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【研究と報告】

 

 戸田城聖氏は何故、アルコール依存を克服できなかったか?

 

                         三船小仏

 

 

 

【抄録】

 戦後最大の宗教団体を築いた戸田城聖氏はアルコール依存の果てに五十八歳の若さで腎不全で亡くなった。太平洋戦争に於いては師と仰ぐ創価教育学会会長であった牧口会長に付いて獄に入り、昭和20年7月に釈放されるまで二年間の獄中生活を送った。

 戸田氏は戦前、獄に入る以前よりアルコールは毎夜嗜んでいたと言われる。しかし、アルコール依存ではなかった。

 戸田氏は戦後、アルコール依存に陥ったのであり、この戸田氏のアルコール依存には余りにも不可解な点が多い。

 その謎を追究し考察した。

 

key words】戸田城聖、アルコール依存、創価学会、麻薬、池田太作

 

【はじめに】

 アルコール依存を克服することは極めて困難である。筆者が今まで経験してきたアルコール依存を克服した症例はすべてかなり高い知能を有していた。アルコール依存克服には強靱な意志力が必要と一般に考えられているあるが、筆者は「強靱な意志力」よりも「高い知能」が必要という私見を持つ。アルコール依存克服には第一に「高い知能」、第二に「強靱な意志力」が必要と筆者は考える。戸田城聖氏はこの2つを有していたが、最後にはアルコール依存による腎不全で58歳にて亡くなった。

 しかし、戸田城聖氏ほどの「高い知能」と「強靱な意志力」を併せ持った人物が何故、アルコール依存を克服できなかった、地方の講演のときもアルコールを飲用して臨んでいたのかは不思議(謎)と言わざるを得ない。

 戸田城聖氏は牧口常三郎氏と出会った頃、現在の学習塾の先駆けである「時習学館」を主宰しており、学習参考書の走りともいえる『推理式指導算術』を出版した。『推理式指導算術』は評判を呼び、100万部を超えるベストセラーとなった。当時の受験生からは「受験の神様」と呼ばれた。

 戦後、事業経営における戦前の主力だった算術書が学習指導要領の全面改正で無意味なものになり、事態打開のために参入した雑誌も売れ行きが低迷するなど、経営は悪化。1949年(昭和24年)10月、日本正学館は倒産する。戸田は東京建設信用組合を設立し営業を始めるが、多額の負債があるために今度は大蔵省から営業停止の命令を受け、破綻。

  1950年(昭和25年)10月、大蔵商事(現:日章)を設立。すなわち、高利貸しを始める。

 

【考察】

 この謎を解き明かすには、池田大作のことを考えねばならない。池田大作は戸田城聖氏の事業が傾いているときに入社してきた。小説「人間革命」では池田大作は始めこそ日本正学館に於いて本の出版などを手掛けていた。しかし、その日本正学館は倒産する。その後に戸田城聖氏が窮余の策として始められた大蔵商事すなわち高利貸しに於いて辣腕を振るった。池田大作の高利貸しの才能は素晴らしく、当時の平均サラリーマンの100倍近くの給料を貰っていたことは、その証拠の書類が残っているところから確かめられる。

 取り立てが過酷を極めたという逸話が残っているが、それだけで当時の平均サラリーマンの100倍近くの給料を貰っていたとは考えられない。筆者はその謎をいろいろと探った。

 

 話は過去に遡る。池田大作(正確には昭和27年に戸籍上、正式に変名するまでは池田太作が正しい)は東京大学の過激な左翼思想に被れたある非常に有能な人物(T氏とする)が運営する読書会に属していた。T氏はGHQとも繋がりがあった。池田太作が戸田城聖氏の下に入社することはT氏から勧められたらしい。また、創価学会(昭和21年に創価教育学会より改名)への入会(当時は入信が正しい)は小学生の頃の同級生の女性から誘われて座談会に参加したとされるが、当時の教学部長であった0000氏との議論の果てに入信せざるを得なくなったということが正しい。これは聖教新聞にも入信の経緯のことが詳しく書かれてある。

 

 アルコール依存克服は極めて困難と言えど、戸田城聖氏ほどの信念強固な人物ならば克服できたはずである。それが何故出来なかったのか? これは戸田城聖氏の酒の中に池田太作により麻薬が混ぜられていたためと考えると納得がいく。その麻薬はT氏より得られていたものと推測される。

 麻薬はアルコールとは異なり、どのように意志強固でも克服することは不可能と考えて良い。麻薬は癌末期の激痛に苦しむ患者にのみ投与が許されるものである。麻薬は一度服用したら、どのように優れた人物も一生、克服はできないと考えて良い。中国やインドネシアなどでは所持していただけで死刑となる。このため、人を陥れるために、その人のバックに麻薬を忍ばせておくという方法が行われる。

 GHQは日本の宗教界を支配することをも企んでいたことは容易に考えられる。また、日本での「麻薬マネーロンダリング」の宗教団体が必要であった。自由自在に操れる宗教団体を日本に持つことをGHQは考えていたはずである。

 

 GHQは戸田城聖氏の傑出ぶりを見抜いていたと考えられる。戦後の日本の宗教界をリードする存在として戸田城聖氏を考えていたことは間違いない。昭和21年に戸田城聖氏が起こした当時としては大罪になる「用紙横流し事件」が不問にされたのは当時の政界の超大物の鶴の一声であったこと意外には考えられない。

 

 その超大物とは昭和27年に創価学会に入会した朝鮮人との噂の高いA氏である。この昭和27年に池田太作が戸籍上、正式に「池田大作」に変名している。少なくとも当時、戸籍上、正式に変名することは不可能であった。超法規的な処置として行われたと考える意外にはない。政界の超大物の鶴の一声があれば超法規的な処置は行われうる。

 

 A氏の創価学会(正確には日蓮正宗)への入信が本当に信仰的なことから行われたのか、便宜上、形式的に行われたのか、判断に苦しむところである。A氏の入信の年から池田大作は大蔵商事の高利貸し業を止め、創価学会の活動に参加そして専念するようになった。これらは偶然の一致とは思われない。

 

 また、大阪事件を必ず考えなければならない。大阪事件とは以下のようなものである。

 1957年(昭和32年)4月に参議院大阪地方区の補欠選挙が行われ、創価学会は中尾辰義を立候補させた。中尾は落選したがその選挙期間中に創価学会員が大阪あいりん地区に住む日雇い労働者達に候補者名の氏名の入ったタバコを渡した。タバコ以外にもタバコの中に五百円札が入っていたとも言われている。大阪地検は当時の学会本部の理事長・小泉隆と学会の渉外部長・池田大作をはじめ創価学会員ら45人を公職選挙法違反で逮捕した。

 戸田城聖氏は、幹部をはじめ創価学会員ら47人が公職選挙法違反で逮捕されたことにすばやく対応した。小泉・池田以外の選挙運動に動員、起訴された創価学会員45名を会長名で即刻除名処分にし、小泉・池田の即時釈放を要求する大会を開催した。

 公判が始まると小泉はすべてを否定したのに対し池田が勾留段階で検事の調べに対し、自白して署名したことが明らかになった。裁判の中では一転して、池田は嫌疑を否定した。そのため公判の争点は、自白の信用性の有無や、戸別訪問を池田自身が指揮したかにあった。

 昭和37125日大阪地方裁判所判決(田中勇雄裁判長) 池田大作:無罪。小泉隆:無罪。除名された創価学会員:罰金刑20人、公民権停止17人。

 この戸田城聖氏の判断もCIAの命令と解することができる。戸田城聖氏もCIAの操り人形に過ぎなかったと考えられる。すなわち創価学会は戸田城聖氏の時代からCIAの操り人形に過ぎなかったと考えられる。また、それ故に、創価学会は奇跡的発展ができたと考えられる。

 

 この裁判が余りに矛盾に満ちていることは容易に察することができるだろう。この裁判の裁判長はCIAから脅されていたという説が最も信用できる。池田大作はCIAが味方に付いていることを考え、このような明らかに悪質な選挙違反を躊躇することなく起こしたと考えられる。

 

 CIAは金融ユダヤ権力と訳すことができる。代々のCIA長官はユダヤ人である。現在のアメリカは金融ユダヤ権力に支配されていると言われる。

 第2次世界大戦は金融破綻したアメリカのCIAが陰謀的に引き起こしたと言われる。山本五十六は二年間、アメリカのハーバード大学に留学していたが、このときにCIAのスパイに仕立て上げられたと言われる。その他にも日本軍部の最高幹部達に数人のCIAのスパイが存在したと言われ、それらスパイたちが太平洋戦争を引き起こし、太平洋戦争に故意に負けたとされる。ミッドウェー海戦などは山本五十六たちが故意に失敗を起こして負けたと言われる。

 

 現在の中国での日本排斥運動もCIAが裏から動かしていると言われる。現在、アメリカの経済破綻は極めて深刻であり、戦争を起こし、借金を無にする作戦に出るしかないと言われる。中国、日本から、それぞれ千兆円の借金をアメリカは負っていると言われ、それを返す宛は全く無い。現在、アメリカは大学を卒業しても就職できるものは50%に過ぎないと言われる。日本も就職難であるが95%の就職率である。

 

 アメリカはしかし、圧倒的な軍事力を持っている。第3次世界大戦でアメリカが負けることはあり得ない。そのため、第3次世界大戦を誘発させ、世界の指導権を維持しようと狙っていると言われる。

 日本と中国の間に戦争を起こさせようと、現在、CIAは盛んに水面下で動いているが、日本の指導者は完全にCIAに靡いているが、中国やソ連の指導者は賢明であり、戦争は起こさないという見解が強い。

 

 しかし、日本とアメリカが共同で一方的に世界戦争を起こす可能性は高い。決して油断はできないと識者は一致して著書の中などで述べている。

 このCIAと日本の指導層との癒着は太平洋戦争時からであり、戦後、日本はアメリカの属国として存在してきた。創価学会イクオール公明党は完全にCIAと強く結びついている。

 

 創価学会とCIAの結びつきは太平洋戦争時からであり、創価学会の奇跡的な大発展は背後にCIAが控えていたからとさえ言われている。

 池田大作が金融業に於いて大成功し、戸田氏および創価学会の危機を救ったのは、CIAの援助があった故とされている。資金調達にCIAのスパイの援助があったとされる。創価学会が公明党を造り政界進出したのもCIAの命令であった、自民党と公明党が連立してアメリカのための政治を行い日本を疲弊させたのもCIAがバックに居て指令していた故と言われる。

 

 現在、日本に於いて、消費税の増額が行われようとしているが、消費税の増額で得られる金額は13兆円に過ぎず、現在、日本はアメリカの国債を100兆円持っているが、アメリカにその借金(国債)を返す能力は全く存在しない。しかし、それでも、現在も日本はアメリカの国債を10兆円単位で次々と購入している。アメリカの経済破綻を少しでも軽くさせようとしているのである。日本の政治家はほとんどがCIAがバックに居て指令している。

 

 消費税を増額すると日本の経済は必ず萎縮する。過去の2回の消費税の導入および増額を考えると明らかである。アメリカは日本の経済が萎縮することを望んでいる。日本の経済がこのまま健在であれば、世界の基軸通貨がドルから円に移ってしまうからである。消費税を増額を強く後押ししているのは先頃(12月16日)の不正選挙で出来た自民党と公明党の連立政権である。このことからも公明党は「売国党」と名付けることができる。

 

 日本人は「売国党」である公明党の実態に気付くべきである。事態は深刻度を深め、日本の危機にまで及んでいる。

(つづく)

 

  創価学会の会員に、稲川会前会長の石井進氏、山口組若頭の山本健一元氏、会津小鉄会長の高山登久太郎氏など、著名なヤクザさんたちが、軒並み名を連ねているのは、おそらくマネー・ロンダリングが目的なのではと邪推してしまいます。

 

 戦後、長い間、CIAの資金が創価学会を通して自民党に流れ込んできました。

(これは最近機密解除されたCIAの文書から発覚したことです

 

 ジャーナリスト・魚住昭氏が「現代」2月号で、公明党常任顧問で池田大作の側近でもある藤井富雄東京都議と山口組系後藤忠政組長の「密会ビデオ」の存在をレポートしている。

 ビデオテープには、藤井が創価学会に批判的な亀井静香代議士を黙らせて欲しいと後藤組長に依頼する様子が録画されており、両者の仲介は元警視総監だという。

 

日本のやくざ業界の重鎮は、どいつもこいつも創価学会員。悪の巣窟、創価犯罪学会。この邪教は警察に強い影響力がある。だから、摘発を逃れたいヤクザが組織に入り込み、摘発情報を手に入れる。創価警官がヤクザの犯罪を幇助する。犯罪の温床。裏社会のファイアウォール、創価学会。

稲川会の石井進前会長....誰でも知っている関東の覚醒剤業界の総元締め

山口組ヤマケン元若頭....日本の裏社会のボス

東声会の初代会長町井久之氏の夫人...町井さんは、在日裏社会のボスだった。赤坂、六本木の夜の帝王。

会津小鉄の高山登久太郎会長...京都の在日ヤクザのボス

 

 まず、「総務就任」について、創価学会の理事の1人であった石田次男氏は次のように言う。

「この事件(「追撃の手をゆるめるな」の遺言をデッチ上げた件)から3ヵ月後に、小泉理事長は池田氏を〈総務〉に任命します(じつは池田の工作で任命させられた)が、その理事長はやがて『(池田氏に)実権を奪()られてしまった』とボヤクようになり、聞き知った池田氏から、会長就任後にこの件で徹底的にカタキを取られ、いびられるようになってまいります。」

(石田次男著『内外一致の妙法この在るべからざるもの』)

 また、当時、男子青年部第7部隊長だった藤原行正氏も、

「戸田構想にはなかった『総務』のポスト就任もその1つで、この役職は最初、池田の発案で、職務権限そのものが曖昧(あいまい)なまま設置された。ところが34年6月、池田は参謀室の北条、森田、竜らと共に理事室のメンバーに名を連(つら)ねた際、自分の総務職を次のように規定した。

『理事長のもとに、理事室を代表して、事務局及び各部を統括する』

 すなわち、池田総務は会長代行たる小泉理事長と組織最高の意志決定機関たる理事室をつなぐパイプ役となり、理事会の決定事項は池田総務を通して小泉理事長へ伝わるという新システムであった。これによって池田は自動的に学会上層部全体の動きを掌中(しょうちゅう)にできる立場を得た。」

(藤原行正著『池田大作の素顔』)

 つまり、「総務」職は、小泉理事長が池田のために用意したポストではなく、池田が全権を掌握すべく、自ら工作して作らせたポストだ、というのである。

 実際、池田の「総務」就任は昭和33年6月30日だが、藤原証言を裏付けるように、これを発表した『聖教新聞』では、その職務について規定も説明もしておらず、翌34年6月まで曖昧なままになっている。

 また、「会長就任」についてであるが、戸田氏逝去から1ヵ月が経った昭和33年5月3日、第18回春季総会の席上、小泉氏は

「会長先生亡きあとの学会につきましては、ただ今、原島理事から話がありましたように、非常に世間が騒いでおります。皆さんも御心配なさっているのではないかと思いますので、はっきり申し上げておきます。とにかく会長という職は当分おかないつもりであります」

(『聖教新聞』昭和33年5月9日付)

と語り、また原島氏も、

「われわれで、会長になりたいなどと考えているものは、それこそ1人もいない」

(『聖教新聞』昭和33年5月9日付)

と語っており、少なくとも、当初から池田に「1日も早く会長に就任してほしい」などと願っていた、とは考えられない。

 前出の藤原氏は、当時の模様を次のように説明している。

「池田がしきりに戸田会長の『遺志』を本部幹部会や青年部幹部の前で口にするようになったのもこの前後(昭和34年頃)である。

『戸田先生は3代会長は青年部から出すとおっしゃったはずだ』

 みんなはそのとおりだと思った。しかし、ただ1人、何度もこの言葉を繰り返した池田の狙いは、長老たちの会長昇格の芽を摘むところにあった。やがて学会本部内には、

『次の会長はやはり青年部だな。戸田先生もたしかにそうおっしやった』という空気が強まった。

(藤原行正著『池田大作の素顔』)

 こうして、池田自らが謀り、作出した3代会長推戴の機運が醸成されていくが、万事が順調だったわけではない。藤原氏は、会長代行であった小泉理事長が池田大作に対して

「戸田先生でさえ、牧口初代会長が亡くなって7年後に会長に就任された。池田さんの会長就任には賛成ですが、まだ時期尚早でしょう。もう少し待たれてはいかがですか」

(藤原行正著『池田大作の素顔』)

と牽制していた旨も証言している。

 これを記しているのは藤原氏だけではなく、石田次男氏も

「昭和33年~35年当時、冷静にこういう路線を検討する空気など、全く入り込む余地もなかった。せいぜい、小泉理事長の『(候補者は若すぎるから)7年早い』説くらいの考え方で精いっぱいであった。池田がPRした『早く3代会長を実現しないと戸田先生の御意志に反する』というドグマだけが凝り固まって、池田氏の人心操縦に乗せられていった」

(石田次男著『内外一致の妙法この在るべからざるもの』)

と証言している。

 このように、小泉理事長は、戸田会長の7回忌までを目途として、池田の会長就任に待ったをかけていたが、池田は、己れの会長就任を妨げる四囲の状況を打破するために、戸田氏の言葉をりようするなどして、3代会長推戴への機運を作り上げたのである。

 自ら謀って3代会長の座を手にした池田大作———創価学会の謀略体質の元凶は、やはりこの男にあると言える。

 

 

 

 53日 創価学会第3代会長に就任。戸田の七回忌までに300万世帯の信徒獲得と邪教撲滅を目標に掲げる。

 6月、池田会長就任に反対し理事の石田次男を会長に推す幹部が、学会内に別組織『顕徳会』を立ち上げた。顕徳会の意志に男子部幹部約200名などが賛同し気勢をあげたが、わずか1年で解散となる。(「創価学会に内乱起る・鉄の団結にいどむ顕徳会」 『週刊公論』昭和35712日号)

 

 

 

 20代前半の五井野正青年が「一念三千論」の論文を書き上げ池田大作に提出し、それが、池田大作が書いたと発表されてしまった極秘の事件がある。

 この五井野青年が20代の前半に、地球が悪道輪廻を繰り返す突破口となる一念三千論を書き、池田大作に昭和48年、提出された。

 これを見た秋谷栄之助や幹部たちは喜び、「将来にこの創価学会から予言の人が現れるだろう!」という二代会長の戸田城聖氏の予言どおりの予言の人が創価学会内部から現れた事態に幹部たちは湧き上がった。



「我々はこの予言の人(待ちに待った久遠の教主)によって救われるのだ!」という期待と「これからいよいよどうなっていくのだろうか!」という期待が幹部たちが受け取った「一念三千論文」にあった。

 戸田城聖氏が予言したとおりのことが本当に起こった事を目の当たりにしたことで、自分たちが信じて歩んできた道はいよいよ間違っていなかった、そういう手に汗握る瞬間だった、これから五井野正青年をリーダーとして新組織の舵取りにより釈迦の悲願が叶えられるのだという喜びがあった。

 秋谷栄之助ら幹部の輝けるひとときがその時にあった。そして、新聞や広報に「ついに予言の人が現れた」と報じられ大反響となった。

 この反響の大きさに池田大作は、これは自分が書いたことにして予言の人とは自分のことだったと聖教新聞で報じ、騒ぐ幹部たちを征し、池田大作が書いたことにするという偽のストーリーが池田大作の命令の下、作られてしまった。



 秋谷栄之助はその後、五井野正青年が「創栄出版」より出版した「法華三部経体系総論」を熟読し「これこそ釈迦三千年の謎と宇宙を解明した秘宝の秘法である(宇宙の大イベントである)、これこそ三大秘法である」と大絶賛し、これを周辺の学会教学幹部クラスにこのことを話し熱弁をふるった事が当時教学幹部(創価学会内部仏典研究)の脱会者の証言として、今も語られている。

 このことが池田の怒りを買い、池田大作が後に秋谷をいじめ抜くという池田大作の暴行が秋谷に対して続けられる。



 この大反響の当時、そういう流れに乗じて池田大作はまず五井野正青年を取り込み池田教を拡大させようと行動に出た。

 池田大作が五井野正青年に持ちかけた条件は、

「もうひとつの(SGIのような)創価学会の別部門を作るからそこの代表をやってくれ!そして大きな会館とその組織全部をすべて君に差し上げるからこの条件下で創価学会の別組織体の代表としてやってくれ!」という条件が池田大作からの五井野正青年に贈られた池田大作の取引条件であった。

 これは幹部たちにも期待と喜びの騒ぎになっている最中、この五井野正博士という人物を池田大作は

組織拡大に利用すれば影響は計り知れないと試算し、池田大作のナンバー2として権限と金と地位と女を

あげるから来てくれという条件を池田大作は五井野正青年に提示しました。



 そんな卑劣な形で池田大作はこれまでの戸田城聖などが悲願してきた久遠様の出現を予言をぶっ潰して

五井野正青年を自分の配下におさめてやろうこころみたのでした。




 最初は・・金で地位と名誉をすべて与えるというやりかた。そして、次には・・それでだめだったら

・・女でどうだ。というやり方をとったわけです。

がしかし・・

 五井野博士に・・2年待ってくれ、動かないでくれと・・

 と言う命令を勝手に池田大作からの伝言を押し付けて

それから、五井野青年に対して怒涛のストーカー行為から出版妨害から報道妨害などありとあらゆる妨害が

始まりました。

 

 日本は空き缶公害やゴミや水俣病やヒ素中毒問題やいろんな環境問題に直面している最中で・・

五井野青年にとって時間が押し迫っているそんな気持でいっぱいいっぱいの状況下であったと推測されます。

・・・そんな危機感を博士は心に抱いたまま・・2年待ってくれ・・と・・

そういう返事を受け取ることになりました。

 

 2年待つとは、空き缶やゴミや工場の毒の垂れ流しが毎日毎日汚染を深めていて日本国中がお金お金

発展発展と意識がゴミを育てるようなそんな気持ちが蔓延していた高度経済成長期の日本では手遅れになるかも

しれない。そんな危機感を感じながら、2年待てという意味不明の根拠無き命令をしてきたのです、

 池田大作のために都合がよい条件をすべてを断った後に、その直後から付回しや運動の妨害や新聞や

テレビ局への圧力をかけはじめ、五井野博士の論文をそのまま池田大作は自分が書いたと幹部や聖教新聞や

学会員に宣伝し、池田大作が一念三千論の論文を書き上げた!世紀の大発表と一念三千論の講演をして回る

そして次には五井野博士をこの世から葬ろうとさらに強行的に五井野博士を世間から知られぬように

組織を動員して動き始めたのです。

 これが今の今も続けられている創価学会から五井野博士に続けられている妨害です。

 

 これは僕が中学生の頃の昭和52年に創価学会が主催する教学試験を受けたときの事前の受験問題集を教学新聞で配布受けたものの復元図です。

 池田大作は五井野正青年の論文をそのまま自分が書いたとして創価学会に配布しました。それが会員の教学試験の穴埋め問題に使われました。

新聞ではこの一念三千論の論文を池田大作が認められたと発表しました。

20年後に僕は15歳くらいのときに丸暗記していた一念三千論の論文を五井野正博士のウイッピー文明17号で全く同じだった原文を目の当たりにして、ショックは走馬灯のように天と地をひっくり返し僕は思考停止の空白の時間に陥りました。ショックでした。

池田大作が書いたのではなく、五井野博士が書いたという事実に直面してしまったからです。ウイッピー文明17号に掲載された原文は、実にしっくりと本物の様相に光彩を放っているかのごとくであり、何の飾り毛もない本物その物でした。昭和52年に僕が創価学会からは配布を受けた丸暗記の論文は池田大作が書いたのではなく、五井野正青年が書いたものだったのだと知り長い間、池田大作にこうまで脳の中にひどいコントロールを受けさせられたことに怒りを覚えました。絶対に池田大作を倒さねばならない!そう、信念を統一しました。僕のターゲットたる朝鮮人池田大作に狙いは定まりました。

 

 

池田大作 著 『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、pp. 74-75より)によると・・・・

{創価学会二代会長の戸田城聖氏(1900年(明治33年)211 - 1958年(昭和33年)42日)は、

久遠元初の仏のことを「一念三千様」とも言っていた。}と書いてあります。

このように池田大作も久遠の一念三千様が出現すると自らの著書で示して言っているように、

戸田城聖氏は創価学会の組織の中にいつかご出現されるであろう久遠の一念三千様が・・

必ずやご出現なされるのだ!と常々周りに言っていました。

そのことが池田大作の著書にもきちんと書かれているのです。で・・・

これはいったい誰のことを指すのだろうか?

そしてこのことをもっとももみ消したいこの世から葬り去りたいであろう池田大作自信の書籍に

この戸田城聖氏がなんども言っていたこの大切なことが池田大作の著書にすら残っているのです。

(おそらくゴーストライターによるものであろう?が・・。)

 

私や周りの子供たちは・・子供のころから創価学会では三代目の福子(ふくし)に当たる子が

久遠の一念三千様にお目通りが叶う!と歓喜の大叫びをあげていつも座談会を盛り上げておりました。

あのころはまだ三十年代の貧しいけど希望と笑顔が絶えなかった時代でした。

戸田城聖のころまでは創価学会という組織にこだわらず・・

いざ久遠の一念三千様がご出現されたならばすべてを投げ捨てて解散の勢いで

すべてを託さなければならないという本来の教主にたどり着くまでの仮の姿・・それが創価学会だ!

という教えを学ぶ集団としての意義が明確にされていました。

そう誓うことで久遠の一念三千様に対する間違った法華経の学び方や解釈の仕方をしてしまった罪、

新たな今生で生み出した業はお許しを得ることができると考えたとこは良いセンスであったと

見ることができます

 

久遠の一念三千様のある程度のやさしさと強さと最強のなにかをあの時代にすでによく推測できるものだと・・今思えば感心いたします。

 

 

常日頃から戸田城聖氏の愛弟子であった筆者の祖父母などは私が生まれてから私が久遠の一念三千様にお目通りが叶うであろう。そのように戸田城聖先生がおっしゃっている!と言われつづけ育ちましたものです。そして私の少年部時代の友人の数人が福子(創価学会祖父母両親そしてその子のことを三代目の福子と戸田城聖時代は言われ、その意味はその三代目が久遠の一念三千様にちょうど時代的にもご出現の時期と重なり合い巡り合えるであろう(それまで誤解のない法華経の学び者なら選ばれるであろうという予測のもとに言い伝えられお目通りが叶うために生まれてきたと言われていました)・・・そしてそう聞かされた私や数人の友人とも語りあいましたが創価学会とは久遠の一念三千様にお目通りするための目的に・・ご出現に遭遇し組織全部がすべて解散し久遠の一念三千様にすべてを橋渡し・・そして法華経に伝えられている事を・・・事の一念三千の教えを実際に体現して地球の輪廻の転換から因縁宿命転換を一掃して自分が犯してきた罪数十万年の間?いやどのくらいの過去の罪まで一掃しなければ宿命転換を事の一念三千の発動時になさねばならないのかは????そしてその最終章の最終最後の一瞬のような数十年間の間に10如是を達成し救われる・・という目的のために存在していたと理解していましたものです。

 

それが事の一念三千の重大な存在意味であるかと・・理の一念三千についてではありません

 

それまで絶やさないために存在しているだけの目的の組織である。ということで・・私はお釈迦様との約束を誓う法華経の弟子たちの気持もカバーしているしお釈迦様のご意向も法華経の会話の伝授からみても五逆罪にはこの時点までならあたらないだろうと?法華経を読んでそう感じたものです。

 

戸田城聖も会長である自分を拝めとか崇拝しろとかはありませんでした。組織の存続の意味は久遠が宇宙のその一念三千が宇宙のそのものの実態であるから組織や会長は一念三千の宇宙の事の前には必要ではなくなるのは当然のこと。(ウン!これが常識というものだ!と子供心に感じていました)という意味を祖父母は私たち子供たちに伝えていましたし私は子供のころからそのように思っていました。

 

そのように祖父母は子供の私たちに噛み砕いて戸田城聖氏の講義を近所の班の仲間たちや両親やもちろんかわいい孫であろう(孫だからかわいいと祖父母が私を見たのではなく私が将来、久遠の一念三千様にお目通りし、なにかものすごいものを感じると常々祖父が言っていて預かりものとして私に接してくれた祖父の気持には、孫の私が見る限り祖父には非常に私心がなく久遠様まで孫を間違いなく導く師であると思えました)祖父母は私たちにそのように教えてくれていました。

 

 

 

まだ昭和33年戸田城聖氏の死から上層部でもない池田大作への突然の継承は・・・不自然極まりなく・・・

戸田城聖氏からも池田大作という徘徊者は私心ばかりが鼻につきなんどか

戸田城聖氏の講義で池田大作の卑劣さをあの池田大作のようになってはいけないと創価学会員に向けて

講義したことなどはYOUTUBEにも戸田城聖氏の肉声が公開されている。それだけ戸田城聖氏現役時代の

池田大作という人物像は宗教以前の鼻つまみものというか北朝鮮人の金融屋さながらの粗暴なふるまい

(日本人に復讐心を抱き続けるかのような)の絶えない問題児であった様子がうかがえます。

 

戸田城聖の突然の死そして・・池田大作が一方的に強硬突破した戸田氏が池田大作に遺言を残したという

池田大作の一方的な言い分を強行し三代会長に強引に(本業の金融屋仕立ての取り立て的手法で)

就任したあの無残としか悲劇としか言いようがない創価学会の終焉・・

創価学会の乗っ取りにはことごとく呆れた。

こうして創価学会はその使命を遂げることなくその時に終焉したのである。

(これは私の祖父母が戸田城聖の教えを純粋に学びそして啓蒙した流れを順守した場合目的を見失った

創価学会はこの時に久遠の一念三千様との糸が切れてしまったから終焉したと解釈いたします)

 

 

そして昭和33年戸田城聖氏が亡くなり、戸田城聖の後をなぜ大幹部でもない池田大作が継承するに

至ったのか?殺されたのでは?という疑惑をもつ会員はすべて創価学会からなぜかいなくなり、

そんな空気も完全に消えかかったころの昭和48年五井野正青年が創価学会会長に

一念三千論を提出する1年くらい前から幹部の間でついに現れた!ついに!間違いない!

ついに!と騒がれはじめた。

池田大作が予想した以上の幹部会員たちの結束した団結をその先に見たであろう池田大作は

この事態にどのように動いたかは被害ファイル1の一念三千論盗作事件の記事を参照ください

 

二代会長の戸田城聖氏は、久遠元初の仏のことを「一念三千様」とも言っていた。

しかし戸田城聖氏の育て育み続けた組織の存在意義は池田大作の乗っ取りにと舵取りにより

失われ政府が官僚の答弁書を読むかの如くうまく綱渡りしてこれた北朝鮮人の醜態は

随所のネットでも見ることができる

 

 

池田大作著「人間革命」は、創価学会関連企業の東西書院社長・篠原善太郎氏の代筆によるもので

有名である。平成311月に、創価学会が伝統宗門から破門となった後は、

その「人間革命」の内容の書き換えが忙しく行なわれ、池田大作の神格化がますます進み、

よりカルト性の高いものになっている。

 

【恨みで日本人にならなかった在日朝鮮人の池田大作】

池田大作が「師」と利用し、会長就任前後から次第に神格化した戸田城聖氏は、

金融会社(大蔵商事)時代以来、池田大作の暴力性と破壊力と腕力を買って取立て部長にしていたが、「創価学会会長」の後継者には指名していなかった。戸田氏が、池田が日本人ではないことも知っていた。

戸田氏が、むしろ嘱望していたのは石田次男氏という人物だったそうだ。

戸田氏の死後、池田が会長に就任するまでの間、「会長職」に約2年間の空白があったのは、

その石田氏を、「会長候補」から追い落とすために要した2年だった。

追い落とされた石田氏は、その後、長年、アルコール中毒に浸る生活に陥ったが、

晩年に創価学会を脱会して日蓮正宗(正継寺)の信徒となった。

 

 

五井野正博士を取り込み池田教を拡大させようと池田大作が持ちかけたもうひとつの

SGIのような)創価学会の別部門を作る池田提案その代表をやってくれ!

そして大きな会館とその組織全部をすべて五井野博士にあげるから池田大作のナンバー2としての

すべての権限と金と地位をあげるから来てくれという条件をすべて断った五井野博士は

そのあとから池田大作と創価学会員たちによってありとあらゆるともいえる活動を阻止させるべく

妨害の攻撃の標的にされたいへんな苦しみと損失と被害を受け続けます。

 

その被害の中でつけ回しについてです

 

これはトップイメージ画像でもありますようにリサイクルという言葉は、青年時代の五井野博士が

リターン・サイクルというゴミをまた資源に変えそしてそれらを繰り返すことでゴミの蓄積による

地球時間の終焉という時間が止まることを阻止させるために時間を長く持続させるために時間の

サイクルが続くようにすることで日本ややがては世界が良くなるために考えられました。

そして五井野博士がこれをリサイクルという。と名前を付けられました。

今日本で使われているリサイクルという言葉は五井野博士がこのような汗水流しながら

池田大作に妨害されながら

(創価学会員全員の池田大作への資金援助と組織的巧妙な分担作業の暴力による)

も耐え続けて生まれた言葉なのです。

 

日本を良くするためにゴミと環境汚染の取り組みがまずは重要と位置づけられた博士は

空き缶を京都から東京まで徒歩でリヤカーを引きながら回収しては回収業者へ廃棄処分へ

回しまた再び歩きはじめては回収業者へ廃棄処分へ回しと繰り返しながら京都から東京まで

徒歩で空き缶を拾い歩き続けました。

 

そういった活動により日本にリサイクルが新種の変わり者のする変なことから

当たり前のこととして根付くまで数十年頑張り続けられました。

しかし企業や新聞テレビなどマスコミや創価学会は五井野博士の妨害へ

創価学会の言いなりに協力し続け五井野博士をこれでもかという形でないがしろにしてきました。

 

そして創価学会会員が35年間入れ替わり立ち代り一般人を装い五井野正博士の講演会や

慈善活動に潜入し、解散へ追い込むための暴動を内部で勃発させたり、

内部の人間を買収し組織分裂させたり、した数々の事件は各項目にてご紹介させていただきます。

 

ここぞとばかりにスキを見つけては組織解体や組織内氾濫、出版社乗っ取り、展覧会妨害、

毒殺未遂後援会の盗聴などありとあらゆる妨害を創価学会は組織をあげて分業作業で

巧妙な組織形態で全員には知れない形で700万人の組織全員が一致団結して組織的な巧妙な

手口でこれらの暴挙をしてきたと言えます。700万人のこの組織が危険なのは、資金担当、

麻薬担当、保険金殺人担当、潜入担当、暗殺担当、暴力団窓口担当、そして表舞台でスポーツ担当、

芸能部担当、政治担当(公明党)と会員すべてがこれらをすべて知る由もなく選挙や資金援助や

布教活動などを続け結局は池田大作の巧妙な犯罪にすべての学会員が罪を背負ったという

実相を表していると言えます。

 

リサイクルの件だけにして五井野博士が日本に与えたリサイクルの恩恵がどれだけの金額になるか?

ということを試算した海外の学者や閣僚たちがいます。

いったい日本国がどのくらいそれをしなかった場合とした場合とで違ってきたのか?

日本がリサイクルという軌道修正を受けてその軌道を歩みだしその事がその後日本の経済成長や

競争力にそれだけメリットを受けて日本経済の礎になったといえるか?

ドイツの閣僚やロシアの経済学者たちは、五井野博士の空き缶運動そしてリサイクル文化定着活動

(国会にも呼ばれリサイクルの重要性を国会で演説する)

をおそろしくおそれおおいことだ!と・・神以上のなにものでもない!と断言し、

(彼らの多くが五井野博士を尊敬しており助けを求めてきています日本がそれにより受けた

恩恵は軽く200兆円規模以上であると彼ら専門家は分析され発言されています。

 

 

池田大作は35年以上もの間ずっと創価学会会員に一般人を装わせ五井野博士の周囲に潜入させ

続け録音を盗り続けたり発言や今後の計画など逐一池田大作は情報を入手し続けました。

 

これは今でははっきりとしたストーカー行為です。犯罪です。それはなぜか?

それは池田大作のみが知る戸田城聖氏の突然の死因?と・・

その戸田城聖氏がもっとも重要と掲げてきた創価学会の存続理由の根本協議の主たる願いと

一致するからとしか言いようがありません。

 

ましてや池田大作は私欲を地球征服をいっしょにたくらむことに加担してくれといわんばかりの

申出を簡単に断られているのです。嫌われた腹いせだったのでしょうか?

これほどのストーカー行為を35年以上も続けられるそのエネルギーとはなんのなのでしょうか?

五井野青年という神輿を担ぎ第2の創価学会を作る池田大作の新たな陰謀の提案。

そして五井野青年を創価学会NO2(ナンバーツー)として君臨させ創価学会による世界支配を

池田は脳裏に浮かべ・・若い青年を金や地位や権力や女を使えばかならず自分のものになる。

なったかのような高笑いでもしたのでしょうか?そしてそれを簡単に断られた。

 

池田大作の悪行がたったそれだけで五井野青年の下で明らかにされてしまったその池田大作の

怒りとは?

どういう心理状況からそのような単純に怒りいつまでも報復攻撃を

し続けることができるのでしょうか?

 

すべての申し出と好条件をすべて断った。五井野青年に対する執着心はクレイジーそのものであり、

それが最終的に1990年代終わり頃に暴力団に数十億円で暗殺を依頼までするという事件まで

公にさらされてしまったわけです。暴力団関係者が創価学会から依頼書を渡された

暗殺者リスト5人の名簿が政界や永田町に関わる右翼エセ右翼などさまざまに出回った

 

そしてその創価学会が提出した暗殺者リストが出回りで大騒ぎになりました。

 

 

池田大作は自分の指針命令のアイデアを35年間盗み続ける・・

五井野正博士の一念三千論以来、五井野博士のまねをすれば創価学会員に

どれだけ大きな反響を呼ぶかということを池田大作は一念三千論の盗作で味をしめました。

 

 

この一念三千論の盗作により勢力を拡大させまた従順な熱狂的兵隊会員数を拡大させることに

成功しました

 

五井野博士の発言やアイデアや指針や目線にある何かを真似をすれば・・

それを創価学会の信者の前でしゃべれば信者が爆発的に信用してくることに

味をしめてしまったようです。

 

そのようなことで味をしめた池田大作にとって、

新興宗教池田の私欲に邁進するための宝の山がそこにはあると池田大作にして着目したから、

それだけのつけ回しや盗聴やストーカー行為をし続けてきたのではないでしょうか。

創価学会員を五井野博士のつどいに潜入させどれだけの本数の録音を持ち帰ったか測り知れません。

あとあと創価学会員だったという潜入者は数十人ではなく創価学会に寝返った数も

入れると百人以上は超えています。それが何年にもわたってだったことを後から知る次第でした。

 

博士はつどいの場や催しにおいても一切一度も身体検査をしたことがありませんでした。

それだけ被害を受けたり内部で暴挙を企てたりされるのにです。

これがどういう意味かということがあるのだとしることができます。

つまり事が発動を開始するとそれら博士の集いに潜入していた創価学会員は

その結果が彼ら自身に現れるということではないかと推測いたします。

 

あらゆる手段を用いて録音や情報を収集し続けた。

著作権を無視し侵害し続けた池田大作の行ってきた行為はきちんとした法律で

裁かれるならこれは犯罪です。

 

勲章を金で買うことやどういうわけかあまり趣味の良くない絵画収集をし美術館を運営したり、

とにかくだれでもいいから会員が良くわからないだろうという人物たちと並んで写真をとって

聖教新聞にただ掲載するだけであとはライターが勝手に美化して歪曲した記事を書く・・・

池田大作がこう話したという記事については五井野博士の盗聴テープから

環境や宇宙や自然などピックアップしたキーワードを引用し創価学会員は目新しい新鮮さを

その視点論点から池田大作自身がそのようなすごいことを考えテーマに

貫き生きているかのような群像を池田大作の真の姿を誤解させてくることに成功させていると

言えるのです。

 

すべてマネすることで創価学会員に自分が本物であるかのように錯覚させ、

五井野博士の言葉を引用した後で人々がすごい!と感じたタイミングでどうだ!

と言わんばかりに本物のように装い続ける

 

これが池田大作がしてきた創価学会員を騙し続けてきた現実的な種明かしであると言えるでしょう。

 

創価学会の圧力とはどのくらい徹底的か?五井野博士をどのような形の創価学会による圧力で五井野博士についての報道や記事が一切してはならないことになっているか?またマスコミというのがどれだけ卑劣で創価学会の言いなりであるのか?悪に従い悪のためにだけ良い子でいるマスコミの実態にも見える事例と言えるのではないかと個人的には思います。北野誠を一瞬にして葬り去った創価学会の強大な悪のパワー?五井野博士が35年間マスコミから受けてきた無視を知る事例でもあります。

 

   こういう事例でみるような被害を受け続けたのです。

 

 

 

テレビ新聞などの世界からの突然理由もなしに消えた北野誠氏。

何が悪かったのか?すらも明らかにされず。

白昼どうどうと消されてしまう。

マスコミはすべて創価学会の言うとおりしか動かない。

一社たりとも創価学会に従わないマスコミはいなかった。事例です。

 

日本にリサイクルという言葉を根付かせただけに留まらずに

国会演説や国の機関への働きかけによりやっと日本が

日常当たり前のようにリサイクルを意識するというリサイクル文化を

根付かせるまで徹底的に五井野博士は無給無報酬で国のために

国民のために日本人のために活動してこられたのです。

これを五井野博士の実績や国の評価が皆無であり国も無視し

続けるのはマスコミと政治家がすべて創価学会の脅しに屈している

からなのです。

 

五井野博士は毎日これらの創価学会員による妨害を潜入してきた

組織内部からも組織外部からも創価学会池田大作により

受けてきました。

まるでまだ日本へ戦争責任を北朝鮮人をして日本人たたきをし続けて

いるかのようです。

それが創価学会により日本の国益をそこなう徹底的な行動であり

存在であると言えます。

 

そして創価学会員とはこのような戦争責任を逆恨みにしたかのような

北朝鮮人による日本の国益を解体させる行動の手助けをするために

存在している兵隊(学会員ひとりひとりが役割作業分担させられ

全体像を各部隊が把握できないような仕組みの組織)と言えます。

 

 

★★★★★・・・・・

マスコミというのは何が原因で何がわるかったから?

どんな発言をどの場面でどういう風に言ったから・・という原因と

結果がはっきりして報道に携わるべきではないのだろうか?

 

 

これは先に述べた人間が人間どおしが食べ物に毒を入れあって食べさせ

合っていて金儲けになり、住宅ローンや次なる人間どおしが貶めあう

金の流れへ金が消費される。

 

相も変わらず戦前第二次世界大戦でもっとも国民を戦争にまくし立てた

マスコミ大新聞が北朝鮮とアメリカのもっとも喜ぶ形でミサイル危機を

演出し・・アメリカから北朝鮮へ搬入設置完了させられたミサイル情報

をアメリカと組んで日本のみなさん北朝鮮が大変なことになりました。

と・・第二次世界大戦と同じことを読売も日テレもWBS

テレビ東京もフジテレビもNHKも日本国民が正しい判断ができないよう

にコントロールする。

 

もし、テレビで画伯のお話が聞ければ、どれだけ多くの人が喜び助かったと感じたことでしょうか?と思うのであります。

http://jp.sevenload.com/videos/aFMwfHy-09-06-20

 

 

 

五井野正博士により創設がなされた米国公益法人 歌川派門人会 内部に創価学会員を

おくりこみ内部崩壊を狙った行動には、創価学会がただの爺さんを六代目歌川豊国(この

WIKIPEDIAは事実と全く異なる記載がなされています。実際は創価学会がこの爺さんを担いで

裁判を仕掛けてきましたがこの爺さんは歌川派とは関係もなく六代豊国ではない!と

判決が確定しておりますが、しかし創価学会がテレビや新聞マスコミ各社を動かしこの爺さんが

裁判で歌川豊国ではないと判決がくだったあとも報道をしつづけ徹子の部屋などにも偽豊国である

にも関わらず黒柳徹子氏は紹介しました)であると創価学会員の爺さんを五井野博士の

創設した組織に潜入させ担ぎあげさせて五井野博士の組織を破壊させるという罠を

仕組んできました。

 

 

これは五井野博士が海外で世界で日本文化江戸文化のすばらしさを海外の方々に知って

いただこうとした浮世絵展での画像です(デンマーク工芸博物館においてのにぎわう様子)

このようにして創価学会員は海外にまで来て五井野博士の活動の邪魔をし続けているのです。

しかもこの日はデンマーク王室からVIPも来賓に招かれ、

デンマーク政府関係者や多くの閣僚や有名人、芸術家などが招かれている最中です。

こういう場所に潜入しむちゃくちゃな破壊活動の機会をうかがっているのです。

この創価学会員の偽豊国は五井野博士の歌川派門人会の会員であるとロシア大使館に

行き上層部に面談し五井野博士の誹謗中傷をしたり、浮世絵を詐欺まがいな金額で買わせようと

五井野博士とロシア関係者との間を引き裂きにロシア大使館で事件をおこすなどしたのです。

この事件は長年博士の会員としてやってきていた太田一斉が創価学会と共謀し、

この爺さんと太田がエルミタージュ美術館での浮世絵展や国内での浮世絵展や歌川派門人会と

親しく交流している間柄の相手先へ出向いて歌川派の代表としてきましたと嘘を言って

相手先との関係潰しに国内や海外を行客して回りました。

 

それが関係各所に歌川派門人会から交流関係者各所へ(ロシア大使館など)創価学会が

送り出してきた要注意人物としてこの2人の情報が共有されました。

それからは出向いての騒ぎという方法から裁判という方法で歌川派門人会を攻撃してきました。

それは歌川派門人会の名前を使用禁止せよ!と訴えを創価学会に命じられてやってきたのです。

結局最終的に創価学会側(太田と偽豊国側の陰謀には根拠がなく創価学会側(太田と偽六代豊国)

が完全敗訴する。しかも裁判の判決では偽六代豊国にはまったく根拠にもなく単なる

言いがかりにも似たものとして六代豊国は偽物であると国の判決はくだりました。

 

が・しかし・・マスコミはどこまでも創価学会の立場にたちました。

 

その功労賞としてか?判決に負けたにも関わらず・・徹底的に歌川派門人会に裁判で

負けたにも関わらず創価学会がこの偽豊国じいさんを徹子の部屋(テレビ朝日)やいろんな

番組に出演させてました。これが池田大作からの偽豊国に対する褒美でした。

 

この偽豊国がなぜあれだけマスコミに取り上げられ報道されたか?その裏取引は・・・・

実はこのような五井野博士に対する攻撃をしたということが池田大作の評価を得てテレビに

出演させてもらえるに至ったという経緯があるのです。

そのことを知る人は皆無に等しいくらい日本には少ないのです。

 

訴訟をおこして歌川派門人会に言われなき訴訟をしてきたこのような大事件。

当然創価学会が歌川派門人会という名前の使用を禁止せよという訴えの裁判には創価学会側の

一方的な攻撃には国の判決に照らしてみても根拠がなく創価学会側が完全敗訴するが創価学会が

いったいなぜ?このような意味のわからないわけのわからないことに首を突っ込んできて

大金と兵隊を大量に動員してくるのか?そのなぜ?という理由を日本ではマスコミが

一切報道をすることができずに知る人は皆無に等しい・。

本来ならマスコミが日本人なら創価学会のこのような意味不明な行動をテレビを通じて報道を

すべきである。なぜ日本文化の良さを江戸文化のすばらしさ日本人の祖先の感性のすばらしさを

世界に海外に宣伝している歌川派門人会を徹底的に裁判を仕掛けたり友好関係者に

創価学会がぶち壊しに動きまわったりしているのかその実況中継をなぜマスコミは

報道しないのか?

 

それは今回の北野誠事件の記事を見てもらっても推測のできることでもあろう。

 

 

 

★★★★★・・

ゴミや糞尿を土に返し再生し川の水を汲んで飲める時代の日本文化は人類永続可能かつ美しい

自然賛歌そんな芸術文化を世界に広める歌川派門人会の無報酬の活動を創価学会が組織的に

攻撃し日本国の遺産である浮世絵芸術をだめにしようとした人(偽六代豊国)にマスコミ各社は

スポットを当てほめたたえたたというテレビ朝日(徹子の部屋)を中心としたマスコミの姿勢に

より裁判で偽六代豊国は偽物であると確定したのにマスコミは本物であるとテレビ朝日を中心に

各社がテレビ報道し続け裁判の判決を知っていながら無視続けました。

 

 

岡山県と兵庫県の県境に3万坪の土地を取得し十数人のウイッピー文明、ふるさと村運動の

仲間が全国から集まった

 

そこで木を切り倒したり家を建てたりしてみんなで

自給自足とこれからのさまざまな活動を夢見て建設が

進められた

 

しかし、ある一人の男性により所有権を主張され全員を

追い出し自分ひとりのものにしてしまった。

 

 

みんなでつくりみんなでお金を出し合い

みんなでこれから平和を語りながら

それぞれ持ち場をつくり

得意な分野にそれぞれが

つきながら

平和に暮らそうとなけなしのお金をはたいて全国から集まったのだ

 

それを兵庫県からの参加の前田悦男が自分の権利を主張し

全員を追い出して

完成したりっぱな家と3万坪の土地を独り占めにしてしまったのだ。

 

全員が路頭に迷い・・・

それから竜の里と名づけられた

ふるさと村作りは解散してしまったのだ

 

若者たちはお金があるわけではない

情熱だけですべてをかけて全国からやってきたのだ

そして会社に勤めたり出世したりという生き方に疑問を持っていた

数少ない善意の集まりなのである

 

乗っ取った彼は、借金苦の生活から抜け出したいと

自営していた鉄工所、前田製●所を営業しながらの参加であった

 

新聞記事に見られるように

みんなでつくりみんなでお金を出し合い

みんなでこれから平和を語りながら

それぞれ持ち場をつくり

得意な分野にそれぞれが

つきながら

平和に暮らそうとなけなしのお金をはたいて全国から集まったのだ

 

それを兵庫県からの参加の前田悦男が自分の権利を主張し

全員を追い出して

完成したりっぱな家と3万坪の土地を独り占めにしてしまったのだ。

 

彼はこれを借金の返済に充てたりしながらその後暮らしていたそうだが

自営の会社がおもわしくなく

3万坪のこれらの村は売り払われたらしい

 

結局、みんなが目指したもの意義を最初から理解していないどころか

ただの人件費で返さないお金でみんなが出してくれて

最後はみんなを追い出して自分が独り占めしてやろう

という計画だったのである

 

ふるさと村つくりの最初の段階で成功事例を完成させようとしたが

最初からこのような人物が中に入り混じっていたのである

 

 

兵庫県に全国から集まった若者が自給自足の実現また芸術またあらゆるジャンルを夢見て集まり

お金と両力を出し合って3万坪の村が作られた。

しかし、ある一人の男性により所有権を主張され全員を

追い出し自分ひとりのものにしてしまった。

                   

 

福岡県田川市の美術館での「ゴッホが愛した浮世絵と歌川正国展」の展覧会に大勢の観客がつめかけて大盛況の展覧会となっていました。そこへ創価学会から田川市美術館館長に指示が入りました。展覧会をぶち壊せ!という命令でした。

 

田川市美術館館長はこれにすぐに従い行動に出ました。展示作品を外せ!と展示中の開会期間中に命令を主催者の歌川派門人会に対して展覧会開催中に田川市美術館館長は主催者に対してそのように命令を突然してきました。

 

これは田川市民の恥を外に向けて発信させた田川市民の恥ずべき代表者ではないでしょうか?残念な行為です。これが教育委員会から天下りした館長です。

 

大盛況の期間中に客様が楽しまれている作品とお客様の間に入り創価学会本部からの指示命令に従ったのです。

 

作品を展示するな!外せ!と

 

会期中に命令して邪魔をし無茶苦茶にした館長は池田大作の指示に従い五井野博士を迫害する実行に手を下した人物でした。

 

この様な創価学会による様々な嫌がらせにもかかわらず、田川市住民の一割以上にあたる人々が会期中にこころよく楽しい面持ちで田川市美術館へ訪れてくれました。市民がこの田川市美術館の館長がした恥知らずな行為を知ったらなんとガッカリするでしょうか。

 

押し寄せる観客に田川市美術館始まって以来の黒字と美術館係長に言わせた大反響になったそうです。しかし田川市美術館館長は創価学会の池田大作のいうことなら、田川市民が期待して絵から感じ取れる喜びが失われてもどうなってもよい。という立場でありました。

 

これが田川市の教育委員会からの天下りの美術館の館長の実態でした。創価学会はこういうふうにして次から次に展覧会が予定されている会場の各地へ指示しました。

 

創価学会は悪事を命令するだけです。あとは恐れおののいて、だれもがこれに従い五井野画伯への攻撃を大手マスコミのようにするかのごとくです。

 

田川市美術館館長のように、創価学会に指示されたように絵に言いがかりをつけた人は、会期中におとずれた田川市民の皆様の中にはひとりたりともいなかったのです。

 

いたのはただひとり田川市美術館館長の他に誰もいなかったのです。創価学会の暴力部隊と言える行為を田川市美術館館長はここにおいて実行したと言えるのではないでしょうか。

 

美術がわからないこのような館長がなぜ田川市の美を背負って、その地位にぶら下がっているのでしょうか?これは創価学会からの人事介入の力が働いているからです。

これが非課税特権を受けた無税の宗教法人が政治、政府、各地の政治、マスコミ、警察と、その見えない非課税無調査無届の金の力を十分に発揮してありとあらゆる犯罪に手を出しているがために蓄え続けた日本国内の治外法権的特別特権を受けた池田大作の自由自在にできる恐るべき組織であるのです。

 

 

この田川市美術館での開催が大反響を大反響呼び、他のオファーがあり、次回は宮崎県都城市立美術館で行うことに決まる運びとなる。が・・しかし内部に潜入した創価学会員がすぐにこの情報を池田大作に伝達し次の妨害を池田大作をして計画されました。

 

こうして・・また創価学会により展覧会の準備を進めると、圧力がかかったのか、五井野画伯企画の作品の展示は認めないと始まってから言って邪魔をしてきた。

 が・・その要求を撤回させ、美術館側は創価学会再重視姿勢に変わり非協力姿勢で失礼極まりない形での展覧会が開催され、大好評大盛況で来ている一般の方々と共に高い芸術を楽しみ味わうことができたものの創価学会はまた次に更なる強行的な邪魔の準備態勢に組織つくりにまい進したように推測される。

 

そしてこの数日後に偽物の爺さんが(創価学会から密かに送り込まれ)やってきて、わしが歌川豊国6代目じゃと偽り歌川派門人会内部に潜入しありとあらゆる妨害をし裁判で数年間も振り回し裁判で負けると急になぜか死んでしまうという(用がないもの池田大作からの指示情報をすべて知っているがために消されたのではという憶測も呼んでいる(死のタイミングが不自然で風呂で死んでいたのを発見されたとはよくある殺人事件に類似している可能性を残しているとうわさ憶測を呼んだ)

 

まるで浅原彰晃が刑務所で薬によりしゃべれないように池田大作からの指示と援助でやってきたことがしゃべれないように薬で廃人にしたというリチャードコシミズ氏の静岡の動画や創価学会の動画を見るようでもあった。

 

 

※創価学会員は加害者である立場を忘れ、被害者面して騒ぐ習慣が一般化している。これが犯罪集団カルト集団の日本社会に悪影響を与えながら拡大して手口である。

 

 

創価学会池田大作はロシアエルミタージュ美術館での展覧会が開催される情報のすべてを内部に潜入させていた創価学会員により情報を得て、ロシアエルミタージュ美術館の関係者と事前打ち合わせのために行くスタッフの行く先々の予約の情報を入手し(太田一斉、偽豊国から池田大作に伝えられる)先々で予定の計画がすべて創価学会員が先回りし予約をキャンセルして回るという卑劣な行動に出た。

 

ドミノ倒しに崩れてゆくロシアでのスタッフの苦しみは相当であったと後にスタッフたちは話す。

 

これにより五井野博士一行は事前の調整や打ち合わせなど、すべての日程、予定を事前に先回りされ台無しにされたのだ。だれが犯人か?だれが創価学会に逐一情報を流しているのだろうか?というあやしい人物としてあがってきたのが数名に絞られた。そして妨害やキャンセルを受けたロシア人に写真を見せるとこの人物が来た!と証言して出てきて鳥肌ものだったと聞き込みをしたスタッフは話す。その人物こそ、内部で密かに買収された人物と創価学会が送り込んできた偽六代豊国であったのだ。

 

 

予定の地に到着後もホテルがキャンセルされてあり寒いロシアで路頭に迷わされたり先回りした創価学会員が歌川派門人会の関係者だと言い先方に対して暴言を吐いたり暴れたりして警察沙汰ぎりぎりまでのことをして逃げてしまうのである。

その事件後に歌川派スタッフがその場に行き、想像も絶することをして逃げていたことを事件現場で聞かされ海外のこの地までつけまわして邪魔をしてくる創価学会に・・言葉に表しようもない

 

 

    月刊ウイッピータイムスVOL3、97年7月号の記事より

 

 

途方もないロシアの地でこころの中から叫んだ言葉は・・・これが創価学会なのだ~~。

 

これが心の中から吐き出された言葉である。

 

大勢の人が情報を知ったがために暗殺されたと多くのネット情報や動画で配信されているがそれはまさにこの私たちはそれらよりもっと先に言ってみれば創価学会による被害をもっとも早くもっともしつこくもっとも長期的にもっとも資金と人員を動員されて攻撃をされ続けてきたと言っていいと思う

 

これがカルトの中のカルトであると痛み苦しみながら痛感させられたのである。だから日本国民の90%以上の創価学会員でない方に警告を発しているのでありこれもひとつの日本を良くするための運動でもあるのだ。

 

ただ単に私が恨みで創価学会をどうのと言っているのではないのである。北野誠事件やあらゆる事件を見ても被害を受けてきた私から見れば手に取るようにわかるからである

 

 

もちろん命さえも狙ってきました。

ロシアで部屋に誰かが先に進入し冷蔵庫のジュースに毒を入れそれを部屋に戻ったスタッフが飲んでしまい倒れ意識不明となったのである。

 

一命は取り留めたのは事故後処置が早かったためであり毒への対処法ともしやと予測し予防薬を持参していたのである。知らないスタッフだったら死んでいた。

 

このように命まで狙ってきた創価学会の妨害を受けながらも契約はなんとか命からがら完了。

 

 

展覧会では開催の広告掲載には新聞社3社の掲載が決まっていたが、創価学会の大金投入と圧力によりロシアの新聞社は歌川派門人会と歌川正国(五井野正博士)のロシアエルミタージュ美術館での展覧会の広告掲載をキャンセルしてきたのだ。

 

これらの妨害事件の詳細はこちらにも・・

 

 

※創価学会員は加害者である立場を忘れ、被害者面して騒ぐ習慣が一般化している。これが犯罪集団カルト集団の日本社会に悪影響を与えながら拡大して手口である。

 

 

五井野博士が昭和48年に池田大作に渡した一念三千論であったのですが池田大作により盗作されてしまい学会での地位を不動にされてしまうことに利用されましたが、五井野博士はその後自費出版にてSF小説「七次元よりの使者」を世に送り出しこれがベストセラーになり、この原資を生かすためにリサイクル社会の実現で環境問題の解決や生活を安全で安心を築くための月刊誌や生き方のライフワークの指南書を世に送り出されました。

それと並んで法華経や一念三千論について確信に触れる書籍を世に送り出さされました。

 

この五井野画伯の世に対する思いで出版されましたのが、株式会社創栄出版です。

 

世界中の人が宗教の歴史の中で埋もれその本質と実証を失った今日、すべてを総括できる人が必要とされた地球の最後のサイクルを迎えたときだとも言われ、待望されたときだと思われます。

 

これをすべて交通整理され、世の人々にわかりやすく簡単に理解できる道を作られました。

 

法華経を読み解読し努力しても理解することができなかった平安朝時代の貴族たちの喜びが聞こえてきそうな・・または日本人としてそのルーツを探るにどうしても大乗仏教の伝来の意義が欠かすことができず・・それらの日本の不思議、日本人としての知るべき解決の書物が五井野博士により法華経だけにとどまらずにあらゆる宗教という観点からも日本のなんたるやについて理解できる書籍でした。

 

私も今まで疑問に思い悩み続けた法華経についての解釈やその法華経が今日までどんな所から誰が何のためにそしてその先どうなるのか?その流れを明快に答えてくれる人は五井野博士以外には歴史上も地球上の今日どこの場所にも存在しないわけです。

 

地理上に物質時間を経て流れてきた流れの意味と背景など・・・物質上ではない別次元から流れている全体像の流れと・・・・普遍の久遠の流れとともに水面下で動かしていた流れを3方あるいは過去現在未来と全方面から同時中継された解説であり五井野博士によりやっと法華経の意味をなんとか・・これまでの地球の歴史に埋没した真意を簡単に判断でき、ひと段落つけさせ落ち着かせることができました。

 

これも創栄出版があったからできたことで、私たちにもっとも有益な教えを示してくれたのでした。そして私のように仏典など読んだことも考えたことも解釈をあれやこれやひもとき続けて悩み続けたこともない人などにも機会が与えられるように創栄出版ではリサイクルから環境から、文化へ芸術へと旅行情報やふるさと暮らし情報や芸術の情報などさまざまな楽しみながら抜け出せる道というのも創栄出版は発していました。

 

 

しかしこの創栄出版は創価学会により乗っ取られてしまうことになる

 

創栄出版を出版社内部の職員を買収し、そして雇われ社長に事務所を占拠され、創立者であり、著者であり、師であり、読者の師匠である五井野画伯の持ち株オーナーであった画伯を事務所に入れなくし追放したのです。博士の持ち株分も薬で職員が危険と判断され陰謀でとりあげられサインに応じさせられる。

 

 

毒物事件もおこり池田大作による強引な乗っ取りは社員の買収により池田大作の指示により、暴徒と化し買収された創栄出版関係者らにより

実行され大破壊がなされました。まさに、過去現在未来を宇宙世界をすべてを敵に回す犯罪に創価学会に買収されたぐらいで盲目の暴徒と化し実行されました。

 

 

彼らは池田大作の買収に乗り創栄出版を乗っ取り、その見返りとして今は創価学会が運営するテレビ番組あいのり(久本雅美)などを名誉職としてもらい、そこで天国のつもりで男女が戯れその中に乗っ取りの中心者も楽しみながら手掛けているそうである。

 

乗っ取って成功した池田大作は、ご機嫌なのか?五井野博士を苦しめた人物(創栄出版乗っ取り功労者)にあいのりという番組提供という仕事を与えるというご褒美を贈っている。

 

月刊ウイッピータイムスVOL1創刊号より

 

 

記事の内容 ウイッピータイムス出版妨害(創栄出版乗っ取られた直後の記事)のため一ヶ月以上遅れ

 

さて本来一月に発行してなければいけないタイムスですが(もう創価と組んで社員にやらせておいた出版社がまさか?信頼をおいていた人々が創価と手を組んで持ち株の主であり創設者の五井野博士を会社から追い出すとは思いもしなかった。五井野博士より池田大作を選び会社の所有をひとりじめにすることのため、あるいはダメージを与えて裏切りまでしてでないと生きた心地がしないのが芯からの悪ということか?)諸般の事情で、発刊されなかった事について述べさせていただきます。まず昨年の12月に五井野博士の著書「科学から芸術へ」を創栄出版より出版する際に、12月は一番出版物が多い月なので、こちらも11月中には取次である日販や東販に本を流したかったが、当の創栄出版側(大株主は五井野博士であり創設者でありこれを社内の人物が創価学会と組み五井野博士の書籍を出版しないように秘密裏に裏取引はできあがってしまっていた状況下)は、忙しいという理由でなかなか協力的でなく、12月に書店の店頭に並べるためのタイムリミットが近づき、急きょ古くからの会員である塩田氏が取次と交渉に入り、ぎりぎりの124日に各書店へ配本となることとなった。この時、取次担当は出版社の社員であるが林檎プロモーションの取締役である中村(山田)智子(乗っ取りの功績を池田に評価され創価増殖団体草薙剛や清水由紀子を育てておなじみの欽ちゃんファミリー水沢蛍としてテレビCMに出演中)であった。

 

 

この様に創栄出版の協力(持ち主大株主は五井野博士だから命令できるが今まで一緒にやってきた社員が創価の池田と組んでこの出版社を自分が思うパラダイスに五井野博士を裏切ってまでもしたいならそれは彼らが自分で自分を決定しただけであり、それは彼ら自身の自分にかかることだからかまわないからしょうがないだろうと尊重して)が得られないままに発売が進み年末にかけて、何度か出版社と話し合いを持ちたかったが、年が明けて18日に創栄出版第一ビルに、創栄出版で業務している窪田氏が突然一方的に鍵を掛け、我々が入れない事態が起きた。(事前に締め出しを計画していてその時を今か今かと狙っていた(池田大作と合体後だった)その後、創設者であり大株主の五井野博士と創栄出版社長(博士が海外や研究や講演など多忙のため社長の椅子には別の人間を座らせておいたがいつの間にか博士をこれまでいじめて苦しめ続けてきた池田大作のことは一番知っている人物かとおもったら・・池田大作と手を組み五井野博士や読者をもっとも苦しめる創栄出版池田大作化に尽力を注ぎ池田大作を大喜びさせ池田大作と手を組み五井野博士を決定的に会社から締め出し乗っ取りを完成させたのである)との話し合いが116日にもたれたが、その時点で出版社の乗っ取りが明らかになった。

 

 

詳しいことは今は述べられませんが背後関係を全力をあげて調べ上げている最中(調べるまでもなく社を任せておいた人物が創価学会と組み創価学会の仕事をメインでする会社へと塗り替えられ池田大作からは最大の功労者として讃えられTVや陽のあたる場所でのんびり夢心地・・創価のために五井野博士を徹底攻撃した会社として変貌したのである。そうやって乗っ取った手に入れたというのが事実であり、そのようなことが平気で出来る人物と最初から実は知っていて今日まで社長の座にも座らせてやりチャンスを与えたつもりだったが自分から無間地獄の方へ舵を切ってこちらに危害を加えてすでに結論と化してしまったのは彼が自分で選んで残忍な残忍極まりない乗っ取りを強硬突破したのである。そしていつも真似ばかりして池田が一念三千論を盗作して会員を崇めさせたように五井野博士のまねばかりして乗っ取った後の周りの社員の前で五井野博士のまねばかりして崇めさせているのだ。)です。その為、この事によって「科学から芸術へ」の中で創刊予告していた、ウイッピータイムスとオンブズマンの発刊がストップ状態となった。

 

 

創栄出版ビル閉鎖のために起きてくる問題である事務所の確保、電話の変更、振込先の移動(郵便振替口座番号は変わらず)書留で創栄出版に送られてくる入会申込書等の引き継ぎもない為(池田大作にしか目が向いていないことを乗っ取った後始末は読者に対して無視を決め込んでの様子だ。こういうところで読者を無視このように乗っ取りをした連中は読者に対してのいい加減さを態度で示すことで五井野博士のこれまでの読者への信用を失墜させる行為にも通じる。)著書の中の住所部分の変更等、憲法21条の出版妨害と思わざる得ない状況の中で、現在にいたっている。なぜこの様な状態になったのか?現在の現在の創栄出版の刊行物は近年、(いつの間にか創価学会とその社員の下でひそかに)林檎プロモーションの物にすり替わっている。

 

 

創設者の五井野正博士の著作物の出版に熱心でない。昨年9月、創栄出版主催の「なんでもオークション」林檎プロモーション発行、山田智子編集長(芸名 水沢蛍)の中でメインの記事である。

 

(悪の功労賞?博士を奈落の底に貶めていい気分で大出世したそういう生き方ができた女。それが創価学会の池田大作に抜擢された原因だったのだろうか??)

の中でメインの記事である、山梨県長坂町の建物が55千万の価値があるとして、(本当はかなり安いもの)それを2億円以上でオークションにかけて売り出すという記事がありましたが(五井野博士の信頼を得て読者の信頼を得ている雑誌でまがい物のタダ同然の不動産に5億5千万の詐欺プライス販売を読者に対して実行した。博士の趣旨に泥を塗る行為であり博士の許可なく広告し宣伝し販売した)

 

 

これなどは持主の名義は林檎プロモーションの山田智子(水沢蛍)高瀬、増渕、の女性たち3人の所有となっています。彼女たちがどうしてこんな建物を所有できたかは、歌川派門人会の会員(当時会長は五井野画伯)という立場を利用して浮世絵の高値売り逃げで多額の利益を得たことがわかっている。この為、歌川派門人会会長である五井野博士は林檎プロモーションの人間と絶縁しなさいと会員に向けて発言したことあがあり、林檎プロモーションの人間と一緒に金もうけに走った一部の会員が終わりには、五井野博士を誹謗中傷し、五井野博士が創設した会に偽物である6代豊国を侵入させ権利侵害、名誉毀損の犯罪性ある無関係通知書騒動、又、五井野博士の創設精神を受け継いでいた・・・云々と・・・(すべてが池田大作の物質時間においておいしいそうに一見感じるうらぎりのお誘いに尻尾を振ってついていく輩が後を絶たない)

 

 

また創栄出版の事務所を寝泊まりに利用している窪田、木村の両氏も「窪田デザイン企画」で林檎プロモーションの企画に多く関わっており・・電話するときは林檎プロモーション経由で連絡する状態だった。そして冒頭の中村智子氏は創栄出版の社員であり林檎プロモーションの役員でもあった。

このように出版社を取り巻く林檎プロモーションの人間たちによって現在も出版社は乗っ取られている状態なのですが実は背後にある宗教団体の工作グループの中心的な人物はI氏とN氏で外務省の役員です。彼らは金と女で外務省の人間を買収して、五井野博士の名誉領事の日本側の合意を妨害していたが、遂に悪運つきてその事実をI氏は外務省の査察官に調べられて白状いたしました。という訳でこちらサイドと外務省では早急に全貌の解明にあたっています。

ウイッピータイムスは、はっきりした段階で発表していく所存ですので皆様の何卒暖かいご支援とご協力をお願いします。(これを後々の事の発動のために残すべきでしょう)

 

 

一念三千論を池田大作に提出されたのが昭和48年(1973年)それから池田大作が第2の創価学会をやる。そしてすべての権限を与ええるからナンバー2として来てくれと誘われたが池田大作にとってだけのメリットしかない申し出を五井野青年は断って・・・それからは、というもの池田大作のしてきた行為は恐るべき犯罪である。一念三千論を盗作をし、つけ回しをしマスコミ報道に一切出られないようにし、盗聴をし企画を盗み視点論点を盗み違う場所でマネを論じ、展覧会妨害をし、内部崩壊をさせ、交流関係者を回り相手先との交流関係をぶち壊して回り、スタッフに毒を飲ませその先の活動をできないようにし、出版社を乗っ取り、・・・・歌川派門人会と名乗るな!と名称差し止めの裁判をしかけてきて負けたがいいが創価学会の代理として裁判を歌川派門人会にかけてきた偽豊国が裁判で完全に負けると背後で池田大作と打ち合わせしながらやってきた事実を消すためにか?(疑問視される死に方)風呂で暗殺疑惑が残る死に方をし、そして創価学会は・・山口組内後藤組に5人の殺してほしいと暗殺リストを渡す。この創価学会が暴力団に渡した暗殺依頼リストが永田町界隈から皇居周辺の団体までに流れ大騒ぎになる。

 

 

 

(著書には、暗殺依頼リスト4名(五井野博士や亀井静香議員など)を創価学会からもらい250億円で

暗殺を実行するように創価学会から依頼されたと後藤元組長が真実を明かしている)

 

 

池田大作が後藤組に命じ博士を暗殺依頼!

 

戸田城聖氏の頃の創価学会から見れば今の創価学会は戸田城聖氏が当時もっとも下品でうぬぼれで弱気人を罵倒する池田大作をもっとも嫌っていた。その内容はYOUTUBEにも講演としても公開されている。戸田城聖氏は一念三千様に間違いなく我々のすべてをそのまま橋渡ししよう!とそれまでの仮の姿であるということを創価学会という団体は存続していたわけである。それはイスラエルの国歌のように東方に現れるメシアにすべてを捧げお任せしよう!という感覚でいたわけであり、私もそのように戸田城聖氏の愛弟子であった祖父から学んできたのである。

 

しかし戸田城聖氏がもっとも心配したように、池田大作を創価学会内部に置いておいたがために創価学会こそが世界で最大の五逆罪の数兆倍もの罪を積み重ねる団体と池田によってすり替えられたわけである。北朝鮮人池田大作による最大の被害者でるのは戸田城聖氏でもありその愛弟子でもあったわけである。

 

創価学会は戸田城聖氏の宿敵である池田大作を倒すこと、戸田城聖氏の仇討を断行すべきであり、それが戸田城聖氏の軌道を再度復興させるための通らなければならない絶対的な立ちはだかる壁である。

 

創価学会は戸田城聖氏の意思を整理整頓して考えなければならない。そのためにはまずは、創価学会の軌道をむちゃくちゃにし池田大作がひとりのための暴力、麻薬、脱税ありとあらゆる犯罪に手を染めている巨大分業組織体へと化してしまったのである

 

創価学会の最大の敵であり最大の悪魔である池田大作を700万人が一致団結し戸田城聖氏の遺志を継ぎ本来の創価学会の存在意味を考えるべきである。

 

暗殺依頼を受けた後藤組の組員により五井野博士追い回し事件もあった。それにより博士が危機に瀕したこともありまことにもって許し難い犯罪者たちである。

 

池田大作というのは日本にとっては何も良いことをしていないのであり日本国をもっとも嫌っている人物なのであるからそんな日本嫌いな人物に700万人もの日本人の命を命運を預けてよいのだろうかくらい政府関係者ならわかるべきであり、フランス国のように創価学会を組織的暴力集団として調査認定し、毎日水面下で麻薬取引やありとあらゆる繰り広げられている犯罪を1日も早く食い止めるべきである

 

 

日本に世界にリサイクルという言葉を生み出したのは五井野正青年です

日本国はこの恩恵を無視という形で五井野青年に返しました。

 

池田大作の圧力に日本国が屈して・・・・・。

 

 

ブタつながり????平成17年6月27日月曜日晴れ 暑い  昨日、BOOK-OFFで買ってきたなかの一冊<「池田大作の素顔」藤原行正著>を読んでみると、まあ池田氏の人なりを表すエピソードが何ケ所も書かれている。池田氏が夫人のかねさん(聖教新聞などでは香峯子さんとなっているがこれは自称だそうです。親からもらった名前は気に入らん!というわけでしょうか。つまらん見栄?)の実家の援助で27歳で、大田区小林町に購入したマイホームはのちに「池田センセイのお住い」として箱根の創価学会研修所に移され、池田大作ダイセンセイの偶像崇拝の小道具(大道具?)として使われているそうです。 確か、北の首領さまも生まれた家とかが、聖地とされているとか聞いた事があるような・・・・やっぱ、朝鮮つながりでしょうか??????????アホらしい事です。

 ちなみに、池田氏が都合のいい時だけその名前だけを利用する二代会長の戸田氏に対しては、死の直後に池田氏が戸田氏宅に乗り込み、遺品類、古美術、など四億円相当の遺産を強制的に差し押え、葬儀に寄せられた四千万円あまりの香典さえ、遺族に渡さず、創価学会が取ってしまい、未亡人らの抗議でやっと、ほんの一部が返されただけだそうです。そのあとも色紙、メダルにいたるまですべて回収して二代会長色を一掃したそうです。自宅は、池田氏会長就任後に池田氏自身の手により売り払われたそうです。 死んでしまえば、自分の師だった方の御遺族に対してのこの醜い鬼畜のような仕打ち。流石、池田大作ダイセンセイ。病人の布団も平気で剥ぐという高利貸しとしての経験を余すところ無く活かしきっております。(鬼畜と一緒にしたら、鬼畜に対して失礼かも)

いいずれにしても、宗教家らしからぬ池田大作ダイセンセイのその人なりをよく表している事例です。

 まあ、河岸でも御葬式の時に喪主の奥さんが創価学会員だったりすると、創価学会がハイエナのようにタカリに来るので、香典は包まずに御焼香だけすませて、後日、組合長などが皆の香典をまとめて喪主にそっと渡したりしています。

 池田大作ダイセンセイの行状ついてのエピソードとして、藤原行正氏はその著書「池田大作の素顔」の中でジャーナリストの内藤国夫氏の文章を引用しています。以下その引用部分〈当時、青年部参謀室長の職にあった池田大作は、会長の死の直後に時を移さず、目黒の戸田先生の家にのりこんだ。幾子未亡人をさしおいて戸田先生の遺品類や、古美術品、学会関連事業の重要書類など、四億円相当の遺産を強権的に差し押さえ、学会本部に持ち帰った。あまりにむごい什打ち、と嘆き悲しむ遺族の懇望で、後に四干万円相当の遺産が返却されたものの、大半は創価学全の所有に帰した。 あこぎさはそれにとどまらなかった。戸円先生の葬儀に寄せられた四千万円余りの香典さえ、遺族には渡さず、創価字会が独り占め。幾子未亡人らの再三の抗議で、四十九日法要をすませてのち、ほんの一部が返されたのみ、という。 そういうあくどいことを一方でしながら、他方で、歯の浮くように「恩帥」をあがめたてまつる。池田人作氏の人となりを示すエピソードといえよう〉(「現代」五十五年七月号)以上「池田大作の素顔」p65~66

 同じく池田氏の人なりを表すエピソードとして以下引用 旅行先での食事時が大変なのである。大広間にズラッと並んで食事している全員が自分に注目していないと池田はヘソを曲げる。よそ見したり、隣の人間と話したりしているとあとが怖い。国会議員などそれだけで、次期出馬を棒に振る可能性だってあるから、全員が声も出さず、咳払い一つせずシーンと静まり返っている。 それを見て、池田が満足そうにみんなに声をかける。「もっと気楽にしようや」 しかし、その言葉を真に受けたら大変だ。「この野郎っ」と睨まれる。 驚くのは旅館の仲居さんたちだ。それはそうだろう。テレビで見かける公明党の竹入義勝や矢野絢也あたりが小学生のようにかしこまって、おとなしく箸を動かしているのだ。大広問全体に陰気な空気がただよい、ご満悦の池田一人が胸を張って、だれかれ構わず名前を呼び捨てて上機嫌なのである。「さあ、みんな今日は飲むだけ飲んで騒こうじゃないか。無礼講だ」池田はそういうが、本人が下戸だからテーブルにビール一、二本がせいぜい。宴会といっても池田がいる席では、酒に酔ってのバカ騒ぎは絶対禁止である。ビール一本追加注文するのにも池田の許可がいる。だれも白分からいい出すのは許されない。池田のおごりでもないのに、すべて池田の気分次第だ。池田が頷いてからやっと追加ビールがくる。そのたびに、側近のゴマすり副会長あたりが広問中に響くような大声で知らせる。「池田先生のご配慮でビールを追加いたしました」「いただきまあーすツ」 大の甥がビール一本もらって全員声を揃えて最敬礼する。もちろん、学会の秋谷会長、森田理事長、公明党の大久保書記長らもその中にいる。 世間の人はこれをつくり話と受け取るかもしれない。が、創価学会、公明党とはそういう組織であり、池田は学会内部の絶対的権力者なのだ。 もう一つ、日常的な光景を紹介しよう。題して「池田先生のお下げ渡し」である。 池田はよく学会や公明党の幹部たちと会食する。その時、池田のテーブルにだけ十数種類の料理がズラリと並ぶ。ほかの人問の御膳にはわずかに一、二品。池田は自分のテーブルの料理におもむろに一箸つけては、その皿をほかの参会者に回すのである。そのたびにまた患部たちは揃って礼をいわねばならない。「いただきまあーすツ」外部の人がこの光景を目のあたりにしたら、滑稽をとおり越して異様な不気味さを感じるたろう。引用終わり「池田大作の素顔」p156~158

 池田センセイのお下げ渡しについては、杉田かおるさんも書いていましたが、なんとも無気味というか気持ち悪いものです。こんな最低の人間を生き仏と崇め奉っている創価学会とはやはりキチガイの集まりとしか思えません。宴会についてはあの金正日の方が一万倍マシかもしれません。参照お下げ渡し

 

 

日蓮大聖人の仏法を正しく受け継ぐ 唯一の正系門家 富士大石寺 

    その宗教法人が、日蓮正宗であり、創価学会はこれに属する一信徒団体であった。

 ところが第三代会長(当時)池田大作は政治野心を懐き、衆議院進出した、

   これに対してマスコミ・各政党・諸宗から一斉に反発が出た。

  その批判は、学会がそれまで政界進出の口実としてきた「国立戒壇」に向けられ、

    =国立戒壇は憲法違反だ=という不当・低レベルの非難であった。

        だが池田大作はこの非難を恐れた。

  そしていとも簡単に「国立戒壇」を放棄し、俄かに大石寺境内に「正本堂」なるものを建て、

           これを「御遺命の戒壇」と偽ったのであった。

   しかもこの正本堂の完工式に、

     ローマ法王庁・アメリカからの、キリスト教神父 数人を法謗厳禁の室内に招き入れ

              最前列に座らせていたのである。

         (この建築物どう見てもキリスト教徒好みの物件であった。) 

 さらにこれ以後、池田大作の講演発言の中には、

     キリスト教の思想・哲学や偉人の賛嘆・合唱等数多く出てくることになる。 

                    (創価ルネッサンス等はその典型)

   これらがいかに欺瞞であるかは、かつての彼の主張を見れば一目瞭然である。

    「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、

       また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大百蓮華・五九号)

    これは大聖人の弟子として正論である。しかし変節した後の池田はこう述べる。

    「宗門七百年来の宿願であり、創価学会の最大の目標であった正本堂が、

          遂に完成する運びとなりました」(大百蓮華・二三〇号)と。

   まさに池田大作は政治野心のために、御本仏の一期の御遺命を弊履のごとく抛ったのだ

           大聖人に対する、これほど重大な背反・叛逆はない。

       これ、仏法を内部から破壊する    " 魔の所行  " というべきものである。

   ところが悲しいことに、このとき日蓮正宗の高僧たちは

        創価学会の強大な権力・金力に諂い、池田の求めるままに、

            日蓮正宗として公式に「国立戒壇」の放棄を宣言したのであった。

 

   池田:創価学会の宗門離脱後も、両者(宗門・学会)共

       日蓮大聖人の御遺命「国立戒壇」の否定は一致している

       この理由は池田・宗門を操る世界悪事組織の方針に起因する。

  (Fメーソン入会会規等には、信仰が必需だが「唯一神信仰」は不可とされている)

     他の宗教への「寛容の精神」などの戯言は、ここから出ている

  *昭和三十五年  池田大作:三代会長就任(二代戸田より引継疑惑有)

  *昭和三十九年  創価学会、公明党結成 (政界本格進出)  

  *昭和四十年   池田大作は、宗門:細井日達管長を籠絡し

                           御遺命違背の正本堂を計画

               (共産党攻撃を利用し、宗門を圧迫操作) 

   *昭和四十五年  教義違背の池田に対し、顕正会(日蓮正宗信徒団体)の諫暁開始

  *昭和四十七年  田中角栄:「日中国交正常化」

            (池田大作の中国根回実績を、学会批判弾圧と取引提供)

  *昭和四十七十月   不浄な正本堂落慶・御本尊遷座

                  (世界中から、キリスト教等の要人招待)

             (世界中の関係組織に利益分配の為、資材収集購入)

  *昭和四十九年   池田大作が時の猊下(細井管長)を籠絡誘導し

               「御遺命の国立戒壇」を主張する顕正会を不当な解散処分

  *昭和五十二年  池田大作・細井日達管長、利害絡みの仲間割れ  

  *昭和五十四年  細井日達管長・病院、退院間近に急死

                  (およそ猊下の入滅にあらざる遷化)

              次代阿部日顕管長が「自己申告」の「相承」により

                 池田大作との御遺命破壊計画、再び始まる

               (阿部氏は教学部長時代より、池田大作と蜜月)

   注)この「自己申告」の「相承」は、池田大作の「3代目会長就任」と同じ疑問有る手続き

         池田の場合、戸田城聖との「エレベータ内相承」が有ったと・・・

 

  *平成二年(大石寺開創七百年)

              顕正会より御遺命・誑惑解消を求む強き諫暁 

                 宗門・池田大作:誑惑の本門寺改称断念

  *平成三年    池田大作と阿倍管長の間に、再び利害がらみの仲間割れ

             創価学会は日蓮正宗より破門、

                                    ・・・これ以後、創価学会は

                  破折すべき邪教と営利連携活動が活発になる  

 

  *平成九年    諫暁書「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」

                     を全国配布(顕正会)

                全新聞へ広告掲載(朝日新聞社のみ掲載拒否)

 

  *平成十年    大御本尊、誑惑不浄の正本堂より奉安殿に還御

                正本堂は解体・消滅

  * ・・・・・        創価学会、教本より<本門戒壇の大御本尊>の文字削除

                創価学会は完全に邪教化

  *平成十六年   諫暁書「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」配布(顕正会)

                   全新聞社、広告掲載拒否

 

  *平成十七年十二月   阿部日顕管長、退座  第68代早瀬日如管長就任

           (日蓮正宗H・Pより邪教破折論が消え去る・・・)  

 

  そして 現在 池田大作(創価学会・ S.G.I )は日蓮大聖人の信仰を看板にしながらも、

     本来 破折すべき世界中の知恵浅き教え 外道・爾前経の宗教団体に対し、

           法を説かず、自己賞賛と対話(偽善者が使う定番セリフ)と称して

       世間的な権力の迎合・保持に終始してる次第である。

         日蓮大聖人の仏法を名乗る以上これほどの大謗法はない。

  最近にいたっては、キリスト教賛嘆に加え 

     今は利益無き、熟脱の仏 釈尊まで持ち上げる次第である。 

    (世界を渡り歩き悪事組織拡大活動の為のパイプ看板であるのがよく見える)

 * 彼らの<対話>とは、特定組織の共通利益見つけ手を組む事であり

    善悪に、けじめをつける話し合いには成っていない物である 

 * 世界中で池田大作に称号を送った人々は、この世で唯一成仏が叶い幸せになれる法は

        日蓮大聖人の仏法だけである事を知らない。

 *三十余年前より彼の所行は、世界中の宗教等権力者に取り入り

        立身出世と悪事組織営利拡大に終始してきたのは歴然である。

       =ノーベル平和賞欲しさという見方さえできる=

      (このノーベル財団設立元も、この「世界悪事組織」の一部である)

 

 *近年、公明党・創価学会が他の宗教団体と協調をとるようになったのは、

   各政党の支持母体でもある宗教団体が世界悪事組織企業・団体に深く関わり合い、

       グローバル悪事戦略の方針・配置転換なるが故である。

   --------------------------------------- 

   自民党 = 神社本庁・靖国神社遺族会・霊友会・全日本仏教界・

           新宗連(・立正佼正会・PL教・霊波之光・生長の家)

           身延系日蓮宗(四月会系)・神棚系信仰・真光・国柱会・等

 

   公明党 = 創価学会 :2極操作組織として野党から与党に変節

                 破門以後、立正佼正会庭野日敬の葬式に出席し親近を謀る等

                  邪宗教その他、あらゆる組織に融合・親近化(新進党等)  

          ・・もっとも自民党とは、田中角栄時代以来のパイプが出来ているが・・  

   保守党    芸能団体組織体制・

 

         ----- <2極組織 対立操作理論>↑↓  ------

 

   自由党(小沢)    ・・かつての池田大作党の同胞(コウモリ活動は典型的)

   民主党      (見せかけの対局組織、)

   社民党     (      )

    共産党 =  (背後組織の命により、編頗で部分的な攻撃論争)

    ----------------------------------------- 

 

 *近年日本の宗教・政治・金融組織は、ほとんど世界的悪事組織の支配下にある。

  そしてどの政党も、少なからず利権・票田取引のこれら組織団体の上に有る。

   そして、系列の原点を探れば・欲望肥大・自害害他の同一腐敗組織にたどり着く。

 

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  一般に宗教とは、地球上の全凡夫が束になっても足元にも及ばぬ、

     絶大威力を持つ神・仏が信仰対象のはずである、

   しかるに凡夫の権力争いの選挙活動に走り回る宗教団体の姿は荒唐無稽である、

     かえって自身の信仰対象の価値を地に落としているに等しい。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 *戦時中アジア諸国は、ことごとく欧米のキリスト教化戦略に落ちた・・

   そして日本は、 明治・大正~昭和期に

    国家及び日蓮正宗:宗門が腐敗により、「大震災」「戦争突入」「原爆投下」

     *****(日本全国民が神棚信仰の結果がこれである・・・)***** 

 

    戦後、下種仏国たる日本は、正系日蓮大聖人の信徒・復活増加の功により

  自力の技術発展力・生産力を身につけ、世界レベルの力を得た。

     日本の平和はアメリカ軍隊が維持していた訳では無く、

               御本仏この国にましますが故にその働きが生じたのである。

       (この軍事基地は単に悪事組織の拠点になっていただけである)

        (そして日本から莫大な援助金を巻き上げていった・・)

    

  ・・日蓮正宗・創価学会も、戦後~昭和四十年代頃まではかろうじて正統を保っていた・・

       (ただし「牧口」「戸田」も欧米の歪んだ哲学の影響を帯びていた)

 

  しかし、精神的に完全に「外道+キリスト教」に染まりきった

           第三代会長:池田大作により、

            再度、信徒集団を歪教学に浸し魔を入れ、

  信仰の正しき信徒をわずかに減少させた、

        さらに唯一の正系・富士大石寺をも籠絡し歪んだ信心教義を押し広めるにつれ

           仏力に依る「目には見えない日本の治安力」が崩れ去ってきた

  *  世界最悪の借金国家・中身の無いブランド国家

  *  治安悪化・犯罪者多流入・極悪犯罪横行・国家...に成り下がった。

 

    (日蓮正宗 66代・67代管長は共に経済誘惑+外圧操作に依って籠絡された)

  そして、現猊下の父:早瀬総監(当時)は

          阿部管長と共に仏法破壊の悪事を働き隠遁していた人間である。

 

 

 月刊の会員制情報誌「FACTA」の4月号に、「創価学会次期会長に谷川事務総長が確定」と題する記事が掲載されている。「創価学会の池田大作名誉会長のXデーが噂される中で、かねてより学会のホープと目されてきた谷川佳樹副会長(事務総長、54)の次期会長昇格が確定した」で始まる同記事は、本誌先号既報の矢野絢也元公明党委員長・新潮社と谷川氏の間で争われていた訴訟が、2月10日、和解となったことから、会長昇格の阻害要因が取り除かれたとして、谷川氏が次期会長に確定したと報じている。

 記事には、谷川氏が矢野氏との裁判を闘い、和解に持ち込んだことが、会長就任への大きなポイントになったと次のようにある。

「学会側で和解を主導したのは谷川氏とされ、今回、矢野氏との和解を成立させたことで学会内での谷川氏の立場は『揺るぎないものになった』(本部の副会長)。なぜなら、谷川氏は、『身体を張って矢野氏を提訴し、追い詰めた』(学会関係者)ことで男を上げたうえ、矢野氏を脅したという『自らの汚点を消すことにも成功した』(同)からだ。

 おまけに、学会マネー(莫大な広告費や印刷費)が浸透した新聞、テレビが学会批判から退く中で、学会に批判的な講談社の「矢野本』の出版活動を封じ込めたことは『大きな戦果』(先の副会長)。『谷川会長』が確定するのも当然だ」

 たしかにポスト池田大作体制を担うことになる次期会長候補としては、谷川氏と正木正明理事長が最有力と見られている。両者はともに男子部長・青年部長・東京長などを歴任。正木氏は副会長を経て理事長に就任、そして谷川氏は創価学会本部の事務を司る本部事務総長を兼ねる副会長。文字どおり中枢に位置する二人が次期会長の双璧と見られていたのだが、「FACTA」は、矢野氏との裁判と和解を通じて谷川氏が正木氏を凌いで次期会長の座を確実にしたというのである。

 その和解の動機と背景として、「FACTA」には次のような興味深い観測も書かれている。「今回の和解劇の発端は、昨年10月に矢野氏が『乱脈経理 創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント』(講談社)を出版したこと。同書で矢野氏は、池田氏ら首脳部の強い要請を受け、学会と池田氏に対する国税庁の税務調査を妨害した経緯を、当時の国税幹部の実名を挙げ、洗いざらいぶちまけている。これだけでもひどいダメージなのに、矢野氏は『私は学会・公明党の裏面史ともいえる手帖を順次公開し、学会・公明党の実態を世に問うことにした。その第一弾が本書である』と、池田氏ら首脳部に宣戦布告していた。 これには学会首脳部も頭を抱えた。矢野氏が暗部を暴き続ける限り、学会は過去の醜聞と決別できない。また、池田氏の莫大な相続財産について、国税当局と事前交渉ができず、勢い世代交代も進まない。そこで谷川氏は、首脳部が和解案を受け入れ、『矢野リスク』を解消する方向へと動いた」

 今回の和解の動きを創価学会内部では、「谷川氏が会長の座を奪いに来た」とする見方がある。谷川氏は創価中学・創価高校卒だが東大に進学したため、いまや創価学会の幹部・職員の中で最大派閥を占める創価大学閥ではない。一方、正木理事長は創価高校・創価大学卒で理事長に就任するまで創友会委員長という創価大学OB・OG会の代表を務めるなど、文字通り創価大学閥のトップの座を占めている。

 しかも正木氏は当初、池田大作氏の後継者と目されていた池田氏の次男・城久氏(29歳で急逝)のご学友グループの一人であるとともに、城久氏の死去後は、池田博正氏の最側近という立場にある。そうした正木氏を差し置いて会長の座を手中に収めるためには実績を積み重ねる他はない。そこで谷川氏は、昨今の創価学会における最大の懸案である矢野問題に身を挺して当たったというのだ。

「FACTA」記事は、創価学会内部におけるポスト池田大作体制の人事をめぐる暗闘や、池田氏のXデーを抱える創価学会の苦悩を垣間見る上で興味深い。

 ところで「FACTA」記事には、谷川氏と創価学会が矢野氏との裁判の和解に至った背景の一つに、「池田氏の莫大な相続財産について、国税当局と事前交渉ができず」との一文があるが、実は、この問題が現在、創価学会における最大の懸案となっているという。 周知のように矢野元委員長は、『乱脈経理』の中で、創価学会から国税庁の税務調査に圧力をかけるように依頼され、これを実行したが、創価学会から提示された最終の指示は、「池田名誉会長にさわらず、第一庶務(池田秘書グループ)にさわらず、絵画などは未整理で提出できない、という三原則を突っ張って欲しい」ということだったと明かしている。要するに池田氏の財産や池田氏の財産と創価学会財産との公私混同にはいっさい触れさせるなという指示に他ならない。

 当然、池田氏が死去すれば相続税問題が発生する。池田氏の個人財産がどれほどの額になるのかは分からないが、本来ならば、「FACTA」記事にもあるように、事前に弁護士や税理士などが税務当局と話し合って一定の折り合いをつけることになるのだろう。ところが矢野氏が『乱脈経理』で、創価学会が、池田氏の財産と創価学会の財産との公私混同問題には、国税調査を絶対に入れさせないという意志を示したことを明らかにしたことから、税務当局と創価学会との事前交渉ができなくなっているというのだ。

 国税関係者からは、池田大作氏の相続税問題については「事前交渉に応じない」という声が漏れてくる。むしろ矢野氏に税務調査に手心を加えた事実を詳細に暴露されたことから、汚名を晴らすためにも創価学会に対する税務調査を検討しているとの声さえ漏れてくる。

 現在、池田氏の体調がどのような状態にあるのかは分からないが、この相続税問題に目途がつかない限り、仮に池田氏が死去してもその死を発表できないなどという、笑えない冗談も創価学会内部からは伝わってくる。

 矢野氏は、周囲に「私の立場はなにも変わらない」と話しているとも伝えられる。また講談社は、今回の谷川氏との和解条件のうち『乱脈経理』の増刷や文庫化をしないとの条件については、「出版権」を盾に応じなかったと言われる。

 矢野氏と創価学会の裁判をめぐる和解問題から派生した波紋は、今後、ますます増幅し、ポスト池田大作問題を抱える創価学会を揺さぶることになるのだろう。「政界仕掛け人」と呼ばれた矢野氏は、案外、その波紋の行方を楽しんでいるのかもしれない。

 

 

 池田が表舞台に姿を見せなくなってから早(はや)、1年。

 日を追うごとに重病説、死亡説など各方面でささやかれるが、すでに本紙において報道したように、池田は脳の障害によってまともに話もできず、会員たちに姿を見せられない状態である、と考えられる。創価学会の頂点に君臨(くんりん)し、絶対的指導者として崇(あが)められてきた男の末路は、哀(あわ)れなものである。

 『聖教新聞』などを見ると、会合など事あるごとに池田からのメッセージが披露(ひろう)されていることから、いまなお健全を装(よそお)い、会員には真実を隠しているようだ。

 

 さて、先日あるテレビ番組で金正日の伝説を紹介していた。その内容は、

・はじめてのゴルフで1ラウンドまわって11回ホールインワンを出した

・地球儀の日本の部分を黒く塗りつぶしたら、本当に日本が真っ暗になった

・撃()った鉄砲の弾はすべて的(まと)に命中する

など、おそよ常識では考えられない逸話(いつわ)だった。その番組では、金正日がホールインワンを出したというゴルフ場まで行き調査をした結果、金正日はそのゴルフ場には1度も来たことがなく、全くのデタラメであることが判明した、という。

 独裁国家の北朝鮮では、さまざまな逸話を作り上げて、金正日の偉大さを国民に示そうとしているのである。

 

 

さて、日本において、これと同じ類(たぐい)の逸話をもつ人物が池田大作である。大小さまざまな事例が語られているが、代表的なものをあげると、

 

池田が千葉・天津小湊の清澄寺を訪れた際、境内に生えている千年杉に向かい、木肌を撫()でながら「久しぶりだね。7百年ぶりだねえ」と呟(つぶや)いた(ちなみに、この千年杉の樹齢は250年であった)

また、小松原法難に縁の深い華房の地へ行った際には、傷洗いの井戸の縁を優しく撫でながら、「あの時(小松原法難の時)は、たしか14人だったかな」と呟(つぶや)いた(ちなみに、傷洗いの井戸は明治時代に新たに掘られた物である)

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池田のこうした奇行を常識的には信じるはずはないが、長年、洗脳されている学会員には、これら嘘言(おそごと)も池田神格化のエピソードとなってしまうのである。

 

 さらに、『聖教新聞』において、池田がピアノを演奏している姿の写真や、池田が撮影したとする、すばらしい風景写真が掲載されているが、じつはこれらも会員を騙(だま)すデタラメである。

 すでに元創価学会本部職員が

 「池田大作もしばしば演出をします。彼があるときから突然あざやかにピアノを弾()きだして、みんなを驚かせたことがあります。音源を別に用意しておいて、実際は弾くふりをするだけというカラクリがわかるのに1年近くかかりました」(FORUM21』古谷博〈元・創価学会本部組織センター〉、小川頼宣〈元・創価学会本部広報室〉、押木二郎〈元・東洋哲学研究所〉が徹底比較「創価学会と北朝鮮」)

と暴露(ばくろ)している。

 また、世界各地で開催されている「池田大作写真展」、これは池田大作がこれまで50を超える国と地域を訪問した折りに撮った、心に残る風景写真を展覧するものであるが、これについても以前、ジャーナリスト内藤國夫氏が『創価学会・公明党"スキャンダル・ウォッチング"(日新報道刊)において、

 「原山正征。現・聖教新聞社写真局長。池田専属の付添いカメラマンというのが表向きの職業だが、じつは池田の写真のゴーストライター(フォトグラファー)といったところが本職である。ここ何年か、池田は『写真は心で撮るもの』を口グセとする。カメラを目から離す独特のポーズで写真を撮りまくるわけだが、実際問題、そんな格好じゃ、ろくな写真も撮れないに決まっている。で、実は、原山がピント合わせから何から、池田がカメラを持つ前にセットしているのだ。池田はいい気になってシャッターを押すだけである。しかし、それでも池田の撮る写真は絵にならない。仕方がないので、池田が撮っている真後ろで、池田と同じアングルで原山がシャッターを押すこともしばしば。『池田大作写真展』などと銘(めい)打って『先生の撮られたお写真だから』と、学会員や非学会員が見に来るものの、これが正体である。」

と語っている。

 ピアノの偽(ニセ)演奏といい、写真の代作といい、これだけをもっても池田神格化は作り上げられたものであることが分かる。

 

池田大作の人物像は、まさに創価学会によって偽装されたものであり、真実の姿は、我欲と嫉妬(しっと)心に狂い、品格のない指導者なのである。本尊、教義、池田の人物像など、すべてがウソで固められた邪教団の真実の姿に、洗脳された学会員たちは一刻も早く気づいて、正法へ帰依してほしい。

 

 

【会員間に拡がるシラケムード】

誰が見ても「池田は生ける屍(しかばね)」

 池田大作が人前から姿を消して、早1年半が経()とうとしている。

 平成22年5月13日に行なわれた本部幹部会でスピーチしたのが最後の元気な姿で、同年10月3日付の『聖教新聞』には、何とか池田の健在を誇示(こじ)しようとして"近影(最近、写したとされる写真)"を掲載したが、それはかえって池田が再起不能であることを容易に知らしめる、異様としか言いようのない写真であった。

 以後、創価学会の創立記念日や新年、さらに「5.3」などの節目にだけは、池田夫妻の"近影"とされる写真が『聖教』に掲載されたが、その池田の姿たるや、どれもこれもが、脳に重篤(じゅうとく)な障害を抱えていることを窺(うかが)わせる様相で、笑顔を作ることさえままならず、何とか写真にだけは収まっている、という体(てい)であった。

 が、その"近影"すら本年の「5.3」までで、「7.3」にも、また池田の入信記念日たる8月24日にも掲載はなく、現在に至っている。

 毎月行なわれる本部幹部会は、といえば、"池田先生からのメッセージ"なるものを代読し、過去の池田スピーチの録画映像を流してお茶を濁(にご)すのが、お定まりとなっているのである。

 しかして、会員に対してはこの状況を"池田先生は「私は執筆活動に専念するので、あとはみんなでやっていきなさい」とおっしゃっている"と説明し、動揺を抑(おさ)えようとしているが、これでは、まるで、全身に悪瘡(あくそう)ができて姿を隠し、信者には"全国を行脚(あんぎゃ)して廻っている"と謀(たばか)った、真言宗の空海みたいではないか(そういえば、池田家の元々の宗旨は真言宗であった)

 もっとも、そんな説明だけでは、会員の不信と不安は高まるばかりなので、嘘(うそ)の上塗りよろしく、さらにヘタな演出が行なわれる。

 例えば、先月10日に行なわれた学会の本部幹部会において、会長の原田は

 「ただいま、先生の方から連絡があり、『今、お題目をあげております。会合の大成功を祈っています。みなさんに、くれぐれもよろしく』との伝言がこざいました!先生・奥様が、名実共に見守ってくださる中の会合であります。最後まで、元気いっぱい、大成功で進めたいと思いますが、いかがでしょうか!

と出席者を鼓舞(こぶ)した。

 だが、そもそも池田に、それだけの体力と想(おも)いがある、というのなら、貴賓席(きひんせき)のようなところに陣取り、微笑(ほほえ)んでいるだけでかまわないから、せめて会合の場に姿を現わしてはどうか。

 さすれば、不信を懐(いだ)いた会員達が、インターネット上で、

 「今日の同中終盤、原田会長指導の冒頭『たった今池田先生から連絡がありましたぁぁ!』と。『今、妻と2人でお題目をあげております。会合の大成功を祈っています。』的な内容で本会場では割れんばかりの拍手!

 しかし私が行った会館は『しーん。』と静まりかえっていました。皆もうわかってきてるんでしまうね。」

 「へぇ~原田会長がそんな話を?いかにも嘘くさいし、そんなわざとらしい演技しなくてもいいのに。これから先もどんどん嘘を嘘で塗り固める羽目(はめ)になるでしょうにね。」

 「北朝鮮や中国並み?もう末期症状ですね。」

などと批判しはじめることもあるまいに。

 しかし現在の池田には、そんな簡単なことさえ、実行できないのである。だから『聖教』も、9月24日付1面トップ記事のような、姑息(こそく)なゴマカシをするしかない。すなわち、

 「全国で秋季彼岸勤行法要」

 「名誉会長は東京・新宿、原田会長は隅田で」

と、あたかも池田が「秋季彼岸勤行法要」の導師を務めたかの見出しが踊っているが、トップに使われている写真も記事も、原田が導師を務めた墨田区での法要等であり、池田が勤行・唱題している写真など、どこにも見あたらない。

 やはり池田は、1年前に本紙が指摘したとおり、リビング・デッド(生ける屍〈しかばね〉)と化したことが明らかである。

 

 

【池田を訴えた大学教授の"妙手"

池田大作に対する「当事者照会」

 そんな池田の実像を暴(あば)く、意表を突く一手を講(こう)じた人物がいる。それは、学会員で、香川大学教授の高倉良一氏である。

 高倉氏について、改めて簡単に紹介しよう。

 高倉氏は長年、夫婦で学会活動に励んでいたが、池田大作の言動や創価学会のあり方について疑問を抱き、夫人と意見が対立するようになった。

 そこで、夫人に理解を得ようと、自らの所感を綴(つづ)った日記を渡したところ、夫人はその日記を学会に差し出してしまったのである。

 その結果、高倉氏は、学会幹部らから強迫的な査問を受けるに至り、また妻とは離婚訴訟を争う関係になってしまった、という。

 これにより高倉氏は、会長の原田稔をはじめ学会最高幹部らを相手取り、自身が受けた人権侵害・不法行為に対する損害賠償を求めて、去る1月7日、東京地裁に提訴した。

 その高倉氏が9月2日、池田大作に対しても同様の訴えを起こした。

 そして9月15日、この訴訟に基づき、池田大作に対する"当事者照会"を行なったのである。以下、高倉氏のブログに公開された「当事者照会書」から引用する。

 「原告は、被告池田大作に損害賠償請求を提訴した。

 ところが、マスコミ、風評等によると、被告は死亡しているとか、重篤な病気で、判断能力がない状況と伝えられている。

 原告としては、死者を相手に訴訟をすることはできず、本意ではない。

 被告が死亡しているかどうか、明らかにしていただきたい。

 照会に対する回答が得られない場合は、被告が死亡しているため回答できないと考え、その旨(むね)、公(おおやけ)に公表したいと考えている。

 また、被告に判断能力が無い場合、後見人の選任はされているのか。その点も明らかにしていただきたい。

 もし、後見人の選任がされていなければ、原告が選任手続をとる必要がある。」

 すると、9月27日、池田側弁護士が回答書を送付してきたが、そこには、

 「被告としては、原告作成の平成23年9月15日付け当事者照会書における各照会事項について、本件訴訟の審理と何ら関連性を有せず、回答の要をみないと考えますので、その旨回答致します」

とあっただけだった。

 だが、双方の主張の当否は最終的に裁判所が判断するのだから、池田側弁護士がいくら「本件訴訟の審理と何ら関連性を有せず」と主張しても、裁判所が必要性を認めれば、池田側は真実を回答せざるを得ない。裁判所の公正な判断が期待される。

 

 

【御金言に明確な池田の末路】

後に続く会員も「頭破七分」へ

 もっとも、創価学会がどう取り繕(つくろ)おうと、池田がすでに適格な判断能力を失ってしまっていることは、仏法の道理の上からも明らかである。

 日蓮大聖人は、

国中の諸人、我が末弟等を軽んずること勿(なか)れ。(中略)蔑如(べつじょ)すること勿れ蔑如すること勿れ。妙楽の云はく「若し悩乱(のうらん)する者は頭七分に破れ供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と(御書1115頁)

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と仰せられている。つまり、日蓮正宗僧俗に対し、謂()われなき誹謗(ひぼう)中傷を浴びせ、その心を悩ませるなら、「頭破七分」すなわち精神に異常を来たしたり、脳に重篤な障害を負う、あるいは心が破れる程の大苦悩を味わう事態に至ること、必定(ひつじょう)なのである。

 周知のとおり池田大作は、平成2年7月、67世日顕上人より、その憍慢(きょうまん)な信仰姿勢をたしなめられるや、自らの行ないを省(かえり)みるどころか、逆恨(さかうら)みして宗門誹謗を行なうようになった。

 同年11月、その事実が宗門に知れ、宗門から「お尋ね」が発せられても、これに真摯(しんし)に回答することも、反省することもな<、逆に宗門・日顕上人に対して非難を加えてきた。

 以降、池田創価学会による宗門誹謗はエスカレートし、その結果、平成3年11月には創価学会が破門され、平成4年8月には池田大作が信徒除名になる、という事態に至ったのである。

 それからというもの池田創価学会は、天魔の本性を露(あら)わに、合成写真を使っての違法なスキャンダル攻撃や、ハラスメント訴訟を乱発するなどして、宗門誹謗・御法主上人誹謗を大々的に展開するようになった。その宗門攻撃の激しさは、7百年の宗史に類例を見ないほどのものであった

 その大謗法団体の首魁(しゅかい)池田大作が、もし「頭破七分」とならないならば、仏の御金言は「妄語」となるであろう。

 はたして、今回の問題が勃発した平成2年より数えて3度目の7年(21年)の節目を迎え、ついに池田は「頭破七分」した。まさに「仏語虚(むな)しからず」である。

 創価学会員諸氏よ、この厳然たる事実を直視せよ。そして、謂われなき宗門誹謗が「頭破七分」を招くことを畏(おそ)れよ。

 諸氏らに残された道はただ1つ、一刻も早く日蓮正宗の正法正義に帰伏して、懺悔滅罪を祈ることである。

 

[画像]:あたかも池田が彼岸会に出席したかに思わせる『聖教』の見出し。しかし、そんな詐術には、もはや会員も騙(だま)されない

 

 

 平成3年11月28日、三宝破壊の大謗法を繰り返す創価学会は破門処分となり、宗門から折伏される団体と成り果てた。今月は、それからちょうど20年目に当たっている。この間にも大謗法の現証は数々現われたが、とりわけ本年は、大災害や異常気象、世界的な経済の混乱など、大きな節目を迎えた因縁が顕著に出来している。

 この時に当たり、我らは創価学会が大謗法を犯した経過を正しく捉え直し、その大悪行の数々を改めて再認識した上で、現代の一凶たる創価学会の折伏に、敢然と取り組んでいかなけれぱならない。創価学会破折なくして御命題成就はあり得ないと心得て、一層の信行を全うしようではないか。

 

 創価学会問題の元凶、それは池田大作にある。

 創価学会は、以前にも昭和52年路線と呼ばれる大謗法に手を染めたが、その原因も、正本堂建立以後の大作の指導にあった。

 このことは彼が、当時、『聖教新聞』紙上に、

近年の宗門との問題が昭和47年、正本堂建立以降の、学会の広布第2章の進み方の基調と、そのうえで、私が展開した昭和52年の一連の指導に、発端の因があったことは事実であります(池田大作『聖教新聞』S55.4.2)

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と、自らの責任を認めていることからも裏付けられる。大作はその責任をとって、創価学会会長職を辞任せざるを得なかった。

 つまり、52年路線の謗法は、大作の大慢心と邪心がその原因なのである。

 

 では、破門にまで至った今回の創価学会問題はどうか。これも、大作の大慢心と邪心が原因である。

 池田大作は、平成2年11月16日の創価学会本部幹部会の席上、御法主上人の説法を揶揄・中傷し、宗門を誹謗するなど、大謗法のスピーチを行った。また、52年路線の問題収束を「敗北」と総括し、会長職を引責辞任したことを「辞めさせられ()」と評した。

 これらは、52年路線の反省が真実のものではなかったことを自白し、開き直りの姿勢を露わにしたもので、大聖人の仏法を甚だしく冒涜するものであった。

 創価学会では、この事実を隠蔽(いんぺい)しようと、当日のスピーチとして、事実とは全く異なる内容の記事を『聖教新聞』に報道した。

 何と卑怯な心根であろうか。この不正直な工作自体に、創価学会では、この大作のスピーチが不穏当である、宗門から指弾されるかも知れないとの自覚があったことは明白である。

 いずれにせよ、こんな稚拙な手法で大作のスピーチを隠し通せるはずもなく、当日の問題発言に疑問を抱き、あるいは事実と異なる内容が報道されたことを訝(いぶか)しんだ心ある学会員から、当日のスピーチを録音した複数のテープが、宗門へ寄せられた。

 その内容たるや、大作のスピーチは余りに無慙無愧(むざんむき)にして、到底看過し得ないものであったため、宗門は文書をもってその発言の真意を尋ねたのである。

 しかし、創価学会は、宗門からの「お尋ね」をごまかし、はぐらかして、不誠実極まる対応に終始した。

 当時、池田大作は法華講総講頭であり、創価学会・法華講連合会も含めて、日蓮正宗の全檀信徒を代表する立場にあった。他の檀信徒の模範たるべき枢要な地位にありながら、大聖人の正邪の峻別を惑乱し、血脈の尊厳を傷つける誹謗中傷をするとは言語道断である。加えて、その過ちを指摘されても素直に反省し改める姿勢がないのであれば、その悪行は一層明白であるし、絶大な影響力を考えれば、これを放置しておくこともできない。

 よって宗門は、適切な手続をもって法規を改正し、池田大作の総講頭の地位を喪失せしめたのである。

 とはいえ、これは法規の整備に伴う形式的な理由に基づく資格喪失であって、罷免処分ではなかった。

 したがって総講頭職は空位に、そして何ら関係ない法華講連合会の大講頭らも同じくその資格を失っている。つまり、宗門は、敢えて罷免処分を回避し、かかる措置をとることによって、大作が反省悔悟することに一縷の期待を残していたのである。

 しかし、宗門の措置に色をなした大作は、反省悔悟どころか、かえって宗門攻撃を創価学会全組織に指導し、創価学会もまたこれに従って、異常なまでの宗門攻撃を始めた。中には、常軌を逸した過激な行動や、犯罪まで犯す学会員すら出る始末であった。

 宗門は、その後も教導し続けたが、創価学会は一向に聞き入れず、もはや正しい信徒団体として立ち直ることは到底期待できないことから、やむなく、平成3年11月、創価学会を破門処分に付した。

 

 以来20年、創価学会は宗門への悪口雑言と誹謗中傷の限りを尽くし、哀れにも創価学会員は、大謗法の言辞を来る日も来る日も聞かされて洗脳され続け、今やその生命の奥底にまで染みついてしまっている。

 この悪業の原因は、ひとえに大作の大謗法にある。

 すなわち、創価学会問題の元凶は、池田大作の邪心にあり、まさに大作こそ、創価学会の大謗法の首謀者、諸悪の根源に他ならない。

 創価学会問題とは、取りも直さず、池田大作問題なのである。

 

 

【池田大作は第六天の魔王】

 平成2年11月の大作のスピーチを聞き、多くの学会員はなぜその過ちに気付かないのであろう。なぜその後の大謗法にまで加担してしまったのであろうか。

 前御法主日顕上人は、かつて、法華経に示される俗衆増上慢について御教示され、

 「この無智の者ということは、すなわち自分の考えで正しく物事を判断することのできない者をいうのであります。人から言われ、組織から教えられれば、それがいかなる間違ったことでも、それを見抜くことができずに盲従し、そして正しく法を護る者をあくまで憎み謗るという姿が、法華経にはっきり予証されておる」(『大白法』第378)

と、創価学会末端会員の哀れな姿を指摘されている。

 平成2年の大作のスピーチは、かつての52年路線の大謗法を彷彿とさせるものであり、本宗の正しい信解に立てば、正邪の峻別は容易である。

 しかし、大作の毒気が深く生命に染み入った学会員は、法華経に示される俗衆増上慢の「無智」の姿そのままに、自分で正しい判断をすることもできずに周りに踊らされ、謗法を重ね続けてしまった。あるいは、脅(おど)され賺(すか)された者もいるかも知れない。

 大聖人は、『開目抄』に、

 「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」(御書572)

と御教示である。正法に背けば「地獄の業」であり、大聖人は予(かね)てこれを厳しく諭(さと)されている。にもかかわらず、多くの創価学会員は、池田大作の強い邪心に魅入(みい)られ、その呪縛(じゅくばく)から今なお逃れられない。またそのことに気付くこともできないのである。

 一切衆生を三悪道へと引きずり込むこの大悪心、まさに池田大作は、現代の第六天魔王なのである。

 

 

【仏法破壊の大謗法者】

 第66世日達上人は、かつて52年路線の収束に当たり、

 「今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたいのであります。(中略)これまでの経緯(いきさつ)は水に流して、大同団結して宗門の発展ひいては広宣流布に協力していただきたいのであります」(『聖教新聞』S54.5.4)

と御指南された。

 日達上人は大作の反省悔悟と、過ちは再び繰り返さないという誓いを酌(く)まれて、52年路線の反省を受け入れられたのである。

 そして、日達上人の後に御登座された日顕上人も、その方針を踏襲され、大作の反省悔悟を心から信用されて、創価学会を教導あそばされてきた。

 特に、正信会問題の渦中にあっては、創価学会を非難攻撃する余り、日顕上人の血脈相承まで否定する者すら現われる中、日顕上人は創価学会を擁護されつつ、常に正信へと導かれてきたのである。

 これら日達上人の御寛恕(かんじょ)も日顕上人の御教導も、すべては大作の反省悔悟を真摯(しんし)なものと信頼されてのことであった。

 にもかかわらず大作は、日達上人と日顕上人の大慈悲を踏みにじり、性懲りもなく、再び大謗法のスピーチを行ったのである。

 この再犯は、52年路線の収束の大前提となっている反省が真意に出たものではなく、単に表面上を取り繕(つくろ)っただけの偽装に過ぎなかったことを雄弁に物語っている。すなわち、大作のスビーチは、日達上人や日顕上人に対する反省恭順の姿勢が、全くの偽りであった何よりの証拠である。

 そればかりではない。戸田2代会長の熱誠を受け創価学会を見守られた第59世日亨上人や、さらなる飛躍を期待して創価学会の宗教法人化を許された第64世日昇上人、常に大らかに創価学会を教導され続けた第65世日淳上人に対する背信でもある。

 すなわち、大作の一連の所業は、日顕上人のみならず、大慈悲をもって創価学会を正しく導いて来られた歴代の御法主上人の御信頼をことごとく裏切り、蹂躙(じゅうりん)するものである。これは血脈の尊厳を冒涜するものと言わざるを得ず、日蓮正宗の三宝を破壊する大悪行に他ならない。

 この悪逆非道を何と見るか。宗門史において、果たしてこれほどの悪人がいたであろうか。

 池田大作は、稀代(きだい)の大謗法者なのである。

 

 

 『新・人間革命』第1巻「旭日の章」の冒頭は、創価学会会長に就任してから5ヵ月経()った昭和35年10月2日、初の海外訪問に出発する山本伸一こと池田大作の様子が描かれている。

 いわく

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 伸一は、静かに胸に手をあてた。彼の上着の内ポケットには恩師戸田城聖の写真が納められていた。彼は、戸田が逝去の直前、総本山で病床に伏しながら、メキシコに行った夢を見たと語っていたことが忘れられなかった。

あの日、戸田は言った。

 「待っていた、みんな待っていたよ。日蓮大聖人の仏法を求めてな。行きたいな。世界へ。広宣流布の旅に……。伸一、世界が相手だ。君の本当の舞台は世界だよ。世界は広いぞ」

 伸一は、戸田が布団のなかから差し出した手を、無言で握り締めた。

 すると、戸田は、まじまじと伸一の顔を見つめ、力を振り絞るように言った。

 「伸一、生きろ、うんと生きるんだぞ。そして、世界に行くんだ」

 戸田の目は鋭い光を放っていた。伸一は、その言葉を遺言として胸に刻んだ。

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 おそらく、学会員諸氏は疑問に思わないだろうが、ここには重大なウソがある。

 戸田氏が大病を患(わずら)い、昭和33年3月16日以降、徐々に衰弱し4月2日に逝去(せいきょ)するまで、ほとんど寝たきりで、幹部ですら面会禁止状態であった事実。つまり、池田大作も病床の戸田氏のもとへは行くことができず、戸田氏からかような直接指示を受けることはできなかった、という簡単な現実である。(中略)

 

 古参幹部の石田次男氏は、戸田氏の最晩年について、次のように記録している。

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 この病状悪化振()りを見逃さないで頂きたいと思います。(昭和33年3月)18日には御法主日淳(にちじゅん)上人が病床へ御見舞い下さいましたが、(学会としての)大儀式の16日(創価学会員の言う「広布の模擬試験」)から僅(わず)か2日後なのに、もう身を起す事も叶(かな)わず、猊下へ応答の言上も出来ず、御見舞30分程の間に・唯「ハイ」「ハイ」を数回申し上げた丈(だけ)でした。これさえ細々(ほそぼそ)やっとのかすれた小声でしかありませんでした。この場に連なっていた石田達も心中涙して同席申し上げたものでした。猊下が人々の心中を察せられて殊更(ことさら)明るく御振舞(おふるま)い下された事を、今でも有難(ありがた)く想(おも)い起こすものであります。

 石田も年期が十二分に入った肺病のお蔭で、この5年後に同じ(瀕死〈ひんし〉の)経験をしてつくづく躰で判ったのですが、3月20日過ぎからは、人手を借りても、床へ身を起す事も叶わず、病状急傾斜してお声も出ず、御耳丈(だけ)は温度に鋭敏であられた様であります。何ともお痛ましい事でありました。会務や面接は一切禁止……というより不可能こういう状態で面接や会話が出来ると思う者は、死に掛()けた経験が無いからだ自動禁止で、病室へは理事長さえも近寄っては居()りません。医師以外は完壁(かんぺき)に入室阻止です。一切の会務は戸田先生御自身での報告受取不可能・指示不可能の為、小泉理事長が責任で全てを処理して居りました。

 それなのに、29日なのに、阻止もされないで、どうして池田氏丈(だけ)は前後2度も、病床へ参上しスリ寄れたのでしょうか?(中略)

 傍証ですが、在山終り頃の先生の病床には、M女さん(戸田氏の愛人・森重氏?)とオシャベリ美代さん(和泉美代秘書部長)2人体制での看護が続き、あと、補佐の婦人部幹部が交替で当った丈(だけ)でした。この2人は、昼夜付き切りですから、仮りに29日に池田氏が2度、病床へ参上出来たとしても、戸田先生と2人きりには成れません。ですから「先生と私の2人だけの場で残された遺言の1つとなった」(第14回本幹での池田発言)は作り事である事がハッキリ判ります。(石田次男著『内外一致の妙法この在るべからざるもの』)

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 これが、戸田2代会長から1度は創価学会第3代会長と名指しされて辞退した石田次男氏の談である。

 すなわち、瀕死の戸田会長のそばに居られたのは、看護に必要な女性のみだったのである。

 

 しかも、これに加えて、最後の最高幹部への決定として「(第3代会長はどうするんですか、との問いに)それは皆で決めるんだ」と答えた事実が挙げられる。

 これは、石田氏だけではなく、当時の青年部幹部であった龍年光氏も同様の証言をしている。

 龍年光氏の思い込みも少々紛(まぎ)れ込んでいることも推測されるが、細部はどうであれ、初期の池田大作を考える上で貴重な資料と考えられるので、龍氏の文章から引用する。

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 (大講堂落成大法要。後に『広宣流布の模擬試験』あるいは『3.16』と称される)この儀式の後、先生の体がいよいよ衰弱されたため、原島宏治、小泉隆、辻武寿、柏原ヤス、馬場勝種ら理事たちと、池田・北条・森田・龍の4参謀が揃って戸田先生の枕元に行き、遺言を聞こうということになった。音頭を取ったのは辻、原島、小泉らで、この際はっきり池田を3代会長に指名してもらおうというハラづもりだったようだ。

 辻は「大久保彦左衛門」と渾名(あだな)され、どんな場面でも物(もの)()じせずにズバッと物を言う男だった。この時も、病の先生の枕辺(まくらべ)で、当然のような顔をして、「先生、3代会長は誰にするんですか」と単刀直入に尋ねた。ところが先生は、はっきりした声で「それは、お前達が決めるんだ」と答えられた。

 当然、「池田」という返事が返ってくると期待していた辻は驚き、もう1度同じことを聞いたが、返事は同じであった。(竜年光『池田創価学会を解散させよ』)

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 石田氏の証言では、この場には池田はいなかったことになっており、龍氏の上記文中では、池田がその場にいたことになっている。これが龍氏と石田氏の描写の違いだが、ただ、この点を除けば、戸田氏による池田指名はなかったことで一致している。

 過去を振り返る際に、各人によって思い込みや記憶違いが生ずることはままあることで、その場に池田がいたかいなかったかは、ほとんど問題にはならない。大事なのは、戸田氏が池田を「3代会長」にという意思表示をしなかったという「事実」である。

 その「事実」は歴史的にも十分証明されている。

 龍年光氏は別書『有徳王』の中で次のように指摘している。

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 その後(戸田会長逝去後)、2年間創価学会の会長がいなかったのは、この日の会合で戸田先生が、池田を指名しなかった結果である。(龍年光著『有徳王』)

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 この指摘は重大であり、核心を突いている。

 もし、仮に戸田氏が池田を指名していたならば、戸田会長逝去後、速やかに池田第3代会長が就任していなければ理屈が合わないことになる。それが、2年間空白のまますなわち、『新・人間革命』の冒頭から描かれる「3代会長池田大作(本文では「山本伸一」)ありき」の筋書きは池田大作による捏造なのである。

 『新・人間革命』を読むにあたっては、まずこのことを明らかにしなければ前に進めないので、『人間革命の正しい読み方』と重複するが、あえて紹介した次第である。

 

 

【語られない池田氏の「生〈なま〉」の姿を】

 公称827万世帯(学会発表)の信者を擁す創価学会。いくら政教分離などときれいごとを言っても、その創価学会と公明党が不可分な一体関係にあることは世間一般もよくご存知であろう。公明党はあらゆる一挙手一投足において、学会の指示を仰ぐ。具体的な証拠は後で挙げるが、公明党は学会の隷属的な下部組織といっても過言ではない。公明党の書記長、委員長として30年近く要職を務めさせていただいた私が明言するのだから間違いない。

 政局がどんな状況になろうと、圧倒的な集票力を持つ公明党、ひいては創価学会の動向が、日本の政治を左右するという構造は、今後も変わることがない。

 そして創価学会とは実質、名誉会長である池田氏を「末法の本仏」と仰ぐ池田大作一神教だ。すべては池田氏の意向に添う形で決められる。つまり池田氏を知ることは、創価学会の次の動きを探る上で重大な意味を持つのだ。政治の潮流を予測するためにもまず、押さえておくべきは何より、池田氏についての正確な知識なのではないか。

 すでにご承知の方も多いと思うが、私は2008年5月に長年所属してきた創価学会を退会し、現在は学会とその幹部7名を相手に訴訟を行っている身である。その契機の1つに、元公明党議員3人によって私が40年近くにわたって記してきた「黒い手帖」を持ち去られるという出来事もあった。

 創価学会を相手に裁判を起こすことを決意するまでには、私としても葛藤がなかったわけではない。一介のサラリーマンだった私に目をかけ、政治の道に進むように引き上げてくれたのは池田氏である。同時に1967年から93年に引退するまで、27年にわたって私の国会議員としての政治活動を支えてくれたのは他ならぬ創価学会の会員の方たちだった。いまもそのことに対する感謝は忘れていない。

 だが、その一方で2005年の「黒い手帖」事件と連動して、学会からのバッシングに晒された私に、一面識もない人物を含め、多数の元学会員たちから様々な声が寄せられるようになった。いわく「矢野さんと同じような目に遭った」「いまの学会はカネ集めばかりだ」……

 私と同じような境遇にある人々がいる以上、元政治家として沈黙していることは許されまい。私憤ではなく、公憤から学会を訴える決意を固めたのだ。

 また、創価学会内では池田氏を無謬の存在とする池田史観に沿って、過去の不祥事などを封印しようという歴史の改竄が進んでいる。党と学会双方の裏事情に通じていた私のような存在は、だからこそ邪魔になったのだろう。

 いまは学会と対立関係にある私だが、これから池田大作氏の実像を記すにあたって、1つ断っておきたいことがある。私は批判のための悪口雑言を書き立てるつもりは一切ない。もちろん、盲目的に崇拝するつもりもない。ともすれば、これまで池田氏については、批判的か盲目的かという両極端な視点からしか書かれて来なかったように思う。正確な歴史の記述のためにも、1955年に初めて会って以来、約50年にわたって私が見てきた池田氏の「生」の人物像を記そう。

 

 

【池田大作に勝る大物はいない】

 佐藤栄作氏は「人事の佐藤」と言われただけあって、配下の大臣を次々入れ替えて政権を維持する手腕は見事だった。田中角栄氏はまさに、人心収攬の名人だった。三木武夫氏は反骨の人で、一度手に入れた権力は放さない執念があった。福田赳夫氏は洒脱でいつも飄々と構えていた。大平正芳氏は極めて教養人で、シャイな人柄が印象的だった。中曽根康弘氏は冷静冷徹な人で、一貫した国家観に基づくビジョンを持っていた。竹下登氏は気配りの人で面倒見がよく、組織のどこを押したらどう動くかを知り尽くしていた……

 公明党の書記長、委員長を長年務めさせてもらったおかげで、歴代の総理大臣とも身近に接する機会に数多く恵まれた。いずれもやはり国権の長に上り詰めただけあって、それなりの重みと凄みとを兼ね備えた方ばかりだった。

 また総理大臣に限らず、政官財界の大物と言われる重鎮の方々とおおぜい、長年にわたっておつき合いさせていただいた。

 その上で、これだけは言うことができる。

 それらの誰と比較しても、池田大作氏に匹敵する人物は1人もいなかった、と。

 佐藤氏の人事力は、池田氏に相通じるものがある。田中氏の人心掌握術も然り、だ。三木氏の示した逆境への強さも、池田氏は有していた。歴代総理の有す数々の長所を、一人の人間が内包しているのである。もっとも福田氏の飄々乎ぶりや、大平氏のシャイさは池田氏にはないものであるが。

 「経営の神様」松下幸之助氏にも数回お目にかかったことがあるが、確かに、「これは偉い人やなぁ」と純粋に思った。すでにご高齢だったため、穏やかなお爺さんといった感じで、昔話を聞いていても面白い。話に説得力があるし、包容力もある。だが、「凄い人や」とまでは感じなかった。「偉い」と「凄い」とではやはり、意味が違う。そして私が生涯でただ一人、「この人は凄い」と心底感じたのは池田氏だけである。お世辞でも誉め殺しでもない。学会入信中はある意味、マインドコントロールにかけられていたようなものだったと自分でも思うが、退会してそれが解けた今もそう思う。恐らくこの評価は、終生変わることはないだろう。

 池田大作という人物は、類い稀なるカリスマ性の持ち主である。オーラがある、という表現があれほどピッタリの人を、私は知らない。

 加えて、天才的なオルガナイザーでもある。演説の名人で、堂々たる語り口には誰しも魅了されてしまう。人心掌握術の達人である。また天才的戦略家で、何十年も先の目標を見据え、人を巧みに操って組織を望む方向へ持っていく。その手腕は、誰にも真似のできぬものだ。

 だが反面、究極の内弁慶でもある。内部の人間を前にした時は滔々と演説ができるのに、外に向かっては一転、オドオドと縮こまってしまう。猜疑心が強く、自分を攻撃した人間のことは何十年経っても忘れない。コンプレックスの塊みたいで、その執念深さは想像を絶する。自分に敵対する者への排他性、攻撃性は凄まじいの一言だ。その一方、ざっくばらんでどこか抜けたところがあり、大切なところで信じられないようなミスを犯す。おっちょこちょいの一面もある。

 こうした両極端とも言える特徴が何の不思議もなく、一人の中に同居しているのが池田大作という人間なのだ。

 仏のような面。鬼のような形相。冷徹な事務屋さん。お笑い芸人。哲学者。神秘家……。それらの要素が瞬間瞬間、パッパッと入れ替わる。眼前にいる人間にすれば、まるで万華鏡を見ているようだ。そしてその多面性が、何とも言えない彼の魅力となっている。人を惹きつけてやまない、人間的吸引力を成している。

 元都議会公明党幹事長の藤原行正氏も、「あの人の前に出ると唇がしびれて、喋れなくなってしまう」と言っていた。「あの目でガーッと睨まれると、震え上がって何もできなくなってしまう」と。

 後に学会を離れ、池田氏批判の急先鋒に立つ藤原氏にしてからが、そうなのだ。彼とて九州男児。怒るともの凄い迫力だった。その彼でさえ、池田氏の圧倒的な存在感に対し、率直に恐れをなしていたのである。私はもともと鈍いのか、それともそういう性格なのか、池田氏に対しても、割とズケズケ言いたいことを口にするほうだったので、「あの人を前にして平気でモノを言えるのはお前だけだ」と呆れられたものである。

 ただそんな私でも、確かに池田氏の目には力がある、としみじみ思う。あれだけ力のある目をした人間などまずいない、と。私は池田氏の目をできるだけ見ないようにしていた。見ると、蛇に睨まれた蛙みたいになるからだ。

 1度だけ池田氏から本気で怒られたことがあるが、あの恐怖は今となっても忘れられるものではない。後に詳述する「月刊ペン事件」の渦中にあった1976年12月のことだ。寿司屋に呼び出された私は、1時間弱にわたって事件への対応を巡って延々、面と向かって痛罵された。「お前は信用できない」「インチキだ」最初はなぜ怒られているのかもよく分からないまま、心の底から震え上がったものである。まさにあの目に、射すくめられた形だった。

 会議の席などで池田氏に怒られる学会員の姿をよく見たが、まさに彼らはすくみ上がっていた。ハハーッと床にひれ伏し、ひたすら平身低頭して許しを請うていた。気を失う寸前の者までいた。

 人を呑み込む目。自在に操る目。あの恐ろしさだけは、実際に見た者でなければ分かるものではあるまい。

 

 

【「黒い手帖」事件】

 2009年は、自自公政権の発足(1999年)以来、10年にわたって政権与党の座にあった公明党にとって大分水嶺の年となった。それは私個人にとっても然りである。3月27日、東京高裁で画期的な判決が言い渡されたのだ。もっとも私に言わせれば、当然の判決でもあるが。

 公明党の書記長、委員長を歴任した議員時代を含め、37年にわたってつけ続けていた、約100冊もの手帖がある。これを2005年、3名の元公明党議員が持ち去るという「事件」が発生。この件につき、手帖は私を脅迫して出させたものという司法判断が下されたのだ。私からの「自由意思による譲渡だった」という、彼らの主張を認めた1審判決を、完全に覆すものだった。公明党・創価学会による私への一連の不当な攻撃に対し、司法がキッパリ違法性があると認めた逆転勝利と言える(元議員側は最高裁に上告)。

 手帖には、政界の裏話や私が直接関係した学会のための裏工作などが赤裸々に綴られている。一連の「事件」の経緯や裁判の詳細については『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』や『「黒い手帖」裁判全記録』(いずれも講談社刊)に記したので、ここで詳しく触れることはしない。現状を簡単に述べれば、裁判所が手帖を私に返還するよう命じたにもかかわらず、いまも私の手許に手帖は戻ってきていない。だから、今回の手記に取り上げる池田氏の言動は、私の記憶に残っている「黒い手帖」の中身や、その他多くのメモなどに依っている。

 それにしても、この間の公明党・創価学会による私への攻撃は、まさに常軌を逸していた。

 まずは、政治評論家としての活動を一切停止させられた。10年以上も前に書いた雑誌の連載記事をやり玉に挙げ、やいのやいのと吊るし上げにあって、恐ろしくなって「評論家活動をやめます」との誓約書にサインせざるを得なかった。この誓約に基づき、丸々3年間、私は一切の評論家活動から身を引くことになる。

 だが学会や党からの攻撃はそれでは終わらなかった。

 『聖教新聞』や『公明新聞』など、いわゆる学会系の機関紙誌では、私への読むにたえない罵詈雑言、誹謗中傷が繰り返された。何億円単位の寄付をしろ、と折に触れ、再三にわたって強要された。

 自宅は24時間、監視の目にさらされた。我が家を見下ろせるマンションの一室を確保し、張り込みの拠点にしていたようだ。

 外出時には必ず尾行がついた。表の通りに出てタクシーを拾うと、すかさず尾行車が背後につく。どこか近所に車を用意していなければ不可能な芸当で、極めて用意周到な態勢が組まれていることが窺われた。身の危険を感じないほうが無理である。電車に乗る際は、絶対にホームの端に立たないように気をつけた。常に背後を警戒しなければならなかった。

私の友人、親戚にも嫌がらせや中傷の言葉が浴びせられた。組織全体が連動した個人攻撃で、まさしく組織犯罪である。

 こうした監視・尾行は、あえて「身元不詳の者たち」の仕業と言っておくが、彼らのビデオや写真は山ほどある。尾行者(車)についてはそれが誰なのか、現在、協力者を得て犯人を特定する作業を行っているところだ。

 ともあれ、こうした私への攻撃は、2008年5月に私が創価学会を退会し、私への人権蹂躙で提訴すると、表向きはぴたりとやんだ。泣き寝入りしているといくらでも攻撃をしかけるが、反撃されると立ち往生する。いかにも学会らしい反応である。いや、学会らしいと言うよりは、池田氏らしいと言ったほうがより的確か。池田氏の本質は神経質、はっきり言うと臆病なのだ。これは悪口の類ではない。あの猜疑心の強さと臆病さがあって、今日の創価学会と池田氏があるのである。

 前述の通り創価学会においては、池田氏の意向を無視しては、何事も決まらない。私に対する執拗な攻撃にしても、公明党・創価学会のあらゆる組織を動員している。これは池田氏の意向なくしてはありえない。

 しかし、自分をこのような目に遭わせたのが間違いなく池田氏の意思、命令だと確信していても、彼を心底から恨む気になれない。恨みよりも「あの人らしいな」という気持ちが先に立ってしまうのが本当のところだ。

 彼と身近に接し、一度でも虜にされてしまった人間は、たいていそうなのではないか。彼の有す人間的魅力は、それくらいの呪縛力なのである。

 ただ誤解を避けるためにあえて言う。池田氏の恐るべき呪縛力は、このところ学会の反社会的な行動に強く発揮されていると言わざるをえない。「あの人らしいな」と笑い事では済まされない。

 

 

【神懸かりな言動】

 思えば、初めて池田氏と対面してからすでに50年以上が経過した。最初に対面したのは1955年、創価学会関西本部の2階にある応接間だった。当時、池田氏は東京の学会本部では渉外部長、青年部では参謀室長という要職にあり、関西担当として、よく関西を訪れていた。京都大学在学中の1953年に入信した私は、それまでにも大きな会合などで池田氏の姿を見たことはあったが、間近に接するのは初めてだ。後に衆参両院で国政の場に立った矢追秀彦氏に紹介された。池田氏はただ一言、「ああ、そうか。うん、覚えておく」と言っただけだった。ところが、その直後、矢追氏が言うのである。

 「矢野君、すごいやないか。池田さんが初対面で『覚えておく』って言ったの初めて聞いた」

 どういうことだったのかは今も分からない。ただ、その後は頻繁に声を掛けてもらったし、何かと気に掛けていただいたのも事実だ。

 たとえば、こんなことがあった。大学卒業後の1956年に、私はゼネコンの大林組に入社した。この年、学会にとって初めての参院選があり、私は仕事も放り出して、選挙運動にかかり切りだった。さらに翌年も参院の補選があり、またも会社を休んで選挙運動をしていたら、会社から大目玉を食らってしまった。当然である。しかし、学会活動にのめり込んでいた私は「これも法難」などと思いながら、「こちらから辞めてやる」と啖呵を切った。報告のために学会の関西本部に行ったら、偶然、池田氏がいた。

 「先生、会社をクビになりました」

 当時の自分としては、信心のあまりクビになったようなもので、誉められるのではないかとむしろ誇らしげだったように思う。

 ところが、池田氏からは、「バカ野郎。会社をクビになるような奴は学会の恥さらしだ。そんな奴は学会もクビだ。すぐ、会社に戻れ」と叱責されてしまった。会社に引き返した私は、上司に平謝りしてなんとかクビがつながることになった。改めてそれを報告に行くと、池田氏が今度はご満悦の表情でこう言うのだ。

 「そうかそうか。戻れたか。よかった、よかった。これからは仕事を一生懸命やるのが君の使命だぞ」

 学会草創期の池田氏には、社会生活を大切にするという心情があったと言える。組織が巨大化した今はどうか? 当時のような謙虚さは微塵もない。

 また、その頃の池田氏は、1人で移動することも多かった。まだ新幹線も通っていない頃、来阪した池田氏が東京に戻るというので、夜行列車で私が大阪から東京までお供した。東京駅に着くと池田氏の奥さんがホームで待っていたのが印象に残っている。今からは想像も付かない、池田氏と会員たちとの距離が極めて近かった時代のささやかな思い出である。

 その後、大阪府議会議員を経て、国政に進むことになる私は、次第に学会内での地位が上がり、池田氏と会う機会が増えていく。そうなると、池田氏のこれまで知らなかった側面も知ることになる。たとえば池田氏は時折、神懸かり的な言動を取ることがあった。

 1967年の4月、日蓮正宗総本山大石寺にある墓苑を見分に行くのでついて来い、ということで学会や党の幹部ら数人でお供したことがあった。牧口常三郎・初代会長や戸田城聖・2代会長の墓もあり、学会の中でも古参会員の墓が多い。夕暮れ時、日が沈んで暗くなりかかった時刻だったと記憶している。

 墓苑に到着し、敷地を歩いていた時のことだった。池田氏がふと足を止めて、

 「おい、何か聞こえないか」

と言い出した。しかしどれだけ耳を澄ましても何も聞こえない。我々は思わず顔を見合わせる。

 「申し訳ありません。何も聞こえませんが」

 だが池田氏は遠くを見るようにして、

 「いや、確かに聞こえる。俺を呼んでいる。あっちのほうだ」

 指差して、「誰の墓だ?」と聞くのでお付きの人間が走って見て来た。

 「○○さんのお墓でした」

と報告すると、

 「そうか。そうだろう」

 池田氏は優しい表情になって、いかにも納得いったという顔で懐かしそうにつぶやく。

 「やはり彼か。古い同志だ。俺を呼んでいるんだ」

 そうした場面に接するたび、我々は、「ああ、やはり池田先生は凄い」と感じ入ってしまうわけだ。

 墓苑の控え室に帰って来ると、我々はさっそく声を潜めて反省会。その光景はマンガチックですらある。

 「おい聞こえたか」

 「いや何も聞こえなかった」

 「まだまだ俺たちは信心が足りない」

 こうして氏のカリスマ性が、さらに高まる。彼への心酔度が一段と増すことになるのである。墓苑という舞台設定、夕刻というシチュエーションが、そうした感懐を煽るのに一役買っている面もあるのかも知れない。

 実は私は、冷めた人間なので、内心どうしても他の幹部たちほどには没入できない。「ああ、またやっとるわい」といった思いについ駆られてしまう。

 だがそんな私でも、あれがすべてただの演技とは思えない。池田氏の振る舞いがいかにも自然だからだ。こういうことをやれば周りはこう受け取るだろう、こんな効果があるだろうなどと頭で計算してやっていたのでは、どうしてもウソっぽく映るはずである。少なくとも、私のような人間には。

 しかしそうではない。もしかして本当に聞こえているのでは、と私ですら思えてしまうほどなのである。

 こうしたことをサラリとやってのけるところがまた、氏が生まれついての人たらし、人心掌握術の名人たる所以なのであろう。

 

 

【究極の演出本部幹部会】

 月に1度、創価学会では本部幹部会というものが開かれる。今思えばあれこそ、氏のカリスマ性を演出する最高の舞台であった。私も昔は党の要職にあるものとして、毎回出席していた。従ってここで述べるのは、あくまで自分が出席していた当時の模様である。

 幹部会は学会本部の創価文化会館5階にある、「広宣会館」という講堂で開かれることが多かった。1200~1300人は入ろうかという大広間だ。おおぜいが一斉に出入りできるよう、両側の壁は巨大な引き戸となっている。

 中は畳がびっしりと敷き詰められており、出席者はひしめき合うようにして、ここに座る。たいていは胡座だが、正座の人も多い。

 出席者は青年部、婦人部、壮年部、また青年部の下部組織である男子部、女子部、文化本部の下部に位置する芸術部、といった各部局の幹部たち。東京の全域および地方の幹部も出席する。地方には北海道、東北というような各方面の方面長がおり、各県のトップには県長がいる。こうした面々を中心に、各県首脳10人以上が上京している。さすがに遠くの地方の場合は、同じ人間が毎回というのも難しいので、持ち回りの当番制を採っているところも多い。彼らはこれが終わると地元に戻って、県の幹部に報告しなければならない。名誉であると同時に、任務は重大なのである。

 講堂の正面には1段高くなった、白を基調とした大理石製の立派な祭壇・基壇がある。腰板の上はかなりの奥行きがあって、厨子の前にはお供え物が置かれている。お供えは日本酒の1升瓶やミカン、リンゴといった一般的なものだが、ミカンなどはピラミッドのように、うずたかく積み上げられている。

 仏壇に祀られているのは黒塗りの木彫りのご本尊、板曼荼羅だ。我々出席者は、それを見上げるような格好で畳に座ることになる。

 祭壇の下には机があり、鉦が置いてある。お焼香用の黒塗りの香炉もある。この祭壇の前に、最高首脳ら10人弱が出席者のほうを向いて、並んで着席する。畳の上にパイプ椅子が並べて置いてあるのだが、座りきれない副会長らは畳に直接座る。ここはあくまで学会幹部の席だ。私のような党の人間はここに座ることはなく、出席者の側である。政教分離の原則があるためで、私らはたいてい一番前、それもカメラに映らないように、と隅のほうに座るのが常だった。

 さて前面の、会長ら最高首脳部の席だが、実はどこにでもある簡単なパイプ椅子に過ぎない。ただその列の真ん中に、どっかりと大きな革張りの椅子が置いてある。椅子は360度ぐるりと回転できる立派なもので、祭壇のほうも、我々のほうも向くことができる。ここが、池田氏の席である。

 ただし開会時、この席は空席だ。最初から池田氏がここにいることは、まずない。

 会の大まかな流れは次のとおりだ。まず開会前、芸術部に所属するアーティストがピアノを弾いたり、婦人部が合唱したりという演目がある。会の雰囲気を盛り上げる演出に他ならないが、確かにこうした演奏に触れると陶酔したような心地になる。これが30分ほどあって、いよいよ司会者により、

 「ただ今より月度の本部幹部会を開会します」

との宣言がある。幹部席の前には簡単な演壇が置いてあり、マイクが据えてあって、発言者はそこに立って話をするのだ。

 会のテーマは当然、その時その時によって違うが、たいてい最初は青年部代表による、「○○党の○○というクズ議員は国会でこういうバカな質問をしている」「『週刊○○』が学会に対してこういう悪口を書いている」といった類の話になるのが通例だ。かなり激しい口調で、罵詈雑言になることが多い。悪口オンパレードのアジ演説である。私が退会した直後の本部幹部会では、原田稔・6代会長が私のことを「恩知らず」「臆病」「ウソつき」と非難したり、男子部長が「骨の髄まで腐りはてた大ウソつき」と罵っていたそうだ。もっともたいていの場合、ハッキリ「矢野」と名指しせず、「関西出身の悪党」とか「党の一番悪い奴」といった遠回しの表現が用いられる。いずれにせよこれが宗教家か、と思うほどの悪態の数々である。

 その他には、池田氏がどこそこの国、あるいは大学から勲章や名誉学位をもらった、という克明な報告もある。こうした報告はなぜか、長谷川重夫氏(創価学会現副理事長)が務めるのが常だった。会場からは、万雷の拍手が上がる。外国の偉い人から届いた池田氏宛のメッセージも読み上げられる。「池田先生はなんて偉大なんだ」という想いが会場に充満する。

 こうした次第を経て、会長による今月の活動方針の話がある。私の頃は秋谷栄之助氏(五代会長)だったので、「秋谷会長指導」と称していた。

 池田氏が入室するのは必ず、この会長指導の最中だった。話の途中に決まって、

 「ただ今より池田先生がご入場になります」

と司会の宣言があるのだ。

 とたんに会場はしーんと静まり返る。秋谷氏も話の途中でぴたっと沈黙する。そうして会場やや後方の板戸が開き、池田氏の姿が見えると満場、万雷の拍手である。

 瞬間、この場のすべては池田氏のものに一変する。1000人を超える出席者が全員、氏の一挙手一投足に注目する。もはやそれまでの活動方針など、はるか彼方の無縁のものになってしまうのだ。池田劇場”“池田独演会のスタートである。

 

 

【演説はざっくばらん】

 入室してくる池田氏の姿は颯爽としたものだ。さりげなく「やあ」などと手を振りながら悠然と歩く。時おり、「よお元気」などと出席者に声をかけながら会場を見回している。部屋の奥まで進むとまずは正面の祭壇に手を合わせる。お題目を三唱し、この時は会場全員これに合わせる。池田氏の登場によって話を中断させられた秋谷氏も同様だ。終わると池田氏はおもむろに、例の専用椅子にどっかりと腰を下ろす。

 「続けろ」

 言われて初めて秋谷氏は話を再開するが、もはや指導にも何にもならない。誰もそんなもの聞いてなどいない。おまけに時々、

 「ほんとになあ。面白くない話だなあ」

などと池田氏から茶々が入るから、なおさらだ。

 「事務的だなあ。官僚だよこれじゃ」

 そのたびドッと会場から笑いが上がる。これでは話になどなるわけがない。出席者の間でも内心、「本当だよ」「とっとと終われ」という雰囲気になってしまう。

 ましてや時おり、池田氏は隣の幹部に向いて何か言う。

 とたんにしーん、と会場は静まり返る。何を言っているか、全員が聞き取ろうとするのだ。もちろん聞こえるわけがない。1000人以上も入る広い部屋なのだ。実際、一番前に座っている私でも聞き取れたことはない。おまけにただ、隣の人間に向かって小さな声でボソボソ何か言っているだけで、たいした話ではないに違いない。

 それでもみな、聞き取ろうとする。針が落ちても聞こえるほど、しーんと静まり返って耳を澄ます。いま思い返しても不思議な光景だった。それも、毎回毎回こうなのである。

 要はあれがマインドコントロールのテクニックだったのだろう。コケ脅しもハッタリもない。静かに池田氏が入場してわずか数秒で、その場にいる全員の心をワシ掴みにする。自分の一挙一動に注目させ、意のままに操ってしまう。開会前の演奏という雰囲気作りから始まって、会長の話の途中で入場してくるタイミングといい、すべては一貫した見事な演出のように見える。

 ただそれを、いとも自然にこなしてしまう。おそらく本人も、自分の行動が与える効果はこういうもので、などと一々意識してやってはいまい。やはり、天才なのだ。墓場で声が聞こえるといった、あのエピソードと通底しているものがあろう。かくして会場の全員が、池田氏の操り人形と化してしまうのである。

 結局、秋谷氏は話の途中で早々に、

 「ではそういうわけでございますから、これで終わります」

と切り上げることになってしまう。池田氏が、

 「何だ、もう終わりか。もっと続けろ」

などと言うこともあるが、これは単なるからかいだ。満場から、「もうやめろ」とばかりに秋谷氏が演壇から降りるのを促す意味の拍手が起こる。秋谷氏がサッサと引き上げると、会場は大笑い。要は会長ですら、池田氏を引き立てるための道化にすぎない。

 こうしてすでに満場が氏の虜になったところで、「池田先生のお話」である。池田氏の椅子の前に、テーブルとマイクが運ばれてくる。彼だけは話をするのも座ったままだ。

 演説原稿は事前に、専門スタッフによって用意されている。だがそんなもの、ろくに読みもしない。

 私もあれだけ毎回出席していたが、宗教的な説話を聞いた、というような記憶はあまりない。せいぜいが、

 「やっぱり大御本尊に祈るんだ」

とか、

 「一念の力が大事だ」

といったような短い言葉、キャッチフレーズを口にするくらいである。日蓮大聖人の仏法の意味がどうの、というような教学的に立ち入った話は、まず聞いた覚えがない。

 難しい説話どころか話ですらなく、マイクを持つといきなり、

 「やあみんな、あれだね。ああそうだ。伸びをしよう、伸び」

などと言うこともしばしばあった。

 「はい、起立起立。みんな立って」

と自分も立ち上がって、

 「はい、うーん。深呼吸してー」

 「ねえ、こういう風にやるんだよ。さっきから秋谷なんかが難しい話してたが、あんなのダメだ。楽しくやらなきゃダメなんだよ、楽しく」

 「ねえそうだろ、みんな」

と振られれば全員「はーい」である。完全に呑まれている。ペースに嵌められてしまっている。単純な身体の動きで、まずは聴衆を引きつけてしまうのだ。

 出席者を指差して、

 「お、君、病気だったんじゃなかったか。もうすっかり元気そうじゃないか」

と話しかけることもある。本当に覚えて言っているのか、それとも演出だったのか。今となっては分からない。でも私は本当に覚えていて声を掛けていたと思う。池田氏にはそういう記憶魔的なところがある。「はい」と答えたのが仕込みのサクラだったのでは、という人もいる。彼ならそれくらいやり兼ねないからだ。

 ただ考えてみれば、わざわざ仕込むまでもない。サクラなど別に設けず、氏が適当に会場を指差して、勘違いなことを言っていただけとしても、要するに結果は同じなのだ。たとえ指差された者が、全く身に覚えがなかろうと、

 「いえ先生、人違いではないでしょうか。私は病気になどなっていませんが」

などとあの場で反論できるだろうか。そんなことが言えるような雰囲気ではない。

 些細な一言で会場を1つにまとめる生来の求心力に加え、こうした間を差し挟むタイミングも見事なのは間違いない。

 その後も語り口はざっくばらんなままである。小難しい話など一切ない。翌日の聖教新聞を見ると、「キリスト教の教義は」とか、「キルケゴールが言ったことによれば」といった高尚な話をしたとの記事が載るが、それは事前に用意されていた演説原稿だ。実際、少しはそういうことも読み上げていたが、実感としてほとんど記憶には残っていない。それより原稿にとらわれない、池田氏自身の肉声によるアドリブがとにかく面白い。

 「この前、政治家の○○が来てね」

と、演説というよりほとんど雑談、世間話である。とても親しみやすい。

 「先日、○○国の大臣に会ったんだよ。いや、さすがたいしたものだよ。人物だね、あれは」

 「それに比べて日本の政治家はダメだね。特に最近のは、ろくなのがいない」

 「ほれ、そこにも矢野なんかがいるが、どうも最近、偉そうにしているぞ。人相も悪くなった。自民党なんぞとコソコソつき合ってなんかいるから、そうなるんだ。怪しからん」

などと突然、名指しされてしまうこともある。これをやられればこちらは、ひれ伏してただただ恐縮するしかない。

 

 

【公明党をけなすのも計算尽く】

 こうした言葉の端々から、池田氏がいま何に関心を持っているかを探るのが、出席者にとって大切な幹部会の意義でもある。今は政治に特に関心を持っているのか、公明党のあり方をあまりよく思ってはおられないのか、といった風である。例えば、

 「選挙は大事だよな」

という発言があれば、次の選挙ではみんながんばれ、という意味である。当然、県長たちは地元に帰って、選挙運動にさらに力を入れるよう各会員にハッパをかけることになる。

 「公明党はバカだ。ダラシがない」

といったん党をこき下ろした後で、

 「でもまあしょうがない。同志なんだからな。応援してやろうよ、みんな」

という言い方をされたこともあった。この時は幹部会が終わった後、池田氏から呼ばれて、

 「ああ言っときゃね、毒消しになるんだよ」

と、こっそり解説してくれた。

 「あれでみんな、気持ちよく応援してやろうという気になるんだ」

 つまり池田氏があの席でああいう言い方をすれば、本音では党に不満を持っていた会員も、進んで応援する気持ちになる、ということだろう。このように相手をけなすのも計算尽く。聞き手に与える心理的効果を狙ってのことなのである。

 「会館の建設費用が足りず、現場が苦労している」

という風に言われれば、「もっと寄付を増やせ」という意味になる。かくして地元では浄財集めに励む、という光景が展開されるわけだ。

 特に、今は誰が気に入られていて、誰が嫌われているのかを言葉から読み取るのは、極めて重要である。誰と親しくしておくべきか、誰とは距離を置いていたほうが無難かを判断しなければならない。要は保身である。

 だから出席者は、池田氏の片言雙句から目を離すことができない。冗談に笑いながらもどこか、常にピリピリ張り詰めている。秋谷氏の指導中、隣の幹部に耳打ちしている会話を聞き取ろうと、聞こえもしないのについ耳を澄ましてしまうのも心理の本質はここにあるのだろう。なかなかに神経を使う世界なのである。また池田氏は、

 「俺は今、誰それのこういうところに対して怒っているんだ」

という風にハッキリ発言することがあまりないため、よりそうした傾向が強まってしまう。例えば最近では、やり玉に挙がる筆頭は私だったろう。ただ池田氏が私を批判するとき、「矢野が」とハッキリ名指しすることは少なかったのではないか。少ない、と言ったのは実際に池田氏が私を名指ししたテープが手許にあるからだが、それでも池田氏は慎重だ。たいていの場合は「関西のあいつが」程度にボカして言っていたはずである。

 池田氏がいかにボカした言い方をしても、出席者は「矢野のことだな」と即座に察する。そして、「では矢野に攻撃をしかければ、池田先生は喜んでくださる」と判断する。

 かくして私への攻撃がエスカレートするわけだ。実際に臨席したわけではないから断言はできないが、多分そういうことがあったのでは、と密かに思っている。いかにもありそうな話なのである。

 

 

【競争させて忠誠を尽くさせる】

 会場にいる人間をしばしば名指ししては、持ち上げたり貶めたりするのも池田氏の演説の特徴だ。こちらはそれに対し、一喜一憂である。

 「矢野は最近、よくやっている」

と言われれば天にも上る心地になる。だが私が書記長当時、横には竹入義勝氏(元公明党委員長)が座っているのに、そういう時は池田氏の口からは「竹入」の「た」の字も出てこない。部下の私だけ誉められたということは、竹入氏は暗に批判されたも同然で、どっと落ち込んでしまう。

 ある意味、叱られても名前が出ただけまだいい、という感覚が我々にはあった。自分の名前を覚えていてくれた、先生が意識していてくれた、ということになるからだ。一番こたえるのが無視されることなのである。

 だがそうして竹入氏を貶めたとしても、ずっとそのままということはまずない。次の機会ではたいてい、

 「竹入はがんばっている」

という話になる。今度は私が、

 「それに比べて矢野は要らんことばかりしやがって」

とやられてしまうわけだ。立場が逆転である。

 このように誉めるのと叱るのとを、池田氏は一定期間ごとに、交互に繰り返す。誰が見ても池田氏に次ぐ2番手、つまりセカンドマンはこの人だという者は絶対に作らない。公衆の面前で罵倒して潰す。かくして池田氏とその他大勢との差は無限の距離に開き、独裁的な権力は強化され続ける。叱られ役専門のような立場の者もいたことはいたが、そういう人はたいてい信心が篤く、我々からもやはりあいつは偉いな、と評価されていた。

 これは私が幹部会に出席しなくなってからの話だが、2005年7月、1人の幹部が池田氏から1時間にわたって罵倒された事件があったという。

 『週刊新潮』(H17.8.4)が報じたところによれば、被害者は異例の若さで男子部長に抜擢された、輝かしい経歴を有す弓谷照彦氏。創価高校から東大に合格しながら、これを蹴って創価大学に進んだというエピソードの持ち主だ。学会内では当然、美談である。池田氏の覚えもめでたく、前述の通り異例の出世街道を驀進(ばくしん)する最中だった。ところが、彼が4人もの女性に次々手をつけており、それも池田氏側近の、お気に入りの女性だったという。私には真偽の程はわからないが、池田氏にすれば、「飼い犬に手を咬(か)まれた心境」だったのかも知れない。

 「ケダモノ」「犬畜生」

 悪口の限りを尽くして満座の中で痛罵されたというから、弓谷氏の恐怖たるやいかばかりだったか。失禁の1つくらい、したとしてもおかしくはない。報道が事実ならば、彼のやったことは言い訳のしようもなく、叱られて降格の処分も当然とは思うが、あの恐ろしさを身に沁みて知っている私からすれば、ちょっと同情の念も湧かないではない。それに罵っているのが誰より、女性問題では1度ならず週刊誌などに取り上げられてきた張本人ではないか。

 だがまあこれは異例のケース。たいていは持ち上げられたら落とされる。2~3ヵ月周期の波に我々は翻弄される。こちらは誉められたら喜び、叱られたらしょげる。子供のようなものだ。誉められたら発奮してがんばるし、叱られたら挽回しようと意気込む。これこそマインドコントロールであろう。一部だけを突出させることなく、みなを競争させながら忠誠を尽くさせる。見事と言うしかない手腕である。

 こうした「池田先生のお話」が毎回、ほぼ1時間である。我々は一喜一憂して、引き込まれるように聞き惚れる。

 この模様は、全国にも生中継されていた。文化会館などの、創価学会の所有する会館が全国に約1000ヵ所あるが、ほとんどの会館に衛星放送を受信できる設備が備えてある。

 中心的な会館には500人から1000人くらい入る大会場がある。ここに巨大なスクリーンがあって、衛星経由で送られた本部幹部会の映像が映し出される。あたかも自分も幹部会に出席しているような臨場感を味わえるという仕組みだ。幹部会に出席しない公明党議員も、この衛星放送は必ず見るように義務付けられていた。後で感想文を提出させられたこともあった。

 そうして多くの学会員一人一人が、池田氏と対面しているような錯覚に陥る。電波を通じて集団洗脳しているようなものである。考えてみれば恐ろしい光景ではないか。

 もっとも最近では、この生中継は行われなくなったらしい。話の脱線、不適切発言があまりに多過ぎるせいだという。

 例えば1993年8月8日の第69回本部幹部会における、「デエジン発言」というものがあった。同年7月18日に実施された第40回衆議院議員選挙において、自民党が惨敗。議席の過半数を取れず、8月9日に細川護熙氏を首相にいただく非自民連立政権が発足した。その前日の幹部会で、

 「すごい時代に入りました。ねー、そのうちデエジンも何人か出るでしょう。ねーもうじきです、明日あたり出るから。みんな、みなさんの部下ですから、そのつもりで」

と発言。さらに「労働大臣、総務(庁)長官、郵政大臣」と石田幸四郎委員長ら公明党議員が就任する大臣ポストを発表してしまったのである。政権発足の前日に公明党が大臣ポストを獲得する約束ができていると暴露してしまったばかりか、大臣を「デエジン」よばわり。しかもそれは「学会員の部下だ」と軽視してみせたわけで、発言を録音したテープが流出し、亀井静香衆院議員が国会で追及するなど、世間でもかなり問題視された。

 こうしたことが続いたため、今では幹部会の模様は録画され、編集されてから全国の会館に送られるようになった。また最近は、事前に用意された演説原稿をそのまま朗読することも多くなったと聞いた。それも最初のところだけ数分間読んで、後は長谷川副理事長に代読させることも多い、とか。

 やはり年齢的にも、1時間も好き放題に喋り続けるのは体力的に苦しくなってきたということなのだろうか。脱線が多いというが、あの脱線こそ池田演説の真骨頂だったのだが。生の池田演説の面白さを知っている身からすれば、あれが聞けなくなった最近の幹部会は気の毒なように思えなくもない。

 ともあれこうして、幹部会の映像を全国に送ることで、池田氏のカリスマ性が現場と密着する。学会ではそういう仕組みを長年にわたって、築き上げてきたのだ。

 

 

【学会員一人一人と直結するシステム】

 例えば地方の学会員が亡くなったとする。すると、さしたる役職でなかったとしても、色紙だの伝言メモだのといった、記念になるような品々が贈られることが多い。それも創価学会からではない。池田先生からの、という口上が必ずついてくる。

 もちろんそんな地方の会員を一々、池田氏が直接知っているわけがない。すべてオートメーション化されているのである。担当しているのは第一庶務という部署。池田氏の側近中の側近である個人秘書たちもここに属しており、学会のトップクラスの、超優秀なメンバーが集められる。池田氏付の「本隊」は20~30人程度だが、「第一庶務付」といわれるスタッフの他、方面組織、県組織に担当者が配置されている。担当方面で誰かが亡くなれば、弔電を打ったり、何かを贈ったり、というシステムが構築されているわけである。

 また地方本部も、冠婚葬祭における対応については自動化されている。全国にこれだけの会員がいれば、毎日どこかで誰かが亡くなったり、慶事があったりしているわけで、そのたび自動的に池田氏の名前で物が届けられる仕組みになっているのだ。

 だが内実はオートメーションであっても、もらった側はやはり感激する。それに、ただの機械仕事とは思えない、ちょっとした仕掛けが施されている。

 会員が亡くなった場合、その経歴についての情報が地元の支部から、第一庶務に上げられる。すると「故人の壮年部における○○の功績に感謝して」というような具体的な文言が、記念品について来るのだ。遺族にしてみれば、

 「ああ、池田先生は父(母)のことを知っていてくれたんだ。覚えていてくれたんだ」

となる。そして、

 「やっぱり優しい先生だ。何て慈悲深い先生なんだ」

と、池田氏に対する思慕がさらに深まる結果となるわけだ。

 会員も、ただ一方的にもらうだけではない。何かの記念日があれば、地方の会員は大挙して東京に馳せ参じる。

 例えば5月3日は池田氏の会長就任記念日で、「創価学会の日」として何より大切な日である。こうした時、地方本部は会員に対して、

 「東京へ行って池田先生にお礼を差し上げよう」

という呼びかけを行う。何人東京へ送り込んだかで、県の幹部の勤務評定も決まるため、彼らとしても必死だ。それぞれの地区で1人1万円ずつ、といったように寄付を集め、何人かを引き連れて上京するように指導する。

 新宿区信濃町の本部会館では、野外にテントが張ってあり、「接遇班」の人間がズラリと並んでスタンバイしている。上京して来た会員たちは集めて来た寄付に、手紙やお菓子などを添えて彼らに届ける。班員は彼らの名前を聞いて、一人一人記録する。「ご苦労様でした」と記念品が手渡される。

 「接遇」と称しているところからも分かる通り、上京して来た会員たちはあくまで「客」という扱いである。信徒が学会に詣でたのなら「客」とは呼ぶまい。つまり彼らは池田氏個人を訪ねて来た客人なわけだ。だから会計上はともかく、気持ちとしては寄付も学会に対してではなく、池田氏に対して差し出しているようなものだ。

 寄付を終えた地方会員は本部会館内を案内され、お題目を唱えて、

 「ああ今日はよかった。いい日だった」「池田先生と気持ちが通じた」

と満足して帰って行く。実際に会ってはいなくとも、気分としては池田氏と身近に接したも同然だ。池田氏にお礼をして、記念品をもらったことで、心と心が触れ合った心地なのだろう。

 このようにあの手この手で、現場の一人一人と池田氏とが直接つながる仕組みが構築されている。彼のカリスマ性を現場に浸透させ、根づかせるための、幾重ものシステムが築き上げられているのである。

 こんな大がかりなシステムは一朝一夕で出来るものではない。そのためのスタッフがおおぜい働いているわけだから、人件費だけでも膨大なものになろう。大規模な体制作りが欠かせない。

 それでもこういう仕組みを作ろうと、構想を練る。アイディアを出すのはもちろん池田氏だ。そしてそれを、周りが10年、20年もかけて具現化する。その執念の凄まじさには、もはや脱帽するほかない。

 

 

【贈り物好き】

 贈り物のやり取りを介した、会員との結びつきについて触れたが、確かに池田氏は物を贈るのも、贈られるのも大好きである。実際私も、何かにつけて記念品をいただいた。バッジだ、ネクタイピンだといったもので、すべて特注品だ。

 短歌や詩を詠むのが好きな池田氏から玉詠をしたためた原稿用紙や色紙などもよくいただく。全部手書きの場合もあるし、歌の部分だけ印刷ということもある。そして、最後には独特のカギ形の自筆による「大作」のサインと落款が押されていたりする。下の写真の色紙は、私が池田氏からいただいたものだが、やはりこういうものを贈られると、嫌でも厳かな思いに打たれてしまう。しょっちゅう一緒にいた私でさえそうなのだから、初めてもらう地方会員の感激たるや、いかばかりか。まさに家宝扱いなのだ。

 こちらも何かにつけ、口実を見つけては贈り物を届ける。付け届けをしておけば機嫌がいい。しなければ嫌みを言われる、と分かっているからだ。

 池田氏の食の好みは概ね、脂っこいものである。マグロ、中でもトロが大好物。天ぷらやしゃぶしゃぶも大好きだ。そこで一時期は党のほうから毎年、特上のマグロや牛肉を贈っていた。マグロのときは、わざわざ築地で1週間くらい前から予約して用意して、冷凍車2台に積んで運んでもらったのを覚えている。軽井沢の地に学会の長野研修道場があるのだが、毎年夏に池田氏がここに行くので、それに合わせて届けるのである。

 冷凍車2台分だから何トンという量だ。とても1人で食べられる分量ではないが、ケチケチは厳禁である。何より豪快なのが池田氏の好みだ。先生が食べられる量はこれくらいだろう、などと勘案して届けていては、後で散々に罵られてしまう。実際、党からの贈り物には、

 「まったくしょうがねえなあ。こんなに贈ってきやがって」

などと口ではブツブツ言っていたそうだが、内心では喜んでいたはずだ。その証拠に、後から「このたびは立派なマグロを贈ってもらい、ありがとう」という池田氏のメッセージも第一庶務を通して、党のほうにちゃんと届けられる。要は気っ風の見せどころ、なのである。

 研修道場には地方の最高幹部がおおぜい集まっているから、

 「党がこんなもの贈ってきやがった。しょうがねえや。ほら、みんなで食べろ。普段、選挙で応援してやってるんだからな。こんな時、ご馳走になっとかなきゃな」

と分け与える。大量の贈り物を受け取り、それを他の会員に配るのが何より好きなのだ。親分肌の見せどころ、という奴である。だから付け届けをするなら、なるべく豪快に、でなければならない。

 以前は正月の2日には、竹入氏と私や他の党幹部も必ず学会本部に挨拶に行っていた。池田氏は大広間のソファにどっかり座っている。広間には座卓がズラーッと並んでおり、挨拶に来た者がそこに着くと、振り袖姿のお嬢さんがお屠蘇を注いでくれる。

 私たちの顔を見ると池田氏は、

 「おお、来たか。こっちへ来い。ここに座れ」

と横に来るよう招く。これは大変名誉なことである。池田氏の横に座っていると、こちらも旗本になった気分になる。

 次々訪れる客も当然、その姿を見る。

 「ああ、竹入さんと矢野さんが池田先生のおそばに座っている」

 情報はその日のうちに、あっという間に広まる。これが我々の権威付けになる。

 贈り物を持ってきた挨拶客が、それを接遇班の人間に渡すと、そのまま持ち運ばれてずらりと大広間に並べ置かれる。挨拶客が部屋を辞すときには池田氏が客に対して、

 「ああ君、ホレ、そこの羊羹、持って帰りなさい」

と勧める。時には女子部員に、

 「ああ君、彼にそこの一升瓶、あげなさい。ああそれじゃダメだ。そっちの、それだ」

と池田氏自ら、より高級な品を指定することもある。気前のよいことだ。こうなると、たとえ池田氏が買ったものでなくても、もらった側は何か特別なものをいただいたという気分になる。感激して帰途に就くのは言うまでもなかろう。

 余談だが毎年贈っていたマグロや牛肉の贈り物が、国税調査で「政党から個人への利益供与(贈与)ではないか」と問題になったことがあった。

 「いや、みなで分けて食べるので、個人への利益供与には当たりません」

と反論するのだが、確かに送り先はあくまで「池田先生宛」になっている。「学会のみなさま宛」などと言って届けると不機嫌になるから、そう書くしかないのだが、国税にはなかなか納得してもらえず困り果てた覚えがある。

 

【何かにつけて報告書】

 贈り物は年中、全国から届けられる。夏になれば北海道からトウモロコシ、冬には富山湾から寒ブリというように。その地その地の山海の珍味が季節に合わせ、地方から学会本部に贈られる。

 するとそれらは、右から左へ別の会員に振り分けられる。第一庶務が作業に当たり、このレベルの品で、分量がこれだけだったらどことどこへ、というように配分する仕組みが出来上がっているのだ。それにはこれまた、必ず「池田先生からのいただき物です」という口上がついて来る。

 このため党の役職をやっていた頃は、週に何度も学会本部に赴かなければならなかった。「先生からのいただき物がある」と第一庶務から電話で呼び出されるためだ。手許まで届けてくれるということはまずなく、自分で取りに行かなければならない。贈り物はしょっちゅう届くから、多いときは2日に1度は呼び出しがある、という頻度だった。一昨日は魚、今日は果物……という具合である。

 有り難いようで煩わしいのが、こうしていただき物をすると必ず、報告書を提出させられるという点だった。ついついサボっていると、第一庶務から督促される。

 「先生から先日いただき物があったではないか。なのにまだ報告書が上がっていない。先生からの贈り物を何だと思っているのか」

 つまるところお礼の強要である。誰と誰に何を贈ったか。そしてちゃんと報告書が提出されているか、否か。すべて一々チェックされているわけである。ご苦労なことだとは思うが、催促されてはグズグズしてはいられない。忠誠心に疑問符をつけられれば、後でエラい目にあうのは自分なのだから。

 提出した報告書はちゃんと池田氏まで上げられ、決裁を受ける。「見たぞ」という意味で赤鉛筆で印が入れられ、手許に戻されてくる。

 どんなものか知っていただくために、当時、私が池田氏宛に提出した報告書を一部紹介しよう。

 

〈御礼

ブドウを頂戴いたしまして、本当に有難うございました。

至らない私ですが、真剣に唱題し、闘ってまいります。

11回党大会、来年の参議院選挙めざし真剣に闘ってまいります。本当に有難うございました。心より御礼申し上げます〉

 

 この報告書、書式が決まっていて、何かにつけて提出しなければならない。贈り物に対しての御礼くらいなら、読者の方も「アホなことしているな」くらいの感想だろうが、党でこんな会合があった、誰と会ってこういう話をした、という政治に関わる出来事も逐一報告する義務がある。しかも、報告書には、池田氏の直筆による赤鉛筆で、感想や指示が記されていることもあった。

 例えば、私の手許に1969年11月27日付の報告書がある。「宮本書記長と電話の件」と題されており、当時行われていた大阪市議選の補欠選挙で、共産党が公明党・学会を中傷する演説をしていることを私から池田氏に報告する内容である。続いて、私が宮本顕治共産党書記長に電話し、宮本氏の発言として、(1)早期に実情を調査すること、(2)秋谷氏と共産党幹部会委員の下司順吉氏が翌日に顔合わせをして、その席でこの問題を話し合ってはどうかと提案したこと、が記されている。この顔合わせについて記している部分には、池田氏の直筆で、

 「やったらどうか」

と書かれている。

 早速、この指示に基づいて行われた翌日の両者の会談には国会の常任委員長室が使われた。

 ほかにも、衆院選や参院選の立候補予定者の名前をあげて、「御決裁をお願いいたします」とお伺いを立てているものや、「明鳳会」という党の若手中心のグループを結成した際、命名とメンバーの選定(代表幹事には神崎武法前公明党代表が選ばれている)を行った池田氏に御礼を述べている報告書もある。

 これらは、公明党が池田氏にお伺いを立てなければ、何も決められないことを証明している。まさに政教一致と言われても仕方がない。

 いずれにせよ、膨大な量の報告書が、氏の許に届けられている。逐一これらすべてに目を通すわけではないが、池田氏も並の労力ではない。贈り物のお礼まで義務づけるからそうなるのだ、という気もするのだが、報告書を提出させることで、常に自分への忠誠心を確認しておかなければ不安なのだろう。もはや妄執の範疇と言える。

 

【「内弁慶」の発露「言論出版妨害事件」】

 池田氏の性格を特徴づけるのが、学会内部での雄弁ぶりと好対照な「内弁慶」ぶりだ。それが如実に表れたのが、「言論出版妨害事件」と「月刊ペン事件」だった。

 「言論出版妨害事件」の発端は1969年の8月。政治評論家の藤原弘達氏が、『創価学会を斬る』という本を上梓しようとしていると判明したのがキッカケだった。竹入氏と私は、田中角栄氏(当時、自民党幹事長)を介して、

 「初版だけは出していいがすべて学会が買い取る。その後いい仕事を回すから、増刷はするな」

と藤原氏に交渉を仕掛けた。

 このときは本当に苦労した。藤原氏は頑として譲らず、交渉は決裂。逆に角栄氏から懐柔されたことを暴露され、一気に政治問題化した。本来は創価学会の問題にもかかわらず、私たち党の人間まで動いていたことから、国会で取り上げられる騒ぎになったのである。

ちなみに同書は発行されるや話題となり、最終的には100万部以上売れたという。学会では同書を買い占めて焼却しようという計画もあっただけに、かなり売上に貢献したはずだ。

 国会ではこれまで創価学会が行ったとされる言論妨害の様々な前歴について、具体的な質問が次々に飛ぶ。私ですら初耳のこともあったほどで、追及する側からすれば質問の攻撃材料には事欠かない様子だった。

 「そもそも創価学会のために、公明党が動くとはどういうことか」

と政教一致問題にまで議論は発展してしまう。

 こうなると最後は証人喚問である。「池田を国会に呼べ」の声が囂然と沸き上がった。

 こちらとしては何より痛い攻撃である。弟子として、師を国会の場に引きずり出させるわけにはいかない。証人喚問絶対阻止のため、公明党は連日の右往左往を強いられた。

 だが、私は本音としては、池田氏に国会に出てもらいたかった。

 騒いでいるのはしょせん、各選挙区選出の国会議員なのだ。こちらは数百万世帯を抱える団体のトップ。器が違うという思いもあった。だから国会の場であろうと、幹部会の時のように颯爽と登場して、

 「一部行き過ぎた行為があったようだ。言論妨害をしようという意図などなかったが、誤解を与えたとすれば私の指導不足である。申し訳ない。ただ、信教の自由は大切である。この件については、私は譲るつもりは一切ない」

というように堂々と語ってくれればいい。

 そうなれば、議員のほうが圧倒され、

 「池田氏まで出てくれたのだ。この件はもう、結構です」

となって問題はあっという間に、終止符が打たれてしまうはずなのだ。いつも我々を魅了するような、あの堂々たる名演説をやってくれさえすれば。当時の私は本気でそう信じていた。

 ところが池田氏、内に向かっては類い稀なる演説の天才であっても、外に対しては一転、尻ごみしてしまうのだった。このころは学会本部にも姿を見せず、たまに顔を合わせても、池田氏からは、

 「どうなんだ、(喚問は)大丈夫か」

ばかり。

 「まったく、俺だけが辛い目に遭うんだよ」

 「お前たちはしょせん、他人事だ」

とトゲのある言葉を浴びせられたこともあった。外の世界に怯える内弁慶、臆病者以外の何ものでもない。これでは金輪際、証人に出ることはあり得ないな、と諦めるしかなかった。

 当時、誰かを国会に証人喚問するには、各委員会の委員全員による全会一致が暗黙のルールだった。多数の横暴を許さない、少数政党を保護するという意味の不文律である。だから、少数政党であれ一党でも反対したら、喚問はできない了解事項になっていた。

 ただこれは、あくまで「暗黙のルール」である。国会は明確な規定がない限り、前例に基づいて動くが、このままでは弱い。そこで私は工作に動き回り、これを「慣例」に昇格させた。かくして公明党が反対する限り、池田証人喚問はあり得ないこととなった。この事件で唯一、我々の挙げた成果である。

 とりあえず証人喚問は阻止することができたが、池田氏が何も発言しないまま幕引きというわけにはいかない。結局、1970年5月3日に行われた創価学会第33回本部幹部会で池田氏が声明を出すことになった。この幹部会は池田会長就任10周年記念式典の意義があっただけに忸怩たる思いだっただろう。

 「言論問題はその意図はなかったが、結果としてそれが言論妨害と受け取られ、世間に迷惑をかけたことはまことに申し訳ない」

 また政教一致問題についても言及せざるを得ず、以降学会と公明党は表向きには、政教分離の建て前を装うことを余儀なくされた。

 

【出廷拒否の「月刊ペン事件」】

 「月刊ペン事件」の発生は1976年。雑誌『月刊ペン』に池田氏の女性スキャンダルが書き立てられたのが発端だった。同誌は「崩壊する創価学会」と銘打ち、学会スキャンダルを連載で追及したのである。

 『月刊ペン』の編集長は隈部大蔵という人物。西日本新聞で論説委員をしていたのだが、1968年『日蓮正宗・創価学会・公明党の破滅』『創価学会・公明党の解明』という本を出そうとして学会の猛攻に遭い、出版を断念させられた過去を持つ。つまり彼にとって、学会は恨み骨髄の敵だった。一説によると彼が『月刊ペン』の編集長を引き受けたのも、思う存分学会批判ができる場を求めてのことだった、という。

 このようなことを放置しておいては、第2第3の隈部氏が出てきてしまう。さっそく『月刊ペン』と隈部氏を名誉毀損で訴えようという話になった。学会副会長の北条浩氏が、いい弁護士を紹介してくれと私のところへやって来た。

 当初、私はこの依頼を断った。学会にはすでに顧問弁護団がある。率いるのは山崎正友氏といって、共産党の宮本顕治氏宅盗聴事件を始め、様々な裏工作を陰で仕切ってきた男である。山崎氏という存在がありながら、外部から弁護士を引っ張って来たとなれば、当然恨みを買ってしまう。

 しかも裁判の条件が、常識はずれのものだった。何と池田氏の証人出廷は断固として阻止する、というのである。

 名誉毀損で訴えるのだから、原告側(つまり池田氏)の証言なしに裁判は成り立たない。ましてや男女関係のスキャンダルではないか。2人の間で何があったかは、当事者にしか分からない。だから池田氏とその相手と名指しされた女性(一応イニシャルになってはいるが、知っている者が見れば一目瞭然)が出廷し、

 「そんなことは一切ない」

と明言すれば相手に反証の余地はほとんどない。女性も学会関係者だ。実際の関係がどうあれ、証言をお願いするのは容易だった。直ちに勝訴である。

 ところが当の池田氏が出廷を嫌がる。またも「内弁慶」ぶりが露呈したというわけだった。名誉毀損で訴えます、ただし証人には出たくない、ではお話にもならない。

 北条氏の再三の依頼にやむをえず私は、2人の弁護士を紹介した。彼らも「池田氏の出廷なし」の条件には渋い顔を隠せなかった。結局、「男女関係があったか」の本論に入ることはせず、「そもそもこのような記事に公共性はあるのか」という入り口論で戦おうという法廷戦術になった。

 弁護士を紹介したあと、私は実質的にはこの問題にタッチしていない。うまくいっていると弁護士からは聞いていたし、実際、1審、2審とも学会側の勝訴に終わった。最高裁は書類審理だけで、証人出廷はない。これで池田氏を出廷させないという方針は貫かれたまま、学会勝利がほぼ確実だと思っていた。

 ところがここで急転直下の事態が起こる。山崎氏が造反し、事件の背景を詳しくしたためた上申書を最高裁に提出したのだ。

 実はこの件でも山崎氏は、裏で暗躍していた。『月刊ペン』側が池田氏の証人出廷を要求しないよう、人を介して被告側と交渉していたのだ。池田氏の意向を受け、何重もの保険をかけておこうとしたのだろう。彼の上申書によれば、現金2,000万円を被告側に渡すことで、隈部氏の弁護士も同意していたという。確かにこれがなければいくら何でもこんな裁判、ここまでうまくいくはずがない、というのも本当のところだったらしい。ちなみに山崎氏の造反の理由は金銭問題で、こちらは学会が山崎氏を恐喝で告訴するなど泥沼の展開となった。

 いずれにしても、驚いたのは私や私が紹介した弁護士たちである。勝訴している側が相手に現金を渡していたというのだから、最高裁が不審に思うのも当たり前である。

 かくして審理は1審差し戻しとなり、池田氏は出廷を余儀なくされるハメとなった(裁判そのものは途中で被告の隈部氏が死亡したため終了)。私が北条氏に「なぜ、被害者が加害者に金まで払って裏交渉する必要があるんですか」と問い詰めたところ、

 「すまない。どうしてもコレの意向でな」

と親指を立てたことを覚えている。

 臆病なあまり墓穴を掘ってしまったわけである。

 

 

【見事な戦略、創共協定】

 前に紹介した2事件と対照的に、池田氏の卓越した戦略家ぶりが見事に発揮されたのが、創共協定である。

 1974年、公明党の頭越しに学会は共産党と話を進め、相互協定を締結した。互いに敵視し合ってきた両者が、向こう10年間にわたって一種の停戦を結ぼうというもので、仲介役に立ったのは、作家の松本清張氏だった。締結されたのは12月28日と年末ギリギリだったが、大晦日になるまで委員長の竹入氏も私も、このような話が進められていることなどまったく知らされていなかった。

 知らされた我々は猛反対だった。当然である。共産党は「言論出版妨害事件」の時、学会批判の急先鋒だった不倶戴天の存在だ。新聞『赤旗』でもさんざん叩かれた。

 そもそも野党とはいえ、公明党は自民党とはうまい関係を保っている。だからこそ、田中角栄氏も「言論出版妨害事件」の時、我々のために骨を折ってくれた。だが共産党と手を組んだとなれば、これまで通りのつき合い方は難しくなる。他の野党からも目の敵にされる恐れがある。公安当局からも目をつけられる可能性がある。竹入氏は、

 「もう俺は知らん」

とそっぽを向いてしまった。だがもう結んでしまった協定である。書記長の私に調整役が回ってきた。池田氏から呼び出され、1対1で会った。

 「先生、ホンマにこれから、共産党と仲良くやっていかれるおつもりなんですか」

 単刀直入に聞くと、

 「バカを言うな」

と言下に否定された。

 「表面だけだよ。自民党と共産党、両方敵に回せるか。お前よく考えてみろ。言論(出版妨害)問題の時の共産党の恐ろしさを忘れたのか。この協定で10年間、共産党を黙らせるんだ。協定に反対する公明党議員は絶対に許さないからな。お前と秋谷でうまくやれ」

 私は唖然としつつも、秋谷氏と相談し、協定締結の交渉担当者、野崎勲氏(当時、男子部長)と会った。確認したいことはただ1つである。この協定が共産党との政治共闘も含む「政治協定」なのかどうか。

 「政治協定」であれば話はややこしい。共産党とイデオロギーを共有することになってしまう。例えば原子力空母が日本に寄港した時など、

 「原子力空母ハンターイ」

と共産党とデモをやるか、という話だ。

 すると何度確認しても野崎氏は、

 「政治協定という言葉は使っていない」

と言う。もちろん交渉の経過からすれば「政治協定」であることは明白だったが、その言葉を使っていないならば今回の協定は「文化協定」ということにすり替えようとなった。学会と共産党が文化的に交流を深めようというのであれば、公明党は関係ない。

 そこでその方針に則って、「秋谷見解」というものを作成した。当時副会長だった秋谷氏に、創共協定についての見解を発表してもらい、実質骨抜きにしてしまおうというわけだ。1975年7月に読売新聞がこの協定についてスクープ、他紙も追随したのを契機として、聖教新聞に「秋谷見解」を掲載。学会と共産党は、「共闘なき共存」の関係を保つということにした。

 当然、共産党は激怒した。一方的に協定を骨抜きにするとは何事か、というわけだ。だが共産党というところは、どこか律儀な面があるのだろう。あれだけこちらの対応を怒っていたくせに、以降学会への攻撃はぴたりとやんだ。裏側の事情を知る私から言わせれば、これは池田氏の詐略そのものだったが、戦略は見事に成功した。

 協定期間中の1980年、山崎氏が宮本顕治氏宅盗聴事件は創価学会によるものだったと犯行告白し、両者は完全決裂。協定が更新されることはなかった。しかし、この10年間、共産党対策に気を取られずに済んだことの意味は大きかった。

 なぜなら、その時期、池田氏は次の戦略を着々と進めていたからだ。総本山大石寺との「宗門戦争」である。

 

【宗教界の王者に】

 創価学会は元々、日蓮正宗の信徒団体の1つとしてスタートした。

 戦前、日蓮正宗の信徒で教育関係者の集まりが「創価教育学会」を結成したのが始まりである。呼び掛けたのは初代会長の牧口先生で、その死後、跡を継いだ戸田先生が創価学会として組織を再編。東京都に宗教法人としての申請を行った。

 日蓮正宗はこれを問題視した。日蓮正宗が1つの宗教法人なのに、その一信徒団体が独立した宗教法人になるのは確かにおかしい。だが戸田先生に率いられた創価学会は当時、破竹の勢いで信者を増やしていた。日蓮正宗としても無視できない勢力だった。そこで「三宝(仏、法、僧)を守る」などの条件を付して、学会の法人化をしぶしぶ認めることになった。

 このため創価学会は、あくまで日蓮正宗の本尊と教義を忠実に守り、その教えを広く世に伝える「広宣流布」こそを目的としていたのである。崇める御本尊は大石寺にあり、各家庭の仏壇などに祀る紙幅の曼荼羅本尊も、日蓮正宗の法主上人(教義上の最高権位者)が書写祈念したものでなければならない。池田氏は日蓮正宗の中においては総講頭という立場であり、法主上人から見れば単なる信徒の代表に過ぎない。宗教上、どちらが上に位置するかは一目瞭然である。

 だが、創価学会の会員数が年々増え、公明党が国政にも影響力を持ち出すと、池田氏は信徒の代表という立場では飽き足らなくなったのだろう。しきりに公然と宗門批判を口にし、対決姿勢を鮮明にするようになっていった。それは創価学会が日蓮正宗を呑み込み、下部に位置づけてやろうと画策しているかのようだった。

 私は池田氏が宗門との対決に方針転換したのは、「言論出版妨害事件」がキッカケだったのでは、と推察している。それまで池田氏は、本気で「政界の王者」を目指していた。実際、「天下を取ろう」の檄が我々公明党幹部に対し、一時はしょっちゅう飛ばされていたのである。このままいけば公明党が議席の過半数をとるのも夢ではない、と本気で考えていたフシがある。そうなれば与党を支配する学会の長として、自分は政治の頂点に立つことができる、と思っていたのではないか。

 ところが現実はそんなに甘いものではなかった。「言論出版妨害事件」で、学会は激しい攻撃を浴びせられた。池田氏は謝罪し、政教分離を明言せざるを得なかった。権力の恐ろしさというものをまざまざと思い知ったはずである。

 そこで方針が転換された。「政界の王者」がダメなら「宗教界の王者」になろう。かくして宗門乗っ取りを目指すことになった。庇を借りて母屋を乗っ取る作戦だ。そして宗門との戦争に専念するには、背後を固めておく必要がある。最もうるさい共産党を黙らせておかねばならない。そのための創共協定だった、というわけだ。1つの方針を打ち立て、そのために次々と布石を打っていく。詐略もためらわない、ある意味で見事な戦略と言える。

 ただ結論から言うと、1970年代半ばから始まったいわゆる「第1次宗門戦争」は仕掛けるのが時期尚早だった。本山からの強烈な反攻に遭い、池田氏は謝罪を余儀なくされる。池田氏のしょんぼりした姿を見て、私は「ああ、この人も人間なんだな」と同情すら覚えた。さらに池田氏は創価学会の会長職を北条氏に譲り、自分は名誉会長に退くことになった。1979年4月25日の聖教新聞に記事が載り、全国の会員に会長交代が発表された。

 だが転んでもただでは起きないのが池田氏である。それ以来、任意団体である「創価学会インタナショナル(SGI)」会長の肩書を前面に打ち出すことで、日本の創価学会会長から世界の創価学会会長にグレードアップしたかのようなイメージを植え付けることに成功した。

 しかも「名誉会長」という立場なら、何かあっても宗教法人のトップとして責任をとる必要があるのは会長になる。「言論出版妨害事件」のような事件が起こっても、国会に呼ばれるのは現会長であって自分ではない。

 池田氏が、

 「俺は実権を握って放さない。法的な責任、国会の証人喚問とか、ああいうのはもう、バカバカしくてやってられんよ」

と私に本音を言ったことがあった。名を捨てて実を取ったわけである。

 かくして満を持して、「第2次宗門戦争」が仕掛けられた。前回の失敗から、こうした抗争で何より大切なのは資金力だと悟ったのだろう。財務と称して会員から多額の寄付を掻き集めた。創価学会の宗教ビジネスは暴走しはじめた。現在のようななりふり構わぬ金集めが常態化したのは、この時からのことである。

 兵糧を固め、覚悟を決めて打って出た再度の抗争だけあって、今度は池田氏は一歩も引かなかった。ついに1991年、組織としての創価学会が、翌92年には池田氏個人も宗門から破門処分となった。そもそもの教義の大本を失ったわけで、学会内にもかなりの衝撃が走り、脱会して日蓮正宗信仰を貫く者も数多く出た。宗門という権威に取って代わったのが池田崇拝路線だった。池田氏は創価学会が破門されるや、学会の会則に、

 「牧口初代会長、戸田第2代会長、池田第3代会長の『3代会長』は永遠の指導者である」

という項目を書き加えさせてしまった。一応3人について言及されているが、前のお2人はとうに亡くなっている。結局自分だけが「永遠の指導者」として、別格の地位に立つことになったわけだ。

 公明党を政権与党に送り込むという目的も果たした。宗門乗っ取りこそなし得なかったが、頭の上の煩わしい権威を否定し、池田氏は唯我独尊の道を歩んで今日に至る。まるで生き仏のごとく君臨している。

 

 

【国税との交渉】

 この第2次宗門戦争が決着する頃、私はすでに政治の第一線を退いていた。1989年に公明党委員長を辞任し、93年には政界を引退した。

 政治家として学会のために最後に働いたのが、国税庁との交渉である。1990年から翌91年にかけて、学会に国税庁の調査が入ったのだ。東京国税局資料調査課、俗に「マルサ」と呼ばれる査察部ではなく、「マルサより恐い」と言われる「料調」であった。マルサが悪質な脱税事件について強制調査を行うのに対して、料調はまだ事件化していない案件について綿密に資料を集め、じっくりと調査を進める。税務調査の腕は料調が一番と言われており、何年もかけてじわじわと対象を追い詰める恐ろしさは、まさにマルサの比ではない。

 「国税が調査したいと言ってきている」

 「どうも、ただごとではない」

 私に何とかしてくれと依頼してきたのは、当時の秋谷5代会長だった。既に私は党の常任顧問という立場にあり、こうした対応をするのは現職の書記長のほうが動きやすいだろうと思ったので、

 「そういうのは市川(雄一)君に任せればどうか」

と断った。当時は石田委員長、市川書記長というラインである。

 実を言うともうたくさんだ、というのが本音だった。委員長を辞める前年の1988年、国会は消費税導入問題に揺れていた。当然、公明党としては導入反対の立場で、国会でも自民党と激しくやり合っていた。ところが、ある日、竹下登首相(当時)から、「矢野さん、あんたのところの本家は賛成らしいぞ」と声を掛けられた。こちらは完全に寝耳に水だ。聞けば、学会の山崎尚見副会長が、池田氏からの伝言として、電話でそう伝えてきたというのである。

 私は山崎副会長に怒り心頭で詰め寄った。彼は、

 「その通り、P(プレジデントの略。池田氏のこと)の意向だ」

と答えた。この時は、つくづく嫌気がさした。

 政権に貸しを作っておこうという考えなのだろうが、党の頭越しにそんなことをされては、公明党はピエロだ。

 ところが秋谷氏は国税問題で再三、私のところに頼みに来る。とうとう地元の関西に帰っている時にまで、押しかけてきた。

 「この件は矢野にやらせろ、というのが池田先生のご意向なんだ」

 頭に来たが、私は最後のご奉仕のつもりで渋々引き受けた。学会顧問弁護士の山崎氏はこの頃既に造反していたため、後任の八尋頼雄氏とともにこの件に当たった。

 池田氏や秋谷氏が国税対策を私に頼ったのも、故ないことではない。公明党の書記長を20年も務めた私は、現場の官僚と接する機会も多かった。たとえば、当時の大蔵省から予算委員会の日程の件で相談が持ちかけられる。公明党がキャスティングボートを握る場面も多かったから、我々がどう動くかで予算成立の日程も変わってくる。そこで日程調整において、便宜を図ったこともある。

 キャリア官僚の出世は早い。20年も経てば、現場調整で駆けずり回っていた者が局長級にまでなっている。

 「あんたも偉くなったモンやなあ。俺だけ万年書記長や」

などと笑い合っていたものである。

 そんなわけで、大蔵省の幹部級、国税庁のトップクラスにも旧知の人物がたくさんいた。「何とか手心を」とお願いしにいくのに、確かに私以上の適任者はいなかった。

 

 

【譲れない6項目】

 八尋氏からは、どうしても学会側が譲れない方針として、次のような主旨の6項目をペーパーにしたものが渡された。

1.宗教法人の公益会計部門には絶対立ち入らせないこと

2.会員の財務における大口献金者のリストを要求してくるだろうが、絶対に撥ねつけること

3.財産目録を提出しないこと

4.池田氏の秘書集団がいる第一庶務には調査を入れさせないこと

5.池田氏の「公私混同問題」についても絶対立ち入らせないこと

6.学会所有の美術品には触れさせないこと

 たとえば2では、献金者の名前や献金額が分かれば、反面調査といって実際に献金者に献金額を問うことができる。万が一、実際の献金額とリストの金額が違えば、ではその差額はどこに消えたのかという話になる。また4では、第一庶務は池田氏の日常生活に至るまでお世話をするため、そこを触られれば即座に池田氏個人の金銭問題に発展する恐れがある。どれも学会にとって、突かれればいくらでもボロが出そうな問題ばかりだった。

 宗教法人は信仰に直結する事業については、基本的に非課税となっている。こちらが「公益会計」である。その他の収益のある事業が「収益会計」で、学会においては聖教新聞などがこれに当たる。

 「収益会計」も布教に関わるなどの名目で、一般よりも低い税率に抑えられているものが多いが、これすらも学会においては区別が曖昧になっていた。本来「収益」に勘定すべきものも「公益」のほうに繰り入れてみたり、とにかくいい加減なのだった。

 中でも甚だしいのが、池田氏関連である。個人の資産は当然、法人会計とは切り離して勘定すべきだが、ごちゃ混ぜのまま放置されているものが多かった。例えば学会では、世界中から池田氏のお眼鏡にかなった美術品を、学会の会計で購入してきた。池田氏の個人的趣味ならば、購入は池田氏個人の財布で賄うべきだし、美術品は個人の資産として計上されるべきものだろう。当然、国税の調査官たちは財産目録と美術品の現物をチェックしたいと求めてきた。こちらは先の6項目に従い、「美術品は、会員から贈られた素人絵画と一緒くたになっていて仕分けに時間がかかる」「財産目録は目下、鋭意整備中です」などと必死に言い逃れた。

 さすがに国税の料調は精鋭揃いだった。的確に問題を指摘し、こちらが死守しようとしていた6項目に踏み込んできた。

 

 

【使われない池田専用施設】

 実は学会資産の非課税問題については、以前にも取り上げられたことがあった。

 1977年、民社党の春日一幸氏(当時委員長)や塚本三郎氏(当時国対委員長)らが、池田氏専用の贅沢施設について国会で問題視したのだ。竹入氏に送られてきた質問主意書は、

 「創価学会が全国に建設している会館や研修道場には池田氏専用の豪華施設があるが、とても宗教の用に供しているとは思われない。課税対象とすべきではないか」

となかなか手厳しいものだった。

 全国の多くの会館にはかつて、池田氏専用の「会長室」が設けられていた。極めて小規模な会館内の、たとえ8畳程度の狭いものであっても、きっちり床の間もあり押し入れもあり、と立派な仕立てで部屋が一室、用意される。そこだけ総檜造りなどで、他の部屋よりずっと念入りに設計される。そんな地方の会館に氏が実際に宿泊するはずもない。それどころか来ることもまずなかろう、ということは問題ではないのだ。池田氏を絶対化する象徴として、専用施設が必要だった。

 小さな会館ですらこうである。箱根や軽井沢、霧島といった日本各地の景勝地に設けられた研修道場には、池田氏専用の家屋が一棟、必ず用意されていた。研修道場にはおおぜいが一堂に会合できる、何百畳敷という広大な建物が建てられるが、それとは全くの別棟である。たいていが敷地の中で最も眺めのいい場所に作られる。

 部屋割りは十何畳敷の寝室、控えの間、豪華な風呂とトイレ、厨房に、周辺のお世話をする第一庶務の女性職員用の部屋、といった感じだ。前出の山崎氏の著書『「月刊ペン」事件 埋もれていた真実』(第三書館刊)によるとこうした施設を作る際、建設費用は「仏間に3分の1、一般施設に3分の1、池田氏専用施設に3分の1」の割合で配分され、調度品に関しては、「1対3の割合で専用施設に金が注ぎ込まれ」ていたという。

 年に1回使うかどうかという施設に惜し気もなく金を投入するこの感覚。常人には想像もつかないに違いない。ともあれ民社党はここを突いてきたわけだ。

 結局、この時は、こうした施設に慌てて牧口初代会長や戸田2代会長の遺品などの記念品を運び込み、

 「池田氏専用施設ではない。これは記念館だ。資料館だ」

という説明で切り抜けた。会館の部屋も「恩師記念室」「資料室」へと名前を変えた。要は国税対策である。せっかく造った庭園をつぶし、置き石は捨てられ、露天風呂や池は埋め立てられた。その場しのぎもいいところだ。

 かくして期せずして、各地に牧口先生や戸田先生、池田氏ゆかりの記念品を陳列する施設が並び立つことになった。そうした経緯のあるものを含めて、今や全国の創価学会所有の施設に、どれだけ「池田」の名を冠したものがあることだろう。「池田文化会館」「池田講堂」「池田記念墓地公園」……

 自分が行こうが行くまいが関係ない。とにかくそうした建物や部屋を作らせ、「池田」の名をつけさせる。常人にはちょっとついていけない、執念にも近い自己顕示欲である。また全国の方面幹部が、この意を汲んで現実化する。かくして一般人には冗談としか思えない滑稽な光景が展開されるのだ。

 

 

【残された宿題

 話を1990年、91年の国税調査に戻そう。この問題は特に、今振り返っても慚愧の念に堪えない。いくら池田氏や学会を守るためとはいえ、自分の人脈を頼りに、税金逃れのための裏工作に携わったと言われても仕方がないと思っている。それを覚悟で、ここに記すのは、この国税問題は創価学会にとって決して過去のものではないからだ。

 秋谷氏からの要求を呑む形で、私は早速、国税庁の局長クラスや東京国税局長のところなどに顔を出した。先方は、

 「おや、矢野先生のお出ましですか」

などとトボケている。

 「実は学会に国税調査が入ろうとしている。私も学会から泣きつかれて困っている」

と暗に手心を要求すると、

 「しかし既に現場が動き出してますからねえ。今さら私らから何か言っても、どうしようもありませんよ」

 「いや、だから……そこを何とか」

 向こうだって簡単に、ハイそうですかと呑んではくれない。当然だし、こちらも覚悟の上である。腹を据えて交渉にかかった。すでに実地調査に入られた学会の現場からは、

 「ここまで入り込まれた。何とかしてくれ」

と悲鳴が上がる。学会側の担当である八尋氏からも連日、交渉の首尾を尋ねる連絡があり、同時に先の6項目はどうしても譲れないなどと念押しもされる。結局何度、国税に通ったことだろうか。とにかくあれはダメ、ここもダメ、だけではすまない。こちらからも何かを差し出す必要があった。

 色々と話し合った結果、池田氏個人の問題とは一番関係のなさそうな項目として、学会の墓苑会計を差し出すことにした。学会が全国各地に有す墓苑の会計は、当時ほとんど非課税として処理していた。お墓は信仰上のものだから当然、という感覚である。

 ところが学会にとってこの墓苑経営くらい旨みのある事業もない。学会の墓苑の墓石デザインは同じである。洋型と言われる簡略で画一的な墓石が何万基も並んでいる様は、一種異様な光景と言うしかない。しかもまとめて購入して建てるので、墓石も割安だ。

 それを、場所によって異なるが、高いところでは百万円近い値段で会員に買わせる。といって、学会が無理強いする必要はない。池田氏が提唱した、お墓はいくつも持ったほうが信仰につながるという教えに基づき、学会員が進んでせっせとお金を払って、墓を買ってくれる。私もいくつ墓を買ったことか。なかには遠方すぎて1度もお参りに行ったことがないところさえある。

 これはいくら何でも収益事業だろうという話になった。こちらとしても課税はしかたない、という感覚だった。

 問題は、ではどこまで課税するかである。地面の上の墓石については売上に税金をかけられてもしかたがあるまい。だが、地中に埋まったカロート(納骨室)の売上まで課税の対象になるのか。このあたりで、国税と激しくやり合った。

 実はやり合ったのは、時間稼ぎの意味もあった。最終的にはカロートの売上まで課税されてもしかたがない。だがすんなり呑んでしまったのでは、課税対象がさらに広がる恐れがある。墓苑だけでなく、他にも税金をかけられる事業はないか、と検討する時間を国税当局に与えるわけにはいかない。だからこの程度のところでギリギリやり合って、他まで累の及ぶ事態を防ごうとしたのである。

 結局、墓苑事業のうちカロートの売上まで含めた墓石販売を収益事業と認めることで、双方が妥協した。1990年3月までの過去3年間が対象とされ、申告漏れは約24億円。学会は6億円を超える追徴課税を支払うことになった。

 八尋氏から示された「絶対触らせない6項目」の核心部分は、概ね守り抜いた。国税としては問題点を指摘したうえで「今回のところは見逃すが、次の調査までにきっちり資料を揃えておくように」と宿題を残していったようなものだろう。以来、現在まで学会に税務調査は入っていない。

 次に再び学会に国税が調査に入るのがいつなのかは分からないが、その時、宿題は片付いているのだろうか。

 

 

【「政権を取らないとダメなんだ」】

 前述のように1993年、私は政界を引退した。その頃には、池田氏の存在は徐々に私にとって、距離のあるものになっていった。

 組織が大きくなり、一対一の関係が築けなくなったことも大きな原因だろうが、会員たちにとっても、池田氏はただ仰ぎ見る存在になってしまっている。もちろん、池田氏も自らの権力を維持するために虚飾し、雲の上の存在と位置づけるために、様々なシステムを学会内部に築きあげてきた。

 考えてみればあの「国税問題」の時も池田氏と直接会話を交わしたことはない。秋谷氏を介して意向を伝えられただけだ。いまでは、公明党首脳ですら、池田氏に会うのは年に1~2回あるかないかだと聞いている。

 だから、池田氏がいま何を考えているのかは、池田氏本人以外わからないというのが本当のところだろう。ただ言えることは、池田創価学会と公明党は政権の座に執着しつづけるだろうということだ。

 その理由は2つある。

 1つは国税対策である。あの2度にわたる税務調査で、それがどれだけ恐ろしいか、学会は身を以て味わった。ある時、池田氏は私に語ったことがある。

 「やっぱり政権を取らないとダメなんだ」

 そして、うまいこと閣僚ポストが転がり込んできた時はついつい浮かれて「デエジン発言」になった。

 もう1つが証人喚問問題だ。今、国会の証人喚問は実質的に多数決のルールが取られている。かつて私が慣例化した「全党一致」は骨抜きにされてしまっている。だから、池田氏の喚問を確実に阻止するには常に与党にいて、国会で多数派に属していなければならないのだ。

 政界が大分水嶺に向かう中、創価学会・公明党は今後どのような動きを示すだろう。

 創価学会と公明党にとって池田氏は、余人をもって替え難い指導者だ。内部的に全能でありすぎて、首脳幹部たちは自らの頭で考えて判断することを放棄してしまったかのようである。確かに判断を他に委ねることは楽なことかもしれない。盲目的に帰依することは幸福なのかもしれない。しかし、唯一の頭脳が反社会的色彩で染められているとしたら、被害を受けるのは学会員だけではない。

 その池田氏もすでに81歳である。もし、今後、私が彼と言葉を交わす機会があれば、「池田先生、もう十分やりたいことはやられたでしょう。そろそろ大風呂敷の手仕舞いをなさったらどうでしょうか」と申し上げたいと思っている。

 

 

戸田城聖の破綻と池田大作  だが弱小出版社の雑誌編集は楽ではなかった。 「日本小学館」は昭和二十四年には六千万円の負債をかかえて倒産し、雑誌は廃刊となった。会社はそっくり東京建設信用組合に移行し、池田大作は、そこで働くことになる。この会社もインフレのあおりをうけて、悪戦苦闘の末昭和二十五年八月二十二日、当時の金額で七千万円の負債をのこして倒産し、戸田城聖は債権者に追われる羽目となった。今日でいえば、第二地銀クラスの金融機関の破たんになろうか。

 当時、小平芳平、神尾武雄、和泉覚ら、創価学会の中心幹部が社員でいたが、皆お人よしで無能なため、何の役にも立たない。その中で、若いながら世故にたけ、ものおじしない池田大作が一人で、戸田城聖のかわりに借金取りの矢おもてに立った。また、資金ぐりのため、有力な会員をまわって金集めに奔走した。  「昭和二十五年はすごかった。戸田先生の奥さんは薬売りをしようとする。借金取りは連日連夜、悪口を言った。私一人で頑張った。横領罪で訴えられそうになった。二十五年の十二月には駄目かも知れぬと思った。………」(社長会記録昭和四十三年四月二十九日)  「八月の業務停止からまもなく給料は遅配から半額払いになり、やがて無配となっていった。一人去り二人去りして残った社員は、私のほか、二、三人になってしまったのである。私自身、ワイシャツ姿で晩秋を過ごさねばならなかった」(池田大作著「私の履歴書」日本経済新聞連載)  総勢十人に満たない小さな会社の新参の末席社員であった池田大作は、入社後一年余りで倒産の修羅場の中に投げ込まれ、気がついたら戸田城聖と二人きりで借金取りと立ち向かう羽目になっていた。しかも業種は、インフレの燃えさえるなかでの無尽に毛のはえたような街金融であった。

 百鬼夜行の欲の皮を突っぱらせた金の亡者達が血まなこになって争う世界で、池田大作は、倒産、整理という衝撃的な作業からスタートして金融業の裏道を実地にたたき込まれたのである。金をめぐって情け容赦なく野獣のように喰い合う世界で、池田大作はその独特の金銭感覚をやしなったのである。

 昭和四十九年七月頃、池田大作は私をはじめ二、三人の側近とともに「今日は飲もう」と珍しく水割りを半分ほど飲んだ。そして、雑談の中で  「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」 と言った。戸田城聖は、人のつかい方はきちんとしたところがあり、創価学会の後継者と目していた石田次男氏(元参議院議員、公明党石田幸四郎委員長の実兄)には、一切自分の事業にはタッチさせなかった。反面池田大作を〝汚い〟仕事にこきつかったことは、戸田城聖が、池田大作を「創価学会」の後継者とは考えていなかった証拠ともいえる。  〝金融業〟それ自体は、れっきとした職業であり、必ずしも〝汚い〟仕事ではない。しかも、自分はそのおかげで、会長になるキッカケをつかめたのだ。にもかかわらず池田大作が〝汚い仕事〟と自己嫌悪をもって語るのは人には言えない、想像を絶する仕事であったことを問わず語りに白状したようなものである。実際、池田大作の金銭的感覚は、人並みはずれて意地汚くずるい。見えすいたウソを平気でつ く。若い頃身についたその下品さは、終生ぬぐいきれないと見える。

 

 

この、〝葉っぱをお札に〟の術は、倒産した東京建設信用組合について、大蔵省から組合解散の同意について内示を受け、事態収拾のメドが立った頃から実行に移される。  「事業だけを再建しようとしてもうまく行かない。そうだ。創価学会の会員を増やし、これと車の両輪の形で事業をやれば良いのだ」  戸田城聖は、改めてその思想の原点に立ちかえった。  戸田城聖は、東京建設信用組合の整理を進める一方で、昭和二十五年秋には秘かに別会社「大蔵商事」を設立し、やはり金融業を開始していた。最初の代表役員は、矢島周平氏。牧口門下生で、日本正学館では「ルビー」の編集長を、そして創価学会の理論誌「大白蓮華」初代編集長をつとめ、一時、戸田城聖にかわって創価学会理事長をつとめた。後に戸田城聖とたもとを分かち、出家して日蓮正宗僧侶となり、埼玉県大宮市で日蓮正宗寺院住職となった。二代目代表が和泉覚氏。現在、牧口門下生の数少ない生き残りとして、最古参の副会長であり、公明党参議院議員にもなった。  だが、彼らはただの名前だけで、会社の実権は、専務理事兼金庫番の森重紀美子がにぎり、そしてその背後で顧問であった戸田城聖がにぎっていた。

 森重紀美子は、柏原ヤス(元公明党参議院議員)とともに、戸田城聖の公然たる愛人であった。この大蔵商事で、池田大作は、当初最末席の営業部員兼雑用係であった。  戸田城聖と森重紀美子が愛人関係となったのは、戦前のことであり、二人の関係は永い。間に子供が一人(光生氏)いた。  当時、三十代はじめで、しっかり者の彼女に、戸田城聖は全幅の信頼を置き、会社の実権をゆだねた。海千山千の戸田城聖は、古い信仰仲間であった矢嶋氏や和泉氏さえ信用せず、肉体関係でつながり、子まで作った紀美子だけを信用したのである。この習性は、後に〝白木屋事件〟〝ホテルニュージャパン〟などで知られた横井英樹氏に似ている(横井氏は、暴力団の安藤昇氏らに襲撃された際、男のボデーガードが机の下にもぐり込んで役に立たず、妾の一人だった女性秘書だけが敢然と横井氏を身をもってかばったことから、以後、関係した女性達をボデーガードとして連れ歩いた)。  池田大作は、この森重紀美子に全力をあげてとり入った。十才余りしか年の違わない彼女を「おかあさん」と呼んで甘え、子犬のように仕えた。彼女の背後に戸田城聖がいることを見越してのスリ寄りである。彼女に信用されることは、即戸田城聖に信用されることにつながる。ゴマをすられて、森重紀美子も悪い気はしない。池田大作に特別に目をかけた。  金融業のような仕事は、女では出来ない部分が多々ある。それを任せられる男として、森重紀美子は次第に池田大作をたよりにし、戸田城聖に推挙した。

 

大蔵商事と池田大作  大蔵商事は、東京都新宿区市ヶ谷田町の小さなビル(今は、ソニーミュージックエンターテイメントの本社ビルが建っている)の二階の六坪ばかりの部屋に本社を置いた。ほとんど同じ頃、聖教新聞編集室を同居させている。更に、昭和二十七年四月には、創価学会本部市ヶ谷分室(戸田城聖の専用事務所)を隣室に設けた。  創価学会では、「会長(今では池田大作)のいるところが常に本部」という仕組みになっている。そのために池田大作は、庶務室、聖教記者をはじめ大勢のスタッフをつれて歩くのである。この伝統は戸田城聖の頃からのものであり、従って、戸田城聖の専用事務所、大蔵商事、そして聖教新聞社が集中した市ヶ谷の小さなビルこそ、戸田時代の創価学会の中枢基地であった。  大蔵商事には、池田大作の他に若い社員として星生務(後に学会本部経理局長、総務)が経理を担当していた。

 大蔵商事は、発足して間もなく、池田大作が牛耳るところとなる。昭和二十五年十一月には、はや営業部長に昇進し、翌二十六年には取締役に就任する。そして、後に彼の忠実な金庫番となった中西治雄が、池田大作の直属の部下となった。池田大作は、星生務と中西治雄を両腕として大蔵商事を完全に支配する。  昭和三十年代後半から四十年代、創価学会の内閣官房長官に当たる〝席務室長〟などを歴任、「陰の会長」といわれるほどの権勢を握った中西治雄は、池田大作と二人三脚で大蔵商事の営業を仕切った。  後に、池田大作は創価学会会長就任後、二人をつれて創価学会事務局にのりこむ。星生務は学会本部会計を、中西治雄は聖教新聞等収益事業の会計と池田家の財産と裏金の管理を担当して、会の金の流れをまず支配したのである。

 昭和四十五年、私が創価学会本部に入って行なった改革の中には、二人の財務担当者が池田大作の指示で行なって来たデタラメな資金操作を整理することもふくまれた。当然、二人と衝突することも多かったが、時流が幸いして、システムは、私の主張する方向へと動き、私が育てた若い優秀な実務家が、創価学会の〝表〟の経理を仕切るようになった。しかし、地下の水脈を流れる〝裏金〟〝池田家及び池田大作の個人資産〟に関しては、中西治雄は、頑として支配権を手放さなかった。  それでも、業者からリベート受領の現場や、外郭会社の交際費の使い方、池田大作への贈与品の処分等を通じて、その一部はかい間見えていた。

 一方、学会本部、公明党関係の裏金ルートは、私が北条浩副会長のそばにいたおかげでそのほとんど全容を知ることができた。  中西治雄は、その後、私や原島嵩 氏の造反(昭和五十五年頃)と時を同じくして池田大作との間が冷え、やがて一線から自ら身を引いた。その原因は、池田大作の命令で勝手に板本尊をつくらされた「ニセ本尊模刻事件」の実行者としての自分にいやけがさしたためと見られる。余談であるが、中西治雄が八王子の土地取引をめぐって業者から受取ったリベートを、池田大作が専用室にしまっていたところ、昭和五十二年、国会での追及をおそれて、全国一斉に専用室をとりこわした際、金庫ごと聖教新聞社地下倉庫に移した。これを、中西治雄が引退した後、何も知らない職員が〝粗大ゴミ〟として捨ててしまった。  

 平成元年六月三十日、横浜のゴミ捨て場から一億七千万円入りの金庫が捨てられているのが発見された事件のこれが真相である。  私は、写真で見た風呂敷のもように見覚えがあり、リベートを贈った業者に確認したところ、「金額も、風呂敷も、あの時のものだ」との回答を得ている。  この事件は、中西治雄が、外郭会社の利益をクスねて着服したものを金庫に入れたまま忘れていた、ということで、除名処分になってドロをかぶってフタをした。  その後、今日まで、中西治雄は沈黙をまもり、その代価として生活は保障されゴルフ三昧の優雅な生活を送っている。  星生務は、正本堂募金の処理をめぐってミソをつけたのがケチのつきはじめで、次第に会内での権勢を失い、今ではほとんど目立たない。

 

大蔵商事のしりぬぐいに正本堂御供養金  さて、大蔵商事の営業はどのようなものであったか。  話は少し先にとぶが、私は、昭和四十六年頃、大蔵商事の後身である「大同商事」の負債整理を、中西治雄らと共に行なった。 池田大作は、創価学会三代会長に就任した後、和泉覚、星生務、中西治雄らを引きつれて創価学会本部に乗り込んだ。そして、大蔵商事とは絶縁する。〝二度と汚い仕事などするものか〟  残された大蔵商事は、森重紀美子と、その甥である森重章が経営するところとなり、創価学会とは切り離される。だが、昭和四十年代の初めには、脱税で国税局の手入れを受け、ダメージを受けたばかりか、経営の基盤であった創価学会から切られたため、次第に営業不振に陥り、多大な負債をかかえて、森重章は、池田大作に泣きついた。それは、  「大同商事(大蔵商事)が倒産したら、古くからの債権者(学会員もかなり残ったいた)がさわぎ、池田先生の名前も出て創価学会にも迷惑がかかるでしょう」 という、〝どうなっても知りませんよ〟といわんばかりの投げ出し方であった。  池田大作の指示で、森重紀美子に連絡が行ったが、  

「まことにすみません。御迷惑をおかけしますが、よろしく」 と逆にゲタをあずけられる始末。  

森重紀美子の一人息子光生は、「和光商事」という会社の社長であったが、

これは、聖教新聞社の用紙を一手に扱う会社で、

すべての製紙会社がこの会社をとおして創価学会関係の紙を納入する〝利権会社〟であり、

莫大な利益を保証されていた。これは、池田大作が、大蔵商事時代、自分をひいきしてくれ、今日の地位をきずかせてくれた森重紀美子に対する感謝のプレゼントであった。  戸田城聖の本妻、幾子に対しては、死後、ただちにトラック二台で邸に乗り込み、戸田城聖の遺品と称して目ぼしいものをすべて引き上げる、という非情な仕打ちをした池田大作が、森重紀美子には、惜しげもなく創価学会の利益の分け前を終生与えつづけた。この〝アメ〟と〝ムチ〟のつかい分けのきびしさは、池田大作の人心掌らん術の特徴である。

 池田大作は、  

「これだけ利益を分けてやっているのだから、大同商事のあと始末くらい自分でしたらどうか」

と言いたかったのだが、あにはからんや、森重光生は、〝銀座の帝王〟と呼ばれた遊とう児で、

あらんかぎりの金を、女遊びにつぎ込み、和光商事には一文のたくわえもなかった。  

あきれ、怒った池田大作ではあったが、背に腹はかえられず、私達に善処を命じる他なかった。  

私は、森重章らに会って、会社の実情調査を行なった。  

森重章は、自らの放漫経営はたなに上げて、  

「私は、池田先生らがおいしいところを全部吸って行なったカスの会社を引き受けさせられたんです。

当時からの貸金のコゲ付きもまだ残っているし、それに、学会は、その後全く面倒を見てくれないばかりか、

有力な出資者に手を引くようにしむけたんです。」 と、うらみつらみを述べ立てた。  

創価学会の発展とタイアップして伸び、維持されて来た会社だけに、

創価学会と切り離されたことが致命傷になったことは当然である。

だが、森重章らは、それにもかかわらず放漫経営と浪費を続けた。  

「母が、池田大作のめんどうを見、引きたてたおかげで池田大作は会長になれた。

学会が森重一族の面倒を見るのは当たり前だ」 という態度を露骨に見せながら、

森重章は大蔵商事以来の由来と経営の実態を私に話した。

 大同商事は、信じられないほどの巨額の負債をかかえ、その債権者の多くは学会員であった。

また、池田大作や中西治雄が開拓した出資先も多くのこっていた。  

しょせん、創価学会に寄生していたにすぎない会社が、

寄生主である創価学会から切り離されて生きていけるわけがないのである。

森重一族は、大同商事を投げ出し、創価学会にゲタを預ける気でいたから、どうしようもない。  

私は、部下の弁護士とともに、大同商事の整理を行ない、再生させる作業にとりかかった。

社名を「日章」に変更し、社長や役員も、創価学会青年部にとりかえた。監査役には、私の部下の弁護士が入った。  

肝心の〝負債の穴うめ〟は、中西治雄の仕事であった。

 中西治雄は、その財源をまず「正本堂御供養金」にもとめ、続いて学会本部に求め、更に日蓮正宗に求めた。

一、正本堂、及び同建立事業にともなう末寺建設の際の、〝災害保険〟をすべて「日章」の扱いとし、

手数料収入あげる。

二、創価学会関係の施設の災害保険を一手に扱わせ、手数料収入をあげる。  

三、正本堂建立にともなう記念品やグッズ、本山売店での販売品、創価学会の使う物品の納入を「日章」経由で行なう。

 四、会員用の物品をとり扱わせる。

 こうした方法で、中西治雄氏は、「日章」となった大蔵商事の赤字の穴うめをした。

その金は、先述のとおり、正本堂募金(三百五十五億円)日蓮正宗、そして創価学会から支出され、

或いは会員のフトコロから出た。

 結局のところすべて学会員の負担で行なったのである。  

これらは、すべて、池田大作の決裁と指示で行なわれた。

 社長会記録には次のような記述がある。  

「(念珠)一手に買い取り、卸せば良い。もう内の人達が使うもので、外郭に儲けさせる事はない。

線香もローソクも東洋精光でやんなさい。

正本堂のみやげものも作れ、とにかく作るものは全部東洋にやらせる」(第24回)

「一連50円の儲けとしても、10年間に1、000万本としても5億だ。年間5、000万だ、大きいよ」(第29回)  

「北海道 絵はがき6万売った。うまいことをした。来年は栞を5枚一組で50円位で売る」(第47回)  

「杉本君(栄光建設=注) の方はどうだ。東海研修所、小さいがやんなさい」(第48回)

 「白糸の近所、5、000坪のものを建てる、それも栄光でやれ」(同)

 「(本山バザール)1、900万売り上げるか、それはいい。しっかりやれ」(第51回)

 

 金に関することは、こうした細かいことまで、池田大作は自ら指図していたことを証明する記録である。  

正本堂が落成した昭和四十七年頃学会員であった人達は、

〝記念〟にもらったり本山売店で買ったりした〝金盃〟(もちろんメッキである)などのグッズを

覚えている人も多いだろう。

その代金の何割かは、大蔵商事の赤字の穴うめに使われたのである。  

現在も、「日章」は、東京都千代田区富士見二ノ三のビルの二階に本社がある。

社長の佐藤武一は、創価学会の古参幹部である。

取締役には、森重紀美子の一人息子、光生の妻裕子の名がまだ残っている。

これは、光生の死後、その遺族を池田大作が面倒を見ているのである。

監査役には福島啓充弁護士がずっと務めている。

法学委員会出身で、数年検事をつとめたあと弁護士になり「日章」の整理を担当した。

現在創価学会副会長であり、創価学会の訴訟事件の多くの主任弁護士を務める。

 創価学会系総合雑誌「潮」には、次のような広告を出している。  

 平成七年十二月四日、参議院宗教法人等に関する特別委員会に秋谷栄之助が参考人として呼ばれたとき、

共産党の橋本敦議員は、創価学会施設に関する損害保険契約をエサに保険会社に対し、

公明党への選挙協力を強要していることについて、  

「明らかに公選法違反の利益誘導罪が、特定の創価学会の巨大な財産の保険契約との関係、

その特別の利害関係を通じての誘導行為に当たるということで、

これは公選法違反の利益誘導罪に当たるということは、私は間違いない事案だと確信して話をしているんですよ。

それでもう一つ、秋谷さん、重大な問題は、この問題の基礎になっている境内建物、礼拝所、

その他創価学会の資産は、これは非課税の資金で蓄積された大事な資産でしょう。

そして、礼拝所は固定資産税非課税の建物でしょう。二重に非課税の建物が、

創価学会のこの利益誘導によって特定政党支持活動の公選法違反の犯罪のまさにその母体になっていることは、

これは社会的に重大な問題じゃありませんか。

こういう問題について率直にあなたは反省されないのかどうか。

まさに創価学会の責任者として徹底的に調べなさいよ。

徹底的に調べて国会に報告する、それぐらいのことはしなさいよ。どうですか。」と追及した。(議事録引用)  

これらの保険契約も、日章をとおして行なわれている。

 平成六年十一月二十五日号「週刊ポスト」で、

「長期総合保険をめぐって学会及び聖教新聞社と東京海上の間で交わされている

十億二千九百六十二万六千九十円の保険の不正契約の一件」がスクープされているが、

同契約の取扱代理店はすべて「日章」である。

「日章」は、二千五百万円の手数料をかせいでいる。

(野田常雄氏著「池田大作の金脈」より)  

大蔵商事、大同商事、日章と、社名を転々と変えながら、池田大作の「葉っぱをお札にかえる工房」である会社は、

ひっそりと創価学会への寄生をつづけているのである。

それは、表立って「関連企業」と名乗ることを許されず、日陰でつながっていて、

あたかも、かつての主宰者であった戸田城聖の愛人、森重紀美子さんの立場を象徴するようでもある。

 池田大作は、後に、熱海の東海研修道場の庭園で、一ぱしの俳人気取りで私に言った。  

「どうだ。萩の花は風情があるだろう。どこか、さみしげで、萩は、二号さんの花だな。私は萩が好きなんだよ。」  

好きなのも当然だろう。  

池田大作は、戸田城聖の二号さんに「お母さんお母さん」とオベッカをつかい、引立ててもらったおかげで、

創価学会会長への足場を固めることが出来たのだから。  

池田大作が、後日  「戸田先生は、何で私に金貸しのような汚い仕事をさせたのか……

と怨みつづけるほど汚い仕事をつづけた舞台の大蔵商事今日の「日章」を、

池田大作はしかし切りすてることはできない。日陰で、養い続けなくてはならない。  

池田大作にとって、創価学会が本妻なら、大蔵商事日章は、正に二号にあたるといえよう。  

要するに、創価学会からうまい汁を吸う会社を切りはなしたが、結局、元のように寄生状態にもどしただけである。

 

池田営業部長、色と欲の二筋道  

大蔵商事のスタートの話から、いきなり今日の結論の話へと飛んでしまったが、

それは昭和三十四年に入信し、昭和四十五年に創価学会本部中枢に入った私が、

なぜこの会社とかかわりを持ったかということを説明するためである。

本論は、あくまで、池田大作が大蔵商事で何をやったかである。

 「要するに、金を持っていそうな学会員に目をつけて金を借り、それを貸しつけて利ざやをかせぐ仕事でした」  

「池田先生は、金を借りてくるのが実にうまかった。」  森重章は、私に語った。  

裕福そうな学会員、或いは、学会員の紹介で資産家のところに、池田大作と中西治雄がしげしげと通い、

「月三分(年利三六%)の利息を払います。どこに預けるよりも有利ですよ」 と言って言葉巧みに出資を勧誘した。

 その頃の二人は、二十二、三才。

さっぱりと刈り上げたヘアスタイル、地味だがキチンとした身なりで、誠実さを演出した。  

東京安全信用組合の時代は、世間のだれも金を出してくれなかったが、〝創価学会〟をバックに、  

「実は、戸田先生の事業です」 といえば、話は違った。  

創価学会では、戸田城聖の権威は絶対的である。

しかも、創価学会の背後には、富士山麓に七百年の歴史をほこる日蓮正宗大石寺の存在がある。

 池田大作には、さらに、奥の手があった。  森重章はいった。  

「役職や議員バッチの効き目は抜群でしたよ。私には、そんな権限はない。」  

気前良く出資してくれた学会員は、後に戸田城聖に進言して無条件で創価学会の幹部に登用し、

そして市会議員、町会議員等に推薦するのである。  

軍隊組織をまねた創価学会において、幹部は絶大な権勢を振るう。

特に〝大幹部〟といわれる、支部長以上、部隊長クラス、それと同格の監事クラスになると、

数百、数千の会員の上に君臨する。

一つ階級が違えば、下の者は上の者に絶対服従させられる。

幹部達にとって、会合のとき壇上の〝ヒナ壇〟に上れるか否か、

序列はどうかということは、最大の関心事の一つである。  

会員の信仰心と日蓮正宗の信徒団体としての創価学会への信用、

そして役職や議員の肩書きによる欲望の刺激の効き目は池田大作自身驚くほどであったらしい。

 〝葉っぱをお金にする〟の〝葉っぱ〟とは、他ならぬ〝宗教〟〝会員の信仰心〟のことであったわけである。  

池田大作の営業に協力したおかげで本人や息子らが創価学会で出世したり地方議員になったりした例は、

神奈川県のY氏一家をはじめ数え切れないほどいた。  

とりわけ顕著だったのが、埼玉県大宮市の松島勇氏一家であった。  

国鉄大宮機関区に勤めていた松島氏は、池田大作の勧誘に応じて出資に応じたばかりか、

機関区の仲間や同僚達に働きかけてその退職金や 共済金までも出資させることに成功した。

大蔵商事にとってその利益は、一時は決定的といえるほどで、池田大作は、

この仕事の成功で、大蔵商事の中心者にのし上がったのである。  

松島氏は、やがて支部長、理事、副理事長と出世し、創価学会の推薦で大宮市の市議会議員に出馬、当選した。  

松島氏は、組織のオルガナイザーとしては最低で、いつもトラブルをおこしており、

その収拾に、北条浩ら最高幹部は手を焼いたが、松島氏がどんなにヘマをやろうと、

また不公平、不正を働こうと、更迭されることはなかった。池田大作が、更迭を許さなかったのである。

 池田大作は、中西治雄と二人で、そしていつの間にか単身で、仕事にかこつけて松島家に足しげく通うようになる。  松島家には、当時の創価学会内で有名だった才媛が二人居た。姉が郁子さん、妹が通子さんである。

姉は、藤原行正氏(元公明党東京都議会議員、同都議会幹事長、後に池田大作に造反)に嫁ぎ、

妹は、現在、渡部一郎(元公明党代議士)の妻である。  

池田大作は、とりわけ妹の松島通子さんに気があって、

通子さんの方もまんざらではなく、やがて二人は深い仲となった。  

通子さんには、当時青年部長だった辻武寿も執心で、同氏が松島家を訪れ、

通子さんの手を取ってメンメンと口説いていたところを婦人の信者に目撃されている。

 だが、創価学会での役職がはるかに上の辻氏を打倒して池田大作は、恋の勝利者となる。

その勝因は、池田大作の〝金力〟であった。  

この頃、二十三、四才の池田大作の月給は、月二十万円であったという。

当時の総理大臣の月給が十一万円で、国家公務員の初任給が七千六百五十円であった。  

ちなみに、私がそれより十数年後に司法修習生になった時の月給が、特別手当を加算しても二万七千円であった。

それでも人にうらやましがられたし、弁護士になって、月収十万円にこぎつけるのに、二年ばかりかかった。

 現在の価値に換算するとどのくらいになるだろうか。おそらく、五百万円は下らないのではなかろうか。  

さらに、社長会記録(六十九年六月一日)によれば、

「三年かかってかせいだ歩合のお金。私の貰い分が二百万。

今(昭和四十三年~四年頃)の金にすると数千万円になるな。それで先生(戸田氏)の借金を返した」 という。  

池田大作は、この金を、創価学会のこれはという幹部を手なづけるのに使う、

そしてまた、目をつけた女性を落とすためにつかった。

 当時、松島氏宅の三畳間で、池田大作が素っ裸で仁王立ちになり、

通子さんにタオルで身体をふかせていたところを小沢よねさんら二人の婦人会員に見られている。

二人は、この事実を〝月刊ペン〟事件のやりなおし裁判の法廷で証言したが、

創価学会側は通子さんの弟らに偽証させて、  「三畳間など、当時なかった」 と主張し、二人の証言を弾がいした。

裁判所は、なぜか二人の証言を正面をから取り上げずに隈部氏に有罪を宣言した。

 だが、後日、造反した竜年光氏(元創価学会総務、公明党東京都議会議員、都議会副議長)は、  

「私は、当時、松島氏の選挙の応援などで松島家に行っているが、三畳間はたしかにあった」 と証言している。  

また、通子さんの姉、郁子さんの夫、藤原行正氏は、私に、  

「〝月刊ペン事件〟の時、私は学会本部によばれ、秋谷氏(現会長)、

八尋弁護士(現副会長、ルノワール絵画疑惑の中心人物)らから、〝三畳間なかった〟という偽証をたのまれたが、

〝私はわからんし、女房や母は、法廷に出たら何を言うかわからんですよ〟と答えたら、

あきらめて、弟にたのんだ」 と語っている。

 色と欲の二筋道を共に満足させてくれる大宮市の松島家は、池田大作にとって〝極楽〟の地であったに違いない。  

戸田城聖は、愛人の柏原ヤスさんを参議院議員にしたが、

池田大作はこれにならって後日、愛人の通子さんを衆議院議員にしてしまった。  

これも、池田大作流〝アメとムチ〟の論功行賞の典型であり、創価学会私物化の典型である。  

「広宣流布のため」「王仏冥合のため」と言って、必死の選挙運動をさせられた学会員こそ良い面の皮である。

 余談であるが、池田大作は、大蔵商事時代に自分に金をつぎ込んだ者の他に自分に貞操をささげた女性とその一家を、

ことの他手厚く遇している。

彼女や彼らが、池田大作の寵愛を鼻にかけて、やりたい放題をしても、だれも咎めることはできない。

そんなことをしたら、逆に池田大作にあることないこと言いつけられ、

その結果、理事会などの席で立たされて池田大作から目の玉が飛び出るほどドヤされるからである。  

さて、戸田城聖から、金融業の奥の手を直々に指南され、腕ききの営業マンとなった池田大作は、

創価学会員という願ってもないマーケットを与えられ、いかんなくその力を発揮した。  

やがて、聖教新聞にも広告をのせるようになる。  

 

高利貸池田大作〝取り立て〟のすご腕   

〝信仰心〟という〝葉っぱ〟を〝月三分〟という高利でくすぐり、

〝出資金〟という〝お札〟に替えることに成功した大蔵商事は、その金を〝月七分〟以上で貸しつけ、

或いは〝月一割〟という高利で手形割引にまわした。

 現在、年利一%台の預金金利が常識となっている時代には、一般庶民には考えられないような高利の世界である。

だが、終戦直後のインフレ期からようやく抜け出そうという昭和二十五年当時では、

当然といってよい金利であるし、

現在でも、暴力団金融、町金融では、月五分、月八分、といった金利は、むしろ良識的ですらある。

〝トイチ〟(十日で一割)とか、〝カラス銭〟(カラスがカーと鳴いたら一割上るという、

日歩一割〟といった金融もいまだに根強く存在しているのである。  

〝高利〟には、貸倒れに対する危険保障がふくまれる。貸倒れになる確率の高い金融ほど利息が高いのである。

 つまり、大蔵商事の貸付金利は、当時の経済情勢からすれば、リーズナブルなものであったのではないか。

そして、その金利で利益を上げるということは、〝回収の確実性〟が必要である。

貸しつける元金を確保するのも大仕事であるが、貸付けた金の回収は、もっと大仕事である。

だからこそ、弁護士や、取立て屋や、更には暴力団などがそこでシノギをしている。

だが、こうした〝取立て職人〟をつかえば、コストは飛躍的にはね上る。少々の利息など吹きとんでしまう。

 金融の営業マンの腕の見せどころは、まさに「取り立て」にあると言えるのである。  

貸し出すときの調査、法律手続、担保、そして、コゲついた時の対応。  

先述の森重章は、  「それは、池田先生は、群を抜いていましたよ。だれも及びませんでした」 と語った。  

学会員から金を借り入れる時の、ニコヤカで礼儀正しい青年が、取り立てる時は、冷酷非情に徹しなくてはならない。

 よく、  「寝ている病人のフトンをはがして行く」 とか、  

「ナベ、カマまで持って行く」 とかいわれるが、それに似た徹底さがなくては、金融業はやっていけない。  

東京安全信用組合の失敗や教訓として、戸田城聖と池田大作は、貸出先を厳選した。

聖教新聞の広告を見て、倒産間ぎわの学会員が大蔵商事を訪れても初めから相手にされなかっ た。  

「うちは、あなたのような人が利用するところではありませんよ。

利息は高いし、一度借金地獄に入ると抜けられなくなります。悪いことはいわないから、地道に努力しなさい。

あなたのために言うんです」  会員をいたわるような口調でていねいにことわられる。  

ことわられた会員は、  「戸田先生は、商売気抜きでそこまで私のためを思って下さる」 と逆に感激する。  

その一方で、回収の見込みがあり、或いは担保の充分ある相手にはどんどん貸し付ける。

それでもコゲついたら、容赦なく担保を流す。足りなかったら、「寝ているフトンをはがす」こともやる。

 こういう仕事の過程で暴力団など裏の組織との接触も当然生じる。  

終戦直後のインフレ、そして次にデフレ。戦災で打ちのめされていた日本経済に、チャンスが訪れていた。  

昭和二十五年から七年にかけての朝鮮動乱は、我が国に〝特需景気〟をもたらし、経済は一気に立ちなおりはじめた。  「一ヵ月たつと物価が倍になり、お札の値打ちは半分になる」 といった時代。  「ものを作ろうにも金も資材もなく、作っても売れない」 といった時代。  

それをしのいだ後に、  「作りさえすれば売れる」 という時代が到来したのである。  

町工場も企業も、設備投資と増産に走り、そしてそれがもうけにつながった。

強い資金需要と好景気の中で、大蔵商事にとって有利な貸付先に不自由せず、

しかも倒産とか貸倒れといったケースが少ないという経済状況は、願ってもないことであった。

 

 担保品売りさばく〝東洋精光(物産)〟   

 その中で、戸田城聖は、更に抜け目なく手を打った。  

貸出し先の会社を強引に乗っとると、その会社で、大蔵商事が引きあげて来た担保流れの品を、

学会員向けに売りさばくことを始めたのである。  

これが「東洋精光」後の「東洋物産」であり「社長会」のメンバーで記録係の一人をつとめたとされる木村靖氏は、

その社長である。  

もっとも、「東洋精光」のスタート時は、社長は北条浩であった。

後の四代会長であり、池田創価学会の大番頭として常に2として君臨した人物である。

大蔵商事=池田大作、東洋精光=北条浩と、三代、四代会長がいずれも創価学会本体からではなく、

外郭会社から出ていることは、まことに興味深い。  

北条浩は、小田原の北条早雲の子孫で、戦前の侯爵・貴族院議員の家の長男である。

海軍兵学校を卒業後、〝銀河〟のパイロットになり、終戦を迎えた。

戦後は、一介のサラリーマンとして北陸路に勤務したりしていたが、柏原ヤスの折伏で創価学会に入った。  

 戸田城聖は、北条浩の家柄と人格に目をつけ、青年部発足時には、〝第一部隊長〟に任命している。

このとき、池田大作は、竜年光第四部隊長の元で班長だった。

 この北条浩を東洋精光の社長にすえ、池田大作ひきいる大蔵商事と営業成績をきそわせたのである。  

大蔵商事が学会員から集めた金を、高利で貸しつけ、運用する。

その際生じた担保流れ品を中心に、いろいろな物品を東洋精光で、学会員に売ってもうける。  

東洋精光は、学会幹部のセールスマンをつかって、学会員に、ナベ、カマなどの日用品から、

電気製品にいたるまで、何でも売っていた。それも、利幅の大きい、二流、三流のブランド品であった。

 社長会記録によれば、池田大作は、この東洋精光に対して、もっともひんぱんに口出しし、

実質的な社長兼営業部長の観がある。  

私が中西治雄に聞いたところでは、  

「戸田先生は、池田先生と北条さんに、大蔵商事と東洋精光でもうけをきそわせていました。

しかし、いつも池田先生が上でした」という。  

池田大作は、金融業もさることながら、物品販売にも異常な関心を示している。

大蔵商事から手を引いた後は聖教新聞等の出版収入と外郭会社の物品販売が〝池田商法〟の中心になる。

それは、後刻、「社長会記録」の解析によって明らかにする。  

要するに、東洋精光もまた、創価学会と一体不二の関係の企業であり、

池田大作が〝葉っぱ〟即ち〝信仰心〟をお札にかえるための工房であった。

この大蔵商事と東洋精光で、当時、創価学会の首脳は養われていた。

〝金をにぎるものはすべてを支配する〟

 池田大作が田中角栄氏らと同じような支配構造をつくっているのは、この時の経験によるものである。  

聖教新聞などによる出版収入で職員が養えるようになるには、さらに二~三年の月日が必要だったこの時代、

大蔵商事の利益で養われる創価学会首脳が、次第に池田大作に頭が上らなくなるのは、当然のなりゆきであり、

池田大作は、大蔵商事の実績を足場に創価学会の中枢にのし上っていく。  

昭和三十五年(一九六〇)、会長就任直後に出席した神奈川県横浜市鶴見区の幹部会で、

池田大作は次のように述べている。

 「昭和二十五年頃は、毎日のように仕事で鶴見に来ていた。

戸田先生は会長になることを嫌って罰を受け、事業面でも大きな困難にぶつかっていた。

そのとき、ある人から〝戸田なんかに使われるのはやめたまえ〟といわれたが、

彼は現在、半気違いのようになってみすぼらしい姿で生活している。

また〝戸田につかないでおれの商売をやれ〟といった者が、その後はさびしそうに小さな店をもって暮らしている。」  

また、昭和二十七年三月十日付聖教新聞には  「池田大作君、白木かねさん、御結婚お目出とう」

という見出しで、次のような記事が掲載されている。  

「池田大作君と白木かねさんの婚約が発表され、媒酌は飛躍を続ける大支部蒲田の総帥・小泉隆理事(中略)」  

「数年間戸田先生に忠実に御仕えて朝から夜迄縦横に全東京を駆けている姿は実にたくましい。

苦難の二十五年も先生の陰の一人として戦い抜いて来た」  

「同君は常に言う『天下を取ろう』と、大志努力の人池田大作君、御目出とう」

(このかね婦人も、後日「香峯子」と改名している。

太作、かねの夫婦では、大教団のトップとしてはいささかサマにならない。

大作、香峯子と、それぞれ「名前の整形手術」を行なったわけである)。

 この二つの引用にも明らかなように、この当時、創価学会の活動も戸田城聖の事業活動も同一視され、

まさに、後の創価学会と公明党のように、〝一体不二〟の関係にあった。

切りはなしても両方が死に、また一方がつぶれたら他方も倒れるという、シャム双生児の関係である。  

「戸田先生は、五〇〇〇万集めろ、それで証券会社でも何でもやって、学会がどうなっても、

やって行けるようにせよ、とおっしゃった。その時は集められなかった」

(社長会記録昭和四十六年十二月三十一日)  

戸田城聖も池田大作も、〝もうだめかも知れぬ〟と思った昭和二十五年十二月思い出話である。  

だが、幸か不幸か創価学会はだめにならず、その会員の信仰心を利用することで、戸田城聖の事業は立ち直った。  

戸田城聖は、大蔵商事の利益で負債を返済するとともに、創価学会運営のための経費をねん出したのであった。

そして、死亡時には、八千万円の私財をたくわえていたのである。  

「私もすべて『世界一』を目ざして来た戸田先生のもとで、それは真剣に勉強した。

生命をかけての努力をした。その努力があって今の私がある。」(平成六年一月二十 六日、於創価大学)  

池田大作が戸田城聖から生命がけで学んだ〝葉っぱをお札にかえる術〟は、

今も創価学会の中に脈々と生きつづけており、貪欲に増殖して日本列島を呑み込もうとしているのである。  

昭和二十五年頃から、戸田城聖は、行きづまった事業にはダミーを立てて一線から身を引き、

かわって創価学会へと軸足を移した。

以後、創価学会はすさまじい勢いで進撃を開始したが、それにともなって多くのトラブルも生じた。

 

 

池田大作創価学会SGI元3代目会長、現在は本尊捏造等の度重なる破戒活動から日蓮正宗を破門され、

宗教上の存在根拠を持たない破壊カルト化した52年体制以降に新設してしまった怪しい肩書きである名誉会長と

「庶民の王者」を名乗る闇のテロリスト。

存命中に、闇で殺害された人数は無数。そのどれもが完全犯罪となっている点でも、ギネスブック級。

 

「東京都大田区の朝鮮人部落出身。

街金の大倉商事(:日章)営業部長から創価学会SGI3代目会長から初代名誉会長となる。

2009年に死亡したとの公明党国会議員談あり(これとはまた別に、20105月以降公式行事から姿を消す、ともある)

朝鮮名は成太作。

 

7才時に実父から朝鮮語ハングルを教えられるw(半頭特有の反日思想で旧、大日本帝国転覆思想を仕込まれる)

 

驚くべきは、会長就任への野望の為だけに戸田城聖,北条浩,日達と連続殺人するも、

何れもが完全犯罪に!

 

常習強姦犯罪者(つ 信平信子。山本リンダは池田犬猿の肉便所としても知られている)

 

強姦、虚偽、殺人のどれもが、仏教戒律五戒では、波羅夷罪(殺人,強姦等々,泥棒,虚言,飲酒)

として重罪扱いとなり、佛教界佛教徒からの永久追放として、釈尊存命時に定められたもの。

 

選挙違反で逮捕起訴されるもほぼ独り逃れる(大阪事件1957)

この頃に何等かの裏取引がなされたと判断するのが相当である。

他の共犯者らは、もちろん、有罪判決後に、全員、服役。

不思議なヤクザまがいの身代わりの匂いがwwwwww

 

この後、程なく、2代目会長戸田城聖が急死(殺害1958)し、総務部門新設後理事就任、

理事会議事録すらないままに後継者指名文章を偽造し、これを根拠に3代目会長に就くが、

これはクーデターである。

 

オウム真理教事件の黒幕のひとり」

 

 

戸田城聖の不審死の後に2年後池田大作が会長になっていることから暗殺した疑いが強い

 

初代会長・牧口常三郎の教員時代に関連する興味深い記述を「警鐘」という過去の公式サイトで

見つけた。これは、二〇〇三年六月に他界した指定暴力団会津小鉄会長の高山登久太郎の

公式サイトである。高山は本名を姜外秀という在日韓国人で、家族そろって創価学会員だった。

その高山が死の約一か月前に「創価学会を暴く」というブログを書いている。

ブログは暴力団の親分とも思えないおごそかな調子の書き出しから始まっている。

〈人が変わり、それによって社会が変わっていく──

創価学会の前身『創価教育学会』は、昭和5年、後に初代会長となる牧口常三郎の

『創価教育体系』に始まる。教員だった牧口は、教育者、そして日蓮正宗と出会った縁から、

仏法を中心に据えた教育を通して、自分の理想とする平和と人間の価値創造の実現を目指した。

これが『創価教育体系』であり、すべてはここが原点になっている〉

この記述だけで、高山が相当年季の入った創価学会員だったことがわかる。高山のサイトを続けよう。

〈一般的に言われているが、学会の信者たちの中には、危険な職業に就かざるを得ない人や、

社会的に虐げられた人、そしてその家族が多くいる。

社会の中で苦しみ、いじめ抜かれた人たちが、左翼政党のように怒りをストレートにぶつけ、

社会変革を訴えるよりも、まず心の平安を求めたいと願っても不思議ではない。

そんなとき仏法に接し、入信してお題目を唱えることで救われた人は実に多い。

それだけに学会員の組織愛は、他のどんな政党や宗教団体よりも強い。

ましてや外部からの批判に結束して立ち向かっていればなおさらのことだ〉

高山の舌鋒はここから急に激越になる。批判の矢面にさらされているのは、池田大作である。

〈しかし本当の敵は内部にある。

これまで述べてきたように、功徳と信心を金に絡ませるようなやり方、権力に対する迎合は、すべて池田によるものだ。

飽くことのない金銭欲と名誉欲。

彼がどこかの国の名誉市民になったり、どこかの大学で名誉博士になっても、

いまの生活にも心の平安にも何の関係もない。

「学会に入って本当によかった」

「学会だからこそ権力が弱いものいじめをするのを見過ごせない」と言えるような組織にすることが先決ではないか〉

高山は未曽有の不況下、倒産の憂き目に遭っている中小企業が跡を絶たないなかで、

池田が世界を回ってノーベル平和賞を札ビラで買うようなムダな金はない、とも述べている。

 

 

 この写真で掲載した借用書の借主は、創価学会の二代目会長・戸田城聖氏である。 

 創価学会員にしてみれば、雲の上のような存在で、例えこれが借用書でっても、

ありがたくて額縁に入れて飾っておきたいほどの宝物になるのではないか。

 この借用証書があるということは、この借金は返済されなかった、

つまり、創価学会の二代目会長である戸田城聖氏は、この借金を踏み倒したのである。

 この借用書はこれ一枚ではない。8枚ほどであるが、総額は180万円ほどになる。

期日は私が生まれる前の昭和26年である。

この当時の金額が、今の金額に換算すると幾ら位になるのか? おそらく数億円にはなるのでは、と言う方もいた。

 華族出身の小西恵子さんは、戸田城聖氏と知り合いで、資金を貸したのである。

創価学会の高利貸し会社・大蔵商事の軍資金を集めるために、

戸田二代目会長はこのような借用書で資金を調達していた。

 無利息と書いてあるので、これは全くの善意で貸したものと思われる。

さて、歳月が流れ小西女史は夫にも先立たれ、鎌倉御殿とも云われたその家も人手に渡ってしまった。

 家は没落したのである。家の中を片付けている時に、この書類を発見した。

本人はもう昔のことで忘れてしまっていた。本人はある人物に相談、この人物が創価学会に出向いた。

 

 創価学会の返事はつれないものだった。

戸田本人が既に亡くなっている以上、それを調査することも出来ないので、何の相談に乗ることもできません。

 そう答えたのは創価学会、総務局法人庶務部部長と一緒に応対した弁護士であった。

借用書の信憑性については一切語らなかったそうだ。

 夫人は当時、生活にも困窮しており、何とか少しでも面倒見ていただけないかと訴えたが、

創価学会はただ「お帰り下さい」の一点張りであった。

 この記事を昨日掲載したが、説明不足であったので改めて今日その重要性について指摘しておきます。

 これは2代目創価学会の会長がお金を借りていた事実を示す借用書です。

この資料がこのように写真つきで掲載されるということは、この創価学会会長が借りた借金は返済されなかった。 

すなわち結果的には踏み倒されたということです。

 

貸した本人が忘れていたとか、借りた戸田城聖本人が死亡していたことで返済されなかったということでもあります。

 このようなことは世間的にはたまにあることです。

しかし、こと創価学会に関しては、これは借金が返されなかったという問題とは

また別な深刻な問題がここには隠されているのです。

 皆さんは、なぜ池田大作が創価学会の3代目会長として独裁的な力を持ち、

その座に君臨することが可能だったか分かりますか。

 それこそが、実は創価学会を知る上で最も大切なことなのです。

池田大作は著書『人間革命』の中でも書いていますが、

師と仰ぐ戸田2代目会長と自分(池田大作)との関係が創価学会では絶対的なものとして教えられています。

 大白蓮華」2006.6より転載

仏法で説く師匠とは、衆生に、

自らの拠り所とすべき「法」が自分自身の中にあることを教えてくれる存在である。

法を体現した師匠、法と一体となった師匠を求め、その師匠を模範と仰いで弟子が実践していく。

そのとき、はじめて「心の師」となる生き方が実現するのです。



言い換えれば、私たちの一生成仏には、衆生の持つ「心の可能性」がどれだけ広いかを教え示す、

「法の体現者」であり「法と一体化」した「師」の存在が不可欠となるのです

私も、現代において日蓮仏法の広宣流布に生き抜かれた戸田先生という如説修行の師匠がいて、自分自身があります。

私の胸中には、いつも「心の師」である戸田先生がいる。今も日々、瞬間瞬間、胸中の師と対話しています。

これが「師弟不二」です。



常に、自分の心に、「心の師」という規範を持ち、「心の師」の説の如くに戦う人が、「法根本」の人です。



日蓮仏法は、どこまでも「師弟不二」の宗教です。法華経もまた師弟不二の経典です。

 日蓮仏法とは「師弟不二」とも言っています。

池田大作は「私の胸中にはいつも心の師である戸田先生がいる」とも書いている。

 ところが、どうでしょう。 その戸田先生が借りたその証文を持って現れた人を門前払いとしたのです。

その結果、それがこのようにしてネットで晒されることになってしまいました。

 この記事は2006年6月2日に掲載したものですが、この記事に驚き、

これを自らのブログで紹介してくれた人がおります。元創価学会員の方ですが、その記事を紹介しましょう。

 創価学会の信仰に功徳はあるか?という方のブログです。

 極右評論と創価の嘘

 極右評論はきちんと根拠も文脈もその危険性も書かれているので良いサイトだと思う。

一つだけ心配なのは(私のブログにも書いてきたが、)中国韓国朝鮮と対話するので世界宗教なのだ!!!

(だから、池田先生は素晴らしい)という創価の反論に会わないだろうか?

私もその回答が思い浮かぶので、あまりこの辺をブログに深く書いていない。



但し、アンチ創価サイトを見ても借金の証文は初めて見たのでかなり貴重な証拠になるのではないだろうか?

小説、人間革命のどこか(たしか戸田氏の逝去直前のあたり9巻以降)に「借金は全部、完済した」(主旨)と

書かれていたはずだ。

巻数やページを教えて>だれか。というわけで、創価の嘘がまた一つ。

 極右評論の話が本当だとすると返さなかった創価の幹部も馬鹿だな、と思う。

今の創価にとっては180万とかははした金。(竹入氏が公明党のお金で奥さんに500万の指輪を買うぐらいですから。

w)

 証文からして借金は本来、戸田氏が返すべき物だが、弟子の池田が師弟不二の論理から温情で返してあげます。

(お金があげるから絶対に口外しないように。)とかすれば、本当の美談でしょう。 

もちろん借金したのは戸田氏なので返す必要は全くないだろうし、時効もあるのかな???

どのみち、後々ばれてネットやリアルでの折伏で創価の人がつっこまれるよりは、

借金の証文を買い取ったと思えば安かっただろうにね。

人間革命の「嘘」をどうするつもりなのだろうか?

創価にとっては現代の御書みたいなものであり、学会精神の神髄みたいなもの。

池田氏が(口述筆記だけど)書いてるんですよ?

 特に戸田城聖氏と若かりし池田氏の師弟不二の活躍は今でも最も美談なので「嘘」は一大事のはずなんだけどね。

池田氏が師弟不二で戦ったので、青年たちよ!おまえも戦え!!!ってね。

 それとも、師匠と一緒になって借金踏み倒せ???とか?

まさか創価でも都合の良いところだけ師弟不二ってことはないでしょう。(笑)

ここで桜梅桃李とかで、ああいえば上祐(オウムの上祐史浩)じゃなかった、(笑)

ああ言えばこう言うという、創価必殺の場合によって

あれこれ言い訳をする創価論法が登場ですかね?

http://blog.goo.ne.jp/soukagakkai_usotuki/m/200606/1



注 文中の『極右評論』とは当時の当ブログの名称

 さて、この話題に関してどのような創価学会信者の反応があるのか楽しみです。

 昨夜は二つばかりありました。

現代に換算しても数億円にはならない。一千数百万じゃないのという指摘

 そうですか、ありがとう御座います。 

貸主が何とか返済して頂けないかと訴えたのはその十分の一の180万円ほどですが、門前払いとした。

それについてはどう思われます?

そんなことは信じられない

 それは私が嘘を書いているということですか? 嘘じゃないですよ。

創価学会に聞いて下さい。その上でコメント下さい。お願いします。

 本日のコメント数はいくらになるか、楽しみです。