息文」或は「礼状」等の書簡(手紙)にあたります。
手紙は「入会証」にはなりませんが、創価学会なら言い出しかねないかもね。
質問した人からのコメント
2010/11/17 01:29:52
アセンション時、絶対に創価学会の幹部が持ち出しそう。
日蓮が言うところの悪魔、実はこれもそうなのかも。
回答ありがとう。
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さん
2010/11/1110:53:57
創価学会の総資産
いくらですか?
ベストアンサーに選ばれた回答
さん
2010/11/1112:11:43
池田さんは創価学会は国でいったら世界で21番に相当するといってますので、国家予算が21位のフランスと同額の38兆円ぐらいじゃないですか。
質問した人からのコメント
2010/11/13 14:04:08
宗教って怖いですね
2010/11/1116:08:35
2008年当時で総資産11兆5000億円と言われていました。
現在では、海外に分散している不動産やゴールド分を合わせると11兆円~12兆円までくらいだと推測されます。
総資産の90%は不動産であり、他は貨幣やゴールドの運用に宛てているようです。
その内、池田ファミリ―の所有資産は約1兆円と言われ、米国のゴールドマンサックス社の調査によればスイス銀行からニューヨークへ6000億円、ブラジルに4000億円の個人資産が移されたそうです。
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rsd37264さん
編集あり2010/11/1121:55:58
創価学会員の方々は、常に歪んだ色眼鏡をかけて世の中を見ています。
その歪んだ色眼鏡とは、創価学会の都合次第で物事を見る事ができる色眼鏡です。
また、彼等は自分達にとって都合の悪い事には一切、耳を傾けようとはしません。
創価学会や池田センセイにとって都合が悪い事は一切聞こえない特殊な耳栓をしているようなのです。
そんな方々が貴方の真摯な問いかけに回答するとは到底私には思えないのです。
それどころか、彼等は一度、相手に対して「反創価」のレッテルを貼り付けると、もう相手の言い分の是非などどうでもよいのです。
私もアンチ創価の部類の人間ですから、その事は身につまされて感じています。
創価学会は自分達の目的を達成する為には手段を選ばぬ組織です。
今は大きな国政選挙も無く、主な活動目標は財務と新聞啓蒙ですから比較的に暇な学会員が多く、質問回答削除隊は意気盛んと言ったところでしょうか。
例えば、仏教一般についての質問が投票に付された場合には、アンチの方々が回答した質問は、それが創価学会とは全く無関係な内容であっても、殆どの場合は投票によって取り消されてしまいます。
彼等にとっては、事の是非善悪よりも自分達の組織の都合の方が大切なのです。
そんな連中に真摯に問いかけても、所詮は道端の草木に問いかけた方が、心が癒される分だけ幾らかはましでしょう。
今回の尖閣諸島沖中国船舶領海侵犯並びに我が国の艦船に対する故意による衝突事件に対する創価学会員の感想を聞いて私は顎が外れるほどに愕然となりました。
http://www.geocities.jp/morino_miyakowasure/senkaku.html
創価学会員からの発言からは日本人としての自覚が丸で感じられません。
彼等にとっては日中友好の立役者?である池田大作氏の偉業?を疵つけるものは、全て悪なのです。
貴方達は何人?と問いかけてみたくなりますね。
今回の海上保安庁職員によるビデオ流出の件については、法律論は兎も角としても、その職員のとった勇気ある行動に対しては卒直に感謝申し上げたい。
いつの時代も義狭心のある清錬の士は損をするのです。
どうか彼を裁く立場になるかも知れない一般市民には、彼に対して寛大な判決を下されんことを請い願い上げます。
そして、歪んだ色眼鏡をかけて世の中を見ている創価学会員が裁判員に紛れ込まないように願わずにはいられません。
【補足への回答】
仰せは御尤もです。しかし、然るべき筋の情報では、創価学会や池田大作は彼等が言うほどには中国には影響力を及ぼす力はないそうです。
もしも、彼等に中国政府に影響力を行使できる程の実力があれは、彼らとて国内向けの宣伝も兼ねてそうすることでしょう。
今は只管瞑目しているより他は無いと言うのが実情のようですよ。
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さん
2010/11/1018:02:19
ほんものでないもの
私は子供の頃からウソはいけないとしつけられましたが,
「積極的に嘘をつけ,相手を苦しめるために」と池田教は教えるのですね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1049961700
『聖教新聞』なんて名前からウソですから。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/11/1018:24:26
そうです。創価学会に入会して三年三月三日も経過すると、真正の大嘘つきになるみたいです。
「責めて責めて責め抜け」或は「追撃の手を緩めるな」ですから、これじゃ仏教すなわち「聖教」じゃない訳で、『聖教新聞』は名称からして大嘘ですね。
学会員は自分達の屁理屈が破綻すると、後は未練がましい個人攻撃した能がないらしいです。
質問した人からのコメント
2010/11/10 18:37:56
先生,申し訳ございませんでした。「未練がましい個人攻撃」するようじゃ,一刹那を大切に生きてませんね。今目が覚めました。
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ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/11/913:24:42
この宗教カテで繰り広げられている日蓮正宗と創価学会の誹謗中傷合戦に辟易している方々は多いのです。
出来れば、『日蓮正宗VS創価学会』の専用サイトでも立ち上げて、そこで心行くまで罵り合いをして貰えばいい事です。
こう言うと失礼かも知れませんが、日蓮正宗サイドが創価学会を批判している情報の中には、事実に基つ゛くものもあれば、顎が外れそうなガセネタも散見されます。
また、殆どが嘘と誇張の産物である創価学会サイドの情報にも、中には事実として認めざるおえないものもあるのです。
もう、こうなれば宗教対立とかと言うような高尚な次元の問題ではなく、拗れに拗れた男女関係と何ら択ぶところはないでしょう。
「悪質すぎ」るのは、傍目には、どっちもどっちですが、創価学会は元が俗人集団だから、日蓮正宗のお坊様方よりエゲツナイのは当たり前の事なのです。
私は台湾の仏教会の方々とも親交がありますので、阿部日顕前管長の海外での評判はよく知っています。
なるほど「日本花和尚」の一件は創価学会がマスコミに嗾けたものだったらしいのですが、現地のテレビ局にせよ裏取りをして放送しているので、阿部日顕氏始め日蓮正宗僧侶が、高級ホテルに滞在していた事は事実だったようです。
仏教僧の戒律が厳格な海外では、日本とは事情が異なる事を考慮しなかった日蓮正宗の不見識が、結果として日本の仏教会までも辱める事になったのですから、日蓮の教えにもあるように、国柄を知るのは大切な事だと思うのですが。
要するに、元信徒団体の連中から、揚げ足を取られるような不見識な事はしなさんな。と言う事です。
創価学会の連中が非常識かつ悪辣なのは認めますが、日蓮正宗が教導し損ねた挙句に破門して、益々宗教被害が拡大しているのですから、その責任を痛感して貰わないといけないと思いますよ。
日蓮正宗サイドに『百禍繚乱』と称するサイトがあり、創価学会を表看板に殆ど全ての仏教宗派や他の宗教を人間の不幸の元凶であると言わんばかりに誹謗中傷していますね。
http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/
こんな排他的・独善的な宗派がネット上で賛同者を募っても、賛同してくれるのは同門の方々だけでしょう。
世間一般の感覚から言えば、「どうぞ元師筋と元弟子筋が、同志討ちして仲良く衰滅してください。」な、と云う事のようです。
これこそ”闘諍言訟して悪法隠没”すると言うところでしょうか。
まあ、創価学会員も日蓮正宗には3000億とも5000億とも言われる巨額の布施をしている上に、正本堂やら客殿まで叩き潰されているのですから、怨み骨髄なのは理解できますし、池田さんに偉そうにされてブチ切れた日顕さんの気持ちも解らなくはありません。
しかし、ネット上で、自分達の立場に賛同者を募ると言うのは、少し生恥ずかしいとは思いませんか。
それに自分達が破門しておいて、他の教団の葬儀にケチをつけるのも可笑しいと思いますよ。
それにしても『聖教新聞』にも、たまにはマトモな事を書いてますね。
確かに日蓮遺文の中には卒塔婆供養を強要したものは皆無ですし、葬式の具体的な指南はないようです。
勿論、『法華経』の肝要とした「南無妙法蓮華経」を根本にしなさいと言う指南は散見されますが。
質問した人からのコメント
2010/11/9 16:30:06
創価学会の人たちは,このカテで,私が嫌だと言うくらい嘘をつきましたから,信用はしません。日蓮正宗の方が,どういうことをしていることは分かりません。
しかしはっきりしていることは,創価学会の人たちは,一般人に執拗に嫌がらせをすると言うことです。その会員を注意せず,調子に乗って他の会員も嘘をつくところがいやなのです。
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さん
2010/11/910:11:14
rsd37264に,密教(?)についてお尋ねします。
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私と夫は,二人とも信仰をしていますが,はっきり異なるところは超常現象に関する考え方です。夫は「どちらとも分からないものは,判断しない。莫妄想だ」と言いますが,私は浄土も霊も信じています。
夫の父親と伯父の霊を見てからは,読経と寺院巡りをしていますが,『法華経』,『般若理趣経』,真言宗の『三陀羅尼』を読み始めてから,私の額に八葉蓮華,胎蔵曼荼羅,金剛界曼荼羅,合行曼荼羅らしきものが現れました。
菩提寺の副住職と日本では珍しい哪吒様がある寺の住職によく相談するのですが,赤ちゃんがたくさん現れたかと思うと消えるのが見えると言っています。
これは霊が生まれ変わりをしているのだと思いますが,いかがでしょうか。お尋ね申しあげます。
末筆ながら,お元気で冬を迎えるよう,お願い申し上げます。
ベストアンサーに選ばれた回答
rsd37264さん
2010/11/912:24:41
修行者の宗教体験は、その本人が感得したものなので、他人が肯定も否定も出来ない性質のものです。
『華厳経』には事事無碍法界縁起と唯心法界が説かれていますが、この世界に存在する全てのものは、孤立しているのではなく、互いに限りなく関わり合い、通じ合い、働きあって存在していると説かれています。
一つ一つは、個別に存在しているように見える事物も、全ては繋がり影響し合って大きな一つの世界を造り出しているのです。
その主体こそは私達の心であります。
心は外の世界を、ただそのままに映し出しているのではなくて、自ら外の世界に働きかけて、その世界を造り上げていきます。
あらゆる存在には、大宇宙の一切が無限に関わり合って成立している唯一の尊極無比の存在であり、あらゆる人々はかけがえのない世界の創造者であると説かれています。
そして、心は、その心が造り出す瞬間の心のあり様を決して知ることはできないのです。
考えてみれば、心とは実に不思議な存在であると思うのです。
「不思議」とは思考や論議の及ばないということであります。
心が有ると言っても色も形もありません。また、私達自身が、喜怒哀楽を感ずる故に、心が無いとは決して言えません。
心とは有(存在)と無(非存在)と云う二極対立の観念では捉える事ができないのです。
その心と仏と及び衆生との三つには差別が無いと『華厳経』には説かれています。
「霊」と言い「魂」と言い「命」と言うも、それは仮に名つ゛けられたものにして、その不可思議なあり方は、「ああだ。こうだ。」と凡夫が浅はかな思案をめぐらし、論議してみても、それらは所詮は戯論に過ぎないのです。
修行者個人の感得した境地は、言葉で表現して伝えても、言葉となった以上は、その境地そのものではなく、もはや境地に関する知識に過ぎません。
人は意識の流れの中で、順序次第を踏まえて言語化することによって理解する動物だからです。
仏教の経論は全て「因分可説・果分不可説」なのです。
命のありかたは実に不可思議であり、瞬間瞬間が甦りであり、生と死も、それは命の現象であって、命が無くなったり、生まれたりするものではありません。
龍樹菩薩は『中論』の帰敬序に次のように述べています。
「(宇宙においては)何ものも消滅することなく(不滅)、何ものも新たに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒である
ことなく(不常)、何ものそれ自身と同一であることはなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも (我らに向かって)来ることなく(不来)、(われらから)去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起の理法を説きたもうた
仏ブツダを、もろもろの説法者のうちで最も勝れた人としてわたくしは敬礼する。」
(『プラサンナパダー』より中村元訳)
「不生」新たに生まれて来たものではないから、したがって「不滅」滅びるということはない。
「不来」、何処からか来るものではないので、何処かに去りゆくものでもありません。
修行者の感得を私ごとき者が云々すれば、それは「戯論」になるのです
「密教」とは、”教師の握り拳”のように知っている事を秘密にして隠している教えではありません。
真実は常に万人の眼の前に有るけれども、殆どの人々は五眼(肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼)の中で肉眼のみが開眼し、他の心眼は閉じているのです。
私が申し上げる事が出来るのは此処までです。
さて、秋も日一日と深まり、朝晩は冷え込むようになってまいりました。
どうか御主人様ともども、恙無く過ごされますよう、御願申し上げます。
敬具。
質問した人からのコメント
2010/11/9 14:37:51
お忙しいところ,ありがとうございました。よくよく読んで見るとおっしゃるとおりだと思います。
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