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誠諫(せいかん)の書 福島源次郎

はじめに

 御書に曰く「新序に曰く『主の暴を諌めざれば忠臣に非ざるなり、死を畏れて言わざるは勇士に非ざるなり』、伝教大師云く

 『凡そ不誼に当っては則ち子以て父に争わずんばあるべからず臣以て君に争わずんばあるべからず、当に知るべし君臣・父子・師弟以て師に争わずんばあるべからず』云々」
 (頼基陳状)

 昭和五十四年四月、今思い返せば〟不思議〟なる事件により学会役職の全てを辞任して、七年が過ぎました。この間のことは、筆舌に尽くし難いものがありま すが、唯々、わが身の謗法の数々を断罪し、罪障消滅、変毒為薬を祈念し、宗門、学会の発展と広宣流布の進展を祈願して信心に励んでまいりました。そして二 度とわが信心に誤りを犯すまじと、大聖人の仏法の正しき受持を深く固く決意し、日夜御本尊様に祈りに祈って懸命に精進してまいりました。

 二十有余年前、学会本部の一員としてその門に入る時、当時の他の同志諸兄と同じく、わが一身の全ての栄誉と名利を捨て去りました。正しく信心を全うし、 広宣流布の一筋の道を歩みぬき、最高の意義と価値ある人生を生きぬきたい書細との強い願望と決意の一念からでありました。七年前、役職辞任と同時に本部職 員を退いた今日も、その一念は不変であります。誰人が何と言いましょうとも、この信念は私の生命の奥底に、今尚赫々と燃えつづけております。  
 爾来、先生を心より敬慕しつづけ、先生の広布の指揮と仏法の指導を信じぬき、実践することにかけては誰にも劣るまいと、御本尊様に誓願し、未熟ながらも戦いぬいてきた私であります。

 しかし、五十四年以来御書を拝し、歴代上人や戸田先生の御著作を学び直し、『人間革命』を再読して、わが信心を厳しく省み、且つ又、学会の推移、諸事象 を具さに如実に冷静に観ずるなかに、かのわが信念を貫くためには「学会の禄を食むべきに非ず」という結論の止むなきに至ったのであります。

 然しながら、わが人生の全てを賭けて信じてきました先生への敬慕の念は断ち難く、それとこれとの葛藤に、その後どれ程苦しみ悶えてきたことでありましょ う。余人の想像を絶するものがありました。唱題につぐ唱題の中、否定し難い現実の重なりの過程で、その葛藤を断ち切ることができました時、日本図書輸送を 退職することを決意し、そして私なりに会社への貢献と任務をやり終えたと判断された一年余後の五十八年三月二十一日(思い出の「九州の日」となった九州青 年部総会から満十年目)を期し、御承知のように退職致しました。これひとえに、わが信念にもとずく愛学護法の念による実践以外の何ものでもありません。も とより、心無き徒輩のあげつらいや無責任な中傷非難、流言は覚悟の前でありました。十日後、先生から退職了解御厚情ある書面をいただきましたことには、改 めて感謝し、御礼申しあげます。

さて、先 生は私に、「〝俺はゴマスリだ、それで何が悪い。俺は先生が好きで好きでたまらないのだ〟と一生涯言い切っていけばよいではないか。それが言えないと、お 前の行為は本当のゴマスリになってしまうぞ」(昭和五十五年九月・神奈川文化会館)と言われました。この指導は今もってよく分かりません。そ の時は先生の一方的なお話でしたので何も申せませんでしたが、私はゴマスリのごとき行為は、とても出来ない人間であります。私が「好きだ」と言う時は、本 当に好きな時です。「先生は偉大なる希有の師だ」と叫びつづけましたのは、本当にそう確信していたからであります。本質的なことにおいて、思ってもいない ことを口にしたり、誰かにおもねるために言うなどのことは、生まれつき出来ない人間なのです。故に、先生にゴマをすったことも、そう思ったこともありませ んし、その必要もございませんでした。これからもゴマをすることは致しません。但、思ったことを言えないことは何度もありましたし、言うべきことを言えず に終わったこともしばしばありました。今思い返す時、その勇気の無さが後悔されます。

 その少し前の五十五年六月、箱根研修道場において、先生と二人きりでお会いした時、いささかの勇気を振って、いずれの日にか申しあげねばならぬと存念していた意見の一部を申し述べました。この日の先生は、虚心に耳を傾け、私の言うことを聞いてくださいました。そ の先生の姿がとてもうれしく、多少耳に痛いであろうことも幾つか率直に申しました。直言、諌言も聞き入れるこの先生の大きな変化は、これからの学会の正鵠 を失わない発展への大きな光明であり、名誉会長になられて一段と境涯を開かれた姿だと、心より喜びました。そして、これからの私自身の役目の一つもここに ありと自覚し、次の機会に申しあげるべき内容もひそかに用意してありました。

 しかるに三か月後の神奈川文化会館で、箱根での発言に触れ、「私に意見する考えなど捨てよ。私のことなど誰にも分からないのだから、意見など出来っこないのだ」と、厳しく斥けられた時は、実に悲しく無念の想いに駆られたことが想い起こされます。
 されど、今再び先生に直諌を敢行させてもらいます。それは、「未曽有の上げ潮」「広布の地平が見えてきた」との先生の発言、多彩華麗な聖教の報道とは異なり、学 会の現状は、極めて低迷し、恐るべき衰退の兆しを見せ、広布の展書細望はむしろ暗雲さえはらみ、まさに仏法正義崩れんとの諸症状を呈しているからでありま す。これは決して大げさな表誠現でなく・惰性・堕落・腐敗・保身・失望・あきらめの事象が随所に見られ、目を蔽い、耳を塞ぎたくなることがしば  慣しば であります。上からでは見えぬことも、下にいるとよく見え、よく聞こえるのです。横から観ると尚分明になります。

 全国各地の純真にして真剣な良識の会員は悶々と悩んでいます。「ど うしてこんな学会に?」「何故いつまでも改善されないのか?」との想いを抑え、指導を受けてもタテマエ論や公式論の答しか得られず、故に後輩への指導も、 質問にも確信をもって明快に対応できず、さりとて他の誰かに疑念と苦悩を訴える術もなく、それでもまじめなるゆえに孜々として活動に励んでいる会員がいか に多いことでしょうか。そのような人たちの声が特にこの数年数多く寄せられてくるのです。私は、これら会員の苦悶の姿をもう これ以上黙って見過ごすことはできません。かかる無告の善良なる会員を代弁する一念を以て、自らの未熟を顧みず、蛮勇を振って誠心の万感を抱きつつこの直 諌の書を認めました。

 「身に詐りの親しみなく」の御金言のままに、必要以上の沈黙は悪と覚悟して強言を申しますことを御容赦下さい。
 先生に対するかかる言説は、これまで、前述の如く増上慢の言として排斥されてきましたが、唱題に唱題を重ね、先日総本山に参詣し、大御本尊様に誓願して まいりました上でのことです。取るに足らぬ雑言、信心未熟なる徒輩の中傷にすぎぬと、いたずらに無視、あるいは斥けることなく、いささかなりとも微衷を汲 み取らんとの寛宏、謙虚なる心で最後までお読みいただきたく心よりお願い申し上げます。

 「忠言は耳に逆い、良薬は口に苦しとは先賢の言なり。やせ病は命をきらう、倭人は諌を用いずと申すなり」(八幡宮造営事)
一、財務について

純真なる会員の学会活動において、現在最大に疑念を抱き、もっとも苦悩しているのは財務のことであります。昭和五十七年より事始まり、今年は五年目、毎年毎年何という暴挙の財務が行われ、そしてこれから何年続けるつもりなのでしょうか。

一、地区幹部は少なくとも十万円以上すべきである。そうしない幹部は個人指導せよ。

一、現在もっている預貯金全部を出すのは当たり前だ。それにどれ程上乗せするかが信心の戦だ。

一、各支部で十万円以上出す人を三十人以上作れ。

一、一口、二口しか出さない人は信心がない証拠だ。

一、支部内で百万円以上の大口を何人作るかが、支部長、婦人部長の戦いだ。

一、個人指導、家庭指導で三口以下の財務部員がいないようにする。

 こ のような指導(?)が、県・圏の幹部から公然と行われています。県(圏)で目標額が設定され、それが本部から支部に割振られ、それを目ざして支部幹部等が 悪戦苦闘するという図式は、今や大半の県でなされているようです。納金日直前になると、各組織で各人の納金額読みをして、集金額予測を行い、最後の上積作 戦を協議する姿もあちこちに展開されているようです。どこかの政党の票読みに似て何という醜状でしょうか。あるいは売上げ目標に向って社員にノルマを課 し、頑張らせている企業の営業活動とどこが違っているのでしょうか。古くからまじめに励んできた幹部が(外部の批判者ではありません)自嘲気味に、「今や創価学会株式会社だからな」とぼやいている声は、恐らく先生のところには届いていないと思います。

 〝暴挙財務〟の第一歩は、財務部員増加の啓蒙運動(五十七年度)から始まりました。土台このことからして本来の学会伝統の精神からはずれています。信心 強盛なる会員で、報恩感謝の為に是非部員にならせてほしいと志願する人の中から、生活内容、家族の信心まで配慮して厳選し、部員任命を行うというあり方こ そ学会の金銭に対する良心と良識を示すすばらしい一点でありました。それと、何が何でも百%の部員(五十七年度は七十%、遂には百%となる)を作るのとは、真向から相反する財務路線の転換です。多くのまじめな幹部は、この本部方針にまず首をかしげました。でも信心未熟な人や、夫が反対の婦人に対する啓蒙には、少なからぬ抵抗感と良心の呵責を受けつつも、やむを得ず部員にせざるをえませんでした。部員啓蒙は、ついには苦しまぎれに幼児、乳児にまでエスカレートしたところもあります。

 部員拡大に並行して、次に強く打出されたのが各人の納金額増加運動でした。十万円以上納金の財務部員に対して、先生から先生の著書が贈られたことが、こ の運動に大拍車をかけました。この時点から、これまでの北條会長時代の慎重路線、それ以前の厳格路線のあり方を納得し推進してきた幹部の新路線への抵抗 感、逡巡の刃止めがなくなり、露骨に金額増のことを口にするようになってきました。それに反比例して、本来の戸田先生以来の伝統の精神を心肝に染めてきた 人々の苦悩が本格化しました。

 折伏大行進の時も、大聖人の仏法の根本精神の上から着実な真実の折伏を展開し続けようとする良識の人々と、成果、名誉に走り、根本義より当面成果主義を重視して会員を煽り、酷使し、表面成果をあげて役職をのし上がり・権威をふりかざしてきた幹部がいました。 今度の財務拡大運動の〟暴走路線々が本部から発せられるや、この種の当面成果主義の幹部が必ず出てきます。いつの世も同じことの繰り返しです。本部・圏・ 県幹部の中にも、更には副会長の中にもかかる徒輩が跳梁してきました。彼等は当面の成果が上がり、賞賛されればよいのですから会員の苦しみ、悩みをはじめ 諸々の後害のことはムツ心頭にはありません。ある県では一本部一億円の目標まで打ち出されたということです。かつて折伏数を競い合った如く、今や、県や圏 や本部が集金総額や一世帯当り一人当りの金額を競っている実情は、異状というしかありません。

こうした幹部の名聞の取組みの中に、末端のなかには数多くの悲しむべき現象が生起してきました。先 祖伝来の田畑を全て売って財務に当てたが、親戚や子供から非難されて問題になっている人、信心反対の夫に話ができず、ついサラ金に走り返済に追われ離婚問 題を起こした婦人、「福運がつくのだから貯金がなくても大丈夫」と指導され、老後の生活資金全てを出した老人、長年かかって蓄えた家の建設資金を出してマ イホームを断念した人、家族の保険金全てを解約して出した人等々、枚挙にいとまありません。まさしく封建支配者の苛斂誅求にも匹敵する集金行為ではありま せんか。現に私自身、大学同窓会で学会財務関連の二事件を担当している友人の弁護士から、「いったい創価学会はどんな金の集め方をしているのか。あまりアコギなことは止めてくれよ、善良なる市民が泣いているぞ」と詰問され、無念やる方なき思いを致しましたのは昨年秋のことです。

 そもそも財務に金額の多少を云々し始めたこと自体大いなる誤りであります。多額納金者が宣揚され、あるいは表彰され、あたかも少額者より信心強盛かのよ うに遇される——そのような現実は戸田先生の御指導や『人間革命』に描かれている学会とは異質の姿であります。かつて学会は邪宗折伏を徹底的に行いまし た。その最大攻撃点の一つが、彼等のあくどい集金の仕方でありました。このことはよもやお忘れではないと思います。私も聖教記者として、折伏特集号の取材 に邪宗の中に入り込み、その集金実態を書き綴って邪宗の恐しさを訴えてもまいりました。

 邪宗は金を集める時に必ずこう言います。

 「利益(功徳)を受けたかったら布施(供養)をしなさい」

 「多く出す程、利益は大きい」

 「少いから幸せになれない、いつまでも不幸だ」

 これが邪宗集金法の共通セリフです。その金集めの悪どさ、しつこさ、貪欲さが邪宗の邪宗たる所以の現証、実態でした。わが日蓮正宗創価学会は、いかなる 時もこれを決して言いませんでした。あくまでも信心から発する真心であり、報恩感謝の一念であり、金額の多少よりも信心の厚薄が問題であると、常に強調さ れてきました。学会員は、邪宗とはっきり画す一線があることに誇りを持ち、確信を抱き、実にすっきりと財務に参じてきました。
 
しかるに今、かつて学会が攻撃破折してきた彼の邪宗と同じセリフが学会幹部の口から堂々と吐かれているのです。

 「財務にしっかり頑張らないと福運が消えますよ」

 「宿命転換をしたがったら、ここで財務にうんと頑張るのよ」

 「財務に精一杯頑張って、福運をつけ幸せになりましょう」

 「今、財務に頑張る人が時に適う信心であり、大功労者であり、大福運をつけます」

 「財務にケチケチしているからいつまでも生活が苦しいのだ、ここで思い切って財務の口数をふやし、貧乏と別れるのだ」

 はては罰論まで動員されて財務推進がなされています。これらの指導と、かの邪宗のセリフとどこがどう違うというのでしょう。内容において全く同じと言わざるを得ません。 申しあげるまでもなく、仏法における供養は果報を求めて行うものでなく、信心の故に供養をなし、その果報として功徳を受けるのであり、且つそこには金額の多少は問題にせず、信心の一念そのものこそが大事であるとされています。供養とは厳密に区別されるべきですが、財務においてもその精神は同じとされてきました。故に、まじめな会員、信心純粋にして強盛な会員程悩み苦しまざるを得ないのです。幹部に至っては、強く打ち出される指示や指導に大きな矛盾を感じながら下に言わねばならぬ罪悪感にさいなまれているのです。しかもそれが広宣流布のためにという大義名分を立てているだけに救い難い圧力感となっているのです。

このような疑念と信心の呵責のなかに行われる財務、組織の目標額を達成するために無理矢理額を増やさせていく財務、幹部だからと見栄や立場を慮って行う財 務、功徳や福運がほしくてがんばる財務——このような信心が薄弱な、濁った一念の財務にどのような功徳が生ずるというのでしょうか。会員の清らかな信心の 一念で行う浄財の財務である故に福運を増し、更には宿命転換にも結果する本来そのような財務であるべきを、金 額の拡大の為に邪宗と違わぬ破仏法の財務へと善良なる会員を駆り立てる、しかも一回で止まらず二回、三回、そして今年は五回目。いつも「去年より更にがん ばろう」と首脳幹部は叫んできました。これは一部の地域ではありません。一部の地域の、一部の幹部の例外ケースという弁解は、最早通用しえない程の全国的 規模までエスカレートしています。当初は良心的に堅実路線をとっていた県・圏も、何らかの圧力がかかったのでしょうか、〝指導〟がなされたのでしょうか、あるいは周りの過熱ぶりにやらざるをえなくなったのでしょうか、暴走路線に次々と移行していく姿は悲しい限りです。このような暴挙の財務を推進している最高責任者はいったい誰なのでしょうか。

 昨年から、さすがに「無理をしてはいけない」と指導を付け加えているようですが、申訳程度で、強く叫び訴えているものではないようです。狙いが金額拡大 にある限り、それは空しく聞え責任回避の言としか響いていません。もし本当に無理をさせたくないのなら、かんたんなことです。今の路線を中止するか、根本 的に改めればよいのです。

 もとより広宣流布には多額の資金が必要であることを認めるに吝かではありません。総本山外護、二百箇寺寄進のこともありましょう。会館建設もありましょう(これについては多くの厳しい問題点がありますが、ここでは触れません)。しかし、の どから手の出るような必要資金であっても、学会が行う財務は、仏法を破り、各人の信心をこわし、福運を奪うやり方であっては断じていけません。いくら動 機、目的が善であっても、そのやり方が、そしてその結果が、仏法に照らして正しくなければ広宣流布の活動とは言えないのであります。そ の財務の為に家庭不和が生じたり、各人の生活が窮乏化したり、裁判事件が発生したりしては、何の財務でありましょうか。かかる例が、たとえ一つたりとも絶 対にあってはならぬと覚悟して本部は取り組むべきではないのですか。学会の「蔵の財」のために会員の「心の財」をこわしていくような今の財務は、明らかに 仏法に違背しております。

 『窪尼御前御返事』に曰く

 「善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず」

 「……ものをころし、ぬすみ(盗)をして、そのはつを(初穂)をとりて功徳善根をして候へどもかへりて悪となる」

 「須達長者と申せし人は月氏第一の長者、ぎをん(祇園)精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども、彼の寺焼けてあとなし。この長者、もといを(魚) をころしてあきな(商)へて長者となりしゅへに、この寺つみにうせにき。今の人々の善根も又かくのごとく、大なるやうなれどもあるいはいくさ(戦)をして 所領を給、或はゆへなく民をわづらわしてたから(財)をもうけて善根をなす。此等は大なる仏事とみゆれども、仏にもならざる上、其の人人あと(跡)もなく なる事なり」

この大聖人の御指南をどのように拝されますか。この御金言を拝する時、私もかつて学会初めての特別財務を先生の指示で九州が行った際、慎重にと心掛けたにも拘らず行き過ぎの事例が生じ、当時の最高責任者として忸怩たるものがございます。申訳ない限りであります。

 「戸田は金銭については、あらゆる不純を拒否して異状なまでの潔癖な姿勢を堅持した。とはいえ現代の社会においては資金なくしてどんな崇高な活動も成立 しないのは事実だ。そのための必要経費は、会員の真心の自由意思に任せ、そのつど浄財を募ることによって賄えばよいというのが戸田の信念であった」(『人 間革命』第六巻「離陸」)

 やり方は時代と共に変化はあろうとも、この基本精神は断じて変えてはならぬと思います。昨今の学会の財務は、この戸田先生以来、営々と築き上げてきた清 浄な、信心溢れる、そして会員がすっきりと納得し、誇りに満ちて参加する財務に、何とほど遠くかけ離れてしまったことでしょう。のみならず、かつて厳しく 攻撃した邪宗にも劣らぬ金額至上主義の誘法的財務に堕してしまいました。多くの純真なる会員を苦しませ、悩ませ、福運を消させ、学会伝統の清浄さを汚して しまいました。

 邪宗に対する破邪顕正の剣を折り、彼等から同類扱いされかねない愚行、邪行に陥っているのです。しかもこのことは天下周知の事実と普き、もはや覆いかくす術もありません。「宗教による集金では、日本有史以来最大の強引さと最大の規模だ」とマスコミに言わしめるこの為体一これをどうして嘆かずにいられましょうか。憤らざるをえましょうか。このような財務にしてしまった最高責任者はいったい誰なのでありましょうか。総本山開創七百年記念慶祝の諸計画を伺うにつけ、宗門そして御法主上人が、このような醜状をお知りになられたら、いかにお悲しみになられることでありましょう。いかに御宸襟をお悩ましになられることでしょう。

 先生、百の大義名分をかざして弁明しようとも、仏法も世法も共に許されない状況に立ち至っているという現実を、目をそらすことなく直視され、自らの由々 しき責任を感じとり下さい(このような状態をお知りにならないとすれば、それ自体先生のかねての指導にある如く、指導者として失格といわれねばなりませ ん)。先 生の指示で行われ、先生の手により推進され、その成功(?)を自賛もされたという周知の事実を否定されたり、他の首脳に責任転嫁なさるような振舞をなさる ことなく、毅然と受けて立たれるようお願いするのみです(もし、先生書以外の首脳の指示でしたら、かかる暴挙は立ちどころに強烈な批判を浴び、反対され て、とうに中止されたことでしょう。先生の指示、支持、激助推進なればこそ無理と思われることも、おかしいと考えられることも容認され、強行された実態をよくよく銘記なさるべきです)。

 「覆水盆に返らず」まことに辛く悲しいことでありますが、かかる状態に導いてしまった責任を、先生自らの信心で潔くおとりになる以外にないと申しあげざるをえません。そしてこれ以上の誤りを為さらぬよう心よりお願い致すのみであります。

 尚、「会員の幸せを願い、守る」という先生の発言が真実ならば、本年の財務は断固として中止すべきであります。最悪、実行するとすれば五十年以前の厳正 路線に戻し、清浄にして公明なる信心根本の財務に立ち直した上で行うべきでありましょう。その正々堂々たる展開の結果、真心の浄財の額が如何であっても、 それが御仏意であると受け止める——それでよいのではありませんか。又、 財務のみならず、次から次へと組織販売される書籍、グラフ、パンフレット等々、活動会員の毎月の財務負担は目に余るものがあります。学会に入ると金がかか るという現実は論外のことで、早急に是正すべきです。純真なる会員を〝市場〟として安易に利用している企業的発想は絶対に許されないことです。「学 会は企業ではない。彼等(邪宗)とは目的が根本的に違うのだ。広宣流布の途上、人のため、社会を救うために是非とも必要となれば、建物はいくらでも同志の 真心の結晶として出来ていくだろう。また広布に是非とも必要なものなら、御本尊様が下さらないはずはない。建物より信心だよ、尊いのは」(『人間革命』第 二巻「車軸」)この戸田先生の言葉を今更めて心肝に染めていくべきであります。

 

二、自己宣揚について

昭和四十二年十月三十日、クーデンホーフ・カレルギー伯と会われた際、次のような対話があったことを私たちは聞きました。

力伯「池田会長がなされている平和運動はすばらしいことです。いつの日か、きっとノーベル平和賞を貰うことでしょう」

先生「私はそのような栄誉はほしくもありません。無関係な人間です。又、下さるといっても受けることもありません。世界にそのような人間が一人くらいいてもよいでしょう」

 このことを聞いた時に、言い知れぬ感動に襲われました。胸が熱くなり、このように、唯、民衆の平和、幸福の為にのみ戦う指導者のもとで共戦できることはなんとすばらしいことであろうかと、身の福運をかみしめ、先生への敬愛の念がより一層強まりました。

機会あるごとに当時の青年部の後輩にも伝えました。聞きました人は一様に感激しました。 「名 聞名利を排せよ」と先生はよく指導してこられました。最近もそう指導していられます。私たちは、先生ほど名書綱開名利に無縁の人はいない、名聞名利の念な ど微塵もない方だと信じぬき、私たちもその門下として、わが一念から名誠聞名利をたたき出そうと決意し、努力してまいりました。

 昭和五十八年八月八日の聖教新聞を見た私は、我が目を疑いました。先生が国連平和賞を授与されたと大きく報道しているではありませんか。まさかと思いました。そんなバカなことがあるはずがないと思いました。しかし事実です。そのときの衝撃、その時の情けなさ——先生、お分りいただけるでしょうか。そして五十九年三月一日のペルー太陽大十字勲章。いったいどういうことなのでしょう。会員が喜び、自信をもつから、学会の存在価値を世間が認めるようになるため等、いろいろの理由を考えてみました。

そのいずれも、逆効果の側面もあり、先生がかかる栄誉を受ける本質的理由とはどうしてもなりえません。仏法の指導者、広宣流布の最高指導者と自認する先生が、かかる栄誉を受けることは、一体どのように解釈すればよいのでしょうか。

 「私には名誉も称讃もいらない」と言い切ってこられた先生が、いともあっさりと名誉を受け、且つそのことを機関紙で大きく報道したのです。受賞をすばら しいことと喜び、栄誉をうれしいと感じている意思表示をしているのです。心ある会員たちと、このことについて語り合ってみましたが、皆等しく疑問を抱き、 悲しんでおりました。

 ノーベル平和賞であろうと、国連平和賞であろうと、所詮、世俗世界の名誉の領域のものです。宗教者がその栄誉を受けるということは、その権威に屈するこ とを意味します。いわんや宗教界の王者としての誇りと襟度を有する日蓮正宗・創価学会の最高指導者が、いかなる理由があったにせよ世俗の栄誉を受けたとい うことは、仏法が世俗の権威に屈し媚びている姿であり、信仰の堕落を意味するのではありませんか。まさしく法を下げたのです。

 大聖人の仏法の弘教広布の最高指導者の強い自覚があるのであれば、百万の理由があっても、毅然として受けないでしょう。「そのような栄誉は受けない。世 界にそんな人間が一人いる」と明言されたからには、尚更絶対に受賞してはならないのです。それが節操というのではないのですか。数多くの青年に「名聞名利を追うのは信心の堕落である」と指導してきたその本人が、まさに名聞栄誉そのものの〝賞〟を易々と受け更には各地に展示して会員はおろか外部の人にまで披露している——これ言行不一致以外の何物でもありません。

青年訓に日く、

 「愚人にほむらるるは智者の恥辱なり、大聖にほむらるるは一生の名誉なり」

 ほめられるのは日蓮大聖人唯お一人からだけでよい—— これこそ学会精神の骨髄なのではありませんか。この恩師の教えに違背してまで受賞せねばならぬ、我々の計り知れぬ重大なる深甚の理由があったのでありま しょうか。時が変わり、移ろうとも、変えてはならぬ原則・主義があります。この恩師の訴えは、特に学会首脳にとっては、かかるものと、私は受け止めており ます。これを安易に変え、時の都合に合致させるはまさに破廉恥の人といわざるを得ません。

 又、このような受賞により学会の真実、偉大さを世人に理解させることができる——こうお考えでしたら、それは見当違いも甚だしいと指摘するしかございません。知識不足で批判力乏しい人や先生のことなら何でもすばらしいとするファンなら単純に喜んだり感心したりしてくれるでしょうが、心ある人はまず逆の評価しか致しません。

 友人のある官僚が、「国連平和賞を貰うなんて、池田大作という人も案外その程度の人物だったのだな。せいぜい笹川良一並みの人間でしかないね。君には悪いけど見損っていたよ」と酷評した時の口惜しさ、彼には先生のことを何度も語り、宣揚していただけに私の胸をえぐりました。この種の批評はその後何人からも聞きました。

 現在、霞ヶ関筋では、「学会は国連に相当の金を積んで平和賞受賞の工作をした」あるいは「ノーベル平和賞を貰えるように、あちこちに打診や働きかけをしているようだ」ということがささやかれています。

 仏法をきづつける乞食の如きかかる行為は、よもや行ってはいないと思いますが、事実でないことを今は願うのみです。

 先生の平和行動展——これも又同様です。地方や、ごく庶民レベルの人々においては何がしかの効果が期待されるのでしょうが、心ある人々においては個人宣揚のイベント、あるいはデモンストレーションとしか捉えませんし、学会ひいては先生への軽侮効果しかもたらしません。お世辞の〝好評〟をそのまま鵜呑みにするくらい、判断力がなくなってしまったのでしょうか。どうしてこの程度のことが分からないのか、私には不思議でなりません。

 学会総体が粘り強く展開している草の根次元での各種各様の平和への運動を主にし、その一隅につつましく先生の活動が展示されるのであれば、まだしも納得されるでしょう。しかるに、先 生だけが各国元首や著名人と会ったり歓待されたりしている写真だけの展示を、どのような人が感銘をもって見るのでしょう。普通の常識人なら、ひとまずの珍 しさに感心はしても、その意図があまりに見え過ぎて嫌悪感を抱くのが当たり前と思うのです。最高指導者の宣揚が組織総体の宣揚になるという神話はすでに崩 れ去っていることを正しく認識すべきです。この平和行動展については、学会員の中にもかなり批判が多く、しかも外部の人の動員目標を与えられ、皆辟易しています。

 先 生撮影の写真展においては尚更のこと、このような先生宣揚の意図ありありのイベントが、広宣流布の名のもとに、厳密な検討・分析もなされぬままに、多額の 経費と労力を使ってしきりに企画され、開催されるのは何故なのでしょうか。根本的には、このような自己宣揚のイベントを、どのような理由にせよ容認し、む しろ促進させているという仏法指導者としての基本姿勢にこそ大きい問題があるといわねばなりません。東京サンシャインビルでの平和行動展が、表面の動員数はともかく、その実態において失敗に終り、隣接の世界教科書展の方がむしろ人気があったというのは当然のことであり、会員の多くが事前から予測していた通りになったまでのことです。

 又、池田講堂、池田文化会館、池田青年塾——こうした「池田」を冠した建物がいくつも出来ております。確か既存の九州記念会館が池田平和記念館に改称されたのが初まりと思います。今やその数三十になろうとし、更に計画中のものもあると聞き及んでおります。 会員の強い要望で命名されたということになっていますが、中には先生自らが「ここに池田講堂を作ってあげよう」と建設を推進したものもあります。令法久住 のため会長の名を後世に残し伝統を作っていく—— このようなお考えを以前から先生が持たれていたことはよく存じております。

十年程前、先生も視察されたことのある九州太宰府の一万坪の土地を購入し、五千人収容の大講堂を建設する計画があった際、「私が君の立場だったら『是非とも先生の入信三十周年を記念して、池田講堂と命名してほしい』と願い出るのだがな」と先生に言われ(五十一年十一月関西にて)、弟子としての未熟を心より恥じて、九州池田講堂の建設を推進したことがありました(この計画は途中で中止)。しかし今このことを思い返せば、逆に慚愧に堪えないことでありました。

 世間の常識では、建物等の物件に人名を冠した名称をつけるのは、その人物の全額寄付によって出来たものを除いて、まず本人の生存中はありえないことです。逝去後にその人物の遺徳を偲び称えて有縁の人々が命名するものです(例外的に完全引退、隠棲の場合は生存中もある)。いわんや本人自らが生存中に、自らの名を冠して命名するなど、全くあり得ないことです。もしあるとすれば、歴史が語るごとく、自己宣揚の異常欲望にかられた独裁権力者のみが能く為しうるところであります。

かなりの権力者であっても周囲への遠慮か反対かなどで、その分を越えておりません。この世間の常識は、学会の中においても当然尊重されるべきでありましょう。かりに前述のごとく、会員の切なる要望、伝統作り、その他の然るべき理由が先生の側にあったとしましても、先生自らが陣頭の指揮権、決裁権を発動している真只中で、自らの名を冠する建物を次々と作っていることが何を意味するのか、自明のことではないでしょうか。

今、先生が命名なさるとすれば、牧口先生、戸田先生の名を冠することであり、もしくわ北條前会長を冠することであります。

 故北條会長程先生に忠誠を尽くした方を私は知りません。裏も表もなく、誠実に先生の弟子として生きぬき、泥をかぶっても先生を守りぬこうと戦いぬいた生涯でした。その功罪は別にしましても、あの人格、人がらは群を抜き、今尚私は尊敬してやみません。

その北條会長を偲び、記念する会館がせめて一つくらいあっても不思議ではありませんし、当然のこととして多くの会員も喜び望むところでした。先生のことだ からきっとそうなさるに違いないと期待もしていました。ところが、一周忌を過ぎ、三回忌が過ぎてもそれは実現せず今日に至っております。今からではもう遅 すぎます。

それもなさらず、牧口先生、戸田先生を冠する建物も昭和五十年前後数件に止まり、今は全て冠「池田」の建物ばかりです。世間の常識からすれば、かかることは自分の権威を誇示し、自らの名を後世に残そうとする異常なる自己宣揚行為と見なされても止むを得ません。

そう批判されても、それをためにする無認識の中傷・誹謗と反撃できる根拠はもはや無いことを認めざるを得ないのです。

学会内においても、先生のなさることは一切善とする盲目的追従者や阿諛の側近ならいざ知らず、仏法正義を愛し良識に生きる心ある多数の会員は、おかしいと 疑念を抱き、まずいなと批判しています。口には出さねど、このような先生の振舞を憂える多くの善良なる会員がいることを正視眼で見定めていただきたいので あります。かかる類の仕事は、先生が仏法指導者として尊く生涯を全うされた暁に遺弟が為すべきものであり、自ら手がけるべきものではない。せめてその程度の社会常識に立っていただきたいと願うのは私一人だけではないことをお分り下さい。

 最後に『人間革命』第十巻に触れておきたいと思います。

 『人間革命』は、私自身、学会の師弟の道の唯一の指南書として何度も熟読し、実践の最大の糧としてまいりましたし、多くの会員にそのことを訴えてもきま した。それ故に批判も非難もされ、お叱りも受けた因縁ある書であり、今改めてこの書について語るべき多くのことがございますが、ここでは一点のみを述べる に止めます。

 『人間革命』の執筆の動機は、〝戸田先生への報恩の誠〟でありました(三十九年四月一日の先生の言葉)。故に師の「妙悟空」に対し、弟子として「法悟 空」とのペンネームを使うとも言われました。そして執筆の目的は、「ただ一つ、戸田城聖先生の歩まれた道とその指導理念とを何とか誤りなく後世に残したい 一念のためである。そのほかに他意はない」(第二巻あとがき)というのでありました。

 著者が右の如き動機と目的で法悟空という一念と立場を貫かれるのでしたら、あくまで主人公は戸田先生一人であり、山本伸一は可能な限り抑え、かくれるべきであったと、今全巻通読してみて考えるのであります。

 この書の主人公は言うまでもなく戸田先生であります。しかし実際には、明らかに戸田先生と山本伸一の二人の主人公が存在し、師の戸田先生の偉大さと共に弟子の山本伸一もいかに偉大なる存在であったかが一貫して描かれております。山本伸一の登場は第二巻に始まり、次第にそのウエイトは大きくなっていきます。

かりに事実がそうであったとして、且つそのことを描く必要があるということを認めるとしましても、第十巻における山本伸一のウエイトの大きさは異状なくら いです。この巻では、法悟空という著者はほとんど姿を消し、替って山本伸一の礼賛者か信奉者が著者となって書き進めているかのような思いのする内容となっ ております。

 戸田先生への言及、配慮は一往なされてはいますが、山本伸一の存在に対すればはるかに影が薄く、山本伸一の偉大さが戸田先生を超えて大きくクローズアップされていることは一読了然のことでしょう。

この巻では、まぎれもなく山本伸一が主役で、戸田先生は脇役として後退しております。昭和三十一年の関西を描くのに、果たして十巻のほとんどを費し、ここ までしなければならなかったのであろうか、執筆の原点に照らして私は今、疑問に思えてならないので書翻す.山本伸一にどうしても触れねばならぬのなら、楚 目に望、淡々と、最小限度に描くべきでありましょう。少なくとも著者の法悟空が山本伸一であるという分際を厳格に保ちつつ、誰しもが許容し得る限度内で描 かねばならないのではないでしょうか。

即ち、執筆の原点を自ら語り記したごとく、それを貫いて法悟空の一念に徹すべきであったのです。巻を重ねる程にこの原点の一念が次第に後退し、「他意はない」と言った〝他意〟が強くなっていくということはどうしてでしょう。人間はやはり己れを語るのに謙虚でなくてはならぬと思います。仏法指導者であれば尚更のことです。山本伸一については次世代の.法悟空〟の語るのに任せる一これが本来のあるべき姿勢だと思いますが、いかがでしょうか。

 結論するに、この『人間革命』は恩師のことを語りながらも、それを通して弟子である著者自身の偉大さをも語り残そうという意図が至るところに顕われ、それがこの書の欠陥、限界となっているということは否定できないようです。

 今、冷静に観察しますに、自らの偉大さを語るということは『人間革命』の中ばかりではなく、先生の数多くの言動に見えているのであります。それは凡愚の門下に教え訓ずという慈愛の一念とは異る、私たちを畏敬させ、随順させようとするかの如き一念の様相と響きをもっています。今まで先生を無謬の師と仰ぎ、その指導を無条件で信受してきましたゆえに、かかる先生の一面を、不肖、これまでの私が気がつかなかったことなのでありましょう。

人間には誰しも誇りたい、宣揚したい、尊敬されたいという欲念があることも否定できませんし、人それぞれに容認される範域が確かにございます。しかるに先生の場合は、これまでの幾つかの例で示しましたように、その行為が度を過ぎて大きいということ、 それ故に、仏法体現者、仏法指導者と自他共に認めるその人物が、何故ここまで自らを宣揚していくのであろうかという素朴な疑念を生ぜしめ、引いては仏法の 人間形成・変革に及ぼす影響力を強く世の人々に疑わしめる存在になってしまっていることを指摘するのは、まことに忍び難いものがあります。

 その典型として、人間革命とはいったい何なのかという疑念を、『人間革命』の著者として『人間革命』の中で、はしなくも描き示した(自己宣揚の実例を)というのは、何という悲しいことでしょうか。

 あるマスコミに従事している友人が語るには

 「日本における自己宣伝の最たる人物は、政治家を除けば、一に池田大作、二に笹川良一というのが業界の通念だね」これに対し、反論しようもない現実が余りに情けなく、ホゾを噛む思いでした。

 このような壮大なる量と質の自己宣揚の現実の前には、広宣流布のためとか、学会を守るためとか、会員に自信を与えるためとかの名分や弁明は一切通用しない状況になっていることを(少なくとも心ある会員や外部の人には)、しっかり認識すべきです。そして、仏法指導者として自己宣揚の姿勢そのものが基本的に誤りであり、そのことによりどれほど仏法を汚し、世人に学会を軽侮させていったかを強く深く反省なさるべきであります。

 

三、独善、慢について

一つの象徴的事例を述べます。

 今年の新年勤行会は、参加者が四百万人を超えました。これに関して「大成功だった、これで邪宗参りを減らすことができたのだ」という趣旨の先生のコメントが組織に流されました。しかし本当にそうだったのでしょうか。

四百万という報告数字がどのように作られたものか、結集目標を与えられた現場ではその達成のためにどのような人数集めをし、やり繰りをし、数字合わせをしたのか一支部幹部以上の幹部は一番よく知っています。このことは、全国まず例外ないといってよいくらい、ほとんど同じことをやったと見て差支えないでしょう。

四百万人という数字はそのようなゴマカシをやらない限り、今の学会では結集不可能な数字だからです。 先生のコメントを聞き、一番バカバカしく思ったのは、口にこそ出しませんが(口にした人も数多くいます)、その愚行を下らないと思いつつも、止むを得ず実 行さ誠せられた当の幹部たちではなかったでしょうか。その上、そう思いつつも下に流さざるをえないのですから、まさに茶番劇です。一九五〇年代末の中国に おいて、まじめな統計を提出したものが叱られるので、止むを得ず上が望む数字を作り上げて提出していた〟大躍進〟時代の嘘統計、これが全国に亘り、これに よりその後の中国の正常な発展がどれ程阻害されたか計り知れないものがあると、数年前学者たちが告発していました。

あるいはベトナム戦争当時、敵側兵力を過少報告し、ワシントンの判断を誤らせていたとされる司令官ウエストモーランド将軍(これについては五十七年一月の朝日新聞がコ将ごまかして万骨枯る」と報道)の裁判事件は、私たちの記憶に新しいところです。

 そして『人間革命』第五巻、朝鮮動乱での前線と後方との情勢分析の食い違いを鋭く解明・記述した「戦争と講和」の章を想い起こさせます。

 「……権威をもつ人が、その部署で権力のとりこになってしまい、全体観に立てず、相手の人の心を読み違え、遠い未来の展望の上に立っての決断をあやまる時、どれ程不幸な作用と悪循環を繰り返していくことになるか……

 「戦況報道のおどろくべき虚偽は、かつての大本営発表だけではないようである。もしも正確な報道がなされていたら、朝鮮戦争の場合もずっと早く和平の時機が来たにちがいない……〝正確な報告〟〝正確な報道〟——これこそ新時代の平和建設のバロメーターである。いかなる団体や組織にあっても、正確な情報が流れないところは、いつか人々の信用を失い、やがてその進展も止ってしまう」(「戦争と講和」より)

 恐しいくらいに今の学会の姿を表現しています。先生が立っている状況を説いております。すでに述べました財務、平和行動展をはじめ先生の独り善がりと見なされる実態は数多くみられます。例えば、副会長の大量人事——これがどういう意義と価値効果をもつものか、これ程理解に苦しむ人事も珍しいのではないでしょうか。

何か先生のみが知る深い意義が他にあるのでしょうか。学会の内外を問わず、表面はともかく副会長への権威は地に落ちています。インフレーションのための貨幣増発により更に貨幣価値の下落をもたらす姿に等しい有様です。

 又、SGI文化賞、桂冠賞、白百合賞、紅賞、栄冠賞等の大量表彰数年前の班長、班担に至る総ざらい表彰をはじめ、ここまで無原則にエスカレートする と、表彰それ自体の意味が失われ、初めは貰って喜んでいた人たちが次第にしらけたり、周りも関心や尊敬も払わなくなるという逆効果さえ生じております。長期にわたり権力の座にあった人がその権力の維持・延命のため末期の段階で必ず行う方策が、側近首脳の大量任命人事、もしくは大量表彰・叙勲であり、それが行われると終焉に近いといわれています。

学会がそうでないことを切に祈るのみであります。と同時に、以上の数例で自らが極めて重症の独善の弊に陥っていることにお気付きいただきたいと存じます。

 会長就任以来、数々の偉業を成し遂げ、推進し、内外から称賛と尊敬を受けてこられた先生が、反面、普通の人には考えられないくらいの、一利あれど百害連 なる如き愚行を、平然とというより善いと信じてやっていられる姿を見るとき、長い間組織の頂点にあった人たちの誰もが犯す過ちを、先生も又同じく犯してい ることが現実となり、無念でなりません。長い間私たちは、先生だけは世上多くの教訓が示すこのような誤りや過ちとは無縁の例外的存在、不世出の指導者と固 く信じてまいりましたからです。

 「私 のことを分ろうと思うな。決して分りっこないのだから、私を観察したり、分析したりすることはやめなさい」と厳しく言われたことは、二度や三度ではござい ません。四十五、六年頃、「聖教編集の職員は私を横から見ている(注・客観視)。私に対する時はそのようなことをやめなさい」と、よく指摘しておられまし た。

 当時、側 近の一人として先生に仕える身の私は、その指導のままに先生のなさることは本質的に決して誤りはないと信じ、いかに先生と呼吸を合わせ、先生の一念と合致 できるかが我が想の戦いだと、ひたすらにそれを祈りつづけ、誠努力してまいりました。先輩たちに教わるままに先生こそ仏法広宣に出現した不世出の指導者で あり、希有の師であ録5付り、不思議な方と仰ぎ、信じて疑うことを知りませんでした。

 さりとて巷間でよく言われたように、先生を日蓮大聖人の再誕とは、唯の一度も考えたことはありません。その考えは、末法において御出世の本懐を明確に遂 げられた御本仏大聖人への冒涜であり、大御本尊様を否定する大謗法なること瞭然であり、且つ、文理現の三証の上から大聖人の再誕では絶対にあり得ないから です(困ったことに、〝内証〟の問題として先生が大聖人の再誕であると信じ込んでいる人々が最高首脳のなかにも、各地の首脳幹部の中にも今尚存在している ようですが、由々しきことです。私もそれが分り次第、その誤りを厳しく指摘したことが何度もありますが、憂うべき謗法の根が残っていることに留意すべきで あります)。


とはいえ、「不思議な方」「希有の師」また「師への帰命」という表現が先生への崇拝を助長したことは否定できませんし、今尚深く反省し、その責任を痛感し、自らを断罪しております。

 と もあれ、先生のいわれることをそのまま正しいと受け止め、実践していくのが弟子の道である。かりに先生の言動で納得できないところがあっても、それは先生 の高く深い境涯と智恵からのものであり、我々凡愚の次元では分らないのであるから、その通りに受けていくのが信心のあり方だ一こう先輩から教わり、自らも 実践し、又後輩にも教えてまいりました。

 更に前述の如く、先生自らも「私に意見することなど愚かなことだ。私のことなど誰も分らないのだから、意見など出来るわけはない」、あるいは「私に意見して私を動かそうと考えることなどおこがましい増上慢だ」と、意見具申をしばしば斥けられたり、又人の面前で具申した人を叱責されたことも再三ありました。特に、意見具申の中に先生個人への批判が入っている時は、その批判の一念を厳しく叱咤されました。

 こ うしたことどもが合い重って、先生の言動に対する絶対容認の雰囲気・思想・通念が会内、特に本部の中に醸成されていました。諌言はおろか、意見さえ悼から れ、余程の事情と、余程本人に勇気がない限りは至難のことでありました。今にして思うに、実はここに大きい問題点があったわけです。先生は、数多くの勝れた資質・力を具えていられます。しかし、いかに優れた人間でも、人間である限り必ず欠点があるという平凡にして基本原則が、やはり先生にも適用されるべきであったのです。

先生においても例外ではいけなかったのです。そしてそれが又、仏法の説く原理でもあったわけです。欠点があるが故に誤りもあり、過ちも犯すことも又当然のことであったのです。

 昭和五十五年六月の箱根での対話の折り、先生が「私は本当のことを知りたいのだ。だが本当のことが私の耳に入らなくなってしまった」とおっしゃいましたので、

「それは先生の方にも大きな問題があるからだと、

他の人の面前で、言った人のことをとやかく言ったり証言させたりしない

話をじっくり最後まで聞き、総合判断をして早とちりをしない

拙い未熟な意見や報告でもひとたびは受け、叱ったり批判したりしない、要は安心して意見や報告ができる先生になれば、本当のことが耳に入るようになります(取意)」 と申しあげたのも、又「このままでは毛沢東(革命の英雄も晩年の数々の失敗、誤りが指摘され、晩節を汚した)のようになりかねません。(先生〝「今からな ら間に合うか」)間に合います。でも今がタイムリミットです」等々、敢えて申しあげたのもこれまでの批判・意見.諌言拒否の姿勢を先生自ら反省されたすば らしい姿と心より喜び、独善の誤りを防いでいただきたいと心から願ってのことでありました。

 ご存知のことと思いますが、『貞観政要』という外典の書がございます。佐渡御流罪中の大聖人様がわざわざ取り寄せられ、門下へのお便りに用いられたくら いの書であります。唐第二代皇帝の太宗は、後世「貞観の治」とほめはやされた善政を行いました名君中の名君であります。この名君と臣下の問答集であるこの 書が、古来、帝王学の最高テキストとされている理由が、昭和五十三年末にこの書に接してみてよく理解され、襟を正す思いでした。大聖人様が重用された意味 もいささかなりとも分る思いでした。

太宗は、父の高祖と共に唐王朝の創業に比類なき力を発揮した名将でありましたが、自らを「無謬の人でない」ことを熟知しておりました。時代が創業より守成に移る程に更に自覚を強め、283自らの側近に諌義大夫という役職さえ置き、常に諌言させたのでした。

人間は権力や権限を持つと、それがどんな小さなものであっても、その範囲において奇妙な「全能感」を持つもののようです。

その権力・権限が大きくなるにつれ、その「全能感」も無限に拡大されて、更にはその「全能感」に酔い、自分自身を特別の人間と思い込んでしまう時、本人及びその周囲、その影響下にある人々の悲劇は次第に惨たるものになっていきます。『生命を語る』で指摘する「権力の魔性」というべきものでしょう。こうした人間の弱点・無明に翻弄され、晩節を全うできなかったのがヒットラーであり、ナポレオンであり、秀吉等の特大の権力を保持した英雄たちでありましたし、かの毛沢東にしてこの姿が見られるのです。

太宗はこのことを能く知り、直言・諌言の士を側に置き、自らを戒めてまいりました。「貞観の治」むべなるかなであります。

 この『貞観政要』の中で、名君の個人的側面として強調されているのは次の二点であります。

 一、わが身を正すこと。私欲を抑え、奢侈に走らず、民衆の手本となるべき私生活を送ること。
 二、臣下の諌言をよく聞き入れること。

 特に第二点については、君臣ともに「諌」の重要なることを説き述べて尽きるところがありません。
 「いくら賢人でも側近が苦言を言わずに調子のよいことばかり耳に入れれば、三年でバカになる」これは勝海舟が時の総理について述べた有名な言葉です。

 学会の頂点に立つこと二十六年——人間誰しもが持つ弱点、否、勝れた能力をもつ人程侵されていく病弊に、先生も侵されていることにお気付きになりませんか。

すなわち、「慢」です。それより来るところの「独善」です。指導者として他を絶する数多くの資質を具えていられる先生の致命的欠陥は、いずれの帝王学、将 軍学にも例外なく中心項目となっている「部下、臣下の直言・諌言を容れる」という最も基本的素養に欠けている点であります。このことは惜しみても余りあり ます。

先生はしばしば慢心を戒める指導をされてきましたし、私たち門下を厳しく叱ってもこられました。最近特にこれに言及されることが多いように感じられます。 しかし先生自らはいかがでしょうか。太宗の為せし如く、諌言を求め、奨し、直言に耳を傾け、自ら誤りなきやと戒め、過ちなきやと自らを反省されていられる のでしょうか。

 恐らくそうではありますまい——はそう推察するしかないようです。何故なら、もしも先生が常に自らを戒め、反省し、独善を排し、真実の声を聞こうと努力し、諌言を甘んじて受けていられるのなら、あの収奪的財務が何年も続くわけがありませんし、目に余る過度の自己宣揚などその萌芽もないはずですし、本部職員もあきれている無計画・無謀の増改築をはじめとする経費の浪費、乱費が許容されるわけがありません。こうした否定しようもない現証は、いったいどこから生じ、何から起こっているのでしょうか。

 「流れの清濁はその源に在るなり。君は政の源、人庶は猶水の如し」(『貞観政要』威信篇)

そして、

 「在俗は衿高にして多く我慢を起こす。疵(きず)を藏(かく)し徳を揚げて自ら省みること能わざるは是れ無悪の人なり」(法華文句)

 「自ら省みる能わざるは我慢と釈す」(文句記)

 先生が常々私たちに整られるように、我慢偏執とは恐しいものです。〝まさかあ、先生のまぎれもなき現実の姿誠、、に接し私自身改めて我が身の未熟さを省 み、戒めております。先生も他に説き教えるのみでなく、自分こそ最もその録9付過ちを犯し易い立場にあるとの自覚に立たれ、自らに厳しく対し、自らを省み 戒め、我慢偏執の過ちから、先生自らの為にも多くの会員の為にも、速やかに脱していただきたいと念願するものであります。

 「私は人の意見を聞きすぎて失敗した」と言われますが、それは「聞きすぎて」でなく、「聞き方がまずくて」に訂正されるべきかと存じます。意見を聞きす ぎることは一向に差支えなく、むしろその方が望ましいと思います。その聞き方、取り入れ方を誤らなければ失敗することは決してありません。「取捨宜しきを 得て一向にすべからず」も指導者の力量の一つではないでしょうか。故に、先生の前の言葉は、意見を聞く必要はないという理由としては全く無意味だというこ とになります。

 「意見を言うのはおこがましい増上慢だ」これも全く誤った考えで あります。意見は先生を思い学会を思い広布を願う故であり、諌言はまさしく先生に誤らせたくない、失敗してほしくないという一念から発する忠誠の上凡行で はないでしょうか。我慢とも増上慢とも全く違う一念の所作であり、行為であると思います。むしろその意見や諌言を増上慢として排する姿勢、嫌う一念そのも のが我慢なのではありませんか。よくよく考え直していただきたいものです。

 仏法において諌言も意見も許されております。だからこそ二十六箇条の遺誡置文の中の「時の貫首為りと難も云々」の一条があるのではないでしょうか。意見があり、諌言が許されるなら、その前提として批判が存在するのは当然であります。

故に、批 判も又、破和合僧でもなく慢でもない筈です。現状の問題点に対する批判があり、それが愛学護法・利他の一念で意見や諌言、指導等と連結していくことに何等 いささかの謗法もあり得ません。むしろ正しき和合僧、より強固な異体同心を築くために、信心の一念から発する批判も意見も必要不可欠なのではないでしょう か。断固として排さるべきは非難・中傷・誹謗なのであり、これら謗法とは明確に区別し、一線を画すべきかと思いますが、いかがでしょうか。

 くどいようですが重ねて申しあげます。意見や諌言を排し、斥ける我慢・偏狭さを破折し、大聖人の仰せの如く自らも又欠陥、過ちのある人間の一人であると の自覚に立たれ、たとえ次元の低い未熟なものであっても、それを進んで受け容れる度量、雅量をもち、そこから数々の教訓を取り出して、独善の弊を免れてい ただきたく強く願望致します。「雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす。人讃すれば黄石も玉とみへ訣臣も賢人かとをぼゆ」(開目抄)

 『貞観政要』によりますと、讒 臣とは、その知恵は自分の非をごまかすに十分であり、その弁舌は自分の主張を通すに十分であり、家にあっては骨肉を離間させ、朝廷にあってはもめごとを作 り出す。訣臣とは、君主が言うことはすべて是認し、その行いはすべて賛し、秘かに君主の好むところを突きとめて、これを奨め、見ること聞くことすべてに快 い気分にさせて君主に迎合し、後害を考慮せず。君主、我慢・独善の時、必ずこのような徒輩が君主に取り入り、側近に侍ります。あるいはそうでない側近の臣 も、そのような人間に変心、転身していき、忠臣・貞臣・直臣等は追われ、又は所を辞して去っていきます。そして、君主のやりたいと思っていることを巧みに 見抜き、それを先取りする形で助言し、しかもその助言がまことに理にかなっているように巧みに修飾してしまう一これ即ち佞臣です。

こういう人物が、「嗜欲喜怒の情は賢愚皆同じ」に便乗してこれを増幅させれば最悪の状況であり、「君主滅亡する」の元凶・最悪の危険人物であります。これ歴史の教える原理・法則です。
 今、先生がいかなる人々に囲まれているか、自らを危うくし、学会、広布を誤らしめることのなきよう、よくよく心して見極めていかれますよう進言申しあげます。

 私たちはこれまで、学会の師弟の道の求道・随順の義のなかに、これまで述べました忠誠の一側面である「諌」の重書綱要性を見失っていたようです。これは 明らかに誤りでした.意見は当然のことながら、直言も諌言も弟子の道に抵触す誠、るものでなく又仏法に違背するものでもなく、むしろ信心の一念で必要あり と確信すれば、敢んで為すべきものと私は確信します。

 「皆人のをもひて候は、父には子したがひ、臣は君にかなひ弟子は師に違すべからずと云々、かしこき人もいやしき者もしれる事なり。しかれども貪欲瞋恚愚 癡と申す酒にえいて主に敵し親をかろしめ、師を侮るつねにみへて候。但、師と主と親とに随いてあしき事をば諌ば孝養となる事はさきの御ふみにかきつけて候 いしかばつねに御らむあるべし」(兵衛志殿御返事)
 更に、今一つ大事な一点を付加えたいと存じます。

 竜口の法難を受け佐渡流罪の真只中にある大聖人様は、御本仏の身でおありながらも御自身を徹底的に凝視され、且つ逢難の因を今世、過去世に亘る一身の謗 法なりと断罪されているお姿はまことに恐れ多く、驚くべきことであります。佐渡御書、開目抄を拝する程に、未熟なる信心の私の身にも名状し難い感動が迫っ てまいります。

 翻って五十四年前後の諸事象を語るのに、先生は難(法難とも言っています)、迫害と捉らえ、再三にわたり「これを私一身に受け会員と学会を守った」とされています。

 然るに仏法における難というのは、信心の上においても世間においても一分の失なく、唯、弘教・護法の故に受けるものであることは、今更説明の要もありません。

としますと、当時宗門から厳しき指摘・叱責を受けました如く、先生はじめ諸幹部、学会総体として数々の仏法違背があり、且つ運営、対策の面で過誤があり、 これらから起因する諸事件が何で法難でありましょう。山友・原島事件や一部マスコミの中傷・誹謗が、その中に多少のいわれなき要素が含まれていたとして も、この程度の事が何で迫害といえましょうか。

大聖人様の逢難にいささかなりとも比肩するかのような姿は厳に慎むべきでありましょう。

 仏 法世法両面において数々の失がありましての、これら諸事件は、本源的に自らの過ち、誤りに起因するものと深く反省し、懺悔して罪障消滅に精進せんとの信心 で受けとめるべきものではないでしょうか。これを難、あるいは追害と受けとめる時、そこには我全て正し、我尊しという一念顕然として、一片の反省も存在し ないのであります。まして、いわんやその全てを一身に受けたと言うのは、これまた自己宣揚の広言になりませんか。もし本当にそうであったとしても、信仰者の自覚においてであり、多くの人にそれを誇示すべきことではないはずです。まことの指導者なら黙して語らずです。仏法者なら尚更のことでしょう。此れ〝有差の人〟です。先生は余りに己を尊び、己を宣揚して語り過ぎます。此れ.無斬心の人〟です。かかる姿を独善と称し、慢というのではないでしょうか。

「〝我慢〟とは我尊しとおごる〝慢心〟であり、〝偏執〟とは偏った考えに執着していく心である。御書の仰せに従わず、広宣流布の正しき軌道に乗り切ることのできない我慢偏執の心こそ信心の最大の敵である」

 「表面のみ信心ありげな姿の中途半端な生き方では、一時はよいように見えるかもしれない、しかし最後は成仏という生命の完結を得ることなく、苦しみの境涯になっていくことを知っていただきたい」(昭和六十一年二月二十二日「金城会」での指導)
 「我もいたし人をも教化候へ」の如く、先生ご自身の指導を先生自らよくよく肝に銘じ、自ら行うべきでありましょう。

おわりに

 申しあげたいことはまだまだ幾つもございますが、以上三点のみ書き記しました。乱筆拙文ではありますが、義意をお汲み取り下されば幸甚に存じます。

 昨今、先生の指導が聖教紙上を賑わせておりますが、去る三月二十二日の学会新館での指導の中で、恩師を偲び、身延の大聖人様の苦難のご生活を種々語られ ました。この指導を聞いた人々は皆感動したことと思います。そして先生もきっとこのような精神で質素に、辛抱して生活しているであろうと信じたに違いあり ません。

私は先生に訴え、お願いしたいのです。ここまで純真なる求道の内外の会員に語り指導されたのでしたら、現代の庶民レベルの常識をはるかに超ゆる贅沢な先生の生活は直ちに止めて下さい。先生の生活の為の学会公費の乱費を排除すべく、先生自ら徹底的に努力すべきであります。それが指導者としての、せめてもの良心ではありませんか。

 もしも今の生活が質素であると本当にお思いなら、それはすでに庶民の生活感覚から遠く隔った庶民遊離の人間ということになります。

 先 生を特別の人間と特別視し、特別待遇を許容する——これは大聖人の仏法に照らし誤りであると、私は自らの長年の考え違いを反省しつつ訴えずにはいられませ ん。たとえ先生が大功労者であろうと、先生自らがかかることを許してはなりませんし、それを要求することなど、仏法指導者としては絶対あってはならぬこと であります。

牧口先生も戸田先生も質素であられた、師として厳然としておられたが、特別待遇をすると叱られた、と当時の人々から聞きました。先生もそうあって下さい。

 今一つの例を示したに過ぎませんが、人々の胸を打つきらめくような先生の指導、誰をもその通りだと納得せしめる道理の指導、こうしたすばらしい先生の指 導と、先生の実際とにあまりに違いが多すぎるのではないでしょうか。徹底して「如所言如所行」の指導者であっていただきたいと思うのは、私のみでは決して ないのです。先生が私に教えて下さったように、美辞の指導より如説の実践、策や政治性でなく、真実と誠意で私たちに対していただきたいと切願してやみませ ん。

 今こうして先生への忠言、諌言を書き綴っていますと、かつて先生のお側で共戦させていただいた思い出の数々が浮かんでまいります。叱られたこと、うれし かったこと、有難いこと、感動したことなどがいっぱい想い出されます。その私が、このような諌書を書き綴らねばならぬ無念さ、情なさに、筆をとりつつ何度 も涙しました。でも私情に流されるわけにはまいりません。

仏法とはまことに厳しいものです。この七年改めて身にしみて痛感しております。そして先生たりとも、仏法に違背した分は必ず仏法によって裁かれねばならぬかと思いますと、どうしょうもなく、たまらない想いにかられるのです。

 「はじめに」に述べましたように、もとより信心未熟、凡愚の身を顧みず、信心の勇気を奮い起こして敢えて強言の数々を連ねましたのは、ひとえに先生にこ れ以上の誤りを犯してもらいたくない、善良なる会員をこれ以上苦しめることがあってはならない、仏法をきずつけてはならないと念い、願った故のことであり ます。改めて逆耳の強言をおわび致します。

 もしも私のかかる言説に誤りがあり、仏法に違背するところがありましたら、甘んじて仏罰を蒙る覚悟でございます。

 多年に及ぶ御厚恩への報恩の誠心をもって、以上認めました。

 以て誠諫の書と致します。

   昭和六十一年四月十五日  書了