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外に広まらない閉鎖的な教団の常として、やがて自らを神秘化して大石寺が主張する「唯授一人 血脈相承」なる門外不出の秘法を唱えるようになったのではないか

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

白蓮阿日興には日目・日道・日華・日秀・日禅・日郷・日尊・日仙・日乗・日代・日澄等の優秀な門弟達がいましたが、日興の晩年くらいから、教義上の対立やら、寺領の相続争いやらで分裂をきたし、やがて互いに疎遠になって、日興一門としての纏まりは日興の没後から急速に無くなって行ったようです。
それと、弟子達同士の反目の背景には、彼らの後ろ盾となる檀那の社会的位置関係も複雑に絡み合っているようです。
日興は日蓮の死後、身延を管領しましたが、他の高弟達(日昭・日朗・日向・日頂・日持)と師日蓮に対する思いの相違から、対立し、身延の地頭職、南部波木井実長にも反発し、身延を出て、富士上野郷の地頭平時光の領地に六壷(佛・人同居の家屋)を建てて大石寺の基礎を築き、弟子育成の為に近隣の檀那である石川孫三郎の領地に重須談所(学問所)を創設しました。
日興が波木井実長に反発した経緯と言うのが、三島明神に神馬を奉納したこと。釈迦如来を本尊としたこと。念仏関係への寄付行為等であったと言われています。釈迦如来を本尊としたことについては、高弟日向の勧めもがあり、教義上の対立と言えますが、その他については地頭としての幕府の公務(神社参拝)或いは近隣の地頭との外交関係の為(念仏への寄付行為)と言う、当時の封建領主としては当然の勤めだったわけで、日興に反発された実長は相当に困惑した有様が、彼が日興に宛てた書状に読み取る事ができます。


日興は師日蓮の遺文(主に立正安国論)を元に「神天上の法門」を唱え、檀那の神社参詣を厳禁し、師日蓮の在世同様に他宗排斥の姿勢を崩さなかったため、当時の社会情勢としては、彼の師日蓮の教えに対する一種「原理主義的な傾向性」が災いして、その流儀が広まることはなかったと言われています。
日興は彼の遺文を見る限り、他の高弟達(五老僧)とは、言わば日蓮観が異なっており、その相違が後世に日蓮を「本佛」とする日興門流と、日蓮を「大菩薩」とする日蓮宗各派との違いとなったようです。
日興は『宗祖遷化記録』や日蓮の遺文の書写本を数多残しており、師日蓮に対する思い入れは他の五老僧よりも強かった反面、教条主義に傾く性質があったようで、言わば万人向けの布教は得意ではなかったようです。彼は、『日興遺誡置文』と言う26条からなる遺誡を後世の弟子達に遺していますが、当時の社会情勢を考えると守れないのが当たり前で、彼の死の直後から、反故にされたようです。
「日興門流」が数多の優秀な弟子を擁しながらも栄えなかった最大の原因は、師日蓮の遺文を「金科玉条」にして振りかざす一種独善的体質にあったようです。
外に広まらない閉鎖的な教団の常として、やがて自らを神秘化して大石寺が主張する「唯授一人 血脈相承」なる門外不出の秘法を唱えるようになったのではないかと言われています。

 

日蓮宗はどんな宗教ですか?

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

鎌倉時代の宗教家 日蓮(1222~1282)を宗祖とする宗派です。総本山は身延山久遠寺(山梨県南巨摩郡)
東京の池上本門寺・比企妙本寺・中山法華経寺等が有名です。日蓮の威風を受け継いだ立派な御宗旨です。
伝統的日蓮系教団の中で最大の規模(寺院数4602ヶ寺・信徒数2119550)を誇り、由緒ある寺院には宗祖日蓮に纏わる重宝が数多秘蔵されています。

因みに、YAHOO知恵袋を騒がせている。日蓮正宗・0000・富士大石寺顕正会とは無関係なので念のため。

 

 


 

反社会的なことまでして辞めたいという人を引き止めることはしないと思います。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮正宗の信徒団体である法華講は0000や顕正会のように、反社会的なことまでして辞めたいという人を引き止めることはしないと思います。本人が何としても辞めたいと言うのならば、誰も引き止めることは出来ないはずです。
日本国憲法には「信教の自由」が基本的人権の一つとして謳われていますから、宗教を信じない自由もあるわけです。
貴殿が友人を心配する気持ちは解かりますが、要は本人の気持ち次第ですから、そこのところをよく確かめてください。
本人と「信頼している知り合い」がどのような人間関係に有るのかが当方としては解かりかねますので迂闊なことは言えません。
私見ですが、いくら「信頼している知り合い」に勧誘されたからといっても、基本的に宗教は他人に勧められてやるものではないはずです。此の件は、あくまでも本人が「私は辞めます」と明確な意思を相手に伝えることが肝要です。
「地獄の業」だとか「罪障を積む」とかの脅し文句はつきものとお考えください。余りにシツコク本人に付き纏うようでしたら、迷わずに警察に連絡したほうがよいでしょう。日蓮正宗は嘗ての過激なイメージチェンジに努めていますから警察沙汰を一番恐れるのだそうです。
最後に申し添えたい事があります。このYAHOO知恵袋には日蓮正宗やら富士大石寺顕正会やらの姉妹団体のオルグが数多いますので、彼らのアドバイスは無視した方が良いでしょう。この問題の相談先は宗教ではなく、親族や、貴方のような信頼のおける友人、それに公安・警察とお考えください。

 

 

佛教にはお釈迦様は二人いらっしゃる

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

佛教にはお釈迦様は二人いらっしゃるのです。(それって、どういう意味?)
お一人は、今から約2500年前にインドに実在した歴史的人物としてのゴータマ・ブツダ(シツダルータ)のことです。
インド哲学者の中村元博士の研究によれば、彼は西暦紀元前463年に生まれて、その後80年余りの生涯を送り、紀元前383年に逝去したと推定されています。
彼の言葉は、後世に「佛典」として編纂されましたが、五部のニカーヤと呼ばれる原始佛典ですら、20の部派に佛教教団が分立した時代に成立しているので、ブツダの言葉として記述されているものでも、後世の部派の思想が述べられていることが少なくありません。それらの原始佛典から後世の解釈を削ぎ落としいくことが、原始佛典研究の眼目なのです。
そもそも、「輪廻転生」と言う考え方は古代インド思想の常識とでも云うもので、佛教が唱え始めたものではありません。ブツダの時代の佛教は、人の前世の詮索なんてしなかったのです。佛教は輪廻の主体としての霊魂は認めない宗教なのです。
ブツダはどんなにシツコク尋ねられても、絶対に答えなかった事が十あったと言われています。
世界は時間的に無限
世界は時間的に有限
世界は空間的に無限
世界は空間的に有限
身体と霊魂は同一
身体と霊魂は別異
死後の世界は存在する
死後の世界は存在しない
死後の世界は存在し、かつ存在しない
存在するのでもなく、かつ存在しないのでもない
以上を「十難」(形而上学における難問)といい、ブツダの時代に、それらの是非について各哲学派が激しい議論を交わしていました。これらの十の問いかけについて、ブツダはどのような誘導があり誹謗があっても、沈黙を守りとおしました。是を「十難無記」と言います。
当時の質問者は「何故答えないのか」と言って詰め寄りましたが、ブツダはシカトをとおされました。
ある時、ふとアーナンダに言われました。

私が答えない事は答えないままに了解しなさい。私が答えない事柄は、目的に適わず、清らかな修行の基礎とならず、世俗を厭い離れること、欲情から離れること、煩悩を制し滅すること、心の平安、正しい悟り、ニルバーナのためにならないからである。

ブツダは「人は死んだらどうなるか?」とか「世界は有限か?無限か?」と言うようないくら考えても議論しても答えの出ないことには答えませんでした。

「私はこのことを説く」と言うことが私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると、確かに知り、諸々の偏見のおける(過誤)を見て、固執することなく、省察しつつ、内心の安らぎを私は見る

以上が歴史的な人物としてのブツダの思想でした。ブツダも「善い行いをすれば善い所に生まれ、悪い行いをすれば悪いところに生まれる」と説いていますが、「今の世の自分と来世の自分とは同一でもなければ、別異でもない」すなわち、そもそも、しがみつく「自分」なるものが霊魂のような実体として存在しないのだから、思い煩わず、人として正しく生きる事が大切だという意味で説いたもののようです。
(「縁起」を時間的生起関係(「十二因縁」を三世両重の因果として)捉えるむきもありますが、いずれにせよ後代の解釈のようです)

大乗佛教の時代になる諸佛、諸菩薩の自覚を持った人々が、自分達の好みに合う「釈尊」を創造して多くの大乗佛典を創作しました。それはインド的な発想のもとに造られた釈尊の前世物語である『ジャータカ』や数々の伝説、原始佛典のエピソードをまじえながら、燃え滾る信仰の情熱によって創作された佛教小説です。そこに登場するブツダは、歴史的な一人の人間ではなく、理法と一体となったスーパーマンなのです。是が二人目の「お釈迦様」なのです。

貴殿の質問に答えた0000の方の「お釈迦様」は大乗佛典である『法華経』に登場する小説の主人公としての「お釈迦様」なわけです。『法華経』に限らず全ての大乗佛典は、「輪廻転生」などのインド的な思想を取り入れて多くの信徒を獲得した経緯がありますから、ブツダ本来の思想と懸け離れたところもあるようです。

追伸、「この世とかの世を共に捨て去る」と言う『スッタ二パータ』の言葉の意味するところは、それらは概念のみあって実在ではないのだから、執着の対象にしてはならないと解すべきでしょう。

「この文章は原文を見る限り全論議領域の否定を意味し、「輪廻転生」が有るとか無いとか言う論議自体の放棄と解釈すべきです。」(中村元 注記)

「お釈迦様」には歴史的人物としてゴ-タマ・ブツダと「宗教的心情」に於ける「御釈迦様」との二通りの「御釈迦様」があり、後者の場合「百人百様」の「御釈迦様」がいらっしやるのです。


参考文献 『バウッダ』中村元編 『ダンマパダ』中村元訳 『サンユッタ・ニカーヤ』の原訳注記参照 『スッタニパータ』の原訳注記参照

 

 

 

私は宗教は「ナンバー ワン ではなく オール オンリー ワン 」だと思っています。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

可哀想に日蓮原理主義(日蓮正宗)の害毒、ここに極まれりですね。

私が知恵袋に投稿した契機となったのは、台湾から帰国した友人が、台湾の佛教関係者から日本の佛教の現状について厳しい批判を受けた中に「日本花和尚 堕落日蓮」と言う言葉があったと聴いたことです。予め検索すれば良かったのですが、「日本花和尚とは如何なる宗教ですか?」なんて、今思えば赤面ものの質問をしてしまいました。
すると「それは、宗門(日蓮正宗)の悪口を0000が流したデマですよ」と言う批判の回答が寄せられ、当方としては「日蓮正宗」と言う宗旨が判明したもので、昔の悪い思い出が蘇えりました。と申しますのは日蓮正宗法華講の青年に「お前の家の宗旨は邪宗教だから成仏できない。華厳経などと言う仮の教えに執着しているから地獄に堕ちるだろう」と脅すのです。私は別に華厳経に執着しているわけではないのですが、反論すると「お前は増上慢だ、罪障を積んで地獄に堕ちるだろう」と罵る始末です。
そう言う折も折り、友人の一人がカルト顕正会に激しい精神的暴行を受けて自殺未遂をするという痛ましい事件が起こりました。
警察にも届け出て、顕正会関係者も応分の制裁を受けることになったのですが、この顕正会なる宗教団体がもとは日蓮正宗の護持団体であった事実を知るに及び、今回の件(日本花和尚)と私自身の体験も含めて、日蓮正宗なるカルトの母体の教義並びに歴史を徹底的に解明して、カルトの被害が社会に広がらないよう、微力ではあっても少しでも役立てるように、質問・回答している次第です。
私は宗教は「ナンバー ワン ではなく オール オンリー ワン 」だと思っています。しかし社会に実害を及ぼす独善的で閉鎖的な危険なカルト教団まで、「ありのまま主義」で認めるつもりは有りません。
貴殿も御存知の通り、このサイトには事実無根の誹謗中傷や低劣な非難の応酬、はては脅迫紛いの言葉、回答不能の奇妙な質問が充満している始末ですから、貴殿のお怒りも理解できますが、中には優れた質問・回答もタマには見受けられますし、思わずアドバイスしたくなるような切実な質問もありますから、それなりの意義は有ろうかと思います。
「日蓮正宗は他の日蓮宗の御宗旨を邪宗教呼ばわりする程の根拠なし。ました0000や顕正会を破門する資格すらない」云々を参照なさい。 日蓮原理主義など所詮、後世の「つくりもの」であることが解かるはずです。

追伸、「題目の三唱」したくらいで大悟したようなことを言うのはアホです。日蓮原理主義の害毒ここに極まれり、というところでしょうか。何一つ学問的に確証のない捏造教義と宗旨の権威を振りかざして他宗教を「邪宗門」呼ばわりするカルトの母体日蓮正宗の害毒かもしれません。思えば、0000、顕正会、の信者の人々、そして貴殿も哀れな被害者かも知れません。臭い臭いの元は「法灯連綿750年」を謳い文句の由緒正しいカルトの母体日蓮正宗なのですから。
全てを捨て去りなさい。宗教は所詮、人が心豊かに生きていくための手段です。宗教の為に人間があるのではありません。人間の為に宗教があるのです。

「汝は、私に対する信仰を捨てよ」今はブツダの言葉に従いなさい。狂信よりは無信仰の方が優れた果報をもたらすでしょう。

 

 

「来世の事をくよくよと思い煩うくらいなら、今の世で少しでも善い行いを成せ」と説く

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

元来、佛教では「三世(過去世・現世・当来世)各別有るべからず」ですから、死後に「旅立つ」の「旅立ちが無い」のと言うことはありません。ですから、貴方が示された日蓮系の諸宗派は「六道説」から「十界論」に移行したという論議も不成立です。
そもそも「十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・佛陀」は、生きとし生けるものの「命」の境涯にほかなりません。それらは、固定した個別の実体として存在しているのではないのです。人間の境涯も現象なのです。
我々人間も、他の九界を一界も残らず可能性として具えています。人間の境涯を基底として、原因と条件次第では地獄にもなり天国の気分にもなるのです。人間には常に今の一瞬しかありません。その一瞬も実体ではない。しかし、一瞬一瞬の積み重ねが、原因ともなり条件ともなり、当来世を決定するのです。今生が人間であっても当来世が人間である保障は何処にもないのです。それゆえに、「悪い行いをぜず、善い行いを成せ」とブツダは説いているのです。
ブツダの時代から佛教は「現実の人間の行い」に焦点を当てる伝統がありましたから、「来世の事をくよくよと思い煩うくらいなら、今の世で少しでも善い行いを成せ」と説くのです。(もちろん過去世の詮索など論外です)

 

 

今日、伝えられている大乗佛教の教えのことごとくは宗派の垣根を超えて、その全てがナーガールジュナから始まったと言っても過言では有りません。
それゆえ、彼は「八宗の祖師」と讃えられています。(大乗の教えを奉じる全宗派です)

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

ナーガールジュナ(西暦150年~250)はインド初期大乗仏教における最大の論師であり、彼の思想及び彼の思想の流れを汲む学派を「中観派」と呼び、後の時代に起こる世親らの唯識学派とともにインド大乗佛教界の二大潮流の一翼を担うものでした。今日、伝えられている大乗佛教の教えのことごとくは宗派の垣根を超えて、その全てがナーガールジュナから始まったと言っても過言では有りません。
それゆえ、彼は「八宗の祖師」と讃えられています。(大乗の教えを奉じる全宗派です)
尚、彼については、Wikipediaにもでていますので、「龍樹」で検索してみてください。
彼の思想を知るには『中論』を読まれるのが早道ですが、仏教の基礎知識の無い方では、一読しても恐らく意味が理解できないと思います。よって、訳本を読まれる場合にはチャンドラキルテイ(月称)の『プラサンナパダー』を読まれる事をお勧めします。(論理的脈絡が明確なので)また、入門書として最適と思われるものとして、中村元著『龍樹』(講談社学術文庫)がお勧めです。
『中論』についてもWikipediaにありますので検索してみてください。
彼の功績は膨大な般若経典群が繰り返し説いている「空}の思想を、論理的に基礎つけたことであると言われています。その思想は既に紹介した『中論』の中に説かれていますが、その「中」と言うのは「中道」のことであり、「空」と同義であるとするところに彼の思想の特徴が現れています。双方に対立した概念があり、そのどちらでもないこと、たとえば有でもなく、無でもないとき、それは「中」であると主張するのです。言わばそれは全論議領域の否定(戯論寂滅)であり、一切の固定観念から離れることを意味しますから、決して「中道」とは何かと何かの中間と言うような意味合いではありません。『中論』に提示されている論議は非常に鋭く、かつ興味深いものであり、大乗仏教理解のうえにおいては必須のものとされており、是非、勉強されることをお勧めします。
また、彼の著作として今日まで伝えられているものは『中論』の他に『十二門論』・『廻ジョウ論』・『大智度論』・『十住毘婆沙論』等があります。

『中論』冒頭の帰敬序を紹介して、回答の締めくくりとさせていただきます。

(宇宙においては)何ものも消滅することなく(不滅)、何ものも新たに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることなく(不異義)、何ものも、(われらに向かって)来ることなく(不来)、(われらから)去ることもない(不去)。
戯論(形而上学的論議)の消滅という目出度い縁起の理法を説き給うた仏を、諸々の説法者の中で最上の方として敬礼する。
(中村元 訳)より
ご参考まで。 党覚寺雅道 敬白

 

 

 

「八正道」は「中道」の実践的側面をより具体的に示したものである

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「八正道」は「中道」の実践的側面をより具体的に示したものであるから、「中道」の意義を述べる事は、佛教における「正しさ」を述べる事になろうかと思います。
釈尊は「この世と、かの世をともに捨て去る」「苦しみと、快楽をともに捨て去る」と仰せのごとく、また「十難無記」が示すように如何なる形而上学的な断定にも近ずいてはならないと教えられました。
思えば、日常の領域でも、宗教の領域でさえも、ともすればある一つの極端な見解を、ほぼ盲目的に選び取って、それに身を委ねる人々が少なくありません。そのほうがなにかと都合がよいのでしょう。このような傾向の人々は、その狭隘な価値観に身を置き、その単純化した判断に盲従し、それぞれの「正義」を振りかざし他者を当然の如く冒涜する。彼らは互いにそれぞれ異なった「正義」を主張して、相手に「愚者」の烙印を押す。しかし、彼らには、常に執着と慢心のみが有り、自らの固執に気が付きもせずに、その我慢偏執の物差しから外れた見解を排斥し圧殺しょうとする時、およそそれは人間性の無視、モラルの欠如以外の何者でもありません。
このような偏見はOO主義、イデオロギー、権威、自己顕示から、ごく些細なものにまで及んでいます。そしてお互いに歪んだ色眼鏡をかけて相手を見ているのです。
仏教では、このような極端に盲従する姿を「辺(アンタ)」といいますが、それは、苦、楽の他に、有と無、断と常の二辺にも及びます。そして、これら相対立する「辺」は固定観念の全否定とも言うべき「空」によって完全に否定され、「辺」への妄執から離れる事になります。これが「中道」と呼ばれるものです。(なかなかその境地には到達できませんが)
それゆえ、「中道」とは何かと何かの中間と言う意味では決してありません。
「如来は中道に住して法を説く」と言われる所以です。
大乗佛教の大論師ナーガーアルジュナは、『中論』において「八不中道」によって、形而上学的論議(戯論)の消滅を明らかにされました。それは「論議のための論議」に耽ることにより、それがあたかも仏の教えを論じ実践しているかのように錯覚している人々の目を覚まさせるためだったと言われています。
思えば、ネット上にも、「我慢偏執」の不毛の論議や誹謗中傷の発言、果てはおよそ宗教のコーナーに相応しくない内容の質問・回答が見られますが、これらの類も「中道」を失った姿であり、仏教的な「正しさ}から遠く離れた姿だと言えなくもありません。
かの『法華経』に「如来は如実に三界の相を知見す」とあるごとく、ものごとを如何なる偏見からも離れて、「ありのままに」観ずることが、仏教における「正しさ」であって、それに到達することは至難の業であると言えましょう。

長々と卑見を述べてしまいました。とても意義ある御質問に感服致しました。
等覚寺雅道 敬白

 

 

ブツダ本来の仏教は輪廻の主体としての霊魂を認めない宗教なのです。

Rsd37264氏は書かれてあります。

ブツダ本来の仏教は輪廻の主体としての霊魂を認めない宗教なのです。

「諸法無我」なのに「幽霊」が居たのではお話になりません。

ただし、人間の境涯にもお金持ちも居れば貧しい人も居るように、命(いのち)の有り方にも様々な境涯が有ると説くのです。

人間以外の動物達の境涯を「畜生」と言いますが、それと同じように肉眼では見えない不可見の領域が有る事を仏教でも認めています。

金子みすずの詩ではありませんが「見えないけれどもあるんだよ」と云う訳です。

満ち足りた高い境涯を「天」と名つ゛け、満たされぬ想いを常に懐いて欲望に支配された境涯を「餓鬼(プレータ)」と名つけます。

その「餓鬼(プレータ)」を幽霊とか幽鬼と云うのです。

ただし、それは主観の外に客観的実在として存在しているのではありません。

幽霊を見る側の主観の問題なのです。

見る人の心が造り出しているものです。

お寺のお坊さんが怪談話をするのは、それはイソップ物語や今昔物語のように勧善懲悪を目的としたものです。たとえ話をして、良い行いを人々に勧め、悪事には必ず悪い結果が付き纏う事を教える為でしょう。

「悪霊退散に護摩壇」とは自らの心の中に巣食う邪悪な心を鎮めることを具現化した行為と捉える事もできますが、古代インドの土着の習俗を後期の大乗仏教が布教目的の為に取り入れたものです。

タマ・ブツダ本来の仏教では、呪法・密法・占星術等は否定されています。



 

【追記】

『雑阿含経』の中には餓鬼道(プレータ)の存在を説いている箇所が幾つかはありますが、それらは我々人間や動物と同じく衆生の境涯について述べているものです。所謂、世間一般で言われるような浮遊霊とか地縛霊なんどと言うものではありません。(浮遊霊に相当するパーリ語は存在しません)また、原始仏典と雖も、初期大乗仏典よりも成立が新しいテクストもありますので、それがブツダの説だとは言い難いものが幾つもあるのです。多くの神話的手法や俗信を取り入れて成立しているので、言わば人々を善に導く為の「方便」と言う事のようです。

 

 

 

 

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>日蓮宗は身延山久遠寺が総本山であり、日蓮正宗は静岡県富士宮市の大石寺が総本山です。

教義の違いを平たく言うと、日蓮宗では、『法華経』を説いた釈尊を「久遠本佛」と立て、宗祖日蓮を「上行菩薩の再誕」すなわち「菩薩」と立てるのに対して、日蓮正宗では、『法華経』を説いた釈尊は「脱仏」(用無しの仏)で、「上行菩薩の再誕日蓮」は世を偲ぶ仮の立場で、真実には宗祖日蓮こそは釈尊をはるかに凌ぐ「末法の御本佛」と立てます。この教義を「釈尊脱仏・日蓮本佛論」と言います。

一般的には日蓮宗では「日蓮聖人」と呼びますが、日蓮正宗では「日蓮大聖人」と呼んでいます。

貴方がどちらの宗派に属しているかは菩提寺に確認されるのが一番です。日蓮系の伝統宗派は数多ありますので、貴方が日蓮宗や日蓮正宗以外の日蓮系宗派の信徒である可能性もあるからです。

>ちなみにお坊さんは「南無妙法蓮華経」っていいます。

日蓮宗では「なむみょうほうれんげきょう」と発音するのに対して日蓮正宗では「なんみょうほうれんげきょう」と発音します。

同じお題目でも「なむ」(日蓮宗)と「なん」(日蓮正宗)の相異があります。

ご参考まで。

【追記】

後発の方も仰せのように日蓮正宗は全日本仏教会に加盟していますが、日蓮正宗は非加盟です。

日蓮正宗は排他的・独善的な教学思想の為に、他の宗派や宗教とは一切交流する事はありません。

参考までに、日蓮正宗の他宗教誹謗中傷サイト『百禍繚乱』のURLを示します。

http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/

また、日蓮正宗からは、冨士大石寺顕正会や0000等のカルト視される教団が派生しています。

以上。

 

 

 

 

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

00000は「釈尊脱仏・日蓮本佛論」という日蓮正宗の基本的教義を踏襲しています。

 

「釈尊脱仏」とは「お釈迦様」は、末法の世には役目の終わった用無しの仏である」と云う意味です。

 

「日蓮本佛論」とは日蓮こそは『法華経』に説かれた究極の「久遠本佛」であり、釈尊始め十方分身の諸仏は、その働きの表出的存在(用の仏)に過ぎず、末法の世の「御本佛」は「日蓮大聖人」であるという思想です。

 

しかし、『法華経』の何処にも「日蓮」なる記述はありません。

 

彼らは「上行菩薩」こそは末法の世に出現した日蓮その人であり、その本地は「久遠元初自受用報身如来」であると主張しますが、確かな日蓮遺文を見る限り、日蓮には「上行菩薩の再誕」としての自覚はうかがえますが、自分が「お釈迦様」よりも偉大な「御本佛」などとは微塵も考えていなかったようです。

 

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。

 

まさに、「本末転倒」もいいとこです。

 

【追記】

 

仏陀の説かれた「理法」は「不生不滅」なるが故に、永遠の真理であって、賞味期限が有る訳ではありません。

 

『法華経』は仏陀の理法の永遠性に立脚して説かれた経典です。勿論、この視座は『華厳経』や『無量寿経』も同様です。

 

所謂「正法・像法・末法」の「三時説」の思想は初期大乗経典には無く、かなり後になって成立した『大方等大集月蔵経』「法滅尽品」の経文によっているのですが、後で成立した思想で、先に成立した経典を解釈する事は理に合わない事は言うまでもありません。

 

【後発の0000副B長さんへ】

 

『諌暁八幡抄』の貴方の示した文章の何処に「日蓮本佛」を示唆した言葉が書いてありますか?

 

日蓮は自らが教主釈尊から授かった「要法」たる「南無妙法蓮華経」は末法の世に於ける『法華経』であると考えていましたから、「当機益物」としてそのように表現しているのでしょう。

 

>日蓮大聖人でもない貴殿が、なぜ日蓮大聖人のお気持ちが解るのでしょうか?

 

その言葉、そっくりそのまま貴殿等、日蓮正宗や0000信者にお返ししましょう。

 

貴殿等は先ず「日蓮大聖人」は「末法の御本佛」である、と言う大前提のもとに日蓮遺文を解釈している。

だから件の遺文の文句を平気で引用できるのです。

貴殿が引用した文章は「日蓮本佛」の文証たり得ません。

 

>・若し仏の滅度に、悪世の中に於いて末法時代

>・我が滅度に於いて像・末法時代

 

上記の文言のある『法華経』「見宝塔品第十一」は迹門の流通分中の「功深福重命勧流通」の品です。

対告衆に、後の「従地涌出品第十五」に登場する「本化」の地涌の菩薩は預かっていないのです。

従って、「見宝塔品第十一」の件の文に三時の別を設けることは教相上からも不可能です。

貴殿が、強いて記述の通りに主張なさるのなら、天台大師智顗の科段を否定する別の文証の提示が必要となるでしょう。

また、現代のインド佛教学における経典成立史の上からも、『法華経』成立時には「三時説」はなく、かなり後に成立した『大集経』に登場している事から、後で成立した思想を先に成立した経典や論書に持ち込んで解釈する行為自体が、まさに一「解釈」な訳です。

 

>貴殿は本佛として、説いた事に一塵の誤りがあってはならないと貴殿は言いましたね。

 

その通りです。「佛語は皆実にして虚しからず」ですから。

それにしても、日蓮さんは像法時代の最後の五百年間を末法時代の最初の五百年間と勘違いされていますから、なるほど「御本佛」かも知らんが、正法と像法を間違える慌て者の「御本佛」様だった事になりますね。

 

 

 

何時頃に『本門戒壇大本尊』は臨刻模造されたかと云う事については意見の分かれるところですが、大石寺9代日有あたりではないかと云う可能性もあれば、もしかしたら江戸時代の初期の頃の可能性もあるのです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>(略)
しかしながら、『楠板彫刻本門戒壇大本尊』からして『少輔房日禅授与之本尊』の題目等を、別々に写し取って臨刻模造した板本尊である事が粗証明されていますので、これは土台が別本尊ですから、変造或は改竄どころの話ではなく、日蓮を騙った全くの捏造本尊であると言えるでしょう。

何時頃に『本門戒壇大本尊』は臨刻模造されたかと云う事については意見の分かれるところですが、大石寺9代日有あたりではないかと云う可能性もあれば、もしかしたら江戸時代の初期の頃の可能性もあるのです。
どの道、この板本尊が日蓮在世(弘安二年十月十二日)に造立された可能性は限りなく低いと言えそうです。

今、大石寺にある『少輔房日禅授与之本尊』にせよ、元から大石寺の重宝だった訳ではありません。
明治時代に東京法道院主管だった大石日応が、骨董商から大枚を叩いて購入した本尊だったのです。

大石寺自体からして戦国時代末頃に一山丸焼けの憂き目に遭い一度は壊滅しており、その後、徳川家康の曾孫にあたる阿波国徳島城主蜂須賀公夫人敬台院殿日詔と当時の幕府寺社奉行の格別の計らいより、公儀より新たに寺地を給わって再興された寺院ですので、その当時、他山から幕府の後押して日蓮所縁の重宝がかなり集められたようです。

 

 

 

日蓮宗は全日本仏教会にも加盟していますし、反社会的な要素は皆無ですから「日蓮聖人」以来の由緒正しい宗派です

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


日蓮宗は全日本仏教会にも加盟していますし、反社会的な要素は皆無ですから「日蓮聖人」以来の由緒正しい宗派ですが、かたや、日蓮正宗は明治時代に、大石寺を中心とするグループが分派に分派を繰り返して明治四十五年(1912年)に成立した宗派です。

日蓮正宗では「釈尊脱仏・日蓮本佛論」(釈尊は用無しの仏で、日蓮こそは最高の本佛)という教義を唱えていますが、これは宗祖「日蓮聖人」や派祖「日興上人」には無かった考え方で、かなり後の時代に成立した教義です。

日蓮宗は『法華経』の教主である釈尊を尊重して、「日蓮聖人」を菩薩と立てますので佛教宗派と言えますが、日蓮正宗では教主釈尊を蔑(ないがしろ)にして「御本佛日蓮大聖人」と立てますので、これは仏教ではなくて『日蓮教』と言うべき外道です。

どちらが正しいかは、日蓮宗が由緒正しい宗派であるのに対して、日蓮正宗や元信徒団体の0000が世間に多大な迷惑をかけている事実が証明していると思います。

 

 

 

【文永十一年(1274年)十二月】に図顕された『万年救護之大本尊』(国指定重要文化財)の讃文に「五五百歳の時、上行菩薩出現して始めて世に之を弘宣す」と認められています。

(略)

佐渡流罪の前の【西暦1271年】『龍之口法難』が「日蓮聖人」の「上行菩薩の再誕」としての確信を得た事件だったと考えられます。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮系の宗派によって見解は様々ですが、「日蓮聖人」の御生涯最大の危機であった【文永八年(1271年)九月十二日】に起こった『龍之口法難』の時ではないと文献からは考えられます。
その文証は翌【文永九年(1272年)二月】に配流の地、佐渡で著された『開目抄』の以下のような文面です。

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて」

(『開目抄』曾存・時代書写 北山本門寺 日興要文)

「日蓮聖人」が身延に入山された後、【文永十一年(1274年)十二月】に図顕された『万年救護之大本尊』(国指定重要文化財)の讃文に「五五百歳の時、上行菩薩出現して始めて世に之を弘宣す」と認められています。
【建治四年(1278年)二月二十三日】に書かれた『三沢抄』には以下のような文面があります。

「又法門の事は、さどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」

(『三沢抄』 正筆 京都妙覚寺 ・時代書写 日興 北山本門寺)

やはり、佐渡流罪の前の【西暦1271年】『龍之口法難』が「日蓮聖人」の「上行菩薩の再誕」としての確信を得た事件だったと考えられます。

(重複するかも知れませんが、重要と思って書きます)

 

 

 

『楠板彫刻本門戒壇大御本尊』を奉安していた「御宝蔵」の歴史は室町時代の9代日有の時代にまで遡ります。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


「日蓮正宗宗則」の淵源は明治33年(1900年)に日蓮宗富士派として独立した時まで遡れるでしょうが、「日蓮正宗宗規」という名称の規則が出来たのは明治45年(1912年)に日蓮正宗を名乗るようになってからだと思われます。

大石寺の売りは、なんと言っても「本門戒壇の大御本尊」ですから、それ以前からも「御宝蔵」に格護されてきたようです。

『楠板彫刻本門戒壇大御本尊』を奉安していた「御宝蔵」の歴史は室町時代の9代日有の時代にまで遡ります。
今の建物は江戸時代の寛政二年(1790)年のものです。

去年の暮れに富士門流五山を見学した時に大石寺にも立ち寄り、「御宝蔵」も外から見てきましたが周囲を塀で囲まれている為に、建物そのものの全景は見えませんでしたが、なかなかに立派な造りの建物だと思います。

土蔵とは言っても、周囲の景観を見れば格式を感じさせる建物のようでした。
恐らく、大石寺の檀家には大名家も多かったので、内拝の儀式が出来るような構造の蔵になっているようです。
塀の中には入れませんので「御宝蔵」そのものは近くで見られませんでしたが。

【補足への回答】

私が見学した時には塀で囲まれていました。
大きな客殿や奉安殿と比較すると確かにショボい建物ですが、蔵の前には石畳もしいてあるようです。
塀に関しては少なくとも2009年12月の時点ではありましたよ。

 

 

 

『大方等大集月蔵経』「法滅尽品」に説かれている「三時説」を尊重して考えても、彼らの唱える「釈尊脱仏・日蓮本佛論」は成立する事はありません

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

貴殿がURLを示されている質問回答で、私は最後に「日蓮は像法に生まれておる。」と記述していますが、今回はその事について記述したいと思います。

彼らが口を開けば「正法・像法・末法」を問題にして、末法の世は釈尊の仏法は無効化しているから、末法出現の垂迹上行菩薩の再誕日蓮・本地末法の御本佛日蓮大聖人の仏法でなければ衆生は救われないとする所謂「釈尊脱仏・日蓮本佛論」を唱えていますが、『大方等大集月蔵経』「法滅尽品」に説かれている「三時説」を尊重して考えても、彼らの唱える「釈尊脱仏・日蓮本佛論」は成立する事はありません。

なんとなれば、初期大乗経典である『法華経』には「三時説」は見当たらず、明らかに『法華経』より成立の新しい『大方等大集月蔵経』の「三時説」を以って先に成立している『法華経』の滅後流通を規定する事はできないからです。

また、「日蓮聖人」の主張を尊重して『法華経』に「三時説」を当て嵌めて考えたとしても、現代仏教学の常識から考察すれば、「日蓮聖人」は末法の始めの五百年間に誕生して『法華経』で説かれる「上行菩薩」の再誕生の確信を持たれたのではなくて、実は像法時代の最後の五百年間に誕生して遷化なさっていた事になるからです。

諸説ある釈尊の生存年代の中で、誕生・紀元前463年~入滅・紀元前383年を採用しますと、日蓮が誕生した1222年は仏滅後1605年目のあたり、日蓮示寂の1282年は仏滅後1665年目に相当します。

日蓮が「上行菩薩の再誕」を確信したとされる『龍の口法難』の年である1271年は仏滅後1654年に相当します。

すなわち、日蓮が主張していた「五五百歳(末法の始めの五百年間」に上行菩薩が出現して末法の要法たる「南無妙法蓮華経」を「弘宣」して衆生を救済するとする時代的根拠が崩れたことになるのです。

日蓮は我が国が末法の世に突入するのは中国由来の永承七年・西暦1052年説を採用していましたので、自分は末法の始めの五百年間に生を享けたと確信していました。

これは当時としては責められない事なのです。

釈尊入滅・紀元前383年説を採用すると、末法の世に入ったのは日蓮示寂の335年後の元和三年・西暦1617年からと言うことになります。

この意見に対しては「三時説」は「教・行・証」によって判じるべきであり、単に時間的時代区分ではないと言う反論がありますが、日蓮は中国佛教に於ける「事」を強調しており、自ら認(したため)た妙法曼荼羅の讃文にも「仏滅度後二千二百二十余年之間、一閻浮提之内未曾有之大曼陀羅也」とあることから大いに議論を醸しています。

 

 

 

『二箇相承』自体の信憑性が限りなくゼロに近いのです

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

『聖人御難事』の記述を根拠にして、『本門戒壇大御本尊』の図顕年月日は「弘安二年十月十二日」と模刻されたと考えられます。

元来、富木日常(常忍)の遺風を受け継ぎ、日蓮自筆の曼荼羅や遺文の保護に心を砕いて来た中山門流(現在の中山法華経寺)が板曼荼羅のルーツである事が指摘されています。

『聖人御難事』の日蓮真筆も中山法華経寺に現存しています。

『楠板彫刻本門戒壇大本尊』の脇書には以下のように認められます。

「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四朗国重、法華講衆等敬白」

(『富士宗学要集』第八巻資料類聚[1])

この脇書を文章通りに読めば、この板曼荼羅の製作依頼者は「弥四朗国重」ということになります。
また「本門戒壇の願主」と書かれていますから、「本門の本尊」の願主ではない事になるのです。

若しも、この板本尊が日蓮正宗が主張するように身延に於いて日蓮が楠板に図顕したものを、和泉公日法が彫刻したのなら、必ず日蓮の允可を受け、その証拠としての允可書が有る筈です。

斯くも重大な意義を有し、かつ大石寺の懐深く秘蔵されて来たものならば、他の「最初仏(楠板の端材で製作された日蓮像)」と一緒に日蓮自筆の允可書が有る筈なのです。

然るに、この本尊も『御義口伝』同様に日蓮の允可書もなければ、他の相伝文書にも登場しないのは不可解だと言われています。

日蓮正宗に於いては「秘中の秘」だから、そのようなものはないのだろう(趣意)と主張しますが、これは理由にはなりません。

日蓮が「弘安二年太才己卯十一月日」に図顕した『沙門日永授与之本尊』と見比べてもその相貌が著しく異なる事も指摘されています。

偽相が整足している曼荼羅には「未曾有の大曼荼羅也」と認められますので、日蓮真筆の允可書でもない限り日蓮正宗が主張するように、「戒壇本尊」を以って他の曼荼羅と隔絶した特別の地位にある曼荼羅であるとは言えないと言うのが一般的な見解です。

【補足への回答】

『二箇相承』自体の信憑性が限りなくゼロに近いのですが、若し仮に存在していたと仮定しても「願主・弥四朗国重」なる者を特定するのは不可能です。
日蓮正宗では「大聖人己心中の弥四朗国重」(趣意)である等と言っていますが、曼荼羅脇書等は法の領域に属する本尊の相貌とは性格を異にする大石寺文書(史料)ですので、その言い訳は通用しないのです。

【rsdm825さんへ】
その通りですね。『三大秘法抄』や『二箇相承』の記述に従えば、比叡山の円頓戒壇建立は勅許によって可能となったように、「本門戒壇」の願主も天皇以外には考えられないと言う事になります。
「弥四朗国重」では無位無官の庶民と言う事になるでしょうから、文書としての性格を有する脇書である事を考慮すれば全くのデタラメと云う事になります。
日蓮の生存期間中に「法華講衆」という表現は未成立でした。
日興が元亨三年(1323年)に佐渡の国の信者に宛てた書簡である『佐渡国法華講衆御返事』にしても、そのネーミングは後世のものなのです。
文献学会には「戒壇本尊」の脇書を評して「古九谷と書かれた九谷焼の皿に古九谷の皿は無いようなものだ」と言う人もいます。

(重複するかも知れませんが、重要と思って書きます)

 

 

 

 

立正大学は言うに及ばず、今や創価大学所属の研究者までが、「戒壇本尊」の日蓮図顕には否定的な見解です。
(略)

立正大学だけではありません。他の宗教学・仏教学系の大学や国立大学の研究者も概ね同意見です。
日蓮正宗には専門の研究機関が皆無な為、学術的に反証すら出来ていません。
富士門流の名刹、保田妙本寺の「吉浜文書」の研究が進めば日蓮正宗お得意の「金口嫡嫡、法水瀉瓶、唯授一人血脈相承」すら否定されかねませんね。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

当然、私の記述は確認済みの上でなされています。
日蓮正宗の元信者である犀角独歩氏(仮名)とは面識がありますし、彼の解析は学会一般でも、それなりに評価されています。
近年に於ける板本尊偽作説については「霑志問答」や安永弁哲の『板本尊偽作論』が有名です。
いずれも、板本尊の相貌を度外視しての机上の空論の観が否めませんが、犀角独歩氏の試みは写真とはいえ、「戒壇板本尊」や「日禅授与の本尊」の実像を基にしているので信憑性は高いと言えるでしょう。
また、弘安二年十月前後に図顕された日蓮真筆本尊とは明らかな相貌の相異が指摘され、日蓮自筆の曼陀羅の中で唯一、図顕年に干支の記載がないことから、先ず日蓮図顕の曼陀羅そのものではなく、何らかの事情で臨刻模造されたものであると考えられてきましたが、果たして今回の試みで裏つ゛けられたようです。
「戒壇本尊」と「日禅授与之本尊」とが一見して異なるのは当たり前です。但し、題目と日蓮花押は判で押したみたいにぴったり合うのです。
また、不動・愛染を現わす梵字の必法や脇書の文字は日蓮の書体ではありません。
日蓮系の信者ではない私に「罪障」云々の脅し文句は通用しません。

またIDの件は貴方に回答する義理はありません。あしからず。

【追記】

私が過去に他の方に回答したURLを下に示します。「戒壇本尊」関係のURLにもリンク出来ますので御覧ください。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1346787553

尚、『日蓮と本尊伝承~大石寺戒壇板本尊の真実』金原明彦氏著も参考になります。

立正大学は言うに及ばず、今や創価大学所属の研究者までが、「戒壇本尊」の日蓮図顕には否定的な見解です。
日蓮正宗側も必死になって応戦していますが、客観視すればシニタイと言うところでしょうか。

立正大学だけではありません。他の宗教学・仏教学系の大学や国立大学の研究者も概ね同意見です。
日蓮正宗には専門の研究機関が皆無な為、学術的に反証すら出来ていません。
富士門流の名刹、保田妙本寺の「吉浜文書」の研究が進めば日蓮正宗お得意の「金口嫡嫡、法水瀉瓶、唯授一人血脈相承」すら否定されかねませんね。

これは断言しておきますが、『百六箇抄』・『本因妙抄』は日蓮撰述ではなく、明らかな「偽書」であり、『本因妙口決』は日順を騙った偽書です。

「御本尊」は限りなく偽作に近い「真偽未決」、「血脈抄」は「偽書」、元信者の0000や冨士大石寺顕正会は折り紙つきのカルト、現役法華講の妙観講は犯罪者集団紛い、これが似非仏教・日蓮正宗の現実でしょう。

 

 

 

私は創価大学・宮田教授のサイトを読み、宮田教授の弟子として投稿しています。

 

日蓮本仏論に洗脳されてしまっている高齢の00000が余りに多いからです。

 

また、日蓮正宗という排他的かつ独善的な教義に洗脳されてしまっている高齢の00000が余りに多いからです。

 

宮田教授を擁護するための投稿です。間違えないでください。

 

投稿不可能になっていますが、私は創価大学・宮田教授を擁護するために投稿しています。

 

 

 

既に論証済みの如く、「日蓮本佛」の思想が宗祖日蓮や派祖日興にあったとする文証は皆無です。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

rsd37264氏を破折せん(その6)」の質問・回答の内容は以下の通り。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1046691105

>貴殿との議論の枝葉の事はおいておくなら、日蓮大聖人が末法の御本佛であるとの文証と、種脱か否かの2件に集約されると思って良いと思います。

既に論証済みの如く、「日蓮本佛」の思想が宗祖日蓮や派祖日興にあったとする文証は皆無です。
それどころか、「上行再誕日蓮」を示唆する文証は目白押しです。

殊に貴殿らが『発迹顕本』の御儀式と位置つける『龍之口法難』以降に図顕された『万年救護之大本尊』の讃文には「上行菩薩が末法の世に始めてこの本尊を弘める」と明記されている。
日蓮の思想に「種脱」の観念があった事は遺文に認められるが、「相対」して勝劣を判じる思想は認められません。
脱と言い種と言っても、それは能化の主が教主釈尊か、上行菩薩かの相違に他ならないのであって、釈尊の説かれた『法華経』よりも日蓮が広めた『南無妙法蓮華経』の方が勝れているという事ではないのです。
釈尊の『法華経』も「不軽菩薩の二十四文字の法華経」にせよ、「日蓮聖人」の「南無妙法蓮華経』にせよ、一仏乗に於いては本質的に同一であって、勝劣を判定するような性格のものではない筈です。
「教相判釈」に見られる統一主義の行き過ぎた実例と言っておきましょう。

>貴殿は見たことはあっても、持ってはいないと思う文証です。~(中略)~いかがですか、これで宜しいですか?

貴殿は本当に大石寺や0000が信者に下付している「御本尊」を持っているのですか?
「阿弥陀仏」なんと何処に書いてあるのだ。
貴殿の「御本尊」の講釈はさておいて、日蓮真筆本尊と『本門戒壇大御本尊』に関するURLを以下の示します。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/mob/kaidanhonzongizo004.html

http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/069.html

日蓮真筆曼荼羅を文永・建治・弘安の儀相の変遷に則して見れば、必ずしも貴殿の言い分が正しいとは言えない筈である。

>華厳宗は御書の「報恩抄」で破折されていますがそれでも華厳宗ですか?

言った筈だが、私は五教十宗判を用いて華厳宗が最高などと言った覚えはない。

天台の五時八教判は、それ自体は中国人の仏教理解を知る上で興味深いものだが、現代の仏教学に於いては、その誤りが種々に指摘されている。
先ず、『法華経』の開経であり「四十余年未顕真実」の文によって『法華経』に諸経とは隔絶した地位を付与していた『無量義経』は4~5世紀に中国で創作された『偽経』である事が学術上判明している。
この事は創価大学教授の菅野博史氏も『法華経 永遠の菩薩道』(大蔵出版)の中で述べている。
日蓮遺文の『報恩抄』には『無量義経』が頻繁に登場するが、日蓮が他宗批判の土台とした文証は完全に崩れている。

次に『報恩抄』の記述から、現代に本抄を持ち出して論難する事の愚かさを指摘する。

「華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに天台大師の釈を引きのせたり」
(『日蓮大聖人御書全集』P302・後から二行目)

中国佛教史の観点から言えば、天台大師智顗は『大乗起信論』の文句を全く引用していない。
『小止観』には一箇所の引用例が見られるものの、後代の挿入である事が判明している。

隋代の天台宗の後、唐代に入って華厳宗が賢首大師法蔵によって大成されたのだが、後の天台宗六祖・妙楽大師湛然と華厳宗第四祖・清涼国師澄観の間に論争が起きた時、互いに相手の宗義を自家薬籠中のものとして論争した為、『大乗起信論』の真如縁起説や華厳宗の生成の観念を湛然も大いに取り入れており、『大乗起信論』の華厳的解釈が、それ以降の天台宗義には見られる。
また、澄観は『華厳経』と『法華経』の融合を第一義とした為、法蔵のように五教十宗判を余り表に出さず、天台大師智顗が『華厳経』の「心仏及衆生是三無差別」の文によって一念三千説を構築した事実に鑑みて論理を展開した為に、日蓮は『聖密房御書』に「澄観は天台を破するようにて・なを天台の一念三千の法門に借りとりて我が経の『心如工画師』の文の心となす」と述べて、澄観を盗人扱いしているが、智顗の一念三千説自体が『華厳経』に大きく影響されており、天台宗側も華厳宗の宗義を大いに取り入れている事実を見れば、一方的に盗人扱いするは邪難と申しておきましょう。

>去ぬる延暦二十一年正月十九日天王高雄山に行幸あつて~天皇驚き給いて委細に御尋ねありて重ねて勅宣を下して十四人をせめ給いしかば承状の謝状を奉りたり

先ず当日に桓武天皇の高雄行幸の事実はありません。「謝表」は最澄の講経を讃嘆した内容であり、法論に負けた為に奏上したものではありません。
日蓮遺文を絶対視して、時代錯誤的に解釈するから恥をかく事になるのです。

 

 

 

 

ただ「自宗のみ正しく他宗は全て邪宗教」という排他的・独善的な思想教義を佛教の本義に照らして遺憾に思っているのです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

私は「日蓮正宗以外なら何処の宗派・宗旨を信仰しようと良いという考え」ではありません。

日蓮正宗の信仰そのものを否定したつもりは毛頭ありません。

ただ「自宗のみ正しく他宗は全て邪宗教」という排他的・独善的な思想教義を佛教の本義に照らして遺憾に思っているのです。

日蓮正宗は0000のみならず他の無関係な宗派や宗教までぼろ糞に論難していますね。

http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/

貴方の譬喩を借りれば、日蓮正宗は自分だけが正しいという狭隘で独善的な思想に凝り固まっている「小舟」で、御釈迦様本来の佛教は懐が広く深く多くの異なった価値観をも包摂する「大きな船」だと思いますが。

そう言えば、元信者の0000の800万信徒達や冨士大石寺顕正会の方々も救済し損ねたのでしょうかね。

佛教に於いて何が「小乗」で何を「大乗」と称するのか、果たして『法華経』が「実大乗」と賞賛されている由縁は何ぞや、というところを御考えになれば宜しいかと考えます。

ところで佛教の教えに「浅深・高低」を云々することは釈尊が禁じておられるのですよ。

日蓮正宗の方々が自分達だけで独自の教えを信仰される分には傍でとやかく言うことはないでしょう。
しかし、然したる確証も無しに他宗派はおろか同じ日蓮宗各派までも「邪宗教」と論難するに於いては、最早佛教の本義から外れていると申し上げる以外にはないでしょう。

貴方は真言宗から日蓮正宗に改宗された訳ですから、どうぞ御信仰なさってお幸せになってくださいませ。

「日蓮聖人」も理論や文献的裏付けよりも現証が大切だと言ってますから。

どうか「現証」即ち実態的に幸せになってください。

心よりその事を願っています。

今後の御精進を祈ります。

合掌。

 

 

 

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

00000は「釈尊脱仏・日蓮本佛論」という日蓮正宗の基本的教義を踏襲しています。

「釈尊脱仏」とは「お釈迦様」は、末法の世には役目の終わった用無しの仏である」と云う意味です。

「日蓮本佛論」とは日蓮こそは『法華経』に説かれた究極の「久遠本佛」であり、釈尊始め十方分身の諸仏は、その働きの表出的存在(用の仏)に過ぎず、末法の世の「御本佛」は「日蓮大聖人」であるという思想です。

しかし、『法華経』の何処にも「日蓮」なる記述はありません。

彼らは「上行菩薩」こそは末法の世に出現した日蓮その人であり、その本地は「久遠元初自受用報身如来」であると主張しますが、確かな日蓮遺文を見る限り、日蓮には「上行菩薩の再誕」としての自覚はうかがえますが、自分が「お釈迦様」よりも偉大な「御本佛」などとは微塵も考えていなかったようです。

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。

まさに、「本末転倒」もいいとこです。

【追記】

仏陀の説かれた「理法」は「不生不滅」なるが故に、永遠の真理であって、賞味期限が有る訳ではありません。

『法華経』は仏陀の理法の永遠性に立脚して説かれた経典です。勿論、この視座は『華厳経』や『無量寿経』も同様です。

所謂「正法・像法・末法」の「三時説」の思想は初期大乗経典には無く、かなり後になって成立した『大方等大集月蔵経』「法滅尽品」の経文によっているのですが、後で成立した思想で、先に成立した経典を解釈する事は理に合わない事は言うまでもありません。

【後発の0000副B長さんへ】

『諌暁八幡抄』の貴方の示した文章の何処に「日蓮本佛」を示唆した言葉が書いてありますか?

日蓮は自らが教主釈尊から授かった「要法」たる「南無妙法蓮華経」は末法の世に於ける『法華経』であると考えていましたから、「当機益物」としてそのように表現しているのでしょう。

>日蓮大聖人でもない貴殿が、なぜ日蓮大聖人のお気持ちが解るのでしょうか?

その言葉、そっくりそのまま貴殿等、日蓮正宗や0000信者にお返ししましょう。

貴殿等は先ず「日蓮大聖人」は「末法の御本佛」である、と言う大前提のもとに日蓮遺文を解釈している。
だから件の遺文の文句を平気で引用できるのです。
貴殿が引用した文章は「日蓮本佛」の文証たり得ません。

 

 

 

 

『法華経義疏』を拝読して、『法華経』を正しく理解して欲しいものです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

答え。『法華経義疏』です。

00000には是非に一度、『法華経義疏』を拝読して、『法華経』を正しく理解して欲しいものです。

 

 

 

 

この板曼陀羅の存在を以って、日蓮正宗が永年に亘り他の日蓮宗各派を「不相伝の邪宗門」と罵って来た事実が有る事も忘れてはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「大石寺の所謂戒壇のご本尊」こと『楠板彫刻本門戒壇大本尊』は、大石寺の伝承によれば日蓮が弘安二年(1279年)十月十二日に楠板に図顕したものを弟子の和泉公日法が謹刻して、日蓮の允可を受けた本尊であり、その脇書に「本門戒壇の願主弥四朗国重」とある事から「本門戒壇の大御本尊」と呼ばれています。

この本尊は近年以来、真贋論争が絶えなかったのですが、最近になって日蓮が弘安三年(1280年)に図顕した『日禅授与之本尊』(寺伝・万年救護之本尊)を北山本門寺が公開した為、日蓮正宗の元信者の方が、既に流出していた「本門戒壇本尊』の写真と『日禅授与の本尊』の写真とを縮尺補正して解析した結果、粗間違いなく『本門戒壇大御本尊』は日蓮図顕の『日禅授与之本尊』を元にして臨刻模造されていた事実が発覚しています。
それどころか、大石寺では日興の板曼荼羅まで偽作していた可能性が濃厚のようです。

勿論、実物を鑑定した訳ではありませんので、今のところは限りなく偽に近い真偽未決の御本尊と言ったところでしょう。

関係URLを以下に示しますので御参考にしてください。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi...

『本門戒壇大御本尊』は学術的には贋作の疑い濃厚な板曼陀羅ですが、信仰の次元に於いては大切な「御本尊様」だと言う事です。
大石寺の信者が自分達だけで信仰する分には何ら問題は無い訳ですが、真贋論争が起こる背景には、この板曼陀羅の存在を以って、日蓮正宗が永年に亘り他の日蓮宗各派を「不相伝の邪宗門」と罵って来た事実が有る事も忘れてはいけないと思います。

 

 

 

 

『二箇相承』自体の信憑性が限りなくゼロに近い

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

『聖人御難事』は日蓮が弘安二年(1279年)十月に著した遺文であり、丁度其頃は「熱原の法難」という日蓮信者弾圧事件の真只中でした。
この遺文は正筆が日蓮宗大本山・中山法華経寺に完存していますので第一級の資料といえますが、遺文中には「本門戒壇大本尊」の図顕についての記述は一箇所も見当たりません。
古来、大石寺に於いては遺文中の以下の箇所を「本門戒壇大御本尊」図顕の文証としています。

「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なりその間の大難は各各かつしろしめせり」

この中の「余は二十七年なり」と言っている事を根拠にしているようですが、学会一般の大方の見方は、この『聖人御難事』の文句を拠り所として「本門戒壇大本尊」の図顕年月を「弘安二年十月十二日」と模刻したのではないかと言われています。
日蓮真筆の曼荼羅の中で図顕年月の書かれたものには年号が書かれているのですが、この板本尊には「弘安二年太歳己卯十月十二日」とは書かれておらず「弘安二年十月十二日」と書かれている為、それも疑惑の種になっているようです。

【追記】

『聖人御難事』の記述を根拠にして、『本門戒壇大御本尊』の図顕年月日は「弘安二年十月十二日」と模刻されたと考えられます。

元来、富木日常(常忍)の遺風を受け継ぎ、日蓮自筆の曼荼羅や遺文の保護に心を砕いて来た中山門流(現在の中山法華経寺)が板曼荼羅のルーツである事が指摘されています。

『聖人御難事』の日蓮真筆も中山法華経寺に現存しています。

『楠板彫刻本門戒壇大本尊』の脇書には以下のように認められます。

「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四朗国重、法華講衆等敬白」

(『富士宗学要集』第八巻資料類聚[1])

この脇書を文章通りに読めば、この板曼荼羅の製作依頼者は「弥四朗国重」ということになります。
また「本門戒壇の願主」と書かれていますから、「本門の本尊」の願主ではない事になるのです。

若しも、この板本尊が日蓮正宗が主張するように身延に於いて日蓮が楠板に図顕したものを、和泉公日法が彫刻したのなら、必ず日蓮の允可を受け、その証拠としての允可書が有る筈です。

斯くも重大な意義を有し、かつ大石寺の懐深く秘蔵されて来たものならば、他の「最初仏(楠板の端材で製作された日蓮像)」と一緒に日蓮自筆の允可書が有る筈なのです。

然るに、この本尊も『御義口伝』同様に日蓮の允可書もなければ、他の相伝文書にも登場しないのは不可解だと言われています。

日蓮正宗に於いては「秘中の秘」だから、そのようなものはないのだろう(趣意)と主張しますが、これは理由にはなりません。

日蓮が「弘安二年太才己卯十一月日」に図顕した『沙門日永授与之本尊』と見比べてもその相貌が著しく異なる事も指摘されています。

偽相が整足している曼荼羅には「未曾有の大曼荼羅也」と認められますので、日蓮真筆の允可書でもない限り日蓮正宗が主張するように、「戒壇本尊」を以って他の曼荼羅と隔絶した特別の地位にある曼荼羅であるとは言えないと言うのが一般的な見解です。

【補足への回答】

『二箇相承』自体の信憑性が限りなくゼロに近いのですが、若し仮に存在していたと仮定しても「願主・弥四朗国重」なる者を特定するのは不可能です。
日蓮正宗では「大聖人己心中の弥四朗国重」(趣意)である等と言っていますが、曼荼羅脇書等は法の領域に属する本尊の相貌とは性格を異にする大石寺文書(史料)ですので、その言い訳は通用しないのです。

 

 

 

 

日蓮真筆の数多の曼荼羅の讃文には「未曾有之大曼荼羅也」とか「未曾有之大本尊」と認められている以上は、それら他の曼荼羅と『楠板彫刻本門戒壇大本尊』との相違点は何に由来するのかも明らかにする必要があります。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

今に伝わる仏典は「如是我聞(私はこのように聞いた)」と冒頭に書かれている事からも解るように、釈尊が直に書いたものではありません。
原始仏典のように比較的成立の早いものでも、最古層に属する一部のテクストを除外すれば、それが釈尊その人の思想だと断定する事はできないのです。
まして、釈尊が入滅して400年以上も後に成立した『法華経』や『華厳経』等の大乗仏典は釈尊の説いたものでは無い事は現代仏教学では常識と化しています。
しかし、最初に登場した『般若経典群』にせよ、それらの大乗仏典にせよ、それら経典に見られる思想には釈尊の時代の基本的な思想が脈打っており、その価値は高いものと言えます。
古来よりインドで成立したであろう経典や論書は「偽経」だとは言わない決まりになっているのは、そもそも「お経」なるものは釈尊が書いたものでも編纂したものでもなく、その全ては後世の仏教徒の手になるものだからです。

しかるに、日蓮の場合は自ら筆を執って数多の遺文を著し、また数多の妙法曼荼羅を図顕しています。

現在、彼の顕した曼荼羅の中で127幅は学術的に真筆である事が確認されています。

また『昭和定本日蓮聖人遺文』には434編もの遺文が収録されており、現在に於ける真撰・真偽未決・偽撰の分類は粗終了に近つ゛いていると見てよいでしょう。

日蓮自身が自ら筆を執って書き顕している事を前提として日蓮正宗や0000が教義を構築している以上は、それをインド伝来の経典と同じように取り扱う事はできないのです。

まして、永年に亘って日蓮正宗や0000は『楠板彫刻本門戒壇大本尊』や『百六箇抄』・『本因妙抄』また『二箇相承』等を以って、他宗はもとより他の日蓮門下の諸宗までも「邪宗教」と罵ってきたのですから、同義的な意味合いからも、その真贋が社会から問われれば、自ら率先して、それらの日蓮真筆であることを証明しなければならない事は道理と考えます。

日蓮正宗や0000の信仰そのものは十分に尊重されて然るべきだと思いますが、自分達だけが正しい宗教で、他は全て「邪宗教」と主張する以上は、厳しい『楠板彫刻本門戒壇大本尊』の真贋論争が巻き起こるのは当たり前ですね。

嘗て日蓮は「三証」すなわち「文証(文献的見地)・理証(論理的根拠)・現証(実態的証明)」と言う実証主義を採用して諸宗を『四箇の格言』を以って論難排斥しました。

例えば真言宗批判には『菩提心論』の龍樹撰述を疑い、『大梵天王問仏決疑経』を「偽経」であるとして禅宗批判を展開しています。
然らば、日蓮の義を以って他宗批判を展開する以上は、先ず以って自宗の立場の絶対的根拠である『楠板彫刻本門戒壇大本尊』や大石寺文書に対しても「三証」を用いて万人が納得するように、その真なる事を証明すべきです。

日蓮真筆の数多の曼荼羅の讃文には「未曾有之大曼荼羅也」とか「未曾有之大本尊」と認められている以上は、それら他の曼荼羅と『楠板彫刻本門戒壇大本尊』との相違点は何に由来するのかも明らかにする必要があります。

 

 

 

 

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮系の宗派によって見解は様々ですが、「日蓮聖人」の御生涯最大の危機であった【文永八年(1271年)九月十二日】に起こった『龍之口法難』の時ではないと文献からは考えられます。
その文証は翌【文永九年(1272年)二月】に配流の地、佐渡で著された『開目抄』の以下のような文面です。

「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて」

(『開目抄』曾存・時代書写 北山本門寺 日興要文)

「日蓮聖人」が身延に入山された後、【文永十一年(1274年)十二月】に図顕された『万年救護之大本尊』(国指定重要文化財)の讃文に「五五百歳の時、上行菩薩出現して始めて世に之を弘宣す」と認められています。
【建治四年(1278年)二月二十三日】に書かれた『三沢抄』には以下のような文面があります。

「又法門の事は、さどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」

(『三沢抄』 正筆 京都妙覚寺 ・時代書写 日興 北山本門寺)

やはり、佐渡流罪の前の【西暦1271年】『龍之口法難』が「日蓮聖人」の「上行菩薩の再誕」としての確信を得た事件だったと考えられます。

 

 

 

 

日蓮の生きた時代は貴族社会が崩壊し武家社会への移行期にあたる為、社会不安(末法思想)と相俟って、相次ぐ天災・疫病の蔓延・戦争等で民衆が塗炭の苦しみに喘ぐ時代だったのです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

お気軽に日蓮を紹介するような事を、伝統宗派である日蓮宗がなさる筈はないと考えます。

恐らく貴殿の友人は日蓮系の新興宗教か、伝統宗教なら日蓮正宗の信者の可能性がありますね。

日蓮宗は社会的には由緒正しい伝統宗派として広く認められています。

また立正大学という教育・研究機関を持っており、日蓮研究に於いては高く評価されています。

鎌倉時代の宗教家である日蓮は、鎌倉新仏教のラストランナー的な立場にあったので「法華至上主義」を掲げて他宗を激しく論難排斥しました。
日蓮の生きた時代は貴族社会が崩壊し武家社会への移行期にあたる為、社会不安(末法思想)と相俟って、相次ぐ天災・疫病の蔓延・戦争等で民衆が塗炭の苦しみに喘ぐ時代だったのです。
そのような時代の中で日蓮は従来の仏教の有り方に疑問を持ち、『法華経』による新たな教えを打ち立て、旧来の仏教勢力や権力には一切阿諛する事なく、自ら信じる道を不退転の覚悟で切り開きました。
こうした自らの信念を貫徹する強靭な意志等、また現実重視の姿勢は現代を生きる私達も大いに学ぶべき点があります。

日蓮の遺文は、今は『御書』と呼ばれて日蓮系宗派では大変尊重されていますが、波乱万丈の人生を送った日蓮の遺文を、その時代背景や、遺文全体の意味を考慮する事なしに絶対視して教条主義に堕ちれば、過激な行動原理のバイブルと化す恐れが指摘されています。

日蓮の好悪の情を際立たせる性格は、多くのアンチ日蓮を生みだしているのも事実ですが、一方では熱狂的なファンを生み続つ゛けているのも事実です。

 

 

 

 

『法華経』は宥和的な経典です。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

『法華経』をハイブリッド・サンスクリットの原典と漢訳『法華経』の両方を比較対象して読んで行けば、この経典が中村元先生の仰せの如く「宥和一致の思想」を述べたものである事が理解できる筈です。
法華経の前半14章の迹門では、従来は声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗は別々の教法であると考えられていたのを、それは皮相な見解であって、仏の教法は元より一切衆生が救われる一仏乗であることを宣言しています。
この際に大切な事は、三乗を否定して別に一仏乗を説いたのではなくて、三乗をそのまま一仏乗に開会していることです。
三乗の教法への執着を捨て切れなかった五千の傲慢な修行者が『法華経』の会坐を去っていますが、彼らは自らの修行者としての立場や、善行の実践者であるというプライドに捉われて、人を見下す傾向にあった人々です。
要するに仏教内の自らの立場への固執を『法華経』は打ち破って、仏陀の本願は一切衆生を漏れなく救済する事を明かした経典であると言えます。

それどころか『法華経』には、どんなに小さな事でも仏様を敬う行為を成す者は全て救済されると主張しています。

「若し曠野の中において、土を積みて仏廟を成し 乃至、童子の戯れに 沙を聚めて仏塔を為れる。
かくの如き 諸の人等は 皆、已に仏道を成じたり。」

「若し人、散乱の心にて 塔廟の中に入りて 一たび南無仏と称えば、皆、已に仏道を成ぜり」

「若し法を聞くことあらん者は、一(ひとり)として成仏せずということなからん」

①②③『法華経』方便品第二より)

恵心僧都源信は『法華経』方便品の経文を引用して、浄土信仰の重要な根拠としています。

「法華の偈に云く『もし人、散乱の心もて 塔廟の中に入るも 一たび南無仏と称えんには、皆已に仏道を成ず』と」
(『往生要集』)

要するに『法華経』は浄土門の重要な文証でもあるのです。

>すなわち,念仏もOK

「仏語は皆実にして虚しからず」ですから、当然OKです。

『法華経』は宥和的な経典です。

 

 

 

 

昔から日蓮宗派関係者の間では、大石寺が『本門戒壇之大御本尊』を信者以外に拝ませないのは、眼力のある部外者に贋作である事を見破られる事を恐れている為だと囁かれています。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

戦後、0000信者の急増にともなって建立された奉安殿も、大石寺67代阿部日顕法主によって叩き潰された正本堂も、その後に建築された現在の奉安堂も、それは『本門戒壇之大御本尊』を奉安する蔵としての性格を持ちます。

従って、信者達は時の法主の特別の許可を得て、蔵の中に入って拝む「内拝」をすることになり、これを「御開扉」とか「御目通り」と称するそうです。

『本門戒壇之大御本尊』とは、「一国広宣流布の暁」に本門寺の戒壇堂に安置すべき本尊であって、この戒壇堂は比叡山延暦寺にある戒壇堂を「法華迹門の戒壇堂」と位置つ゛け、それに対して「法華本門の戒壇堂」という意義があるそうです。
戒壇堂とは仏教徒が正式な戒律を受けて僧侶になる儀式の場の事ですか、昔は国家公認の施設でした。
その為に、「広宣流布の暁」には天皇の勅宣と政府の官印を賜って、日蓮の教えを国教とする意味合いがあるのです。

それまでの間は、『本門戒壇之大御本尊』は蔵の中に安置し、『御開扉(内拝)』の際には焼香・灯明は供えられても水と華(樒)は供えられる事はありません。

また、日蓮正宗信徒以外の者が「内拝」する事は宗義で固く厳禁されていますが、過去に一度だけ大石寺55代下山日布法主は国柱会幹部の山川智応氏や宗教学者の姉崎正治博士の『御開扉』を行った記録が残されています。
これらの人々は勿論、日蓮正宗信者ではないから、これは明らかに日蓮正宗の法義に則れば「謗法」となる筈ですが、現在の日蓮正宗の言い分によると、これらの人々は日蓮正宗に恭順の意を示したのであり、内拝を許すか否かは法主の権能に属する問題だと釈明しています。

(ところが、本人や関係者の言によると、この人々は見料を払って見物しただけだと言っていたそうです)

昔から日蓮宗派関係者の間では、大石寺が『本門戒壇之大御本尊』を信者以外に拝ませないのは、眼力のある部外者に贋作である事を見破られる事を恐れている為だと囁かれています。

信仰心とは恋愛と同じような心理ですから「痘痕(あばた)も笑窪(えくぼ)」な訳です。

十分に教え化かされている信者達の眼には、漆黒の闇に燦然と光り輝く曼荼羅の金文字は、有り難い「日蓮大聖人」の「魂魄」と映るので御座いましょう。

 

 

 

『三沢抄』や他の日蓮遺文には神社参詣を否定する文言は見当たりません。

Rsd37264氏は書かれてあります。

1に対する回答。
「日蓮聖人」が図顕した妙法曼荼羅には「天照太神・八幡大菩薩」が諸尊として認められていますが、それは『法華経』の教主釈尊を本地としての日本国守護の諸天善神としての位置つ゛けであると考えられます。
「日蓮聖人」にとっては日本国は「神国」であると認めつつも、本地垂迹説に則って仏法の下に日本の神祇を位置つ゛けていた事は、京都妙顕寺に真筆のある『神国王御書」(録外七ノ12・『霊良閣本』P1349)で確かめられます。

「日蓮聖人」の日本の神々に対する考え方を端的に知る事の出来る遺文を以下に紹介しましょう。

「日本国の守護神たる、天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、・総じて大小の神祇等、体の神つらなる・其の余の神豈もるべきや、宝塔品に云く『諸の大衆を接して皆虚空に在り」云々、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」

(『日女御前御返事』録外二三ノ12・『霊良閣本』P1624)

「又うつぶさ(内房)の御事は御としよ(年寄)らせ給いて御わたりありし、いた(痛)わしくをも(思)いまいらせ候いしかども、うじがみ(氏神)へ(参)りてあるついでと候しかば・けさん(見参)に入るならば・定めてつみ(罪)ふか(深)かるべし。
其の故は神は所従なり、法華経は主君なり、所従のついでに主君への・けさん(見参)は世間にも・をそれ候」

(『三沢抄』 正筆 京都妙覚寺 時代写本 日興 北山本門寺 録内十九ノ20・『霊良閣本』P1702)

「日蓮聖人」は日本の神々に日本国の守護と仏法守護という諸天善神の役割を期待していました。
また「日蓮聖人」にとってのメインはあくまでも『法華経』すなわち仏法にあったのであり、天照太神・八幡大菩薩は「用」の役割であった事が確認できます。
しかし、『三沢抄』や他の日蓮遺文には神社参詣を否定する文言は見当たりません。
それどころか、一部の浄土系の信者が神祇を軽んじる風潮があった事を以下のように批判しています。

「念仏の行者は弥陀三尊より他は上に挙ぐる所の諸仏菩薩・諸天善神を礼するをば礼拝雑行と名け又之を禁ず、然るを日本は神国として伊奘諾伊奘册の尊此の国を作り、天照太神垂迹御坐して御裳濯河の流れ久しく今にたえず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや」

(『聖愚問答抄』録外一ノ1・『霊良閣本』P541)


2に対する回答。
天照太神と八幡大菩薩の本地に対する考え方は宗派によっても異なりますが、「日蓮聖人」の立場は、それらの両神はいずれも『法華経』の教主釈迦如来であると考えていました。

その「文証」を以下に示します。

「もって一閻浮提の者の眼を抉るべきか、釈迦仏の御名をば幼稚にては日種という、長大の後の御名をば慧日という、此の国を日本という。主をば天照と申す」

(『慧日天照書』断簡遺文・延山録外・『霊良閣本』続P94)

「八幡大菩薩は、日本国・第十六代・応神天皇・四月八日申寅の日生れさせ給いて・御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給う。釈迦仏の化身と申す事は・たれの人か・あらそいをなすべき~(中略)~但し、大隅の正八幡の石の銘には、一方には八幡と申す二字・一方には昔霊鷲山に在って妙法蓮華経を説き、今正宮の中に在って大菩薩と示現す等云々。
月氏にては釈尊と顕れて法華経と説き給い・日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を誓いに立て給う」

(『智妙房御返事』 正筆 中山法華経寺 『霊良閣本』P2016)

>(ただし、これは、あえて聞いている質問です。特にある特定の方々に回答をしていただきたいと思っています。)

「特にある特定の方々」とは如何なる方々を指すのかは分かりませんが、私は日蓮系の信者でない事だけは誤解の無いように申し添えます。

ご参考まで。

 

 

 

 

現に客殿安置の『御座替本尊』や『紫辰殿本尊』等の板曼荼羅には別に原本としての日蓮真筆の紙幅本尊が現存します。
現存する紙幅本尊に裏付けの無い板本尊は、他の日蓮自筆の紙幅本尊を部分的に転写して模刻されたケースが多く、『本門戒壇大本尊』や日興書写と伝承される板曼荼羅も、恐らくそのようにして後世に模造されたものでしょう。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

何かと論争の絶えない真偽未決の『楠板彫刻本門戒壇大御本尊』ですが、戦後までは大石寺客殿の後ろに位置する御宝蔵という周囲を堀と塀で廻らせた土蔵の中に安置されていたようです。

大石寺の御影堂には別の板本尊と宗祖日蓮の御影像が祀られ、客殿には中央に『御座替本尊』(板本尊)と左右に宗祖日蓮・派祖日興の肖像が祀られています。

0000が出現して戸田城聖によって定期的な登山会が組織されるまでは、信者の通常の参詣は御影堂や客殿で行うのが通例だったようです。

日蓮正宗の法義によれば『本門戒壇大御本尊』は「蓮祖聖人の御内証の法体」そのものであり、それが表に化儀として顕れているのが御影堂の曼荼羅の前に宗祖御影を重ねて祀る方式と、客殿の別体三宝式なのだそうです。

要するに、本来は軽々しく直接拝むような御本尊ではないと言う事のようです。

この『本門戒壇大御本尊』が晴れて大石寺の正式な本堂に祀られるのは、宗祖日蓮の教えが日本国中に弘まって「広宣流布」が達成され、大石寺が『本門寺』と改称された時であると言われています。

0000が出現する前までは、篤信の檀信徒の懇請によって大石寺法主の格別の計らいによって御宝蔵の中で「御開扉」という儀式によって「内拝」が許されていたという事です。
格別の法主の配慮によって蔵の中に入って礼拝が行われていたと言う事でしょう。
今の奉安堂でも、それは大きな蔵であるから、香と灯明は捧げても華(樒)は供えないそうです。

0000の出現によって信者数が激増してからは戸田城聖の登山会のメインイベントは「御開扉」となり、信者は登山すれば猫も杓子も『本門戒壇大御本尊』にお目通りできるようになったのです。

実質的には御開扉料金を支払えば信者なら誰でも拝める訳ですから「公拝」となんら択ぶところはありません。

現在の日蓮正宗では『本門戒壇大御本尊』を拝まないと成仏できないような事を言っていますが、本来は誰でも拝める本尊ではなかったようです。

学術的には『本門戒壇大御本尊』は真偽未決でも、日蓮正宗にとっては大切なドル箱という訳です。

現在の学会一般の見解では「板曼荼羅」とは宗祖日蓮の図顕した紙幅本尊を臨刻模造して本堂等に安置して通常の礼拝に供し、紙幅の真筆曼荼羅は秘蔵されるべきものであったようです。

現に客殿安置の『御座替本尊』や『紫辰殿本尊』等の板曼荼羅には別に原本としての日蓮真筆の紙幅本尊が現存します。
現存する紙幅本尊に裏付けの無い板本尊は、他の日蓮自筆の紙幅本尊を部分的に転写して模刻されたケースが多く、『本門戒壇大本尊』や日興書写と伝承される板曼荼羅も、恐らくそのようにして後世に模造されたものでしょう。

【補足への回答】

戦後の大石寺は、戦時中に小僧の火の不始末から客殿・持仏堂・書院・大坊・大奥等の主要な建物を全て焼失し、時の住職であった日恭法主まで焼死するという事態に遭遇しています。
また、GHQの農地解放政策で、殆どの寺地や田畑を奪われ、焼け残った他の堂宇も傷みが激しく、絵に描いたような荒れ寺だったそうです。

根檀家には当然の如く布施を強要していたそうですが、日頃の大石寺の坊さんの行状の悪さは地元では知れ渡っていましたから、「大坊と聞けば塩も貸さない」と言われていた程だそうです。

根檀家方は古くからの宗門の内情を十分に知っていましたから、「お戒壇さん」が在るからといって「すごいご寄進」なんてしていません。

当時の根檀家代表は「御前さん」に対して「金を出すなら収支報告書を公開するべきだ」と言ったそうです。

戦後の混乱期に自分達の生活が苦しいのに、行儀の悪い坊さんに貢ぐような酔狂な檀家は殆どなかったようです。

戦後の日蓮正宗の窮状を救ったのは、戸田城聖率いる0000だったと言っても決して間違いはないと思います。

草創期の00000は、その過激で非常識な勧誘のせいで、世間からは白眼視されていましたが、宗門の旧檀家や殆どの僧侶からも蔑まれていたにも拘わらず、彼らの貢いだ莫大な布施によって貧乏荒れ寺だった大石寺は、なんと立派な御寺さんに変身したようです。

親戚から聞いた話ですが、戦後に宗門側から大石寺の観光地化を推進する案が浮上した際に、戸田城聖はその案に反対して、そのかわりに登山会を組織する事によって安定収入が大石寺に入るようにしたそうです。

古い檀家は先祖から昔の大石寺の在り様や、坊さん達の裏事情を聞かされていますから、坊さん達の方でも根檀家には頭が上がらないそうです。

戦後に入信した新参信徒方にとっては雲の上の存在である「御法主上人猊下」も古い檀家にとってみれば「御前さん」でしかありません。その他の坊さんについても推して知るべしでしょう。

ご参考まで。

 

 

 

 

心美しき人は救われるはずです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮正宗の異常性は、他ならぬ日蓮正宗自身が自ら証明しています。

http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/

「信ずる者は救われない」、「~人々を不幸に堕す邪宗教の害毒」などと、他宗教を悪しざまに論難して大見栄を切る割には、この宗派の僧侶達は、他宗派関係者との対話を拒否し続けている。
また、最新の仏教学や宗教学の成果と向き合おうとはせず、いたずらに宗祖日蓮の遺文を振りかざして他宗派を論難するなど時代錯誤も甚だしい。
勿論、彼らの信仰自体は十二分に尊重されて然るべきであるが、確証のない自家撞着の論理に固執した言い分はカルトの条件を十二分に満たしていると言えるだろう。

当該文化の価値観を反映する宗教、及びそれに対する宗教観・信仰観は様々である。
それを自宗教以外は全て「誤った宗教観、信仰観」と決めつける思想は、インド・ヨーロッパ系の宗教に属する仏教としては特異だと言え、むしろイスラム教やキリスト教のようなセム系一神教を思わせる。

日蓮正宗の言い分に耳を傾けると、そこには相手に対する思い遣りや寛容の精神などは一かけらも感じられない。

兎に角、経典や宗祖の遺文を脅し文句に使用して、いたずらに恐怖心を人々に植え付け、宗教や仏教に素養のない人々を欺いて教勢拡大を謀っているとしか傍目には見えないのだ。

世界が文化の多様性を認め合う文化相対の価値観に進化しようとしている最中、それに逆行するが如き自文化中心主義の権化とも言うべき宗教と言えるだろう。

これでは、嘗ての帝国主義やイデオロギーによる思想統制と本質的には何ら択ぶところはないだろう。

日蓮正宗は嘗ての法華講(信徒団体)である冨士大石寺顕正会や0000を生みだしている。
冨士大石寺顕正会は元は日蓮正宗妙信講と称した日蓮正宗の正式な法華講だった団体であるが、この教団の無節操ぶりは本部の所在地のある埼玉県の大宮では知れ渡っている。
JR
大宮駅構内では、複数の男女が半ば色仕掛けで若者を勧誘しようとしたり、果ては大宮駅で鉄道写真を撮影している「撮り鉄」と呼ばれる鉄道マニアの方々まで勧誘するそうだ。
中には監禁・暴行傷害という犯罪にまで手を染める信者も居り、この教団にかかわった数多の元信者達が、その後長い期間に亘り心的外傷に悩まされるケースが報告されている。

また、現役の日蓮正宗法華講である妙観講は、目的の為なら手段を選ばぬ犯罪紛いの反社会的な行為に及び、裁判沙汰にまでなっている。

まさに、社会に宗教被害を撒き散らしている『百禍繚乱』の宗門が日蓮正宗なのである。

このサイトでは一般のアンチ創価を装った日蓮正宗信者が暗躍していると見られており、上手く一般アンチの方々を味方につけて日蓮正宗の利益を謀っているという見方をWikipedia関係者が指摘している。

 

 

鎌倉方の大檀那の神社参詣が公然と行われていた事実を見れば

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

白蓮阿闍梨日興は永仁六年(1298年)二月十五日に、南条氏の領地に隣接する石川孫三郎能忠が日蓮聖人御影堂・天照太神垂迹堂を建立寄進したのを期に、「重須の寺(北山本門寺)」に移った訳ですが、日蓮は元は天台宗の僧侶だったので、その弟子の日興も「本地垂迹説」の立場をとっていました。

「本地垂迹説」と言うのは日本の神々の本地(本体)は仏教の仏菩薩であり、日本の衆生を救済する為に権りに神と姿を示現した「用」の存在だという思想です。

去年の暮れに北山本門寺に行って創建当時の事を寺院関係者に聞いてきましたが、古くは大石寺にも天照太神垂迹堂があったみたいです。

此れは日本国の神祇の最高神である天照太神を『法華経』の教主である久遠実成釈迦如来の垂迹とする事で、地域社会に根差した神祇信仰を仏教に上手く取り込んだと言えます。

さて、大石寺33代日元が地元の浅間神社に「本地久遠実成釋尊垂迹富士浅間宮」と書かれた板本尊を納めたのも本地垂迹説によるものです。

現在の日蓮正宗が「謗法」と定義するのは、時の貫首の納めた神社以外の神社に檀那が参詣する事をさしているそうです。

昔、板本尊が祀られた神社の村落が殆どすべて大石寺の檀家になった時期もあったらしく、現在では全く無関係の神社になっていますが、神社の社の中に板本尊が在るのは、その当時の名残なのです。

古い神社の社(やしろ)の内部には御神体と並んで板本尊が安置されていますから、当時は謗法でなくとも現在は謗法状態と化していると言えなくもないでしょう。

天英院殿が六代将軍徳川家宣公と共に大石寺山門の建立に際して、富士山の巨木70本、黄金二千粒を寄進していますが、天英院殿は一応の信者であっても、天台宗寺院や浄土宗寺院にも寄進の記録がありますから、大石寺専属の檀家とは言えそうにありません。
公儀の名目で布施を受けていますが、大石寺は「受派」の寺ですので、将軍や幕府の布施を拒否する事はできなかったのです。

日蓮や日興の教学思想に照らせば、明らかに「謗施」を受けたことになるでしょう。

まあ、幕府寺社奉行に睨まれたら、寺ごと破却されかねない時代でした。

天英院殿の姫君が夭折した際に、江戸の常泉寺が菩提所と定められたのを期に、幕府の庇護を受けて寺運は隆盛を極めたそうですが、予てから天英院殿が帰依していた鬼子母神堂や水天宮を天英院殿の要請で他宗寺院から勧請して祠堂を建立して祀っていたのは事実です。
貴殿が言われるように、天璋院殿も大石寺には寄進していますが、彼女は寛永寺や増上寺にも多額の寄進をしていますから、これも法義に照らせば「謗施」を受けていた事になるでしょう。

相手が権力者である場合には、とても恐ろしくて「謗法厳戒」は言えなかったのでしょう。

上記の「本地垂迹説」に基つく法主の神社への板本尊奉納の件は「謗法」とは言えないまでも、その他の行為は日蓮や日興の流儀に照らせば「謗法」と言えそうです。

しかし、それぞれの時代に、それが合法か非法かの判断は「唯受一人血脈相承」を受けた法主の裁量に委ねられており、御都合次第で「謗法」になったり、ならなかったりと複雑怪奇です。

要するに日蓮正宗では歴代法主は「蓮祖聖人のもぬけられたる」存在であるから、地上に於ける本佛日蓮の代務者であり、その意向に逆らう行為一般が「謗法」と看做されているようです。
法主に逆らえば「謗法」、素直に相談すれば、格別のお慈悲により免罪されるようです。

伝統的な権威権力には、めっぽう弱く、0000等のような新しい信徒団体には尊大な態度をとるのでしょう。

【補足への回答】
大石寺には「霊宝お虫祓い大法要」という儀式があり、御宝蔵という土蔵から大石寺に伝わる曼荼羅や文書が取りだされて客殿で公開されています。
しかし、未だに学会一般から公開の要望のある重要文書の学術調査を頑として拒み続けています。
北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺等が心よく重要資料を学術調査に供される態度とは真逆に、大石寺が学術調査を拒む理由は、バレては困る重大な瑕疵が秘蔵されているように思えてなりません。
保田妙本寺の吉濱文書には、新田卿阿闍梨日目関係の文書が残っていますが、それらは折り紙つきの本物です。
どうやら富士門流内での「大石寺正嫡説」も怪しくなってきたようです。

【rsdm825氏へ】
恐らく、日興が南部実長を謗法とした最大の理由は、彼が民部阿闍梨日向に師匠を鞍替えした事が最大の要因だったと思います。
また、鎌倉方の大檀那の神社参詣が公然と行われていた事実を見れば、日興が必ずしも身延山の別当職にあったとは言い難い面もあります。
日興の事績は末流達によって相当に潤色されていますから、今後の資料調査の進展次第によっては「日興上人身延離山史」も大きく塗り替えられる可能性を孕んでいます。

 

 

 

確かな日蓮遺文を見る限り、日蓮には「上行菩薩の再誕」としての自覚はうかがえますが、自分が「お釈迦様」よりも偉大な「御本佛」などとは微塵も考えていなかったようです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

00000は「釈尊脱仏・日蓮本佛論」という日蓮正宗の基本的教義を踏襲しています。

「釈尊脱仏」とは「お釈迦様」は、末法の世には役目の終わった用無しの仏である」と云う意味です。

「日蓮本佛論」とは日蓮こそは『法華経』に説かれた究極の「久遠本佛」であり、釈尊始め十方分身の諸仏は、その働きの表出的存在(用の仏)に過ぎず、末法の世の「御本佛」は「日蓮大聖人」であるという思想です。

しかし、『法華経』の何処にも「日蓮」なる記述はありません。

彼らは「上行菩薩」こそは末法の世に出現した日蓮その人であり、その本地は「久遠元初自受用報身如来」であると主張しますが、確かな日蓮遺文を見る限り、日蓮には「上行菩薩の再誕」としての自覚はうかがえますが、自分が「お釈迦様」よりも偉大な「御本佛」などとは微塵も考えていなかったようです。

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。

まさに、「本末転倒」もいいとこです。

【追記】

仏陀の説かれた「理法」は「不生不滅」なるが故に、永遠の真理であって、賞味期限が有る訳ではありません。

『法華経』は仏陀の理法の永遠性に立脚して説かれた経典です。勿論、この視座は『華厳経』や『無量寿経』も同様です。

所謂「正法・像法・末法」の「三時説」の思想は初期大乗経典には無く、かなり後になって成立した『大方等大集月蔵経』「法滅尽品」の経文によっているのですが、後で成立した思想で、先に成立した経典を解釈する事は理に合わない事は言うまでもありません。

【後発の0000副B長さんへ】

『諌暁八幡抄』の貴方の示した文章の何処に「日蓮本佛」を示唆した言葉が書いてありますか?

日蓮は自らが教主釈尊から授かった「要法」たる「南無妙法蓮華経」は末法の世に於ける『法華経』であると考えていましたから、「当機益物」としてそのように表現しているのでしょう。

(略)<

 

 

釈迦は「八正道」のみを説かれたと思えるのです。

Rsd37264
氏は書かれてあります。



ブツダの思想の特徴は、如何なる民族も、如何なる宗教を奉じる人々も、また如何なる時代においても、認めざるおえない普遍的な「理法」を説いたのであって、彼は新しい宗教を創始したのではない。ブツダの思想は「理法」を説くのであって、「教義」を説くのではない。諸宗教や哲学(形而上学)の説く「教義」なるものは偏見であるとして彼は斥けている。ブツダの時代の最初期の佛教は「悟り」というものを佛教独自の宗教体験だとは考えなかった。

ブツダとは「目覚めた人}と言う意味で、古代インドの思想界がその出現を待ち望んでいた存在である。「ブツダ」は普通名詞であって固有名詞ではない。
ブツダの思想は彼の死後、佛教教団によって「四諦」「十二因縁」「八正道」という形式に纏められ、正統なブツダの教えの証明として「三法印」が提唱されているが、これら諸概念については、検索すればWikipediaに解説があるので参照されたい。

本回答においてはブツダの思想の特筆すべき性格のみを述べたいと思う。
彼の思索の原点は、誰もが不可避の「苦」についての考察である。誰でも、自ら望んで、このような資質・能力・容姿・境遇に生まれてくるのではない。しかも、生まれたからには老いと病に苛まれ、やがて生存は死に帰結する。生きるという事は死に向かうという事でもある。他から与えられる苦であれば避けることもできようが、自己が自己の意志に背き否定するのである。この現実を凝視すれば、現象世界の全ては「無常」なのである。何も現象世界だけが無常なのではない。その物事の「ありかた」自体が本来、実体の無いものなのである。「諸行無常」とは単に現象世界の具体的事物が無常だと言っているのではなく、「ありかた(法)」そのものが「無常」であるという意味である。
さすれば、人はその苦をどのように克服すればよいのであろうか。それについてブツダは次のように教えている。

つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死(苦)を乗り超えることができるだろう。
(スッタ二パータ)

全ての事象(ありかた)は刻々と変化して止まず、そこには固定的な実体(自性)は存在しない。すなわち、存在の根底に固定的な「我(アートマン)を想定し、それに執着することこそ、苦しみの原因であるから、それらの本性は「空」(実体の欠如)と悟ることが、苦から逃れることになると説いたのである。しかし、これは虚無主義のように消極的、厭世的な意味ではなく、固定的な偏見や先入観なしに変遷万化する「諸法(全ての事物・事象」の「実相(本質)」を「如実(ありのまま)」に見ることを意味する。
これは、既成の形而上学や宗教の権威・イデオロギーから離れた、真の主体性の確立に他ならず、この「無立場の立場」こそ「中道」と呼ばれるものである。すなわち、現象世界は相対の世界であり、その本質は空であるから、全ての哲学・宗教的断定を離れて、「ありのまま」に物事を観察することが「正しい道」であり、苦悩から離れる実践である説いたのである。(具体的には八正道)
ブツダは形而上学(哲学)的質問には答えなかった。それらは「十難無記」と呼ばれている。その理由は「論議のための論議」は人生の苦の解決には無益であると教えている。(Wikipedia参照)

「私はこのことを説く」ということが、私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると、確かに知り、諸々の偏見における(過誤)を見て、固執することなく、省察しつつ、内心の安らぎを私は見る。
(スッタ二パータ)

彼の思想の目指すところは、人として誠実に生きること。全ての権威主義を離れた公正な立場により、行動することにあるのであり、人間離れした特別な存在になることを目指していたのではない。彼自身「私に教師の握り拳はない」といって、後世の佛教が売り物にする「秘法相伝」を否定している。

ありとあらゆる悪を成すことなく、善い行いをなし、自らの心を清めること。これが諸々の目覚めた方々の教えである。
(ダンマパダ)

ブツダの「理法」は普遍的であるが、それは具体的な生きた人間に即して展開するものである。何もブツダの教えは、私達の現実生活を遊離して、お寺や仏壇のなかに「有る」のではない。「理法」は現実の場面に生かされてこそ意義があるのである。
佛教が宗教として確立したのは、ブツダの滅後のことであるが、他の宗教と比較して「原理主義」に陥らなかった理由は、その思想の普遍性もさることながら、なによりも「生きとし生けるもの」への「慈悲」にあったと言われています。

(略)


 

日蓮が図顕した事が学術的に検証されている他の127幅の曼荼羅には、このような事実は認められない事から、『本門戒壇大本尊』偽作の疑いが益々深まっています。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

弘安三年(1280年)五月九日に図顕された『少輔房日禅授与之本尊』は、従来は北山本門寺と大石寺で同じ真筆本尊が2幅存在している事から、一幅の真筆を2枚に剥離したものであると永年に亘って信じられてきました。
その再、表面に剥離の痕が認められない北山本門寺所蔵の本尊が表面の分で、大石寺所蔵の本尊が裏面の分だとされてきたのです。
ところが、近年に大石寺所蔵の『少輔房日禅授与之本尊』の映像が一般に出回るようになり、既に公開されている北山本門寺所蔵の真筆本尊と画像解析によって二つの本尊の映像を重ね合わせた結果、この2幅は酷似はするものの、全くの別物である事が判明しています。
つまり、『少輔房日禅授与之本尊』の日蓮真筆は日蓮宗大本山・北山本門寺にしか現存せず、大石寺所蔵の本尊は似せ書きされた贋作であると考えられます。
また、日蓮が弘安二年(1279年)十月十二日に図顕したとされる大石寺所蔵の『本門戒壇大御本尊』(現状は板本尊)と『少輔房日禅授与之本尊』の題目と日蓮花押の部分が判で押したように合致し、日蓮が図顕した事が学術的に検証されている他の127幅の曼荼羅には、このような事実は認められない事から、『本門戒壇大本尊』偽作の疑いが益々深まっています。

『本門戒壇大本尊』と『少輔房日禅授与之本尊』の写真は以下のURLで御覧ください。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

http://www.geocities.jp/saikakudoppo02/mob/kaidanhonzongizo004.html

【追記】
大石寺が頑として学会一般に資料提供を拒むのは、余りにも資料の捏造・改竄が多い為だろうと見られています。
めぼしい宗祖日蓮や派祖日興の重宝は他の富士門流の大本山格の寺院に秘蔵されている事が多く、多くの資料が寺院側の協力のもとに学術調査にも供されて日蓮・日興・日目の真筆資料である事が確定しています。

以下に国指定重要文化財『万年救護之大本尊』のURLを示します。

http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/016.html

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


御指摘のように由緒ある寺社の多くは神仏が南に向かって鎮座ましますのが一般的ですが、それは中国の故事「君子南面」に由来するそうです。(本来の我が国の考え方ではない)
実は私、厳島神社に参詣の折に貴殿と同じ質問を厳島神社の神職の方に尋ねたことがあるのですが、神職曰く「推古天皇の御世に、佐伯鞍職が社殿を創建する際、一羽の烏のお導きにより、現在の地に定められた」そうです。また、社殿の南側を山(弥山)とすることにより風当たりが比較的穏やかで、暴風雨の災害から社殿を守りやすいことや、宮島と本州の間の海域は台風の時も、宮島の南岸に比べて、ずいぶんと波が穏やかだそうです。要するに社殿を営みやすく、維持管理し易いところに建てられた(立地条件)と言うのが真相のようです。それに元来、弥山信仰のあった所ですから、弥山を拝し易く既述の理由も勘案の上現在の位置に社が営まれたそうです。
(厳島神社の神職の説明の要約)
ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

以下は余談です。

現在の厳島神社の建築様式は、平清盛の寄進に始まり何度も立替えられて今日に伝わっていますが、現在の建物の様式は佛教の極楽浄土を模したものと言われ、国宝『平家納経』は厳島の神に捧げられたものです。我が国に仏教が伝来してより以来、日本古来の神々と佛教の佛、菩薩は混交または習合しているのが普通でしたから、今でも厳島神社の祭礼には佛教の影響が色濃く残っているのだそうです。明治時代になってから、『神仏分離令』と言う法律によって、神様は神社、仏様はお寺というふになり、現在まで続く私達の固定観念が成立したのです。
明治政府のもとで神道は国の管理下に置かれ「国家神道」と呼ばれましたが、その時に、当時の複古調の気運のなかで「古神道」と言う言葉も造られました。たとえば、本物の古九谷焼の大皿には『古九谷」なんて絶対に書いて無いようなものです。

Onia222
さんが言っている「明治以降は寺の僧職が神職となるに及び、古来の日本文化についても古神道についても正しい見識を持つ人が少なくなり」云々の話は、厳島神社と多少なりとも縁のある私にとっては聞き捨てならぬ言葉です。厳島神社の創建以前の原始信仰と、厳島神社創建にまつわるエピソード及び、それ以降の信仰のあり方にはそれぞれに相違がみられ、殊に創建当時の推古天皇は十七条憲法を制定した聖徳太子と同時代の人ですから、仏教伝来(欽明天皇の頃)以降に創建された厳島神社には、かなり早い時期から仏教信仰の影響があった事が知られています。まして、現在の社殿は平安末期の平清盛の寄進の社殿がもととなっていますので、そのことを踏まえれば、「『全て南向きがいい』と勘違いするようになった」とは、とても言えたものではありません。また、「神殿には常時ご祭神がおられる訳ではない」とする解釈は手前勝手な言い分に過ぎず、私は厳島神社の仰せ通りに厳島大明神(市杵島姫命)・田心姫命・滾津姫命が鎮まります御社であると信じています。

 

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

涅槃佛は釈尊が今将に亡くなろうとされている姿を表現したものです。涅槃とはサンスクリット語のニルバーナを漢字の音をかりて表現したもです。「煩悩の火が消えて、安らぎに帰した」ことを意味するそうです。涅槃佛は右側を上にして寝ておられますが、それは心臓の位置が上になるので体が楽になるからだそうです。普通は人が死ぬときは立って死にませんよね。(弁慶の立ち往生という例外は有りますが)
お釈迦様も、私達のような普通の人間と同じように病気をして亡くなられたのです。

お釈迦さまの最期のお言葉を紹介して回答の締めくくりとさせていただきます。

「さあ、修行僧たちよ。お前達に告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」

「グアヤダンマー サンカーラー アッパマデーナー サンパデータ」

これが修行を続けてきた者の最期のことばであった。
「マハー パリ二ツバーナ スッタンタ」中村元訳『ブツダ最後の旅』岩波文庫より

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「人間の愚かさの最たるもの」とはなんぞや?とても意義深い御質問だと思います。

私のような浅学菲才な者でも、多くの人々の優れた意見を傾聴することにより知識を得ることができます。新たに知識を得る瞬間瞬間は物事についての無知を改めて自覚させられる一瞬一瞬でもあるのだと思います。
でも、もしも愚かな私が「自分は何でも知っている。賢者なのだ」と思い上がったとしたら、それこそ貴殿の言われる「人間の愚かさの最たるもの」と言うことができるでしょう。

今を去ること2500年の昔、お釈迦様のお弟子に、一人の物覚えの苦手なお弟子さんがおりました。みんなから「お前は頭の悪い愚かな奴だ」といつも馬鹿にされていました。
ある時、このお弟子さんはお釈迦様に「どうして僕はこんなに頭が悪く、愚か者なのでしょうか?」と尋ねしました。
お釈迦様はつぎのように言われました。
「自らの愚かさを知る者は、もはや愚か者だとは言わない。実に自らの愚かさを知らずして、他者を「愚か者」呼ばわりする者ほどの愚者を私は知らないのだ。そなたは自分の至らなさを誰よりもよく知っている。それゆえ、そなたを「愚か者」だと、正しく目覚めた方々は思うことがない」と。

私見ですが、私は知らない事だらけの愚かな人間に過ぎません。だけど愚者か賢者かの区別は知識の「ある」「なし」とは別次元の問題ではないかと思っています。物事を知ることは、すなわち物事を知らなかった事を知る事でもあるのだと思います。
「賢者に愚者はいないように、愚者に賢者もいない」といいます。反省しきりの今日この頃です。

次に「八百万の神々は、私達をお見捨てになったのですか」との仰せですが、神々が私達をお見捨てになったのではなくて、私達のほうが、八百万の神々をないがしろにしているのだと思います。「神は非礼を受けず」と古来より言われています。その「非礼」こそ自ら「賢者」のように思い上がっている私達人間の傲慢な心と態度だと思っています。

つらつらと卑見を述べてしまいました。御容赦ください。 敬白

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

檀家制度が日本佛教堕落の根源」というのは私も全く同感です。その理由も現状も貴殿の仰せの通りです。文化財保護のためなら、また別に色々な手段がありますから。宗教としての「佛教」を考える上においては、そろそろ考え直したほうがよいのかも知れません。いずれにせよ檀家制度は自然に廃れて行く事でしょう。
私見を述べさせて貰えれば、日本佛教堕落の根源とも言うべきものは別にもう一つ有ると思います。それは、明治時代から始まった僧侶の妻帯の問題です。御存知の通り、明治五年四月二十五日、太政官布告第133号「今より僧侶の肉食妻帯蓄髪は勝手たるべきこと」と言う一号の布告によって、殆どの(今では全て)の宗派の僧侶が「御仏にも勝る朝廷のお慈悲かな」とばかりに「大黒様」と称する女性を寺院に引き入れて、ブツダの制誡は有名無実と成り果てて、貴殿もご承知置きの堕落果て無き日本佛教会の現状が現出することと相成りました。
僧侶の妻帯にともなう僧職の世襲化は、各宗派内に閨閥を形成し、佛教会に新進気鋭の人材登用の障害になっていると言われています。何も世襲の弊害は政治家のことだけではありません。
釈尊が僧侶の妻帯を絶対に認めなかった、その理由はインドのバラモン階級のように、仏の弟子が社会に於ける一つの階級になることを恐れた為だと言う指摘もあります。
ともあれ、佛教の僧侶は一応は「出家」なわけですから、家があり、妻子が有ると言うのは可笑しいのです。
「庫裡」と称する家に居て、ある意味では「在家」よりも「在家」のお暮らしを楽しんでおられる方もおいでですから。
先日、台湾から帰国した友人が言ってましたが、日本の佛教の現状について現地の僧侶から、かなり手厳しい批判を伺ったそうです。日本では、お坊さんが職業化してますから、ピンと来ないかも知れませんが、台湾や中国の佛教僧は日本の僧侶のことを「花和尚」といって軽蔑しているのだそうです。「花和尚」とはPlay boy すなわち「破戒僧」のことです。仏の弟子でありながら、仏の定めた戒律を守らないのは「僧侶の皮を着た畜生」だそうです。
このままでは、日本の佛教は形骸化が一段と進行し、価値観の多様化と相俟って、葬儀佛教も維持出来なくなり、遂には日本から姿を消してしまいかねないのではないでしょうか。

追伸、質問者殿の肩を持つ訳ではありませんが、現代でも華厳宗大本山東大寺や新薬師寺などの鎌倉時代以前に建立された華厳宗や法相宗の寺院では、そもそも檀家というものがありません。それでも立派に寺院経営をされておられます。東大寺の森本御長老は、イスラム教やキリスト教の方々とも積極的に対話を重ねて世界平和に貢献されておられます。そもそも華厳宗は葬儀は行わない宗旨なのです。死者の葬送儀礼には、唱えるべき経も無ければ引導を願う本尊もありません。華厳宗では葬送儀礼は世俗的な行事と考えられており、法事等も一切行わないわけです。東大寺にとって、強いて檀家と言えば「全人類」なのだそうです。このような御宗旨もあるのですから、檀家制度という「完全会員制」みたいなものは、そろそろ日本の佛教会は本格的に廃れる前に一度考え直した方がよいのではないでしょうか。

 

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

仏教は人の命は「不生不滅」つまり「生じたものではないから、滅びることも無い」という「縁起なるもの」と考えますから、人は死んでも、それで終わりなどと言うことは誤りです。仏陀は、身内の死に嘆き悲しむ人々にたいして「この人の始めての生でもなければ、初めての死でもない」と語ったといいます。生も死もともに命のあり方に他なりません。永遠の命の営みの中で人間の境涯に生まれるのは、とても稀なことなのです。だからこそ、貴殿の言われるように今世で仏法に結縁することは実に有り難い事だと感謝することが肝要かと存じます。仏教の教えに照らせば、生も死も仮初めの現象にすぎませんから、仏弟子としての戒名は存命のうちに頂くのも、死後に頂くのもかわりありません。要は今世でみ仏と結縁したことの証ですからね、ただし、それも御本人の御信心によるべしですが。要するに人の死は現象の領域での死にすぎず、法の領域すなわち「縁起の理法」の領域では「不生不滅」ですから、法の領域では死は無いことになります。だから、生死ともに御仏の弟子である事に変わりはないわけですから、死後に戒名頂くのも意味のあることでしょう。そして忘れてはならないのは、後に遺された人達の事です。故人が戒名授かり浄土に旅立ったのだと思う事のより、慰められますし、信仰の励みにもなりますから。まあ、浅学の私に思いつくのはこのくらいです。
御参考まで。 等覚寺雅道 敬白
追伸、貴殿の質問に接して救われた思いです。御仏の教え通りに仏国土信ずべきかと思います。YAHOO知恵袋には、他に余りにも不毛の論議が多いもので。

後発回答者の方に申し上げます。貴殿の発言は浄土宗系の宗旨に対する侮辱が感じられますが。質問者の方は、何も戒名が無いと成仏できないとか、一部の日蓮系新興教団が主張しているような、独善的な成仏観の主張なさっているのではないのですから。まして、現世に背向けた厭世的な主張なさっているわけでもありません。
貴殿が仰せのように、明治五年(1872年)4月25日、太政官布告第133号「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」によって、堕落果て無き今日の日本仏教界の現状は私もよく存じております。しかしこれは、戒名授ける側(僧侶)の事ではなく、頂く側の心構えについての事だと考えています。世に「医者の不養生、坊主の不信心」とよく言われますが、そらは本件とは別のお話ですね。私自身も、寺院が授ける戒名は絶対に必要かと問われれば、必ずしもそうではないと回答しますが。(戦災で一度に多くの方が亡くなられた場合など、個別に戒名が戴けなかった方々は大勢おられますから。)

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


お布施の金額の高によって格式が決まるというのは本当のようです。よく「戒名は仏様の所に行くための切符の様なものだ」なんて言う人がいますが、その人がそう信じているのなら、それはそれで良いと考えています。立派な戒名を貰って喜んでいる遺族に「そんなの死んだ人は分かりませんよ」なんて言えないですからね。

戒名のルーツを辿れば、中国の儒教や道教の死者への諡号(おくりな)に起源が有るようです。わが国で死者の葬送儀礼に仏教僧が携わるようになったのは、平安末期から鎌倉時代にかけてと言われており、死者に戒名が一般的に定着したのは江戸時代の宗教政策により檀家制度が整備されてからのことになります。その戒名の性格たるた一目で故人や遺族の身分がわかるようになっていました。宗派によって戒名のスタイルは様々ですが、昨今、大きな問題となっているのが被差別部落の人々に付けられていた差別戒名の問題です。人間の本質的な平等を身分差別の厳しいインド(カースト)で唱えられた御釈迦様の教えに明らかに違反していますから。言わば身分差別の正当化に仏教界も一役かっていたことの動かぬ証拠と言う訳です。死者への贈り名に格式があると言うこと自体、「人には身分があるのは当然」とする儒教の考え方そのものですからね。お釈迦様の説かれた本来のお経のどこにも戒名のことなんて書いてありませんからね。

戒名が「金次第」で手に入るようになったのは明治時代になってからのことでした。それまでは、大金持ちがいくらお金を積んでも院殿号なんて絶対に貰えませんでした。もしも、そんなことしたら、与えた寺院の側も貰った信者の側も幕府からキツイお咎めを蒙りますから。明治になって、お坊さん達も徳川幕府という檀家制度に法的根拠を与えていた後ろ盾を失くして、檀家を繋ぎ止める手段と実益を考えて、金さえ積めば立派な戒名を誰にでも付けるようになったのです。それでは「地獄の沙汰も金次第」と批判を浴びかねないので、各宗派では先祖代々の檀家と新参の信徒の間に区別を設けたり、「信仰心を考慮して、いくらお金を積まれてもOO号は授けられません」なんとか言ってツジツマ合わせをしている始末です。中には、お寺としてお金のことは言い難いので、役員檀家や葬儀屋さんに言わせている寺院もあるそうです。
御質問のように「お金さえ積めば」と尋ねれば、「そうですよ」と言う寺院や宗派はまずないでしょうね。でも、「この位の戒名が戴きたいのですが」と尋ねれば「故人の生前の社会的地位を考えれば、この位の法号でないと」と言われるかも知れません。
私見ですが、戒名を貰うも貰わないも、それは故人と遺族の意志次第だと思うのですが。もしも、「僧侶のつけた戒名がないと成仏できない」なんて言う寺院や僧侶があったとしたら、それは噴飯ものだと思うのですが。

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

大梵天王門仏決疑経に曰く「仏の曰く、吾に正法眼蔵 涅槃の妙心 実相無相 微妙の法門あり、不立文字、教外に別伝して、摩訶迦葉に附属するのみ」
禅宗で尊重されている経典ですね。
経典自体の日本語訳は『国訳一切経』にでています。
その詳しい解説は、忽滑谷快天(ヌカリヤ・カイテン)の著作『禅学思想史』上・下二巻本(古本としての現在の相場価格8000円前後)で仏教書関係の古書店にあると思います。
東京近郊にお住まいであれば、神田あたりの仏教関係の古書店には何軒か当たれば有ると思います。関西エリアにお住まいであれば、京都の其中堂さんあたりに有るかもしれません。

ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

普賢菩薩(サマンタ・バドラ)は、次期如来候補で、神様ではありません。仏教の神様とは天部のことで、帝釈天とか大梵天とかのことです。
普賢の「普」とはあまねくの意味で、「賢」とは智慧の意味です。すなわち、智慧があまねく行き渡ると言う意味になります。
「菩薩」とは、上には悟りのために修行し、下には迷える衆生の救済に励む実践者のことです。詳しくは、「普賢菩薩」で検索してみてください。出てますから。(Wikipedia ご参考まで。
仏教の神様は、元来はインドの神様が仏教に取り入れられたのだとか。一括して「諸天善神」と言うそうです。

追伸、『和風総本家』というテレビ番組の最後のコーナーで「仏像ソムリエ」というのがあるのですが、それによると、仏教には、最高位(仏教界のプレジデント)の如来(仏)、次期如来候補の菩薩、如来の働きの表明の明王(破折、信伏の慈悲の姿)、如来守護者の天部(仏教の神様),それに力士(金剛力士等)とかがあるそうです。

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「功徳」と「ご利益」は違いますよ。貴殿のケースは「ご利益」であって「功徳」ではありません。宗教用語の使い方には注意しましょうね。
「功徳」とは「功能福徳」すなわち、善行の積重ねによって自己の生命の内に徳が刻み込まれることですよ。
「中華の小釈迦」と讃えられた天台大師が仁王経の解説の中に「功徳とは巧みに施すことが、功と言うのであり、自己に帰することが徳と言うのだ」と仰せです。だから即物的に何か得たということが功徳ではないことがお解かりいただけたでしょうか。
貴殿の御宗旨の0000で言えば、お題目唱えることが、それにあたるでしゅうか。お題目の功徳が貴殿の命に刻み込まれるということでしょう。また、世間的に言えば、たとえば電車の中でお年寄りに席が譲られたような場合、譲った方が功徳なさった事になるのです。いずれにせよ良い行いは功徳です。功徳とは誰かから貰うものではなく、「させていただく」ものなのです。

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」(スッタ二パータ)
この言葉に初めて触れた時、私は感動しました。仏教徒であることに誇りすら覚えました。そこには、人間だけの、それも特定の信仰を共有にする人々だけが幸せになれるというようなものは微塵もありません。釈尊は「生きとし生けるもの」すべての幸せを願われたのです。行く道や方法は様々でも、目的は同じはずです。東洋哲学者の中村元氏は「釈尊は、後の世に見られる宗祖や派祖たちのように、一つの宗旨を創始したという自覚が無かったのではないかとさえ思われる」と述べておられます。このことを御留意の上、以下の文章をお読みください。

みんなで仲良く地獄でお会いしましょうね。あなたも私(華厳宗の信徒)も全部地獄行きですから、日蓮正宗と、元護持団体の0000の教義によれば、そうなるはずですから。

「我が日連正宗はこの世で唯一正しい最高最尊の教えである。世界は日蓮正宗のためにある。これを現実のものとしているのが0000である。堕地獄必定の世間の人々を救う慈悲の行いが折伏なのである」(日蓮正宗総本山大石寺第65世御法主日淳上人のお言葉)

派祖日興曰く「檀那の社参物詣でを禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社の詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり」
「謗法の供養を請く可からざる事」
「謗法と同座す可からず。与同罪を恐るべきこと」(『日興遺誡置文』立正大学 大崎学報より抜粋)
あるいは、大石寺9代南條日有の教えを同門の南條日住が筆録した『化儀抄』には詳しく書かれています。

要するに、あなたもわたしも、破門された池田さんも、それに従う会員もすべての日蓮正宗以外の人は全て地獄に堕ちると主張する御宗旨なのです。

日蓮正宗の教義によれば、大石寺歴代の住職(法主上人)に逆らうことは宗祖日蓮や派祖日興に対する反逆行為とみなされ、悔い改めることがなければ、数ある地獄の中でも最も恐ろしい「無間地獄」に堕ちるとされています。しかし、悔い改めれば仏の慈悲に預かり救われるそうです。そのためには、大石寺67代阿部日顕(先代の住職)が破門した池田大作氏を0000の会員が見限り許しを請わねばならないとされています。仏教では三宝(仏・法・僧)を謗ることを「謗法」と言いますが、日蓮正宗の場合は大石寺歴代の住職に背く行為一般がそれにあたるとされています。言わば、宗教的な意味での生殺与奪の大きな権限を大石寺歴代の住職は握っているというわけです。今日、日蓮正宗の護持団体である法華講は「可哀想な0000の信徒を救済すべく日夜、脱会を勧めている」そうです。(あくまでも日蓮正宗法華講側の言い分です)
「三宝を謗ることは、大石寺歴代の住職に背くことである」と言い切る根拠は大石寺の歴代住職が代々相伝してきた門外不出の神秘的な秘法(唯授一人血脈相承)にあるのだとか。それと、宗祖日蓮が弘安2年(1279年)10月12日に書いたとされる「楠板彫刻本門戒壇大本尊」こそが仏教の根本であり、それに背く全ての日蓮門下はおろか、他の全ての宗派、他の宗教(キリスト教・イスラム教などの全ての宗教)を信奉する人々は全て「謗法」であると見做されて地獄に堕ちるのだそうです。この教理に照らせば、日蓮正宗以外の全ての宗教の信奉者は全て地獄行きと言うことになるでしょう。当然、私は華厳宗ですので地獄行きは決定です。もしも貴殿が日蓮正宗の信者でなかったならば私と同じ運命を辿ることになるでしょう。だから、この日蓮正宗の考え方からすれば当然「00000は、全員地獄」行きと言うことになるでしょう。これはこの御宗旨の教義なので、私は事の善し悪しは何も言う事はありません。
ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

追伸、当該宗旨の特徴の一つである戦闘的布教(折伏)は、放って於けば地獄行きとなる一般人を哀れむ慈悲の行為とされています。要するに、この世で最高最尊の唯一正しい宗旨は日蓮正宗だけなのだと言う御宗旨らしいのです。

 

 

 

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人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

物(非生物)と生き物や人間を比較した場合、換言すれば相互に存在意義を限定し合う場合には、当然のことながら生き物や人間のほうが尊いと言えます。だから答えはYESです。
しかし、物事の「ありかた」という本質の領域に於いては、互いに依存しあい支えあっている存在として平等だと捉えるべきだと考えます。だから答えはNOです。
考えて見れば、私達人間も他の動物達も、その肉体は物質的要素(非生物)に依って支えられているのであり、物なしではその存在はありえません。死ねば私達の物質的要素は分解されて自然に帰るのですから。
では物と人間や他の生物はその尊さに於いて全く平等か?と尋ねられれば、それは違います。なぜなら、物には感情(心)がありませんが、生き物にはその種類によって程度の差は有るものの心があります。その心にとって非生物より生物の方が尊いと言えるのではないでしょうか
(ゾウリムシにも心が有るのか?)と言われそうですが、原始的な動物でも命(いのち)があります。その命によって、単なる物より生き物は尊いと言えるのではないでしょうか。
そして、当然のことながら、その相互依存という「ありかた」の領域においては、互いに平等であると言えましょう。

ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

追伸、ずいぶん昔のことですが、NHKの番組で、惑星の生命探査を続けるドラマがありました。永い旅の果てに一つの地球によく似た惑星に着陸したのですが、生命探査の結果、残念ながらその惑星にも生物はいないことが判明しました。その時の一人の女性の科学者のいったセリフが今でも印象に残っています。
「いつか、地球に戻ったら、どんなに小さな生き物でも、たとえそれが、カビやバクテリアの類であったとしても、きっと私はとても愛おしく思うことでしょう。だって彼等すべて「生きている」と言う点で、私と確かな絆で結ばれた同朋なのだから」

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「一切の生きとし生けるものは幸せであれ」(スッタ二パータ)
原始仏典に記録されている釈尊の言葉です。この言葉に触れた時、私は感動しました。仏教徒であることに誇りさえ覚えました。人間だけの、それも特定の信仰を共にする人々だけが幸せになれると言うようなものはそこには微塵もない、「生きとし生けるもの」すべての幸せをのみを釈尊は願われたのです。東洋哲学者の中村元氏は「釈尊は、後の世に見られるような、宗祖や派祖たちのように、一つの宗旨を創始したという自覚は無かったのではないかとさえ思われる」と述べておられます。行く道や方法は様々でも、その目的は同じはずです。そのことを御留意の上、以下の文章をお読みくだされば幸甚です。


0000は日蓮正宗とは別人格の宗教法人ですから「仏教を標榜する」も、しないも当該教団の自由です。また、日蓮聖人を「本佛」と仰ぐも仰がないも自由、日蓮正宗の指導に従うも従わないも、全く法律上は問題ありません。(そもそも、宗教上のことには、公権力は立ち入れません)
しかし、「詐欺行為」と言う言葉を、法律上の解釈から切り離して考えれば、それは日蓮正宗と0000との間の問題となりますので、当然のことながら双方には言い分が有るでしょうから、それの吟味無くしては、一概に「詐欺行為」と言うことは差し控えなければならない問題です。
本来の意味での「詐欺行為」とは『刑法』の詐欺罪に相当する行為のことで、これは犯罪の構成要件に該当する言葉ですから、そのような性格のある言葉を気安く使用することは現に慎むべきでしょう。
私見ですが、貴殿が私と同じく、この問題の部外者であれば余り深入りは禁物です。誹謗中傷の渦中に巻き込まれかねませんから。神学論争に巻き込まれても得るところは少なく虚しい気持が募るばかりですから。
別にBAなんていりませんから、ご忠告申し上げます。

追伸、Soka-Saiakuさんが御指摘の他宗の「お寺や神社には魔が居るから行ったら不幸になる」という0000の教義は、「神天上の法門」と言って、本来、派祖日興以来の日蓮正宗の重要な教義の一つです。だから、それを理由に0000をカルト宗教にすれば当然、その元祖の日蓮正宗もカルト教団と言うことになるでしょうね。

日興曰く「檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり」「(日興遺誡置文)『立正大学 大崎学報』より抜粋」

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

金子みすずの詩の言葉「みんな違って、みんないい」これが私の答えです。「ALL ONLY ONE」です。みんなそれぞれに信じる宗教が違うのやから、それぞれ宗教観が違うのは当たり前です。なんぼ赤い薔薇の花が綺麗でも、そればかりではつまらない。なんぼ、キムタクがイケメンかわ知らんけど、判で押したみたいに同じ顔ではつまらない。人はそれぞれ異なった宗教観、価値観でいいと思います。もしも、宗教観の相違で議論したとしても、そこには確執が生まれるのみで、互いの為になりません。
ブツダの言葉に「互いが奉じる真理のために、論争するのに何の利益があろうか」、「議論から遠ざかり離れること。これが心の平安である」(スッタニパーター)
「すべての形而上学的論議(戯論)の消滅という、幸せな縁起」中論
要するに、私の場合「放っておきます」 これも私の宗教観ですが(笑) ご参考まで
等覚寺雅道 敬白

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「空(そら)」とは自然的存在の領域の事物であるのに対して、仏教で説く「空(くう)」は、「法」すなわち、自然的存在の根拠としての「ありかた」の領域が「空(くう)」である。つまり、「五蘊」「五位七十五法」は「実体」ではないという意味、つまり、「法の領域」には実体は無いと言う意味での「空(くう)」である。一般に前者は自然科学で扱われ、後者は存在論の領域で扱われる。仏教は始めから、自然科学の領域ではなく、存在論の領域「法の領域」扱ったのであり、「法」は一般の事物ではない。これがわからないと、トンチンカンな理解になってしまうし、「空(くう)」の意味も理解できなくなるので要注意。つぎに「空」は貴殿の示された4通りのパターンの中のいずれでもないと言うのが、仏教の考え方に基ずく答えです。あえて言うなら、空とは「存在(有)にあらず、無にもあらず」ですから、全論議領域の否定、固定観念では事物の真実のありかたは捉えられないこと、示唆しています。
空は法の実体視の否定であり、決して事物の無の表現でも無ければ、無でも有りませ。そもそも無とは何者かの無なのであり、有が前提となる概念であり、有にはつねに無がつきまといます。つまり有なくして無なし、無なくして有なし、なのであり、有も無も
単独で成立する概念ではないこと意味しています。ゆえに「空」は無ではなく、無が前提の議論は不成立なのです。これは仏教本来の「縁起」に由来するといわれています。 ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

追伸、「どのような縁起なるものも、私は、それは空であると説く。それは(相対的)仮説であって、それが中道である。」(中論24-18)

 

 

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

人は悩みや苦しみがあるから宗教の信仰するのです。だけど、一つの宗教の信仰によって悩みや苦しみが解決しないと、誰かのせいにしたがったり、その宗教そのものの不信に繋がり、やがては改宗したり無信仰者になったりするのでしょう。いずれにしても、自分の外に何かしら期待して、その期待が裏切られたり、期待通りになったりと、それによって信仰が強められたり、弱まったり、果ては別の宗教に鞍替えしたりするのでしょう。仏教の場合、少なくともゴータマ・ブツダの教えに照らせば、自分の外に魔や悪者の対象化はないということです。あくまでも己心の中の魔であり、悪者である筈ですが、「中華の小釈迦」と言われる天台大師も「己心の外に法はなし」と言っておられますし、日蓮聖人も「もし心の外に法ありと思わば、まったく妙法にあらず」と仰せですから。先ず他者の覚醒ではなく自身の覚醒が肝要ではないでしょうか。少し厳しい言い方かもしれませんが、「誰かが悪い、あいつのせいだ」と他者に責任転嫁している間はその人には、心の平安はないかもしれません。貴殿の申された具体的な内容の数々については、当方は興味がありませんのでコメントは差し控えさせていただきます。最後に貴殿の幸多きこと心より願っています。
等覚寺雅道 敬白

 

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

天国や地獄が物理宇宙の何処かに実在するかと問われれば答えはNOでしょう。しかし、一人一人の心の中に有るのだと考えれば答えはYESです。仏教では、地獄や天国は生きとし生けるものの境涯だと説いています。地獄と言い天国と言うのも、所詮は私達の心の善悪によっているのではないでしょうか。キリスト教でも悪い心の人は天国には行けないそうです。自分の利益ばかり考えて他人のことは省みないような人は、程度にもよりますが地獄に堕ちるそうですよ。私の場合は仏教的な考えの方がピンときますが。 ご参考まで 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

人のため、ただ人のため

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

御質問の内容はお盆のお供えのこと藁の船のことお盆期間中の神社参拝のこと、以上三点かと思います。
お盆のお供えは、ご先祖様のお下がりですので、衛生上問題が無ければ召し上がってもらって結講です。お水、お塩も同様です。
藁の船は精霊船(しょうりょうぶね)と言って、ご先祖様のみ霊が彼岸に旅立たれるためのものです。それにご先祖様の名前や戒名書いた札祭りして、お供えとともに川や海に流す習慣が全国各地にあります。しかし、これは必ずしもしなくてはいけないものではなく、精霊船がないとご先祖様がお困りになるということではありません。
お盆期間中の神社の参拝は避けたほうがよいそうです。その理由はお盆は各家にとって身近な故人の霊祭りの行事ですので、お墓参りなどが行われるため、神様に失礼がないようにとの配慮からそうしたほうがよいそうです。一説によると神様は死の穢れがお嫌いなので忌みごととされているとも言われています。神社への参拝はお盆が明けてからのほうが望ましいそうです。普通は16日にみ霊送りがありますので、17日から参拝してもよいでしょう。なお、余談になりますが、墓参の前にその家が氏子である神社に参拝するのが礼儀にかなった作法だそうです。逆になると「神は非礼は受けず」と言って参拝がかえって失礼になるのでご用心ください。

ご参考まで 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

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Rsd37264氏は書かれてあります。

意外に思われるかも知れませんが、鎌倉時代以前の仏教は一般人の葬儀は行わなかったようです。死者の葬送儀礼は主に陰陽師の役割だったと言われています。平安末期から鎌倉初期にかけて仏教が大衆化するにつれて仏教僧が葬送儀礼に携わるようになったのですが、戒名(法名)は出家得度した人が師僧から授かるもので、死者の諡号としての戒名が定着したのは江戸時代に安定した身分制度のもと檀家制度が整備されてからのことになります。その戒名の性格たるや、故人や遺族の身分階級が一目でわかるようになっていました。将軍、大名またその内室はOO院殿OOOO、尊儀、大居士(大姉)少し身分が下ってOOOO居士(大姉)からOOOO信士(信女)など宗派によって相違はあるものの、それらはすべて封建社会の身分制度と不可分の関係にあったのです。たとえ大金持ちの大商人でも院殿号などは貰えなかったのです。被差別部落の差別戒名などは、江戸時代の仏教界が仏陀の金言に背いて、人の差別の正当化に一役かっていたことの動かぬ証拠でもあるのです。かかる戒名が金次第で手に入るようになったのは明治になってからでした。いずれにせよ、戒名なんてものは、本来の釈尊(ゴータマ・ブツダ)とは何のかかわりもない、どちらかと言えば中国の儒教や道教の死者への諡号がそのルーツだということのようです。現在は寺院への貢献度や、社会的地位によって、だいたいの相場があるようですが、要するにこれは葬式仏教と化した現在の日本仏教界のビジネスだと考えればよいでしょう。宗派や寺院によっては戒名の格式によって金額が定められているところもあるようですが、それって噴飯ものですよね。私見ですが、戒名に2000000円払うくらいなら、生きてるうちに有意義に使ったほうがよほどご利益があるのではないでしょうか。 ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

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Rsd37264氏は書かれてあります。

わが国に於いては聖徳太子が儒教、仏教など基に官位十二階や十七条憲法の制定などによって国の形の整備に尽力したことが知られていますし、桓武天皇は平安遷都の際に伝教大師最澄の天台法華宗の設立の勅許によって疫病や政争で荒廃した人心の回復に努めた記録があります。お隣の韓国では朝鮮王朝時代に、聖君と誉れも高い世宗大王(セジョン・テワン)が儒教によって、朝廷の儀礼や国法が本格的に整備され、その教えの徳目(仁・義・礼・智・忠・信・考・悌)によって荒廃した人心掌握に成功して、その後の朝鮮王朝500年の基礎が築かれたと言われています。彼の功績の中でも特にハングル文字の制定は現在でも世界的に高く評価されています。西洋ではローマ皇帝のコンスタンチヌス大帝がミラノ勅令によりキリスト教の国教化によって人心の掌握に努めたことなどが挙げられます。いずれにしても、宗教と政治のそれぞれの持つ利害の一致があったことも忘れてはならないでしょう。昔は政治は「まつりごと」と呼ばれているように宗教と一体となっているのは当たり前でした。近代国家は政教一致の弊害の反省に立って政教分離の原則が多くの国の憲法で定められています。現在においては宗教が説く寛容の精神とか慈悲の心とか博愛とかは、為政者一人一人の良心のこととして考えるべきでしょう。政治が特定の宗教と深く結びつくことは必ずしも好ましいことばかりではないことは歴史が証明しています。
今すぐに思いつくのはこの程度です。ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、だた人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

意外に思われるかもしれませんが、今日使われているような意味合いでの「宗教」や「仏教」の概念が成立したのは明治時代に入ってからのことでした。元来、「宗教」とは「宗とする教え」と言う意味の仏教関係者だけが使用する言わば業界用語だったわけです。明治になって主にキリスト教などの外来のレリジョンが入って来ると、その対訳語として「宗教」が用いられるようになり、日本在来の仏教などと一括して「宗教」と呼ばれるようになりました。「仏教」という言葉も江戸時代までは「仏の教説」という意味での「仏教」という言葉自体は有りましたが普通は「仏法」と呼ぶのが一般的でした。明治時代に意図的に各宗派は一括りにされて現在使われているような意味合いでの「仏教」とされたのです。言わば日本の近代化の過程で仏教(仏法)と宗教の包括被包括の関係は逆転したのです。現在では宗教の中に、仏教、キリスト教、イスラム教は含まれて考えられていますが、そのような考え方が一般に定着してから100年ちょっとというわけです。
ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白
追伸、「宗教」は仏教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、ヒンズー教等の包括概念であるのに対して、「仏教」はその中の一つの被包括概念です。日本語としての成立の経緯は既に記述した通りです。

 

 

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Rsd37264氏は書かれてあります。

貴殿が仰せの通り、本来の仏教は霊魂の実在は認めない宗教なのです。「空に帰す」と言うのは、全てに帰ると言う意味であって、決して無に帰すると言う意味ではありません。仏教では私達の命の本来のあり方は「不生不滅」つまり「生じたものではないから、滅びることも無い」と説いています。(でも、人は現実に生まれて、生きて、そして死んで行くではないか)と思われるかもしれませんが、それは然るべき原因と条件によって現象世界(私達の住んでいる経験世界)に仮に現れている姿であって真実は「不生不滅」であると説くのです。またそのことは「縁起の理法」とも表現されます。たとえて言えば、毎年今頃の季節になると台風が発生するでしょう。台風と呼ばれる気象現象は発生してから消滅するまでの間の気象現象の名称ですが、発生以前の全ての地球上の気象条件が関わりあって一つの台風は発生し北上して衰えてやがては消滅していきます。しかし一つの台風としては消滅しても、それは地球上の大きな大気と水の循環の中に帰っていくのであって、決して全てが消え失せるわけではありません。考えて見れば、一個の台風が発生するためには地球のみならず太陽系の全てが、否、大宇宙の全てが支え合い関わり合っているのです。人の一生も、その「ありかた」において、これと同じと考えてください。一人の人間が誕生するには、時間的空間的な全てのものが原因となり条件となった結果です。そして全てに支えられた人生があり、全てに帰一する死があるのです。だから人は死んでも、その命は消滅することはありません。ブツダは身内の死に嘆き悲しむ人々に「この人の始めての生でもなければ、初めての死でもない」と語ったと言います。他の全てに支えられた存在(縁起なるものは)そのものの内に、そのものの実体がないということが成立します。それが「空」の意味合いです。すなわち、全てが一つに結実することが誕生であり、一つが全てに帰ることが死なのです。考えてみれば私達も全てに支えられて生かされている存在です。もちろん、既に亡くなられた多くの人々が有ってこその私達の存在です。その感謝の気持ちの表明がお盆やお彼岸の行事であるとお考えください。私達日本人は季節の節目節目に、ご先祖様や多くの故人の供養行事して来ましたが、そういう意義があるので決して無意味なことではありません。お盆には故郷に何時もは別々に暮らしている親族が一同に会するでしょう。その時に亡くなられた方々も私達と一緒に居るのだという気持ちは決して誤りではありません。亡くなられた方々は全てなのですから。
ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

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Rsd37264氏は書かれてあります。

イスラム教、キリスト教、ユダヤ教等のセム系の宗教の世界観は、天地創造から最期の審判までの、始めと終わりが有る時間の流れが一直線の世界観です。それに対して、仏教・ヒンズー教等のインド、ヨーロツパ系の宗教は、時間の流れが円環、すなわち始めも無く終わりもない世界観です。世界観がキリスト教と仏教との双方では根本から異なるのですから、どちらがどちらの上だ下だという支配被支配の関係は成立しません。それぞれに永い人類の歴史のなかで、育まれてきた宗教です。上下関係では無く、対等平等の関係だとご理解ください。仏様が神様の支配受けることはなく、もちろん、その逆もありえません。ALL,ONLY1だとお考えください。映画「インデージョーンズ聖杯伝説」の最後のシーン想い出してください。聖杯は決して十字架圏は越えられないのです。これは他の宗教は尊重されねばならないという人類学の鉄則が示されているのです。「神様が上か、仏様上か」と言う論議は成り立ちません。たとえば、柔道金メダリストと水泳の金メダリストとどちらが偉いか偉くないかと言っているようなものです。 ご参考まで 等覚寺雅道 敬白


追伸、議論が白熱していますね。「宗教論の場合、論ずれば論ずるほどに、自分の宗教的立場や価値観が如実に現れる」と文化人類学の恩師が言っておられたこと、、「その通りだなあ」と今更ながらに思います。かく言う私も、家の宗旨は華厳宗で、「華厳経」で説く「法界縁起」の説に、やはり影響されて、相対的価値観の上から「宗教」見るようになっているのだなあと思いました。文化相対主義(文化人類学の立場)から言うと、異文化理解にとって大切なことは、異文化に対して「自分の属している当該文化の宗教の世界観や価値観」で、優れているとか、劣っているとかの価値判断はしないことになっています。否、してはならないことになっているのです。要するに「色眼鏡かけて相手みるな」と言うわけです。ですから「キリスト教と仏教のどちらが上か下か」という質問に対しては回答不能であるとしか答えようがありません。強いて回答するならば、「どちらも上であり、どちらも下である」という論理の破綻(二律背反:アンチノミー)に陥るでしょう。要するにどちらの宗教信仰も対等平等に尊重されねばならないということで、「キリスト教?<仏教?」にかんしては「こうだ」という決め付けはできないと思います。

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

人のため、ただ人のため

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

ありがたい釈尊のお言葉ですね。目連尊者は、釈尊の大乗の教えに従って、餓鬼道に堕ちたお母さんの苦しみ救ったのでしたね。お盆はそれに由来すると、今は亡きお祖母ちゃんから子供の頃に聞いたこと、この季節になると昨日のことのように懐かしく想い出されます。「自分さえ自分の愛するものたちさえ幸せで居ればそれでよいのだと、そんな狭い心でいると、自分さえも、自分の愛するものたちさえも幸せになることはできないのよ」と言ってました。今にまって、お祖母ちゃんが話してくれた目連尊者の話が少しだけ、理解できたような気がします。「大いなる船に乗らなければ、誰人が生死の海、越えられようか」 合掌 等覚寺雅道

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「すでに死んだ人に死はない。生きている人にも死はない。死につつある人にも死はない。では、死は何処にあるのであろうか。すでに死んだ人に死は何の用があろうか。いまさら死んだ人に死は必要ない。人は二度死ぬことはないからである。まだ生きている人に死があれば、生きているとは言わない。すでに死んだ人と生きている人に死がないと言うに、何ゆえに、死につつある人に死はあるのであるか。死がないと言うに、どうして死後の世界なるものがあろうか」これが、あなたの質問に対する私の、と言うよりは、ブツダ以来の仏教の死に対する基本的な考え方です。死後の世界の否定は、そのまま霊魂の否定でもあるのです。実は、仏教は魂の存在は認めない宗教なのです。(でも、現に人は生まれて、生きて、そして死ぬではないか?)と言われるかもしれませんが、それは、仮説の現象であって、真実は「不生不滅」です。たとえば、毎年、台風が発生するでしょう。発生した時が、一人の人間が誕生した時と同じです。そして気流に乗って北上し上陸して勢力が衰える。ここまでが人の生涯と同じです。そして、やがては消滅する。これが死と言うわけです。「室戸台風」とか「伊勢湾台風」とかは、その台風に仮に名つけたものです。台風が発生するには、それまでの地球上の全ての気象条件ばかりではなく太陽と太陽系の全て、否、全宇宙が関係して一個の台風は発生し、存続し、消滅するのです。つまり、台風は大宇宙の無限の過去からの営みのうえに発生し、存続し、消滅するのですから、消滅しても真実は無に帰すのではなく、地球上の全ての大気や水の循環のなかに、大宇宙の営みのなかに帰ってゆきす。人の生死もそれと同じと考えてください。全てが一つに結実する時、一個の命が生まれ、一つが全てに帰一する時、一つの命が終わるのだと。だから「不生不滅」すなわち、「生じたものではないから、滅びることもない」わけです。これが「縁起」です。仏教である以上、浄土真宗であれ、日蓮宗であれ必ずこの考えに則っています。ですから、「お坊様」の言葉はあながち間違いではありません。私達の命の営みは無限の時の流れと、全ての存在に支えられていること。言い換えれば、一つの命は全宇宙の代表としてあること。それゆえに、決して一つの命は他の命と取替えはできないこと。これが、仏教の基本的な考えかたです。お盆や法要は、全てに感謝するとともに、亡くなられた方の分まで、真剣に生きて行こうと心に決めることが大切ではないでしょうか?亡くなられた方は、全てなのですから。 ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

「縁起」とは、「縁りて起こる」こと。すべての物事は、互いに関わりあい支えあって存在しているのだということです。物事は、けして単独では存在し得ないと言うことは、他に依存して存在しているということになり、物事は自らの内に、その物事たる本質が無いこと意味します。これが「無我」とも「空」とも表現されます。あらゆる思想、哲学、宗教がその立論の根拠として想定する「実体」という概念は否定されます。では、「我々は、我々の住む世界は存在しないのか?」という疑問にたいして、仏教では、現象世界は相対的な仮設の世界であると説くのです。つまり、実体としての存在ではないが、然るべき原因と条件によって現出した存在なのだということです。では、「原因と条件があるじゃないか」と思われるかもしれませんが、原因も条件も、またそれらによってもたらされる結果も、単独で存在しているわけではなく、実体ではなく、やはり「空」なのです。そして、物事の根底に「空」が潜んでいるからこそ、我々の住む経験世界は成立しています。数字の「0」がなければ数学も物理学も成立しないようなものです。もしも事物に実体が有るなら、およそこの世界には変化ということは起こらないことになるでしょう。縁起から必然的に導き出される「空」は全ての立論の根拠の否定ですから、何々主義、イデオロギー、全ての形而上学的論議の立場から離れることになります。この言わば無立場の立場こそ、「中道」の意味するところです。相互に対立する全論議領域の否定ですから、何かと何かの中間と言う意味ではありません。
縁起の理法に照らせば、自分が有ると思っても、しがみつく自分など何処にも無いのです。他者との関係性の中にのみ自分がある。自分は自分一人で生きているのではない。他のずべてに生かされて有るのだと、そう思って、感謝の気持ち持ちつつ、前向きに努力して生きている人々は、みんな「縁起の理法」にかなった生き方しているのです。「縁起の理法」と言っても、現実の世界から離れて、人間の行いから離れて、そのようなものが何処かにあるのではありません。「空」、「中道」についても同じことがいえます。また、言葉により表現されている以上、それは相対的な仮(設)の説なのです。
「どのようなものであれ縁起なるものは、わたしはそれ空と説く、それは相対的仮設であって、すなわち中道である」(中論24-18)
「ブツダの成道」とは、「諸法実相」の覚知であり、それは不可説です。「降魔成道」とも言われているように、己心に潜む邪悪な自分に勝利したのです。最強の敵は自分自身ですから。
「説法躊躇」とは「梵天勧請」の物語のことでしょうか。これは釈尊の悟りそのものは「不可説」、もとより思考や論議の及ばない性格のものですから。説いても理解されず、かえって人々が苦しむことになるかもしれないという思いから説法躊躇したのだと思います。そして、それでもあえて、本当は言葉で表現することの出来ない真実、言葉によって語られた初転法輪の瞬間、ブツダは真のブツダになられたのだと思います。この一連のプロセスは「三宝」(仏、法、僧)の成立、すなわち仏教成立の過程ですが、この過程に、自利、利他の「大乗精神」が成立したといっても過言ではありません。釈尊が説法すること自体が大乗の行いですから。
もっと言えば、仏教には大乗も小乗もありません。ただ、本質的に仏教精神即大乗精神です。
「親鸞聖人の心境」については、具体的内容がわかりかねますので、どう答えてよいかわかりません。
ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

人のために、ただ人のために

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

ゴータマ・ブツダ(釈尊)は確かに旅先で亡くなられたのですが、「野たれ死」されたのではありません。ブツダの生涯は多くの伝説に彩られていて、史実検証がなかなか困難なのが実情ですが、なぜか亡くなる前後のことは、克明な記録が残されていて、人間釈尊の最期の姿がわかります。「歴史」という観念の皆無な古代インドにおいて、これはめずらしいことで、それだけ当時の仏教徒にとってブツダの死は、衝撃的な忘れえぬ出来事だったのでしょう。人間味溢れる、釈尊の最後の旅路の様子が『マハー・パリニツパーナ・スッタンタ』に彼の言葉とともにに詳しく記録されています。齢80歳になったブツダは、マカダ国王や多くの信徒に見送られて首都王舎城の東に位置する霊鷲山から、弟子たちとともに故郷のカピラグアストウの方角に向かって旅立った。青年僧アーナンダに支えられて、最期の地となったクシナーラまでの道のり、あるときは喉の渇きうったえ、またある時は、激痛に耐えながらも布教の歩み止めなかった。この記録に述べられている釈尊は、金ピカの仏像で表現されている神的な存在としての「釈迦如来」ではない。青年僧アーナンダも、聖アーナンダではなく、心から尊敬してやまぬ人の臨終の近いこと知って、物陰で一人泣いている一人の青年としてのアーナンダである。「アーナンダよ、嘆くのはやめよ。わたしは何時も、そなた達に語って聴かせたではないか。「いつかは、どんなに愛しい人々とも、別れの時は来るものだ」と。
彼の最期に多くの在地の人々や、信徒、弟子たちが駆けつけた。釈尊は多くの人々に見守られながら80年の生涯閉じたのです。二本のサーラ樹の間に頭が北になるようにして亡くなられた。彼は死の間際まで人々に説きつつけたと教典は記録しています。そこには、貧困、災害、戦争の惨禍、煩悩に苦しむ人々とともに生きた、飾り気のない人間釈尊の勝利の姿が記録されているのであり、それが「大いなる死」涅槃と呼ばれるものです。釈尊が人々に語った最期の言葉の場面の紹介で、回答の締め括りとさせていただきます。
「さあ修行僧たちよ。そなたらに別れ告げよう。諸々の事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行完成に努めなさい」
これが、修行者の最期の言葉であった。欲望の滅びた人には、もはや呼吸がなかった。修行者は安らぎにきして、心の解脱が完成したのである。(参考文献:中村元訳「ブツダ最後の旅」)
追伸 この世で成すべきこと成し遂げた人の、一点の曇りも無い安らかで、しめやかな最期は「野たれ死」とは言いません。以上 
等覚寺雅道
補足 
インドでは、確かに最後は遊行の旅に出て、どこかで行き倒れとなり死ぬのが最高の死に方とされています。釈尊も「出家」ですから、屋外でなくなられました。それ「行き倒れ」と表現することも間違いではありません。しかし、釈尊の最期の様子と、その後の葬儀の様子と遺骨(仏舎利)の取り扱いは、他の修行者のそれとは異なることが指摘されています。仏舎利の配分で部族間の紛争にまで発展しかけたことが、記録されています。すなわち、ブツダとは仏教における釈尊に対する尊称ではなく、古代からのインド精神世界でその出現が要請された「目覚めた人」という意味だからです。解脱せる人はもはや輪廻することはないので、その人の遺骨には特別な力があり、現世の人々に利益もたらすと考えられていたようです。これは、インド農耕民族の独特のブツダ信仰で、仏教とは関係ありません。そうしたわけで、仏塔がインド各地に建立されたのです(仏教内部で仏塔信仰が起きるのは後世)。要するに釈尊とインド一般の修行者とは事情が異なること、ご理解ください。また日本語の「野たれ死に」のもつ意味合いが釈尊の最期にふさわしいかも含めてご判断ください。(冠婚葬祭・マナー)宗教の質問にふさわしいかも考えてみてはいかがでしょうか。

 

 

宗教とは、人のために生きること、争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

宗教と言う概念が生まれて、日本人に定着したのは以外に新しく明治になってからのことです。それまで宗教という言葉は仏教家の間でのみ使用されてきた業界用語だったわけです。その意味するところは「宗の教え」ということ。つまり仏教には真言宗とか日蓮宗とか仏教の中の特定の宗派の教えだったわけです。ところが、明治になって、外国からキリスト教などの外来のレリジョンが入ってくると、それに対応する言葉が必要になり、本来は仏教中の一宗派の教えとしての宗教が、逆にキリスト教や仏教の上に位置つけられて、今日我々が普通に使っている「宗教」という言葉が誕生したというわけです。ちなみに「仏教」という言葉も、この時期に定着したものです。それ以前にも「仏の教え」としての「仏教」はありましたが、それは宗教としての「仏教」の意味ではありませんでした。江戸時代までは「仏法」と呼ぶのが普通でした。
宗教の社会的機能については、すでに回答がなされているので略します。普通は宗教といえば、わたしたちが、何か精神的に不安定な状況に置かれた場合に、心の支えとなるような倫理的慰めとなるものが宗教であるといえます。思えば人生は山あり谷あり、ままならぬものです。生きている限り様々な悩みはつきません。そして、やがては死ぬ定めです。
さて、最後にお勧めの書籍お紹介して、回答の完了とします。
著書名 「<生きる道>の倫理(中村元)春秋社
あらまし:人はどのように生きてゆくべきか。誰しも一度は考えるこの問いに、仏教の数ある経典の中から現代人の指針となる珠玉の言葉。この本は特定の宗教団体とは一切無関係です。ご参考まで。 等覚寺雅道

 

 

正しく生きること、争わず、助け合って生きること

人のために、ただ人のために

形式化はいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

ゴータマ・ブツダの出身種族である釈迦族については、仏典に「太陽の末裔」という記述があるので、太陽神信仰の部族ではないかとか。それお根拠にモンゴロイド系ではないかとか様々な説がささやかれていますが、結局のところ「わからない」と言うのが正解のようです。ブツダ自身の言葉にも「人の生まれは問うなかれ。ただ、その人の行いこそ問え」とありますし、後世に成立した金剛般若経には「身相によって仏お見てはならない。諸々の相には実体が無いと見る時にこそ、真実の仏に見まえるのだ」とも説かれていますから、姿形にこだわる必要はないでしょう。貴殿は質問に「髪の質」に言及されていますが、仏像の髪型に着目されたものと思います。仏像はブツダ入滅後500年ごろからガンダーラ地方(パキスタン)とインドのマトラーで制作が始められたもので、ブツダの似姿ではありません。ただ、全く手がかりが無いわけではなく、ブツダの最期の記録には「修行僧の最期の言葉であつた」との記述があるので、おそらく現在スリランカから東南アジアに広まっているテーラワーダ仏教の僧侶のような姿だったのではないでしょうか。

等覚寺雅道

 

ガンジスの水には罪や穢れを洗い流す神の力があり、その水に遺体を浸し火葬して灰骨を流すことにより天界に生まれて至福の境涯になると信じられているからだそうです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

インド起源の佛教や「輪廻転生」思想のあるヒンドゥー教などの言葉です。

下から、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の「六つ」の境涯を言い、互いに通じ合うので「道」と表現します。
普通は「六道」と言います。

クリスチャンには無用の思想ですね。まあ、知識として知っておく分には損は無いと思います。現世の行い次第で、何処に生まれ変わるかが決まるそうです。是を「輪廻転生」と言いますが、原因と条件次第では誰もが味わう可能性の有る、一人の人間の境涯(境遇)だとも考えられます。古代インドのプレ佛教の時代からインドの精神世界では「輪廻転生」は人々の間では言わば常識でした。その思想を、佛教も布教の為に取り入れたのです。だから「六道」にしろ「輪廻転生」にしろ、佛教の発明概念ではありません。インドでは今でも、ガンジス河の畔で遺体を火葬にして、灰骨をガンジス河に流す習慣が有りますが、それはガンジスの水には罪や穢れを洗い流す神の力があり、その水に遺体を浸し火葬して灰骨を流すことにより天界に生まれて至福の境涯になると信じられているからだそうです。

 

 

正しく生きること、争わず、助け合って生きることが大切

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

先ず初めに確認しておきたい事は、ゴータマ・ブツダは「理法」を説いたのであって、新しい宗教を創始したのではありません。本来の佛教は、如何なる民族も、如何なる宗教を奉じる人々でも、認知せざるおえない、時間的・空間的制約を超えた「理法」(ダンマ)を説くのであって、教義を説くのではない。宗教や哲学の説く教義なるものは、偏見(パーリ語でディッティ[ditthi])としてブツダは教条主義を排斥しています。
次に各佛教内の宗派が信仰のヨスガとしている佛典について、その成立過程を俯瞰してみましょう。
「如是我聞」の冒頭の句が示す通り、原始佛典の全ては釈尊の死後、アビダルマ(部派)佛教の時代になって編纂されたものです。仏滅後100年頃に「根本分裂」が起こり、それ以前(釈尊在世を含める)を原始佛教、それ以降をアビダルマ佛教と呼びますが、アビダルマ佛教の時代にブツダの言葉が文字に表記され編纂されたために、各アビダルマ(小乗20部)独自の解釈がブツダの言葉として、経典に付加されることになったのです。したがって原始佛典と雖も文献考証(テクストクリクチー)に依らなければブツダの真意を読み解くことは不可能です。
しかしながら、それでも、五部のニカーヤ(Nikaya漢訳四阿含)のみが、歴史的人物としての、ゴータマ・ブツダ(シッダルータ)の言葉を伝える唯一の資料であって、原始佛典研究の眼目は、部派独自の解釈を削ぎ落としブツダ本来の思想をのみを明らかにすることにあります。
アビダルマ佛教(主に説一切有部)は煩瑣な教理の研究に没頭し、衆生と共に生きた釈尊の佛教から遠ざかり、著しく形而上学的になって、社会の現実から遊離したため、「釈尊の時代に還れ」と言う主張が起こりました。是が「大乗佛教運動」です。
彼らは自らを釈尊に仮託して「菩薩」と称し、膨大な般若経典群を創作して、長年に亘り閑却されてきたブツダ本来の思想である「縁起の理法」「慈悲の実践」「空」の思想を再び蘇らせ、ともすれば実体論的になり「教義」尊重の風潮に傾いたインド佛教界に警鐘を鳴らしたのです。
般若経典群の空の思想に論理的根拠を賦与したのはナーガールジュナ(竜樹)でした。彼は『中論』の中で「八不中道」を説き、法を実体視して形而上学に陥り、ブツダの誡めた「教義的偏見」を掲げる部派(主に説一切有部)を完膚無きまでに論破して、大乗佛教の基礎を確立しました。大乗を標榜する全ての宗派の思想は彼に遡るので「八宗の祖師」と言われています。
彼の時代に前後して『阿弥陀経』『法華経』『維摩経』などの大乗佛典が創作されました。これらの経典は歴史的人物としてのブツダの言葉を伝えたものではなく、ブツダに対する信仰と情熱によって創作された佛教小説と言えるものです。しかし、そこには批判されるべき多くの不純物を含むとは言っても、多くブツダ本来の思想への回帰が認められ、それを継承発展させているのですから、ある意味でブツダ本来の佛教の再構築と言えなくもないのです。
質問者が述べられている『法華経』成立の過程は、ほぼ定説化しつつあります。(私も承認します)
この経典を創作した一群の人々の目的は、「宥和一致」にあったようです。その頃、インド佛教会はアビダルマ佛教は大乗佛教に対して「佛典を創作するなんて悪魔の所業」と非難し、大乗佛教側はアビダルマ佛教に対し「小乗のお前達は永遠に成仏できない」と非難しました。この対立の構図は明らかに釈尊の真意に反するとして、全ては皆ブツダの教えから出ているのだから、それぞれに意義があり、全ての佛教徒は一人の例外も無く仏の慈悲に預かれると説く経典を創作しました。それが『法華経』です。『法華経』の目的は他経典を排斥する事ではなく、そうした独善的な思想(偏頗な思想)こそ排斥されるべきだと主張している経典です。「開三顕一」はそう捉えるべきです。
ブツダの説いた理法は時間的・空間的制約を受けないので、ブツダ自身も、インド降誕の姿は仮初めのもので、真実は永遠のブツダである(久遠本佛)と説いた目的も、全佛教徒は全て本来は釈尊の弟子であり、誰一人として排斥してはならないという「宥和一致」の思想の時間的観点からの表明にほかなりません。したがって、この経典の文言を根拠として他の経典を排斥する思想は本来『法華経』編纂者にはなかったと解してよく。『無量義経』の文言も、各経典に執着する状態は「未顕真実」ですよと言っているのだと解してよいと考えられています。
概ね日本の佛教は「教相判釈」を第一義とする中国佛教の影響下にあり、「宗派」という考え方が強いため、『法華経』を真逆に解釈してしまうと原理主義に陥ってしまうといわれています。現実にそんな日蓮系教団も見受けられますが、本来の『法華経』の目的とは意味合いを異にするというべきでしょう。

追伸、大乗佛典は小説だから上下関係なんてないの。

 

 

釈迦は心豊かに平和に生きてゆくことを指導された

争ってはいけない、決して争ってはいけない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


ブツダは釈迦族のスッドーダナ王とマヤー夫人との間に生まれました。名をシツダルータと言います。生年については諸説ありますが、中村元氏の研究によれば西暦紀元前463年と推定され、以後80年の生涯を過ごしたとされます。生母マヤー夫人は彼の生後7日目に他界し、叔母のマハー・パジャーパティーに養育されました。彼は父王と養母の愛情に包まれ王子として何不自由ない暮らしを享受し、16歳の時にヤソーダラー妃と結婚し、一子ラーフラを設けました。彼の故郷カピラバストウーは現在二つの候補地が挙げられています。一つはネパール領ティラウラコット、もう一つはインド領ピプラハワです。現在のところ特定するには至っていません。

彼は物思いに耽る性格であったらしく、ある日、父王と従って田植祭に出席した王子は一本の樹木の下に座して、農夫の鋤に掘り返された虫が鳥に捕らえられ、その鳥が鷹に捕食される姿を目の当たりにして生き物の無常を観じ心を痛めたといいます。
更には王宮の東西南北の四門を出た時に、それぞれ、老人・病人・死者・修行者と出会い、思えば人生は無常であり、何人も生・老・病・死の苦を免れない現実。見せ掛けの宮廷生活も所詮、一時の快楽に過ぎず、人間としての真実のあり方ではないと思い、29歳の王子は、夜半に召使いチャンナに白馬カンタカを引かせて出城し、全ての装飾品を身から外し、剃髪し、ぼろ布(糞掃衣)を身に纏い出家しました。

出家した王子は当時、インドに名を馳せていた修行者に教えを求めて遊行したが、満足な悟りは得られず、7年もの間、様々な修行に励んだと佛伝は伝えています。彼は身を苛むような修行は、王宮での快楽の追及となんら選ぶところのないことを悟り、セーナー村の娘(スジャーター)の捧げる乳粥を食べて山篭りをして精神統一をしましたが悟りをえる事ができず、ボードーガアーヤーのヒッパラ樹の根元に座してよく悪魔を降参させること四十九日目に遂に悟りを開いて目覚めた人ブツダとなった。(降魔成道)
それ以来、彼が篭った山を「前正覚山」ヒッパラ樹を「菩提樹」座した場所を「金剛法座」と呼ぶようになった。

ブツダとなって、彼には人々に説法すべきか、すべきでないかと言う心の葛藤があったとされ、梵天(ブラフマン)と言う神が生き物達の為に教えを説くように勧められ、説法を決意したという。(梵天勧請の物語)
伝道を決意したブツダはボードーガーヤー(ブツダガヤ)から直線距離で西北西に200キロ離れたサールナート(鹿野苑)に向かい五人の修行者に初めて説法し、彼らはブツダの弟子となった。是を「初転法輪」といい、この時に仏(ブツダ)と法(ダルマ)と修行僧の集い(サンガ)の「三宝」が確立したと言われる。

その後の四十五年に亘るブツダの布教伝道の旅は、ガンジス河流域を中心とした北インドであり、雨季には定住を余儀なくされたが、それ以外のシーズンは各地を広く遍歴布教した。彼は王侯貴族からアウトカーストの貧しい人々まで、何一つ分け隔てなく平等に法を説いたと言われ、その教えの内容は彼の死後、暫くは「口伝」によって伝えられ、300年後くらいから「佛典」として編纂され始めた。元来、インドは「歴史」と言う観念が皆無に近く、ブツダの生涯は数々の伝説に彩られていて、その真偽の程を確かめる術はないが、後代の佛伝文学者の作品や経典の記録などから僅かに知ることが出来るのみである。
彼の布教の拠点は、彼の外護者となったマカダ国王ビンビサーラのラージャガバ(王舎城)とコーサラ国の首都サーグァッティ(舎衛城)それに商業都市バイシャリーであったとされている。そこで展開された様々なエピソードは経典に断片的に記録され、彼の暖かい人柄が偲ばれて興味は尽きない。

彼の最後の遊行遍歴の様子は、何故か克明に記録されており、それだけ当時の人々にとって彼の最期は忘れ得ぬ出来事だったことが伺える。齢80を過ぎたブツダは弟子アーナンダを伴い、王舎城の東に位置する霊鷲山(ギッシャックータ)を旅立ち、入滅の地クシナーラにおける偉大なる死への道のりを、ある時は喉の渇きを訴え、最期には耐え難い激痛にも耐えながら伝道の歩みを止めなかったと経典は伝えています。やがてクシナーラに着くとサーラ樹(沙羅双樹)間に頭を北に向け右脇を下にして横たわり最期の時を迎えました。ブツダは死の間際まで教えを請うものを拒まずに親切に教えた様子が伝えられています。

「さあ、修行僧たちよ。別れを告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。これが修行を続けてきた者の最期の言葉であった。」

西暦紀元前383年、ブツダが亡くなったと推定される年である。

 

宗教は人が大らかに伸び伸びと生きてゆくためにある

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

宗教には様々あって良いのです。ところが、人間には自分の慣れ親しんだ文化や宗教に対する思い入れがありますし、何事も自分中心に価値判断する癖がありますから、他の文化や宗教に対して違和感を生じたり敵視する事さえあるのです。
宗教は人々が心の平安を得るための手段ですから、民族や文化の価値観が反映されているのは当たり前で、異なる宗教があるのも当たり前なのです。しかし、価値の体系は自分中心・自民族中心ですから、互いに自分達の価値観で相手を評価するものだから、「宗教戦争」なんてものが起きるのです。(実際には利害関係が複雑に絡んでいます)
これはエゴイズム・ミーイズムに他なりません。
その根本の原因は文化の核である言葉(ロゴス)への執着であると言われています。
宗教は所詮は人間が豊かに生きるために人間が創造したものに過ぎないのです。いわば「人間の為に宗教はあるのであって、宗教の為に人間があるのではないのです」
貴殿の言われる「祖先崇拝」は宗教の原初的形態の一つであると言われています。どうやら、人間と言う生き物は「宗教」無しでは生きられない動物かもしれません。宗教を否定する共産主義も「神無き神学」と言われていますから。

 

 

 

争ってはいけない、決して争ってはいけない。正しく生きること。排他的であってはいけない。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


ブツダの思想の特徴は、如何なる民族も、如何なる宗教を奉じる人々も、また如何なる時代においても、認めざるおえない普遍的な「理法」を説いたのであって、彼は新しい宗教を創始したのではない。ブツダの思想は「理法」を説くのであって、「教義」を説くのではない。諸宗教や哲学(形而上学)の説く「教義」なるものは偏見であるとして彼は斥けている。ブツダの時代の最初期の佛教は「悟り」というものを佛教独自の宗教体験だとは考えなかった。


ブツダとは「目覚めた人}と言う意味で、古代インドの思想界がその出現を待ち望んでいた存在である。「ブツダ」は普通名詞であって固有名詞ではない。
ブツダの思想は彼の死後、佛教教団によって「四諦」「十二因縁」「八正道」という形式に纏められ、正統なブツダの教えの証明として「三法印」が提唱されている。


彼の思索の原点は、誰もが不可避の「苦」についての考察である。誰でも、自ら望んで、このような資質・能力・容姿・境遇に生まれてくるのではない。しかも、生まれたからには老いと病に苛まれ、やがて生存は死に帰結する。生きるという事は死に向かうという事でもある。他から与えられる苦であれば避けることもできようが、自己が自己の意志に背き否定するのである。この現実を凝視すれば、現象世界の全ては「無常」なのである。何も現象世界だけが無常なのではない。その物事の「ありかた」自体が本来、実体の無いものなのである。「諸行無常」とは単に現象世界の具体的事物が無常だと言っているのではなく、「ありかた(法)」そのものが「無常」であるという意味である。
さすれば、人はその苦をどのように克服すればよいのであろうか。それについてブツダは次のように教えている。

つねによく気をつけ、自我に固執する見解を打ち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死(苦)を乗り超えることができるだろう。
(スッタ二パータ)

全ての事象(ありかた)は刻々と変化して止まず、そこには固定的な実体(自性)は存在しない。すなわち、存在の根底に固定的な「我(アートマン)を想定し、それに執着することこそ、苦しみの原因であるから、それらの本性は「空」(実体の欠如)と悟ることが、苦から逃れることになると説いたのである。しかし、これは虚無主義のように消極的、厭世的な意味ではなく、固定的な偏見や先入観なしに変遷万化する「諸法(全ての事物・事象」の「実相(本質)」を「如実(ありのまま)」に見ることを意味する。
これは、既成の形而上学や宗教の権威・イデオロギーから離れた、真の主体性の確立に他ならず、この「無立場の立場」こそ「中道」と呼ばれるものである。すなわち、現象世界は相対の世界であり、その本質は空であるから、全ての哲学・宗教的断定を離れて、「ありのまま」に物事を観察することが「正しい道」であり、苦悩から離れる実践である説いたのである。(具体的には八正道)
ブツダは形而上学(哲学)的質問には答えなかった。それらは「十難無記」と呼ばれている。その理由は「論議のための論議」は人生の苦の解決には無益であると教えている。(Wikipedia参照)

「私はこのことを説く」ということが、私にはない。諸々の事物に対する執着を執着であると、確かに知り、諸々の偏見における(過誤)を見て、固執することなく、省察しつつ、内心の安らぎを私は見る。
(スッタ二パータ)

彼の思想の目指すところは、人として誠実に生きること。全ての権威主義を離れた公正な立場により、行動することにあるのであり、人間離れした特別な存在になることを目指していたのではない。彼自身「私に教師の握り拳はない」といって、後世の佛教が売り物にする「秘法相伝」を否定している。

ありとあらゆる悪を成すことなく、善い行いをなし、自らの心を清めること。これが諸々の目覚めた方々の教えである。
(ダンマパダ)

ブツダの「理法」は普遍的であるが、それは具体的な生きた人間に即して展開するものである。何もブツダの教えは、私達の現実生活を遊離して、お寺や仏壇のなかに「有る」のではない。「理法」は現実の場面に生かされてこそ意義があるのである。
佛教が宗教として確立したのは、ブツダの滅後のことであるが、他の宗教と比較して「原理主義」に陥らなかった理由は、その思想の普遍性もさることながら、なによりも「生きとし生けるもの」への「慈悲」にあったと言われています。

追伸、佛教は主義や哲学的見解は否定しています。空を「空主義」にすれば、もはやそれは虚無主義に堕し、中道を「中道主義」にしてしまえば「あるがまま主義」に堕すでしょう。色眼鏡をかけて物事を見ないことが大切であることをブツダは教えてくれています。(おわり)<

 

 

 

自分の信仰する宗教の価値観で、他の宗教を見下さないことです

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

宗教はいろいろ有ってよいのです。大切な事は、自分の信仰する宗教の価値観で、他の宗教を見下さないことです。
互いに大切な宗教なのだから尊重し合うことが大事なのです。貴殿がキリスト教を大切に思っているのと同じように佛教徒はブツダの教えを尊重してるのです。
私は佛教徒ですが、キリスト教はすばらしい宗教だと思っています。イスラム教についても同様です。
宗教や文化の違いで互いに論議するのは愚かなことだと思います。
宗教学者の研究によれば、キリスト教も佛教の影響を受け、佛教もキリスト教の影響を受けているのだそうです。
キリスト教のようにセム系の一神教の宗教は、他の多くの神の存在を認めるわけにはいかないでしょう。当然、その価値観も尊重されなければなりません。
それと同様に、日本のように多くの神様が仲良く同居している所もあるのだとお認めいただきたいのです。
貴殿はキリスト教に対する信仰心の発露として「日本もアメリカのようにキリストの国」になることを望んでおられますが、それはそれで悪い事ではありません。要するに、その考えを異なる考えの人たちに押し付けさえしなければ良いでしょう。
私が心配しているのは、一部の心無い人々が自文化自宗教中心の価値観の虜になって、原理主義に陥ることです。
宗教学で言う「宗教の悪魔化」は如何なる宗教でも、そうなる危険性を孕んでいるのだと言うことを全ての人々が意識化すべきだと思っています。

 

 

仏を見る、仏を観ずる

「仏は常に居ませども、現(ウツツ)ならぬぞ、哀れなれ」
(仏様は、何時も私達とともにおられるのに、私達が心の眼を閉じているので(眠っているので)、お会いできないでいるのだ。哀れなことだ)

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

仏を見るとは「佛像」や「曼荼羅」を見ることと全く同一ではありません。そこに込められた仏の教えを観じるとき、初めて仏にまみえる入り口に至るのだそうです。だから、ただ単に仏像の外形だけを見ている人は、単なる偶像を見ているにすぎないのです。
釈尊は「私の似姿を、お拝んでどうするつもりなのだ」と語ったといいます。これは仏とは「外形」ではないことを仰せなのだと思います。
佛典には「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは如来(仏)を見る」と仰せです。
「縁起」とは全てのものは支え支えられて存在しているということ。すなわち、誰一人として一人で生きているのではなく、一切の存在に生かされていることをいいます。それを観じることが「縁起を見る」ことであり、それが全ての物事の「ありかた」に他ならないと観じることが「法」を見ることであり、この世界そのものを「仏」と見ることなのだそうです。(私など、到底その境地に到達できそうにありませんが)

「仏は常に居ませども、現(ウツツ)ならぬぞ、哀れなれ」

(仏様は、何時も私達とともにおられるのに、私達が心の眼を閉じているので(眠っているので)、お会いできないでいるのだ。哀れなことだ)

と言う古い詩が伝わっています。全てに支えられて生かされていることを感謝して日々を生きている人は、目には彩かに見えなくとも心の眼で御仏に見えて(マミエテ)いるのだと言われています。
私も、そのような境地に一歩でも近つきたいと願っています。

 

 

 

正しく生きることが信仰の全てで有って、強引に布教して迷惑を掛けることが正義ではない

折伏は時代遅れであり、五時八教判が間違いと明らかになった今、摂受で行くべき

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

佛教は今から約2500年前、インドに出現したゴータマ・ブツダ(シッダルター)の教えがもととなって始まりました。
彼の出家の動機は、人としてこの世に生まれたからには不可避の現実(生・老・病・死)の自覚にあったと言われています。この世に生を受けし者は、誰一人として、このような資質このような境遇を願って生まれてきたのではない。しかも生まれた以上は老い、やがては死を迎える。外なるものが自己に背くのなら、対処法もあるだろうが、自己そのものが自己に背く苦しみがある。
人は何らかの形で欲望を持っている。欲望とは、その充足を目指す生きている者の働きである。その過程は「追及ー完成ー消滅」というプロセスを辿る。これは自己矛盾のプロセスでもある。自己否定的ですらある。欲望の完成に向かって追求し、ひたすら進行していた欲望が、その完成と同時に消滅してしまう。自己が自己を消し去るのである。人間が生きて行く過程はそのまま、自らを消し去る死への過程でもあるのです。この生存に不可避の「苦」の現実を凝視して、限り有る人生の真実の目的を主体的に確立し、自己がこの世に生まれてきた真実の目的を自覚することが、佛教の目指すところと言われています。
そのプロセスは四諦「苦(苦の自覚・集(苦の原因)滅(悟り)・道(悟りへの実践)」として説かれています。

「アーナンダよ。私は、何かしら善を求めて出家した。出家してから四十余年の歳月が流れた」

「あらゆる悪の行いをなさず、善なる行いをそなえ、自らの心を清らかになす。これぞ諸々の正しく目覚めた方々の教えである」

以上二つの原始佛典の言葉が伝えるように、ブツダは如何なる宗教、イデオロギー、信仰を奉ずる人達も認めざるおえない普遍の「理法」を説かれたのであって、宗教の教義を説いたのではありません。ブツダは決して新らしい宗教を創始したのではありません。ブツダとは「目覚めた人」と言う意味です。「ブツダ」は固有名詞ではなく普通名詞なのです。
多くの研究者の長年の弛まぬ努力によってブツダの教えの核心ともいえるものが明らかとなってきました。その概略を説明して回答を終えます。
「正しく目覚た」とは如何なることか。この佛教的な「正」について説明すれば、佛教の核心に触れる契機となります。ブツダはこれを「八正道」として具体的な実践項目として説かれています。
正見(正しい見解)
正思(正しい意欲)
正語(正しい言葉)
正業(正しい行い)
正命(正しい生活)
正精進(正しい努力)
正念(正し思慮)
正定(正しい精神統一)
では、「正しい」とは如何なることなのか?そのことが問題になりますが、ブツダの教えでは「正しい」とは「中道」のことであると言われています。
ブツダが活躍した時代は、様々な自由思想家達が形而上学的論議に花を咲かせていた時代でした。それはやがて人々の現実から遊離した「論議のための論議」に堕し、互いに誹謗中傷するような始末でした。「中道」とは、これらの如何なる形而上学的な断定にも立たない「無立場の立場」をいいます。有(存在)でなく無(非存在)でもなく、苦でもなく、楽でもないとき、「中道」と呼ばれます。全ての宗教・思想・哲学の根底には、有(存在)無(非存在)の問題が横たわっていますから、この立場は全論議領域の完全否定になるのです。これを「空」(クウ)と表現します。だから「中道」とは何かと何かの中間という意味ではありません。

私達の日常にも、宗教に於いてさえも、一つの極端を盲目的に選択して、身を委ねる人々が少なくありません。そのほうが、すべてにつけて都合が良いのです。そして狭隘な価値観に支配されて、機械的判断に安易に従属し、権威と伝統に依り縋ろうとするとき、そこには執着と慢心のみがあり、自分達に都合の悪い見解を圧殺しょうとする。それはおよそ人間性の無視、モラルの欠如以外のなにものでもあありません。佛教では、このような状態を「辺(アンタ}とよび、物事をありにままに認識できなくなった状態だと説いています。言わば歪んだ色眼鏡をかけて物事を見ていることになります。これら偏見、固定観念を捨て去って、ありのままに物事を、何ものにも偏ることなく判断することが「正しい」と言うことであり、「正しい教義」なるものがある訳ではないことを「中道」は教えてくれています。

「どんな縁起でも、それを私は空と説く。それは相対の仮設であり、それは中道である」(中論24-18)

ブツダの教えは「相対の仮設」である現実世界から離れてどこか別のところにあるのではありません。「縁起」とは全てに支えられて自己存在が成立する事を教えてくれます。私達の存在自体が縁起であり中道なのですから、そのことを自覚さえすれば、ブツダとともにあることになるのです。(この文章を契機に佛教を勉強するのもよいかもしれません) ご参考まで。

 

 

 

 

日蓮正宗は排他的かつ独善的な教義を、日蓮宗身延派のように五時八教判を認め、折伏を禁止にして摂受を旨としなければ生き残れない、このままでは日蓮正宗は確実に潰れてしまう

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>現在でも日蓮正宗の排他的、独善的な教義を頑なに守って、他宗教を「邪宗教」呼ばわりしているのは顕正会ですが、その本家筋はやはり日蓮正宗でしょう。

そもそもこんな「ヘンテコリン」な宗教が無かったなら、0000もカルト顕正会も無かったのですから。みんな迷惑してますって。日蓮正宗は顕正会を破門しましたが、これで後は「知らんぷり」では無責任も『国宝』級かも知れません。

大きな顔してYAHOO知恵袋に顔出すなと言いたいです。

昨今の日蓮正宗・0000・顕正会のそれぞれの様子については、以下のように見られています。

日蓮正宗

現在、日蓮正宗では、比較的穏健派の信徒団体である法華講に布教を委ね、過去の過激なイメージチエンジに懸命なのだそうです。しかし、その教義は相変わらず「他宗は邪宗門、成仏できるのは自分の処だけ、それ以外は「謗法」で地獄行き(取意)」と言っているのだから、お話になりません。最近では犀角独歩とか金原某とかが、この宗旨の御本尊である「本門戒壇本尊」の捏造の事実を公開したり、離脱僧の松岡幹夫(得度名・雄茂[ゆうも]が、日蓮正宗こそ元祖カルトであることを本まで出して証明する始末ですから、これらの人々が、元々は日蓮正宗の信者や僧侶である事を考えれば、「身から出た錆」と言うべきでしょう。「本門戒壇本尊」については、Wikipediaにもありますので検索してみて下さい。

(カルトの家元は伝統佛教の皮を被ってご健在)<

 

 

 

 

この信仰をしていている人も、していない人も、幸せになるよう願うのが本当の信仰者

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

先行回答者が既に答えておられるように、釈尊の説法は「応病与薬、対機説法」すなわち「病気に応じて薬があり、相手に対応して説法がある」のです。喩えて言えば、腕白で乱暴狼藉ばかり働く子供には、礼儀正しくしなさいと叱り、大人しく素直だが、元気がない子供には「腕白でもいい。逞しく育って欲しい」と励ましたり、相手の人が、世俗の人の場合には、「良い行いの人は、良い所に生まれ変わり、悪い行いの人は悪い境涯に堕ちますよ」と語って、良い行い勧め励ますのです。しかし、本格的に修行して悟りの道に勤しんでいる人々には、死後の世界は有るのか無いのか、世界は有限か無限か、世界に始まりと終わりは有るのか、それとも無いのか、とか言う、形而上学的論議には関わるな。なぜなら、それらは皆、論議のための論議であって、悟りの妨げに成るばかりだ」と教えられました。
それは何故かと言いますと、腕白な子供でも、おとなしい子供でも、みんな幸せになって欲しいと願う親の慈悲と同じなのです。
だから、説き方は違っていても、釈尊が相手の立場の尊重の結果、説き方が違うのであって、その目的は同じ全ての衆生の幸せの為だとお考えください。金剛般若経の一節に「教えは筏のようなものである。渡り終えた者が、もはや筏に用がないように、目的に到達すれば教えは捨て去られる」とあります。釈尊のお悟りである「諸法実相」は本来、思考や論議の及ばないものであり、釈尊は、あえて言葉によって、説かれたのは、苦しみに喘ぐ人々に対する慈悲によるのです。
ご参考まで。等覚寺雅道

 

 

 

日蓮正宗は新興宗教であり、伝統はない

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

大石寺52代鈴木日霑は幕末から明治にかけて、大石寺に多大の功績のある住職なので、「唯授一人血脈相承」が宗旨の根本とする現在の日蓮正宗が否定するとは到底考えられません。一方、0000の「日霑上人」否定の件ですが、友人の会員に聞いてみたところ、「第五十二世日霑上人は大層御立派な方だと聞いている」そうです。私は部外者なので、かえって遠慮なく東京信濃町の0000本部に聞いてみたのですが、「否定どころか、日霑上人の御指南に則して、現今の大石寺の妻帯法主、僧侶の腐敗堕落は学会が糾弾する」そうです。現在、0000として正式にその正統性否定の対象となっている大石寺住職は「17代日精、55代日布、56代日応、57代日正、60代日開、62代日恭、67代日顕、68代日如(現職)だそうです。なんでも、0000の言うことには、67代阿部日顕以前の正統性否定の対象の住職達は、宗祖日蓮や派祖日興の教えに背いているのだとか。67代阿部日顕はそもそも、先々代の住職(細井日達)から正式な跡目とは認められてはいないから、要するに詐称しているに過ぎず、現在の住職の早瀬日如も詐称の二代目に過ぎないそうです。(あくまでも学会側の言い分です)
この「富士大石寺の52世上人の日霑上人」は卓越した指導力と経営手腕の持主で大石寺の整備、末寺問題の解決、他門流との言論戦にも功績数多であり、ことに、明治五年四月二十五日太政官布告第133号「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」にともなう宗内僧侶の妻帯には否定的だったことが彼の著作から伺われる。

 

大石寺59代堀日亨も「妻帯僧侶は在家同然」あるいは「一時の変態」とまで批判している。要するに、僧侶の妻帯にともなう仏教教団内の閨閥の形成は今日の「出家」とは名ばかりの日本仏教界全体の抱える矛盾と言えなくもないでしょう。ただし、0000の態度にも外部から見て多少とも身勝手なところはありますが。なにせ、56代大石日応以後の大石寺歴代住職のほとんどが、「妻帯肉食勝手たるべし」の政府の布告、「御仏にも勝るお上のお慈悲かな」と有り難がって、妻帯肉食している事実は知っていたのですから、「今更、何言ってんの」と言われても仕方ないかもしれませんね。なるほど、この観点で言えば、日蓮正宗も0000も、「日霑上人」のような聖僧はある意味で「否定」したいのが本音かもしれませんが。 ご参考まで。 等覚寺雅道 敬白

追伸  日蓮正宗という教団は「日霑上人」の時代にはまだ成立していなかったようです。のちの大石寺57代阿部日正の時に他の日興門流から独立した意外に新しい教団です。他の日蓮門下との違いは「曼荼羅正意、日蓮本仏論、唯授一人血脈相伝」の絶対視だそうです。(立正大学「大崎学報」より趣意)

 

 

 

五時八教判は間違いと分かった今、日蓮正宗は独善性排他性を廃するべきだ

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

自分が、あるいは自民族の信奉する宗教が最高最尊であり、他者あるいは他民族の信奉する宗教がそれ以下のものであると言う価値観が基底にあり、その上に経済的摩擦等の民族間や国家間に横たわるさまざまな問題が原因となり起こるとされています。得てして宗教の絡む戦争が他の戦争よりも熾烈となるのは、そもそも宗教は価値観の中心にあり、その核はロゴス(言葉)に由来するものだからだといわれています。「人間」と仮に名付けられた動物は言葉によって思考する存在であり、言葉すなわち言語の相違は文化の相違に他なりません。宗教戦争が起きる原因の核心には自分が属する文化の価値観で他の民族文化の評価決定しようとする自文化中心主義にこそあるのではないでしょうか。自文化中心主義から文化相対主義へと人類が知的に進化することが悲惨な宗教戦争根絶の道ではないかと思われます。
2500年前のブツダの言葉に興味深い一節があるのでご参考までに。 「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えは清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみが善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。 かれらは論議して、集会に突入し、相互に他人に愚者の烙印押して、自分の師匠の言葉によって論争に耽る。 これらの論争が人々の間に起こると、これらの人々には得意と失意とがある。人はこの有様によって論争に参加するな。賞賛されること意外には、何の役にも立たない。賞賛されると心が高ぶる。心の高ぶりは、彼の損なわれる所である。 (中略) 「等しい」とか「優れている」とか、あるいは「劣っている」とか考える人、彼はその思いによって論争するであろう。しかし、それらの三種に関して動揺しない人、彼には「等しい」とか「優れている」とか「劣っている」とか言う思いは存在しない。 Suttanipata より 

追伸 「人間の欲望が根本原因であり、戦争の正当化のために宗教利用があった」との指摘はわたしも同感です。ただ、宗教者が人々の信仰心お利用して宗教者自らの欲望の充足に奔狂した歴史があることも否めない事実です。「そもそも宗教 と宗教者とは別問題だ」との指摘もありますが、宗教とは別に宗教者が在るのではなく、宗教者とは別に宗教が在るわけではないのですから。 また、戦争は人間の欲望に根ざした経済的な要因だけで起こるものではなく、その欲望に支配される人間の無知にあるのではないかと思います。換言すれば、利害得失のためには人間の命までも手段にしてしまう人間の心の闇の解明なくして戦争撲滅は不可能ではないでしょうか。確かに戦争が起きる大きな要素として経済的要因は看過することはできませんが、それだけでは戦争のもたらす狂乱と悲惨のすべてが説明できるものではありません。したがって戦争は宗教や価値観の違いだけで起きるのではなく、単に経済的な要因のみでおきるのでもないと言うのが私の考えです。多様な要素が複雑に絡み合い、それぞれに原因ともなり条件ともなって人類最大の不幸である戦争は起きるのだと考えます。要するに太古の昔から人類が起こしてきた戦争の中で、純粋に「経済戦争」と銘打てる戦争も無ければ、同様に「宗教戦争」と銘打てる戦争もなく、あるのは殺人行為としての「戦争」だけだということです。そして、その戦争は人の心の中で生まれるということについては誰人も異論のないところではないでしょうか。冒頭に述べた自文化中心主義とは、個人で言えば自分中心主義、つまりはエゴイズムに他なりません。質問者の方、ご参考までに。
私の回答の後に回答された方に申しあげます。この回答はもとより貴殿の意見お否定するものではありません。それどころか、貴殿の鋭い意見のおかげで本回答の補足ができましたこと、感謝申し上げます。 等覚寺雅道 敬白

 

 

 

 

あまりに排他的かつ独善的な日蓮正宗は病気だ、今は五時八教判が間違いと分かり、他州批判は出来ない時代になっている

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮正宗は自宗以外は全て邪宗教であるとする宗旨です。
嘗て、元信徒団体であった0000がベートーベンの第九をドイツ語で謳ったとして「外道礼讃の謗法の大罪」としたくらいです。
クリスマスケーキを買って食べる行為自体は明らかに教義逸脱となるでしょう。
それどころか、日蓮正宗に於いては日本に仏教が伝来する以前より存在する八百万の神々への信仰すら邪教として許していません。
日蓮正宗の信徒は神社には参詣できないのです。
(
天皇の宮中祭祀の正当性も認めていません)
日蓮の弟子日興は、その遺誡に「檀那の社参もの詣でを禁ず可し」(神天上法門)と言って信徒の神社参詣を禁じています。
我が国古来の神々への信仰すら禁じているのに、西洋の宗教と関わりのある習俗を許すはずはありません。
私見ですが、余りにも独善的と言うか排他的と言うか、ハッキリ言って病気です。

 

自派のみが正しく、他派および他州は地獄行きという日蓮正宗の理論は間違っている

未だに五時八教判を認めない日蓮正宗は時代遅れである

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

鎌倉時代の宗教家である日蓮(1222年~1282年)は天台宗出身の僧侶で、天台宗の依経である『法華経』を釈尊の出世の本懐(この世に現れた究極の目的)であると位置つ゛けて、自分こそは釈尊より末法の世の人々を救うべく派遣された上行菩薩の生まれ変わりであると言う自覚のもとに末法の『法華経』たる「南無妙法蓮華経」を広めました。
その当時は日蓮宗とか日蓮正宗と言う呼称はありません。
彼の弟子には六人の高弟(六老僧)がいましたが、そのうちの一人である日興の末流の一派が大正元年(1912年)に分派独立して日蓮正宗を名乗っています。
宗祖日蓮は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」で有名な『四箇の格言』を掲げて激しく諸宗を攻撃しましたから、日蓮門下だけが正しい宗教で、諸宗は時代遅れ或いは邪悪な宗教として排斥しています。
日蓮の死後に、六人の高弟達は互いに仲違いをしてそれぞれ宗派を建てましたが、殊に日興の門流は正嫡意識が強く(日蓮の正統な跡目という考え)、同じ日蓮門下ですらも自宗(大石寺の一派)以外は、全て邪宗教であると言って論難しています。
この一種独善的・排他的な宗派から0000や富士大石寺顕正会と言った新興宗教が発生しています。

「日蓮正宗が唯一正しい宗教でありそれ以外は邪教なりと言える所以はなんですか?」と言うお尋ねには、当該宗旨の方々のお叱りを覚悟の上で申し上げれば、何一つありませんと言う以外にはありません。

先ず、日蓮が末法の初めの五百年間に上行菩薩の再誕として「南無妙法蓮華経」を弘通するのだと言っていましたが、最新の研究の成果、日蓮が生きた時代は末法の初めの五百年間ではなく、像法時代の最後の五百年間にあたっていたことが判明しています。
すなわち、彼が上行菩薩の再誕として末法の世に「南無妙法蓮華経」を広めるという佛教的な時代の前提が崩れた事になります。
次に、『法華経』が釈尊一代の説法の内、十界の衆生が悉く救われる最高の経典であるとした中国天台の「五時八教判」の権威が、インドに於ける『法華経』の成立過程や、翻訳の実情が明らかとなって崩れてしまっているのです。
『法華経』にはこの経典が一番勝れている旨の言葉がありますが、他の大乗経典にもそれぞれに、それに該当する言葉があり、みんな勝れていると言うのが実情のようです。
今日では『法華経』等の大乗佛典は、その全てが歴史的人物としての釈尊の死後500年ころから創作され始めた佛教文芸作品であることが判明していますので、経典に上も下も無いと言う訳です。
殊に『法華経』の場合には、羅什の創作的な翻訳はもとより、中国で「十界皆成」を担保する為に「提婆達多品」や「観音品」が付加されてたり、果ては「四十余年未顕真実」の文句で『法華経』の価値を高めた『無量義経』という偽経までもが捏造された事が判明しています。
こうした事情を知らずに天台は「五時八教判」によって『法華経』を最高の経典であると位置つ゛けており、その教えを日本に伝えた伝教大師も、そこから出た日蓮も「法華最第一」の義を信じて疑いませんでした。
日蓮は単に宗教的な信条論で、法華至上主義を掲げて他宗を論難攻撃したのではなく、当時としては最新の文献学的な裏つ゛けをもって宗旨を建立しているので、その裏つ゛けが崩れた現在に於いては、日蓮の義によって他宗攻撃は出来ないことは言うまでもありません。
勿論、このことは他宗に於いても概ね同じことが言えると思いますが、現在に於いても他宗を論難攻撃しているのは日蓮正宗だけです。
さて、日蓮の主張が一応は正しいと仮定したとして、果たして日蓮正宗にのみ日蓮の教えが正しく伝えられているかどうかについては客観的な確証は皆無と言う他はありません。
日蓮正宗に於いては日蓮の出世の本懐たる「本門戒壇板本尊」と大石寺の住職にのみ相伝された「唯授一人血脈相承」と称する秘法密法によるとしていますが、前者については日蓮遷化後150年~200年後の偽作の疑いが濃厚であり、「唯授一人血脈相承」のお墨付きである『二箇相承』も文献学的には何ら確証とは成り得ません。
殊に「本門戒壇板本尊」の唯一のお墨付きと言える『日興跡條條事』は後世の加筆改竄文書であることが判明しています。

重ねて申し上げますが、佛教思想の上からも、文献学的な成果の上からも、或いは道義的に於いてすらも、日蓮正宗のみが正しく、それ以外は邪教とすることは出来ないと申し上げるより他はありません。
自分達のみで、自宗の教義を信仰する分に於いては何ら差し支えないと思いますが、他宗教を論難するに於いては何ら正当な確証は見出し得ず、強いて他宗教を邪教呼ばわりする事は宗教云々と言うよりも前に人間として許されない事と言えましょう。

【追記】
日蓮正宗それ自体を否定しているのではないのです。
確証も無く他宗教を邪教とする事を遺憾に思うのです。

 

 

 

釈迦本仏を捨て日蓮本仏という奇妙を極める論理に走った日蓮正宗

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

歴史的な経緯を言えば、鎌倉時代の宗教家日蓮には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持と言う六人の弟子(六老僧)がいたのですが、その中で三番弟子の日興の流れを汲む大石寺を本山と仰ぐ一派が大正元年(1912年)に分派独立したのが日蓮正宗で、他の日蓮門下を世間では概ね日蓮宗とか法華宗と呼んでいます。
実際には多くの宗派に分かれています。
(ここでは便宜上、日蓮正宗以外を日蓮宗と呼んでおきます)
教義により相違を解り易くいえば、日蓮宗各派では概ね、本尊は『法華経』を説いたとされるお釈迦様であり、「日蓮聖人」は末法の世の『法華経』である「南無妙法蓮華経」を弘めて人々を救済する為にお釈迦様から派遣された「上行菩薩の再誕」としての「日蓮大菩薩」としています。

一方、日蓮正宗では、末法の世に「南無妙法蓮華経」を弘めて人々を救済した「日蓮聖人」は「上行菩薩の再誕」ではあるが、その真実は「末法の御本佛」であり、お釈迦様よりも偉大な究極の仏様として奉っています。

 

 

五時八教判が誤りと分かった今、折伏は行わず、摂受で行くべし

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮宗は鎌倉時代の宗教家である日蓮(1222年~1282年)を宗祖と仰ぐ宗派で、同じ鎌倉新仏教の浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗などと同じような仏教宗派の一つです。
日蓮宗に関しては問題のある宗教だとは言えないと思いますよ。
例えば、山梨県にある身延山久遠寺や東京の池上本門寺・本能寺の変(織田信長暗殺)で有名な本能寺なども日蓮系の一宗派の本山です。
そう言った意味では他の仏教宗派同様に由緒ある伝統宗教だと言えるでしょう。
しかし、日蓮系の宗教でも新興宗教に属するものは過激な教団が有りますので、それらに日蓮宗各派が間違われ同一視されて迷惑しておられるという事を聞いたことがあります。
「日蓮宗を熱心に信仰」する分には問題はありませんが、シツコク勧誘活動を展開している日蓮系の新興教団には、くれぐれも御注意ください。
由緒ある宗派は勧誘活動などは行わないものです。

 

 

 

日蓮正宗の教学を超えた理論が創価大学・宮田教授のサイトには沢山有ります。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>所謂「52年路線問題」は、0000が飽く迄も日蓮正宗の信徒団体として存続するのか、日蓮正宗の伝統的な教学から脱却して、日蓮の教えの池田大作バージョンを確立するかの岐路を前に、当時の0000首脳部が二分してしまったと言うのが真相のようです。
これには、0000が創価大学に宗教関係の学部を開設できなかった事と深く関係しています。

従来の日蓮正宗の教学では、天台宗の「五時八教判」をベースに「五重の相対」という教判(教えの優劣を決める)を立てて、日蓮正宗が唯一最高の宗教であり、他の宗教はすべて邪宗教であるとしています。


ところが近年のインド仏教、中国仏教、日蓮・日興の教学思想の文献学的な研究成果は、日蓮正宗の教義学の根拠を崩壊させる事実を立証しています。


創価大学に宗教学や仏教の学部・学科を開設すれば、自分達の宗教の教義を否定する研究成果を是認せざるおえない恐れを感じて、宗教系の大学であるにもかかわれず、それらの学部・学科の開設を見送って、一般の大学並みのユニバーシティーにしたのだそうです。
どうも、京都大学・立正大学或いは創価大学お抱えの研究者の研究成果によると、日蓮正宗の教義は本来の宗祖日蓮や派祖日興のものではなく、彼等の死後150年から200年後に形成され始めて、その完成をみたのは江戸時代の享保年間の大石寺26代堅樹院日寛の頃のようです。


それらは、『日蓮宗宗学全書』や『日興上人全集』を閲覧すれば容易に理解することができます。
また、「日興の教学思想の問題点」で検索すれば、創価大学の人文論集でもあらましを知ることができます。

 

 

 

創価大学・宮田教授のサイトを熟読するべし

新しい理論が沢山書かれてあります

Rsd37264氏は書かれてあります。

貴方の言っていることは概ね史実です。
しかし、根本的に日蓮正宗の歪んだ歴史観を引きずってますね。
先ずは、貴殿が御帰依の0000が設立した『創価大学人文論集第18号2006』に掲載されている宮田幸一の「日興の教学思想の諸問題・資料編」でも眼を通され、その上で以下の資料を読まれれば、如何に偏った宗史を教えられてきたかがよく解かると思います。

日興上人全集編纂委員会編纂『日興上人全集』興風談所

国立国会図書館 請求記号 HM182-G13


立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗学全書・第一巻 上聖部」山喜房仏書林

国立国会図書館 請求番号 HM181ーE4

貴方が信仰している大石寺の教義・教学なるものの大半は日蓮や日興の思想そのものではなくて、後世に徐々に形成されたものであると言うことです。

戦国末期には戦火に遭い事実上大石寺は廃寺同然だったのですが、それを見事に復興したのは阿波徳島藩主夫人の敬台院殿だった訳です。
彼女の意向で大石寺の17代になった元要法寺系の日精は、法詔寺で17代の法主に登座しているのですが、その頃の大石寺系の命運は彼女の胸先三寸だったことが、現存する書簡の中に見てとれます。
幕藩体制に組み入れられた大石寺は封建領主の端くれでしたから、幕府より税の徴収権を認めて貰わなければ立ち行かないわけです。
現存する請書(大石寺20代日典)には幕府よりの朱印状は「御供養」である旨と不授布施派とは別儀である旨が記載されており、大石寺は宗祖日蓮・派祖日興の儀に背いて「謗施」を受ける旨を承諾したわけです。
日蓮遷化後の日蓮門下での最大の問題は宗祖日蓮の禁制である「謗施」の受不受にあったのであり、宗祖日蓮を本佛とするか菩薩とするか等の宗義上の問題は二の次だったようです。
所謂、身延山久遠寺の受派と不受の池上本門寺の抗争である「身池対論」は当然の如く、幕府の後押しにより身延の勝利に終わって、日樹は流罪に処せられた訳ですが、日蓮門下の監視を幕府が身延に一任したため、大石寺も度重なる圧力に屈して受派の仲間入りを果たしたわけです。
敬台院殿によって再興された大石寺は、南條時光の布施を受けて日興が創建した大石寺ではなくて、幕府より拝受した土地に敬台院殿の格別の配慮によって寺院だったようです。
彼女は、書簡の中で「この朱印状は大石寺が貰ったものではなく勝五郎殿が貰った朱印状である」と明言している程です。
大石寺の化主となった日精にしても、彼女に嫌われて「貴方の書いた本尊を見ていると気分が悪くなります」と言われている程ですから、今は「御法主上人」と奉られている大石寺住職の地位もこの頃は不安定なものだったのです。
日精は結局は敬台院殿の意志により大石寺の化主の座を追われてしまったようですが、その後は寺院を転々として惨めな晩年を過ごしたようです。
日精は造佛・一部読誦という要法寺流の教義を宣揚したために後世の大石寺住職からも批判されています。

恐らく、日興の考え方は、本尊とすべきは釈迦如来の仏像ではなく日蓮の曼荼羅であり、それを書写して弟子・檀那に与える事を本意としていたのでしょう。
日興の死後、彼の弟子たちは日興にのみ日蓮の佛法が伝わったとする神話を創作し、やがて日興門流が分派するにつれて日目の系統では大石寺の歴代住職のみが「正嫡」であるという思想が芽生えて、「唯授一人血脈相承」という法主信仰が成立したというのが諸文献の指し示す真相ではないでしょうか。
日蓮系の方々は、ともすればそれぞれの宗派的な立場が先行して、冷徹な文献学的な資料批判や事実確認が出来ずらい立場にあり、むしろ利害関係の全く無い部外者の研究成果を直視する勇気をもたなければならないように思います。

質問者も存じておられるかと思いますが、今日いわれているような「富士の清流750年」というのは全くの幻想の産物であり、今の大石寺を中心とする「日蓮正宗」なる一つの宗門組織も大正元年(1912年)に富士門流から分派独立した教団であり、その教学の基礎は日興の死後に淵源があるというものの、室町時代の初期から形成され始め、完成したのは江戸時代の中頃の大石寺26代堅樹院日寛の頃だと言うのが真相のようです。

所謂、「導師曼荼羅」なる本尊にしても上古には存在せず、その謂れは質問者も存知の事と推察するので省略しますが、「法灯連綿」だとか「法水写瓶」などと言うことは伝統宗教特有の神話・伝説の域を出ないお話しなのであって、史実とは異なる事を理解するべきでしょう。

 

 

 

五時八教判が明らかになった今、折伏は行ってはいけない

Rsd37264氏は書かれてあります。

なるほど天台の五時八教判では『阿弥陀経』などの浄土三部経は「方等部」に属する教えとされていますが、天台大師は決して「低い教え」だとは言っていません。
ただ、『法華経』を中心に据えることによって諸経が生きてくると考えられたのです。
『法華経』と『阿弥陀経』等の浄土三部経とは密接な拘わりがあり、どちらかを排除するというものではありません。
しかし、『法華経』や『涅槃経』を中心に据えた教法は、修行が難しく、限られた人達しか実践不可能であり、まして乱世の一般人には及びもつかないものでした。
「法然上人」は末法の世の万人救済の為に、一部のエリートしか行えない「難行道」を差し置かれて「易行道」を説かれたのです。
その日の生活にも事欠く庶民や、罪科の意識に苛まれた人達にとっては天台の懺法などは思いもよらず、「法然上人」の説かれた教えが、当時の人々にどれだけ救いをもたらしたかは計り知れません。
過去には伝統的な修行法を否定した「法然上人」に対して「専修念仏の禁」を唱えた天台宗も、現在ではその意義を認めています。
思うに知恵第一と謳われた「法然上人」は、『法華経』には「幼子が戯れに仏の姿を指で砂に描いても、すでに仏の救いに預かれる」と説かれた徹底した易行の肯定・宥和一致の思想と阿弥陀佛の四十八願とは等しく、今の世の凡夫は往生極楽を願う正機であると確信されたのではないかと考えます。
「法然上人」は比叡山で修学されたのですが、考えてみれば、そのような環境で修行できる人は一握りのエリートに過ぎません。
仏の本願は、そのような狭いものではないはずです。
私は浄土宗のものではありませんので、飽く迄も参考程度のしてくださいね。

法然上人が「実践不可能」とされた修行は『摩訶止観』に説かれた「四種三昧」ですが、確かに一部のエリートにしか実践不可能です。
また『法華経』や『涅槃経』に説かれた教えは天台の三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)等をマスターしなければならず、一部の専門家にしか理解できません。
先行回答者の方も仰せのように一度、読まれたら解かると思いますよ。

 

 

 

日蓮正宗は伝統はなく新興宗教である

「日蓮正宗」は伝統宗教である日蓮宗とは無関係の教団ですので悪しからず。
まっとうな佛教宗派は勧誘活動などはしないものです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

貴方の質問を拝見して、他の方も仰せのように「日蓮正宗」だと思います。
この宗派は一応は伝統宗教に分類されていますが、一つの教団として成立したのは大正元年(1912年)の新興教団です。
何かと評判の悪い0000や富士大石寺顕正会は、元はこの宗派の信徒団体でした。
今は法華講という信徒団体に勧誘活動を一任しています。
この宗派の寺院の僧侶は自分で勧誘活動せずに、信徒団体任せにして、問題が起こると破門するという手法を繰り返しています。
貴方が日蓮正宗寺院に行って「御授戒」と称する儀式を受けてしまうと、一人前の信者と見做されるので曖昧な気持ちでは絶対に寺院に行かないことをお勧めします。
人間関係が絡むと断り辛いこともあるでしょうが、疵を最小限に食い止めるのは曖昧な態度ではなく、明確に意思表示をすることが肝要です。
同僚の方は貴方を騙そうとか、そういう悪気は全くないのです。
しかし、時として善意の押し売り程始末に悪いものはありません。
そこは、御自分の正直な心の声に従った方が善いと思います。
彼らは「辞めたら不幸になる」とか「罪障を積む」などと平気で脅し文句を口にしますが、本来の佛教にそのような思想はありません。
これはオウムの「閻魔の数え歌」同様に、カルト教団特有の脅し文句ですから心配なさらなくて結講です。
(人を悩ませたり、不安に陥れる宗教は邪道です)

最後に誤解の無いように申し上げておきますが、「日蓮正宗」は伝統宗教である日蓮宗とは無関係の教団ですので悪しからず。
まっとうな佛教宗派は勧誘活動などはしないものです。
寺院で「御授戒」の儀礼を受けていなければ、貴方は日蓮正宗の信者では無いので断るなら今のうちでしょう。
なるほど、相手にしてみれば「善い鴨が逃げた」ことになりますから、嫌がられることはありますが、そんな事を気にしてたら主体性を喪失して他人に良いように利用されることになります。
参考程度に申し上げますが、日蓮正宗は「自宗以外は全て人間を不幸に導く邪宗教」とする論難教団です。
信者は多くのタブーを厳守しなければならず、それに背くと「謗法の大罪」を犯して地獄に堕ちるとする宗派ですよ。
一例を挙げれば、正式な信者になれば、金輪際、神社に参詣することは出来なくなります。
それは「神天上の法門」という教義で「他宗の寺院や神社には悪魔が棲みついているので参詣してはいけません」と言うものです。
現在、日蓮正宗では、ドル箱の0000を破門して、新規の信者獲得に血眼になっているという噂も耳にします。
よく、考えて、最後は御自分で入信するか、否かを決めて下さい。

 

 

日蓮正宗は日蓮教で有った、では他の日蓮宗富士派はどうなのだろう?

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

他宗(日蓮宗を含む)では、佛教の開祖は飽く迄も「大恩教主釈迦牟尼如来」ですから、その入滅の日(陰暦2月15日)に報恩の意味を込めて「涅槃会」を奉修するのです。
浄土系では阿弥陀如来が御本尊ですし、真言宗では大日如来ですが、一応はやはり佛教の開祖はお釈迦様だということでしょう。
日蓮正宗では佛教の開祖としてのお釈迦様よりも、教義上の「久遠元初自受用報身如来」が末法(現在)で敬うべき仏様で、その仏様こそ「末法の御本佛日蓮大聖人」であるとしますので、お釈迦様はもはや役目を終えた過去のヒーローなわけです。
むしろ、お釈迦様に執着して「日蓮大聖人」を「御本佛」と仰がなければ「佛・法・僧(三宝)を謗る罪(謗法)によって地獄に堕ちると教えています。
日蓮正宗にとっての仏様は「日蓮大聖人」ですから、彼の命日(陰暦10月13日)には盛大に法要を営みますが、御釈迦様の涅槃会は行わないのです。
要するに、日蓮正宗にとってはお釈迦様よりも「日蓮大聖人」の方が偉い仏様だという事のようです。
日蓮正宗は佛教ではなく、仏教を基礎にして造られた日蓮教だという意見もあります。

 

 

五時八教判は誤りと分かったのだから、独善性を排せよ、自派のみ正しいという主張は誤り

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

鎌倉時代の宗教家日蓮が彼の主著『立正安国論』のなかで「多くの善いことを行うよりも、彼の一凶(念仏)を禁じるべきである」と言った言葉を教条主義的に解釈している一部の日蓮系の宗派や、その配下だった新興宗教が言っているのです。
では、何故に日蓮が念仏宗は「一凶・邪教」としたかについては、彼が天台宗の僧侶だったことと大きく関係しています。
彼と同じく天台宗の僧侶だった法然が天台宗の修行法を否定して、それらを「捨てよ。閉じよ。閣(さしおけ)。なげうて。」と言って「専修念仏」を主張したために、当時の比叡山延暦寺や朝廷は「専修念仏の禁」を打ち出し、法然の教えを厳しく取り締まりました。
今では伝統宗教になっている念仏の教えも、その始めは今で言う「カルト宗教」扱いされていた訳です。
しかし、法然やその弟子親鸞或いは一遍などの教えは次第に上は天皇・上皇、貴族から武士階級、下は庶民階級へと爆発的にヒットして、やがて社会での市民権を獲得して行きました。
それが、いまの浄土宗浄土真宗、時宗などです。
平安末期から鎌倉時代にかけては末法思想の流行と相俟って、鎌倉新佛教と呼ばれる「佛教の日本化の時代」でしたから、身分階級を問わずに念仏が最も流行していたのです。
その流れの中で、日蓮は最後に位置する宗教家でしたから、全ての階級に一番多くの信者を獲得している念仏宗をターゲットにして、宗教批判を展開し自分の宗旨を弘めて行ったのでしょう。
天台宗は正式名称を「天台法華円宗」と言い、その最高の教えを『法華経』として「法華一乗」の思想の上に、密教、禅、大乗戒を修する総合佛教でした。
勿論、浄土三部経も尊重されていましたが、「専修」(それだけを修める)という単科的な発想はありませんでした。
浄土系の法然・親鸞にしろ禅系の道元・栄西にしろ、比叡山の総合佛教の科目の中から一つだけを取り出して単科佛教を創始しました。
日蓮も一応は天台宗の立場にあって単科化して大ヒットした法然の「専修念仏」を大いに批判していますが、自らも『法華経』のみの宗旨を立てて、後に日蓮宗(法華宗)と呼ばれることになる教団の基礎を造ったわけです。
日蓮は「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と主張して激しく他宗を攻撃しましたが、其れは彼の歴史的な立ち位置が鎌倉新佛教の最後にあたっていたからだと言われています。
当時は禅系の祖師達も念仏を批判していますし、念仏の側も禅の自力の修業を非難しています。
当然のことながら天台・真言などの既成の宗派も、当初は鎌倉新佛教の祖師達を激しく迫害しているのです。

さて今日に於いては、佛教学が飛躍的に発展して多くの日蓮宗各派は「念仏宗は一凶」などとは言いません。
なぜなら、宗祖日蓮の生きた時代とは、今は時代も人々も問題意識も相違しているからです。
「南無阿弥陀仏」も「南無妙法蓮華経」も全ては意義ある大乗佛教の教えから出ているのですから、その目指すところは同じであり、どちらが正しくてどちらが間違っているという詮索は無益だと言えましょう。
永い歴史に育まれてきた佛教の宗派は、全て存在意義があり、「邪教」などは本来は一つもないと思いますよ。
もしも、「邪教」なるものがあるとしたら自分の宗派だけが正しく、他の宗派は「邪教」とするような排他的・独善的な宗派だと言う事になるでしょうか。
そのような宗派はお釈迦様の教えからも、和国教主聖徳太子の御心からも無関係の、また別の宗教なのでしょう。

 

 

釈迦本仏が正しく、日蓮大聖人と呼ぶのは誤りで、日蓮聖人が正しい

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

0000は鎌倉時代の宗教家日蓮(1222年~1282年)を「日蓮大聖人」と呼びますが、これは彼らが永年に亘って信仰してきた日蓮正宗の教義に基ずいて呼んでいるのです。
だから「日蓮大聖人」とは、元来は日蓮正宗の日蓮に対する呼称です。
日蓮宗では一般的には「日蓮聖人」と呼んでいるそうです。

本来、「大聖人」とは「仏様」と言う意味ですから、「日蓮大聖人」と呼べば日蓮を仏様として崇拝することになります。
日蓮正宗の教義では宗祖日蓮はインド応誕の釈尊よりも偉大な仏様であり「末法の御本佛」であるから「日蓮大聖人」と呼ぶのだそうです。
それに対して、日蓮宗では、飽く迄も仏様は釈尊であり、「日蓮聖人」は釈尊から末法の人々を救うべく派遣された「上行大菩薩」であるとして「聖人」の尊称で呼んでいます。
日蓮宗に於いても、「大聖人」と呼ぶこともありますが、それは「偉大な」と言う意味での「大」なのであり、日蓮正宗のように日蓮を「御本佛」にしているわけではありません。

0000や日蓮正宗の人達は、インドの釈尊の佛教は期限切れで役立たずだから、「新佛」たる「日蓮大聖人」の教えである「南無妙法蓮華経」のみが、今の時代の佛教であると考えているのです。
このような日蓮正宗や0000の日蓮観を「もはや佛教ではなく日蓮教」であると評する人々もいます。

 

 

 

『法華経』の宥和一致の思想をもとに

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

【中国仏教に於ける主な教相判釈】
天台大師の教判である「五時」(華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時)
「八教判」
(化儀の四教=頓教・漸教・秘密教・不定教)
(化法の四教=蔵教・通教・別教・円教)
華厳宗の四教(迷真異執教・真一分半教・真一分満教・真具分満教)
五教
(賢首大師法蔵の華厳五教章)
小乗教・大乗始教・大乗終教・頓教・円教
十玄・六相
法相宗の三時(初時有教・第二時有教・第三時中道教)〈有・空・中の三時〉
五性格別

その他の中国佛教宗派はそれぞれの「教相判釈」(教典の上下のランクつけ)によって、自宗の依経の優位性を主張していますが、それらは一面の価値観によって自宗の正当性を主張しているもので、本来はどちらが正義でどちらが邪義だと言い争う内容のものではありません。
ただ、中国仏教に於いても全ての衆生は救われる可能性があるとする天台や華厳の教判と、法相宗のように「五性格別」によって、衆生救済に差別化を設けている教判とでは立場を異にしている場合もあり、其れは天台宗を日本に伝えた伝教大師と徳一の「三一権実論争」に引き継がれ、その模様は『法華秀句』を読めば理解できます。
伝教大師の勝れていた点は、中国仏教のややもすれば自宗の優位性を主張する余り、他宗を下すという性格を薄めて、『法華経』の宥和一致の思想をもとに「密教・禅・大乗戒」の総合佛教を打ち立てたことにあるのです。
本来の天台法華円宗に於ける五時八教判は、『法華経』の持つ宥和一致の思想によってこそ、天台大師の真意が明らかになるのであり、諸宗を無価値な宗派だとして貶めるものではありません。
私は天台の三大部を始め『天台四教儀』等を天台宗の方に教わりましたが、天台宗は『法華経』を最高の教典と位置つけているものの、「法華経以外はレベルの低い教え」だとは考えていません。
各経典に説かれる教えに固執して、互いに言い争う態度を否定(宥和一致)するのが『法華経』の真意であり、その高い立場から、仮に説かれた言葉への執着を打ち破るのが「法華折伏破権門理」なのです。

日蓮正宗は自宗の「五重の相対」の中の「権実相対」に天台宗の「五時八教判」を援用していますが、これこそ「加上の新説」以外のなにものでもありません。
鎌倉時代の宗教家「日蓮上人」は天台宗からお出ましになられた偉大な宗教家ですが、飽く迄も天台宗の教義を基礎に教えを打ち立てられた事を忘れないでください。
日蓮正宗が本来は天台宗の教判である「五時八教判」を悪用して独善的・カルト的な教義を捏造し、社会に甚大な宗教被害を撒き散らしていることについては、天台宗も日蓮宗各派も深く憂慮しておられるのです。
将に「日蓮上人」のお言葉通りに「現証にはしかず」ですね。

日蓮宗も天台宗も、それぞれに大学を有しており専門の研究機関で、最新の仏教学・宗教学の知識に照らして、「日に新た」の「智慧」の精神で、現代に則した仏教の有り方を模索し実践しています。
インド仏教や中国仏教に関する研究が近年、飛躍的に進展して、大乗佛典成立の過程が粗明らかとなった現在、各宗の「教相判釈」はそれぞれ独自の意義を有するものとはいえ、他宗を「低い教え」とする根拠には成り得ないことは明らかです。
ものごとを正しく評価するには、先ずは対象をありのままに認識する必要があります。
正しい事実認識に依拠しなければ、物事の是非善悪を判定することはできません。

最後に『法句経』の言葉を貴方に贈ります。

己を高く褒めそやし、他者を貶し軽んずるものは、その高慢の故に賎しきものとなる。

お互いに注意したいものです。

〈追記〉
日蓮正宗それ自体を否定しているのではありません。
他宗派を「低い教え」とする独善性を憂慮しているのです。

 

 

 

 

釈迦佛造立自体は日蓮も否定していないことは彼の遺文からも確かめられています。

 

日興上人は、その真面目な性格の反面、ともすれば教条主義的な傾向があり、弟弟子の日向や自分の檀那である波木井実長を毛嫌いするようになり、遂には師日蓮の墓を五老僧の許可を得ることなく開き、日蓮の遺骨の一部を分骨して身延の管領を放棄し、富士上野郡の地頭である南條時光の領内(今の大石寺)に移りました。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

日蓮の六人の高弟(六老僧)は皆素晴らしい方々でした。
日蓮が武州池上で遷化した前後の模様を克明に日興が記録した『宗祖遷化記録』には「本弟子六人」として「日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持」の名が弟子入り順に列記され、「不次第」と書かれています。
日蓮は度重なる鎌倉幕府の迫害にもめげず、修行に励んだお弟子方を平等に大切に思われていたようです。
日蓮の墓所は遺言により身延山に造営されましたが、「墓所輪番制」によって六老僧が順番に墓守をすることも取り決められていました。
しかし、当時の交通事情や社会情勢を考えれば次第に守られなくなっていったようです。
日興が他の高弟に宛てた書簡には、そのことに対する不満の言葉がつつ゛られています。
日興は自分の檀那である波木井実長の所領身延を管領していましたが、他の高弟方も、それぞれに弟子檀那がおり、各々有縁の土地で師「日蓮聖人」の教えを弘めていたようです。
日興の人柄は謹厳実直で、他の高弟方の誰よりも日蓮の遺文の蒐集・保存に尽力し、『本尊弟子分帳』を著して日蓮が一生の間に図顕した「妙法曼荼羅」の所在の確認・保存に努めました。
その点では、日興はきわめて真面目で嘘や誤魔化しが大嫌いな正直な方だったようです。
(略)
しかし、その真面目な性格の反面、ともすれば教条主義的な傾向があり、弟弟子の日向や自分の檀那である波木井実長を毛嫌いするようになり、遂には師日蓮の墓を五老僧の許可を得ることなく開き、日蓮の遺骨の一部を分骨して身延の管領を放棄し、富士上野郡の地頭である南條時光の領内(今の大石寺)に移りました。
(略)

 

その内容たるや「三島明神への神馬の奉献・釈迦仏像の造立・念仏福士の塔の建立への寄進、九品念仏道場への寄進」等であり、この中で「釈迦佛像の造立」以外は全て「公事」(地頭としての公務)であり、在家としては咎め立てされる謂れのない性質のものです。
近年の研究の成果、どうも『四箇の謗法』なる名目は日興の遷化後に彼の弟子である寂仙房日澄及び三位日順あたりが考え出した自流の正統性を担保する為の創作のようです。
彼らは『富士一跡門徒存知事』や『五人所破抄』を造って師日興の允可を得たとされていますが、その真筆や時代写本すら伝わっておらず、後世の写本と伝わるものの信憑性は薄いと言われています。
(略)


釈迦佛造立自体は日蓮も否定していないことは彼の遺文からも確かめられています。


日興はとても勝れた人物でしたが、実直な反面、教条主義的傾向が有り、それが末流達に受け継がれ、やがては日興門流の大石寺歴代住職にのみ日蓮の佛法の全てが相伝されており、他の五老僧の末流たる日蓮宗各派は全て邪宗教であるとする排他的・独善的なカルト教団の淵源となるような狂った教義を生みだしました。

先ず、日蓮より日興にのみ「唯授一人血脈相承」なる秘法密法が相伝されたとするお墨付き(『二箇相承』)を創作して、単なる寺の譲り状でしかない『日興跡條條事』の中身を改竄(削除・加筆)して「本門戒壇板本尊」のお墨付きに造変したのです。
勿論、現在、日蓮正宗や0000が信仰する「本門戒壇板本尊」なるものは日蓮の筆ではなく、後世の偽作であることは学術的には常識化しつつあります。

もしも、日興の末流によって主張されている「五一の相対」や「唯授一人」なるものが本当だったら、なるほど日蓮さんは本当に六人の弟子の中で一人しかマトモな弟子を育てられなかった情け無い師匠となります。

日興は正直な人でしたが、彼の末流達は本尊や相伝書まで捏造・改竄して、自分達の正統性をデッチあげ、他の日蓮宗各派はおろか他の佛教宗派まで「人々を不幸に堕す邪宗教」と言って罵るカルト教団に成り下がってしまったようです。
(略)

【参考文献】
・日興上人全集編纂委員会編纂『日興上人全集』興風談所
国立国会図書館 請求番号 HM182-G13
・立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗宗学全書 第一巻 上聖部』山喜房仏書林
国立国家図書館 請求番号 HM181-E4
創価大学人文論集第十八号 2006
日興の教学思想の諸問題』(1)資料編 宮田幸一著

 

 

 

若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財(たから)を計へたれども半銭の得分も無きが如し

(厳しい御文と思います。しかし、これは指導者の指導の過ちを強く諫めているとも思われます。心外の境界点を何処に設定するかが問題になると思います)

 

Rsd37264氏は書かれてあります。
>この文章は日蓮が立教開宗まもなくの建長七年(1255年)に檀那の富木常忍に与えたと伝えられている遺文であるとされる書簡(通称「一生成仏抄」)の一節です。
残念ながら日蓮の真筆は現存ぜず、時代写本もありませんが、録外に載っている事と文体が他の日蓮の文体と比較しても矛盾が無いことから、日蓮撰述としても差し支えないものと考えます。

(原文)

「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財(たから)を計へたれども半銭の得分も無きが如し」

(現代語訳)

「もしも、心の外に道を求めてあらゆる修行、あらゆる善行を修めようとするのは、たとえば貧乏で困窮している人が、昼も夜も隣人の財産を数えたとしても、僅かな得分も無いようなものである。

(一般的解釈)
この一節のある段落の冒頭には「但し妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法に非ず」云々とありますから、これは日蓮の教え(妙法蓮華経と唱へ持つ)を実践する者の注意点を述べたものであると思われます。
「己心の外に法あり」とは元来、大乗佛教では、「法」(ダルマ)は主観の外に客観的な実在として有るのでは無いと言う基本的な立場を踏襲し、「法」の実体視はもはや佛教ではなく「外道」(仏教以外の実体や原理を想定する宗教)と同じになってしまうことを天台の釈を引用して述べています。
佛教では様々な仏様や菩薩が説かれていますが、それらも全て自身の心が造り成したものであり、心の外に実在するものとは思ってはならないのです。
この遺文では、先に「衆生本有の妙理」である「妙法蓮華経」を信じて唱えることが「無上菩提」すなわち「成仏」を遂げる具体的な実践修行であることが述べられていますが、ここでは「一心法界」の「妙理」を受けて、それ故に、たとえ「妙法蓮華経」を唱えても(「南無妙法蓮華経」の題目)、「妙法蓮華経」の「妙理」(一心法界)に背いて、自分の心の外に、仏菩薩、或いは声聞・縁覚・六道の衆生や森羅万象のあらゆる法界が実体的に存在すると妄想してしまえば、それはもはや「妙法」という正しい法を信仰して修行しているのではなくして、劣った教えを信じてしまっていることになるのであるという意味です。
そのことの譬えとして貴方が引用した一節が述べられているものと理解しています。
この遺文は日蓮の仏教観、本尊観或いは成仏観を考察する上でも興味深いものです。
彼は後年に「阿仏上人の一身は池水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり」或いは「阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」と書簡に記述している通り、一貫した姿勢でもあったようです。

 

 

現在、本山保田妙本寺は、仲立ちだった0000を日蓮正宗が破門したために、もはや日蓮正宗に属している必要はなくなったとして、日蓮正宗から離脱して元の「日郷上人」を正統とする格別本山に戻りました。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>日向定善寺は「日郷上人」の開いた保田妙本寺を本来は本寺と仰ぐ九州の本山格の寺院です。
開山は「日郷上人」の弟子である「薩摩法印日叡上人」です。
日興門流ではありますが、日郷と大石寺4代の日道との間には根深い確執があり、それが末流にまで継承されましたから、何百年間も大石寺とは疎遠となっていたのです。
ところが、戦後に日蓮正宗の信徒団体である0000の大躍進にともない、戸田城聖の仲立ちによって富士日照の代に保田妙本寺は大石寺を総本山と仰いだ為に、そのことが契機となって日向定善寺も小原日悦の代に日蓮正宗となりました。
もともと、保田妙本寺も日向定善寺も末寺を擁する大石寺とは別系統の伝統と格式を有する名刹なので、その寺院独自の習わしや行事があります。
代々の檀家が組織する講中の主だった檀那衆は重要な儀式の際には寺院代々の檀那である証として、写真にあるような衣装を羽織るのでしょう。
これは僧侶の「袈裟・衣」とは性格を異にします。
現在、本山保田妙本寺は、仲立ちだった0000を日蓮正宗が破門したために、もはや日蓮正宗に属している必要はなくなったとして、日蓮正宗から離脱して元の「日郷上人」を正統とする格別本山に戻りました。

【補足への回答】
「しきたり」を化儀と言いますが、保田妙本寺は「日郷上人」を「日目上人」の正統な後継者としていますので、その当時からの日郷門流独自の「化儀」に従っています。
因みに、保田妙本寺では日蓮正宗総本山大石寺にある「楠板彫刻本門戒壇大本尊」は日蓮の真筆であるとは認めていません。
保田妙本寺にある日蓮真筆の「万年救護の大曼荼羅」を以って正本尊としています。<

 

 

 

日蓮聖人は伊豆流罪の時、伊豆の海中から引き揚げられた釈迦牟尼佛をプレゼントされて、生涯片時も離さず大切に崇めていた

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>日蓮はその生涯に二度の流罪に遭っていますが、伊豆流罪の時に、縁あって地元の地頭伊東氏の病気平癒の祈願に効験があったということで、そのお礼に伊豆の海中から引き揚げられた釈迦牟尼佛をプレゼントされて、生涯片時も離さず大切に崇めていたのです。
鎌倉時代の日蓮の弟子檀那の中には釈迦如来の仏像を開眼供養して、日蓮から篤い信仰心を褒められた方々や、仏像の開眼供養には必ず『法華経』に依ってせよと教示された方々への書簡が複数残っています。

日蓮は自身の『法華経』への信仰の深まりと共に多くの曼荼羅本尊(妙法曼荼羅)を図顕していますが、それは仏像造立には莫大な費用がかかり、余程に裕福な檀那でも無い限り誰でも釈迦如来の仏像を造立して開眼供養できるというものでは無く、また、『法華経』の題目への信仰に照らされて釈迦如来や多宝如来を筆頭とした十界の衆生の御利益が現れている様を紙幅で安価に表現できる曼荼羅本尊を多く流布しました。
日蓮は『法華経』と『法華経』の教主である釈迦如来を本尊とすることを教えていたのです。
彼の遺文には「南無妙法蓮華経の法華経の題目をもって本尊とすべし」という言葉がありますが、「釈迦如来の仏像を本尊としてはならない」とは遺文の何処にもありません。
日蓮は生涯に数多の曼荼羅本尊を図顕していますが、それは誰でも何処でも持ち歩けて拝めるような簡易な仕様の紙幅曼荼羅本尊の方が多くの人達に拝んで貰えると考えていたからだと言われています。
日蓮は仏像を荘厳するよりも、如何に多くの人達に『法華経』の題目を広めるかに主眼を置いていたことが判ります。

日蓮には日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持という六人の高弟(六老僧)方がおられましたが、そのなかで三番目のお弟子の日興は師日蓮の死後に『宗祖遷化記録』を著し、また日蓮遺文の蒐集と写本の作成や日蓮が図顕した多くの妙法曼荼羅の記録を残すなど、師日蓮の事績を有りの侭に後世に遺そうとされました。
彼は、日蓮が図顕した紙幅の妙法曼荼羅を生きの身の日蓮の如く敬い、釈迦仏像の造立には否定的だったようです。
彼の死後、日興の一門(富士門流)は日蓮の遺文を根拠に「曼荼羅正意」の教義を確立し、やがては本来は紙幅であった曼荼羅本尊を板に彫刻して漆を塗って金箔を施し、それを日蓮が生前に図顕した究極の曼荼羅であり、それを書写できるのは日興の嫡流たる大石寺歴代住職であるという「唯授一人血脈相承」なる伝説を創作したようです。
彼らは師日興の正直さとは真逆に、日蓮の教えは自分達の派祖日興にしか相伝されていない証として『二箇相承』を捏造し、、単なる寺の譲り状でしかない『日興跡條條事』の内容を改竄(削除と加筆)して、「本門戒壇大本尊」の正当性を担保する「お墨付き」としました。
要するに拝む対象は「本門戒壇大本尊」或いはその大石寺歴代住職が書き写した複製本尊に限られるとしたのです。
そのため、他のお弟子方に伝わった多くの日蓮真筆の本尊は、「一機一縁」と称して、もはや礼拝の対象でなく、釈迦仏像や日蓮真筆の曼荼羅本尊を礼拝している他の日蓮門下の宗派は日蓮から「唯授一人血脈相承」を受けた日興の正嫡である大石寺歴代の住職に背く「謗法堕地獄の罪人」とまで言うようになり、大石寺の住職は佛教の全てを相続している「法主」であると崇められるようになったのです。
もとより、『二箇相承』は検証の対象にすらならず「本門戒壇大本尊」は後世の偽作であることが粗確定しています。

日蓮正宗は何の根拠も無いのに他の日蓮門下の宗派を「邪宗教」呼ばわりし、その信徒団体であった0000も、その排他的・独善的な教義を受け継いだ為に、家元の日蓮正宗から破門された後も、釈尊の「仏像」は「謗法の大罪」として拝まないのです。

【参考資料】
・日興上人全集編纂委員会編纂 『日興上人全集』 興風談所
(国立国会図書館 請求番号HM182-G13)
・立正大学日蓮教学研究所編 『日蓮宗宗学全書』第一巻上聖部 山喜房仏書林
(国立国会図書館 請求番号HM181-E4)
・『創価大学人文論集第18号 2006』「日興の教学思想の諸問題(1)資料編
宮田幸一著
・『富士宗学要集』第五巻 宗史部 堀日亨編 
・『富士宗学要集』第八巻 史料類聚 堀日亨編

 

 

 

『日興跡条条事』『二箇相承』『本因妙抄』『百六箇抄』『五人所破抄』『富士一跡門徒存知之事』は全て後世の偽書

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>日蓮宗各派は日蓮正宗の相承については鼻から相手にしてません。

日蓮正宗が「唯授一人血脈相承」という相承観により、日蓮宗各派を邪宗教呼ばわりすることについては遺憾に思っているのです。
それはそうでしょう。
自分の宗派の正統性を主張なさる分には結講だが、他門流を「邪宗教」呼ばわりされたら、罵られた方は気分が好いわけないでしょうに。

日蓮宗では日蓮正宗のことを日興師の末流で、大正12年(1912年)に興門派から分派独立した一宗派だと思っているだけです。

(略)
しかし、日蓮正宗が派祖日興師以外は、全て宗祖「日蓮聖人」の教えに背く「邪宗門」とする件に関しては一言申し上げます。

世間の常識から言っても、他者を厳しく論難するからには、それ相応の確証が必要な訳ですが、出世間の領域に於いても、これは少しも違わない道理であることは言うまでもありません。
では、果たして派祖日興師にのみ「日蓮聖人」が佛法を相伝したとする確証は何かと言う事になるでしょうが、結論から言うと皆無なのが実情です。
『二箇相常』(身延・池上の相伝書)を筆頭として、数多の「血脈書」や「譲り状」の類が伝わっていますが、それらは宗祖日蓮や派祖日興の真筆ではなく、時代写本も殆ど無く、時代写本と伝わるものでも、とても怪しい代物だといいます。
何か一つくらいは、自宗の正統性を担保する確証が有ってもよさそうなものなのですが、そういう類の資料に限って眉唾ものなのです。
文献学的にいうと大石寺住職にのみ宗祖日蓮・派祖日興の教えが相伝されているという「唯授一人血脈相承」を証明するものは何一つありません。
それどころか、後世の捏造或いは改竄の痕跡が多く認められ、いよいよその信憑性が薄らいで行くばかりなのです。

勿論、こう言うと「御相承なんだから、お墨付きは必須ではない」と反論する人もいますが、そもそも宗祖日蓮や派祖日興の思想には、他に秘匿すべき秘法密法のような「教師の握拳」的な発想はなかったようなのです。

日蓮正宗に「唯授一人血脈相承」なる秘伝が有ろうが無かろうが、そんな事には全く興味はありませんが、他門流を「師敵対の謗法の徒輩」と罵る割には、その確証は無く、尋ねられれば「御相承なんだから」では余りにも得手勝手な論法と言わなくてはなりますまい。

念の為に申し上げて於きますが、『二箇相承』『本因妙抄』『百六箇抄』等は「唯授一人血脈相承」を証明する資料たり得ないばかりか、後世の加筆改竄文書であることが粗確定しています。

質問者の御意に沿えない回答となりましたが、「ご回答なさらないほうが」と言われるくらいなら、最初から質問なさらなかった方がよかったかも知れませんね。
尚、本回答は謂れの無いものではありませんので一言申し添えます。

【参考文献】

・立正大学日蓮教学研究所編 『日蓮宗宗学全書』第一巻 上聖部 山喜房仏書林 

HM-181-E4


・『日興上人全集』編纂委員会編纂 『日興上人全集』 興風談所

HM-182-G13

・創価大学人文論集第18号 2006 
『日興の教学思想の諸問題(1)資料編』 宮田幸一著

【引用】
・『日興跡條條事』について。
「本状は置状、譲状としては年号の無いことや、全体の筆使いから、疑義が提出されている。」
『日興上人全集』P130(写真版)大石寺正本。

「おおよそ四字は、後人故意にこれを欠損す。授与以下に他筆をもって「相伝之可奉懸本門寺」の九字を加う」
『日蓮宗宗学全書』(2-134)
以上は大石寺59代堀日亨が本状の改竄の事実(削除・加筆)を正式に認めている箇所である。

(日興花押は他の日興遺文からの転写の可能性が大である。大石寺の文書には『諌暁八幡抄』の日蓮花押を『龍門御書』から転写している事実も判明している。

尚、不勉強の日蓮正宗信徒の為に言うならば「日興が身に宛てたまわる弘安二年?の大御本尊」は嘘。
「文永九年図顕、日興授与の曼荼羅」は真筆が京都要法寺に有るからご心配なく。
但し、この曼荼羅本尊は紙幅本尊である。


日蓮宗の僧侶の方の仰せの曼荼羅は、この本尊である可能性もあるね。

日興が他の高弟方の了解もなく、祖師日蓮の墓を開き分骨して、身延を放棄したのは歴史的事実です。
『五人所破抄』『富士一跡門徒存知之事』は日興撰述ではなく寂仙房日澄・三位日順らの作?、正本は無い。<

 

 

 

室町時代と江戸時代に一種の日蓮ブームがあり、其の頃に盛んに日蓮真筆曼荼羅と称する贋作曼荼羅が偽作された

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>現存する日蓮図顕の曼荼羅は諸説有るが、学術的に真筆であろうとされているものは123幅が確認されています。
年代順に言うと文永期が25幅、建治期が21幅、弘安期が77幅です。
弘安期の曼荼羅が過半数を占めていますが、所在不明のものや、所蔵寺院の協力を得られないケース、また既に滅失したケースも有りますから、日蓮が図顕した曼荼羅の総数は正確には摑めないのが現状です。

現存する曼荼羅のうちで一番最初のものは文永八年十月九日図顕の曼荼羅ですが、文永期建治期弘安期と図顕された曼荼羅の儀相には変遷が認められます。
最も諸尊が完備された曼荼羅は弘安期の曼荼羅とされていますが、図顕された曼荼羅は手書きの為、当然の事ながら一つとして同じものはありません。


多くの日蓮曼荼羅研究者の意見を総合すると、日蓮が生涯に図顕した曼荼羅は、その全てが紙幅であって、図顕年月日が記載されているものと、未記載のものとがありますが、記載されている曼荼羅には一例の例外も無く干支が記載されており、日蓮自筆の曼荼羅の真贋鑑定の一つの大切な基準となっています。


歴史的に見ますと、室町時代と江戸時代に一種の日蓮ブームがあったようで、其の頃に盛んに日蓮真筆曼荼羅と称する贋作曼荼羅が偽作されたようなのです。
例えば、顕示年月日が記載されているにも拘わらず干支が抜けているものや、文永期の儀相の曼荼羅であるにも拘わらず顕示年の年号がなぜか弘安になっているものなどです。(逆もまた然り)
また、日蓮在世の情況から、存命中には板本尊を制作された形跡は文献上は確認出来ないにも拘わらず、板本尊を日蓮一代に於ける究極の曼荼羅であると主張する宗派もありますが、もとより学術的には根拠がありません。

 

 

 

富士門流には様々な派がある

 

Rsd37264氏は書かれてあります。
>富士門流=日蓮正宗という既成概念が成立したのは戦後、0000の激烈な勧誘活動の成果、日蓮正宗信徒が急増した為だろうと思われます。
元来、大石寺・北山本門寺・京都要法寺・下条妙蓮寺・小泉久遠寺・保田妙本寺・西山本門寺・伊豆実成寺・(保田系 日向定善寺・北山系 讃岐本門寺)等の白蓮阿日興を派祖と仰ぐ本山格の寺院は、明治初期までは大石寺が全て統括していたわけではありません。
これらの本山格の寺院は明治初期までは同じ派祖日興を仰ぐ諸寺として、他の五老僧の末流とは異なる一派として存在していましたが、独立した宗派を名乗っていた訳ではないのです。
明治九年(1867年)に身延山久遠寺を総本山と仰ぐ身延一致派が「日蓮宗」を名乗った為に、これらの本山も日蓮宗興門派を名乗りました。
次いで、明治三十三年(1900年)に多くの本山が「本門宗」を名乗って「日蓮宗」との違いを強調しましたが、大石寺だけは教義上の相違を理由に単独で日蓮宗富士派を名乗り、遂に明治四十五年(1912年)、大石寺57代阿部日正の時に「日蓮正宗」を名乗り分派独立を果たしました。
その後、他の本山格の寺院の一部が日蓮正宗に属する動きが見られました。

現在の各本山の宗派は以下の通り。

大石寺・・・・・・・・・・日蓮正宗
北山本門寺・・・・・・日蓮宗
京都要法寺・・・・・・日蓮本宗
下条妙蓮寺・・・・・・日蓮正宗
小泉久遠寺・・・・・・日蓮宗
保田妙本寺・・・・・・単立
西山本門寺・・・・・・単立
伊豆実成寺・・・・・・日蓮宗
(保田系 日向定善寺)・・日蓮正宗
(北山系 讃岐本門寺)・・日蓮正宗

以上の本山格の寺院の中で、日蓮宗・日蓮本宗・単立の寺院がありますが、これらの寺院も宗祖日蓮・派祖日興の教えを仰いでいるのですから、日蓮正宗同様に富士門流に属する寺院といえます。

歴史的経緯を考えれば日興門流の中の大石寺を本山と仰ぐ一派が日蓮正宗であると解釈するのが妥当だと思います。

少なくとも、江戸時代までは他の本山格の寺院と大石寺は寺格の上では同等であり、他の本山を統括するが故に大石寺が「総本山」と名乗っているのでは無いのです。

大石寺が「総本山」を名乗る経緯は、江戸時代初期に元は天台宗寺院であった江戸常泉寺を、幕府寺社奉行に顔の効く敬台院殿(阿波徳島藩主室・徳川家康の孫娘)の後押しにより大石寺17代日精が富士門流に改宗させ、江戸中期に六代将軍徳川家宣の御台所(正室)天英院殿の縁故により、当寺7代日顕の時に幕府より朱印状を下付された為、本山の格式を取得し、その為に、常泉寺の本山である大石寺は「総本山」と名乗ることができたのです。

富士門流の各本山の存在は、派祖日興遷化後、末流達が跡目争いや寺領・寺地争い、また有力檀那同士の抗争などが、些細な教義論争と複雑に絡み合った結果だと言えなくもありません。
日興の末流が仲良くなれないのは、なにも今に始まったことではないようです。

日蓮宗の有力寺院の中に富士門流の本山格寺院があるのは仔細に歴史を紐解けば、容易に理解できることだと思います。

現在、日蓮正宗では、宗祖日蓮の教えを受け継いでいるのは派祖日興だけで、その派祖日興の「正嫡」は大石寺歴代住職だけだとする教義(「唯授一人血脈相承」)を唱えていますから、大石寺のみに宗開両祖の相伝があるという教義に必ずしも従う必要の無い本山格の寺院は独自の宗派を立てたり、或いは単立であったり、他の五老僧の門葉と宥和して日蓮宗に属する寺院もあるのです。

所謂「富士五山〈大石寺・北山本門寺・西山本門寺・小泉久遠寺・下条妙蓮寺〉」の中で大石寺以外で日蓮正宗に属しているのは下条妙蓮寺だけですから、日興の末流であっても、日蓮正宗の教義を認める本山格の有力寺院は静岡県下では一部に過ぎないということです。

尚、付言すれば、日蓮正宗に属していない各本山では、「唯授一人血脈相承」と「楠板彫刻本門戒壇板本尊」の絶対性を認めていません。<

 

 

 

在家教団としての0000

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>身延山久遠寺を総本山とする日蓮宗と富士大石寺を総本山とする日蓮正宗との解かりやすい違いは、『法華経』の教主釈迦如来と宗祖日蓮に対する考え方の相違にあります。
日蓮宗に於いては、教主は飽く迄も『法華経』を説いた釈迦如来であり、宗祖「日蓮聖人」は釈尊より末法の衆生を救済する為に「南無妙法蓮華経」の法を広める為に遣わされた「上行菩薩」の再誕「日蓮大菩薩」と立てるのに対して、日蓮正宗では、『法華経』の教主釈尊と雖も、それは「脱益の教主」であり、正法、像法の時代の衆生を救済することは出来るが、末法の衆生には縁が希薄な為、『法華経』の教主釈尊よりも一層根源的な根本佛たる「久遠元初の本佛」である「日蓮大聖人」こそが「下種益」の教主であるとして「日蓮本佛論」を主張しています。
此の場合は釈尊と日蓮の立場は完全に逆転して日蓮の方が偉大な佛陀だということになります。

日蓮門下(広義の日蓮宗)には『法華経』の解釈の相違から、以下の様に分かれています。
それは『法華経』28章の内、前半14章の「(シャク)門」と後半14章の「本門」には勝劣は無いとする「一致派」と、「(シャク)門」と「本門」には勝劣があり、本門の方が勝れているとする「勝劣派」とがあります。
また、前述の教主釈尊の『法華経』では時代遅れで、末法の世では日蓮を本佛として、『法華経』本門の「文底に秘沈」された究極の妙法たる「文底独一本門」を唱える「富士派」(現・日蓮正宗)とがあります。

細かい分派までは把握できませんが、宗派名を挙げれば11程があります。
日蓮宗
法華宗(本門流)
法華宗(陣門流)
法華宗(真門流)
本門法華宗
日蓮講門宗
日蓮宗不受布施派
日蓮本宗
日蓮正宗
顕本法華宗
本門佛立宗

また在家教団としては国柱会や本化妙宗連合、立正校正会、霊友会、霊法会、日蓮正宗の元信徒団体であった0000・富士大石寺顕正会等があります。
その他、細かい零細教団も多数存在しています。

「日蓮聖人」は未来には「南無妙法蓮華経」が広まることは「大地を的として矢を放つようなものだ」と言ったとされていますが、善くも悪くも広まっていることだけは確かなようですね。

ご参考まで。<

 

 

 

日蓮宗(日蓮宗身延派)は五時八教判の誤りを認め、折伏を禁止にし、摂受を旨とした

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>現在の日蓮宗の信徒の方々は浄土宗や浄土真宗のことを論難しませんから、真宗の門徒さんが日蓮宗の信徒を嫌う理由がありません。
しかし、日蓮系の宗派のごく一部には信徒を煽って浄土真宗は言うに及ばず他の宗派の悪口を言って勧誘活動を展開している教団もありますから、そういった教団の信徒は嫌われても仕方がないと思います。

現在、日蓮系の宗派の中で、他宗を論難している宗派は日蓮正宗関係だけでしょう。<

 

 

 

日蓮聖人は神社参拝を奨励していた

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

『日興遺誡置文』・『神天上勘文』・『富士一跡門徒存知之事』・『五人所破抄』でありますが、は日興撰ではなく、は日興の弟子日順と日澄の筆に日興が允可を与えたとされていますが、文献学上は認められません。

0000が使用している『御書』の中に以下のような文面があります。

「一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況んや其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、」云々。
(『日興遺誡置文』全集P1617)

「社参」とは氏神などの神社に参詣することを言い、それを禁止する理由として、「悪鬼」すなわち悪魔がいるからと言っています。


しかし、最新の日興の思想研究から、どうもこの思想は日蓮や日興のものでは無いことが明らかになってきました。
(略)
『創価大学人文論集』にも、そのことは指摘されています。
ただ、今までの教義を急変すると混乱が生じるので、今まで通りにしているのだと思います。


私達は折りにふれて御先祖様のお墓参りをします。
それと同じように私達の遠い祖先である氏神様に参詣するのは日本人としては、ごく当たり前の行為です。
優柔不断な0000の態度が多くの関係者を迷わせるのは遺憾に思います。

このことを踏まえた上で、御主人と話し合われたら如何でしょうか。

【参考検索先】

日興の教学思想の諸問題(1)資料編

(略)さん。へ

「部外者が解かりもしないくせにいい加減な事を言うのは慎んでください」の発言について。

質問者様は00000や関係者の方だけの意見を限定して求めているのではありません。
私は部外者ですが、縁戚には関係者がいますし、仕事柄、「富士門流の宗史と宗義」は調べさせて貰いました。
大石寺・北山本門寺・西山本門寺・保田妙本寺にも行ったことがあります。
私は、「いい加減なこと」は記述したつもりはありません。
一回答者に過ぎない貴殿に指図される謂れはありませんね。

【追記】
大阪府豊中市庄内にある住吉神社の祭礼に地域の0000が前面協力したそうです。
今は方針を180度転換して地域の伝統的な行事への参加を奨励しています。
0000には地域部と称する組織があるそうで、地域行事の一環として氏神への奉仕を否定していませんね。

 

 

 

『百六箇抄』『本因妙抄』『御義口伝』すべて偽書

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

『百六箇抄』(「法華本門宗血脈相承事」)
『本因妙抄』(「具騰本主正法の実義本(シャク)勝劣正伝」〈血脈抄〉)
『御義口伝』(「就註法華経口伝」)

以上の資料は、元来、大石寺系(現・日蓮正宗)の文書ではありません。

文献学上は三つの資料ともに、日蓮撰述・日興筆録の可能性は否定されており、日蓮・日興の教学思想を研究する上に於いても、使用できないものと見做されています。

以下その理由を簡単に記述します。

1.『本因妙抄』(『富士宗学要集』1-1・『日蓮宗宗学全書』2-1)

この『本因妙抄』の最古の写本は大石寺6代日時(日蓮滅85-125・以下AN)のものが大石寺に所蔵されているが、執筆年代の未記載、写本の原本の未特定、などの理由はもとより、日時写本の字体が他の日時筆の文献の字体と著しく異なっており、文献としは信用出来ないものとなっています。
次に古いものとして、京都要法寺日辰(AN227-297)の写本(AN279)が現存するが、広蔵院日辰本の奥書に日興の直弟子たる日尊の(1264~AN64)筆の写本を書写したとあるが、日辰自身が写本に日尊の花押が無く、字体も日尊のものであるどうかを訝っています。(『日蓮宗宗学全書』2-10)

また、日蓮在世当時の鎌倉遺文に特徴的な慣用句、或いは日蓮独特の表現の癖等から言って文献学的には日蓮撰述とは認められていません。

次に『本因妙抄』の引用文献としては、日興の弟子、三位日順の『本因妙口決』があるが、これは文体或いは使用されている慣用句からして明らかに後代のものであり、加えて当時は決して使用されることの無い「日蓮宗」云々が登場することから、この引用文書は三位日順の著作ではなく、明らかに後代に捏造されたものです。
(『富士宗学要集』2-69・『日蓮宗宗学全書』2-294)

大石寺日時写本が資料として使えない以上は、要法寺系の資料に写本の経緯が記載されているので、これは元々、要法寺系の文書であった可能性もあり、大石寺9代日有の代に帰伏した左京阿日教(元要法寺系僧侶)が大石寺に持ち込んだ可能性も指摘されています。
現在、大石寺では日時写本を公開していないが、字体はもとより、紙質や墨質などの調査からも書かれた時代の特定が可能なので、専門機関への公式の調査依頼をして欲しいものです。

2.『百六箇抄』(『富士宗学要集』1-9・『日蓮宗宗学全書』2-11)

『百六箇抄』は京都要法寺の広蔵院日辰の写本が最古のものとして現存しています。
その奥書によれば、(AN31年)に日興から日尊に授与されたことになっています。
また、授与書には(AN61年)に日尊から日大・日頼に授与された要法寺代々の血脈書である旨が書かれています。
しかし、日辰が写本するにあたり使用した原本が不明であり、その書写年代も不明な為、資料として使用することはできません。
この文書も日蓮真筆はおろか時代写本すらありませんので、古来より疑義が提出されていましたが、引用文献とされる後代の資料の研究から、日尊門流で後代に偽作された可能性が高まっています。

0000が使用している『日蓮大聖人御書全集』には、本抄の多くの箇所が改変されており、日尊系統の相伝書であることの記述が故意に削除されています。
大石寺59代堀日亨は『富士宗学要集』において、本抄の多くの箇所とともに「弘安三年・・・・・日蓮在御判」の日付け、署名の部分を「後加」(後世の加筆)として二線を付して削除しています。
(『富士宗学要集』1-23)

『百六箇抄』の引用文献としては、日尊系の住本寺日什(左京日教)が大石寺9代日有に帰伏する前に書いた『百五十箇条』に「百六箇条の本(シャク)口決」(『富士宗学要集』2-180)とあり、左京日教の帰伏以前に大石寺には『百六箇抄』が存在していた証拠は皆無です。

3.『御義口伝』

この文書は勝劣派日隆門流に属する、日経写本と伝わるものが最古とされ、その引用は一致派日像門流の円明日澄(AN160-229)の『法華経啓運抄』(AN211)が最古です。
日興筆録とされていますが、大石寺には日興真筆はおろか時代写本すらなく、元来が他門流所伝の文書なのです。

現在の文献学の水準で言えば、これらの文書の「真筆」なるものは始めから存在していなかったと考える方が至当かもしれません。

「大事中の大事」と言うべき以下の部分は明らかな大石寺による加筆なのです。

『本因妙抄』

又日文字の口伝・産湯の口決・二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す、教化弘教の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈並びに本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の(ボン)承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し云う可し、法華本門宗血脈相承畢んぬ。

ご参考まで。

私見ですが日蓮正宗って宗派は何から何まで贋物だらけ。
騙された信者さんが可哀相です。

 

 

 

 

 日蓮聖人は第二祖を定めては居ないのです。

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>(略) 日蓮の遷化前後の様子を記録した白蓮阿日興筆の『宗祖遷化記録』には「六老僧」のことが書かれていますが、「不次第」と書かれており、誰かを自分の唯一の跡目だとは書かれていません。
これは日興真筆が完存しており国の重要文化財に指定されています。

所謂、日興のみが日蓮の「正嫡」だとする『二箇相承』なる相伝書も、真筆はおろか時代写本も無い代物で、現在西山本門寺と京都要法寺に後世の写本と伝わるものが存在しますが、年月日が記載されているものは日蓮の晩年の旅程との日付けが合わず、月日が未記載のものもあり、日興始め日興の弟子の日代の書簡にも記録が無いので、そのような相伝書は始めから無かったと見たほうが無理が無いとの指摘もあります。
この『二箇相承』は重須(北山)本門寺にあった正筆が戦国末期の武田の兵乱で散逸したとされていますが、要法寺側の記録との相違が見られ、北山本門寺の見解とも相違しますので、極めて怪しいと言わざる負えません。
その他、『日興跡条条事』にも、著しい改竄の痕跡が認められています。

「本状は置状、譲状としては年号のないことや、全体の筆使いから、日興上人筆には疑義が提出されている」
(『日興上人全集』P130
『日興上人全集』には大石寺所蔵の正本の写真が掲載されていすが、大石寺が現物の公開を拒んでいるので、疑惑が深まっています。
また、大石寺59代堀日亨は以下のように述べています。

堀日亨の註
「おおよそ四字は、後人故意にこれを欠損す。授与以下に他筆をもって「相伝之可奉懸本門寺」の九字を加う」と改竄(削除・加筆)があることを認めています。
また、日興花押は他の日興筆のものとの相違が見られ、後世の似せ書文書では無いかと訝る研究者もいるほどです。

皮肉なことに、日興の遺文の研究から日興の正嫡を自任する宗派の、自宗の正統性を主張する為に行った後世の捏造・改竄が明らかになりつつあります。
要するに、始めから無いものが残っている筈がないのです。
殊に、無くてはならないものだけが、見事に全て残っていないと言うのは不思議?としか言いようがありません。
なるほど、永い年月の間には、貴重な資料も少しずつ消滅するでしょう。
しかし、日蓮よりも遥かに古い貴重な文書が多く残っているのですから、自宗の正統性を主張する上に於いて欠くべからざる文書だけが、ただの一つも真筆が残っていないと言うのは理解に苦しみます。

ご参考まで。<

 

 

 


Rsd37264
氏は書かれてあります。

>「万年救護の大御本尊」は「日蓮聖人」が文永11年(西暦1274年)12月に図顕した文永期の曼荼羅を代表する妙法曼荼羅です。
真筆は日郷上人開山の富士門流の名刹である千葉県の大本山保田妙本寺に格護されています。
江戸時代に版本が流出したことがあり、その版本を元にして似せ書きの本尊が造られ、その本尊を元に模刻した板本尊が大石寺大講堂に安置されています。
この本尊の特徴は諸天・天照・八幡が成仏しており、日蓮聖人図顕の本尊の中で、唯一「大本尊」(他は「大曼荼羅」)と認められているところにあります。
また、讃文には上行菩薩が出現して始めて、この御本尊を弘通するという旨の言葉が確認されます。

「図顕年月記載の内容」

文永十一年太歳申戌十二月
甲斐国波木井郷於 山中図之

日蓮(署名)

「讃文」

大覚世尊御入滅後経歴二千二百二十余年 雖年月漢日三ヶ国之間未有之大本尊
或知不弘之或不知之我慈父以佛智隠留之為末代残之後五百歳之時上行菩薩出現於世始弘宣之

(讃文の下に)花押<

 

 

大石寺は戦国時代に大火に見舞われ灰燼と化し、異なる地点に新たに立てられた

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

富士大石寺というのは、日蓮正宗という日蓮系教団の総本山で、正式には多宝富士大日蓮華山大石寺といいます。
所在地は静岡県富士宮市上条2057です。
この寺院は鎌倉時代の宗教家日蓮の高弟で、日興という僧が檀那の南条時光の寄進を得て正応元年(1290年)に六壷と称する佛・人同居の堂宇を建立したのが始まりです。
この日興創建の大石寺は戦国時代の末に戦火に見舞われ灰燼に帰し、その後、江戸時代の初期に江戸法詔寺の僧日精が、阿波徳島城主蜂須賀公室で、徳川家康の孫娘である敬台院殿と徳川幕府の寄進によって現在地に再建されたものです。
日興の末流を富士門流(興門流)と言いますが、その中の大石寺を中心とする一派が大正元年(1912年)に他の興門派から分派独立して日蓮正宗と称しました。

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


>「日蓮聖人」が図顕した妙法曼荼羅には「天照太神・八幡大菩薩」が諸尊として認められていますが、それは『法華経』の教主釈尊を本地としての日本国守護の諸天善神としての位置つ゛けであると考えられます。
「日蓮聖人」にとっては日本国は「神国」であると認めつつも、本地垂迹説に則って仏法の下に日本の神祇を位置つ゛けていた事は、京都妙顕寺に真筆のある『神国王御書」(録外七ノ12・『霊良閣本』P1349)で確かめられます。

「日蓮聖人」の日本の神々に対する考え方を端的に知る事の出来る遺文を以下に紹介しましょう。

「日本国の守護神たる、天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神、・総じて大小の神祇等、体の神つらなる・其の余の神豈もるべきや、宝塔品に云く『諸の大衆を接して皆虚空に在り」云々、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等、一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」

(『日女御前御返事』録外二三ノ12・『霊良閣本』P1624)

「又うつぶさ(内房)の御事は御としよ(年寄)らせ給いて御わたりありし、いた(痛)わしくをも(思)いまいらせ候いしかども、うじがみ(氏神)へ(参)りてあるついでと候しかば・けさん(見参)に入るならば・定めてつみ(罪)ふか(深)かるべし。
其の故は神は所従なり、法華経は主君なり、所従のついでに主君への・けさん(見参)は世間にも・をそれ候」

(『三沢抄』 正筆 京都妙覚寺 時代写本 日興 北山本門寺 録内十九ノ20・『霊良閣本』P1702)

「日蓮聖人」は日本の神々に日本国の守護と仏法守護という諸天善神の役割を期待していました。
また「日蓮聖人」にとってのメインはあくまでも『法華経』すなわち仏法にあったのであり、天照太神・八幡大菩薩は「用」の役割であった事が確認できます。
しかし、『三沢抄』や他の日蓮遺文には神社参詣を否定する文言は見当たりません。
それどころか、一部の浄土系の信者が神祇を軽んじる風潮があった事を以下のように批判しています。

「念仏の行者は弥陀三尊より他は上に挙ぐる所の諸仏菩薩・諸天善神を礼するをば礼拝雑行と名け又之を禁ず、然るを日本は神国として伊奘諾伊奘册の尊此の国を作り、天照太神垂迹御坐して御裳濯河の流れ久しく今にたえず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや」

(『聖愚問答抄』録外一ノ1・『霊良閣本』P541)


2に対する回答。
天照太神と八幡大菩薩の本地に対する考え方は宗派によっても異なりますが、「日蓮聖人」の立場は、それらの両神はいずれも『法華経』の教主釈迦如来であると考えていました。

その「文証」を以下に示します。

「もって一閻浮提の者の眼を抉るべきか、釈迦仏の御名をば幼稚にては日種という、長大の後の御名をば慧日という、此の国を日本という。主をば天照と申す」

(『慧日天照書』断簡遺文・延山録外・『霊良閣本』続P94)

「八幡大菩薩は、日本国・第十六代・応神天皇・四月八日申寅の日生れさせ給いて・御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給う。釈迦仏の化身と申す事は・たれの人か・あらそいをなすべき~(中略)~但し、大隅の正八幡の石の銘には、一方には八幡と申す二字・一方には昔霊鷲山に在って妙法蓮華経を説き、今正宮の中に在って大菩薩と示現す等云々。
月氏にては釈尊と顕れて法華経と説き給い・日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を誓いに立て給う」

(『智妙房御返事』 正筆 中山法華経寺 『霊良閣本』P2016)

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


>『富士山本門寺戒壇』
身延相承書にある上の文句の読み方が日蓮正宗とは違います。
原文通り率直に読んで『富士山本門寺に戒壇を』と解釈します。
ただし、日蓮の生きた時代には本門寺などなかったので、
この文書自体の信憑性が疑われています。

身延山久遠寺の別当たるべきなり』
この言葉が書かれた池上相承書の日付に注目です。弘安5年10月13日となって
います。日蓮が入滅した日です。御遷化記録によれば午前8時頃亡くなったとあります。
そんな日に日蓮は、池上相承書なるものを書き、さらに「判」まで書くことができたのでしょうか?ちなみに日興が代筆した9月19日付けの波木井殿御報をみると、日蓮は書き判も書けないほどに衰弱していたことが分ります。信憑性が問われるところです。

日興の手紙(1)http://www.lita.com/appealj/misabo.htmlをもとに日興別当説に異論を唱えた由比宏道氏の論考(毒鼓の縁)を以下に紹介します。

『真実は日興は日蓮聖人の三回忌の時、身延に上られ、びっくりして五老僧に登山を促されたのである。それまで身延はからっぽだったということになる。(中略)そこで日興は、以後、師匠のお守りをするために、身延に常駐しようと思うが、どうであろうかと五老僧に念を押しているのである。』
つまり、三回忌まで身延を離れていた日興が別当だったなんて考えられないし、
日興が別当であることを自覚していたかどうかも疑わしいというわけです。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


>『地頭の不法ならん時は、我も住むまじき由(よし)、御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候。』

日興離山を正当化する際によく上げられている箇所ですが、これに対し由比氏は波木井実長が日興に宛てた手紙(ここでは内容は省きます)を上げて問題の焦点は違うところにあったのではないかと疑問を投げかけています。実際『不法の色も見えず候』と上の文句にあるように波木井に不法なことはなかったのです。

さて、やっぱり最大の疑問は、日興が離山する時、戒壇の大本尊や日蓮の真骨も含めて、すべて身延から持ち出したとする(日興自身による)記録がないことでしょう。でもおもしろいことに「返却」したという文書なら存在します。日興真筆の『原殿御返事』です。
http://www.lita.com/appealj/hara.html
>追って申し候。涅槃経、第三、第九、二巻、御所にて談じて候いしを、
>愚書に取具(とりぐ)して、持ち来って候。聖人の御経にて渡らせ給い候間、
>慥(たし)かに、送り進らせ候。


涅槃経、第三、第九、二巻、御所にて話し込んでしまい。
(自分の)愚書に取り違えて持って来てしまいました。
日蓮聖人の御経でございますので、ただちに送り返します。

このように言う日興が、本当に久遠寺の別当だったのでしょうか?
戒壇の大本尊や日蓮の真骨も含めて、すべて身延から持ち出したという人の
イメージではありません。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>日蓮正宗の教義は、本来の宗祖日蓮や派祖日興の思想とは随分と異なる事は様々に指摘されています。

日蓮正宗の教学を大成したのは江戸時代中期の大石寺26代堅樹院日寛ですが、彼が「此の書六巻の獅子王あるときは、国中の諸宗(他宗派)諸門(日蓮宗系各派教団)の狐兎(つまらない輩)一党して当山(大石寺)に襲来すといえども敢えて驚怖するに足らず」と豪語した『六巻抄』も、その理論構築の根拠となった『百六箇抄』・『本因妙抄』が日蓮撰述とは現代の仏教学や文献学では認められていない訳だから、既にその足元から崩壊しているのです。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

所謂「血脈抄(『本因妙抄』・『百六箇抄』)」についてですが、現在の仏教学や文献学の分野に於いては、これらは日蓮真撰とは認められていません。

また、富士門流の祖である日興の教学思想を考察する上でも、第二線の資料としても使用できません。
日興遺文にも「日蓮本佛」を窺わせるものは無く、彼の弟子の著作にも見当たりません。

「日蓮聖人の御法門は、三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候」

(『原殿御返事』 『日蓮宗宗学全書』2興門集、173)

「日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘通の大権なり」

(『五人所破抄』〈三位日順)『日蓮大聖人御書全集』大石寺版P1611)
(略)

しかし、『本因妙抄』と『百六箇抄』に関しては、本遺文集には収録されませんでした。

勿論、編纂には全ての日蓮宗各派の関係者が編纂委員となり、多くの第三者的な立場の研究者が参加していますのです、決して不公平な裁定がなされた訳ではありません。

件の「血脈抄」が『昭和定本日蓮聖人遺文』に収録されなかった主な理由は、それらの文書には正筆や時代写本が現存せず、加えて、正筆紛失の経緯も詳らかでなく、曾存とすることが出来ないばかりか、真撰とされる他の日蓮遺文と比較した場合に、思想内容や表記法等に著しい相違が認められ、それらが元来、興門流の自家用文書としての性格を有するものと判断された為だと言われています。

所謂「日蓮本佛論」なるものは、日蓮や日興の教学思想ではなく、日興の末流達によって次第に醸成され、その原型は大石寺9代日有の頃に形成され、江戸時代中期の大石寺26代堅樹院日寛によって石山教学は完成したとみてよいでしょう。<

 

 


Rsd37264
氏は書かれてあります。

 

>弘安三年(1280年)五月九日に図顕された『少輔房日禅授与之本尊』は、従来は北山本門寺と大石寺で同じ真筆本尊が2幅存在している事から、一幅の真筆を2枚に剥離したものであると永年に亘って信じられてきました。


その再、表面に剥離の痕が認められない北山本門寺所蔵の本尊が表面の分で、大石寺所蔵の本尊が裏面の分だとされてきたのです。


ところが、近年に大石寺所蔵の『少輔房日禅授与之本尊』の映像が一般に出回るようになり、既に公開されている北山本門寺所蔵の真筆本尊と画像解析によって二つの本尊の映像を重ね合わせた結果、この2幅は酷似はするものの、全くの別物である事が判明しています。


つまり、『少輔房日禅授与之本尊』の日蓮真筆は日蓮宗大本山・北山本門寺にしか現存せず、大石寺所蔵の本尊は似せ書きされた贋作であると考えられます。


また、日蓮が弘安二年(1279年)十月十二日に図顕したとされる大石寺所蔵の『本門戒壇大御本尊』(現状は板本尊)と『少輔房日禅授与之本尊』の題目と日蓮花押の部分が判で押したように合致し、日蓮が図顕した事が学術的に検証されている他の127幅の曼荼羅には、このような事実は認められない事から、『本門戒壇大本尊』偽作の疑いが益々深まっています。

【追記】
大石寺が頑として学会一般に資料提供を拒むのは、余りにも資料の捏造・改竄が多い為だろうと見られています。
めぼしい宗祖日蓮や派祖日興の重宝は他の富士門流の大本山格の寺院に秘蔵されている事が多く、多くの資料が寺院側の協力のもとに学術調査にも供されて日蓮・日興・日目の真筆資料である事が確定しています。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>白蓮阿闍梨日興は永仁六年(1298年)二月十五日に、南条氏の領地に隣接する石川孫三郎能忠が日蓮聖人御影堂・天照太神垂迹堂を建立寄進したのを期に、「重須の寺(北山本門寺)」に移った訳ですが、日蓮は元は天台宗の僧侶だったので、その弟子の日興も「本地垂迹説」の立場をとっていました。

「本地垂迹説」と言うのは日本の神々の本地(本体)は仏教の仏菩薩であり、日本の衆生を救済する為に権りに神と姿を示現した「用」の存在だという思想です。

去年の暮れに北山本門寺に行って創建当時の事を寺院関係者に聞いてきましたが、古くは大石寺にも天照太神垂迹堂があったみたいです。

此れは日本国の神祇の最高神である天照太神を『法華経』の教主である久遠実成釈迦如来の垂迹とする事で、地域社会に根差した神祇信仰を仏教に上手く取り込んだと言えます。

さて、大石寺33代日元が地元の浅間神社に「本地久遠実成釋尊垂迹富士浅間宮」と書かれた板本尊を納めたのも本地垂迹説によるものです。

現在の日蓮正宗が「謗法」と定義するのは、時の貫首の納めた神社以外の神社に檀那が参詣する事をさしているそうです。

昔、板本尊が祀られた神社の村落が殆どすべて大石寺の檀家になった時期もあったらしく、現在では全く無関係の神社になっていますが、神社の社の中に板本尊が在るのは、その当時の名残なのです。

古い神社の社(やしろ)の内部には御神体と並んで板本尊が安置されていますから、当時は謗法でなくとも現在は謗法状態と化していると言えなくもないでしょう。

天英院殿が六代将軍徳川家宣公と共に大石寺山門の建立に際して、富士山の巨木70本、黄金二千粒を寄進していますが、天英院殿は一応の信者であっても、天台宗寺院や浄土宗寺院にも寄進の記録がありますから、大石寺専属の檀家とは言えそうにありません。
公儀の名目で布施を受けていますが、大石寺は「受派」の寺ですので、将軍や幕府の布施を拒否する事はできなかったのです。

日蓮や日興の教学思想に照らせば、明らかに「謗施」を受けたことになるでしょう。

まあ、幕府寺社奉行に睨まれたら、寺ごと破却されかねない時代でした。

天英院殿の姫君が夭折した際に、江戸の常泉寺が菩提所と定められたのを期に、幕府の庇護を受けて寺運は隆盛を極めたそうですが、予てから天英院殿が帰依していた鬼子母神堂や水天宮を天英院殿の要請で他宗寺院から勧請して祠堂を建立して祀っていたのは事実です。
貴殿が言われるように、天璋院殿も大石寺には寄進していますが、彼女は寛永寺や増上寺にも多額の寄進をしていますから、これも法義に照らせば「謗施」を受けていた事になるでしょう。

相手が権力者である場合には、とても恐ろしくて「謗法厳戒」は言えなかったのでしょう。

上記の「本地垂迹説」に基つく法主の神社への板本尊奉納の件は「謗法」とは言えないまでも、その他の行為は日蓮や日興の流儀に照らせば「謗法」と言えそうです。

しかし、それぞれの時代に、それが合法か非法かの判断は「唯受一人血脈相承」を受けた法主の裁量に委ねられており、御都合次第で「謗法」になったり、ならなかったりと複雑怪奇です。

要するに日蓮正宗では歴代法主は「蓮祖聖人のもぬけられたる」存在であるから、地上に於ける本佛日蓮の代務者であり、その意向に逆らう行為一般が「謗法」と看做されているようです。
法主に逆らえば「謗法」、素直に相談すれば、格別のお慈悲により免罪されるようです。

伝統的な権威権力には、めっぽう弱く、0000等のような新しい信徒団体には尊大な態度をとるのでしょう。

【補足への回答】
大石寺には「霊宝お虫祓い大法要」という儀式があり、御宝蔵という土蔵から大石寺に伝わる曼荼羅や文書が取りだされて客殿で公開されています。
しかし、未だに学会一般から公開の要望のある重要文書の学術調査を頑として拒み続けています。
北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺等が心よく重要資料を学術調査に供される態度とは真逆に、大石寺が学術調査を拒む理由は、バレては困る重大な瑕疵が秘蔵されているように思えてなりません。
保田妙本寺の吉濱文書には、新田卿阿闍梨日目関係の文書が残っていますが、それらは折り紙つきの本物です。<

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>日蓮正宗の教義が完成したのは江戸時代中期のことです。
大石寺26代堅樹院日寛が確立した所謂「石山教学」を彼らは信奉しているのです。
この教義は「釈尊脱仏・日蓮本佛論」と云われ、要するに釈尊が説いた諸経典や『法華経』は末法の世を救う力がないから、釈尊を信仰しても有害無益で、末法の世に出現した、全ての諸仏を凌駕する「御本佛日蓮大聖人」を崇め、彼の主張した「南無妙法蓮華経」を信じて唱えるより他は救われる道はないと云うものです。

近年、日蓮や彼の弟子である日興の教学思想に対する研究が進展して、「釈尊脱仏・日蓮本佛論」なる教義は宗祖日蓮や派祖日興の時代には成立していなかった事がほぼ確認されています。

彼らは釈尊の説かれた時代遅れの教えでも、内容によっては其れを借用することが出来ると考えており、本来は仏教とは言えない似非仏教の『日蓮教』を証明するための「文証」としている為、仏教の基礎的な素養の無い人達は騙され易いと言われています。<

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>『聖人御難事』は日蓮が弘安二年(1279年)十月に著した遺文であり、丁度其頃は「熱原の法難」という日蓮信者弾圧事件の真只中でした。
この遺文は正筆が日蓮宗大本山・中山法華経寺に完存していますので第一級の資料といえますが、遺文中には「本門戒壇大本尊」の図顕についての記述は一箇所も見当たりません。
古来、大石寺に於いては遺文中の以下の箇所を「本門戒壇大御本尊」図顕の文証としています。

「仏は四十余年・天台大師は三十余年・伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其中の大難申す計りなし、先先に申すがごとし、余は二十七年なりその間の大難は各各かつしろしめせり」

この中の「余は二十七年なり」と言っている事を根拠にしているようですが、学会一般の大方の見方は、この『聖人御難事』の文句を拠り所として「本門戒壇大本尊」の図顕年月を「弘安二年十月十二日」と模刻したのではないかと言われています。
日蓮真筆の曼荼羅の中で図顕年月の書かれたものには年号が書かれているのですが、この板本尊には「弘安二年太歳己卯十月十二日」とは書かれておらず「弘安二年十月十二日」と書かれている為、それも疑惑の種になっているようです。

【追記】

『聖人御難事』の記述を根拠にして、『本門戒壇大御本尊』の図顕年月日は「弘安二年十月十二日」と模刻されたと考えられます。

元来、富木日常(常忍)の遺風を受け継ぎ、日蓮自筆の曼荼羅や遺文の保護に心を砕いて来た中山門流(現在の中山法華経寺)が板曼荼羅のルーツである事が指摘されています。

『聖人御難事』の日蓮真筆も中山法華経寺に現存しています。

『楠板彫刻本門戒壇大本尊』の脇書には以下のように認められます。

「右現当二世の為に造立件の如し、本門戒壇の願主弥四朗国重、法華講衆等敬白」

(『富士宗学要集』第八巻資料類聚[1])

この脇書を文章通りに読めば、この板曼荼羅の製作依頼者は「弥四朗国重」ということになります。
また「本門戒壇の願主」と書かれていますから、「本門の本尊」の願主ではない事になるのです。

若しも、この板本尊が日蓮正宗が主張するように身延に於いて日蓮が楠板に図顕したものを、和泉公日法が彫刻したのなら、必ず日蓮の允可を受け、その証拠としての允可書が有る筈です。

斯くも重大な意義を有し、かつ大石寺の懐深く秘蔵されて来たものならば、他の「最初仏(楠板の端材で製作された日蓮像)」と一緒に日蓮自筆の允可書が有る筈なのです。

然るに、この本尊も『御義口伝』同様に日蓮の允可書もなければ、他の相伝文書にも登場しないのは不可解だと言われています。

日蓮正宗に於いては「秘中の秘」だから、そのようなものはないのだろう(趣意)と主張しますが、これは理由にはなりません。

日蓮が「弘安二年太才己卯十一月日」に図顕した『沙門日永授与之本尊』と見比べてもその相貌が著しく異なる事も指摘されています。

偽相が整足している曼荼羅には「未曾有の大曼荼羅也」と認められますので、日蓮真筆の允可書でもない限り日蓮正宗が主張するように、「戒壇本尊」を以って他の曼荼羅と隔絶した特別の地位にある曼荼羅であるとは言えないと言うのが一般的な見解です。

【補足への回答】

『二箇相承』自体の信憑性が限りなくゼロに近いのですが、若し仮に存在していたと仮定しても「願主・弥四朗国重」なる者を特定するのは不可能です。
日蓮正宗では「大聖人己心中の弥四朗国重」(趣意)である等と言っていますが、曼荼羅脇書等は法の領域に属する本尊の相貌とは性格を異にする大石寺文書(史料)ですので、その言い訳は通用しないのです。

【rsdm825さんへ】
その通りですね。『三大秘法抄』や『二箇相承』の記述に従えば、比叡山の円頓戒壇建立は勅許によって可能となったように、「本門戒壇」の願主も天皇以外には考えられないと言う事になります。
「弥四朗国重」では無位無官の庶民と言う事になるでしょうから、文書としての性格を有する脇書である事を考慮すれば全くのデタラメと云う事になります。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。


>日蓮正宗の主な教義である「釈尊脱仏・日蓮本佛論」や「金口嫡嫡・法水瀉瓶・唯授一人血脈相承」等の教学思想は「日蓮大聖人」や「日興上人」には無かった事が学門上ではほぼ確かめられています。

「釈尊脱仏・日蓮本佛論」と言うのは、インドで『法華経』を説かれた釈尊は「脱益の教主」であり、末法の世は「下種益の教主」たる「御本佛日蓮大聖人」の「南無妙法蓮華経」でしか衆生は救われず、釈尊の教えは時代遅れで有害無益であるとする教義ですが、このような釈尊を蔑(ないがしろ)にする教義は、確かな日蓮遺文や曼荼羅の讃文の検証から、「日蓮大聖人」は『法華経』に説かれている「上行菩薩の再誕生」の自覚は持たれていましたが、自分が「久遠実成釈迦如来(久遠本佛)」を凌駕する「久遠元初の自受用報身如来」などとは全く考えていなかったようです。

また日蓮正宗にのみ「日蓮大聖人」の教えが正しく継承されているという「大石寺住職正嫡論」とでも言うべき思想も文献学的には何ら根拠のないものです。

日蓮正宗の教義は『法華経』の教主である釈尊を、今の時代には用無しの「脱仏」と下し、「日蓮大聖人」を「御本佛」に祀り上げて褒め殺しにする宗派ですから、「日蓮大聖人」の教えに背いているのは明白であり<

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>「大石寺の所謂戒壇のご本尊」こと『楠板彫刻本門戒壇大本尊』は、大石寺の伝承によれば日蓮が弘安二年(1279年)十月十二日に楠板に図顕したものを弟子の和泉公日法が謹刻して、日蓮の允可を受けた本尊であり、その脇書に「本門戒壇の願主弥四朗国重」とある事から「本門戒壇の大御本尊」と呼ばれています。

この本尊は近年以来、真贋論争が絶えなかったのですが、最近になって日蓮が弘安三年(1280年)に図顕した『日禅授与之本尊』(寺伝・万年救護之本尊)を北山本門寺が公開した為、日蓮正宗の元信者の方が、既に流出していた「本門戒壇本尊』の写真と『日禅授与の本尊』の写真とを縮尺補正して解析した結果、粗間違いなく『本門戒壇大御本尊』は日蓮図顕の『日禅授与之本尊』を元にして臨刻模造されていた事実が発覚しています。
それどころか、大石寺では日興の板曼荼羅まで偽作していた可能性が濃厚のようです。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>「釈尊脱仏」とは「お釈迦様」は、末法の世には役目の終わった用無しの仏である」と云う意味です。

「日蓮本佛論」とは日蓮こそは『法華経』に説かれた究極の「久遠本佛」であり、釈尊始め十方分身の諸仏は、その働きの表出的存在(用の仏)に過ぎず、末法の世の「御本佛」は「日蓮大聖人」であるという思想です。

しかし、『法華経』の何処にも「日蓮」なる記述はありません。

彼らは「上行菩薩」こそは末法の世に出現した日蓮その人であり、その本地は「久遠元初自受用報身如来」であると主張しますが、確かな日蓮遺文を見る限り、日蓮には「上行菩薩の再誕」としての自覚はうかがえますが、自分が「お釈迦様」よりも偉大な「御本佛」などとは微塵も考えていなかったようです。

日蓮自身、釈尊を差し置いて自分が拝まれる事を望んでいる筈は無く、「御本佛」に祀り上げられた事自体が褒め殺し以外のなにものでもないでしょう。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>日蓮遺文、所謂『御書』として今日まで伝承されているものは、日蓮遺文集の中で最も権威あるものと言われる『昭和定本日蓮聖人遺文』全四巻には凡そ、434編が収録されています。

その内訳は、真蹟と真蹟曾存(真蹟が嘗ては現存した遺文)が222編、真偽未決が212編とされており、真偽未決の内、当初から明らかな偽書とされた遺文は55編でした。

しかし、それ以後のテクストクリクティー(文献批判)が飛躍的に進歩したため、今日では日蓮真蹟とされる遺文は多くても110編以内にとどまる可能性が高まっています。

これは恐るべき数字であって、遺文総数の凡そ75パーセントが「偽書」だと云う事になるのです。<

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>日蓮は『法華経』の教主である「久遠実成釈迦如来」の直弟子としての「本化上行菩薩」の再誕としての自覚があったと言われています。

日蓮正宗が主張する「釈尊脱仏・日蓮本佛論」すなわち釈尊は用無しの蛻の殻(もぬけのから)であり、日蓮こそは「本佛」であるという思想は、宗祖日蓮や派祖日興の中に見出すことは不可能です。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

 

>保田妙本寺の「吉濱文書」等のテクストから見て、どうやら「日蓮本佛論」の本家筋は小泉久遠寺・保田妙本寺系であると言っても過言ではないでしょう。


「石山教学」を大成した大石寺26代堅樹院日寛(1665年~1726年)の著作には保田妙本寺・小泉久遠寺14代進大夫阿闍梨日我(1508年~1586年)の著作が数多引用されている事から、日寛は日我を批判してはいるものの、その思想の骨格は郷門に多分に影響されているのです。


日我が日向国(現・宮崎県)佐土原の出身であり、大石寺9代日有の代の左京阿闍梨日教(1428年~?)も日向国に所縁の深い人物だけに、日向本山定善寺が保田妙本寺系の薩摩法印日叡の開基である事を考慮すれば、日蓮を「久遠元初自受用報身如来」と仰ぐ教学のルーツは「日郷上人」系だとした方が理解し易いと思います。<

 

 

 

Rsd37264氏は書かれてあります。

>日蓮正宗の教義は、本来の宗祖日蓮や派祖日興の思想とは随分と異なる事は様々に指摘されています。

日蓮正宗の教学を大成したのは江戸時代中期の大石寺26代堅樹院日寛ですが、彼が「此の書六巻の獅子王あるときは、国中の諸宗(他宗派)諸門(日蓮宗系各派教団)の狐兎(つまらない輩)一党して当山(大石寺)に襲来すといえども敢えて驚怖するに足らず」と豪語した『六巻抄』も、その理論構築の根拠となった『百六箇抄』・『本因妙抄』が日蓮撰述とは現代の仏教学や文献学では認められていない訳だから、既にその足元から崩壊しているのです。<

 

 

日蓮本仏論を完璧に破折しているものを発見しました。

以下です。

 

http://www.homyou.hello-work.jp/ron38.html

 

 

日蓮正宗の大御本尊を完璧に後世の偽作と喝破しているものを発見しました。

以下です。

 

http://www.homyou.hello-work.jp/ron58.html

 

 

『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の文意

 

http://www.homyou.hello-work.jp/ron59.html

 

目から鱗の正に正論です。驚きました。

Rsd37264氏、最後の手紙(死の直前の手紙)

 

 

(私がこの手紙を公表したのはRsd37264氏の死の数日後と思う。この手紙の1週間後にRsd37264氏は亡くなられた。娘さんが「父は亡くなりました」と最後の書き込みをされていた。幾人かがRsd37264氏の死が不審と立ち上がろうとした。その頃、ヤフー知恵袋宗教カテに参加されていた方は憶えていると思う)

 

2011/8/2419:15:09
mifune_0061
さん

 rsdさんから手紙が来ていました。みなさん読んで下さい。

 rsd37264さん 

 三船先生。こんにちわ。

 rsdの爺は風邪をひいて熱がなかなか下がらずに体調が余りすぐれませんが、何だが創価学会のsinanomachiとか言う人が先生の事を誹謗していたので心配に成り御挨拶にまかり越しました。  

 先生。私は自分の過去の回答が結果として数多の方々に良い意味に於いても、悪い意味に於いても様々に影響を与えてしまい、何だか複雑な気持ちなのです。

 私は天に誓って嘘を記述した覚えはありません。

 出来るだけ事実関係については正確を記述したつもりです。

 私が登場した頃には三船先生に対して、事情をよく知らないにも拘わらず大変に失礼な事を言ってしまったと思っています。しかし、私は決して先生には悪感情は持ってはいません。先生が何とか慢性の鬱から脱して幸せになられる事を心から願っていますよ。

 私は保田妙本寺様及び檀家の方々には結果として申し訳ない気持ちがしているのです。

 結果として先生を通して御迷惑をかけてしまっている責任の一端は私にもあるのですから。余計な事をお教えしなければよかった。

 話は変わりますが、何やら危険な雲行きになって来ました。とても心配しています。余り、創価学会を刺激しない方が良いと思うのです。学会の恐ろしさは外部の私なんかより先生の方が余程に詳しく釈迦に説法の比ではないかも知れませんが、先生の身が案じられて仕方がありません。

 sinanomachiとか云う方には対話を試みようと思いますが、先生も暫くは学会を刺激するような投稿は控えられた方が賢明かと思うのです。

 私はコンピューターやネットは詳しくないので、息子に聞きましたら、その気になれば投稿先のパソコンの位置を突きとめることは可能だそうです。

 先生は現実社会に於いては、言わば隠れアンチな訳ですから、たとえ学会の内部に協力者が居たとしても絶対に安全とは言い切れません。

 だから、どうか暫くの間は事態を静観されて、これ以上に学会を刺激なさらないように忠告申し上げます。

 また、これ以上の保田妙本寺様に対する誹謗中傷もなさらないように衷心からお願い申し上げます。

 重ねてお願い申し上げます。

 等覚寺雅道     敬具。

 

(三船小仏、勝手に追記)

天国のRsd37264氏へ。

Rsd37264氏が心配しておられたsinanonachiは初めこそ狂信的な創価学会員でしたが、途中から何故か反創価学会に変わり、名を信濃町小仏に変えて、私・三船小仏と仲良くなり、そして「大仏が怖い」の言葉を最後にヤフー知恵袋宗教カテに何度呼び掛けても来なくなりました。

Sinanonachiこと信濃町小仏は最初こそ狂信的な創価学会員でしたが、心変わりしたのです。そして反・創価学会に変わりました。

でも、「大仏が怖い」の言葉を最後にヤフー知恵袋宗教カテに何度呼び掛けても来なくなりました。信濃町小仏はとても良い人でした。信濃町小仏はとてもとても良い人でした。何故、反創価学会に心変わりしたのかが、不明で謎でした。

(三船小仏、勝手に追記)

rsd37264氏は宗教学の大家(国立大学教授)で勲三等を貰われた方です。

私のブログの前半はRsd37264氏が書かれたものの、そのままコピーです。

私は本当にRsd37264氏にお世話になりました。

また、色々と大変に御迷惑をお掛けして申し訳ございません。

Rsd37264氏、天国から御見守り下さい。

今、時は来た、と思っています。