日蓮宗  日像派  立宗宣言

 

 

日像上人とは日朗上人の異母兄弟で一番末の弟である。日蓮聖人から直々に京都布教を託されたと記憶する。日蓮聖人御本尊入滅の時、日像上人は未だ10代だったと記憶する。

 

私は日像上人のwiki を印刷して胸のポケットに入れてある。

 

理屈的にどうしても日蓮宗(日蓮宗身延派)が正しい。日蓮宗身延派とは日蓮宗の本元であるという自負から、日蓮宗信者は決して日蓮宗身延派とは言わない。日蓮宗身延派とは創価学会が造り出した造語である。日蓮宗信者は日蓮宗身延派と言うと激しく怒り出す。

 

日蓮宗の御書は薄い。偽書を入れてないからだ。富士派の御書は厚いが、80%は偽書(後世の作り物)である。

 

日蓮宗(日蓮宗身延派)は折伏を為なくなったことで、創価学会および日蓮正宗から叩かれているが、五時八教判が明らかに間違いと分かった現在では、折伏は間違いであり摂受が正しい。

 

しかし、日蓮宗(日蓮宗身延派)は確かに摂受もしなくなっているようだ。お寺を訪ねても、開いていない。開いていてもお寺の人は不幸な人を救うという情熱は持ってなかった(少なくとも私が訪れた寺院では)。人を救うという信念が今の日蓮宗(日蓮宗身延派)には無くなっているようだった(すでに8年前のことになるだろう)。

 

御本尊はネットで買える千五百円の御本尊に為ている。数年前、買ったのだが、半年ほど前、クビの骨を折って寝た切りの友人を創価学会に入れようと折伏に行くとき、捨ててしまった。また、買おうと思っている。

 

その御本尊も巻いたきりであったようにも思える。小さな箱製の仏壇を自作したが、その仏壇は今、何処に行ったか分からない。

 

当時、出家できる人は家が武家か皇族など裕福でなければ不可能だった。日蓮聖人も日朗上人など六老僧も武家か皇族だったのである。

 

龍ノ口の法難で日蓮聖人が助かったのも、鎌倉在住の皇族から赦免の命令が急遽、幕府に下ったからである。すなわち日蓮聖人は皇族だったらしい。

 

龍ノ口の法難のとき、日朗上人は土牢に少なくとも3日間は入れられてある。他の六老僧は何もされていない。

 

以下、wiki より

 

1275年(建治元年)に日蓮の弟子で兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となり経一丸の名を与えられ、玄旨伝法本尊と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられた。

1293年(永仁元年)日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意する。まず日蓮の足跡を辿って佐渡にて法華経を布教した後、北陸七尾に向かう。その船中での法論の結果、石動山の僧・満蔵(日乗)を弟子とした。満蔵により石動山に招かれ法華経を説くも、山上の大衆により満蔵共々追われ、それが羽咋妙成寺の創建に繋がることとなった。

1294年(永仁2年)上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋仲興大覚寺の僧・大覚らから帰依を受ける。

1307年(徳治2年)延暦寺東寺仁和寺南禅寺相国寺知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。追放中、洛西・真言寺の住持・実賢、深草・極楽寺の住持・良桂、松ヶ崎・歓喜寺の住持・実眼らと法論を行い折伏した。1309年(延慶2年)赦免され、京都へ戻る。

1310年(延慶3年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けた。1311年(延慶4年)赦免され、京都へ戻る。1321年(元亨元年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。1334年(建武元年)後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。<

 

日像上人と思うだけでも、怖い物が無くなる。私には創価学会と思うと余りにも元気に成りすぎる(リラックスできない、力んでしまう)傾向がある。少なくとも私には日像上人が向いている。

 

富士派は日興上人が佐渡流罪に同行したと思っているが、真実は他の六老僧(日向上人や日時上人)である。日興上人は地元である富士の周辺の布教に懸命であった。日朗上人は佐渡から赦免の書き置きを持って佐渡に渡ったし、何回も佐渡と鎌倉の間を命懸けで往復している。歴史とは簡単に書き換えられると言うことである。