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牧口常三郎氏について

 

                              三船小仏青年

 

 

 

 

大日本皇道立教会

 牧口氏の事について、創価学会では永遠の指導者としながら、その実像を伏せている箇所は多くある。何故伏せるかといえば、今の創価学会の進める活動にそぐわない、不都合があるからに他ならない。
 しかしそういう実像を隠す人物をして、創価学会では「広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の永遠の指導者である」として永遠の指導者と呼んでいる。これは変な話である。

 まず左の写真を見て頂きたい。これは大日本皇道立教会の会合の写真と言われるが、後列左端に移っているのは牧口氏であり、後列右から2人目は後に右翼のフィクサーと呼ばれる児玉誉士夫である。

 また写真の前列中央に移っているのは「秋月翁」とあるが、これは三代目会長の秋月左都夫である。この人物は司法省に入省するが、後に外交官に転身し、スウェーデン公使、駐ベルギー大使、オーストリア特命大使を歴任後、大正三年(1913年)に退官したという。恐らく写真はその年代以降のものと思われる。また児玉誉士夫も若い年代(児玉氏は明治四十四年生まれ)の様である事から察すると、この写真は大正から明治に移り変わる頃の事では無いかと思われる。


 この大日本皇道立教会の目的は「南朝を正統とし、その皇道に沿った教育を行う趣旨」として設立されたとされるが、設立された明治四十四年には天皇暗殺を企てて幸徳伝次郎、菅野スガら十二名が処刑されるという事件が発生している。(大逆事件)


 この事件の背景には南北朝という事から天皇の正統性に対する問題があった。幸徳秋水が主張したのは「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器をうばいとった北朝の天子ではないか」という事で、この発言が法廷で為された事をキッカケに国定歴史教科書「南北朝正閏問題」がおこるに至った。

 こういった南北朝をめぐる教育問題が背景にあり、大日本皇道立教会が設立された。

 創価教育学会の母体はこの大日本皇道立教会である。この写真に写っている秋月翁などが創価教育学会の設立に関与したとされる。

 もう一度書く。

 創価教育学会の母体はこの大日本皇道立教会である。


 大日本皇道立教会は「南朝正統を掲げて皇道に沿った教育を行う」という趣旨である。

 

 大正から昭和にかけて、日本社会の教育の根本には天皇というものが中心であり、皇道から完全に分離できるものではないだろう。それが当時の日本の社会というものであった。

 牧口氏は宗門・日蓮正宗と激しく反目していた時期があった。ほとんど宗門から勘当されていた時期があった。この理由は、ここにあると思われる。

 

 牧口氏は太平洋戦争時、牢獄で自殺したことは当時の書簡から推察される歴史的事実である。牧口氏の信仰には何か不純なものが混じっていたと推測される。それを宗門が激しく問い詰めていたと思われる。

 

 牧口氏は自身の著書すなわち「創価教育学体系」などの方が日蓮正宗の信仰よりも大事であったと推測される。

 

 大正時代の牧口氏は、田中智学の主催する「国柱会」へも接触しているのである。

 

 先に紹介した竹中労氏の「庶民烈伝-牧内常三郎の生きた時代」によると大正五年(1916年)頃に、田中智学の講義を聴講しに国柱会館へと通ったという記述があった。

 

 この牧口氏と国柱会の繋がりについては、創価学会の公式見解には当然の事、載っていない。

 宗門の妙観講機関紙の「慧妙」などでは、牧口氏が国柱会へと聴講に通った事実を取り上げ、いかにも牧口が国粋主義者であり軍国主義者であるかと取り上げている。

 この国柱会だが日蓮宗の僧侶であった田中智学が、還俗(僧侶をやめ在家の立場に戻る事)して在家という立場から日蓮宗の伝統的な宗門を改革し、近代的な在家集団を目指して設立した団体であった。

 

 国柱会の根本の理念は、寺檀制度によって形骸化した伝統宗門の改革と近代化を在家主義の立場から目指すものであった。


 教学における国柱会の功績は、現在でも「師子王文庫」や「真世界社」などに引き継がれている。分派した各法華宗・日蓮宗宗派の統一、更には法華一乗のもと全宗派、全宗教の統一(一天四海皆帰妙法)のための宗教革命、ならびに皇祖皇宗の日本国体を法華経のもとに体系化することを究極の目標としている。

 江戸幕府を倒し、明治政府が日本を近代国家にするために、天皇の元に新政権をつくったのが明治という時代である。

 

 つまり天皇とは新時代の象徴であり、近代国家日本の中心的な存在である。皇国史観という言葉もあるが、その善悪はさておき、明治の人たちの中にある天皇や皇室への想いというのは、現在考えられているものとは別なものであったと理解する必要があるだろう。

 今の日本の主流になっている天皇・皇室観とは太平洋戦争が終わり、GHQが日本占領の際に「植え付けられた思想」であると言ってもいいであろう。

 

 日本という国は自分たちの起こした戦争に対して総括もせずに戦後数十年を経てしまった。


 そういう感覚をもって、当時の日本を語り、牧口氏を語るというのは、まさに「偏狭な視点」をもって牧口氏という人物を見ることであり、その視点では人物を正当に評価する事は出来ないのである。

 牧口氏がどの様に日蓮の事を知ったか、それは明確な資料が今のところ手元にないので解らない。

 

 ただ牧口氏は極右的思想から日蓮に対して強い興味を抱き、国柱会に近づいたと考える方が自然だろう。

 

 

 

三谷素啓氏との出会い

 牧口氏が日蓮正宗に入信したのは昭和三年(1928年)、三谷素啓という人物から折伏されたという事である。創価学会ではこの人物については詳細に語られていない。

 

 一部の資料では「常在寺に属する『大石講』の幹部」とだけ記載されているに止まっている。

 ネットで調べてみると、この三谷素啓で調べてみると興味深い記事があったので紹介したい。

 大木道惠の創価学会問題とその周辺
 http://siawaseo.exblog.jp/16792505/

 この記事を拝見すると、柳田国雄氏の「故郷七十年」で三谷素啓に触れている箇所があり、そこにある三谷評は「どうも正体の判らない変った人物で、盛んに嘘をついた」というものであった。


 また少し話しが逸脱するが、この柳田国雄氏の記述には「富士山の麓にいくつか日蓮宗の寺があるが、牧口君はそのうちの本門寺というのに参り出した」とある。

 

 これは大石寺に入信する以前に、牧口氏が北山本門寺に顔を出したとある。これは興味深いものと思える。

 もう一度書く。

 大石寺に入信する以前に、牧口氏が北山本門寺に顔を出した。

 この三谷氏からの折伏で昭和三年に牧口氏は日蓮正宗に入信するが、その入信動機とは以下の様なものであった。

  釈迦が説いた釈迦滅後の仏教変遷の予言が日蓮によって実証されたこと


  正しい宗教(法華経)に基づく人間変革を基盤に社会を変革するという「立正安国」の思想に
   強く感じるところがあった

 ここから創価教育学会が始まり、後の創価学会へと通じる事にもなるが、不思議なのは創価学会としてこういった「原点」についての情報がまったくといって整理・公開されていないという事が不思議でならない。

 「歴代三代の死身弘法の精神・・・・永遠の指導者」と規定したのであれば、この牧口氏の入信に至る事実を、もっと会員に対してオープンにすべきではなかろうか。

 

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創価教育学会の設立

創価教育学会の設立時期についてだが、これは「創価教育学体系」第一巻の発刊日が昭和五年(1930年)11月18日であり、発刊元が創価教育学会となっていることから、それが設立日とされている。


この時の発行者の住所は「東京府荏原郡大崎町(現在の品川区大崎)」となっており、発行人は「戸田城外」となっていた。つまり発行者は戸田第二代会長であり、その発行者の住所は戸田城聖の自宅である。


本来ならば設立総会などを経て設立されるものだと思うのだが、書籍の発刊日と発刊元をもって設立日としている事に違和感を感じるのは私だけだろうか。

 

 

 

 

創価教育学支援会

 この創価教育学会の設立に際して「創価教育学支援会」というものが発足されている。そのメンバーは怱々たるメンバーであった。

 政友会総裁 犬養 毅
 元文部大臣 水野錬太郎
 商工大臣  俵 孫一
 前東大教授 新渡戸稲造
 民族学者  柳田國男

 キリスト教信仰者を含めて、この支援会は二十八人いた。牧口氏はこの創価教育学会設立(発刊日)の二年前に入信したと言われているが、この支援会二十八名に折伏親である三谷素啓氏の名前は入っていない。

 

 

 

創価教育学体系

 この創価教育学体系の第一巻には宗教的な記述はなく、当然、日蓮の言葉もない。この事については創価大学の教育研究第11号の「牧口氏の信仰と創価教育学」という、熊谷一乗氏の論文に以下の様に書かれている。

 

「入信と第一巻の刊行との関係が具体的にどのようなものであるかについては、現在のところ、確かなことはわからない。というのも、「体系」の第一巻には、まだ法華経や日蓮の「御書」を学んだ跡はうかがわせるような内容は見られず、宗教についてはきわめて一般的にしか語られていない」

 

 創価学会が「創立記念日」としているのは、創価教育学体系の発刊日である。

 もう一度書く。

 

 創価学会が「創立記念日」としているのは、創価教育学体系の発刊日である。

 

 しかしその第一巻に宗教的な記述が無いという事も興味深い、これは何を意味するのであろうか。この創価教育学体系の発刊に際してのエピソードをいかに紹介したい。

 

「第一巻の原稿を整理し、絞閲、編集、出版の責任を担い公表したのも戸田先生だからである。このように戸田先生が牧口先生の膝下で文字通り大車輪の活躍をしていた1930年(昭和5年)2月、牧口先生と話すうちに、談たまたま牧口先生の教育学説の話題に移った。このころには牧口先生はすでに(創価教育学体系)第一巻の原稿を終え第二巻以降の構想を進めていた。ただし、牧口先生の原稿は小学校較長の執務中、暇を見つけては反古紙などに筆記してあったもので、書物として出版するにはそれを整理することが必要であった。


 またこの段階では、牧口先生自身まだ新しい教育学説の名を決めかねていたと言われている。牧口先生は戸田先生に意中にある構想を伝えた。牧口先生が(人生地理学)発刊以来教育の目的を追求するうちに、人格価値の本質に突き当たり、「価値」とは「何か」について15年間の思索に思索を重ねついにドイツ流の「真」、「善」、「美」の価値論は誤りで「利」、「善」、「美」の価値論に到達したことなどを語ったという」

 

 つまるところ創価教育学体系とは、牧口氏が思索しぬいた教育学の集大成とも言えるが、その第一巻の内容に日蓮仏法の記載は無く、その日蓮仏法を基本とする思索の内容は第二巻以降に著わされることとなっている。


 先のエピソードでは『「価値」とは「何か」について15年間の思索に思索を重ね』とあるが、1915年当時、牧口会長は日蓮仏法を知り、田中智学の講演会等にも足を運んだ時でもある。つまり自身が行っていた教育に対する研究の先に日蓮仏法を感じ、それに対する思索を進めていたということでもあろう。
 現在の創価学会では、この創価教育学体系の発刊をもって会の設立記念日としているが、その設立には、当時の日本のトップにあったものが名を連ねていた、この理由について創価学会は以下の様に述べている。

 

「出版と同時に、牧口の功績をたたえ、創価教育学への支持と賛同を表明した『創価教育学支援会』が結成された。メンバーは、郷土会の新渡戸稲造氏と柳田國男氏をはじめ、教育関係者、歴代の文部大臣、警視総監、大審院(今の最高裁判所)の判事、新聞社の社長など、各界の要人がおり、牧口の人脈の幅広さを物語っている」

 

 確かに牧口氏自身、孤高の教育者であり、その教育に対する情熱と行動に賛同した人が「創価教育学支援会」を結成したのかもしれない。しかし発刊に際して資金的な援助は戸田第二代会長が負っていた事を考えると、これらの人たちが果たして牧口氏のまとめた「創価教育学体系」について、どれだけ理解し賛同していたのか、その点は不明である。

 もう一度書く。

 

 発刊に際して資金的な援助は戸田第二代会長が負っていた。
 ここまで考えた時、この創価教育学体系の出版をもって、創価教育学会の設立として良いものなのか、私自身少し違和感を感じてしまうのだが、どうなのであろうか。

 

 

 

 

 

 

創価教育学会の壊滅

 牧口氏の設立した創価教育学会だが、やはり時代の波に翻弄されていくのである。
「赤化教員のオルグ」では警察庁、内務省との「蜜月時代」もあった。そして昭和十四年(1939年)に麻布の菊水亭において事実上の第一回総会を開催した。


 その中、日本は昭和十六年十二月に太平洋戦争に突入、戦争の進む中で思想統制を強めていったが、昭和十八年(1943年)の五月に牧口が神社神道を批判してから機関紙「新教」が廃刊となり、六月には大石寺に戸田理事長と共に牧口氏は呼び出され、長鈴木日恭と堀日亨同席の下、庶務部長から「学会も一応、神札を受取けるようにしてはどうか」と申し渡されたがこれを拒絶した。


 そしてその後、同年七月に、伊豆下田での座談会開催直後、伊勢神宮の神札を祭ることを拒否したために、治安維持法違反並びに不敬罪の容疑で、牧口氏は下田警察署に連行されるのである。


 一時期は蜜月関係にもあった官憲により捉えられ、投獄された事はある意味で皮肉としか言えない事態であろう。

 

 

牧口が主張していた国家神道への批判:A

 牧口氏は「大日本皇道立教会」へ参加し、一時期とはいえ田中智学の国柱会にも接近した。また前章でも紹介したが、長野県であった青年教員赤化事件では、その赤化青年のオルグを行う際に、その主張の中では「一、皇室中心の国体観念と合致し、虚妄なる観念論的日本精神でなくて充実したるそれたる事」を転向の要諦として述べていたのである。


 一体、牧口氏は当時の日本に対してどの様な危惧を抱いていたのであろうか。

 まずは創価学会が述べている内容について紹介したい。

 

 日蓮仏法の探求を深めるにともなって、牧口は社会・生活の全般を改革する必要性を感じ、教育法の改革は、その一部であると考えるようになりました。創価教育学会は教育者以外の賛同者も増え、日蓮仏法の実践を主軸とする、宗教改革の団体となっていきます。


 牧口は高齢にもかかわらず、自ら活動の先頭に立ち、北は北海道から、南は鹿児島まで足を運んで、一対一の対話を実践。会員は全国に4000人を数えるまでになりました。

 

 しかし、第2次世界大戦への坂を転げ落ちる日本は、国家神道によって宗教・思想の統制を図ろうとします。創価教育学会の座談会なども、思想犯の摘発に当たった特高(特別高等警察)の刑事が厳しく監視するようになりました。


 弾圧を恐れて国家神道を受け入れた日蓮正宗宗門を牧口は厳しく諌め(日蓮正宗は滅亡しても良いという考えが牧口氏には有った)、軍部権力と敢然と対峙していきます。1943年(昭和18年)7月6日朝、牧口は訪問先の伊豆で、治安維持法違反・不敬罪の容疑で検挙され、同日朝、理事長だった戸田も東京で検挙。ともに逮捕・投獄され、会は壊滅状態となりました。牧口、戸田は、厳しい尋問にも屈せず、信念を貫く獄中闘争を続け、牧口は1944年(同19年)1118日、創価教育学会創立から14年後のその日、自殺する。満73歳でした。

 

 ここでは牧口氏は「国家神道によって宗教・思想の統制」に対して断固たる反対の態度をとった事から、治安維持法の不敬罪により特高警察に逮捕され投獄されたとある。ここだけを読むと、牧口は「思想・信教の自由」という基本的人権を守るために、当時の軍部政府に断固反対し、そのために獄死したという事と読み取れるのである。


 ここにある創価学会の公式見解が、すなわち現在の創価学会の活動家会員達の理解している牧口氏という人物像であろう。

 

 また現在、創価学会ではその牧口会長の崇高な思想を後継した組織として、中国や韓国を中心としたアジア各国の中でも、厚く遇されている。

 しかし本当にその様な事であったのか、そこについてまずは見てみたいと思う。

 

 

 

特高月報

 この特高警察に逮捕拘束されたのち、牧口氏の言動が克明に記録されたものがある。それが当時の内務省が発刊していた「特高月報」というものである。この月報の昭和十八年七月分に「創価教育学会本部関係者の治安維持去違反事件検挙」という記事が掲載されている。


 ここでまずその内容について紹介したい。

 創価学会真実史料・牧口氏特高調書 (特高月報抜粋)
 もし原文を見たいのであれば、国立図書館などで閲覧する事が可能です。

 

 東京都神田区錦町一ノ一九所在創価教育学会は、昭和三年頃現会長たる牧口氏が芝区白金台町小学校長退職後〔ママ〕、当時本名の盲信中たりし日蓮正宗(静岡県富土郡上野村大石寺を本山とす)の教義に特異の解説を施したる教理を創案し、知人たりし小学校教員等を糾合して創設せる宗教団体なるが、
 会長牧口を中心とする関係者等の思想信仰には幾多不逞不穏のものありて、予てより警視庁、福岡県特高課に於て内偵中の処、牧口会長は信者等に対し「天皇も凡夫だ」「克く忠にたどとは天皇自ら言はるべきものではない。教育勅語から削除すべきだ」


「法華経、日蓮を誹誘すれば必ず罰が当る」「伊勢神宮など拝む要はない」等不逞教説を流布せるのみならず、客年一月頃以降警視庁当局に対し「創価教育学会々員中には多数の現職小学校教員あり且其の教説は日蓮宗に言ふ曼茶羅の掛幅を以て至上至尊の礼拝対象となし、他の一切の神仏の礼拝を排撃し、更に謗法払ひと称して神符神札或は神棚仏壇等を焼燬撤却し、甚しきは信者たる某妻が夫の留守中謗法払ひを為したる為離婚問題を惹起せり」等婁々投書せる者ありて皇大神宮に対する尊厳冒涜並に不敬容疑濃厚となりたる為同庁に於て、本月七日牧口氏外五名を検挙し取調べを進めたる結果、更に嫌疑濃厚と認めらるる寺坂陽三外四名を追検挙し(別記参照)引続き取調べ中たり。

 

 牧口氏が検挙された当時の日本では、軍部政府による「思想統制」が強まっていた時代である。
 その中で「天皇も凡夫だ」という言葉があるが、その後に「克く忠にたどとは天皇自ら言はるべきものではない。教育勅語から削除すべきだ」という言葉がある事から、これは教育者としての牧口氏の矜持から出た言葉ではないだろうか。

 

 当時の牧口氏がどの様な思想を持っていたのか、それは調書の抜粋に明確に記録されているので、ここではその内容を追って見たい。

【検事・問】創価教育学会の指導理念及目的は。

【牧口・答】創価教育学会の目的は規約要項第二条に、本会は日蓮正宗に伝はる無上最大の生活法たる三大秘法に基き教育、宗教、生活法の革新を図り忠孝の大道を明らかにし以て国家及び国民の幸福を進めるを目的とす、と書示して置きました。

 日蓮正宗の三大秘法とは本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目の事でありまして、それは法華経の寿量品の文底秘法の大法と日蓮聖人は申されて居ります。此の三大秘法は本門の本尊である曼陀羅に総ての人が帰依する事に依って具現する事になります。

 現在の様な末法の世に於ても、又法華経を読誦せずとも本尊曼陀羅を信ずる事に依って何人も即身成仏する事の出来る秘法でありまして、私の創価教育学会は、此の秘法の本尊と、我々人間の生活と関係があるか無いかを認識させる手段として、人間生活には此の本尊に帰依する事に依ってのみ安定が得られ、幸福が招来し価値を現実に実証し得ると言ふ事を感得せしむるにあるのであります。

 

 牧口氏は戦争を賛美し、戦争に反対しては居ない。ただ、日蓮大聖人の教えを用いないと日本は戦争に負け滅ぶと主張していただけである。

 もう一度書く。

 牧口氏は戦争を賛美し、戦争に反対しては居ない。ただ、日蓮大聖人の教えを用いないと日本は戦争に負け滅ぶと主張していただけである。

 ここで述べられているのは、牧口が認識していた日蓮正宗の教義である。また創価学会の目的という事について、牧口は「秘法の本尊と、我々人間の生活と関係があるか無いかを認識させる手段として」とある様に、この日蓮正宗の教えが人間一人一人の生活と関係あるという認識をもたることの手段として設立したと述べているのである。

 こういった「人間の生活と日蓮の教えの関連性」という観点を、当時の宗門や関係者が果たして持っていたのか?

 恐らく当時の宗門内においても、こういった考え方は特異なものであったと思われる。
 特高月報などには記載されていないが、牧口氏が大石寺を訪れる前に、北山本門寺を訪れた際(北山本門寺を訪れている!)、その思想性が異なるからとして寺側から拒否されたのも、こういった考え方によるのではないだろうか。

 この事については尋問調書にある以下の牧口氏の言葉から伺いしる事が出来る。

 斯様な方法をなぜ私が採ったかと申しますと私は正式の僧籍を持つ事は嫌ひであります。僧籍を得て寺を所有する事になれば、従って日蓮正宗の純教義的な形に嵌った行動しか出来ません。私の価値論をお寺に於て宣伝説教するわけには参りませんませんので私は矢張り在家の形で日蓮正宗の信仰理念に価値論を採り入れた処に私の価値論がある訳で、此処に創価教育学会の特異性があるのであります。

 牧口氏は自身の教育者としての思索の果てに「価値論」へと行き着いた。そしてその価値論の先に大石寺伝来の日蓮仏法へと行き着いた事から、その広宣流布を目指したのである。
 この事について、尋問調書内の牧口の主張から読み取る事が出来る。

 私の価値論は日蓮正宗の本尊に帰依すること、具体的には創価教育学会に入会する事に依って、本会の信仰が人生生活と如何に関係が大きいか、価値が大きいかを判定認識せしむるのが指導理念でありまして、人生生活の全体主義的目的観を確然と把握せしめ、本尊の信仰に依る異体同心、共存共栄の生活を体得実証せしむるにあるのであります。

 【検事・問】広宣流布とは如何なる意味なりや。

 【牧口・答】広宣流布と言ふ事は、末法の時代所謂現世の如き濁悪の時代に其濁悪の時代思想を南無妙法蓮華経の真理に依って浄化する事で、宗祖日蓮聖人の教へに、上は陛下より下国民に至る迄一人も残らずに従ひ、南無妙法蓮華経に帰依する様になった時を広宣流布と称し、共時初めて一天四海皆帰妙法の社会相が具現するのであります。

 此の時には国の政治、経済其他総てが妙法蓮華の真理に依って行はれる事になります。其の真理は其の時の正統の法主から直々に陛下にロ伝されて施政される事になりますから、真実の法華経の社会国家が具現するのであります。

 之が宗門の願望であり又私達の願望であり理想とする国家社会であります。

 何故、創価教育学会が壊滅したのか。
 これは当時の軍部政府が戦争に勝つために始めた思想統制と相反する内容となったためである。

 小説・人間革命において牧口が戸田に語った言葉。

 

「一宗の存亡が問題ではない、憂えるのは国家の滅亡である(日蓮正宗が滅亡しても良いと言っている)」

とあるが、牧口氏が危惧したのは思想統制により、国家神道を思想の中心におき、それは取りも直さず「大謗法の行為」であり、そこから国が滅びることを危惧したのであろう。

 現在の創価学会では「信教の自由」「軍国主義との対決」という図式と言われているが、実はそういった事ではないという事が、この特高月報にある尋問調書を読むことで理解できる。

 簡単に言えば、戦後、特に第三代会長の時代、「世界広宣流布」を掲げて世界に創価学会として打って出て行く際に、牧口氏の獄死というのは利用されたと言ってもいいのではないだろうか。

 結果、創価教育学会は牧口氏、戸田城外他21名の幹部が「治安維持法・不敬罪」により逮捕投獄されてしまい、牧口氏は当時の書簡から推察されるに“うつ病”となり自殺、21名の幹部は創価教育学会から転向するが、戸田城外と先に赤化事件でオルグされた矢島周平が転向せずに生きて出獄した。

 ここに創価教育学会は壊滅したのである。

 

 

 

 

 

 

(付記)

 

 ところでこの頃、戸田、牧口らは朝から晩まで高級料亭で、在郷軍人会長や警察署長などを誘っては美味・美酒・美色!に耽っていたのです。そういうことが、何故、出来たかと言えば、夕方になると、その日の儲けを山分けするのです。供出品の中の良品は全部横流しをして、悪いものだけを軍部に出したからです。それで、毎日朝から晩まで飲み食いしたのを払っても、一人千円以上の利益があったそうです。当時は千円で一軒の家が買えた時代です。

 

 しかし、二度目の供出が終わると、さすがに品物も少なくなったのです。それでその頃、東京・池袋に1万円で古寺が売り出されてあったのを、戸田らは現金で買いました。現在、池袋で常0寺といって大寺になっているのがそれです。

 

 一方、供出で味を占めた牧口・戸田の師弟は、いくら優秀な品物でも買う相手がなければ駄目なのだと考えました。たまたま、牧口・戸田の2人は、昭和3年に日蓮正宗に入信していて、牧口は「利・善・美」とかいう変な価値観を唱えていましたので、それでは世界一のすばらしい宗教という看板を上げて組織をつくることだ、そしてこの組織・集団にもっともらしい理屈づけをして、宗教関係のものを売りつけたり、寄付金などを募ったら、どんどん金儲けすることが出来るだろう、と考えたようです。

 

 そこで牧口と戸田が、牧口の唱える人生の最高の価値は幸福であり、それは利益である、といった物質・金銭至上主義の価値観と、日蓮正宗の御本尊の功徳を結びつけて、インチキ・邪教・ゴリヤク信仰の教義を(?)をつくり、これによって信者を集め、集めた組織から金を吸い上げて金儲けしようという、たくらみをもってつくったのが創価学会設立の真相なのです。

 

 ですから、牧口・戸田らが、宗教家ぶりをしだしたのは、せいぜい、昭和9年末か、10年頃からでしょう。それまでは、そのようなことは全然ありませんでした。

 

 こうして昭和12年に成っていよいよ創価学会の発会式を上げ、牧口が会長、戸田が理事長におさまったのです。

 なお、現・公明党参議院議員のYと、もう一人の同年配の女性は、戸田の二号です。そのほか、戸田の女癖の、酒癖の悪かったことも有名です。

(p155〜p156 邪教集団・創価学会、隈部大蔵・室生忠共著)

 

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池田太作の「平和宣言」は虚偽

 

 

池田大作が若かりしころ『協友会』という読書サークルに参加しており、
東大出身のリーダーを中心に政治・経済等の意見を発表しあい知識の吸収にいそしんだ、
ということが「人間革命」の第二巻に載っているが、「人間革命」のなかで唯一異常な表現になっている。
「人間革命」は人名以外は全て実名を使用しているのだが、この協友会のみはウソであり、
事実は『郷友会』という右翼の集団であり、リーダーは『須山秀吉』という、愛宕山事件の生き残りであり、
笹川良一氏・藤吉男氏等の、右翼の大物に近い存在であった。

この右翼の須山秀吉こそ、池田大作の精神形成における、初期の師匠だったのである。
『愛宕山事件』というのは、日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日。
更に天皇の玉音放送がなされた8月15日、徹底抗戦派の陸軍の策謀は、阿南陸相の自決によって回避された。
だが、降伏に抵抗する一部の右翼と軍人は東京の港区の愛宕山にたてこもり徹底抗戦を叫んだ。

指導者は右翼の尊壌同士会の『摺建富士夫』であり拳銃や日本刀・手榴弾で武装してクーデターの発生を期待したが
警官隊に包囲され、児玉誉士夫氏の説得も失敗に終わり、警官隊の一斉攻撃のまえに、
全員輪になって手榴弾を使用し爆死した。
11人のうち生き残ったのが須山秀吉ただ一人であった。
後に郷友会を設立し右翼思想を宣布することになるが、その弟子のなかに池田大作がいたのである。

池田大作は銀座にあった笹川良一氏の国粋同盟の事務所に出入りいて、
彼は右翼によって政治の洗礼を受けたのだ。
郷友会の須山秀吉は、選挙では豚箱に入る覚悟でなりふり構わず猛然とやらなくては勝てない、
選挙は勝つか負けるかだ、との言が口癖であったものだ。
因みに須山秀吉は笹川良一氏の国粋同盟の青年隊長であり、右翼のホープとして期待された人物だったが、
結核におかされ、東村山のキリスト教系である白十字病院で亡くなった。
池田大作の作った歌に『森ヶ岬海岸』という美しいメロディーの歌がある。
山本伸一名で書かれたこの詩は、右翼の郷友会の活動拠点であった森ヶ岬海岸を偲んで作られた詩である。
若き日の池田大作がキリスト教の友人を折伏したが、頓挫したことを歌ったものではあるが、
これは須山秀吉を偲んだものだったのだ。

 

 

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 どうしても理解されていないようだから再び書く。

 池田太作は大蔵商事営業部長時代、小売業の創価学会員に金を貸し、そして阿漕な集金をしていた。そして普通のサラリーマンの100倍の給料を得ていた。

 

 

 

 しかし、この池田太作の悪行を大阪の創価学会員は知らない。それ故に、大阪で池田太作は人気を得て成功したのである。東京では金貸し業時代の池田太作の悪行が知られていたため、池田太作は東京では疎んじられていたらしい。

 どのように調べても、池田太作の金貸し業は富裕な創価学会員から金を集め、小売業の創価学会員に金を貸していたとしか出て来ない。当 時の戸田城聖氏の事業は身内の創価学会員相手の商売であったらしい。こういうことは以前は普通に行われていたことである。今でこそ、身内に金を貸すなどと いうことは行われなくなったようだが、以前は、金貸し業は身内で行うことが多かったらしい。

 東京では(おそらく、金貸し業時代の池田太作の悪行の被害者)が団結して池田太作糾弾を昭和三十二年頃にある日蓮正宗寺院を中心にして行われた。しかし、金貸し業時代の池田太作の悪行の被害者たちでない人たちの団結であった可能性も否定できない。

 昭和三十二年頃にある日蓮正宗寺院を中心にして行われた池田太作糾弾の嵐は今は忘れ去られようとしている。今のうちに(その当時の証人が生きているうちに)その事件を公にするべきである。

 池田太作が普通のサラリーマンの100倍の給料を得ていたと言うと「池田大作大先生は神様だから普通のサラリーマンの100倍の給料 を得ていたのです」と一般の創価学会員は主張するが、その当時から池田大作大先生は「麻薬マネーロンダリング」を行っていたとしか考えられない。どんなに 阿漕な金集めをしたところで普通のサラリーマンの100倍の給料を得ることは不可能と考えられるからである。

1)昭和二十七年に右翼の超大物が創価学会に入会したこと、これは「麻薬マネーロンダリング」目的であった可能性が高いこと、また池田太作が池田大作と昭和二十八年に戸籍上正式に改名できたことはこの右翼の超大物の鶴の一声に依るらしいこと

2)その翌年(昭和二十八年)から池田太作は金貸し業を辞めて創価学会の活動を始めたこと

3)池田太作は戦後、右翼の超大物である「須山秀吉」を師匠とし、須山秀吉氏が組織していた「郷友会」に属して活動していたこと

4)「人間革命」の「協友会」は全くの嘘であること、池田太作は文学青年では無かったこと、

5)池田太作は「郷友会」に属していたためヒトラーの書籍を愛読していたこと

6)池田太作は戦後「郷友会」に属し暴力団の貸金集めを仕事としていたこと(それ故に戸田城聖氏から雇われたらしいこと)これは山崎正友氏が著書に「池田太作は戦後、00から00へかけて暴力団の貸金集めの手伝いをしていた」と書かれている

7)池田太作の戸田城聖氏の会社への入社は須山秀吉氏の強い勧めであったらしいこと、池田太作が創価学会に入会していることを知った須山秀吉氏が池田太作を戸田城聖氏の会社に入社させたらしいこと

8)池田太作の結核はかなりの重症であったが、何故か死んでいないことが不思議であり、これは池田太作は戦後、北朝鮮から日本に雪崩れ込んできた1万人の青年 (その中には戦後の政界の超大物である0000氏らも含まれているらしいこと、なお0000氏は確定的である)のうちの一人が池田太作に成りかわっている可能性が高いこと

9)須山秀吉氏は結核で亡くなられたこと、これを偲んで書かれたのが「森が崎海岸」という詩であること(この詩は「人間革命」の著者である篠原善太郎氏が書かれたという説が強い)

10)池田太作の師匠は戸田城聖氏ではなく、須山秀吉氏であったこと、池田太作は戸田城聖氏を馬鹿にしてきたらしいこと

11)池田太作の金貸し業による大成功により戸田城聖氏の事業の破綻は救われたらしいこと、しかしそれは「麻薬マネーロンダリング」による疑いが極めて濃いこと

12)当時の右翼は暴力団(当時の暴力団は義理を重んじ良心的であった)と区別が付き難く、それ故に山崎正友氏は「池田太作は戦後、00から00へかけて暴力団の貸金集めの手伝いをしていた」と書かれたと考えられること

13)池田大作(創価学会中央)は「東日本大震災」および「阪神大震災」「地下鉄サリン事件」「松本サリン事件」をあらかじめ知っていたとしか考えられないこと

14)「松本サリン事件」の実行犯とされた000氏は創価学会員であったが創価学会に批判的であり(当時は宗門と創価学会の争いが活発な時期であった)、それ故にその事件の実行犯とされたらしいこと、なお、000氏は無罪であることは証明された

15)戸田城聖氏の葬儀に右翼の超大物が多数、参加していること。このことから「麻薬マネーロンダリング」の地下銀行として創価学会がすでに機能していたことは確実視されること

16)池田太作が大阪事件で無罪になったのは池田大作が「麻薬マネーロンダリング」を中心者として行っていたためと考えられること

17)池田太作が第三代創価学会会長に成れた理由は右翼の超大物たちとの強い繋がりがあったからである、また「麻薬マネーロンダリング」もその理由であろう

18)

 

 その他にもたくさんあるが、書かない。

 

 

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創価学会初代会長である牧口常三郎氏と児玉誉士夫氏が同じ写真に写っています。

http://sudati.iinaa.net/senjika/senjika13.html

つまり、牧口常三郎氏の時代から創価学会は思いっ切り右翼だったのです。
>>『愛宕山事件』というのは、日本がポツダム宣言を受諾した1945年8月14日。更に天皇の玉音放送がなされた8月15日、徹底抗戦派の陸軍の策謀 は、阿南陸相の自決によって回避された。だが、降伏に抵抗する一部の右翼と軍人は東京の港区の愛宕山にたてこもり徹底抗戦を叫んだ。指導者は右翼の尊壌同 士会の『摺建富士夫』であり拳銃や日本刀・手榴弾で武装してクーデターの発生を期待したが警官隊に包囲され、児玉誉士夫氏の説得も失敗に終わり、警官隊の 一斉攻撃のまえに、全員輪になって手榴弾を使用し爆死した。11人のうち生き残ったのが須山秀吉ただ一人であった。後に郷友会を設立し右翼思想を宣布する ことになるが、その弟子のなかに池田大作がいたのである。
……
創価学会員は誰もこれを知らなかったと思う。牧口常三郎氏が思いっ切り右翼だったという文献は幾つかあるが、写真はこれが初めてです。
私は戦争中の創価教育学会の30人の幹部逮捕が茶番であったように思えてますが、これからも茶番であった可能性は非常に高いと考えられます。


これからも創価教育学会は太平洋戦争に賛同しており、ただ、日蓮正宗を日本の国教にしないと日本は戦争に負ける、と主張していたために弾圧を受けたのです。

創価教育学会は太平洋戦争に大賛同していました。

池田太作の「戦争反対」は全くの茶番でした。

 

 

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創価教育学会は戦争を礼賛していた(池田太作の「平和宣言」は全くの偽装)。

 

創価教育学会は戦時中、幹部三十人が逮捕され、壊滅したが、これは戦争反対したからではなく、「日蓮正宗を拝まなければ日本は戦争に負ける!」と強く主張していたために弾圧され壊滅したのが真実である。

 

以下に、その証拠を見せよう。

 

 

 児玉誉士夫、牧口常三郎氏、などが明瞭に映っている。牧口常三郎氏は児玉誉士夫氏と非常に親しかったという文献がある。

 

 池田太作の言う「創価教育学会は平和の宗教」とは全くの嘘なのである。戦争賛美の極右の創価教育学会であった。

 池田太作自身も須山秀吉氏を氏としており、戸田城聖氏を全く氏とはしていなかった。池田太作の本当の氏は須山秀吉氏であった。

 極右が創価学会の本当の姿である。

 

 

 

 

 

 池田太作の戦争反対宣言は偽装であった。

 

創価学会は戦前から思いっ切り右翼でした。

牧口常三郎氏、戸田城聖氏、ともに思いっ切り右翼でした。そして池田大作も思いっ切り右翼でした。
戦争反対したのではなく日蓮聖人の仏法を用いないと日本は戦争に敗れると強く主張したのです。戦争には全く反対はしていません。戦争を肯定そして賛美していました。
昭和21年に戸田城聖氏が起こした当時では大罪になる用紙横流し事件が不問に帰されたのは、この思いっ切り右翼であったから不問に帰されたのです。
戦前から戸田城聖氏は右翼(権力)に取り入っていました。
私も公明党・創価学会は中道と聞いて育ちました。右翼でもない、左翼でもない、その中間だ!と聞いて育ちました。しかし、それは虚偽だったのです。公明党・創価学会は最初から思いっ切り右翼でした。
池田大作は我々、創価学会員を欺していたのです。欺されていた我々、創価学会員が馬鹿だったと言っても良いでしょう。

創価教育学会が治安維持法で30人逮捕されたのは、戦争に反対したからではなく、日蓮聖人を用いなければ戦争に負けると強く主張したためです。すなわち、創価教育学会は戦争に大賛成だったのです。

 

池田太作は昭和22年当時、熱烈な右翼であり、須山秀吉氏を師匠としており、右翼の事務所に出入りしていた思いっ切り右翼だっ たのです。始めから池田太作は右翼の超大物との強い繋がりがありました。創価学会は昭和26年には地下銀行としての機能を発揮していたと思われます。それ でないと池田太作の当時の普通のサラリーマンの百倍の給料をもらっていたという事実を説明できません。また、もしかすると昭和26年には「麻薬マネーロン ダリング」を既に始めていたのかもしれません。創価学会は昭和26年には右翼の超大物たちにとって非常に利用価値の高いものと見做されていたことは確実で す。

 

 

 

 

 

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創価教育学会は戦争を礼賛していた。

 

創価教育学会は戦時中、幹部三十人が逮捕され、壊滅したが、これは戦争反対したからではなく、「日蓮正宗を拝まなければ日本は戦争に負ける!」と強く主張していたために弾圧され壊滅したのが真実である。

 

以下に、その証拠を見せよう。

 

「大日本皇道立教会」は「創価教育学会」の前身と言って良い。「大日本皇道立教会」は大正5年に設立された南朝を正統という考えを普及さ せる目的で設立された団体だが、牧口、戸田両氏がメンバーとして加わっていた。

 そしてその運動を教育に反映させる目的で「創価教育学会」を牧口 氏が設立し、彼が日蓮正宗に傾倒して行くにつれて「創価教育学会」も宗教団体へと変貌していった。

 

 

「戦時中に真っ向から軍部と対抗して天昭大神では日本の国は救えないと、日蓮大聖人の仏法立正安

国論、顕仏未来記の予言、諫暁八万抄の哲理をもって、軍部を攻撃したあげく、初代の牧口会長先生

現会長先生始め二十何名の人々が牢獄へ行ったんです」(聖教381018日池田「私の初信当時」)

 

 

 

創価教育学会は、昭和6年の会発足に当たり、11人の顧問を置いているが、その中には、貴族院議員や官僚の他に、海軍大将・野間口兼雄氏や、台湾総督・太田政弘氏が名を連ねている。(『牧口常三郎全集』第8巻421頁/

 

 

昭和12年夏 創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)

 

 昭和12年夏の創価教育学会発会式(麻布の料亭・菊水亭にて開催)をはさんで、にわかに上人に反抗しはじめたのです。

 

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吾々は日本国民として無条件で敬神崇祖をしてゐる。しかし解釈が異なるのである。神社は感謝の対象であって、祈願の対象ではない。吾々が靖国神 社へ参拝するのは『よくぞ国家の為に働いて下さった。有難うございます』といふお礼、感謝の心を現はすのであって、御利益をお与え下さい、といふ祈願では ない。もし、『あゝして下さい、こうして下さい』と靖国神社へ祈願する人があれば、それは恩を受けた人に金を借りに行くやうなもので、こんな間違った話は ない。 天照大神ばかりにあらせられず、神武以来御代々の天皇様にも、感謝奉つてゐるのである。万世一系の御皇室は一元的であって、今上陛下こそ現人神 (あらひとがみ)であらせられる。即ち、天照大神を初め奉り、御代々の御稜威は現人神であらせられる今上陛下に凝集されてゐるのである。されば吾々は神聖 にして犯すべからずとある『天皇』を最上と思念し奉るものであって、昭和の時代には、天皇に帰一奉るのが国民の至誠だと信ずる。(中略)天照大神のお札を お祭りするとかの問題は万世一系の天皇を二元的に考え奉る結果であって、吾々は現人神であらせられる天皇に帰一奉ることによって、ほんとうに敬神崇祖する ことが出来ると確信するのである。またこれが最も本質的な正しい国民の道だと信ずる次第である(牧口常三郎『大善生活実証録』/『牧口常三郎全集』第10 巻362頁~)

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牧口氏自ら靖国神社へ参拝していた(もしくは参拝を問題なく許容してい た)ことが明らかではないか。いったい、どこが「本来の日蓮正宗の教え」だというのか。 また、小平氏は「(天皇一元論は)当時の世相のなかで神札を拒む 合法的な一つの便法として、指導・徹底されたもの」とも言っているが、そもそも一方で"靖国神社参拝容認発言"があるのに、これでは、まったく苦しい言い 逃れにしか見えぬであろう。

 

 

 

 

 

 

 

[画像]:「通諜」のカラー写真

創価学会教育学会各理事

 仝     各支部長  殿

           理事長  戸田城外

 通諜

時局下、決戦体制の秋、創価教育学会員には益々尽忠報国の念を強め会員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戦ひ抜かんことを切望す。依って各支部長は信心折伏について各会員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。

一 毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り、皇祖天照大神皇宗神武天皇肇国以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し、国運の隆昌、武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと。

一 学会の精神たる天皇中心主義の原理を会得し、誤りなき指導をなすこと。

一 感情及利害を伴へる折伏はなさざること。

一 創価教育学会の指導は生活法学の指導たることを忘る可からざること。

一 皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること。

 以上

6月25日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

戸田会長著の『人間革命』によれば、戦時中、牧口氏は

 「森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国 の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろうが、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。

(中 略)

この大東亜戦争は、一年の後か、二年の後か、それは測れないが、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田 も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいている。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お 委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい」

 

 「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ」

 「国家諌暁をしなければ、日本は惨憺たる敗戦を招く!

 

等々の発言をしていたことが明らかだし、また、『大善生活実証録』(昭和十七年十二月三十一日発行)によれば、創価教育学会第五回総会(むろん牧口氏が主催した)の席上、理事の1人に

  「いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印 度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わ ず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある」

 

 

 

 

 

当時の学会の総会においては、毎回のように、

 「牧口会長の発声で天皇陛下の万歳を三唱し奉って」(第四回総会)

 「吉田理事の指導にて、遠く戦野にある牧口会長令息・洋三君をしのぶ軍歌を高唱し、(中略)牧口会長の発声にて、聖寿(天皇の年齢をさす)の万歳を三唱し奉って」(第五回総会)

いたのである。

 

 

 

 

 

戦争翼賛する牧口学会】で紹介されたような事実や主張に接した当時の人々が、"牧口会長は平和主義者"だと思っただろうか?答えはノーである。100人が 100人中、牧口会長のことを戦争翼賛者だと感じたことであろう。つまり「国家主義的な表現を使いながら、言葉の奥に主張を込めるような工夫」などなかっ たのである。そうであれば、仮令検閲下であったとしても氏の主張内容は、決して"反戦論者""平和主義者"のそれではないのである。

 

「戦 前・戦中の公式文書、出版物を読む上での、ジャーナリズム、学術界における常識」などというが、牧口会長を"反戦論者""平和主義者"と評価する人は、学 会関係者だけだろう。戦時下に戦争に反対し平和主義者と評価された人で、牧口会長のような戦争賛美の主張を残した人があったのだろうか。

 

(※ 牧口会長)森田君、しっかりやってきて下さい。日本の民族は勇敢だ。米太平洋艦隊や英国の極東艦隊の主力を全滅させたのは、勿論、作戦も巧妙であったろう が、搭乗員たちが勇敢で、敵の防禦砲火をものともしないで突っ込んだからであろう。(中略)この大東亜戦争は、1年の後か、2年の後か、それは測れない が、容易ならない難局に突入するであろうが、有り難いことに、森田君も、諸君も、この牧田も、比類のない信仰を持って、大御本尊様の御加護をいただいてい る。我々は日本が難局を乗り切るために広宣流布に挺身するから、森田君は御本尊様に一切お委せして、前線で、悔いのない働きをして下さい(戸田城聖著『人 間革命』/『慧妙』H5.8.16

(※牧口会長)国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ(戸田城聖著『人間革命』/『慧妙』H5.8.16

 

 

 牧口会長にとっての国家諌暁の動機は太平洋戦争に勝って日本を救うことであった。そうであれば、氏には時間的猶予などなかったはずである。また、国家諌 暁すれば、組織全体に大難が降りかかってくることは誰の目にも明らかなことである。それなのに、既に配給制が実施され、本土空襲も始まったという時期に、 弾圧回避の戦争翼賛発言をしていたのである。こういう態度の人を普通、反戦論者・平和主義者などとは言わない。なぜなら、一般庶民でも陰では"戦争はいや だ""このままでは日本は負けるだろう"くらいのことは言っていたからである。陰では反対していても、決して公言はできなかったのが普通の人々の態度だっ たが、牧口会長も普通の人々と大同小異だったということになろう。

 

 

 

 

 

・大正時代以降、牧口会長自身の著作物に戦争翼賛的言辞は数多く見られるが、反戦的言辞は見当たらない。

・牧口会長が熱心だったのは謗法払いと折伏、さらに国家諌暁による戦勝である。これについては戦後の戸田会長の記述からも明らかである。

・そのような牧口会長が、創価教育学会設立以降、折伏ではなく「戦争反対論や平和論」を「若い者を用(つか)って熱心に唱える」とは考えられない。

・もし柳田の記憶が正しいとすれば、昭和6年当時に柳田の前では、話しの流れの中でたまたま、かつて『人生地理学』で述べたような理想論を吐露したのであろう。しかし、戦線が拡大し、思想統制が厳しくなると一貫して戦勝を願うようになる。

 

 

 

 

「創價教育學會各理事

  仝   各支部長殿

             理事長 戸田城外

    通 諜

時局下、決戰体制の秋、創價教育學會員には益々盡忠報國の念を強め、會員一同各職域に於いてその誠心を致し信心を強固にして米英打倒の日まで戰ひ抜かんことを切望す。依つて各支部長は信心折伏について各會員に重ねて左の各項により此の精神を徹底せしめんことを望む。

一、毎朝天拝(初座)に於いて御本山の御指示通り 皇祖天照大神皇宗神武天皇肇國以来御代々の鴻恩を謝し奉り敬神の誠を致し國運の隆昌武運長久を祈願すべきことを強調指導すべきこと

一、學會の精神たる天皇中心主義の原理を會徳し、誤りなき指導をなすこと

一、感情及利害を伴へる折伏はなさざること

一、創價教育學會の指導は生活法學の指導たることを忘る可からざること

一、皇大神宮の御札は粗末に取り扱はざる様敬神崇祖の念とこれとを混同して、不敬の取り扱ひなき様充分注意すること   以上

  六月廿五日」

 

 

 

 

「国家諌暁だね。陛下に広宣流布のことを申し上げなければ日本は勝たないよ」

 「国家諌暁をしなければ、日本は惨憺たる敗戦を招く!

「いまや、島国日本が北はアリューシャン群島方面より遥(はる)かに太平洋の真ん中を貫き、南はソロモン群島付近にまで及び、さらに南洋諸島を経て西は印 度洋からビルマ支那大陸に、将又(はたまた)蒙疆満州に至るのは広大な戦域に亘り、赫々たる戦果を挙げ、真に聖戦の目的を完遂せんとして老若男女を問わ ず、第一線に立つ者も、銃後に在る者も、いまは恐らくが戦場精神によって一丸となり、只管(ひたすら)に目的達成に邁進しつつある」

 

 

 

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戦争中は一億国民の上から下まで「聖戦」に勝つことを願って一丸となっていた。 反対していたのは、共産党と一部左翼運動家だけでした。

新聞や雑誌もすべて「戦争礼讃」一色だったし、戦後、もっともらしく反戦・平和を売り物にするようになった 進歩的文化人の多くも、戦争中は先頭に立って戦争を礼賛していたのです。

そうした状況の中で、「反戦・平和」などと言ったら、軍部の弾圧を受ける前に、周囲の国民から「非国民」だ と総スカンを喰い袋叩きにあったでしょう。

既成の仏教集団も、皆、戦争中の戦争協力を認め、反省し、自己総括した上で、今日「反戦。平和」を 唱えているだけです。

 



日蓮正宗においても、戦争中は、軍部による「宗教統一」の圧力や、言いがかりをつけられて弾圧されることを 避け、700年来の伝統と教義を守り続けるべく大変苦労されていました。ですから、「戦争反対」などと言える状況にはなかったのです。

 

 

昭和18年当時の創価教育学会が、何とか弾圧を逃れるために、型通りの神札を受けることにし、戦争協力を 訴えざるを得なかったことは、特に恥じることではないと思います。

 



それを、事実を曲げ、「戦争・平和」を唱えて弾圧された、などと言いだしたのは、「言論出版問題」において、 創価学会批判の急先鋒となった左翼関係者や文化人達の攻撃をかわすため、そして、公明党に「社・公・民」 などと左翼的路線を取らせ、国民の人気を取らせるためです。また、外国においては、反日感情をかわして布教を進めの方便として言い出したわけです。

 



本当は、多額の寄付をした見返りに勲章や名誉称号の授与がなされる、というのが、与える側と 受ける側、双方の本音なのですが、それを隠し上辺を綺麗ごとで取り繕うために、「反戦・平和」 などと強調しているのです。

 



戸田城聖氏は、極めて右翼的な思想の持ち主であり、「水滸会記録」や戸田時代の学会歌や組織、 文化祭を見ても、戦争の「右翼思想」を濃厚に持っていたことが分かります。

 



ことに「水滸会記録」を見ますと、戸田城聖氏は再軍備論者であり、徴兵制度の支持者であり、中国や韓国 、東南アジアに対する認識も「支那」とか「朝鮮」と呼び、戦前の植民地や中国侵略を行っていた当時、 これらの国を見下し、蔑視し「日本国は優秀なエリート民族だ」とうぬぼれていたことが、記録から見て取れます。

 



また、日本が盟主となってアジアを統一し、欧州・アメリカと「三国志」をやるべきだと言っています。

 



牧口氏も、戦前、萬世一系の天皇が現人神(あらびとがみ)であると信じ、武力による侵略戦争、特に中国に 対する侵略を正当だとする見解を述べています。

 



そうしたことをきちんと自己総括することもなく、うわべを塗り替え、戦争中は「反戦・平和」で弾圧され、以後、 一貫して「反戦・平和」を訴えてきた。

 

などと「嘘」をついているからそれがばれそうになると慌てなくてはなら ないのです。

 



当時の創価教育学会が、「日本の国が戦争に勝つためには、天皇陛下が法華経を信仰するしかない。さもなければ 日本は戦争に負ける」と主張したことが「治安維持法違反」に

 

「天皇陛下は、天照大神の萬世一系の子孫たる 「現人神」である。その天皇陛下を崇める以外に天照大神の札を拝むことは、二重になるから必要ない」 と主張していたことが「不敬罪」に問われたのです。

 



けっして、「反戦・平和」などと言ってはおりません。

 



創価教育学会が弾圧され、牧口会長、戸田理事長が投獄されたのは「治安維持法違反」および「不敬罪」の嫌疑 によるものです。

 

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創価学会初代会長・牧口常三郎、二代目会長・戸田城聖は大日本皇道立教会のメンバーで、バリバリのリアル右翼であった。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9A%87%E9%81%93%E7%AB%8B%E6%95%99%E4%BC%9A

 

 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1117718926

 

 http://sougakusalon.blog.shinobi.jp/Entry/178/

 

 

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牧口・戸田両氏が戦時中逮捕された理由は両氏が「大日本皇道立教会」の活動に関与していたためだ。

 

 http://www.asyura.com/sora/bd13/msg/763.html

 

牧口常三郎が会長として主宰した「創価教育学会」は、当時、軍部が進めていた宗教政策からはみ出す存在として弾圧を受け、牧口会長とともに理事長の戸田城 聖も投獄された。

 

 もっとも、その理由は、池田大作らが後世ねつ造して宣伝したごとく、「反戦・平和」を主張したからではなく、軍部が進める日蓮宗各派統合政策に反対し、ま た、「日蓮によって祈らなくては国が亡びる」と強く主張したことが、国家神道とそぐわなかったから、ということが主なものであった。

 

創価教育学会も、当時 の他宗教と同じく、〝戦勝祈願〟を行ない、また、座談会の初めには宮城よう拝を行なっていたのであって、その当時、〝反戦〟とか〝平和〟とか言う人物や団 体は、日本の社会には存在しなかったか、できなかったのである(そんな歴史のイロハも知らずして、「創価学会は反戦・平和で軍部に弾圧された」という神話 をウノミにして創価学会シンパとなった進歩的文化人が現実にいるから驚かされる)。

 

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  それは、牧口氏が、「在家団体・創価学会」の設立を上人に願い出たところ、上人がこれに危惧(きぐ)を感じて許可されなかったため、やむなく牧口氏は、教 育を研究していく団体という名目で「創価教育学会」を発会、この際の確執が上人に対する反抗の原因となった、といわれています(当時の僧侶、信徒の証 言)。

 

 実際、『創価学会年表』によれば、牧口氏等は、この時期、それまで歓喜寮で開いていた会合をピタリと止めてしまっており、このことが上人との関係険悪化を裏付けています。

 

 この時の牧口氏は、よほど日淳上人に反発を覚えたのでしょう、会員達を使って、上人に対する誹謗(ひぼう)・罵倒(ばとう)・吊し上げまで行なったのです。その事実は、当時の会員の証言や、覚え書きによって伝えられるところです。

 

牧口氏は、所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と、席を蹴(け)って退去(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1

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こうして、上人との関係が険悪化したことから、牧口氏は、所属寺院である歓喜寮に会員が近付くことまで止めるようになり、これを破った者(三ツ矢孝氏・木村光雄氏等)に対して烈火の如く叱(しか)りつけました。(『慧妙』H18.3.1

 

本山宿坊理境坊住職の落合慈仁師とも別れ、牧口氏に率いられる創価教育学会は、ここで日蓮正宗と縁が切れ

 

(第59世日亨上人発言『畑毛日記』直達講副講頭を務めていた竹尾清澄著/『慧妙』H18.3.1

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牧口氏等は、この時、信仰上では日蓮正宗とほぼ絶縁に近い状態になってしまったものと思われます。とはいえ、日蓮正宗は慈悲を旨(むね)とする宗でありま す。

 

そのような不遜(ふそん)な牧口一派に対しても、日淳上人は、信仰上、再起する道だけは残しておこう、と思(おぼ)し召され、牧口氏等にそのつもりが あれば元の所属寺院・常在寺へ戻れるよう、手配なされたのでした。

 

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さゆふらっと氏へ

 

 ユダヤ人ではありません。ユダヤ人は過去から民衆の不満と憎悪を向けさせられてきました。ユダヤ人は昔からずっと被害者でした。悪いのはキリスト教会です。我々が憎まなければいけないのはキリスト教会です。その代表がブッシュ一味つまりナチス1派です。_悪いことをしてきたのは、80年前ほどからアメリカプロテスタント右派であるブッシュ一味つまりナチス1派です。KKK団はアメリカプロテスタント右派です。ブッシュ一味つまりナチス1派はKKK団と同じと言って良いでしょう。

 ユダヤ人は憎悪の身代わりとして用いられてきました。

 私はこのことをカバラ数秘術で過去の出来事を調べていて気付きました。詳しくは私のホームページに書いてあります。

 ユダヤ陰謀論者の多くはアメリカプロテスタント右派です。宇野氏、rapt氏がその代表です。ユダヤ人を悪者にするのがアメリカプロテスタント右派の目的でした。彼らは世界破滅を望んでいます。世界破滅すなわち第三次世界大戦またはそれに類することが起こらないとキリストが再誕しないからです。

 イスラエル問題はアメリカプロテスタント右派が創造しました。ユダヤ人はその被害者です。ユダヤ人は巧く誘導されて、ポグロム(虐殺)から逃れるために集団で住む土地を求めていました。ドイツの偉いユダヤ人はアフリカの未開に地にその地を定めようとしましたが、アメリカプロテスタント右派に誘導されたユダヤ人は彼に意見に大反対し、そして今のイスラエルが集団で住む土地に決められました。

 ユダヤ陰謀論者には確信犯と欺され犯が居ます。欺され犯はベンジャミン・フルフォード氏が代表でしょう。しかし、彼も、ユダヤ人の極一部が悪いだけで、大部分のユダヤ人は善良と言っています。彼も、イスラエル問題はユダヤ人が欺され誘導されたものと言っています。

 遠い過去の先祖がユダヤ人であっただけではユダヤ人ではありません。キリスト教に改宗したらユダヤ人ではありません。でも、それらの人達もユダヤ人とされている傾向があります。私も祖先は代々、禅宗ですが父が創価学会に入りました。それで創価学会員とされています。私は禅宗の人とは言われません。

 カトリックとプロテスタントは犬猿の仲です。もの凄く争っています。カトリックである広島と長崎はそれ故に原爆を落とされました。広島と長崎は日本に於けるカトリック教会の中心だったからです。

 最近のフィリピンの大台風もフィリピンがカトリックだからです。haarp によってフィリピンは大被害に遭わされたのです。

 ユダヤ陰謀論者からロックフェラー(100歳)は大悪人(悪魔)とされてきましたし、今もされていますが、彼は慈善家です。私は飛行機事故で亡くなられた医者であった彼の息子を直接に知っています。彼の下で3年間働きました。彼はキリスト教徒でした。ユダヤ教徒ではありませんでした。また、彼ほど正義感の強い人は居ないほどで、我々は彼の余りもの強すぎる正義感を心配していましたが、やはり、その通りのことが起こってしまいました。彼はエボラ出血熱の真実を公表しようとして殺されました。

 彼ほど良い人の親が大悪人(悪魔)のはずがありません。私は彼はアメリカの大金持ちの息子とだけ知っており、ロックフェラーという名はアメリカには多いと思っており、その事故が報道されるまで知りませんでした。彼はもの凄く良い人で、もの凄く正義感の強すぎる人でした。彼の強すぎる正義感故に「国境なき医師団」は成り立っていました。彼の背中を我々は見習って働いてきました。

 

 誤解しないで欲しいこととして、私は統一協会にもアメリカプロテスタント右派にも大学時代、通った経験がありますが、どちらも極めて熱心で、その暖かさは比肩するほどです。熱心なことで有名なエホバの証人やモルモン教を凌駕します。創価学会はエホバの証人やモルモン教と同程度という感じです。

 アメリカプロテスタント右派は教会を持たず、会社員を辞めた30代の人が牧師(伝道師)をしていました。私の住む処にも来られたほどです。今でも、その人柄は尊敬しています。伝道に命を賭けられていました。

 教会はアパートの一室であり、これは統一協会と同じでした。そこに来る人は皆、人がもの凄く良くて、これも統一協会と同じでした。今でも大学時代のアメリカプロテスタント右派には非常に良い印象を持っています。

 私はカトリックの教会にも通った経験がありますが、そこは猜疑心と嫉妬などが渦巻き、とても入れないという感じでした。

 

 

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長野教員赤化事件

 創価教育学会の設立の事について、先の章では触れた。
 牧口氏の事は、本来ならばそれなりの紙片を割いて書かなければなかなか難しいところではあるが、三船小仏青年は忙しい。
 この場所では「永遠の指導者」として、創価学会の三代会長の知られない側面を含め書きしるし、その中から創価学会の無謬性という事について、再考を促す事を目的としているので、次の事に進めたいと思う。

 

 

 

赤化青年について

 創価学会の三代会長の池田氏は、創価学会は平和人権の団体であると述べ、その淵源を牧口会長の戦時中の投獄という歴史から導き出し、それをもってして「反戦・平和の組織である」と述べている。
 しかし第三文明社発刊の「牧口氏全集」第9巻の「後期教育論」に未収録の創価教育学会機関誌「新教」の中には牧口氏の諸論文があるが、その内容を読んでみると、実はこの創価学会が作り上げている牧口氏像、創価教育学会像とは異なる側面があるのが解るので、ここで紹介したいと思う。

 ここにある論文を見てみると、創価教育学会はその活動の初期において、内務省警保局、警視庁労働課という、左翼の転向問題を扱っている治安機関と連携をとりつつ、長野県などで積極的に赤化教員(共産主義教員)の転向問題にも積極的にかかわっていた事が解る。

 この内容の詳細は「宮田幸一のホームページ」に記載されているので、ここでその内容を参考にして、この事について少しまとめてみたい。

宮田幸一のホームページ
http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/

 

 

 

 

 

赤化青年の完全転向は如何にして可能なるか


全国数万の赤化青年転向指導のために (新教 193512月号)

序説

 赤化事件に関係した禍によって郷里の教育家からいつまでも疑ひの目を以て見られ、悲惨な生活を送って居る在京者の四君が不思議な因縁によって本会の正会員となり、半歳余り創価教育学の科学的研究から、遂に宗教革命にまで徹底した結果、茲に完全なる転向が出来、明朗勇敢なる生活に復帰したことを赤裸々に郷党に報告して謝罪すると共に同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て、それらの四名と共に余は某県に旅行して左の如き講演をして帰京した。これは全国の数万人を超えたる同境遇の青年に対して共通の事として、教育家諸君の一顧を煩はすに足るべしと信ずる。

 吾々は先づ内務省警保局、警視庁労働課長等を数回訪問、関係教育家等と懇談して少からず感動を与へ、内務省より郷里の警察部へ特別電話までかけて貰ったこととて、万事に都合よく完全に予定の目的を達したものである。

 一、完全転向を保証する原理はあるか。
 ニ、完全転向とは何を意味するか。
 三、その証明は何を以てするか。
 四、その基礎たる宗教とは何ぞや。
 五、宗教革命は可能なるか、その方法。
 六、国体と一致したる宗教とは如何。
 七、創価教育学との関係如何。

 

 

 

 

完全転向を保証する原理はあるか

 

 現在の赤化青年のすべてを完全に転向せしめ得るだけの指導原理はあるか。もしあるとせば、本人は勿論、社会のためにも、はた日本全国に於て知識階級の最も注目すべき緊急事項ではないか。だが、「今の世にそんな事が出来るものか」と真面目に考へやうともしないのが、普通のやうである。これは今日まで転向者は多くても、大概は止むを得ざる境遇や事情からであって心の奥底から目醒めたのではないと思はれるから無理はない。といって、我が国の数千余名の青年教育者がこの儘朽ち行くのを袖手傍観することも出来ないとしてか、一人前百余円も出して赤色脱退の講習などに派遣するのを見れば、内実は注意されるに相違ないと信ずる。そこでもしも、実際上に完全転向の証明がされ、その基づく原理が説明されるならば最早疑ふ余地がないではないか。之が吾々の当地へ参った重要なる理由である。たゞしこれは局外者としての立場から言ふことで、事件の当事者としては、その前に「皆さんに大なる心配をかけて、済まなかった。就ては不幸中の幸に完全なる転向が出来たつもり故、証拠となって、他の友達をも導びきたい」といふ謝罪の意味である事は申すまでもないのである。

 これだけを表明したならば、もう、いつまでも過去の怨みを持たれる方はあるまい。悪かったには相違ないが、その悪を未然に反省せしめるだけの先輩も無かったといふことには、責める者にも反省の余地があらうからである。ともかくも今回は警保局や警視庁や特高警察部等へ亘りをつけた上、教育界へ宣明したのであれば、もはや関係者には安心されて然るべしと思ふ。これ以上に運動がましきやうの意味は毫もないことだけは特に御断りしておく。

 

 

 

 

 

オルグされた人達

 

 この長野赤化教員事件で創価教育学会にオルグされた人々で、代表的な人物について略歴を以下にまとめておく。本来、この人物の一人ひとりを調べていくと、それぞれに書籍一冊ができてしまう様なものであろう。しかしここではこの事件から牧口氏という人物の断片を少しでも読み取る事を目的としているので、詳細については割愛させていただく。

渋谷(澁谷)信義
908
524日、伊那村字火山199、島太郎・まつ四男、28年長野師範一部卒、在学中から『アララギ』に投稿110首掲載(筆名丘村比呂人)、4月木祖小、30年長地小、筒井泰藏と親交、31年同僚と社会主義研究、32年春日昇の勧めで教労・新教、33年正月上京し油絵4点を中川紀之(二科)の批評受ける、26日下諏訪署に検挙、起訴、未決中短歌を葉書で筒井に(200首余)、3421日隣房今村治郎に誕生日祝う歌贈る、521日懲役2年執行猶予4年、上京、1936720日富士山麓で自殺(辞世の歌「たえたえてついに果なき淋しさの道とし知らば迷はざりしを」遺す)

小林 濟(こばやし・わたる)
1908
26日、北小川村大字瀬戸川989128年長野師範一部卒、4月木島小、294月短期現役兵、314月下諏訪小、324月澁谷信義の勧めで新教、11月春日昇の勧めで教労、33218日検挙、起訴、34521日長野地裁で懲役2年執行猶予4年、35年帝国更新会、その後、創価教育学会に関係するも、1945年に中国で戦死。

矢島周平
1907
429日、祢津村西町214928年長野師範一部卒、高島小、32年筑摩地小、33217日検挙、28日休職、731日退職、4376日検挙投獄され巣鴨拘置所へ。拘置所では転向せずに出獄し、その後、創価学会の理事長に付くが、後に宗門僧侶として出家。1982620日死去

高地 虎雄(たかち・とらお)
1911
59日、倉科村808、和太郎・なほ三男、29年屋代中卒、30年長野師範二部卒、在学中エスペラント学び「哲学の貧困」読む、31年専攻科卒、4月短期現役兵(松本歩兵50連隊)、9月塩崎小、同僚池田實美から「共産党宣言」、322月河村卓らの勧めで新教、3月教労、更埴地区責任者、3329日夕方篠ノ井署に検挙、警視庁特高2人に一昼夜拷問、起訴、34521日懲役2年半、109日控訴審で懲役2年、上告却下、8月小菅刑務所に下獄、352月長野刑務所へ、113日仮釈放、その後創価教育学会に関係するも、キリスト教に転向、37110日入営(松本50連隊)、9月召集、中国戦線へ、1986328日死去

 

 

 

 

 

赤化青年の転向への関与

 前章では創価教育学会の機関誌「新教」から、実際に牧口氏全集から削除されていた論文を紹介した。この事件、現在の創価学会の活動家の中で、どれだけ知っている人はそうはいるまい。恐らく事件そのものについても知っている人は皆無であろう。
 「長野赤化教員事件」とは何か。
 創価教育学会、そして牧口氏が関与したというこの事件について、少し詳細を掘り下げねばなるまい。

 

 

 

 

 

赤化青年について

 長野赤化教員事件という事を調べると「二・四事件」というのものが出て来る。
 これは1933年(昭和八年)24日から半年あまりの期間、長野県で多数の学校教員が「治安維持法違反」で検挙された事件である。弾圧の対象となったのは日本共産党、日本共産青年同盟、日本プロレタリア文化連盟関係団体や、労働組合、農民組合など広範囲に及んだが、特に日本労働組合全国協議会(全協)や新興教育同盟準備会の傘下にあった教員組合員への弾圧は大規模であり、全検挙者数608名のうち、230名が教員であった。

 もともと長野県では、大正時代から白樺派などの影響を受けた自由主義教育が盛んであったが、1930年代に入ると、そのような伝統の上に、左翼的教育運動である新興教育運動が広がりを見せるようになった。1931年秋には新興教育研究所(新教)の支部が伊那と諏訪に設けられ、19322月には、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の日本一般使用人組合教育労働部長野支部が結成されたのを機に、新教の2支部は統合されて長野支部となった。

 百数十名の教員を組織したこの運動は、教育理念や教材について、例えば、アララギ派、三沢勝衛、木村素衛などを俎上に載せた組織的批判活動を展開し、組合員ではない教員にも影響を及ぼすようになっていった。新興教育運動は、マルクス主義ないし弁証法的史的唯物論を掲げた左翼運動であったが、細野武男の回想によれば「さるかに合戦一つを説明するのでも階級闘争やと言って説明」するようなものであったという。

 二・四事件で弾圧された教員の多くは、子どもたちや父母を始め、周囲から信頼されていた優れた教員であった。このため、例えば、7名が逮捕された木曽地区の中心人物であった日義村の日義小学校の名取簡夫(なとり ふみお)が検挙された後、名取を慕っていた生徒たちの間に「同盟休校」を行い、警察書に出向いて名取の解放を求めようとする動きなども起こったという。

 しかし、二・四事件の弾圧によって、長野県の教育は、新興教育のみならず自由主義的伝統も失われ、満蒙開拓青少年義勇軍の大規模な送り出しに象徴される戦争協力体制への著しい傾斜を見せることになった。

 

 

 

 

 

 

完全転向の意義如何

 

 完全なる転向とは何を意味するか、先づ以て判明されなければならぬ。先日警視庁の労働課へ帯同して、転向にも無数の程度があるなどを話し合ったが、消極的と積極的、利己的と社会的等、種々の検討が必要であらう。少くとも左の三ケ条だけは要求されねばなるまい。

 一、皇室中心の国体観念と合致し、虚妄なる観念論的日本精神でなくて充実したるそれたる事。
 二、あくまで合法的手段の生活をなすこと。

 これだけでも転向者たるに於て今の内では沢山でないか。しかしながら、これだけならば気の抜けたビールのやうなもので、毒にはならぬが、薬にもならぬといふ非社会的の個人主義で、教育者としては最劣等級のものといはねばなるまい。是に於てか、こんな消極的なる転向よりは、も一段飛躍したものでなければならぬ。そこで今一ヶ条を加へなければならぬ。

 三、自己一身を衛れば足るといふ消極的の個人主義の生活を脱し、積極的に社会の指導に任ずるといふ愛国心に燃える事。

 かの階級闘争の手段として自国を超越して世界のプロレタリアをあてにするといふ、観念論的なマルキシズムは全く捨てると共に、日本精神も内容の空虚なる観念論に満足せず、盲目的感情論に堕せず、国体の根柢にまで突き詰めた上で、建て直った教育者とならねばならぬ。而して合理的計画的の教育をなし、他の文化的分業者が悉く科学的指導によって挙げつつある程度の高い能率を教育者も挙げ得るやうにならねばならぬ。是に於て初めて前科を償却した完全教師といふことが出来るであらう。

 

 

 

 

 

 

 

何を以てその証明をするか

 

 この事を何によって証明するか。単なる観念論的理論だけではなく実際生活によっての証明でなくてはなるまい。而してその上にその基づく理論が説明されるならば、もう疑ふべからざるものとしなければなるまい。この場合に「文証と現証と道理との三つが具備しなければ信ずる勿れ」といふ釈尊の御遺言が役立つのである。

 その現証として完全転向せる四君の告白が如何ほどの価値を持つかは、こゝに云ふべき限りではない。が、全国の赤化事件の当事者が等しく憂鬱の生活に沈淪してゐるのを普通とする中に、敢然として警視庁や警保局を訪ひ、仇敵を忘れて朗かに懇談し、積極的に同じ境遇者に呼びかけんとする途上にある以上は、これをだも疑ふのはあまり懐疑論者でないか。それよりは、「何故か」の研究こそ今後の方針として重大でないか。然らば問題は最早その根拠如何といふことに進んだものであらう。いかに立派な言動でも人間同志では欺くことが出来るから、容易に安心は出来ない。そこに宗教的根拠の要求が生ずるのである。

 といふて、如何なる宗教でも偽れぬ保証になるかといふと、さうではない。生き仏の如く尊敬を博して居る高僧や牧師でも、随分如何はしいものがある。氏子総代が公然賽銭をごまかしても神罰がないといふ世の中ではそれもあやしい。是に於てか、正善必賞、邪悪必罰といふ文証と道理と現証とが具備した宗教でなければ人格の保証にはなれないことになる。

 四君の言によると私に何か非凡の力でもあって、完全転向をさせた如くに聞えるかも知れないが、これは全く間違ひである。頭脳明晰なる為にマルキストにもなったほどの青年が、私の如き無名者の言説に動かされるなどとは思ふのが既に間違ってゐる。たゞ経文通りの実証が、てき面に表はれ、それが一々道理に合ふといふ説明がつくからたまらない。それが為めには如何ともする能はず、信仰に入って見ると、ここにマルキシズムや、ありふれた宗教とは全く異った境地が展開するので、行と解とが二つながら進んで来、するとこんどは今までの独善主義で到底、居られなくなった結果、今度の如き頼まれもせぬのに、苦しい中から自腹迄きって同境遇者に呼びかけ、聊か罪亡ぽしと共に、社会奉仕をしようとするのである。こんなことは既成の宗教に囚はれた見解では、恐らく理解され難いことで、五年も十年も宗教生活を重ねてさへも出来ないことを半年や一年で、生意気だと評価されるであらう。

 そこでこの四君の場合に於て、単なる枝葉の如き、浅いものなら証拠にはならぬが、宗教の革命、信仰によって心底の根本が改められたればこそ、完全転向が出来たことが肯かれると共に、宗教革命までしなければ、此種の救済が出来ないといふことが言へるであらう。吾々はこれ以外に恐らくは如何なる方法もあり得ないといふ仏語を疑ふ能はざるものである。がこれだけの魂明では到底納得させることは出来ないであらうが、今は之れ以上には及べないことを遺憾とする。たゞこれ以上のものが他にあるならともかく、さもなくば文証と現証と道理の三具足を条件として、実験されんことを切望するものである。

 赤化教員諸君よ、破廉恥罪とは異ふぞ。完全転向が出来たらば、いつ迄も憂欝であってはならぬ。維新革命の志士は大概一度は獄舎に修養したものでないか。今日の立憲政治は往年自由党の諸志士が藩閥政府と闘ったお蔭である。たゞ他力を頼み、独を慎しむだけで、無害とはなったが、有益とならなければ真の甦生とは云へない。悪を去ると共に善に向って敢然と進んだ以前の勇気を恢復してこそ、初めて毒が変じて薬となるのである。そのためには自行と化他との両生活を並行せねばならぬことを記せられよ。

 

 

 

 

 

その基礎たる宗教とは何か

 

 然らば完全転向の根拠たる宗教とは何か。之に答へるのは造作ないが、幾人にも試して見ると、十中の九分九厘までその名前を率直にいふと、開いただけで、既成宗教の基礎観念から「又例のか」と、怨嫉軽蔑の感情を起し、認識もしない前に評価して、真面目に聞かうとはせぬものである。それが経文に明記される文証の通りであるのに驚かされるので、少しく予備的な断りを必要とする。

 他の事なら何でもないことが、宗教問題に限ってさうであり、一たん怨嫉の感情が遮ったが最後、もう常識を失って仕舞って、狂態にまで至るものがあり、それを如何なる智者でも学者でも宗教家でも、小さき個我を捨てきれぬかぎり、必ず免れ得ないこと、恰も罪人が警官の前に立ったやうになるから、斯くは念を押すのである。

 

 

 

 

 

 

宗教革命は可能なるか

 

 さてその宗教革命の問題に入るに当って、如何なる宗教を選定すべきか。これは前記の完全転向の三条件を直ちに之に適用してよいと思ふが、要するに科学に背反せずして、しかも現当二世の生活原理たるべきものたること、「古今ニ通シテ謬ラス、中外ニ施シテ惇ラス」と教育勅語に仰せられた神ながらの大道に合致して、所謂日本精神の根柢たるべきものでなければならぬ。

 果して然らばそれこそ学校教育に取り入れて差支なく、又この根柢がなくては真の教育は出来ない。今の教育の欠縮がここだと断言してよいと思ふのである。純真なる科学的検討を切望してやまない次第である。

 さて如何したらその比較検討が出来、而してその中から最高の宗教が選定されるかの問題に入らねばならぬが、これは仲々の大問題であって、茲に言ふ余裕はないから、たゞ「日出でぬれば星かくる。巧を見て拙を知る」といふ伝教大師の金言に基づく、評価法の原則によって、オリンピックの競走や、撃剣柔道の試合や、美術の展覧会などのやうな、宗教それ自身の比較討論や、現証の比較などをなすことが出来るならぱ決して不可能ではなく、且つ案外造作ないことだけを言ふておく。

 廻りくどくも、だめを押すのは評価と認識をも混淆せず、宗教の本質を認識した上で、公平に評価されんことを切望するからである。
 さて愈々是等の人々の完全転向を可能ならしめた宗教は何かといふと、それはもう御察しでもあらう所の法華経である。
 といふと、天台宗や日蓮宗の各派を十把一束に批評されるのが普通であるが、これに対して茲に結論だけをいふと、その中に於ける唯だ一つしかない日蓮正宗といふ富士山麓の大石寺派をいふのである。何故に他のすべてに比較して之のみをいふかと、次の疑惑が起ると思ふが、それは明確なる歴史上の根拠があり、文証と現証と道理の三つが具足されてゐるからの事で、冷静にそれが解るならば、歪曲してゐない限りは何人でも理解し得べき事であり、理解した以上は必ず信ぜざるを得ないと思ふのである。要するに日蓮宗といへば「南無妙法蓮華経」の題目を唱へればよいと思ふであらうが、それだけでは何にもならぬもので、日蓮聖人が日興上人に血脈を相承された法華本門の本尊と、本門の戒壇と本門の題目との三大秘法に従ひ、正統なる本尊に対し奉って、唱題するにあらざれば、真の大利益はなく、それによる事によってこそ、初めて賞罰が明に証明されるのである。

 世界無数の宗教を比較検討することなどは、痴人の夢だと嘲るかも知れぬが、それにはちゃんと仏は判定の標準を示してござる。理論とその価値(功徳又は利益)との両方から右の如くすれば造作ない。「快刀を以て乱麻を断つ」が如きものである。たゞ弱いものが負けるのを恐れて、正々堂々と議論することをせず、陰でこそこそ悪口をいふ。評価と認識とを混淆するから、いつまでたっても正邪の見別けがつかぬ。そこで今日の如き思想混乱がつゞくのである。

 左の五重相対がその標準尺度である。
宗教 外道ーー因果の法則を無視した又は現世だけの宗教等
   内道ーー小乗教ーー個人主義的な小利益の仏教
       大乗教ーー権教ーー観念論的の教説
            実教ーー迹門ーー久遠の生命の開顕されぬ教説
                本門ーー脱益
                    下種益 

 これによって判定するならば、吾々にでも解るのではあるが、ここにそれをすれば大論文とならねばならぬので、一例をいふに止める。権実相対の如きは観念論的と実証論との哲学などに比すべきものであり、小乗教とは個人的の生活法であり、大乗教とは社会的生活法のことである等。

 もしも釈迦と孔子と基督が同一の場所で会談することがあると仮定せよ。吾々凡夫の間に見るが如き、浅ましき感情衝突があるであらうか。地位名誉等の小なる個我を超越したが故に、万人の尊敬を受ける程の聖賢である以上、お互に解らない間は真理闡明のためには、己を空うして忌憚なき議論をこそすれ、釈然として師弟の関係にまで至らねば止まないものでないか。然るに「親心子知らず」の各門下がその浅はかなる見識を以てはてしなく醜き論争をつゞけ、遂に感情の衝突を以て終始するが如きは、その事自体が、既に唾棄すべき陋劣を暴露するものであらう。然るにその善悪優劣を見別けもせず、法衣を着てさへ居れば、何でも構はず妄信するといふに至っては言語同断の極ではないか。

 人があり。前後矛盾の実行を敢てする、狂人でなくて何であらう。果して然らば釈尊一仏の説教が時によって水火の矛盾があるとせば狂人の言として信ずるに足らぬものでないか。一そのこと全く信ぜぬならばまだしも、然るに仏として無上最高の崇拝を捧げながら、其中に於ける念仏と真言、禅と法華等と氷炭相容れざる論争を対岸の火事視し、しかもその何れかを妄信し、若しくは何れをも信ぜずといふに至っては何と評すべきか。理性を備へた甲斐がどこにあらう。所詮宗教革命によって心の根柢から建て直さなければ、一切人事の混乱は永久に治すべからずと云ふ所以である。

 さて法の価値の比較に至っても要するに「日出でぬれば星かくる巧を見て拙を知る。」といふ伝教大師の金言を日蓮聖人が実証によりて裏書されたのを原則とすれば造作ない。これが即ち創価教育学の価値原則とする所である。

 美術、芸術などの鑑賞はそれである。上級のものが現はれない間は、最上の美として輝いて居られるが、一度上級のものが出現して、それに対するや、忽ち醜と変化する。撃剣柔道なども然り、この場合弱者は強者に対し、必ず嫉妬心を以て、比較されるを嫌ふものである。現今沢山の宗教が蘭菊と無階級に並立し、人間の帰趨を惑はしめる所以がそれによる。

 目前に小利益を与へて遠大の損害を与へる宗教は、速大の利益を与へるためには、目前に小損害を与へて警醒せしめんとする親心の表現された宗教に対すれば悪魔である。
 知らぬ間こそ今までのものが一番よいと思はるれ、一旦解った以上は最早信ずる能はざるに至ること、恰も流線型の自動車に一度乗って見ると旧式のそれには乗れない心持がすると同じである。
 斯くの如くに比較し検討して来ると、勢ひ妙法といふ最高最大の正法に到達せざるを得ぬ。然らば最早以下の小法による生活即ち小さな利害に打算的なる生活などに執着して居られないやうになるのである。これが即ち完全転向となった根拠である。

 

 

 

 

 

国体と一致したる宗教とは如何

 

 そんな最高の宗教がこの世に存在するなら「なぜ今までに顕はれないのか」とは、次に誰にも起こされる疑問であるのが判で捺したやうである。この問いに答へることは、同時に「国体と一致した宗教は如何」の問いにも答へる事である。

 日蓮聖人が最も力強く世に警告する例に挙げられたのは承久の乱である。三上皇とも島流しにされ給ふたあの御最後は何事ぞ。権の大夫は臣でないか。猫と鼠、鷹と雀の闘ではないか。鼠が猫に勝ち、鷹が雀に敗けるといふ法があるか。と左の如く言はれてゐる。

 「天子いくさにまけさせ給ひて隠岐ノ国へつかはされさせ給ふ。日本国の王となる人は天照太神の御魂の入りかはらせ給ふ王也。先生の十善戒の力といひ、いかでか国中の万民の中にはかたぷくべき。設とが(失)ありとも、つみ(罪)ある親を失なき子のあだむにてこそ侯ぬらめ、設親に重罪ありとも、子の身として失に行はんに天うけ給ふべしや云々。」(高橋入道御返事)

 斯様なる強い折伏を時の政府に対って忌憚なくされるから、あの迫害の来たのは当然である。されば日本国体に違背したる幕府に容れられないのは徳川時代でも同様であらう。是に於てか当時の政権に阿附迎合して、その勢力を得てゐた諸宗並に日蓮各派の中にありて、あくまで宗祖の正意を頑強に伝へて屈するところないのが、日蓮正宗唯一つあるのみとせば、明治の世になって初めて顕はれることに怪しむ所はあるまい。蓋し覇道をしりぞけ、皇道を顕揚し、天壌無窮の神勅に合致するが故である。

 聖徳太子や桓武天皇は申すに及ばず、和気清麿でも、菅原道実でも、楠正成でも国史中の最大忠臣は皆法華経の信者であり、徳川光圀、加藤清正、大石良雄、大塩平八郎、相馬大作、佐久間象山、勝海舟等諸英雄なども悉く法華経の信者であったことを思ひ合せると歴史家の宗教に対する無識、歪曲から殊更に之に触るることを避けた為に教育社会には一向注意をされないで来たのであるが、法華経が日本国体といかに親密の関係があるかゞ察せられやう。「古今ニ通シテ謬ラス中外ニ施シテ惇ラズ」と仰せられた「神ナカラノ大道」と契合するからである、と断定するに異議はあるまい。

 赤化事件の闘士が精神の根柢として宗教革命にまで及んだ結果、初めて完全なる転向が出来、前途に輝かしい光明が認められ、茲に止むに止まれぬ積極的精神に立ち帰った理由がわかると共に、これこそすべての赤化青年の唯一の完全転向の途であり、ここまで至らなければ真の積極転向は言ふべくして能はざる所として過言ではあるまい。

 

 

 

 

 

 

創価教育学との関係如何

 

 創価教育学との関係如何といふことが最後に残る。従来の哲学的教育学は、人間の心を見詰めて、それから方法を案出しようとする傾向であるから、理論は如何に高遠でも、実際の教育に役立つことが少い。今日の教育の行詰りを来した所以であり、又我国教育界の不祥事の原因とも見られる所である。茲に於て他のすべての分業が科学的根拠によって、最高の能率を挙げるまでに至って居るのに鑑みて、教育法も、もっともっと効果的の方法によらねばならぬといふのが社会の要求である。それが為には科学的の教育法を見出さねばならぬ。医学の発達の順序に倣へば一番手近に出来る筈である。

 医学は哲学者の手によって出来たものではなく、薬や治療法など人類の発生以来の経験の蓄積によって出来たのである。教育も然り学者の指導を俟つ迄もなく、人類の原始時代から教育があると共に、治療法と同様に教育法もそれぞれ発明されて居るのである。現に恩給年限にも達するほどの教育家は悉く一かどの教育技術を持って居る。それは自己一代の発見ではなくて、人類経験の総成果を継承するが為である。故にこの経験の結果を自然科学的研究法によって帰納するならば、法、医、農、工、商等の分科科学と同様に、教育学も独立対等の分科に成立ち、実際教育家の指導原理が得られ、そこで教育の最良の大法が見出されるに相違ないといふのが創価教育学の期する所である。

 此の科学の目的は教育法の最良の大法を見出さうとするものであって、方法の研究が主ではあるが、それだけでは「仏が出来て魂の入らぬ」ものである。いかに形式の研究がされたとて国家生活の改造の基礎には教育内容の研究対象たる国体観念までにどうしても徹底しなければならぬ。是に於てか教育の改造には、その根本中核となるべき宗教の革命にまで及ばない限り、龍を画いて点晴を欠くに同じといふのである。

 加之、教育法の価値判定にも前記宗教判定の標準たる五重相対がぴったり当てはまる。従って他のすべての生活法のそれにも適用され得るのである。

 教育法ーー自然的教育法ーー因果の法則を無視して自然の成り行きに一任する教育法で、内外相対の外道の法といふのに相当する。

 合理的教育法ーー小乗的小法ーー枝葉末節なる小利益の教育法で、又個性董を原則とする個人主義的教育法。

 大乗的大法ーー観念論的教育法ーー権教に相当した哲学的観念論であって実際には縁遠い教育法。

 実証主義的教育法ーー迹門的教育法ーー吾々如き個人の発見した法がいかに優れたとしても知れたものである。人類の原始からの総生産たる本を明かさなければ信用はされない。迹門と名づける所以。

 本門的教育法ーー脱迹的教育法ーー教師自身を円満具足と妄信する注入主義の教育乃至人格主義の教育が之に相当する。

 種本的教育法ーー学習の模範を国定教科書に置いて共に精進せんとする指導主義の教育法。而して結局は宇宙の大道久遠の生命にまで導かうとすること。

 教育方法の最高最大のものを求むるにしても、又その内容の究局目的を認識して指導原理とするにしても、最高最大の宗教によらなければならぬといふのが創価教育学の不動の信念である。

 余はもとより斯かる小論文によって、かゝる広汎なる大問題を解決して皆様の賛同を得んとすることは覚束ないことを知って居る。たゞ論より証拠、今の世に如何に説明しても、とても疑惑は解けないとまでに思ひ込まれてゐる赤化青年の完全転向が出来るといふ実証を、現前に提出しての論証で之がある以上、よもや一顧の価値なしとはされまいと信ずる。

 要するに宗教革命によって心の根柢から建て直したればこそ、本人等の斯様な率直明確なる自信ある告白も出来、又見聞者のそれに対する信用も出来るといふもので、とても人力の能はざる所と云はなければならぬ。そこで、斯やうな明確なる文証と現証と道理との具足によって、斯かる赤化の青年完全なる転向は、宗教革命を前提とせる教育改造によってのみ可能であって、今までの処、それ以外には不可能と断じて差支ないと信ずるのである。が果してそれが過言でないか杏かは、憂ふべき現下の我国家の為に、真率なる検討を請はんとする所である。而してなほ適確なる反証の挙がるものがないならば、全国数万を数ふる赤化青年の為、切に指導階級に対して真面目なる考慮を煩はさうするのである。

 這問す、和気清麿の誠忠を教授するに当り、学校では「宇佐八幡宮の神託を如何に取扱って居るか」。宗教に無知識の歴史家たちが「触らぬ神に祟りなし」とする指導に遵ひ、お伽噺の如くにしては居ないか。果して然らば、伝説の上に史実を結び付けんとするもので、恐るべき心的影響を生徒に与へはせぬか。そんな事で国体の明徴が可能か。法華経の信仰を離れて、その説明が出来るであらふか。斯かる現実問題に直面しながら実際家諸君は「之をどうするか」と、文部省に詰め寄るだけの熱意が職責上なくてもよいかと。

 

 

 

 

 

創価教育学会の関与

 

 こういった事件に対して、創価教育学会及び牧口氏はどのように関与したのだろうか。

 まず先の「新教」の中には以下の記述がある。

「赤化事件に関係した禍によって郷里の教育家からいつまでも疑ひの目を以て見られ、悲惨な生活を送って居る在京者の四君が不思議な因縁によって本会の正会員となり、半歳余り創価教育学の科学的研究から、遂に宗教革命にまで徹底した結果、茲に完全なる転向が出来、明朗勇敢なる生活に復帰したことを赤裸々に郷党に報告して謝罪すると共に同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て、それらの四名と共に余は某県に旅行して左の如き講演をして帰京した。」


 まず創価教育学会で、この赤化事件の関係者にはどの様な人物がいたのか「宮田幸一のホームページ」では以下の人物ではないかと言及されている。

 矢島周平
(創価教育学会幹事)
 渋谷信義
(創価教育学会『新教』編集部)
 小林済
(創価教育学会『新教』編集部)
 土岐雅美
(創価教育学会研究員)
 石沢泰治
(創価教育学会研究員)
 高地虎雄
(創価教育学会研究員)

 牧口氏は彼らをどの様に転向させたのだろうか、新教では「不思議な因縁」とのみ書かれているが、この内容については創価学会の資料の中には以下の記載があったので引用する。

「その矢島は昭和10年の正月、親友に連れられ、牧口氏と会った。
「私は法華経の修行者で。もしマルクス主義が勝ったら、私は君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君は私の弟子となって、世のために尽くすのだ」
 矢島は度肝を抜かれ、3日とおかず牧口宅を訪ねる。
 3カ月ほど続いたころ「恐れ入りました。長い間ありがとう存じました」。
 帰ろうとする矢島を「待ちなさい。初対面の時の約束を、よもや忘れはしないだろうね」と牧口は制した。
 矢島は学会員となった。
 それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。
 共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。
「ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります」


 長野赤化事件は昭和八年に勃発、ここではその渦中の人物であった矢島周平氏が牧口会長に面談したのが昭和十年となっている。彼は昭和8217日に検挙され、731日に退職となっている。その後昭和十年に渋谷信義氏に連れられ、牧口氏に面会し折伏され、それから三か月ほど後に創価教育学会に入会したとある。そして牧口氏は、その矢島氏を警視庁の労働課長、また内務省の警備局長の下に連れていき、転向した事を伝えたのである。

 その後、新教では「某県」と書かれているが、それは長野県の事であると容易に推測できる。「同境遇に苦悩しつゝある百余名に光明を与へんとする目的を以て」とあるが、これは恐らく赤化事件で検挙された仲間たちを折伏へと行った事であろう。この事について、新教ではこの文書の後段で以下の様に述べている。

「吾々は先づ内務省警保局、警視庁労働課長等を数回訪問、関係教育家等と懇談して少からず感動を与へ、内務省より郷里の警察部へ特別電話までかけて貰ったこととて、万事に都合よく完全に予定の目的を達したものである。」


 つまり創価教育学会が長野赤化教員事件への関わりは、矢島周平氏を切欠として始まったのではないだろうか。そしてその行動に際しては内務省と警視庁の協力を得ていたという事になるが、ここで私は一つの違和感を感じるのである。

「かくして仏法に帰依した後の牧口は、国家超越、生存権の絶対的価値、生命尊厳という見地から戦争を罪悪として否定する確固たる思想的地盤を得た」(松岡幹夫氏 論文牧口氏の戦争観とその実践的展開)


 この事が私自身、創価学会の中でただひたすら教えられた牧口氏という人物であった。しかしこの長野赤化教員事件の当事者達をオルグする際、時の官憲をして「少なからず感動を与え」とあるように共感させ、その強力を少なからず得ているのである。どの様な内容が官憲を感動させたのであろうか。そのヒントは同じ「新教」の中の「二、完全転向の意義如何」にあった。

 この段で牧口は警視庁労働課に訪問した際、完全なる転向(共産主義からの転向)について話し合った事を述べていが、そこで「三か条」として転向で求められる事を挙げている。

一、皇室中心の国体観念と合致し、虚妄なる観念論的日本精神でなくて充実したるそれたる事。

 これは明治時代から続いている日本の国体概念。つまり皇室を中心とした当時の日本社会と合致した日本精神を持つ事を述べている。

二、あくまで合法的手段の生活をなすこと。

 次に遵法精神をもって合法的な生活をする事を述べているが、牧口はそれだけでは足りないと、次の様に述べている。
「これだけならば気の抜けたビールのやうなもので、毒にはならぬが、薬にもならぬといふ非社会的の個人主義で、教育者としては最劣等級のものといはねばなるまい。」
 その為に、次の一つを加えて論じている。

三、自己一身を衛れば足るといふ消極的の個人主義の生活を脱し、積極的に社会の指導に任ずるといふ愛国心に燃える事。

 自己の一身を守るというだけではなく、積極的に社会の指導に任ずるという「愛国心」を持たなければならないというのである。そしてこの「愛国」とは前段にある明治時代から続く皇室を中心とした日本国体概念を持つ日本社会ということになる。

 先の松本幹夫氏の論文では「仏法に帰依した後の牧口は、国家超越、生存権の絶対的価値、生命尊厳という見地」に立った人物だと述べているが、この新教の論文に見える姿というのは、そのような現代的なマイルドさを持った人物などではなく、生粋の明治人であり、その根底には皇室を中心とした「国体観」を持った人物なのである。

 またこのような時代に即した人物であったからこそ、当時の官憲に対しても感動を与えるようなことをが出来たのであろうし、長野の赤化教員たちを創価教育学会にオルグする際に、少なからず官憲から協力を得る事が出来たのではないだろうか。

 

 

 

Benjamin full Ford said.

 

When the CIA director wants to arrest Hilary very much. When Hilary has the many guilt that she should arrest.

However, when I am without an obstacle of a certain power entering, and being able to arrest you.

 

I am a Japanese supporting Mr. Sanders ardently.

 

I think that I should entreat to arrest Hilary to a CIA director. The CIA director wants to arrest you, but is frustrated very much without being able to arrest you.

(完)