日像上人の京都弘通(ぐづう)

 日蓮聖人御入滅時の状況は、

弟子・信徒を合わせても数百人東国数ヵ国に散在するにすぎない日蓮聖人の教団は微々たる地方教団にすぎなかった

という状況だったようである。 日蓮聖人の教えを全国に弘めるためには、天皇のおられる文化の中心地たる京都への布教が必要だった。そのことに勲功があったのが日像上人(1269-1342)である。

 日像上人は、六老僧(日蓮聖人の六大弟子)の日朗上人の弟子であった。日像上人は臨終間際の日蓮聖人から帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)を遺命された。

 長じて日像上人は25歳のとき、遺命の実現を決意。鎌倉の由比ヶ浜で寒中百日間の行をして、日蓮聖人の霊跡を巡礼され、京都に向かわれた。

三黜三赦(さんちつさんしや)の法難

 当時の東国出身の日像上人が京都で布教することは並大抵のことではないと容易に想像できるが、その布教は功を奏して、京都の有力商工業者の帰依を受けた。しかし、布教が功を奏したことを裏付けるように、比叡山や他宗の圧力があり、上皇の命で流罪となり京都を追放された。2年後に許され京都に帰ったが、翌年には再び流罪となる。このように、三度の追放と赦免という「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けながらも京都の布教に尽力された。

 商工業者の集中する下京の綾小路大宮に構えていた法華堂を中心に、活動し信徒を増やしていった。洛北松ヶ崎の天台宗歓喜寺(現:妙泉寺)、洛西真言宗鶏冠井真経寺、深草極楽寺(現:宝塔寺)を宗論によって論伏し日蓮宗に改宗させた。その寺が更に京都弘通の拠点となったいう。

 三度目の京都追放の後に弘通の勅許(天皇のお許し)を得た日像上人は、法華堂を移して妙顕寺を開いた。上洛して28年目のことである。

日像上人の妙顕寺が勅願寺に

 次いで、元弘三年(1333)、この妙顕寺は後醍醐天皇の京都還幸を祈願を託され、還幸が実現した。このことにより、尾張・備中に三ヵ所の寺領が寄進され、次いで建武元年(1334)には

「妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし」

の後醍醐天皇の綸旨を賜わった。さらに、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所となり揺るぎない地位を獲得した。天皇の綸旨を賜ることや、室町幕府の外護を受けることは、比叡山延暦寺の軍事的政治的圧迫を退けるのに奏功した面もあるだろう。

大覚大僧正の活躍

 妙顕寺の第二世は大覚大僧正妙実(1298-1364)である。公家の名門近衛家に縁故のある出自といわれ、日像上人の右腕となって活躍した。公家や武家と妙顕寺の接近をはかり、備前・備中・備後(岡山・広島)の布教に功績を残している。 妙顕寺は南北朝時代にあって不安定な室町幕府の要請を受けて『法華経』による祈願をし、それ故に幕府から強い保護を受け。あるいは、延文三年(1358)夏には深刻な干ばつが京都を襲ったが、大覚妙実は天皇の詔によって法華経による祈雨の祈祷をした。すると、たちまちに雨が降る霊験を示した。この功績により日蓮聖人、日朗上人(六老僧・日像の師匠)、日像上人に菩薩号を賜わり、大覚妙実自身も大僧正に任じられた。 大覚大僧正妙実によって京都の日蓮宗そして妙顕寺は揺るぎないものになった。

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本山名    開創                     開山                    門流     現在の宗旨・備考
妙顕寺    元享元年(1321    日像(日朗弟子)    四条門流    日蓮宗
弘経寺    永和元年(1375    日誉                   日蓮宗(妙顕寺塔頭泉妙院に寺籍)
上行院    暦応2年(1339     日尊(日興弟子)    富士門流    日蓮本宗(合併して要法寺となる)
住本寺                  日大    富士門流    日蓮本宗(合併して要法寺となる)
本国寺    貞和元年(1345    日静    六条門流    日蓮宗(本圀寺)
妙覚寺    永和4年(1378     日実    四条門流    日蓮宗
妙満寺    弘和元年(1381    日什    中山門流    顕本法華宗
本禅寺    応永13年                      陣門流       法華宗陣門流
本満寺    応永17年            日秀                    日蓮宗
宝国寺                             日善                    日蓮宗(本圀寺塔頭持珠院に合併)
立本寺                             日実                      四条門流    日蓮宗
妙蓮寺                                                       本門法華宗
本能寺    応永22年            日隆                     法華宗本門派(八品派)
本法寺    永享8年              日親                      中山門流    日蓮宗
頂妙寺    明応4年(1495    日祝                     日蓮宗
妙泉寺    永亨3年    日舜(妙満寺5)              顕本法華宗
学養寺                    
本覚寺                            日延(妙覚寺9)      四条門流    日蓮宗
妙伝寺    文明9年(1477   日意(身延12)        身延門流    日蓮宗
本隆寺                                                         真門流    法華宗真門流
大妙寺                            日行          

 

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 富士離山

 

 

 日蓮聖人は生涯終始、釈迦本仏論を説き続けました。日蓮聖人は生涯、一言も日蓮本仏論は説いていません。説いているのがあれば、偽書と見做すべきです。

 釈迦本仏論と解釈されるかも知れないという部分が幾箇所か有りますが、日蓮本仏論を主張したい輩の強引すぎるこじつけと私は考えます。

 

 日蓮本仏論は第9世日有上人から突然現れました(しかし、もう、この時代は、大石寺は謗法の山に化しています。大石寺は3代目で終了です)。

 

 第4世日郷上人が謗法で穢れきった富士離山という日興上人が行った見延離山と酷似したものを行って「弘安2年の大御本尊などを持って千葉県のお寺に行かれた」ため、富士大石寺は荒廃の極に達しました。

 

 もう一度書きます。

 日郷上人が宮崎県(当時は日向地方と呼ばれていた)布教から帰ってきたとき、富士大石寺の堕落腐敗を知り、このままでは日蓮聖人の法が無くなる、と嘆き、日郷上人は大御本尊など重宝を持って千葉県の寺院に移転しました。これから千葉県の寺院である保田妙法寺が正統になります。大石寺は身延のお寺と同じような扱いになります。

 

 第9世日有上人は大石寺再建のため、次から京都要法寺から稚児貫首を受け入れる、取り決めをし大石寺の財政再建を果たしました。この財政再建のために大八車でしか運ぶことの出来ない(当時は未だ大八車はありませんでした、大八車は江戸時代初期に発明されました)巨大な板製の大御本尊の制作をし、これが御書に書かれてある弘安2年の大御本尊であると主張し、信者を欺そうと模索しました。

 

 富士離山が日蓮正宗(大石寺)には全く記載が無いのは、日蓮正宗(大石寺)には非常に不利だからです。富士離山に関する資料は全て焼却処分されたことは容易に想像出来ると思います。

 

 釈迦本仏論以外の日本の伝統的仏教は大石寺(日蓮正宗)と富士派の幾つかの寺院だけです。偽りの宗門、富士派の狂信的僧侶が集まって明治末に大石寺に急遽出来上がったのが日蓮正宗です。それまで日蓮正宗という名称さえ有りませんでした。

 

(千葉県のお寺である保田妙本寺の日我が日蓮本仏論を始めに説いたという説もある。富士派の教学は真書偽書が入り乱れ、偽書の方が遙かに多いという現実を考えるべきである。富士派はそれ故、日蓮本仏論が起こる要素が強く有ったと考えるべきだろう。

 また、富士派と身延派がお互いが正統と偽書造り合戦を行ってきた史実を思い起こすべきである)

 

 九州の江戸時代からの名家(大石寺の大講頭)が大石寺(日蓮正宗)なのに釈迦を祭っていたのは、このためと今解りました。大石寺も釈迦本仏論と主張し、日蓮本仏論を隠していたのです。こういう偽りを行って保身を保ってきたのが、大石寺です。

 

 大石寺が日蓮本仏論を大々的に主張し始めたのは、創価学会が非常に大きくなってきてからです。創価学会に後押しされるように、大石寺も日蓮本仏論を主張し始めました(また、秘していた大石寺26代堅樹院日寛の教学を開きました)。

 

(追記)

 ネット上の情報は簡単に書き換えることが出来ます。Wikiはもはや信頼出来なくなっています。情報とはこのように簡単に書き換えることが出来るのです。書き換えることが出来ないのが本です。ですから本を所有していることは重要です。

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『法華経』には「宥和一致」の思想が説かれており、他の大乗経典や原始仏典を排斥する思想は皆無です。

 

rsd37264さん

日蓮は末法思想と天台教学に依憑して、彼独自の視点から『法華経』を解釈しており「《法華経》に即している」とは必ずしも言えません。



 

以下に三点のみ纏めて回答致します。



 

三時説は『法華経』には説かれていない。



 

日蓮遺文の『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』には、釈尊滅後第五の五百年間即ち末法時代の最初の500年間に『法華経』に登場する上行菩薩が出現して衆生を救済すると書かれ、また日蓮図顕の曼荼羅には「仏滅後二千二百二十余年之間未曾有の大曼陀羅也」と認められていることからも理解できるように、日蓮の教えは三時説に於ける末法の世が大前提でした。

《漢訳『法華経』に於ける正法、像法》



 

例えば「譬喩品」には舎利弗の授記段で、華光如来の正法と像法についての記述があります。



 

「舎利弗、是の華光仏の後、正法世に住すること、三十二小劫、像法世に住すること三十二小劫ならん」

同様の記述は「授記品第六」や「五百弟子授記品第八」にも見られます。

また「常不軽菩薩品第二十」に説かれる威音王仏の正法、像法という表現があります。



 

しかし、いずれの場合も原典には正法、像法に相当する表記はあるけれども、これらは後に末法という時代区分を想定していない表現であり、三時説に云う正法・像法・末法と云うような意味ではなく、仏の教説が正しくとどまるありかたを正法、正しい法に似た法がとどまるありかたを像法と漢訳しているに過ぎません。



 

また、漢訳『法華経』には末法と云う表記が二箇所見られますが、いずれの原語の意味も仏の入滅した後であり、『法華経』よりも後代に成立した『大方等大集月蔵経』「法滅尽品」に説かれる五五百歳説によって解釈する事はできません。



 

末法思想の最古のものは、中国の南岳大師慧思(515年~577年)が566年に著した『立誓願文』に出てくるものであり、結局のところ正法・像法・末法の三時説は中国佛教に於いて後世に成立した新説であり、日本の「永承七年(1052年)説も中国に由来します。

 

『法華経』は予言の経典ではない。

 

日蓮は『法華経』に登場する上行菩薩を上首とする地涌の菩薩が末法の世に出現して広宣流布すると主張して『法華経』を一種の予言の書と位置つけましたが、漢訳『法華経』にもその趣旨は説かれていません。




 

「薬王菩薩本事品」

「我が滅度の後、、後の五百歳の中に 閻浮提に於いて 広宣流布して断絶して、悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃茶等にその便を得せしむること無かれ」

(サンスクリット原文直訳)



 

「偉大なる志を持つ求法者『サウ゛ァサットゥウ゛ァ=プリヤダルシャナの前世の因縁の章(薬王菩薩本事品)』が最後の時であり、最後の機会である最後の五十年を経過している間、ジャンブ州(インド全域)に広く宣べ伝えて、断絶させてはなりません。悪魔、魔民、天人、ナーガ、ヤクシャ、クンバーンダらのとりつくたよりを与えてはなりません。」

サンスクリットの原典にはインド亜大陸と云う地域的限定があり、しかも「最後の五十年」とあるのに、翻訳者である鳩摩羅什は中国人の好みに合うように十倍して「五百歳」としたのです。

『大集経』の「五五百歳」と「薬王菩薩本事品」の「後五百歳」の似た記述から、末法の始めの500年間という教義が構築されたもののようです。



 

『法華経』に諸経典を排斥する思想は説かれていない。



 

日蓮は天台の五時八教判に依って法華至上主義を主張して「諸経は無得道、堕地獄の根源」と排斥しましたが、現代仏教学に於いては「教相判釈」自体の意義や権威が喪失していると言えます。



 

ともあれ『法華経』には「宥和一致」の思想が説かれており、他の大乗経典や原始仏典を排斥する思想は皆無です。



 

「方便品」



「正直に方便を捨てて、但無上道を説く」

この経文を以って、釈尊が以前に説かれた諸経を捨て去って「無上道」である『法華経』を説いたのだから、「方便」である諸経は捨て去るべき経典であると主張しますが、この言葉は三乗格別の立場を去って、仏が一仏乗を宣言した「開三顕一」を述べている箇所であり、三乗分別への執着を去れば、三乗即一乗と開会した経文です。



 

「譬喩品」

「不受余経一偈」

この経文を「余経の一偈をも受けざれ」と読んで『法華経』の外には他の経典の一偈をも受けてはならないと主張していますが、この解釈は『法華経』の原意とは真逆です。



 

「若し比丘の 一切智の為に、四方に法を求めて 合掌し頂受し、但楽って 大乗経典を受持し 乃至、余経の一偈をも受けざる有らん。是の如き人には、乃ち為に説くべし」



 

この偈頌は「無知の人の中にして、此の経を説くこと莫れ」を受けたもので、『法華経』を説いてよい者の条件を述べている箇所であり、決して『法華経』以外の一偈をも受けてはならない、という意味ではありません。



 

「日蓮の教えは『法華経』に即している」と云うよりも、中国佛教に依憑して『法華経』を独創的に解釈したものです。<

 

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学術的に「日蓮本佛論」は完全な間違いです、日蓮は自身を仏とは1回も言っていません。釈迦が仏です、日蓮は菩薩です。

 

rsd37264

保田妙本寺の「吉濱文書」等のテクストから見て、どうやら「日蓮本佛論」の本家筋は小泉久遠寺・保田妙本寺系であると言っても過言ではないでしょう。

 

「石山教学」を大成した大石寺26代堅樹院日寛(1665年~1726年)の著作には保田妙本寺・小泉久遠寺14代進大夫阿闍梨日我(1508年~1586年)の著作が数多引用されている事から、日寛は日我を批判してはいるものの、その思想の骨格は郷門に多分に影響されているのです。

 

日我が日向国(現・宮崎県)佐土原の出身であり、大石寺9代日有の代の左京阿闍梨日教(1428年~?)も日向国に所縁の深い人物だけに、日向本山定善寺が保田妙本寺系の薩摩法印日叡の開基である事を考慮すれば、日蓮を「久遠元初自受用報身如来」と仰ぐ教学のルーツは「日郷上人」系だとした方が理解し易いと思います。



 

宗教ビジネス紛の日蓮正宗妙観講や創価学会と異なり、由緒正しい富士門流の大本山ですから、新規信徒の募集は余りされていないとは思いますが、教えを求める心の有る方を拒むことはなさらないと思います。



 

私が過去に他の方に回答したURLを以下に示しますので参考になさってください。



 

日郷と日道の血脈問題に関連する回答

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1338662373



 

『万年救護之大本尊』(国指定重要文化財)についての回答

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1137765246



 

『万年救護之大本尊』と伝『本門戒壇之大御本尊』(真偽未決)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1332326238



 

保田妙本寺と日蓮正宗の現状に関連して

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1244798192



 

『万年救護之大本尊』の相貌(私の回答の最後の行にURLを示しています)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1346787553



所謂「郷道論争」について。

(文献的視点)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1049088480



 

《追記》

日目師は元弘三年(1333年)11月15日に美濃国垂井で遷化され、遺骨を奉じて日郷師が富士に帰山した時には、既に大石寺の跡目は日道師でした。



 

しかし、大石寺の全大衆が日道師を貫首と仰いでいた訳ではなく、帰山した日郷師は数多の大衆の支持を得て蓮蔵坊に入ったのですが、開基檀那の南条氏や日道師の縁戚の新田氏の意向が強く働き、結局、日郷師は後に大石寺を退出して小泉久遠寺・保田妙本寺を創建して大石寺とは袂を分ちました。



 

日目師捧持の『万年救護之大本尊』『日興聖人御本尊』『聖教類聚』等の重宝が、日尊師にではなく日郷師に譲られた事は「吉濱文書」からも確認されており、殊に『万年救護之大本尊』は相伝の印(しるし)の意味を持つことから、日目師の意志を尊重すれば大石寺4代は日郷師だった可能性は極めて高いのです。



 

大石寺では『万年救護之大本尊』等の重宝は日郷師が勝手に持ち去った等と主張していますが、それは云いがかりに過ぎません。



 

また、日道師と日郷師の対立を、大石寺では東の坊地の相続争い等と主張していますが、寺の相伝には寺地や領地の相続を伴うのは当然である事から、この件を血脈問題にはしたくない大石寺側の意図がありありとわかります。



 

日道師を大石寺4代の貫首に据えたのは南条氏や新田氏等の大檀那と、それを支持した大衆方であり、日道師の出自が日目師と同じ新田氏であり、祖母は南条時光の姉である事から、南条・新田両氏側の意向による登座だったようです。

 

俗縁の上では日道師は「日目上人」の甥にあたるのです。



 

方や日郷師の出自は越後国の太田氏であり、南条氏や新田氏の支持を得られる筈はなく、まして日郷師の留守中に日道師が檀那の意向で大石寺の貫首になっているにも拘わらず、日郷師の帰山と同時に大石寺は東西真っ二つの分裂状態に陥ったと云う事実は、大檀那のごり押しによる日道師の貫首就任には、数多の僧俗が疑義を持っていた事の証だとも言えます。



 

仏法の相伝は血縁に依らず「師資」を以って決すべき事は、宗祖日蓮、派祖日興・三祖日目に見られる一貫した姿勢であり、宗開両祖に仕えた公正無私の聖僧であった日目師が、単に俗縁を重んじて日道師に「内付」することは考え難く、加えて大石寺側には日目師から日道師への寺の相続を示す「譲り状」・「置状」等の痕跡すら無い為、日道師の大石寺4代登座は「師資相承」によるものではなかった可能性が高いと言えます。

 

反論待ちます。

 

質問への投稿、出来なくなっていたため、ここに書き込みます。

なぜ、投稿できないんだ!!

 

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首切り役人が太刀を振り上げて頸を切ろうとした時、江の島の方角から発光物体が飛来して、役人達は驚き恐れて処刑どころの騒ぎではなくなり、折りから処刑中止の下知が届いた為、日蓮の処刑は取りやめとなった。

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rsd37264

日蓮の生涯に於ける最大のピンチとも云うべき『龍の口の法難』は文永八年(1271年)九月十二日の早暁の出来事とされています。

その詳しい様子は日蓮遺文の『種種御振舞御書』に書かれていますが、日蓮は本当に龍の口の刑場で頸を切られそうになったのです。

幕府侍所の所司である平左衛門尉頼綱の差配により捕縛された日蓮は、深夜に龍の口の刑場の連れ出され、駆けつけた信者らと今生の別れを惜しむ挨拶を交わした後、頸の座についたという。
首切り役人が太刀を振り上げて頸を切ろうとした時、江の島の方角から発光物体が飛来して、役人達は驚き恐れて処刑どころの騒ぎではなくなり、折りから処刑中止の下知が届いた為、日蓮の処刑は取りやめとなった。
その後、日蓮の身柄は本間六郎左衛門尉邸預かりとなり、十月十日に佐渡への流罪が決定したのです。

日蓮遺文の『種種御振舞御書』は、嘗ては日蓮真筆が現存した事が学術的に証明された曾存文書であり、文永八年頃の他の鎌倉遺文の内容とも整合性がとれており、同じ真蹟曾存の遺文である『開目抄』の記述とも内容が合致する事から、「作り話」などではなく、史料に裏付けされた歴史的事実なのです。

尚、日蓮の処刑を中止させた発光物体が何であったのかは解明されていませんが、彗星や流星等の天体現象とする説もあれば、放電現象或はプラズマではないかとの説もあります。

ご参考まで。


ーーーーこれをどう思いますか?

創価学会は日蓮正宗時代の垢を早く完全に削ぎ落とすべきと私は強く主張するのです。

三船

 

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日蓮僧日持による七〇〇年前の満蒙布教 
              (世界戦略情報「みち」平成22年(2670111日第326号) 

 

内外の事情を憂慮した日蓮が「立正安国論」を著し、幕府の最高指導者・北条時頼に提出したのは文応元年(一二六〇)。だが禅宗を拠所として生きる時頼はこれを政治批判と解釈。また日蓮により批判された浄土宗門徒が日蓮を襲撃するなど法難が続く。しかし文永五年(一二六八)に元から服従を促す国書が届き、北条家で異母兄弟が対立し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立するなど、内乱の匂いが漂う。「立正安国論」はかかる国難を予言したとの評判が高まり、幕府内にも賛同者が現われ、日蓮はその後三度にわたり幕府に国家諫暁を行なっている。

 

 文永一一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度にわたり元が来寇したが、弘安の役の翌年九月、病に伏していた日蓮は身延山を下り、治療のため常陸国を目指すが、その途中、武蔵国池上氏の館で病状が悪化。ここで日蓮は後継者として六人の僧を挙げる。日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六老僧だ。老僧とはいえ最年長日昭が四六歳、年下の日向二九歳。日持は三二歳だった。


 日蓮七年忌の正応元年(一二八八)に願主となって池上本門寺に祖師像を安置した日持はその後津軽の安東氏を訪ね、日蓮宗の布教に努める。この地で日持は蓮華寺(青森)、法領院行寺(黒石)、法立寺(弘前)などを開き、続いて北海道に渡る。檜山郡の法華寺、松前郡の法華寺、函館の妙應寺と妙顕寺に日持の伝承が残されているが物証はない。二百年ほど後の大永元年(一五二一)に、京都本満寺日尋上人が北海道を訪ね、日持がこの地で布教を行なったと書き残しているのが唯一の物証だ。


 日持はその後檜山郡江差から船に乗って樺太を目指す。このとき漁民たちが不漁を嘆いているのを聞き、船上から豊漁祈願を行なうと、見たこともない魚が大量に獲れるようになったという。日持が法華経を唱えて現れた魚なので「ホッケ」(法華)と呼ぶようになったとの逸話もある。日持が樺太に渡ったのは永仁三年(一二九五)のこと。樺太の旧本斗町には「ヒモチ」という地名が残り、日持が書いた題目石が存在した。


日持が樺太に渡って二年後の永仁五年(一二九七)五月、津軽の安東氏の率いる樺太骨鬼(樺太先住民)の軍が大陸に攻め入り、黒竜江下流のキジ湖付近で元軍と激突。開戦当初は元軍に甚大な損害を与えたものの、最終的には敗走している。武家出身の日持がこの戦闘に加わったか否かの資料はないが、安東氏、骨鬼と行動を共にして大陸に渡ったことは間違いない。日持はその後南下し、中朝国境の白頭山を越える。白頭山山頂の天池付近には二年前まで日持が建てたとされる小さな祠が残されていた。恐らくはこの地で、元軍と高麗軍の分断を祈り、祖国安泰の祈願を執り行なったと思われる。

 

 白頭山を越えた日持はどこを目指したのか。大陸の奥深く、当時の大モンゴル帝国の首都カラコルムに辿り着いたとの説やイルハン朝ペルシアに行った、中東エルサレムを目指したなど諸説紛々。ところが昭和八年(一九三三)に中国察哈爾(チャハル)省宣化城内の立化寺に残る記録から、この寺を開山した立化祖師が日持ではないかとの説が浮上する。


 宣化の位置は現在の張家口市宣化区。当時の宣化市は昭和一〇年に支那から独立、昭和一二年には日本陸軍が後盾となり、この地に蒙古聯盟自治政府が成立。宣化に隣接する張家口には蒙古、新疆との連帯を図る蒙疆聯合委員会も置かれる。二年後の昭和一四年には蒙古・察南・晋北の三自治政府が合体し蒙古聯合自治政府へと成長、その首都が張家口となった。万里の長城を挟んで北京と隣接し、古代からの軍事的要衝だ。


 大東亜戦争開戦の翌昭和一七年に、立化寺から経文、盒、袱紗などの「日持宣化遺物」九点が発見された。これらは平成元年(一九八九年)に東大と東北大が別個に科学鑑定を行ない、一三〇〇+-三(プラスマイナス)五〇年前(平城、平安、鎌倉期)の品との結論を出した。しかし素材は古いが日持の署名、象嵌などは明らかな別物で、後世の加工品との疑いが強い。


宣化遺物が日持のものか否か。立化祖師が日持当人なのかはともかく、日持は蒙古帝国の奥深くに入り込み、法力によって祖国安寧を図ったと考えられる。大正一三年(一九二四)の元旦、愛用の尺八を手に千鳥の曲を吹きながら北京を出発し、蘭州、ウルムチ、イリを経てコンスタンチノープルへの単身旅行を成し遂げた副島次郎は、その凄絶な一人旅を『亜細亜を跨ぐ』に著しているが、この書から考えても、日持の一人旅は想像を絶するものがある。情報収集能力や洞察力などを超越した地球規模の直観的情勢把握力、いや何よりも、胆力がなければ成し遂げられるものではない。今日の政権にその胆力が著しく不足している最大の原因は、国民一人一人の胆力の不足に起因するものなのか。 (黄不動)

 

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日像菩薩の京都弘通

 

 日蓮聖人は人生の大半を関東地方で過ごされました。
 幕府は鎌倉にありましたが、それも京の都に比べると何かにつけて劣る状態であったと思われます。
 日蓮聖人は京都の人々に、法華経の教えを伝えることが大切であると考えておられたようです。

幼少の日像菩薩
 数あるお弟子方にではなく、出家前の少年にこの大役を委嘱されたのはどうしてだったのでしょうか?
 この少年が経一丸、後の日像上人その人だったのです。

 日像上人、六歳の時、日朗上人に連れられて身延の日蓮聖人の元に上がられ、日蓮聖人より経一丸の名を授かりました。
 七年後の弘安五年(1282)、日蓮聖人のご入滅に際し、日蓮聖人より京都への弘通を遺嘱されました。

 その後、名を「日像」と改め、行学に努められました。二十五歳になられた永仁元年(1293)、いよいよ京都への弘通の旅に出られました。
 日蓮聖人の歩まれた地を巡り、佐渡ヶ島から能登、越前、若狭を通られ、道すがら多数の人を教化されました。

京都での布教
 永仁二年(1294)の春、ついに京の都に入られ、都での布教活動が始まりました。
 京都で人の集まる所といいますと、大きな神社・仏閣の周辺であったと思われます。
 中でも北野天満宮は洛中随一のにぎわいであったことでしょう。
 このような人の多く集まるところで日像上人は道行く人に法を説かれました。

 当山、法華寺の門前の通りを「御前通り」と呼んでいますが、この名の由来は「北野天満宮の御前の通り」ということです。

 御前通りに面したこの法華寺の地で日像上人は辻説法をされました。
 言い伝えでは、京都での初めての説法をされたのはこの地であり、草刈り籠に腰掛けて法を説かれたとのことです。

 日像上人の門下に入られる僧俗は徐々に増え、その存在は目立ち始めたに違いありません。
 入信の多くは町衆と呼ばれる商工業に従事する人々でした。
 代表的な方に、酒屋の柳屋があります。この柳屋家は江戸時代に当山の檀家となられました。当時、他の寺から移るには「寺送り状」が必要で、この柳屋家の送り状も当山に現存しております。

大覚大僧正妙實上人との出会い
 正和二年(1313)、時に十七歳、真言宗の僧であり嵯峨大覚寺の門跡であった大覚大僧正妙實上人、当山の地で辻説法をする日像上人に出会われました。
 七日間聴聞された末、知覚・正覚・祐存などの伴の僧と共に日像上人の門に下られました。
 妙實上人が日像上人のお弟子になられたことは、歴史的にも重大な出来事であったといえましょう。

 その後も続く日像上人の布教活動の発展に対して、比叡山などの圧力がかからぬ訳がありません。
 日像上人は三度も洛外への追放処分を受けられました。しかし、かえって深草や鳥羽、久我、向日、松ヶ崎など洛外への布教も広がり、日像門下を広げることとなります。

 日像上人、五十四歳の年に、ついに朝廷より寺地を賜ることになり、ここに法華宗(日蓮宗)が公認されたのです。

 康永元年(1342)十一月八日、日像上人は「譲り状」を後継者の妙實上人に授与されて、同月十三日に七十四歳の生涯を閉じられました。

 

(我々、創価学会員は日蓮正宗にずっと騙され続けてきたのです。


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 大御本尊は第9世日有上人の造ったもの

    
    
 これは常識であったが、何故か今、知らない人が多いようなことを気付いたので記す。
    
 rsd37264氏も反論できないように贋造説を述べられておりましたが、見付かりません。
    
 ネットで「大御本尊 贋造説」と検索したら出て来ます。

    
 日蓮大聖人の晩年は紙も事欠くように貧しかったことは(紙は当時は非常に高価であった)「立正大学学報」を精読すると分かることです。

    
 大御本尊は文字には金粉が塗してありますが、そういうことは第9世日有上人の頃、京都の富裕な貴族階級出身の上人になるように大石寺に派遣された非常に若い僧侶(第何世かは忘れました)がもたらした金銭により可能になったのです。

    
 また、大石寺は、戦国時代末頃に一山丸焼けの憂き目に遭っており一度は壊滅しており、江戸時代初期に徳川家康の曾孫にあたる阿波国徳島城主蜂須賀公夫人敬台院殿日詔の経済的支援により造られたという説も強く存在します。
    
    
 日禅授与本尊と呼ばれるものは、1280年(弘安3年)59日に日興上人の高弟であった日禅に授与された本尊で、禅師本尊とも言われる。日蓮の真筆であり北山本門寺と大石寺に、同じものが保存されている。真筆が二枚存在しているのは謎!
    
    
 第9世日有上人は此を造った罪により癩病と成り、山の奥で一人寂しく死んでいったとされています。(詳細は後で書く予定)
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 このように大御本尊は日禅(日興上人の高弟子、本六の一人)授与の御本尊(北山本門寺蔵)をコピーして造ったものとデジタルアナライザーで証明されました。日禅授与の御本尊と大御本尊がデジタルアナライザーで完全に一致したからです。

 

  
    
  
「本門戒壇大御本尊」は日蓮大聖人が弘安三年(1280年)に図顕した「日禅授与之本尊」(寺伝・万年救護之本尊)を北山本門寺が公開したため、日蓮正宗の元信者である犀角独歩氏が、既に流出していた「本門戒壇本尊」の写真と「日禅授与の本尊」の写真とを縮尺補正して解析した結果、間違いなく「本門戒壇大御本尊」は日蓮図顕の「日禅授与之本尊」を元にして臨刻模造されていた事実が発覚しています。

    
犀角独歩氏がこれを証明し、本を書かれたはずです。犀角独歩氏は元日蓮正宗信徒。
    
    
犀の角のように独り歩め
    http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/cat_50019165.html

    これが犀角独歩氏のブログです。
    
    
 私は以前、「後世の贋作と言えど、多くの信者の祈りにより、大聖人の魂が宿ったとすると、本物になる」とこの宗教カテで主張した記憶があります。私のこの主張が正しいのかどうか、分かりません。とにかく大御本尊は第9世日有上人の造った、または江戸時代初期に造った贋作であることは明かです。
    
    
 急いでアップします。書き直しは後日。これより創価学会が大御本尊を認めないとしたことは正しいのです。


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1)血脈相承を受けたというなら、なぜその時点で公表しなかったのか。
2)これまでの実例では、相承するとすぐ法主になるのが宗門の慣例である。それなのになぜそうしなかったのか。
3)法主になるべき位(能化)ではなく、一段下であった日顕がなぜ法主に就任したのか。
4)なぜ相承の儀式、手続きをしなかったのか。
  
    
    
    
日蓮正宗の血脈は日達上人で終わっているのです。
    

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釈迦本仏から日蓮本仏へと劇的とも言える教学上の大変革を行った第9世日有上人の謎

 

 

 文献をいろいろ調べたが、第9世日有上人の時代に、

1)釈迦本仏から日蓮本仏へと劇的とも言える教学上の大変革が行われている。第9世日有上人以前には日蓮本仏思想は全く存在しなかった。

 

2)次代より、京都要法寺より稚児寛主を頂く契約を取り決めている。

 

3)大御本尊の偽造

 

4)御義口伝、など多数の偽書の制作

 

 本当の第4世である日郷上人により謗法に塗れた富士から離山するという歴史上、謗法に塗れた見延山より日興上人が行ったことに酷似する(見延離山)ことが起こった。

 

 これを富士離山という。しかし、文書偽造などにより、富士離山の歴史は消えている。これを歴史の偽造と呼ぶ。

 

 千葉県のお寺へ持って行かれた日蓮聖人の出世の本懐とされる弘安2年の大御本尊紙製の代わりを、今度は木製で造っている。運ぶのに大八車が必ず必要な巨大な大御本尊である(当時は大八車は無かった、大八車は江戸時代に発明された、このため身延山から富士まで運ぶことは不可能であった)。

 文字に金箔を塗布するなどの経済力を2)により得たと推測される。

 以上を大御本尊の偽造と呼ぶ。

 

 この木製の大御本尊は贋造説が昔より強くあり、明治時代には本も発刊されている。

 現代の精密な測定法により、この木製の大御本尊の制作年代は第9世日有上人の時代に完全に一致した。

 またデジタルアナライザーによりこれが日禅授与の御本尊を真似て造られたものと判明した。

 

1)という当時では狂気の沙汰と思われる大改革を何故、第9世日有上人は行ったのか?

 

 大御本尊も持って行かれ、有力な保護者も極少なくなり、ほぼ廃山同然になった富士大石寺を建て直すには、日蓮本仏という狂気の沙汰と取れる教学上の大変革で成功する可能性が出てくると第9世日有上人は考えたと推測される(他宗の仏教界は昔も今も全て釈迦本仏である、日蓮本仏論は他宗に於いても日蓮宗各派にも決して受け入れられない)。

 

 釈迦本仏から日蓮本仏へと急激な学問上の変更は当時では狂気の沙汰であった。当時は日本のどの宗教団体も頑固に釈迦本仏であった。

 

 それを敢えて行わねばならないほど当時の富士大石寺は疲弊を極めており、それほど追い込まれていたと考えざるを得ない。

 

 なお、第9世日有上人は大御本尊を捏造した罪により、賴病と成り果て、富士の山奥で一人寂しく死亡したと伝えられる。

 

(完)

 

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京都の広宣流布


京都の町民70%が日蓮宗信徒になった時代がありました。これは日蓮宗身延派が多かったようですが、富士派も多かったようです。京都とは当時唯一、読み書きの出来る人達で溢れた町、地方と異なり異文化を形成していたと言えるでしょう。

 

 日蓮聖人の弟子達、孫弟子達の多くも京都布教に旅立たれました。その図が幾つも残っています。

 

 ところが、ここに比叡山と推測される僧兵が乱入し、日蓮宗信者を皆殺しにしてしまいました。歴史の本に載っているでしょうか? 隠されてあるのでしょうか? しかし、公家は殺されなかったらしく、この乱の後も、京都は日蓮宗のお寺が再建されたりなどして日蓮宗がある程度栄えました。しかし、東寺の町民の70%の時の繁栄は戻りませんでした。

 

>現在、京都といえば各宗派の総本山が立ち並び、日蓮宗というと「あぁ、関東の仏教ね!」と言われる雰囲気ですが、一時期、京都に住む人の七割が日蓮宗の檀信徒になった時期がありました。 それは、応仁の乱のあとの室町時代です。当時の京都は戦乱や天災がたて続きに起こり、政治も不安定な時代でした。そんな時、苦しみに喘ぐ民衆を救ったの がお題目の教えでした。日蓮宗の先師はこぞって、京都での布教に励み、上は公家や大名、下は一般大衆にまで信徒を獲得していきました。特に町衆(まちしゅう)と言われる、裕福な商工業者に信徒が多く、町衆は、京都の復興の中心的な存在で、自治と団結を進め、京文化を形成していきました!現在も行われている祇園祭(日本三大祭りのひとつ)ですが、昔は法華祭りと言っていたそうで、鉾(ほこ)には大曼荼羅御本尊が掲げられていたと伝わっています。

 公家の日記にも、「京都に日蓮宗が繁昌して、毎月二ヶ寺三ヶ寺と寺院が建立され、京都の中は大方お題目であふれかえっている」とあり隆盛が見られます。往時には洛中に二十一ヶ寺の本山を擁し、「皆法華」とまで称されていました。まさに、この世に出現した仏さまのおられる浄土のような所が、京都だったのです。