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(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994)

   

   

  はじめにーー新聞・テレビが腰抜けなら私がやるしかない

   創価学会・公明党について、新聞・テレビが取り上げないという状況ができて久しい。   

  「鶴のタブー」(創価学会は鶴丸のバッジを使っていた)と呼ばれるこの現象は、現代マスコミの病める姿に他ならない。

   最近、元外務大臣の渡辺美智雄氏が「創価学会には、脱税のもみ消しの他、自民党はいろいろと貸しがある」と発言したが、新聞・テレビではこれについて追及する報道が何もない。ゼネコン疑惑で政治家への数千万円の献金が大々的に書かれているのに比べて、アンバランスさが際立つ。

  “書かないだけなら、まだ罪が軽い。地方紙などでは、創価学会の文化祭の報道で、聖教新聞と見まがうほどの紙面作りをするものもある。

   こうした、創価学会・公明党による報道封殺、マスコミ操作を許している理由は何であろうか。

   よく言われるのが、学会員の集団不買運動による脅しである。かつて、これで脅された新聞も現実にあった。

   だが、創価学会員所帯は、聖教新聞だけを購読していて(それも、多部数、強制されている)一般紙を購読しない世帯が多いことが各種調査で判明している。だから不買運動は実際、恐れるに足らぬのである。

   次に言われるのが印刷所の問題である。聖教新聞社は自前の印刷所を持たず、毎日新聞社系を始め、地方紙の印刷所で聖教新聞を印刷している。設備投資などの関係から聖教新聞の印刷を中止されたら、毎日新聞はじめ多くの地方新聞社は経営が成り立たなくなるケースが現にある。これに経営権を握る銀行を通して圧力が加わって、新聞やテレビ報道にブレーキがかけられることは充分予想される。

   私の知る限りでも、創価学会が銀行首脳を通して新聞社に圧力を掛けた事例は何回かあった。

   さらに広告である。潮、民音、第三文明、池田大作の著作等々で創価学会及びその関連企業が新聞社やテレビ局に支払う広告料金の額は半端なものではない。また、学会の出版物に掲載される広告も少なくないが、それを取り扱う広告代理店は、新聞・テレビに強い影響力を持つ。自ら支払う広告料の威力、創価学会に儲けさせてもらっている広告代理店その他、関連業者の威力。実はこれが馬鹿にならぬ力なのだ。

   さらに人間というものは、本能的に、うるさい、いやらしいものが嫌いである。できるだけ関わりたくない、と思うものである。

   創価学会のことを書くと、しつこい抗議やいやがらせが来る。奇態な投書や怪電話、広報室からのお誘いも何となく煩わしい。だから敬遠する、という心理が編集者にはある。

   雑誌の編集者には、どちらかというと、偏屈というか反骨の人が多いから、こうしたことに反発し、逆に追及の闘志をかき立てられるらしいが、新聞・テレビは、編集関係者がサラリーマン化しているのだろうか。面倒を厭がる。

   それに、新聞・テレビの創価学会担当者は、まるでやる気のない人物が配置されているように見える。他のメヂィアに特ダネを抜かれても、何の抵抗感もないようだ。

   平成五年十月、私の国会証人喚問申請が行われた後、取材に来たのは、新聞記者二人、テレビ社一社だけ。あれだけ騒がれても、この有様である。

   お陰で静かな生活を乱されないで済むから助かっているが、新聞・テレビの報道がいかにいい加減なものかを痛感している。

   新聞やテレビの記者や編集者がまるで関心がないのかというと、そうでもないらしい。創価学会広報室や公明党議員がこの不景気の中に拘わらず景気よく札ビラを切っての招待には、結構喜んで出かけて来るらしいのである。

   自分の新聞では何も書かないくせに「潮」などで創価学会・公明党の提灯記事や対談に出て、卑しい金稼ぎに励むジャーナリストも少なくない。

   自己のジャーナリストとしての怠惰、堕落を棚に上げて、彼らは「雑誌が取り上げたことを新聞が後追いするわけにはいかん」と、おかしなエリート意識をむき出しにする。だったら、雑誌より先に抜けば良い。

   二、三の雑誌の編集者は、既に昨年五月、私が社会復帰して間もない頃に、夏から秋にかけての激変を予測して私に接触し「秋には是非、原稿かインタビューを」と申し入れてきた。問題意識の鋭さ、先見の明の確かさはさすがである。新聞・テレビのそこまでの時代感覚もやる気も欠けていたことは、確かである。

   この国ではずっと、社会変動のきっかけをもたらす報道は雑誌によって行われて来た。ロッキード事件しかり、ゼネコン事件しかり、そして新党ブームの火つけ役しかり。新聞は大勢を見極めるまで動かないのである。

   創価学会問題も、その例外ではない。

   言論問題は、実に、藤原弘達著『創価学会を斬る』という一冊の書籍の出版から火を噴いたのである。

   新聞・テレビの無報道にもかかわらず、国民の大多数は創価学会・公明党に批判的であり、その動向に危惧を抱いている。情報を知りたがっている。これ以上、怠惰を続け、「鶴のタブー」を許し続けているとその他大多数の国民から見放され不買運動が起こることの恐ろしさを、新聞・マスコミは考えるべきである。マスコミが少数のファッショ集団におべっかを使い、その利益に奉仕していると、やがてそうなるに違いない。

   今世紀最も醜悪な人物・池田大作による天下盗り構想なるものが進展しつつあり、民主主義と信教の自由が損なわれようとしている。これは厳然たる事実であり、私は、そのことを最もよく知る立場にある。なぜなら、池田大作の最側近として、その計画立案に携わり、その実現に尽くしてきた一人だからである。だからこそ、今、懺悔の気持ちとともに、この現実を少しでも多くの人達に正確に知らせることは、人間として、日本人としての義務であると信じている。

   もっとも私は、この使命感に駆られて十三年前、自分の人生や職業、家庭や生活のすべてを投げ打って、創価学会の内部告発に踏み切った。その結果、国家権力から刑罰という形で弾圧され、口を封じられた。そのことに対する痛みも悲しみも、まだ消えていない。

   その結果、状況は一層悪化し、公明党はついに政権与党の一角を占めるに至った。この国の指導者達は、自らの誤りによって招いた危機の前に、右往左往するのみである。

   国を思う心が裏切られた例は、ジャンヌダルクを持ち出すまでもなく、歴史上たくさんある。過去に囚われていては、何もできない。臆病にして卑怯者の新聞・テレビがやらぬなら、私がやるしかないのだから。

   渾身の力を込めて、再度、池田大作批判の筆を執る今度は、誰にも口封じは許さぬつもりである。

   なお、言うまでもないことだが、私が創価学会に入会したのも日蓮正宗の信仰のためであったし、その創価学会に真の信仰がないことに気付き、池田大作に反旗を翻して内部告発に踏み切った以後も、私の日蓮正宗への信仰は不変である。

   その私にとって、日蓮正宗による正信会処分、そしてその後の混乱についても触れねばならないのは甚だ心苦しいが、それも、創価学会問題のそもそもの発端に遡り、事実をありのままに述べなければ、池田大作・創価学会の正体を正しく伝えることができないと考えたからである。創価学会問題は、社会問題であるとともに、戦後の日蓮正宗のあり方の問題でもある。関係者の方々には、何卒、私の真意を汲み取りご理解いただきたいと思う。

   もちろん、自分自身の過ちや恥をさらけ出すことの痛みを恐れていては、この一冊は書けなかった。

   

  平成六年二月        山崎正友

   

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  第一章 池田大作の怪しげな魅力からの脱出

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

   

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   私の入信は、昭和三十四年四月であるが、初登山はそれから二年半後の昭和三十六年十一月であった。そのあいだ、病気のため登山会に参加できなかったのである。

   この年、私は司法試験に合格したものの、身体検査でひっかかり、翌年一月に再検査するよう通知を受け、すっかり悩んでいた。五年越しの腎臓病が、にわかに良くなるはずもない。そうかといって、このままではせっかく試験に合格したのが無駄になるーー私は母に手紙で相談した。母からはおりかえし手紙で返事が来た。「お山へ行って御本尊様に願ってきなさい」そうだ、願いとして叶わざるはなしの御本尊様がある! だが、岡山から京都へ来るのさえ、また東京に受験に行くのさえ、寝台車で付き添いが必要だった。はたして団体列車で二泊三日の登山会に参加できるかどうか、おりしも試験勉強のあとの疲れが出て連日三十八度を超す発熱が続いていただけに、無理をすると死んでしまうのではなかろうかと不安だった。悩んだあげく明日が出発という日に、関西本部に指導を受けに行った。その時、指導してくれたのが、田代副理事長だった。私の話をいろいろ聞いたあと、一言いわれた。

  「山崎君、信心している身で、お山で、御本尊のもとで死ねたら本望だろう!」

   翌日、輸送班や、地区部長、班長さんにかつがれるようにしてお山に登ったが、御開扉を終え坊に帰った途端、案の定ひっくり返ってしまった。目が覚めると既に夜に成って居た。身体はすっきりと軽くなり、熱も下がったようで気分も爽やかになっている。向こうの広間で大声や拍手が聞こえるので起きて行ってみると、ちょうど体験発表会をしているところであった。顔を出した途端、指名されて前に出た私は、力一杯の声で体験発表をした。そして、今度登山するときは、輸送班のような元気な姿で登山しますと決意発表をした。

   翌年一月の再検査では、思ってもいなかった異常なしの診断がくだされ、司法修習生に採用されることができた。それ以来、今日まで私は医者にかかったことはない。

   さらに二年後、私は輸送班の腕章をつけて登山することができたのである。

   それからまた三年。今では指導担当、本部責任者等で、毎月一、二度は本山へ行くことができるようになった。登山すれば、部員と一緒に駆け足や体操もできる。

   その間、正月登山、園遊会、夏期講習会にも参加させていただけたし、大客殿落慶、恩師の七回忌法要の登山で、できあがったばかりの大客殿の床を磨いた思い出も忘れられない。

   田代副理事長からは、今でも逢うたびに「よく生きてるね。本当に死ぬかと思ったよ」と言われるが、今では身体にはかなりの自信が持てるほどになった。

   入信七年目の今年四月、念願の法律事務所を開くことができ、仕事に追われて嬉しい悲鳴をあげることもある。つい夜更かししても明け方事務所のソファで仮眠すれば翌日、元気になっている。

   七年前、五年前のみじめな姿を思い起こすとき、感無量であり、御本尊様の功徳と我が身の福運をしみじみ感じる。

   一回ごとに、大御本尊様に報告と、決意と、祈念をして、成長の節とした登山には、自分の人間革命の成長の思い出が尽きない。

   思えば、初登山のとき、病気と宿業に悩む自分は確かに死んだのだ。そして、新しい自分が、池田先生のもと、広宣流布の一端に加えていただくべき使命を持った自分に生まれ、今ここに生きているのだ! 世界一の大師匠の下、希望と確信に満ちた人生を生きているのだ!

   今後も、毎月登山し、御本尊様にお目通りすることであろう。

   池田先生によって示された、われら学生部の戦いに、横松学生部長のもと力の限り戦いきった勝利の姿で、毎回の登山を飾りたい。ことに毎年の学生部登山講習会こそ、師とともに歩む革命の歴史をとどめてゆきたいと決意するものである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p18-21

   

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    池田の腹心として遇されデタラメな帳簿や議事録を処理

   

   昭和四十五年、言論出版妨害事件の処理に起用されたのを機に、組織幹部から離れて創価学会中枢に陣取り、本部機構・外郭法人の管理運営、渉外・情報活動の掌握にかかわる立場になった。それは、顧問弁護士として委任状を受けて処理に当たるということではなく、池田大作の腹心である首脳として、全面的にその指示の下に動く、というものであった。活動に要する費用は、裏金から現金で支払われる他、弁護士報酬という形で月々の手当に上乗せして支払われた。

   もちろん、弁護士としての登録はしてあったから、外に事務所を構えていたが、その運営は、学会幹部の部下の弁護士に任せきりであった。私の他に、昭和四十五年からは、桐ヶ谷章、八尋頼雄の両弁護士が、私と同じく事務所に籍だけを置き、昼夜、学会本部に勤めているようになった。事務所の仕事も、ほとんどが公明党議員や学会幹部の紹介による、学会員の事件や外郭会社に関わる事務処理であったから、私の生活は、公私とも創価学会の中にどっぷりと浸かりきったものだった。

   学会本部では、文化会館六階の理事長室の側に執務室があり、数名のスタッフとともに池田大作や北條浩理事長(当時)の指示に基づいて事務処理をしていた。これとは別にさつき荘と呼ばれる秘密の建物内(一階は、秋谷栄之助氏(現会長)の社宅として使われていた)の二階に、資料や器材を置いた情報活動師団の部屋を与えられていたし、別館にも、弁護士スタッフ用の部屋を与えられた。さらに、作戦に応じて、外のマンシオンに数カ所のアジトを設けていた。

   私は日常、学会本部内での会議や事務処理に明け暮れ、重要な作戦の時は、アジトや現地に常駐した。海外にも何回か派遣されたし、全国の研修所や会館を歩き回った。富士宮市にある日蓮正宗総本山大石寺にも、専用の住居や執務室が設けられていた。

   創価学会本部に入って最初に手がけたのは、法人設立以来の書類の点検だった。

   昭和四十五年当時の創価学会の事務は、まるでどんぶり勘定の上、宗教法人としての事務処理は全く為されていなかった。会社の取締役会に当たる責任役員会も開かれずに、役所への届け出の必要に応じて議事録を適当に作っていたから、同じ日時に、違うメンバーが三回も役員会を開いた、というような記録が残っていた。逆に、予算や決算等、必要な事項についての議事録が欠けていた。

   会計的にも、一般会計と収益会計、そして正本堂御供養金の支出が、池田大作の思いつきによる鶴の一声で行われているために混同され、方漫極まりなかった。

   私達の仕事は、まず、法人設立以来の議事録を全部作り直し、会計帳簿を根本から作り直すことから始まった。

   池田大作は、正本堂御供養金を、創価大学の設立資金や会館などの建設資金、各種行事の運営金に流用しようとし、一部を支出していた。正本堂御供養金は、日蓮正宗に寄付するという名目で集めたのだから、これは許されない。これらを一般会計に振り替え、一般会計と収益会計の区分を明確化する作業には随分手間取った。しかし、結局、大石寺近くの扶桑文化センター、千駄ヶ谷の日蓮正宗国際センターは、正本堂御供養金で作ったにもかかわらず、創価学会が分捕ってしまった。他にも名目をつけて湯水の如く使った金を含めると、正本堂御供養金の何割かは、創価学会がピンハネしたり流用したことになる。もちろん、帳簿上は何とか辻褄を合わせているが、それを見れば、その中から真実を指摘することは今でも出来ると確信している。

   創価学会の事務や会計処理のやり直しと帳簿や議事録の改竄作業は、足かけ四年を要した。将来、いつまたやり直しの必要が出て来るか解らないので、これに備えて同じ帳面や用紙、インクなどを保存した。創価学会の書類作りかえ技術は、このとき確立されたのである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p21-4

   

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     不動産の所有権整理や出版物の検閲・改訂も

   

   これと併行して、学会の規則や就業規則、人事その他の内規の整備や、外郭団体、企業の運営についてのルール作りを行った。例えば、公明党の土地・建物が創価学会の所有であり、現在、聖教新聞社の建っている土地が公明党の所有であった(田中角栄氏が大蔵相時代、払い下げを受けた)のを交換したり、財団法人・民主音楽協会との間の土地所有関係を整理したのも、この頃である。

   最近、秋谷栄之助会長が「創価学会は公明党に資金援助したことは一度もない」と大見得を切ったが、これは大嘘であり、昭和四十五年までは、創価学会所有の土地建物を公明党に提供し、タダで使わせていたのである。

   創価学会の出版物についての内部検閲も、私達の仕事だった。暴力的布教の督励や、謗法払いと称して仏壇仏具を焼き払う指導が法に触れるのではないか、との懸念から「折伏経典」はじめ従来の布教書、教義書などが廃刊にされたり改訂されたりした。国立戒壇論の否定に伴う改訂なども行われた。

   当時、相当数の寺院が、創価学会の所有名義のままだった。これを日蓮正宗に移したのも、この頃、私の提案によるものである。今、日蓮正宗と手切れになってみて、池田大作はこの時の処理を悔しがっているに違いない。逆に、日蓮正宗からは、大いに感謝されてしかるべきであると思っている。

   こうして、徹底的に創価学会本部を洗いざらい見直す作業が行われ、近代化が図られた。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p24-5

   

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      「外面は豪華客船、内実は最新鋭船艦」を言いながら自ら無視

   

   ある日、池田大作に「どうだ、学会は凄いことが解ったろう」と自慢されて、私は、ついつい「木造で三十六階建てを建てたようなものですね。よく、倒れなかったですね。奇跡ですよ」と皮肉ってしまった。「ひどいことを言うな」と池田大作は口をとがらせたが、それほど機嫌は悪くなかった。これを数年がかりで、池田大作言うところの「外面は豪華客船、内実は最新鋭船艦」に仕上げる、というのが私達の作業の目標だった。

   だが、この目標は、他ならぬ池田大作自身の差し金で、達成できなかった。

   池田大作は、私達に対して絶対立ち入ることを拒んだ聖域を作った。それは、池田大作個人にかかる、美術、骨董、什器備品、P献金や業者のリベート等の裏金の処理、第一庶務を中心とする女性達との微妙な関係とその待遇などであった。これらのことは、中西治雄氏、白木某(妻の兄弟)、松川某といった側用人的な人物だけにしか手をつけさせなかった。

   また、池田大作は、思いつきで、役員会等をまるで無視して建築をしたり金を使ったりすることが、しょっちゅうあった。役員会は、事後処理の形で、ただ承認するだけである。こうした池田大作の独断専行、極端な宗教法人私物化が、その後、何回となく創価学会を危機に陥れる結果を生じたのである。

   ともあれ、こうして弁護士や公認会計士、本部職員を使って、創価学会の日常業務にかかわり、毎日、会議に出たり書類を作ったりしていた。

   このころ常時出席していた会議は、総務会、執行会議(創価学会の中枢二十名くらいによる常務取締役会の如きもの)、連絡会議(創価学会と公明党の首脳会議)、運営会議(学会及び外郭団体、会館の財政運営のすべてを掌握する)、Z会議(北條浩理事長他五名で創価学会の当面する緊急問題を処理する、いわば国家安全保障会議の如きもの)等で、ことに後の二つは、私がお膳立てをする役目を担当していた。この外に、法学委員会、創価大学、創価学園の理事会、正本堂運営委員会、日蓮正宗との連絡会議、池田大作に随時呼ばれて行われる御前会議等々、目の回る忙しさであった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p25-6

   

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      言論妨害事件期のトラブルを一手に

   

   昭和四十五年から五十年にかけて、創価学会は、言論問題の余波もあって、内外に種々な問題を抱えていた時期にあった。四十年代前半のような、押せ押せムードの折伏や選挙活動が世論の壁に突き当たって頓挫し、世帯数、聖教新聞部数、選挙の得票数と公明党の議席数など、いずれも大幅に落ち込んだ。公明党は自民党の顔色をうかがい、他の野党の機嫌を取るために汲々とし、クルクルと路線や政策を変えた。「広宣流布、国立戒壇建立」といった宗教目標は裏に引っ込められた。

   その時期に、日蓮正宗との軋轢、幹部の造反、組織上のトラブル、他勢力の干渉、マスコミとの攻防といった、難事が次々と創価学会を襲った。外部からは定かには見えなかったかも知れないが、学会本部はこれらの事件への対応に揺れ動いた。この間、中心となってこれらの難事の処理に当たったのが、他ならぬ私であった。

   長女が小学校に通っていた頃、作文で、父親である私のことを「お父さんはお金持ちで、ときどき家に来ます」と書いて、妻がむくれ「恥ずかしいから、父兄参観にはあなたが行って下さい」とごねたことがあるが、仕事にかまけて家庭を放棄し顧みぬ悪い父親であったことは確かである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p27

   

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    選挙違反対策に駆り出されたのが学会中枢への第一歩

   

   そもそも私が創価学会中枢に起用されるに至った第一歩は、昭和四十年夏の参議院議員選挙に於ける選挙違反事件の処理である。

   この選挙で中部地方を地盤に立候補した小平芳平議員の選挙運動に関して、三重地方検察庁は集団戸別訪問の捜査をしつこく行った。

   その結果、創価学会の支部、地区の幹部が次々と逮捕され、上層部への波及は免れない状況となった。この事件対策のため、竹入義勝氏(元公明党委員長)、大野潔氏(元公明党代議士)以下、都議会議員数名とともに派遣された。この事件は、当時、参議院法務委員長だった和泉覚氏(参議会議長)、公明党都議会幹事長の竹入義勝氏らが必死に検察首脳、警察首脳に働きかけて、最上層への波及を辛くも食い止めたが、この時、一か月余も現地に泊まり込んで戦った私の働きが上層部の目に止まったのだ。

   続いて、創価学会と対立する新興宗教団体の連合体である新宗教団体連合会(庭野日敬理事長=当時)の肝いりで出版されようとした植村左内著『これが創価学会だ』(新村印刷所印刷)の阻止の仕事が回って来た。民事で出版阻止仮処分申請をし、刑事で名誉毀損罪で立正佼成会庭野日敬会長を告訴するなど、あらゆる手段で攻め立てた。公明党の圧力で警視庁が新宗連側の事情聴取に踏み切る段階で、当時の日本大学会頭・古田壮一郎氏の仲裁により、創価学会と新宗連は和解した。その結果『これが創価学会だ』は廃刊となり本屋から総て回収され、日大のグラウンドで焼却されたり裁断されて、闇から闇へと葬られた。

   引き続き、昭和四十年の選挙では、東京・新宿区で集団替え玉投票事件が発生した。新宿区のような盛り場を抱えた区では住民の出入りが激しく、中心部では選挙のたびに半分近くの有権者が入れ替わっている状態だが、多くの人は住民票を移すのが遅れるため、引っ越した後に、前に住んでいたアパート宛てに投票権が郵送され、野ざらしになる、というケースが少なくない。

   創価学会はこの時の選挙で、全都内でこうした投票権を使っての詐偽投票を行い、新宿区、世田谷区、その他各地で検挙され、多数の有罪者を出した。その総数は、組織内調査の結果、二万を下らなかったと記憶している。新宿区は特にひどく、これは区の選挙責任者だった八矢英世氏(副会長、外郭の設計会社・創造社社長)、男子青年部責任者・松山久夫氏(一橋大卒、副会長)らの指示で全区に渡り組織的に行われたもので、総数は五千票を超えた。

   その中でも、二千票余は、不在者投票による替え玉という手の込んだものだった。

   これらは、アパートやマンシオンの郵便受けから近くの学会員が投票権を抜き取って盗み、これを公明党の区議が選挙人名簿を閲覧して生年月日その他を確認し、年格好の合った学会員を替え玉に仕立てる、という超知能犯、悪質犯の手口だった。

   当日、投票に行った何人かの人が、既に自分の名前で替え玉投票されていたことを知り届け出たことから捜査が始まり、投票権の指紋、聞き込み、選挙管理委員会の調べから、近隣の学会員が割り出された。

   この事件は、北條浩氏(元四代会長)、竹入義勝氏はじめ、創価学会・公明党の全幹部、弁護士が総動員されて防衛に当たった。何とか、当初摘発された組織の最小限に範囲に押さえようと、必死で証拠隠滅工作を行った。しかし、検察庁が本腰を入れて替え玉投票のあったアパートの住民、前住民を当たり、不在者投票者総てをチェックする方針を固めたとの情報が入り、創価学会本部はパニックに陥った。そのうち、逮捕者が音を上げて総てを供述し始め、私は証拠隠滅工作を行った廉で逮捕状を執行されそうな羽目に陥った。

   池田大作は、初め「八矢、松山は何とか守ってやれ」と竹入氏らに命令していたが、しまいには、学会本部、党本部へのガサ入れまで覚悟しなくてはならぬ状態で「総てを失うかも知れないが、止むを得ない。また、一からやり直そう」と腹をくくった。

   この段階で、竹入委員長は、警視庁首脳とサシで会い「共産党と本気で戦う我々を見殺しにすると、日本は大変なことになる」と訴え、創価学会の命乞いをした。

   その結果、検察庁側からの捜査要請を警視庁が拒否するという異例の形で、事件拡大は辛うじて防がれた。

   この時、警視総監のお目こぼしと検察の断念がなかったら、今頃、公明党は存在していない。

   竹入氏と一緒に検察庁へも頼みに行ったが、河合次席検事は「あなたは、こんな所に来るべきではない。国の政治の場でお忙しいのでしょう」と嫌味を言った。

   この時の首謀者(実は組織の実行犯の指揮者に過ぎない)に北村芳典がいた。

   天性の嘘の名人で、逮捕されたものの、一度は捜査官を騙し仰せて釈放され、関西に逃げた。その後、検察、警察との話し合いでここまでやると決まった段階で改めて出頭させたが、この時、捜査官が北村に対して「俺は人間が信じられなくなったよ」と嘆いたということを、長い間、自慢話にしていた。

   その後、北村芳典は私の情報師団に入り、諸々の謀略、情報工作に関わった。日本共産党議長・宮本顕治邸盗聴事件にも関与したが、裁判でうまく言い逃れて、一人、実行者の認定から外れた。

   現段階で、この事件の証拠隠滅工作、公判工作、そして検察へのもみ消し工作に直接深く関わった竜年光元都議会議員も、既に脱会し、事実について語り始めているし、その他にも事件に関わった区議会議員や元幹部が、いつでも私の証言に裏付けを与えてくれる。

     (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p28-31

 

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    市川書記長よ、よもや練馬事件を忘れはしまい

 

 翌四十四年に行われた都議会議員選挙では、練馬区で、創価学会員が投票所を襲撃する事件が発生した。その首謀者は、現公明党書記長・市川雄一氏である。

 実は、市川氏とは個人的にも親近感を持っており、敬意をもって接していた時期もあったので、余り古傷には触れたくなかったが、現在の状況と立場から避けて通るわけにはいかない。

 私が市川雄一氏と最も近い位置にあったのは昭和四十三〜四十五年にかけてのことで、事件はこの頃おこった。市川雄一氏は、青年部参謀室長という、文字どおり創価学会の扇の要の地位にあった。参謀室長という役職は、池田大作氏が戸田城聖二代会長の下で占めていたもので従って、次期会長を約束された者がつくポストと考えられていた。

 その頃私は、創価学会副理事長、学生部主任部長、青年部常任参謀といったいかめしい肩書きを持っていて、日常、市川氏と接していた。

 当時、市川雄一氏と二人で雑談していた時、突然「次の都議選では風作戦というのを考えたんだ。投票日の二、三日前に、全国から東京都に大動員を掛ける。皆、友人知人のところへ手土産をもって泊まり込ませ、公明党議員への投票を頼むんだ。投票日当日、一人が一票ずつ、投票所へ連れ出す。それが済んだら、さっと全国各地へ帰ってしまう。一人一殺。誰に報告することもない。各々風のように来たり、風のように去る。これを風隊と名付ける。どう思う?」と相談を持ちかけられた。選挙に於ける創価学会の全国動員作戦の発案者は市川雄一氏であり、公明党が東京都議選で圧倒的な当選率を誇っているのは、一つにはそのお陰である。

 市川雄一氏の悲劇は、そうした絶頂期を迎えようとする時に突然起こった。

 昭和四十四年七月十三日、東京都都議会選挙投票日の当日、練馬第四投票所に当てられた豊玉第二小学校で事件は発生した。

 午後六時の投票締め切り時刻数分過ぎに男女の二人連れが投票所に来て投票させるよう求めた。選挙管理委員会の立会人は「投票時間を過ぎ投票所は閉鎖され投票箱にはすでに鍵が掛かっているから」と法律を盾にこれを拒否した。二人は一度は立ち去ったがすぐに十数名の仲間とともに押しかけ選管の職員たちと口論になった。公明党代議士伊藤宗佑丸の秘書だと名乗る男らを含む群衆は数十名の規模に増え投票所内に乱入して選管の委員を押し倒し殴る蹴るの暴行を加え全員を土下座させ謝罪を要求した。群衆は言うまでもなく全員が創価学会員であった。主犯は市川雄一であった。

 こうした騒乱状態は午後十時まで続き、この間、群衆は指揮者を中心に気勢を上げたり「お前らはもういいかげん長生きしたのだから、ここらで死んでもいいだろう……」などと脅迫を続けた。警察官も五十人以上現場に駆けつけはしたが(それも署長が現場にいたという)どういうわけか何もせず選管職員の救出すらしなかった。

 投票所の襲撃という行為が民主主義を否定する犯罪行為であることは、今さら言うまでもない。先のカンボジア総選挙でのポル・ポト派による投票所襲撃や選挙運営に当たるボランチィアや文民警察官の殺害行為と何ら変わることのない、非道な行為である。

 選挙管理委員会から警視庁に、公務執行妨害、暴行脅迫、傷害等の被害届が出され、結局、初めに投票所に来た二名のうち男一人に「選挙事務関係者・施設に対する暴力罪、騒擾罪等」で懲役六月、執行猶予二年の有罪判決が下された。

 選管職員の被害届によると「九時〇五分頃、この頃になって松岡(男)は投票できなくても仕方がないと帰るといい、帰ろうとする松岡を帰させまいとして、投票所出口の扉の外にいた四〇〜五〇人の群衆が扉を閉め切って押さえ、中では三〇〜四〇人の群衆が松岡始め委員、投票管理者、立会人を取り囲んで監禁状態であった。松岡は怒って妻に、こんなことになったのはお前のせいだといって夫婦げんかが始まった」

「この時、群衆の中の数人の男が、こんなことになったのはお前の責任だと言いながら淵上委員を中央に引きずり出して暴行を加えた。さらに管理者にも暴行を加え、その上、群衆は、管理者、立会人に土下座して謝罪することを要求したので、管理者、立会人は止むなくこれに従った」ということである。つまり、当初の二人は、騒ぎの原因となったけれども、その後の騒乱は二人とかかわりなく、別の意志と指図で動いていたことが明らかにされているのである。

 にもかかわらず、警視庁は端緒となった二人(投票要求をした関係上、身元が割れている)だけを調べ、後は捜査を放棄して、故意に迷宮入りとした。明らかに、事件をもみ消したのである。

 この騒ぎの中で群衆は怒号の中から、代表格で、白の開襟シャツを着た大男が選管の職員と掛け合いを行っている。

「天文台の時計でも、ラジオの時報でも、絶対正確とは言えない。わずか三十秒くらい遅れたのに、投票させないお前たちが悪い。投票させろ」

 白の開襟シャツは、当時、創価学会幹部、特に本部職員のユニフォームであった。

 この男が、当時の市川雄一氏であった。

 事件の第一報を受けた時、私は公明党本部にいた。投票締め切りと同時に始まる選挙違反摘発で学会員の運動員が逮捕され始め、これに対する対策を講じるため、手の空いている議員と弁護士は、党本部に集められていた。創価学会からも北條浩副会長始め、首脳が出向いていた。私は、接見に行く弁護士の手配とともに、組織防衛のための証拠隠滅工作——書類の廃棄や、逮捕者から組織の上部へ捜査が及ぶことを防ぐための偽証工作——の双方にわたって関与した。

 報告を聞いた北条、竹入氏ら首脳は、苦り切って「そんな、無駄な、ばかげたことはすぐやめて、引き上げさせろ」という指示を現場に送ろうとしたが、何しろ最高責任者の市川雄一氏が現場に突っ込んでいるのだから、なかなか指令が伝わらない。

「いくら言っても聞きません。参謀室長を囲んで皆で勝ち鬨を上げたり、凄い勢いで暴れています」という情報に、皆、頭を抱えた。結局、本部から伝令を派遣してやっと引き上げさせた、という記憶がある。

 とにかく一時の興奮がさめるにつれて、事件の深刻さに皆が気付いた。もちろん、マスコミも報道するし、捜査当局も動き始めた。創価学会・公明党の首脳も、市川雄一創価学会参謀室長・公明新聞編集局長が百名近い創価学会員を引き連れて投票所を襲撃し、乱暴狼藉を働いた、ということが明らかになった時のダメージを考えて、青くならざるを得なかった。

 当の市川雄一氏は、私に「俺は、騒ぎが大きく成らないように止めに行ったんだ。皆をなだめて、選管と話を付けようとしたんだ」と弁明した。しかし、組織の最高責任者がこのように公明党の存在を危うくするような現場にいながら、これを防がなかったことの責任は逃れられない。まして、池田大作の前で下手な弁明などできるわけもない。

 私達は、善後策に苦慮した。池田大作は「出来たことは仕方がない。何とか市川は護ってやれ」と命令を下した。

 これを聞いた竹入義勝委員長、矢野書記長ら党の首脳は市川を助けるといっても、長時間に亘り現場で姿を見られているのだから、市川が割り出されるのは時間の問題である。学会員が何人か調べられたら、結局、市川の指示でやったという調書を取られてしまう。現場には署長をはじめ警察官がたくさんいたのだから、しっかり見られていて逃れようもない。ここは一つ、新宿の替え玉投票の時と一緒で、警察に腹を割って打ち明けて助けてもらうしかないと判断し、竹入委員長が早々に警視庁首脳と会い「あとで、どんなことでも聞くから」と頭を下げて頼み込んだ。

 その結果、「ほとぼりがさめるまで、市川はどこかに潜らせておけ。決して、学会内でも表面に出すな。そうすれば、こっちで何とかする」との返事を貰った。

 この報告を受けて、北條浩氏は市川雄一氏を呼びつけ「池田先生の御慈悲に感謝しろ。お前なんか、どこかに消えてなくなれ!」と、叱りつけたという。

 市川氏は、しばらく潜伏させられた。噂では、居所を転々として逃げ歩いたという。そして、それ以後数年間、創価学会の組織からも「聖教新聞」を始めあらゆる出版物からも、名前が消えてしまった。組織内では、市川雄一氏の身代わりに、市川氏の副官だった青柳清参謀が責任を取らされ、万一、捜査の手が伸びた時のことを考えて、聖教新聞出版局から、外部の潮出版へと左遷された。青柳氏はその後、結局、創価学会をやめて小さな出版社を設立して経営し、今日に至っている。

 市川雄一氏が再浮上したのは、衆議院議員候補として神奈川県二区から立った昭和五十年のことである。その間、市川雄一氏には、忍従と屈辱の日々だった。

「俺は、竹入、矢野に後ろから撃たれた。何も、警察にいち早くぶちまけることはないじゃないか。俺は暴行をしていないんだ。無罪だ。それを、問答無用で犯人扱いされ、穴倉に閉じ込められてしまった……。日頃の恨みをこの際、晴らされたんだ」

 市川雄一氏は、無念そうに私に訴えたことがある。

今に見ていろ”——市川雄一氏は、目で語っていた。

 だが、私の見る限り、今日の市川氏があるのは、池田大作の護ってやれの一言のお陰であり、竹入氏、そして警視総監氏の事件のもみ消しのお陰であると言わざるを得ない。それがなければ、市川雄一氏は組織人として、また、政党人としての人生は、練馬事件の首謀者である烙印を押され、終わっていたに違いない。

 それにしても、投票所襲撃事件の主犯である市川雄一氏が、連立与党の、政治改革案推進の中心者であるということは、ブラックジョークを通り越して、不気味ですらある。泥棒が警官になり、暴力団が暴力追放運動の音頭をとっているに等しい。

 さらに奇妙なことには、このことについて、市川雄一氏のコメントが一切公にされていない。つまり、大新聞もテレビも、市川雄一氏にこのことを問い糾した者がいないということである。小沢一郎氏だって、鹿島からの五百万円の献金がどうのこうのとしつこく追及されているのに比べてみて、余りにも不自然に思える。

(懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p32-9

 

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       学会の当事者として対出版、労組、暴力団問題に関与

 

 これらの事件処理の現場で、創価学会・公明党首脳と一体になって働いた。

 当時、顧問の中では学会員でない弁護士が多かったが、学会首脳は「自分達の気持ちと本音の利害が解り、そのために働く弁護士」「池田先生の弟子である弁護士」として、私を重宝した。既に、本来の弁護士としてのあり方から一線を越えて当事者として行動していたようだ。

 その他にも、出版社に対する名誉毀損事件、労働組合や右翼、暴力団等に対する問題等々、事件は次から次へと起こり、その処理に明け暮れた。

 例えば、昭和三十年代末、塚本素山(故人、元塚本総業社長)の仲介で、塚本素山ビルに於いて、藤原行正氏ら学会幹部と広域暴力団幹部との、一種の手打ち式が行われたこともあったし、右翼の左郷屋某が「池田大作と差し違える」と言って狙い続けたが、竹入義勝氏が差しで説得し、思い止まらせたとか、他にも池田大作の生命を狙う暴力団関係者に塚本素山氏を使って金で話をつけたりとか、生臭い話も結構あった。

 こうした献身的な働きと、そして組織活動(後述)における成果とが、池田大作をして抜擢させる原因となった。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p39-40

 

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      学会の常套手段=盗聴・監視・尾行の先がけ宮本邸盗聴事件

 

 言論問題以後、前述したような、内部事務局関係の仕事が増えたが、これはやがて、八尋頼雄弁護士がもっぱら担当してくれるようになり、その分、負担が軽くなった。その分、対外的な活動へとウエイトが移った。特に、情報、謀略といった活動が主な目標となったのである。その第一歩が、共産党議長・宮本邸盗聴事件であった。

 昭和四十四年暮れから五年にかけて、評論家・藤原弘達氏の『創価学会を斬る』出版をめぐって創価学会が、本人や出版社をはじめ、取次店や書店にまで、これを止めるよう圧力を掛けた事件がきっかけで、創価学会は世論の袋叩きにあい、国会でも追及を受けることになった。田中角栄氏の助け船のおかげで、創価学会は辛うじて危機を脱したが、それでも池田大作は世間に対して全面謝罪し、政教分離等を口にせざるを得なかった。この時、創価学会攻撃の急先鋒だったのが日本共産党であった。創価学会と共産党はまるで天敵同士のようにいがみ合っていた仲だったので、この時は、共産党にいいように攻められてしまった。

 そこで創価学会としては、言論問題の収拾と、今後の安全のために、共産党の出方を知ることが何よりも重要な課題になった。共産党対策のため公明党にも、聖教新聞編集部にも、また、創価学会の組織内にもプロジェクトチームが編成された。それらの各チームが収集した情報が私の元に集められ、そして最高首脳の会議に提出されるようになっていた。

 しかし、成果はなかなか上がらなかった。直接的な情報が乏しいために、靴の上から足の裏を掻くような思いの毎日だった。そんな折、たまたま創価学会学生部演説会の席で渡部一郎代議士(当時)が自民党首脳を小馬鹿にした放言演説をしたのを、潜入していた共産党員が録音してマスコミに暴露したため、自民党や世論が硬化して創価学会が窮地に陥るという事件が起こった。情報収集に関しては、共産党の方が遙かに上だったのだ。

 それで、眼には眼をといった感情と、必要に迫られて、共産党情報収集の一環として、宮本邸電話盗聴が計画され、実行されたのである。

 池田大作の承認のもと、北條浩副会長(当時)の決裁で、公明党の陣中見舞金(政治献金である)をごまかして作った裏資金の提供を受け、私が学生部幹部数十名を動員して実行に移したのである。

 私が総指揮を執り、実行責任者は広野照夫氏と竹岡誠治氏だった。二人とも、今は創価学会の幹部である。

 昭和四十五年五月から約三ヶ月に亘って行われたこの作戦では、二、三の重要な会話の盗聴に成功したものの、発信器の不調によって発覚することとなり、共産党は東京地検に告訴した。

 この刑事告訴は、犯人不明のまま迷宮入りとなり、実を結ばなかったが、しかし、五十五年八月、私の内部告発手記を契機に、共産党は改めて北条氏を相手取り損害賠償請求訴訟を起こし、事件は最高裁まで持ち込まれたが、共産党側の完全勝利に終わり、創価学会は百万円の損害賠償を支払ったのである。

 というわけで、この盗聴作戦自体は、百%成功というわけにはいかなかったのだが、ある程度の成功は収め、そして、何よりも撤退と証拠隠滅が完全だったことが、首脳に高く評価された。

 以後、池田大作によってさらに重用され、このとき以降、盗聴・電話盗聴・監視・尾行は創価学会にとって欠かすことのできない手段となり、妙信講の造反事件等、対応を誤れば大事に至るような事件が起こるたびに、盗聴・尾行・スパイの送り込み等、ありとあらゆることを行ってきたのである。

 こうした活動は次第にエスカレートして、ついには創価学会に批判的なジャーナリストや文化人、政治家などの身辺調査も行い、いざという時に備えるようになった。もちろん通り一遍の調査ではなく、スキャンダルや人間関係まで詳しく調べ上げているのである。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p40-3

 

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      嘘だと言うなら国会の証人喚問の場で私と対決せよ

 

 平成五年十月、この件に関して、証人喚問申請が衆・参両議院で提出された。引き続いて、神崎武法郵政大臣に対し、国会の場で何回となく質問が繰り返された。

 国会で追及を受けた神崎氏は、初めは「小倉にいたから、関与するはずがない」「犯人不明の迷宮入り事件だ」ととぼけていたのだが、しまいには、追い詰められて「昭和四十五年の夏期講習会には参加した。山崎が来ていたら、会っている可能性はある」(挺身委員会における答弁=十月二十七日)とまで、認めるに至っている。

 それでもなお、証人喚問を避ける一方で、場外で、日付がどうとか、人数がどうとか、週刊新潮の記事を元に、揚げ足取りを止めない。あげくの果ては、私について、刑務所帰りが云々とか、法曹出身の大臣らしからぬ差別発言を行っている。

 週刊誌の記事は、編集部のリライトの際の行き違いであり、私の提出した原稿には、そもそもとだけ書いてあって、日付は書いていなかった。原文は、手元に残っている。

 検事の人数については、今なお現職の人物については、立場をおもんばかって、記載を差し控えただけである。

 そもそも。市川雄一氏も、神崎氏自身も、発覚しなかっただけで、れっきとした犯罪者ではないか。罪に服した人達よりも悪質、と言わなくてはなるまい。

 なお、私の事件については、集団偽証による冤罪を晴らすべく、近く、再審請求の手続をとる準備をしていることを付け加えておく。

 私の言うことが嘘だと言うなら、端的に告訴されたら良い。さもなくば、堂々と、国会での証人喚問を実現し、国民の前で私と対決したら良いのである。何処がどう違うのか、池田大作も神崎氏も私と堂々対決して決着をつければ、二度とこんな問題に悩まされることはないだろうに。それもできずに、怪文書や愚にもつかぬ弁明でこそこそと済ませようとするから、疑惑を増すばかりではないか。

 表でしらを切りながら、公明党は「そればかりは絶対やらないでくれ」と連立与党内で頭を下げているという。だが、連立与党のためにも、テレビ朝日の椿氏同様、さっさと私と池田大作の証人喚問を実現して下さるようお願いしたい。細川首相には、こんなことはさっさと片付けて、国民のために、山積する重要な政治課題と取り組んでいただきたい。

 一方、自民党に対しても「選挙で全面協力するから、追及を止めてくれ」と裏で泣きついている。

 例によって、新聞・テレビは、こうした動きをまるで報道しない。重ねて言う。池田大作も神崎武法氏も、言いたいことがあったら、国会という、国民が見守るリングの上で、正々と対決したら良い。怪文書や「第三文明」、クチコミでごそごそ場外反則めいた手でデマや中傷するなど、卑劣極まりないではないか。それでも男か!と言いたい。私は逃げも隠れもしない。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p43-5

 

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    神崎郵政相の関与は明らかだ

 

 この事件については、昭和五十五年に至り、私が内部告発に踏み切った以後、真相を明らかにしたため、宮本顕治氏は、同年八月二十六日、北條浩創価学会会長、私、そして実行に加わった学生部幹部を相手取って、損害賠償を請求する民事訴訟を東京地方裁判所に提起した。

 私を除く創価学会側被告達は、当初、事件への関与を全面否定した。しかし、とうてい逃げ切れないと見た被告達は、途中から、事件そのものは認めるとともに、北條浩、ひいては創価学会としての関与を否定し、私が学生部員を使って独断で行った行為だ、と主張した。

 昭和六十年四月二十三日、第一審判決は、実行行為者にされた者の一人を除き、全員に対し盗聴についての不法行為責任を認定し、百万円の損害賠償金の支払いを命じた。その際、裁判所を愚弄するような創価学会側の態度や意図的な偽証が厳しく指摘された。被告らは、これを不服として控訴したが、同六十三年四月二十六日、棄却された。被告らはさらに上告したが、後に取り下げ、控訴審判決が確定判決となった。

 この事件の法廷で、私は、神崎武法郵政大臣に、証拠隠滅工作について相談した事実も明らかにした。内容は昭和四十五年七月三十日から総本山大石寺に於いて開かれた学生部夏期講習会に出席した際、池田大作に失敗を叱責されたこと、そのあと、証拠湮滅が万全かどうかについて、神崎武法氏、福島啓充氏、会田宣明氏(いずれも現職検事)に相談をしたこと、その際、神崎氏は特に発言しなかったが、福島氏が「この際、知らんふりしていたら良い」とアドバイスしてくれたこと等を原告代理人の質問に答えて述べた。

 記憶は映像的に残っていたもので、事柄の性質上、私には忘れようにも忘れられないものである。しかし、証言当時、既に事件から十余年も過ぎており、また、実行行為の大筋から見れば、まるで枝葉のことである。質問者も、実行行為への組織的関与を証明する一つの証拠と思って聞いていることだし、私も、ただ、記憶のままに情景を述べた。しかし、前後の時間的経緯や事情の細部については、そう簡単に記憶の喚起がついて行くものではない。まして、毎年行われる講習会の行事の記憶など、何年分も重なって、資料とか手掛かりがなくては、明瞭に述べることは不可能である。

 この点について、経験豊富な第二審の裁判所は、次のように認定している。

「山崎供述には、その細部に於いて、必ずしも首尾一貫しないところがあることは否めないが、既に十余年を経過した過去の体験を供述するものとして、特に不自然なものではなく、広野供述及び竹岡供述(共犯者で、北条の関与を否定しようと、さまざまに偽証を試みた)のような意図的なものは認められず、山崎と学会とのその後の刑事事件に至った対立関係被控訴人(宮本氏)の本訴提起に至った経緯を十分考慮に入れても、(中略)山崎供述は信用することができる」

「山崎供述には、昭和四十五年の学生部夏期講習会の折、池田会長から本件電話盗聴を叱責されたというように、少なくともその時期が、不自然なものがある。しかし、それとて池田会長から本件電話盗聴を叱責されたというように、少なくともその時期が、不自然なものがある。しかし、それとて池田会長からの叱責の事実自体が捏造されたものと即断し得るものではないし、池田会長、秋谷栄之助、原島嵩、中西治雄等の証人尋問がなされない(控訴人から請求がない)本件に於いて、前掲広野供述及び竹岡供述のように、供述内容自体で信用性がないと認めさせるほど、意図的なものを看取することはできない」

 読めば、学会側の人間がどんなに酷い偽りの証言を行ったかということがよく分かると思われる。断罪されたのは、盗聴行為だけでなく、裁判所や世間を偽ろうとした創価学会の態度そのものであった。とにかく、神崎関与に関しては、ひいては池田大作の関与に関わる部分については、少なくとも右判決に掲げられた人達の証言なくしては否定できない、と判断を下されているのである。

 私自身、その後の努力で、今は、さらに明確な記憶をよみがえらしている。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p45-7

 

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   正本堂御供養金返還運動に謀略で対抗

 

 さて、盗聴は、宮本邸以後、しばらく中断されたが、日蓮正宗との軋轢への対応に迫られる頃から復活した。

 日蓮正宗と創価学会の問題は、後に詳説する。ここでは、その他の事件や謀略について述べる。

 昭和四十七年、正本堂が完成する年になって、創価学会幹部による集団造反事件が発生した。青年部部隊長であり、民主音楽協会職員であった松本勝彌氏が十数人の仲間とともに正本堂御供養金返還を求めて、創価学会を相手取り、民事訴訟を提起する事件が持ち上がり、マスコミにも騒がれることになった。

 松本氏らは、創価学会が言論問題以後、国立戒壇論を引っ込め、正本堂建立の意義を変えたことを理由に「我々は騙されて寄付をしたのだから、返してもらいたい」と請求した。これに併せて創価学会連絡協議会(通称創対連)の人達が、全国的に御供養金返還運動を展開する動きを見せた。

 早速、強力弁護団と訴訟事務局を編成して対応する一方で、松本勝彌氏の追い出しにかかった。当時、まだ民主音楽協会職員であった松本勝彌氏に対し、出入り業者を懐柔して、使い込みや業者からワイロを受け取っていたという嫌疑をでっち上げ、懲戒解雇した。松本氏は地位確認訴訟で応じ、事件は法廷に持ち出された。この事件で創価学会側は、現参議院議員・猪熊重二氏を中心とする弁護団が偽証工作を行い、解雇を正当化しようとした。

 後に、この裁判の継続中に内部告発を行い、裏での偽証工作等を明らかにしたため、創価学会側は窮地に陥り、結局、多額の示談金を支払って和解した。

 松本勝彌氏は、千葉県保田町にある大本山妙本寺の日蓮大聖人御真筆御本尊万年救護本尊こそ正しい本尊であり、大聖人の正流は妙本寺にある、と信じて行動していたが、当然、保田妙本寺住職との関係が問題になった。池田大作は、妙本寺に対し、二億円余の寄進をして本堂建て直しなどを行い、また、日蓮正宗に圧力を掛けて、住職の僧位を格上げするなど、懐柔に努めた。

 本堂建て直しのための建設事務所には盗聴師団が常駐して、電話盗聴を行った。改装された建物の屋根裏には、半永久的な盗聴器がつけられた。

 やがて、松本勝彌氏と妙本寺住職の関係が切れたことを確認したあと、住職と創価学会の北條浩氏とが、仲直りの酒宴を学会本部で行った。酒豪同士の対決ということで、互いに二升近くあけ、最後に妙本寺住職が腰を抜かして勝負がついた。北條浩氏は稀に見る酒豪だったが、昭和五十六年、飲み過ぎの為か、入浴中に倒れて死亡した。六十歳前の若さだった。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p48-9

 

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   創対連も宗放協も中外日報も金で巻き込み利用

 

 創対連に対しては、徹底して買収工作を行った。代々木系を除く稲垣某、梅沢某といった面々は、それぞれ数百万円つかませて手なづけ、和歌山、名古屋等、各地の中心者もやはり金で押さえた。その後で彼らに池田大作が直々会って、懐柔した。

 のちに、稲垣某は私の情報師団の有力メンバーとなった。この二人には池田大作が直接、御護本尊を授けている。

 二人の手引きで、新宗連系の宗教ゴロ的人物を引き入れ、立正佼成会、PL教団等に対する破壊工作を行った。

 まず、昭和四十年代の末、私が創価学会にいた頃「社団法人宗教放送協会」という公益法人を買収し、このような謀略に使ったことがある。

 この団体は、宗教界全体の布教の宣伝活動のため短波放送を利用する目的で設立され、当初は文部大臣、各宗教団体の有力者が名を連ねていたが、その頃は実体のほとんどない幽霊法人となっており、元・佼成新聞や新宗連の幹部をしていた若山嘉成という人物が管理していた。創価学会がこの人物ごと、五百万円余で法人を買い取ったのは、新宗連系の団体を装いながら、立正佼成会、PL教団ら、他教団に対する破壊工作を行うためだった。

 この法人に北村芳典(新宿替え玉投票事件の首謀者の一人。嘘と小細工の天才。現在も創価学会系葬儀社の社長であり、創価学会の謀略と情報活動の中心者の一人である。私に対する中傷文書にも深く関わっている)を送り込み、「宗教放送」という雑誌を出版させて、他宗派の攻撃と攪乱を行わせた。彼らはカムフラージュのため「靖国神社国家護持」推進の活動まで行った(創価学会はこれに反対している)。

 のちに北村芳典は創価学会のマスコミ工作用の偽装出版社などにも関わるなど、汚れた活動を続けているが「宗教放送」時代から、中外日報社の本間庄之助社長とともに真言宗や曹洞宗の内紛介入などを行ってきた。

 中外日報社は宗教業界紙としては歴史は古く、一時は宗教界の朝日新聞などと自賛していた頃もあった。しかし、昭和四十年代後半には、既に創価学会の経済的支配下に入り、社長も入信して、その隠れ謀略機関となりつつあった。

 近年は、発行部数の半分は創価学会で買い上げるなど、一層、支配下に入り、創価学会と日蓮正宗の紛争では徹底して創価学会の代弁者となり僧侶無用論を展開した。

 このことは、かなり知れ渡って来ておるにも拘わらず、なお中外日報に広告を掲載したり、投稿する各宗派の関係者がいるということを、不思議に思わずにはいられない。自分達に危害を加える目的を持つことが解っている者に塩を送り続けているのは、よほど無知なのか、それともそうせざるを得ない弱みかスキャンダルを握られているか、どちらかだろうと推測したくもなる。

 こうした作戦に盗聴材や師団が大いに活躍したことは言うまでもない。

 これらは、北條浩氏(元四代会長)、山崎尚見副会長らの検討を仰いだ上、池田大作の決裁の下に行われたもので、資金の二千万円余は、先の創対連買収費と同様、池田大作から風呂敷包みで、直接、手渡された。この金は、池田大作のお声掛かりで自宅に中西治雄が運び込んできた金庫に保管し、必要に応じて使った。中西治雄という人は、日頃から金庫に関わりの深い人物だったのである。

 このように宗教放送”“中外日報等を使って、創価学会は宗教界の情報収集と攪乱を行ってきたが、折から、昭和四十九年頃、立正佼成会元青年部長だった荒木某に金を渡し、裏から焚きつけて造反劇を演出したことも、その一つである。

 荒木某は、日本青年館で立正佼成会刷新運動の旗揚げ集会を開き、デモやビラまき等を行ったが、その運動員は全部、創価学会青年部員が佼成会員を装ってやったものだった。北村芳典、竹岡誠治(宮本邸盗聴事件犯人)らは、強力な接着剤で庭野日敬氏の自宅の塀に怪文書を貼り付けるなどの嫌がらせまで行った。週刊誌など一部雑誌が大きく取り上げたが、文部省筋からの圧力とかで、キャンペーンは中止となった。

 一方で北村芳典は、PL教団教祖の、戦時中、特高警察に弾圧され、拷問された際の調書などを使って、下半身攻撃を執拗に行った。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p50-53

 

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  自民党市議、暴力団、金丸信まで使った富士宮問題

   

  “宗教放送を使っての謀略が攻めなら、守りの代表は、富士宮市問題であった。

   日蓮正宗総本山大石寺の所在地・静岡県富士宮市は、創価学会にとっても重要な拠点であった。しかし、ここの地元対策には手を焼いた。

   富士宮市における創価学会の問題は、昭和四十年から同四十七年にかけての正本堂建立事業から生じた。

   この事業は金集めも金の処理も使い方も杜撰であったため、私と桐ヶ谷、八尋の三人の弁護士と十数名の本部職員で、数年がかりで帳簿や議事録を全て改竄し、目的外の支出を学会本部の支出に振り替えるなど、後始末に苦労した。

   正本堂建設委員長に就任した池田大作は、正本堂建立に必要な用地確保という名目の元に、都議会議員や地元議員を使って大石寺周辺の土地を買いまくった。その総量は、三百万坪にも及んだ。そのほとんどは農地であったから、農地法上の手続きが必要だった。しかし、池田大作はそうした手続きを無視した。結果として昭和四十七年の段階で、七割近い土地が、農地法による手続未了のままであり、しかも、そのうち半分くらいは、農地以外へ転用が許されず、農業従事者以外の所有を禁止される土地であった。このような農地法違反に対しては、契約が無効とされる他、刑事罰が科せられる。さらに、正本堂建設に伴い、敷地内に通じていた市道を廃止し他に道路を建設して市に寄付する、という約束を市と交わしていたが、市道について、廃止の手続をとらないままに勝手に取り壊して、その上に正本堂を建ててしまった。これも刑事罰の対象となる違反行為である。

   日頃から創価学会は、大石寺の存在する富士宮市に対して配慮を欠く嫌いがあった。毎年百万人をこえていた大石寺への登山者は、駅から団体バスで市内を素通りし、買い物も飲食も大石寺境内の専用売店で済ませるから、地元へは利益が落ちないばかりか、電気、水道、下水、道路等、公共負担ばかりが増えた。大石寺や創価学会が買い上げた土地はすべて無税となって、税収は減る一方であった。富士山麓は宗教のメッカで、本拠とする他の宗教団体も多く、その反発も強まった。こうした状況の中で、富士宮市政の混乱から生じた疑獄事件について追求派に回った公明党に対する恨みもあって、昭和四十八年、地元市民が池田大作を告発する事件が起こった。池田大作の指名で私はこの事件の処理に当たったが、先に述べたような弱みを持っていた創価学会としては、何とか穏便にすませるべく、懐柔策を取るしかなかった。

   池田大作は富士宮市に積極的に介入し、支配し、天理教における天理市の如く、富士宮市を創価市にするべく工作するよう、私に命じた。

   私は、当時の市長(社会党)を実質的に動かしている全逓労働組合の幹部と接触し、市長と、そして市議会のボスの掌握に成功した。その際、郵政省の外郭団体・郵政互助会の子会社である弘信商事、市長の政敵であった自民党市議懐柔のために融資して焦げつきかけていた金を、創価学会が肩代わりした。その名目は、その市議が所有していた土地(弘信商事の抵当に入っていた)を、市庁舎新築移転計画用地として、富士宮市の公団が先行取得して買い上げ、その買い上げ代金を創価学会が市に貸し付ける、というものだった。創価学会が市の公団に貸し付けた金は市議の会社に支払われ、その金はただちに弘信商事に返済された(この土地には結局、市庁舎は建てられなかった)。これにより、市長も全逓幹部も弘信商事も救われ、また、自民党市議も助かり、その市議の口ききで、池田大作の告発者も矛を収めた。池田大作は、創価学会からさらに二億円、三億円と富士宮市に寄付を行い、公園作り、駅前の都市計画などを行った。その額は、十億円を下らない。あげくの果ては、アメリカにおける創価学会の拠点であるサンタモニカ市と姉妹都市の縁組みをさせ。そのセレモニーのためという名目で、市長以下幹部職員、全市議幹部(共産党を除く)、有力者をほとんど丸抱えでハワイ・アメリカ旅行に招待した。アメリカでは、現地会員が彼らを下へもおかぬ接待をしたことはいうまでもない。

   こうした金の力のお陰で、池田大作は、富士宮市から名誉会長の称号を受けた。そして、富士宮の市政を実質的に支配するようになった。

   その後、大石寺封じ込めと地元対策、そして創価学会自身の金儲けのために、富士山麓に墓園造成を計画し、創価学会の忠犬となった自民党市議の会社が中心となって、二百数十億円にのぼる工事を請け負うこととなった。

   しかし、市長や自民党市議の勢力と反対勢力との政争などから種々トラブルが起き、最後は傷害事件まで生じたが、双方の陣営に対するワイロと、地元暴力団の積極的な協力によって、何とか完成にこぎつけた。最後まで妨害した人物に対しては暴力団がブルドーザーで家につっこみ、日本刀で片腕を切り落とすという荒療治で鎮圧した。

   何しろ国立公園のど真ん中で、有名な大沢くずれのそばの土地であり、保安林、水源から養林、開拓農地、防災地区、砂防地区その他複雑な規則が絡み合っていて、建設省、環境庁、知事や市長、そして自然保護団体等々の協力がなければ絶対に開発ができる場所ではなかった。それでもなお法律違反にほっかむりしてもらったまま、開発許可にこぎつけた。

   後に、政治家や地元工作に支払った裏金の処理なども絡んで、工事代金をめぐって業者と創価学会の間にトラブルが尾を引いた。

   私が内部告発に踏み切った後、私が逮捕されている間に私の預けていた書類が流出し、それが原因で、富士宮市に対する創価学会の支配、介入が明らかになった。また、墓園造成工事をめぐる疑惑が提起された。その真相解明のため、市議会に百条委員会が設置され調査に当たった。これを阻止しようとして、墓園工事の請負業者社長が市議会議員に贈賄して、逮捕された。

   私は、百条委員会に証人として喚問されたが、数日前、地元暴力団に「出頭したら生命の保障はないですよ」と、証言をやめるように忠告された。

   また、墓園造成を請け負い、私の恐喝事件にかかわりの深かった、造園会社の会長である県会議員から、「百条委員会で証言するなら、先生の刑事事件裁判で私は敵に回り、学会側に付くよ」と圧力をかけられた。

   しかし、私は、万一のことを考え、知り合いのジャーナリストとともに、富士宮市に出かけた。ところが、肝心の百条委員会は、委員である市会議員が欠席して定足数を満たさず流会となってしまった。市議会議員が、中央からの圧力と、地元暴力団の脅迫に屈して、当日、雲隠れしてしたのである。

   その後、百条委員会は、池田大作の証人喚問を求めたりする動きを見せたものの、次第に尻つぼみとなり、やがて消えてしまった。

   創価学会と池田大作の疑惑も、闇に葬られた。

   後に、この際の報酬をめぐって地元暴力団と創価学会の間にトラブルが生じ、暴力団から「使い捨てはけしからん」との内容証明郵便が送られたり、学会本部にピストル乱射事件があったりした。何しろ、不正追及派の市民の家に蛇が投げ込まれたり闇討ちが行われたりしたのだから、使われた方にしてみれば、高い報酬を期待するのも当然だった。その後、バブルの時代には、創価学会から何らかの形でそれなりの仁義料を支払うことで関係は落ち着いていたらしいが、最近また、不穏な関係にあるやに聞いている。

   一方、中央政界からの圧力については、矢野絢也氏(元公明党書記長)が手記で明らかにしている如く、公明党から二階堂氏らに依頼し、大昭和製紙の斉藤一族の政治力に頼り、また、金丸信氏も富士宮市に乗り込んで工作をした。そして、富士宮市議会の百条委員会鎮圧に成功したのである。

   新生党の杉山代議士と創価学会は、杉山氏がこの百条委員会つぶし問題に尖兵となって働いたことから深いつながりが生じ、公明党は、それまで候補を毎回立てていた静岡地区からの立候補を以後とりやめて、杉山氏を公明党候補とみなして全面的にしえんすることとなったのである。池田大作と親しい外部の人達は皆、クサイ仲で結びつくのである。

   ここでも、池田大作のボロ隠しのための、公明党と自民党の一部の典型的な癒着措置がみられるのである。

   とにかく池田大作は、数十億、正本堂や大石寺周辺を含めると、実に一千億もの金を富士宮市に注ぎ込み、一時は名誉市民にまでなったが、最後はすべてを失ってしまったのである。金を搾り取られた学会員こそ、被害者である。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p53-9

   

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       訴訟相手の弁護人を裏切らせた「月刊ペン」事件

   

  “池田大作を守るために手を染めた事件は、そのすべてを書き留めるとなれば、厖大な紙数を必要とする。後世のためにいつか記録として残すつもりでいるが、今回は隈部裁判を付け加えるに止めたい。

   昭和四十九年から翌年にかけて「月刊ペン」誌上で、編集長・隈部大蔵氏が創価学会批判の連載を行ったが、その内容が次第に池田大作の女性関係暴露に及んでいった。事が事だけに側近達もうかつに手がつけられず、成り行きを見守っているうちに、池田大作は周囲が気を利かせて何とかしてくれるべきだと対応を求めてきた。

   私は、隈部や「月刊ペン」社の調査とともに内容の検討を行い、刑事訴訟の準備をした。

   隈部氏は、故・戸田城聖二代会長と柏原ヤス氏(元参議院議員)、池田大作と渡部道子氏、多田時子氏(いずれも元代議士。公明党議員夫人)らとの乱れた性関係を露骨に暴いた。他に、吉田章子氏ら学会首脳の妻たちとの関係にまで及んだ。

   もはや、渡部氏と「月刊ペン」をそのまま放置しておくことは、創価学会と池田大作が事件を認めることになりかねない。

   これを、名誉毀損で告訴することはやさしい。しかし、隈部氏が真実であることを法廷で証言したらやぶ蛇になる。私は、池田大作の乱れた女性関係が事実であることをこの時期にほぼ知っていたから、隈部氏がどの程度の証拠を持って書いたのかを計りかねて、告訴を躊躇した。また、創価学会にとって、池田大作は神聖にして犯すべからざる存在であり、下半身のスキャンダルのため法廷に証人として立たせることなどもっての他であった。池田大作の手を煩わすことなく「月刊ペン」の記事を封殺しなくてはならない。しかし、隈部大蔵氏には言論問題の前に、北條浩氏(元四代会長。故人)に「象がアリを踏み潰すように、お前なんか踏み潰すぞ」と脅かされ、批判書の出版を取りやめた屈辱がある。そのときの口惜しさを晴らすため、今回は絶対に引かぬ構えでいた。

   結局、公明党の政治力を使って、警察の協力を得る他はないということになった。

   この時期、公明党首脳を通じて、井手秋雄、小谷野進弁護士らが創価学会へ売り込みを図っていた。彼らは、裁判所や検察庁、そして警視庁への特別のコネをひけらかし、この事件の処理を引き受けようと申し出た。

  「こんな告訴事件で池田先生を法廷へ出すような処置をしたら、それは三流弁護士ですよ」

   彼らは威勢良く請け負い、公明党・創価学会首脳はこれに乗せられた。神崎武法氏は現職の検事だったが、私の処へ、心配して忠告に来た。しかし、創価学会首脳は聞く耳を持たなかった。

   隈部大蔵氏は、公明党からの強い要請を受けた警視庁によって逮捕され、起訴された。私は、この段階でひとまず手を引いた。

   秋になって公判が始まると、立会検事は当然のことながら「告訴の意志」と被害確認のため、真っ先に池田大作の証人申請を通告して来た。池田大作以下、首脳が真っ青になったのはいうまでもない。池田大作が女性スキャンダルで法廷に引き出されることだけで大変なダメージになるし、万一、相手のとんでもない隠し球が破裂したりしたら、それこそ収拾がつかなくなってしまう。必死の時間稼ぎをする一方で、池田大作は私に対策を命じた。北條浩氏以下首脳は私に、忠告を無視したことを謝罪し「池田先生を法廷に出さないで済むなら、どんなことでもする」と哀願した。

   私は、友人の笹川陽平氏(笹川良一氏三男、現船舶振興会理事長)に相談し、同氏は数日間の調査ののち、引き受けてくれた。北條浩氏が笹川良一氏の自宅へ正式に依頼に行き、私と笹川陽平氏が事に当たった。遠矢直輝氏(内外タイムス社長)らの協力で「月刊ペン」社社長・原田倉治氏、取締役・栗原某氏及び隈部大蔵氏の弁護人らと交渉が始まった。原田氏らは当初、多額の金を要求したが、笹川陽平氏の折衝の結果、二千万円(その他に、諸費用として一千万円ばかりかかった)で折り合いがついた。

   ところが、肝心の隈部大蔵氏は、頑として応じなかった。そこで、結局、隈部氏はカヤの外において、弁護人が池田大作を法廷に出すことなく裁判を終わらせる、ということで話をつけた。手打ち式は、昭和五十年暮れ、ニューオータニ庭園さざんか荘で、私と笹川陽平氏、隈部氏の弁護人らが出席して行われた。

   それ以後、一審判決が終わるまで、私と笹川陽平氏は隈部氏弁護人と築地の料亭などで密かに何回も会合を持ち続け、隈部氏を裏切って訴訟を進める手筈の打合せを念入りに行った。

   結局、隈部大蔵氏は弁護人の裏切りに会い、一審ではさしたる反撃もできぬまま執行猶予つきの懲役刑を言い渡された。弁護人が敵に買収されていたのだから当然である。

   昭和五十五年、私が造反に踏み切ったとき、隈部氏は上告審で争いを継続していた。私は彼のために最高裁宛に一通の上申書を書き、裏工作の事実を暴露した。その結果、この裁判は上告審で原審差し戻しとなった。

   差し戻し裁判では、池田大作も証人として出廷させられた。この日、裁判所を取り巻いた傍聴希望者は裁判所始まって以来の記録となり、今日もまだ破られていない。

   もちろん不倫の相手とされた渡部道子氏(当時、衆議院議員)も出廷したし、私や原島嵩氏も出廷した。池田大作が渡部(当時まだ松島姓だった)道子氏の自宅三畳間で、全裸で、道子氏にバスタオルで身体をふかせていた、という爆弾証言も飛び出した。

   この裁判は、直接の当事者が口を揃えて否認したため「事実の立証なし」として有罪は覆らなかったが、しかし、形ばかりの罰金刑に軽減された。事実と取られても仕方のないような状況そして、池田大作の公人としての立場が認定されたための軽減であった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p59-63

   

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      渡部氏の死後、次々に明らかになった事実と女性達のその後

   

   隈部氏は、この裁判を不服として上訴中、病に斃れた。隈部氏の死後、渡部道子氏の実姉の夫である藤原行正元都議会議員の造反があり、同氏の口から池田大作と渡部道子氏の関係について生々しい証言が公にされた。また、隈部裁判で渡部道子氏の実弟らに命じて創価学会が行わせた偽証工作も明らかになった。池田大作は、渡部道子氏に実家の三畳間で裸体をふかせた、という証言を否定するため、実弟に三畳間などなかったという偽証をさせたのであるが、その工作を藤原行正氏は暴いた。また、後に造反した竜年光氏(元都議会議員)も「俺もその三畳間は知っている。そこで一ヶ月ぐらい寝泊まりして、選挙の指揮をとったことがある」と話しているのである。その時の写真も出て来たから、偽証は動かぬものとなった。

   隈部氏は無念をのんで死んだが、彼の名誉のために、そして、かつて彼に加えた陰謀の罪を償うために、今、事実を明らかにする次第である。

   池田大作のお手付きとされた女性達のその後の人生も、決して明るくはない。「ブラジルの女帝」として君臨したシルビア斉藤は、池田大作との関係を隠すどころか、それを誇らしげに見せたことで有名だが、数年前に病死した。聖教新聞をはじめ、創価学会ではその死をほとんど報道しなかったし、彼女の主人はその後まもなく、ブラジルの責任者の地位を追われてしまった。

   渡部道子氏も、主人の渡部一郎氏ともども公明党議員から引退させられ、その後の消息も、前半生の栄光に比べると極めて寂しい状況におかれている。いずれお手付きとされた女性達自身の口から真相が語られるのも遠いことではないと思われる。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p63-4

   

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       言論問題の後は全国で池田専用豪華施設競争

   

   言論問題で大揺れに揺れた創価学会の危機的状況が一段落したのは、昭和五十年暮れであった。すると、池田大作のわがままが復活した。日蓮正宗、公明党に対する総括は別の項目に譲るとして、ここでは、池田大作が会員から特別財務と称する金集めを行い、全国に専用施設を作ったことについて述べる。

   口火は、九州担当の副会長であった福島源次郎氏が切った。九州で「池田先生に帰命しよう」と唱え、「特別財務で会館や研修道場を作り、御本仏・池田大作先生に御供養しよう」と檄を飛ばし、信じられないほどの大金を集めた。これに味をしめた池田大作は、全国に特別財務という名目で金集めを指示した。早速、昭和五十年から五十二年にかけて千三百億円を集め、全国に豪華な施設を作る計画が立てられた。

   この特別財務によって全国に作られた施設に、池田大作の超豪華専用施設が設けられた。それは、池田大作の要求と、ゴマスリ競争に駆り立てられた地域幹部との相乗効果によって止まるところを知らずエスカレートした。建設予算の半分以上が、豪華専用施設のために費やされたが、その結果、桧風呂や大理石風呂、プールやトレーニングルーム付き、サービス係の女性部屋、絨毯張りのトイレ等々、信じられないような施設が全国各地に出来上がった。中でも、鹿児島県霧島、東京・八王子市加住、静岡県熱海学会本部第二青葉寮、東京・渋谷研修所、大石寺対山坊等は飛び切りの豪華さで、初めて見た時さすがの私も息をのんだ。池田大作は、これらの施設に、学会幹部の妻となっている女性や第一庶務の女性とともに泊まり歩いた。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p64-5

   

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       民社党の政治的攻撃に取り壊したり隠したり……

   

   昭和五十二年、民社党の春日一幸氏から竹入氏宛に一通の手紙が届き、民社党が国会に於いて池田大作の豪華専用施設等について調査を行い質問する旨を通告して来た。創価学会は大恐慌に陥った。

   私は既に、隈部事件その他の処理を口実に、学会本部の運営面から遠ざかっていた。池田大作の気まま我が儘に一々振り回され、ご機嫌伺いをしながらボロ隠しのための法人事務処理をすることなど、性分に合わない。そんなことは野心に燃えた八尋頼雄氏や桐ヶ谷章氏など理屈をつけて長いものに巻かれることを何とも思わぬ人達にやって貰えば良かった。既に、創価学会から外に出たいとの願望に駆られていたのである。

   ところが、民社党から宣戦布告状が届くと、池田大作も北條浩氏も、直ちに私の出動を要請した。

  「いやあ、いつ破綻するか、ひやひやしながらこれまで来た。心臓が痛い毎日だった。とうとう、最悪の形でやって来た。友さん、どうしたら良いか。何とか処理してくれ、頼む」

   北条氏は、泣かんばかりにして頼んだ。

   早速、調査にかかったところ、実態は予想を遙かに越えた。

   霧島では、国立公園のど真ん中で、法律を無視して開発したり施設を作ったりしていた。愛知県渥美半島では、地域指定の規則を無視した形で施設が作られていた。北海道では、所有地ではない国有林の保安林を勝手に切り倒してしまっていた。広島では、税務署が池田大作の専用施設を見て「宗教とは関係ないから課税する」と言って来た。

   なにしろ、夜半に突然、池田大作が建設局の職員や創造社(学会専用の設計会社)を東京から呼びつけ「庭のこの部分が気に入らぬから、明朝までに直しておけ」と命令し、その通りにしないと職員の首が飛ぶというようなことが日常行われていたのだから、開発許可など満足に手続をとる暇はなかった。だから、池田大作の思いつきで勝手気ままに造成工事、造園工事、建設工事が行われたのである。問題が生じない方がおかしいのが、創価学会である。

   そして、全国に作られたラブホテルまがいの構造の、悪趣味で金ばかりかかった専用施設の実態は、調査によって表に出されたら、創価学会にとって、致命傷になりかねなかった。

   急遽、対策班が編成され、違法な造成や建築物が取り壊された。専用施設も急遽記念室”“恩師記念室などにカムフラージュされた。超豪華な調度品や美術品などは、創価学園、民音、創価大学の池田専用室など、別法人の施設や幹部個人の家に隠された。そうでないものは、惜しげもなく壊されて捨てられた。一夜のうちに熱海では野天岩風呂が宗教施設にはふさわしくないということで埋められ、箱根では巨大な石碑がやはり埋められた。霧島などでは施設を取り壊し、あとに草や木を植えてカムフラージュした。

   急造の恩師記念室では、戸田城聖二代会長が獄中で使用したとされる、牛乳瓶のフタを糸で綴った念珠などが置かれ、参拝した会員を感動させる仕組みになっていたが、ある会員が目を近づけて見ると、牛乳瓶のフタの日付がなんと昭和五十二年五月となっていたので不審を抱き、やがてこれがきっかけで退会してしまった。

   この時、池田専用施設から持ち出され処分された調度や家具はおびただしかったが、その中に、金庫もたくさんあった。多くは埋められたが、中には聖教新聞社地下倉庫に長い間放置され、その後処分されたものもあった。その一つが横浜市朝日区のゴミ捨て場で発見され、その中に一億七千万円の現金が入った風呂敷包みが入っていて、話題になったものである。

   私には、新聞や雑誌に掲載された、現金を包んでいた風呂敷に見覚えがある。八王子の土地買収にからんで業者が池田大作宛てにリベートとして持って来て、中西治雄氏が受け取っていた包みと同じものである。贈った側の人物も、心当たりがあると述べている。池田大作は、この金を風呂敷包みのまま専用室の金庫に入れていたが、昭和五十二年の騒ぎで、それがどさくさに紛れて捨てられてしまったと思われる。

   創価学会は、こうして大慌てで証拠湮滅工作(これにかかった費用も莫大であった)を行う一方で、民社党の懐柔に乗り出した。この年の参院選以後、公民選挙協力が実質的に成立した。

   そもそも民社党とは、言論問題での追及を止めてもらう際、将来、公明党を合併させるという約束を当時の西村栄一委員長に対して池田大作がしていた。しかし、例によって池田大作がこれを反古にし、空手形としていた。これを怒って、民社党が池田専用施設攻撃に着手したのである。だから、創価学会が「選挙協力で票をよこす」と言い、具体的な行動をしたら、民社党としては何も言うことがなくなったのである。汚い取引という他ない。池田大作も、民社党首脳も、学会員を取引の材料にしたのだから。

   このような状況の中で、生身の池田大作に接し、その醜い部分の処理にばかり当たらせられるようになって、次第に心境の変化を生じて来たのは、当然の成り行きと言う他ない。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p65-9

   

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  第二章 間近に見た池田大作・創価学会の正体と野望

   

 

        日蓮正宗との紛争で学会に対する気持ちが決定的に

   

   遠くから見上げていた時の池田大作は、実に立派に見えた。池田大作に言葉を掛けられただけで感激に身の震える思いがしたし、事実、池田の前で感涙を流す人達を数限りなく見て来た。

   だが、創価学会の中枢に入り、池田大作を裏舞台から見るようになってから、尊敬の念は日々薄れた。まして、ボロ隠しの数々を請け負うようになってからは、幻滅感を味わうことの方が多くなった。一方で、何も知らぬ善良な会員を騙し続けることに手を貸すことが、次第に空しくなってきた。私が求めていた宗教とは、実態はまるでかけ離れていた。

   自分の立身出世のために、或いは生活のために、それでも創価学会にしがみつき、池田大作に奴隷の如く仕えているのが創価学会幹部達である。だが、私は、立身出世などどうでもよかったし、生活のためなら、他にいくらでも仕事ができるという自信があった。

   池田大作という人物は全くこりない人間で、反社会的な行為で躓くと「俺の思うとおりやらせない社会が悪い」と思い込む。

   民社党の追求で専用施設を一度は壊したりしたものの、最近では以前にも増して豪華な専用施設を作っているし、公明党との政教一致問題にしても、批判されている間は少し慎むが、嵐がすぎると前以上に直接支配を強化する。

   こんな人物に奉仕することは、人生と才能の浪費以外の何物でもないと気付いた時、私の心は池田大作と創価学会から離れた。

   既に、昭和五十年代初めから少しずつ仕事を減らし、桐ヶ谷氏や八尋氏らに肩代わりするように努めた。いずれ創価学会から足を洗うつもりで、心を許した外の先輩達に少しずつ相談し始めた。弁護士会の仕事や同窓会の仕事にも、積極的にかかわるよう務め始めた。

   池田大作ら首脳も、こうした心境の変化をそれとなく感じたらしく、一方で多額の現金をくれて懐柔しようとしたり、一方で私の周りに監視の網を張ったりし始めた。

   そうした時期に、日蓮正宗と創価学会の紛争が起こり、そのことが私と創価学会の関係、ひいてはその後の生き方に決定的な影響を与えることになった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p72-3

   

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      牧口、戸田は「反戦」を唱えたから投獄されたのではない

   

   ここで、日蓮正宗と創価学会の関係、及び、創価学会の歴史をかいつまんで述べる。特に、最近、池田大作が意図的に歴史を改竄していることがあるので、その点の訂正も併せて行うこととする。

   創価学会は、日蓮正宗の信徒団体の一つであった。戦前、日蓮正宗の信徒で教育に関係した人達が集まり、牧口常三郎の唱える価値論を研究する創価教育学会が結成された。牧口は当然、理論や宗教面での中心者だったが、実際は、戸田城聖と事業や金銭関係で繋がりの深い人達の集まりであったといわれている。

   終戦間近になって、牧口常三郎、戸田城聖らは、不敬罪で捕らえられ、牧口は獄死した。

   この間の事情について、池田大作はじめ創価学会は「牧口会長は反戦を唱え、軍部に弾圧されて獄死した。創価学会は、だから初代以来、反戦平和の団体である」と述べている。しかし、これは真っ赤な嘘である。

   牧口常三郎は、「天皇以下、国民全てが日蓮大聖人に祈らないから戦争に負ける。大聖人が仰せの通り、他の宗教を禁じて、日蓮正宗の御本尊に戦勝を祈らなければ国が滅びる」と説き、また、当時の郡部の宗教政策であった「日蓮宗各派の統一」に反対したため、不敬罪で投獄されたのである。戦争に反対したのではなくて、戦争に勝つため自宗での祈りを国家に求めたが為に弾圧されたのである。

   当時、全ての宗教が戦勝祈願をしたのだから、そのことをどうこういうつもりはない。創価教育学会の実験証明座談会も、まず宮城遙拝、戦勝祈願から始められていたという、当時の記録もある。それを反戦平和の宗教などと作り事ですり替えることは、詐欺師の行為である。歴史の出発までこのようにねじ曲げる理由は、池田大作がノーベル平和賞を狙っていることと決して無関係ではない。

   二代会長・戸田城聖も、極めて右翼的体質の強い人だった。体育祭では女子部員に長刀(なぎなた)を持って舞わせたり「俺も行くから君も行け。狭い日本には住み飽きた。海の向こうにゃ支那がある。支那にゃ五億の民が待つ」と学会員に歌わせていた。「反戦平和」など一言も口にしていない。

   戸田城聖には原水爆禁止宣言なるものがある。それは「何人であれ原水爆を使う者がいたら死刑にすべきだ」というもので、まるで他愛なく幼稚なものであった。以後、創価学会が原水爆禁止の運動をしたということも、昭和四十年代後半までなかったのである。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p73-5

   

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     戦後、学会幹部はみな大蔵商事(高利貸し)で食べていた。

   

   戦後、出獄した戸田城聖は出版事業や金融業に手を付けたが失敗し、莫大な借金を負った。そこで、創価教育学会を創価学会と改称し、再建を図る一方、会員から金を集め、これを運用して手形割引などを行う金融業を営んだ。大蔵商事というこの金融会社は、和泉覚氏(元創価学会副会長、現参与会議長)が社長となり、池田大作、柏原ヤス、中西治雄、森重紀美子(戸田の愛人)らが役員であった。大蔵商事と並んで東洋物産という会社があり、北條浩氏が社長で、やはり学会幹部が役員としてメシを食っていた。大蔵商事は、金持ちの会員から金を集めて高利貸しを行い、東洋物産は、大蔵商事の担保流れ品を処理したり、会員に電気製品やナベ・カマの類を売ることを仕事としていた。

   創価学会首脳の多くは、この二つの会社で養われていたのである。

   池田大作をはじめ創価学会首脳全部が、この二つの怪しげな会社から足を洗い、創価学会専従職員として創価学会から給料を貰って生活するようになったのは、池田大作が会長になってからのことである。

   そしてこの会社は、創価学会の外郭会社として後まで残り、その一つが起こした不始末の処理に拘わったことが原因で、私は恐喝罪のえん罪を着せられたのである。その経緯は、別の機会に述べる。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p75-6) 

   

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     一信徒団体がなぜ独立宗教法人になれた?

   

   創価学会は、戸田城聖の発想による軍隊的な組織と戦闘的な布教方法で、昭和二十年代の後半から急激に勢力を伸ばした。戸田城聖が死んだ昭和三十三年四月の段階で、百三十万所帯の勢力となっていた。

   この間、昭和二十八年には、創価学会は独立の宗教法人となっている。

   日蓮正宗の一信徒団体に過ぎなかった創価学会が、なぜ独立の宗教法人となれたのか、なぜ日蓮正宗がこれを許したのか、今でも疑問が残る。

   一方の日蓮正宗は、日蓮大聖人の直弟子の六老僧の一人で、大聖人の後継者として見延山久遠寺の貫主となっていた日興上人が、地頭の波木井実長と不仲となり、見延を離山した後、大石ヶ原に開いた大石寺を総本山とする、日蓮宗の宗派である。日興上人の門派は、興門派或いは富士門流と呼ばれているが、日蓮正宗は明治時代に他の興門派とも別れて大石寺を総本山とする宗団を形成した。

   日蓮正宗では、大石寺に秘蔵される一閻浮提総与、本門戒壇の本尊を根本とし、日蓮大聖人を本仏と定め、日興上人以下、代々の法主の血脈付法の正統を唱える。

   教義や化儀について触れることは私の職分ではないし本書の目的ではないから、省略する。

   こじんまりとした日蓮正宗という教団は、寺院を中心に僧侶と寺院に所属する法華講という信者の組織とで成り立っていたが、明治初期の廃仏棄釈運動、戦時中の宗教行政や神道主義による弾圧、戦後の農地解放等々、仏教教団の苦難を味わいつつ、戦後まで細々ながら維持されてきた。

   戦後、信教の自由と占領軍の宗教政策を追い風に、新興教団が勢力を伸ばす中で既成教団は出遅れ、取り残された。日蓮正宗も同じだった。困窮が続いた。その日蓮正宗にとって、新興教団の後を追うようにして世に出て来た創価学会は、ある面で救世主のように見えたに違いない。創価学会の教勢拡大とともに、多数の会員が大石寺に登山し、また、末寺は会員の授戒や冠婚葬祭で賑わった。

   創価学会は、日蓮正宗、大石寺の信徒団体であることを強調し、「新興宗教ではない」と特別の権威づけに利用したし、日蓮正宗としては、何よりも疲弊していた台所が潤った。両者は、持ちつ持たれつ、理想的な補完関係と見られた。

   だが、実際は、日蓮正宗と創価学会の関係は、当初から必ずしも円滑ではなかった。

   戦時中、日蓮宗の合同を主張した小笠原慈聞師という僧侶に対し、「牧口先生を死なせたことの仇討ちだ」と称して青年部による集団暴行を行ったり(いわゆる狸祭り事件)、大石寺の所化頭を境内の潤川に投げ込んだりするなど、日蓮正宗に対して宗団の力で威圧を繰り返している。

   僧侶達や古くからの法華講員の中には、創価学会の現世利益を正面に打ち出した布教の仕方や教義解釈に対して、批判的であったり拒絶反応を示す者も少なくなかった。だが、数と力が次第に圧倒していった。日蓮正宗と創価学会の関係は、日蓮正宗が権威の上では上位にあるにも拘わらず、創価学会の方が支配し、動かすようになっていった。

   創価学会の宗教法人認可に当たっても、日蓮正宗は必ずしも乗り気ではなかった。できれば許したくない、という空気の方が強かった。それを創価学会が力と謀略で押し切ったのである。戸田城聖の指示で、青年部幹部は、日蓮正宗の高僧に対して女性を近づけ誘惑させた。その女性が懐妊すると、戸田城聖はその高僧を責めた。

  「他人は許しても、この戸田は許しませんぞ」

   戸田城聖はそう言って、ひたすら謝る高僧を、持っていた数珠で何度も打った。その席に、池田大作と藤原行正が同席していた。

   このような策略を用い、一方では青年部の暴力をちらつかせ、多数の会員を擁する経済力を使って、戸田城聖は、日蓮正宗側を押し切って、創価学会の法人化を認めさせた。その際、日蓮正宗側は、信徒団体としてのあり方を守ること等三項目の条件を付けて、抵抗の跡を残した。

   後に、ある信者が、六十六世日達上人に対して、「日達上人が庶務部長の頃、学会に懐柔されて、管長印を勝手に使って創価学会の法人化を認める手続をした」と中傷したことがあった。我々は、取るに足らぬことだと考えて、放置するよう進言したが、日達上人は「私は、絶対にそんなことはしていない。第一、創価学会の法人化は私の意志で行ったことではない。すべて、当時の管長の意向で行われたことだ。こんな中傷は、後世のために許しておけない」と異常なまでのこだわりを見せ、名誉毀損で訴えた。今にして思えば、庶務部長当時、創価学会の横暴に押し切られた宗務院の口惜しさを表現されたのだろうと思っている。

   戸田城聖はいろいろと最もらしい口実を設けたが、信徒団体を独立の法人にする必然性はまるでない。要するに、戸田ら学会幹部が日蓮正宗の干渉を排して勝手に振る舞いたいというのが本音であった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p76-80

   

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   会長就任後、池田は宗門支配・吸収戦略を露わに

   

   昭和三十三年、戸田城聖が祈りと唱題の甲斐もなく五十三歳の若さで病死し、どう三十五年、池田大作が三代会長となった。

   戸田城聖の代には、創価学会は、日蓮正宗からフリーハンドを得ることが目的に見えた。しかし、池田大作が会長になると、対日蓮正宗戦略は、逆に「支配し、吸収する」ことへと一歩進められた。

   池田大作は会長就任後、時の日蓮正宗の管長である日達上人を学会本部に呼びつけ、露骨な恫喝を行った。

   後日、日達上人が私に「何で池田の若造に法主の私が呼びつけられドヤシつけなくてはならないのか後で悔しくて涙が出ましたよ。だが、あの時は相手も若いことだし我慢しました」と語った。

   日達上人は、公式には親創価学会路線を踏襲し、反学会色の強い寺院や僧侶を切り捨てる処分を行っている。また、創価学会による折伏路線に全面的な支持を与えていた。

   昭和四十年、創価学会が正本堂建立御供養金三百五十億円余りを集め、その直後に都内品川区妙光寺に於いて正本堂建設委員会が開かれたが、その際、池田大作は自分の席次と椅子が皆と同じであるのが気に入らないと怒り狂い、池田大作以下、創価学会側出席者は席を蹴って帰った。

   その責任を取らされて、日蓮正宗総監らが更迭され、日蓮正宗は以後、池田大作を法主の隣に、法主と同じ待遇で座らさせることなどを決めて院達として公布するなどした。要するに、日蓮正宗側が全面譲歩したのである。

   以後、池田大作は、法要の席では法主の真後ろに特別席を用意され、それ以外の時は法主と同等の扱いをされることになった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p80-1

   

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     国立戒壇をめぐって対外的、対内的に紛糾

   

   言論問題の際、創価学会の主張する国立戒壇建立は憲法違反ではないかとの批判が他党から為されたが、池田大作はこれに対し「現在建設中の正本堂が日蓮聖人御遺名の戒壇であり、これは民衆立である。国立戒壇は必要ない」との回答を、東京都を通じて文部省、国会へ提出した。

   日蓮正宗では、明治以後国立戒壇を富士山麓に建立するということが伝承となっていたから、これを巡って日蓮正宗僧侶や他の法華講から異論が出た。中でも妙信講という講が強硬に「国立戒壇論の撤回は教義に違背する」と主張し、日蓮正宗と創価学会に食い下がった。

   昭和四十七年の正本堂落慶を目前にする頃、この国立戒壇論を巡る論争は白熱し、宗団暴力事件に発展し掛かった。日蓮正宗としては、創価学会の要請と旧来の法華講や僧侶の勢力との板挟みになり、対応に窮して右往左往した。

   このときは同年八月、秋谷栄之助氏(現会長)、原島嵩氏、そして私の三人が、妙信講首脳と対決討論し、何とか激突を回避した。しかし、その後、問題がぶり返し、妙信講による創価学会本部襲撃事件、そして幾つかの訴訟事件へと展開したが、昭和五十二年四月、裁判所に於ける和解で紛争は一応の収拾を見た。

   この言論問題時に於ける国立戒壇論引っ込め作業、及び妙信講問題の処理は、私が司令官となって処理に当たった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p81-2

   

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       日達上人の反論と宗門——学会の対立激化

   

   こうした事件の流れの中で、日蓮正宗側は次第に創価学会の言いなりになることを拒否するようになり、池田大作はイライラを募らせた。昭和四十七年十一月、池田大作は正本堂内で大勢の会員のいる前で、法主の日達上人を面罵した。また、翌年一月二日、大石寺対面所での法主招待の会食の席において、池田大作は、やはり幹部の居並ぶ前で、日達上人をなじった。

   事の次第は、池田大作が「最近、大石寺の僧侶の素行が悪い。警察や検察庁でも話題になるくらいだ。厳重に注意して欲しい」と発言し、日達上人が気色ばんで反論し掛かったところ、池田が「そんな言い方はないでしょう猊下。そんなこと言われるなら、こちらにも考えがありますよ」と恫喝した。そして、会食に同席していた静岡地方検察庁検事・会田宣明氏を指名して立たせ「私の言ったことに間違いないだろう」と念を押し、相槌を打たせた。

   その時は日達上人が黙ったが、やがて説法や講演の席で創価学会批判を始め、日蓮正宗と創価学会の間はにわかに険悪になった。

   その間の事情を「蓮華」(昭和四十九年八月)は次のように書いている。

  「『おととしの秋ぐらいから、去年を通じ今年の春にかけて、学会の宗門に対する態度と申しますか、色々僧侶に対して批判的であり、また教義上においても我々から見て逸脱していることが多々あるように思われます。それは世間の友好のため、広宣流布のためという目標に依ってそうしていると聞きますけれども、そのままにして置いたんではそれは大問題になりはしないか。終いに於いて取り返しのつかない事になりはしないかという憂慮の為に』

  『富士宮のーーこれは信者ではないけれどもーーある有名な人は、大石寺は前々から言う通りに、軒(庇)を貸して母屋を取られるような事があるならば、大石寺の恥だけではない、富士宮の恥だと放言していたという事です。私はそれを聞いて、非常に残念であると同時に、まだまだ我々は僧侶としての考えが甘いのではないかと思いました。どうか皆さん、自主的に日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくても、大聖人は必ず袈裟の功徳がある、その功徳(は)甚大である、という事を出家功徳抄に出しておられるでしょう』

   ひさしを貸して母屋を取られるーー創価学会の宗門乗っ取りの野望を、こう表現され『日蓮正宗の僧侶は例え飯が食べられなくとも』とまで仰せられた日達上人のご覚悟は、よくよくのことであった。それほどに、創価学会の路線は、土足で宗門を踏みにじるような専横ぶりであったのであり、宗門と創価学会の亀裂は、修復困難なまでに深まっていた」

   その頃、妙信講問題、正本堂の事務処理などで日蓮正宗との接点にあり、学会首脳と日達上人の信頼が厚かった私に対し池田大作は、関係修復工作を命じた。

   昭和四十九年四月、北條浩氏と二人で日達上人に面談に行ったところ、けんもほろろにあしらわれてしまった。

  「学会は好き勝手にやれば良い。宗門は関係ない」

  「謗法者をいくら増やしたって、当宗には何の関係もない」

  「いくら折伏といったって、間違った教えを広めては何にもならない」

  「池田さんを仏さんにしてやれば良いじゃないか」

   腹を立て、顔を真っ赤にした北條浩氏は、学会本部に帰り着くなり、後に有名となった北条報告書を書いた。

  「本山の件

   九日の本山お目通りの際、猊下の話は大変ひどいものでした。之が猊下かと疑うほど、また信心そのものを疑いたくなるほど酷いものでした。……広布の上に重大障害となりまた宗門僧侶等の問題の一切の根源がここから出ていると感じました」

  「先生(註=池田氏)が前々から見抜いておられた本質がさらけ出されたように思いますが、あまりに酷いので、かえすがえすも残念です。……学会が生き抜いてゆく為には、相手に信心がないなら、うまく使ってゆくか、徹底的に戦って、学会の旗を守って死んでゆくか、いずれにせよ、先生の最大のご苦心に触れる思いで決意を固めました。……学会が犠牲になるような戦いは絶対してはならないと思いました。……

   一方、日達上人の方でも学会に対して宣戦布告した。

  「先月の中頃でしたか。私は北条副会長並びに山崎弁護士が来られましたときに私は申し上げました。そのとき国際センターを造ると、日蓮正宗国際センターを造るに当たって、創価学会と日蓮正宗との真ん中に、もう一つ上に日蓮正宗国際センターというものを造るという趣旨で来られました。私ははっきり断りました。

   日蓮正宗は日蓮正宗としての一つの宗教法人である。大聖人様の遺名に依って広宣流布を全うしなければならない只一つの宗旨である。それを、その上に一つ、日蓮正宗国際センターというものが出来るとなれば、正宗としてはその上に一つ、また被宗教法人ができる(ことになる)。我々は被宗教法人の下についていくんだから意味が無くなってしまう。日蓮正宗としての意味が、又御戒壇の大御本尊をお守りしていると云うのも、今度は出来なくなってしまう。その上の宗教法人に於いてどうとかこうとか言われたらばこっちもその下につくんだから何ともする事が出来なくなる。その意味からはっきり断りました。どこまでも日蓮正宗はたとえ小さくても宜しいから、大聖人の教義を守っていきます。又今皆様方のお陰で大きく成って居るけれども、(たとえ)もっともっと小さくなっても、どなたか又大きく手伝いをしてくれる人が(いつか)有るかも知れない。だから私はどこまでも大聖人の仏法を守ると云って、はっきり日蓮正宗の上につく日蓮正宗国際センターというものを、私は否定と云いますか、お断りしたわけでございます。

   それから端を発して、その後、最近の一年か二年かに亘る所の学会のいろいろな教義の違い、謗法のあり方という事も申し上げました。で、ついにその為に二人は帰って行きました」

   その後、池田大作と三人で話し合ったが、池田も事態の深刻化に改めて対応に苦慮した。首脳達と宗門問題について会議を開くに当たって、資料作りを指示され、私と八尋頼雄氏の連名で作ったのが、やはり後に問題となった山崎・八尋報告書であった。

   その中で、日蓮正宗を「創価学会の外郭の一つ」と定義して完全に支配下に取り込むか、さもなくば折を見て手を切るか、と二つの道を提案した。池田の意によるものであった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p82-7

   

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          逆恨みした池田は経済封鎖に出た

   

   この時は結局、私が一対一で日達上人と直談判した上で、妙信講問題その他で親しく往来していた阿部総監代行(現法主上人)のとりなしにより、池田大作が頭を下げて何とか手切れはくい止められた。

   だが、創価学会側は、この時の日蓮正宗側の対応を深く恨んだ。池田大作は、とりわけ根に持った。そして山崎・八尋報告書に基づいて、日蓮正宗制圧へと着々と手を打っていった。

   池田大作の反撃は、昭和五十二年一月から始まった。元旦の挨拶を日蓮正宗攻撃で始めた後、日達上人の直弟子で、学会批判の言動のあった僧侶を選んで、青年部による集団つるし上げを行った。同時に、宗務院に対して「どう責任を取るのだ」と詰め寄った。全組織に命令をして「寺院に参詣するな。御供養するな。近づくな」と、経済封鎖を行った。

   池田大作は、暴力と経済封鎖で日蓮正宗を追いつめ、日達上人を退座に追い込むつもりだった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p87

   

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       正常化を願い頭を下げられた日達上人

   

   同年二月、私は日達上人から「内々で話したいことがあるから、(東京都)文京区西片町にある管長宅(大石寺出張所)へおこし願えないか」との招待を受けた。

   困ったことになったと思いつつ、人目を忍んで訪問したところ、日達上人は自らスキヤキ鍋でもてなして下さりながら「御承知の通りの事態で、困惑している。貴方の御尽力でせっかく元に戻ったと思ったのに、今の池田は、気が狂ったとしか思えない。誰か、池田を諫める人はいないですか」と切り出された。

  「今回、俺のやりたいようにやらせろ。失敗したら、また後を頼むとクギをさされています。私も、見ている他ありません」と答えると、「笹川さんとか田中さんとか、誰か力のある人に頼んで、たしなめて貰うわけにはいかないだろうか」と重ねて尋ねられた。

  「そういう人に言われても、従うような池田大作ではないし、そういうことの言える立場の人はいません」と言うと「やはり、そうですかねえ」と、ため息をついて、黙り込まれた。

   しばらく、黙々と二人でスキヤキを食べていたが、やがて日達上人は「自分としては、私情を殺して広宣流布のためと思い、先師方の後を継いで創価学会を立てて来たが、こうなっては、腹を決めるしかないな。私も歳だが、このままでは、霊山へ行って歴代の御先師方に会わせる顔がない。根性のある僧侶と、根性のある信者を頼りに、ひとつ戦うしかありませんな」と述べられ、私に「山崎さん、どうか、力を貸して下さい」と頭を下げられた。

   正直言って、重荷であり、困惑した。既に何とか後腐れのないよう、創価学会から抜けようと思って動き始めている最中である。これ以上、かかわりを持ちたくない。まして、池田大作を向こうに回して、余り勝ち目のない戦をするなんて、思ってみても恐ろしかった。しかし、目の前に、私を信頼してここまで打ち明けた老齢の御法主上人の姿がある。

   このとき、計算や打算、戦術や戦略といった考えを抜きにした気持ちが自分の中で動いた。

  「当面のつるし上げは止めさせるよう、何らかの手を打ちます。しかし、長い目で見たとき、宗門と学会の間には、このままでは相容れないものがあることはもう御承知のことと思います。そのことを踏まえて、御判断されるべきでしょう。ただ、宗門は、あくまで法門と信仰のあり方の原点に立って、大義名分の上で行動されるべきです」

   日達上人は、何度もうなずかれた。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p88-9

   

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       攻撃中止を進言、受け入れられる

   

   翌日、学会本部で北條浩氏に会った私は、単刀直入に「一切の仕事から手を引かせてくれ」と申し入れた。

   何事かと驚く北条氏に「今のような宗門攻撃を続けていたら、宗門側も耐え切れなくなって、なりふりかまわず反撃します。両者手切れになったら、妙信講問題も、松本勝彌氏の裁判問題も、総崩れになりますし、その他、諸々の事件も息を吹き返して収拾がつかなくなる。これ以上、自信がないから、やめさせて下さい」と告げた。

   どうしたら良いのか、と尋ねる北条氏に、これ以上、宗門側を追い詰めるのは得策ではないから、恩を売る形で攻撃を止めるように進言した。

  「妙信講問題も、もうすぐ片がつくことだし、それからまた始めても良いではないですか」

   北条氏は納得し、池田大作らを説得した。私の強い進言ということで、首脳も同意した。秋谷栄之助氏だけが「もう少しで日達上人をやめさせられたのに」と未練げに言ったが、状況判断の誤りも甚だしいと腹の中で笑った。僧侶を甘く見てはいけない。明治生まれの人間の性根を見くびったらひどい目に会うぞ……と、自分にも言い聞かせた。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p89-90

   

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       日達上人の反撃開始、池田のお詫び登山・会長辞任

   

   日達上人の反撃は、昭和五十二年七月、創価学会が民社党の攻撃で弱り切っているところを見透かしたように開始された。弟子の一人が池田大作の講演の誤りを正面切って指摘したのを皮切りに、創価学会の法義違背の指摘が大々的に行われ始めた。

  「山崎さん、見てくれましたか。いよいよ始まりましたから、よろしく」

   日達上人がはずんだ声で電話を掛けて来た。

   腹背に敵を受けた形の創価学会は、ジリジリと後退した。

   池田大作は困ってくると私を使って解決しようとするが、ただ、私を利用して相手を騙そうとするだけだから、そんなことに黙って利用されるつもりはなかった。また、日達上人もそうした池田のやり口や下心を見抜いてしまっているから「今度はどんな話をもって来たのですか、山崎さん」と、ニヤニヤしながら聴かれる始末だった。

  「一遍に追いつめると血迷って何をしでかすか解らんから、一歩一歩、段階を追って、押したり引いたりしながらやろう」

   日達上人は、自信を持って池田大作の料理に掛かった。

   そうした中で、昭和五十三年七月、教義上の諸問題についての訂正、九月、勝手に模刻した本尊の返納、十月のお詫び登山と事態は進み、五十四年四月には、池田大作の会長辞任へと発展したのであった。

   日達上人にしてみれば、一番手強い私を味方に付けたのだから、学会の対応は鏡に写すように解るし、相手の戦力は低下していると、楽に戦いを進められたに違いない。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p90-1

   

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     日達上人の遷化と学会の反攻、私の内部告発

   

   だが、日達上人も、御自身の寿命までは完全に読み切れなかった。

   既に昭和五十三年三月から身体の不調を訴えられ、入院を繰り返された。同年五月、私の紹介で聖路加病院に入院された後、月一回、主治医の日野原博士の診断を受けるため、笹川記念館の診療所に足を運ばれていた。毎回お供をし、帰りにいろいろご馳走になるのが、私の楽しみでもあった。

   昭和五十四年五月三日、池田大作が会長と総講頭を辞任することで和解が成立した時、日達上人は、当分は平和が続くと考えられた様子だった。夏には北米布教に行かれ、秋には、できたら引退して法主の座を後身に譲りたいと考えられていた。私にも、この件についていろいろ意見を求められた。

   かつて、この間の事情の一部(あくまで一部である)を筆にしたこともあるが、しかし今では余程のことがない限り、本来、信者が相承のことなどに口を出すべきではないと反省しているし、今後もそういうことはないに越したことはないと思っている。

   しかし、日達上人の御遷化後、創価学会の策略で、日蓮正宗分裂という悲劇がもたらされた。その解決のため、また、正しい歴史を後世に残すため、今一度、書き直さなくてはならぬ時が来るだろう。

   昭和五十四年七月、私は、日蓮正宗と創価学会の教導会議に、大講頭兼会議のメンバーとして出席すべく、大石寺に登山した。大石寺に着いた途端、日達上人が病の床に伏しておられることを知った。

   会議では、創価学会側の、教義や化儀の面での逸脱を改める作業が進んでいないことや、会館の一つを本尊つきで外郭法人に譲渡し営利目的の結婚式場にしたことなどが追求され、かなり険悪であった。

   会議もそこそこに日達上人をお見舞いしたとき一目でただならぬ病状を感じた。

  「すぐ、入院なさって下さい」

   日達上人に強く勧めたが、なかなか聞き入れられなかった。ただちに主治医の日野原博士に連絡を取ったが、医学会で鹿児島にいた博士は、様子を聞くとやはり深刻に受け止められて、

  「できるだけ設備の整った病院に入院させて、検査と応急処置を受けること。行事が終わり次第かけつけます。その上で、できたら聖路加病院へ移したい」とのことだった。

   この言葉をタテに再度、日達上人に入院を勧め、ようやく承諾されて、フジヤマ病院へ入院された。

   レントゲン検査の結果でも、腸がまるで動かぬ様子が見られたが、原因は分からなかった。入院後三日目に腸が動き出し、食欲も少し出て来た様子が見え、ご本人も元気を回復したようだった。

   私は数日間、着のみ着のままで側近くいたが、東京に残してきた仕事が気になり、三日目の夕方、帰京した。その深夜、日達上人の容体の急変を告げる電話を受けた私は、日野原博士を起こして乗用車で富士宮市の病院へ駆けつけたが、日達上人は既に帰らぬ人となっていた。わずか三時間、目を離した間に、別の世界に発たれてしまった。朝霧高原から白糸滝へ流れる一面の濃い霧の中で、私は呆然と立ち尽くしていた。

   その日から、攻守は逆転した。私には苦難の道のりが続いた。

   時の流れもあり、また、日蓮正宗の首脳を説得し切れなかった自分の力不足を反省するべきであろう。

   翌年六月、私は原島嵩氏とともに、池田大作と創価学会に対して内部告発を開始し、除名処分を受けた。

   妻子を離縁し、身辺を整理し、先祖の墓参りを済ませ、最後に日達上人の墓参りをした。覚悟を決めて行動したことだが、それでも想像を絶する日々がその後、十数年続いた。

   今日、既に創価学会は日蓮正宗により破門され、その破仏法の行為は厳しく破折を受けている。

   創価学会を今日このようにあらしめた点において、僧も俗も、反省しなくてはならぬ。もちろん、私自身、最も深い反省をしなくてはならぬと思っている。

   創価学会が日蓮正宗から去った現在、創価学会に踏み荒らされ、かき回された傷だけが残った。長い間の戦禍の後にも似て、無残な、そして無益のような骨肉の対立抗争と、それから生まれた怨念が残った。

   しかし、信仰の団体は、常に信仰の原点に立ち還り、慈悲と救いの心で判断し、未来に向けて行動すべきではなかろうか。

   日蓮正宗も、そして、正信会の人達も、冷静に昭和五十三年の時期に立ち還り、衆議を尽くして話し合い、新しい和合の道を見出してほしいと念願しつつ、成り行きを見守っている。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p92-5

   

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  自民党との裏取引で国会での追及は中止、私を逮捕・起訴

 

 私たちの内部告発とともに、創価学会に疑問を抱いた人たちや被害を受けた人達が多数立ち上がり、それは一つの運動のような勢いを示した。百数十万の人達が、国会で創価学会の社会的不正追及を求める請願書に署名し、自由民主党有志議員達の斡旋で国会に提出された。

 しかし、その後、残念なことに、自民党の当時の首脳と創価学会・公明党との裏取引きが行われ、国会に於ける創価学会問題の追及は中止された。私達が問題提起した創価学会の社会的不正の数々も、マスコミが取り上げはしたものの、警察も司法当局も無視を続けたばかりか、創価学会・公明党の政治力に動かされた形で、逆に私を恐喝・同未遂の罪名で逮捕・起訴した。

 私自身の不注意、うかつさから、つけ込まれる隙を作ったことは汗顔の至りであり、反省しなければならない。また、何の嫌疑もないところに事件をでっち上げるほど、この国の司直が腐敗しているということではない。

 しかし、「君を逮捕しなければ、学会は潰れていたよ」と、捜査の主任を務めたT検事は、後に、別件で参考人として事情聴取を受けた際に、このように告げた。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p95-6

   

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     権力は悪を野放しにし、これを告発する者に罪を着せる

   

   その後、私は、十年余の法廷闘争の末、創価学会関係者の集団偽証によって有罪とされ、二年二ヶ月を刑務所で過ごした。この国の司法は、告発者を処断することによって、創価学会の巨悪を見逃し、助け起こした。

   私のしたことは、創価学会がもつ危険性と天下取りの野望について世に警鐘を鳴らしたことである。自らの関与した恥ずべき行為も含めて、その汚れた部分をさらけ出した。その結果として報われたものは国家権力による刑罰というパラドックスを前にして、国に裏切られた悲しみと不信は残ったが、さりとて別に悔いはなかった。私の警告を無視した結果として、愚かにも池田大作という「法華経を唱えるヒットラー」の圧政を選ぼうと、それも、国民自身の選択ではなかろうか。

   獄にあっては、病魔と闘い、厳しい環境と闘った。生きて再び社会に還れるかどうか、自信もなかった。

   湾岸戦争のさなかに入獄したが、そのうちに共産圏が崩壊し、ベルリンの壁が一夜にして消えた。国内では、バブル崩壊、佐川事件から証券疑惑、金丸事件からゼネコン疑獄へと大事件が続いた。巨額脱税や汚職のニュースは、獄中にもテレビや新聞を通じて報道された。

   さまざまな罪に巻き込まれ、償いと更正の心で毎日を送っている同囚の人達や、これを見守る刑務官達は、巨悪を伝えるテレビを共に見ながら、口々に言った。

  「警察も検察も、弱い者はカサに掛かって虐めるが、権力者にはこんなに甘かったのか。偉い人達は、バレなければ何をやっても良いと思っているのか」

   受刑者にすら見下される、この国の指導者や司直達。

   私は腹の中で思った。

  「それどころじゃない。悪い奴が野放しにされ、悪を告発する者が罪を着せられ獄に入れられる世の中さ」

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p96-7

   

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     ついに池田大作、創価学会を破門

   

   私の人生で唯一心残りなのは、日蓮正宗が創価学会の術中にはまり、支配されようとしたことだった。そうなっていった経過において、私にも責任の一端がなかったとは言えない。

  「源遠ければ流れ長し」

  「法華経は体の如く世法は陰のごとし。体曲がれば影斜めなり」

   日蓮大聖人の御書にもあるとおり、日蓮正宗がしっかりしていれば、いつか創価学会の弊害も糺される時が来るはずだ。

   創価学会に宗教法人と成ることを許したのも日蓮正宗であり、以後、創価学会の行動を容認してきた。全御法主上人・細井日達猊下はその誤りに気付かれ、思い切って創価学会の誤りを糺そうとされた。私は、微力ながら、そのお手伝いをさせていただいた。その作業の途中で、日達上人は昭和五十四年七月、御遷化された。その後、紆余曲折があったが、日蓮正宗は全体として創価学会との融和策をとり、急進的に創価学会批判を続ける僧侶と信者達は除名されるに至った。暗く、重苦しい年月であった。

   平成三年一月、入獄に当たり、私は、自分の率直な信条と、日蓮正宗教団の未来の展望、そして、創価学会問題の本質とこれに対処するべき道について、さる方を介して日蓮正宗の中心部へ進言申し上げた。私の遺言のつもりだった。届いたかどうかは知らない。

   平成四年になって、ついに日蓮正宗は池田大作を破門し、創価学会と絶縁した。私がかねてより指摘してきた創価学会の教義上の逸脱と異端に、日蓮正宗はやっと正面から対処した。このニュースを獄中で聞き、私は正直言って肩の荷が一つ降りたような気がした。

   これを機に、少なからぬ人達が再び創価学会と池田大作の非道を追求する行動に立ち上がるに違いない。私の行動は、決して無駄にはならなかった。時は移り人は変わったが、歴史は再び本来の流れに戻りつつあるに違いない。

   このことによって、自分の役割は終わったとの思いは一層強まった。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p98-9

   

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     精神病理学的解剖が必要な池田大作の精神構造

   

  (出自や経歴を気にし事あるごとに平気で作りかえ)

   創価学会は、本章の初めの部分で述べたように、日蓮正宗の信徒団体の一つが大きくなったものである。しかし、日蓮正宗本体、及び日蓮正宗の他の信徒団体と、体質も構成も、そして行動パターンも、まるで異質の団体である。

   その創価学会の性格として、卑しく、いやらしく、欺瞞的で、妬み深く、目的のためには手段を選ばぬといった傾向が強く見られる。これはもちろん、日蓮正宗の教義や伝統とは無関係なもので、ひとえに池田大作という人物の人格を反映させているのである。

   創価学会を論じるに当たっては、この池田大作という、今世紀最も醜怪な人間を分析することが肝要である。本来ならば、心理学者、精神病理学者の研究対象たるべき人物である。こうした専門家の人達による分析・研究の結果を是非聞きたいと思っている。

   ここではその資料となるべき事実を幾つか示すことにしたい。

   池田大作は、昭和三年一月二日、東京都荏原(えばら)郡入新井町大字不入斗(いりやまず、現・品川区)の、零細な海苔製造業者・池田子之吉(ねのきち)、妻一(イチ)の五男として生まれた。男女併せて十人の兄弟がいるが、昭和六十年前後の状況は次の通りであった。

   長男 喜一   ビルマにて戦死

   長女 とよ子  国立第一病院看護婦

   次男 増雄   大衆食堂経営、家を継ぐ

   三男 小宮開造 阿部商会(外車ディラー)役員、死亡

   四男 清信   三洋工業、学会幹部

   五男 大作   本人

   六男 栄一   トビ職

   七男 隆一   東和工業

   八男 正利

   次女 いね子  東芝社員の妻

  (少し古いデータにしたのは、プライバシーに対する遠慮である)

   これを見ると、明らかに学会員であるのは一つ上の兄のみである。

   池田大作の兄弟親族には、学会員でない人達が極めて多い。私達は、入信以来十年も経つと、兄弟親族、友人知人達のほとんどを折伏し、入信させたものだが、池田大作は親戚に余り信用がなかったらしい。

   戦時中、戦後と、貧乏人の子だくさんの家に育った池田大作は、これといって取り柄のない、学校の成績も中の上といった子供だった。

   池田大作は、昭和五十年頃、密かに自分の家系を調べ、家紋の由緒を詮索していたことがあった。その頃、私に話したところによると、「池田家は武士の出で、北海道で手広く開拓事業をやっていた。その子孫が、大森に来てノリ屋を始めたのだ。鹿児島に池田湖というのがあるが、我が祖先と関わりがある。家紋や系図を調べると、祖先は源氏の流れを汲む武士であったと、調べてくれた専門家が言っている……」。

   だが、その後、私の調べた限りでは、これらは全くの作り事であり、数代先まで東京湾でノリ採集や漁師をしていた、由緒正しい血統書付きの平民の出である。

   池田大作の出生や少年時代については、御用新聞記者・央忠邦氏の著作や本人の書いた随想文などで、極めて美化されている。リンカーンにせよ、レーニンにせよ、真に力を持つ指導者達は、自分の経歴など決して偽ろうとしない。だが、池田大作は、事ある毎に自分の経歴や生い立ちを作りかえ、美化しようと汲々としているのである。

   池田大作の少年時代は、同級生や教師などの証言に依れば、貧しい、女好きの、子だくさんの海苔屋の五男で、特徴もなく、一生懸命勉強しても中位の成績の、目立たない少年だった。

   後年、創価学会の会長になったと聞いて、誰もが驚いたという。

   ところで、私の手元に池田大作の戸籍謄本がある。それには、「名『太作』を『大作』と変更、昭和弐拾八年拾壱月五日受付」と記入されてある。

   池田大作は、生まれてから二十五年間タサクが本名であったのを、何らかの理由でダイサクに変えた。

   改名ということは、そう簡単にできることではない。家庭裁判所がどうしても止むを得ないと認める理由がある場合のみ許される。タサクからダイサクへの変更がなぜ、どういう手続によってできたか調査中であるが、何やら胡散臭さを感じる。

   貧乏で、目立たぬ子供だった大作は、しかし、その名前のせいで、仲間から「タサク、タサク!」と呼ばれて親しまれていたのである。

  「あの太作が本当に、そんなに偉くなったのかい?」と、会長に就任したとき、昔の遊び仲間は話し合ったという。

   この改名は、見方によっては、女性の美容整形手術に譬えられよう。タサクでは大組織の指導者を目指すにはあまりに軽い名前だが、ダイサクとなると、歌手や時代小説の主人公の名前(鞍馬天狗の別名が、たしか大作だった)に使われる立派なものである。点一つで天と地の差が出るという、駄洒落みたいな改名である。

   この改名で味を占めた池田大作は、次々と美容整形手術的な経歴作りを行う。

  『若き日の日記』『小説人間革命』などで、颯爽と英雄的な青年伸一(ペンネームとして伸一または伸一郎を使っていた)を活躍させるのである。

   自分のことを、よくもまあ、ここまで美化して書けるものだと、読む者をしてあきれさせずにはおかぬナルシストの権化ぶりである。

   例えば、池田大作は自らの入会シーンを『小説人間革命』で次のように書いている。

  …………

  …………

   だが、その当日、その座談会に出席していて、現在は脱会して池田大作批判を行っている竜年光氏(元都議会副議長、創価学会総務)は「人間革命を読んで、同じく座談会に出ていた小泉隆氏(元理事長、都議会議員、故人)に、あんなこと、あったかねえと尋ねたら、いや、あんなことはなかったよと答えていた。私も、あんな絵空事はなかったことを断言するよ」と語っている。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p99-105

   

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  (入会時からついて回る女と金への強い欲望)

   

   私の知る限りでも、池田大作の入信動機はそんなかっこ良いものではない。

   池田大作は戦後の混乱期、定職にも就かずブラブラしていたが、川崎市から大田区を縄張りとする暴力団の手先となって、貸金の取り立てなどを手伝っていたらしい。この時代の年頃の青年としては当たり前のことだが、結構ナンパも張っていて、Mという男好きのする美人に惚れた。このM女が学会員であり、M女に誘われて、鼻の下を長くして座談会におびき出されたのである。その結果、池田大作はM女に取り入るために入会するが、M女は多情な女性だったようで、その後、池田大作を袖にした。

   池田大作は、M女の肘鉄が相当うらめしかったと見えて、会長になってからもM女の兄弟や親族に陰険な仕打ちを絶やさなかった。

   だが、M女の尻を追っかけて創価学会にはまり込んだことが、池田大作にこの上ない幸運をもたらした。金融屋をやっていた戸田城聖が、チンピラ池田大作の貸金取り立ての経験に目を付け、手代に採用したのである。

   戸田城聖のもとで、池田大作は金融業の才能を遺憾なく発揮した。

   戸田城聖の金融業は、金を貯めている学会員から借り入れて、手形割引などで、他の会員に高利で貸すものであった。

   この頃、埼玉県大宮市の国鉄機関車区に勤めていた松島勇氏は、池田大作の依頼に基ずいて仲間の国鉄職員から貸金を集め、大作のドル箱となった。松島家と池田大作との関係は、このときに始まる。

   池田大作は、金集めのため、連日、松島家に出入りした。家族同然の付き合いだった。

   この間に、松島道子(渡部道子)との関係ができたようである。池田大作が松島家の三畳間で裸身を道子氏にタオルでふかせていたのを会員の小沢よねさんに目撃されたのも、こうした付き合いの最中の出来事であった。文字どおり、色と金の二筋道である。

   池田大作の資金集めに協力した縁で本人や家族が後に創価学会幹部に取り立てられた一家は、他にもたくさんある。中には、その事業に失敗して資産を失い、池田大作の口ききで私が負債処理に当たる、といった気の毒な人もいたが……

   金集めもさることながら、取り立てもなかなかのものだったらしい。それこそ、寝ているフトンをはぐということもあったといわれている。

   彼が金貸業でどれほど才覚を発揮したかということは、二十代の若さで通常の給与の百倍近い所得を得て、札ビラを切っていたことからもわかる。

   彼は、その金で、女子部員をモノにし、そして、幹部達を従えて秘かに次期会長の座を狙うようになった。

   しかしながら、池田大作は後になって、自分にバラ色の人生を与えてくれた金貸業の仕事を人に知られるのを極端に嫌い、隠そうとした。彼は、自分の金貸業手代の頃の話を一度だけ、私にしてくれたことがある。

   昭和四十九年十月頃、大石寺対山荘で「今日は飲もう」と珍しく酒を何杯か飲んだ後、水割りを半分ほど飲んだ。池田大作が杯に口をつけたのを、私は三回くらいしか見ていない。

   その後の雑談の中で、「戸田先生の唯一の失敗は、私に、金貸しのような、汚い仕事をやらせたことだ。俺なら、後継者の人生経歴を、そんなことで傷つけたりしない」と言った。

   ちなみに、戸田は、石田次男氏(石田幸四郎公明党委員長実兄。戸田の後継者と目されていたが、池田大作に冷遇され、死去)には一切そうしたことにタッチさせなかった。戸田は、失敗を犯したのではなくて、池田大作を創価学会の後継者と考えていなかったから金貸業に突っ込んだと見るべきであろう。

   さらに池田大作は、「資金繰りが苦しく、金策にも四苦八苦している時、戸田先生と二人で皇居前広場を通りかかった。私がやけくそ気味に『こんな男に誰がしたあ』(当時、流行していた歌謡曲星の流れにの替え歌)と歌ったら、横から戸田先生が『俺だよ』とニコリともせず言った」と、思い出話を語った。

   参考までに、池田大作が営業部長として手腕を振るった大蔵商事は、池田大作の会長就任とともに学会首脳は一応縁を切り、後は、森重紀美子氏(戸田城聖の妾)とその甥らが経営に当たったが、脱税摘発や貸金こげつきで事実上、倒産した。大同商事と社名を変更した同社は昭和四十七年頃から、中西治雄や学会の建物の火災保険手数料、会員や本部関係の物品販売、大石寺土産物取扱いなどでその穴埋めをした後、今も学会員相手のサラ金などをやっていると聞いている。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p105-8

   

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       金貸し業の習性が人間不信の性格に

   

   金貸し業の経験はさらに、池田大作に金の集め方、使い方と、物品に対する鑑識眼を教えた。創価学会に於いては、職員一人一人の給与や住居から、細かい記念品に至まで、池田大作は念入りにチェックする。財務の集まり具合を地域ごとにチェックし、良いところの幹部は優遇し、悪いところの幹部はいびり抜く。信じられない向きもあろうが、池田大作は人事だけは、絶対に人任せにしないのだ。幹部も職員も、池田大作のめがねにかなわなければ昇給も昇進も覚束ないことを、骨の髄まで身にしみて知らされる。それが、池田大作の支配の手段なのだ。

   貴金属や美術・骨董品にも格別の関心を示す。外部からの贈り物や貢ぎ物の刀剣や美術品を首脳の前に並べて「今回、塚本素山(塚本創業元社長、学会顧問。故人)のもって来たこの刀は意外と安物だ。ケチったな。以後、あまり儲けさせるのはよそう」などと言う。

   だが、池田大作の鑑識眼は小金貸しの域を出ないことは、自ら選り集めた富士美術館の自慢のコレクションの実に七割以上がニセモノだった、というデータを見れば明らかである。成り上がり者には手の届かぬのが、美術品の世界である。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p108-9

   

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       無能でえげつないくせに綺麗事で取り繕い文化人を気取る

   

   池田大作は、こうした、実にえげつない手段と能力、作法でのし上がって来たにもかかわらず、これを極力隠し、文学者、芸術家、文化人を気取り、演出の限りを尽くす。

   昭和四十年、池田大作は富士短期大学に入学し、二年間在学したことになっている。だが、受講もせず、卒業試験も受けず、卒業論文を提出するだけで卒業の資格を与えられた。こんなことを許した大学側もいい加減なものだが、金の力でこんなインチキをして短大卒の経歴を買った池田大作もペテン師と言われても仕方あるまい。そして、その卒業論文も、池田大作が自分で書いたものではなく、すべて、桐村泰次氏(東大卒。原島嵩氏とともに池田大作のゴーストライターを務める。副会長)が代作したものである。太作が大作になり、大作が代作で大学卒の資格を取るなんて、これまた下手な洒落のような話である。

   池田大作は、『小説人間革命』を始め、おびただしい著作をこなし、また、数々の講演を行ってきた。全部、代作だが、彼はそれを、あくまで自分が自ら書いたように見せるため、原稿用紙に書き、そのコピーを幹部に配った。

   だが、『小説人間革命』は、篠原善太郎氏(東大卒。戦前、河田清のペンネームで小説を書いたことがある。学会総務、外郭会社・東西哲学書院社長。同社は、東京・信濃町近辺や全国の学会会館近くにレストラン、寿司屋、書店のチェーン店を展開している学会外郭の最大手の一つ)の完全代筆であり、その他の著作、講演も、すべて特別書籍と呼ばれるゴーストライター群の代作である。

   特別書籍は、原島嵩氏をキャップに、上田雅一(慶大卒、副会長)、桐村泰次(前出)、野崎勲(京大卒、同)、石黒東洋(東工大卒)、細谷昭(一橋大卒、副会長)らで編成され、文字通り「池田大作著作工房」であった。その後、原島嵩氏は造反したし、人の出入りはあったが、代作師団は今も健在である。

  “第三文明などに掲載する文化人、学者との対談も、すべてゴーストライターの手に依るものである。トインビー博士との対談も、同様にして作られた。池田大作は相手と会って食事したり雑談し、写真を撮るだけである。

   こんな池田大作の虚像作りに協力している学者や文化人の意地汚さは、もって知るべしであろう。

   池田大作は、写真機を持ち歩き、手当たり次第シャッターを切る。そして池田大作撮影による写真展なるものを各地で開いてきた。

   だが、池田が写真機を振り回すとき、側に聖教新聞のプロのカメラマンが必ずついていて、写真を撮りまくる。その写真が池田大作の写真として公表されるのである。写真も代作である。

   かつて、池田大作の写真がもてはやされ始めた頃、私は「先生はどこで、あの素晴らしい写真や美術の感覚を身につけられたのですか。子供の頃から、絵がお上手だったのですか」と尋ねた。少し機嫌の悪かった池田大作は、ジロリと睨んで「小学校の時、タンク(戦車)の絵を描いたら、女の先生が『池田君、タワシの絵なんか描いてどうするの』と言った。それ以来、絵は描かぬことに決めた」と吐き捨てるように言ってから「歯の浮くようなお世辞は、君には似合わんよ」と言った。

   この時だけは、池田大作を少し好きになったものだ。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p109-12

   

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      すべては異常なコンプレックスの裏返し

   

   池田大作の振る舞いはコンプレックスの裏返しである。子供の頃の貧乏が金への執着となり、上流への憧れが、インテリタイプの女性への手当たり次第のお手つき行為となった。下積みの経験が支配欲と化し首脳や幹部に対し事ある毎に忠誠を誓わせ、誓約書を書かせる行為へと走らせる。食事の際、食べかけのメロンや料理を幹部に下げ渡してジッと様子を見る。有難くいただけば良いが、私のようにそのまま次へソッと回そうとする奴は、目ざとく見つけて牽制の言葉を掛ける。

   実在する自分とその経歴が余りにも醜く、凄まじいからこそ、ことさらに美しく飾り立てようとする。腐っていく死体に香を焚き、化粧するのと同じである。

   当たり前の応対に対しても馬鹿にされたとひがむ。

   異常なコンプレックスの持ち主が、ゴマスリ集団に取り囲まれ歯止めのない自己肥大を続けていくと、池田大作のような人格ができ上がる。そして、そのエゲツない指針を金科玉条として実行する組織が、全体として、卑劣に、なりふり構わぬ自己中心に陥っていくのは、当然の成り行きといえよう。

   こうした組織の中で耐えられなくなった人間性の持ち主が、やがて一人、また一人と造反していく。そうした人達に対して池田大作は、恐れと憎しみを込めて「裏切り者!」「恩知らず!」と罵る。弟子分帳に記した名前に線を引きながら地獄に堕ちろと呪詛する。そして、自ら無間地獄に落ちて行くのである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p112-3

   

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  第三章 恐るべき天下盗りの陰謀を許してはならぬ

   

   

   

     法華経を唱えるヒットラー阻止のため再び発言しなければ……

 

 平成五年四月二十七日、私は二年二ヶ月ぶりに出獄した。

 私が社会に復帰して間もなく、政変が起こった。長年、権力の座にあった自民党が野党になり、八党による細川連立政権が権力の座についた。そして、その中に公明党が加わり、四人の閣僚ポストを得た。

 公明党は、創価学会の退潮の影響で、得票数は最盛期を遙かに下回っているが、得票率や政治情勢に助けられて、議席上は勢力を維持した。そして、自民党を割って出た新生党と組んで、連立政権を実質的に動かす力となった。池田大作は、浮かれて、組閣発表の前日、公明党の割り当てられた閣僚ポストを発表して「デージン、デージン」とはしゃいだ。

 そればかりではない。気がついてみると、宮本邸盗聴事件の証拠湮滅に関わり、検事を退官した神崎武法氏が郵政大臣になり、東京・練馬区で投票所襲撃をやってのけた市川雄一氏は、公明党書記長として、新生党の小沢一郎氏と一・一コンビを組み、連立政権を思うように引き回しているではないか。

 昔、自分のお手付き女性と言われる人物を代議士にするという、国民を愚弄する行為をやった池田大作は、今度は、警察の目こぼしにあずかったり、証拠湮滅で逃げ切った犯罪者を、閣僚や政権の中枢に送り込んだのである。

 これはただごとでは済まなくなる、と思っていたら、案の定、野党の関係者が、国会で証人喚問したいと言って来た。

 正直言って、私は迷惑だった。昭和五十五年当時、私は内部告発でかなりの事実を明らかにした。宮本邸盗聴事件もその一つである。あの時、自民党首脳は池田大作と取引し、臭いものに蓋をする作業に協力した。福田赳夫氏(元首相)らの追及中止の命令に対し、亀井静香ら若手の、正義感溢れる代議士達が切歯扼腕して悔しがり、自民党調査局職員が辞職したときのことを忘れることができない。私にも、落とし穴に嵌められたことについて、つけ入れられる隙があったことは反省しなくてはならぬ。捜査当局に嫌疑を抱かせるに足る軽率な行動があったことは、重々、反省せねばならぬ。だが、私自身の事件は別にしても、提起した創価学会の諸問題は、国会で追及するに値するものであったはずだ。現に、その一つ盗聴問題は今、国会で論議されているのだ。それを当時、なぜしなかったか。今になって、それをやりたいから協力しろ、証言しろと言われても、すぐに応じられない屈折感が胸中にあった。

 今の事態を招いたのは、長年、権力の座に溺れ、腐り切った自民党の、いわば自業自得である。私には、臭いものに蓋をして助け起こし、目先の党略に使おうとした池田大作という人物に、逆に身を食いちぎられ、権力の座から引き下ろされ、政治改革という名の戦略にはまって議員バッジを失い掛けた人達がにわかに騒ぎ出したように見えて、現在の政治の場における創価学会批判には、当初、信がおけなかったのだ。

 しかし、自民党も、今や大きく変わりつつある。昔の領袖達は、既に第一線から引いてしまった。私が最近会った自民党関係者は、真剣であり、そして謙虚な人達だった。その後、社会党や新党等、与党に連なっている政治家の人達からも本音を聞くこともできたし、また、出獄以来接したジャーナリストやその他識者の方々も、いろいろとアドバイスをくださった。

 今、池田大作は、目的のためには悪魔とでも手を結ぶという権力者の手引きで、連立政権を動かす力となり、手下を四人も閣僚に送り込んでいるが、創価学会と公明党が癒着したまま権力の中枢に入っていることには、国民の大多数が批判的である。私は、どんな勢力が権力の座に着くかということについて関心は深くないが、しかし、池田大作という法華経を唱えるヒットラーの手に日本の国を委ねることだけは阻止しなくてはならぬと思っている。そのために私が役に立つなら、自分の都合や気分などにこだわっていることは許されぬ。

 辱めを受け、苦い人生を送ってきたけれど、それに懲りずにもう一度筆をとり、発言しなくてはならないことを、次第に認識してきた。

 もちろん、宗門による創価学会の破門以来、多くの幹部や会員が脱会し、創価学会や池田大作の批判を行っている。今さら私の出る幕でもない、という気もしないではない。しかし、元会員の人達のほとんどは日蓮正宗、或いはその関係団体に所属し、宗教教義に基ずいて、宗教的な運動として創価学会批判運動を行っている。教義や本尊の問題は、確かに重要である。それを逸脱した池田大作の、自らを御本仏に擬する振る舞いは仏罰を受けずにはいないであろう。創価学会のような鬼子を生んだ責任ということもあり、日蓮正宗としても教団を挙げて創価学会員の教化に努めている。だが、それは、社会全体から見れば、宗教上の争いであり、教団の間の、信者をめぐる争いとも見られる面がある。

 池田大作の天下盗り構想に基づく政権参画は、宗教問題に止まらず、社会全体の問題である。かつ、国民全体の問題として論じなければならない。そのレベルでの問題提起が不足しているのではなかろうか。そこで、私の役目があると思われる。

 古いこともあれば、新しいこともある。私は、問題提起のため、ひたすら事実を提供することに努めたい。それに基づいて論じ判断されるのは、読者の皆様であり、国民諸兄である。

 私の執筆活動は「週刊新潮」一九九三年十月二十八日号の、宮本邸盗聴事件に関することから始まることとなった。折から、国会で追及が開始された。それ以来、インタビューや手記、そして講演が続いた。出獄後、半年余の私に対してこれほど多くの発言の場が与えられることに対し、私は心から感謝している。私としては、常に精一杯、事実を申し述べることに努めたつもりである。

 しかし、何分、二十数年の時の経過による記憶喪失もあれば、二年二ヶ月のブランクや情報中断のよる呆けもある。雑誌の編集方針に基づくリライトによる多生の行き違いもあった。ここらで、私が世間に申し述べてきた事柄について、一度、整理して体系化し、また、かく言う私自身の経歴と、内部告発に至った動機と経緯を明らかにする必要を感じてきた。事件の時代背景や創価学会そのものについての解説も必要である。紙面や時間の都合で省いてきたこれらのことで繋いだ事実の流れということになると、やはり一冊の書籍として纏めざるを得ない。

 とにかく、この一冊があれば、創価学会問題が分かり池田大作の狙いが解る、というものを書き残したい。それが私の願いである。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p116-20

 

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   会長就任直後からナチス張りの天下取り構想

   

   平成5年7月の総選挙で、自民党がついに過半数を割った。そして、これまでの野党八党による連立政権が誕生した。

   その中枢を為すのが小沢一郎率いる新生党と公明党の連合軍である。

   こういう事態になって、世論は改めて創価学会と公明党の関係に目を向け始めた。

   私は既に、昭和五十五年に池田大作の天下取り構想について全容を明らかにし警鐘を鳴らした。そのことの正しさを、現在の状況が証明しているのである。

   池田大作は、既に昭和三十五年、会長就任直後から、天下取りの構想を練っていた。

   三十八年、幹部に対して、「諸君、天下を取ろう!」と声を上げ、翌年、公明党を作って衆議院に進出を果たした。従来、「参議院進出は、国立戒壇建立のためである。衆議院には出ない」と言い続けていたのに、一夜にして前言を翻したのである。

   それは「折伏による教勢拡大が従来通り進めば、昭和四十七年頃には、日本の人口の過半数が創価学会員になり、公明党は国会において過半数を占める。その時、自分が総理大臣となり、天下を治める」というものだった。当時、池田大作は、既に閣僚名簿まで作って側近に見せ、悦に入っていた。天下取りの最終目標年度は、その後、状況の変化により先送りされたが、昭和六十五年(大石寺開基七百年)まで延ばされた。この単独政権計画は、五十年代後半の段階で結局、達成不可能と判断されるに至った。そこで、根本方針は変更された。とりあえず、公明党は政権党である自民党と連立政権を組ませ、それによって国民の創価学会に対するアレルギーをやわらげ、次々に豊富な資金と固い集票力で政権党の選挙を支配してイニシアチブを取り、やがて支配していく。その結果、院政的な権力を掌握した池田大作が、誰も反対できなくなった段階で、総理大臣、或いはそれ以上の権威を持った地位に収まる、というのが、新しい天下取りなのだ。

   この方針変更に従って、組織や広報戦略も変わった。単独過半数をめざして拡大を図る必要がなくなったから、組織のファジーな部分、効率の悪い部分はどんどん切り捨て始めた。年配者、必ずしも池田大作に百%心服随従しない幹部達、とかく批判的な会員は遠慮なく整理した。創価学会も公明党も、池田大作を絶対に信奉する幹部だけで組織を固め直した。最後には日蓮正宗さえ、異質なものとしてボイコットしてしまった。最盛期よりかなり勢力は減ったが、これ以上、増えも減りもせず、そして政界のキャスチィングボードに必要なだけの勢力をがっちり固めたのである。

   創価学会は、今の勢力のままで、金も、票も、当面の戦略に必要なだけ確保した。あとは、三国志の世界で、権謀術数で合従連衡をはかり、他を呑み込んで行けば良いのである。小沢一郎氏による新生党結成は、構想(自分との連立)からは少しはずれるが、根本的戦略——連立による政権参画——にとっては、渡りに船であった。

   かつて田中角栄は、池田大作のことを法華経を唱えるヒットラーだと評した。

   青年部幹部の頃、秋谷栄之助氏、青木亨氏(現副会長)、市川雄一氏、渡部一郎氏(元公明党代議士)らは、三国志とともにヒットラーの「マインカンプ」を熟読していた。池田大作の前でも話題に上った。

   ヒットラーは、ワイマール末期の混乱時代にヒンデンブルク等、旧ドイツ国軍など保守勢力を利用し、その陰に隠れて勢力を伸ばした。外圧と経済問題に苦しんでいた国情も、我が国の現在に似通っている。連立内閣に加わり、細川人気の陰で、政治改革を利用して勢力拡大を狙っているところも相似形である。

   やがてヒットラーは、組織化された少数者ながら、ドイツを支配するに至った。

   さらにその後、クリスタルナハトの大虐殺でユダヤの粛正を行い、権力をヒットラーの絶対的な心棒者、崇拝者で固めた。

   公明党(創価学会もそうであるが)は、今回の選挙で世代交代と称して、大幅な議員や幹部の入れ替えを行った。竹入、矢野と渡部一郎、正木良明といった結党以来、実績のあった幹部は全て切り捨てられ、新たに池田大作親衛隊が大量に登用された。池田大作の昔のことを知っていたり、日蓮正宗の教義に未練を残す世代や人物は粛正されたのである。いよいよ、池田教信者による純血の池田党で、天下取りの最終コースにチャレンジするつもりのようだ。

   ヒットラーと池田大作の違いは、前者が若いうちに政権を取り、その後で粛正を行ったのに対し、池田大作は少し年を取りすぎ、焦ってしまって、天下を取らないうちに粛正に手を付けた点である。

   それが原因で創価学会も、造反・脱会者、宗門問題等を抱えて、勢力は確実に下降している。だが、今のような政治や経済の不安定な時期に悪魔とでも手を組む人達によって、思いがけぬ威力を発揮する存在であることを、国民は片時も忘れてはならぬと思う。

   池田大作の天下取り構想がこのようなものである以上、公明党に対する支配権を手放すわけにはいかない。

   事実、党首脳をはじめ国会議員の候補者決定に至まで、公明党の人事は一切、池田大作が決める。公明党の重要な政策や方針も、同じである。

   人事に関する池田大作の支配については最近、矢野絢也元公明党委員長が「文芸春秋」誌上に公表した手記で詳しく述べている。また、例えば、二階堂擁立劇、鈴木知事降ろし、新生党との連携など、すべて池田大作直々の指令によるものである。

   創共協定や日中国交などに見られる如く、池田大作は根っからの政治好き、権力好きなのである。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p120-4

   

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      公明党とともに権力機構に潜り込む法学委員会出身者

   

   池田大作の天下盗りの武器として、公明党を将棋の飛車に例えれば角に当たるのが法学委員会である。私が創立以来、中心となって組み立ててきた。天下盗りのための人材送り込み計画ともいうべき法学委員会の危険性について、改めて述べる。

   検事という地位は、国家公務員の中でもとりわけ重要であり、かつ、強大な権限を掌握している。

   端的に言えば、いつでも、どこでも、誰でも、逮捕したいときに逮捕できる権限を持っているし(検察官の令状請求が却下されるという例はまずない)、法務省、検察庁という役所は国家の治安や法秩序の維持の要を司る。

   この検事が、国家、国民への奉仕と社会正義という根本の目的ではなくて、一人の独裁指向者や特定の団体への奉仕を優先する志を密かに抱いていたら、どういうことになるだろうか。

   先頃、ゼネコン疑惑の捜査中、担当検事が取調中の参考人に暴力を振るって怪我をさせ自分の思うような供述を強要した、という事件があった。そのため、罷免され逮捕された金沢仁検事は、実は、創価大学出身の、池田大作親衛隊の一人であった。他にも同様な前歴があった、と報道されているので、性格的な不適格者であったのかとも思われるが、池田大作の思想的な悪影響が及んだことも考えられぬことはない。

   この池田親衛隊的検事が増えて池田大作と創価学会のために権限を乱用するようなことがあったら、反対者の弾圧、学会員への依怙贔屓を行うようになったら、そして、そのためにエキセントリック(偏執的)な取り調べを行うようなことがあったら、一体どうなるだろう。現にゼネコン疑惑は政界に多大な影響を及ぼす事件であり、今後の政局を左右しかねない現在、金沢市の取り調べの行き過ぎがいろいろな憶測すら呼んでいるのである。

   これは単なる危惧ではない。神崎武法氏、会田宣明氏ら池田親衛隊の検事は、検事在職中、明らかにこのような行為を他にも行っているのである。

   創価大学では、開学以来、桐ヶ谷章氏(弁護士、東大大学院の教授)が担当して司法試験のための特別ゼミナールが設置され、スパルタ式の学習と、創価学会精神の徹底的な注入教育が行われて来た。その成果として、創価大学出身の司法試験合格者は開学以来の累計で六十九人となっている。

   聖教新聞上に紹介された金沢仁氏の体験談によれば「司法試験当日、池田大作先生から激励のため贈られた靴下をはいて試験場に臨んだ」と嬉しげに語っている。

   受験の段階から池田大作のスキンシップを受け、合格すれば組織を挙げて英雄扱いし、そして任官は池田大作の指導に従い、任官後も天空会”“自然友の会という奇妙な名前の会に加わって池田大作と会食したりその指導を受ける、という環境にある創価大学卒の検事は、金沢仁一人ではない。

   実は、この創価大学における司法試験ゼミナールは、創価学会学生部の法学委員会の支流なのである。

   法学委員会は、昭和三十八年十二月の学生部幹部会で法学研究会として誕生した。初代委員長は、当時、学生部常任幹事、そして司法修習生であった私だった。その後、昭和五十年頃までは私は法学委員会の中心者であり、桐ヶ谷章(前出)、八尋頼雄(弁護士、早大卒、創価学会副会長)、神崎武法(郵政大臣、元検事、東大卒)、福島啓充(弁護士、元検事、明大卒)、高井康行(検事、早大卒)、村井英子(旧姓田宮、中大卒)、浜四津敏子(参議院議員、旧姓高橋、慶大卒)、遠藤乙彦(通産政務次官、元外交官、慶大卒)、夏泰邦(外務省、東大卒)、会田宣明(検事、日大卒)、吉村弘(検事、東大卒)、大竹健二(検事、中大卒)、上野富司(検事)、西尾精太(検事)といった委員会出身者を指導陣として、学生部の中から司法試験、国家公務員試験、外交官試験を目指す者を募って特訓し、各界に送り込むことに精力を注いだ。

   検事達は自然友の会、弁護士達はカーネーションクラブと池田大作が名付けた会に所属し、年に何回か池田大作とともに研修所へ旅行したり、会食したりした。このようなグループは、外交官達の鳳会、官僚達の霞会などにも広がり、さらには、大蔵相など国の中枢部にいる者は特別に池田大作と接するための会がもたれた。創価学会数百万人のうち、このような特別待遇を受けられるのは極めて限られており、彼らの学会内での地位の高さを示すものである。

   昭和五十一年春当時、桐ヶ谷章氏が私の指示で池田大作宛てに書いた報告書のコピーが手元にある。それによると、

  弁護士 三十三名

  検事 十八名

  判事 三名

  修習生 十六名

  国家公務員上級職 三十六名

  外交官上級職 九名

  中級 八名

  語研 十八名

  となっている。

   この報告書には、

  1)合格者の掌握と信心の訓練

  2)総体革命戦略の構築

  3)(創価学会、公明党の)特殊問題に対する戦略ブレーンとしてのこれら人材の活用

  4)各分野の情報交換

  等についての提案が記載され、今後の目標として「今後五年間で現在の倍増、十年間で現在の四倍にすること、検事は五年後には各都道府県に一人、十年後には二人配置できるようにしていく」と記されている。

   そして、以後の機能の一層の強化のため、秋谷栄之助副会長(当時、現会長)を議長、私を副議長とする戦略会議の設置が提唱され、合格者によるOB組織の委員長に桐ヶ谷章(前出)、事務局長に福島啓充(前出)、副委員長に中村俊介(公認会計士、創価学会経理局)、委員に石塚義高(建設省、東工大卒)、檜大鵬……らが推薦されている。さらに、参与として神崎武法、会田宣明、吉村弘、上野富司、高井康行氏ら検事の名が記されている。

   法学委員会は、この頃から、受験生教育という機能だけでなく、各省庁や分野におけるキャリアの配置活動重視へとウエイトが移り、そのため創価学会、公明党の全組織的な取り組みとのドッキングということで、秋谷栄之助氏の議長就任となるのである。

   この時期から私は、法学委員会の実権を後輩に委ねて月刊ペン事件の裏工作や日蓮正宗とのトラブル調整といった事件処理に忙殺され、やがて五十五年の造反へと事態は流れて行ったから、その後のことは間接的な知識に頼る他ない。しかし、以来十八年を経た現在、検事の数は百人近くに増えていると思って間違いあるまい。弁護士は、三百人近くになっているのである。

   こうして各界に送り込まれる人材は創価大学の看板を背負っている者を除けば、ほとんど創価学会員であることを秘匿している。結婚式の披露宴ですら、職場向けと学会員同士向けと二重にすることが少なくない。戦国時代、敵国に身を隠して住み込む忍者の如く、また、冷戦構造時代の東西情報戦争におけるスパイの如くにである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p124-30

   

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   今や民間各地にも隠れ学会員が送り込まれている

   

   後に、こうした人材送り込み計画は、マスコミ関係(大新聞社、テレビ局、出版社)、医師、看護婦、学者、教員、地方公務員、そして大企業や金融機関にまで拡大された。創価大学から公然と送り込まれる場合もあれば(学会と取引のある企業は拒めない)、信仰を隠しての形で入る場合もあることは、官庁などと異ならない。最も入りにくい分野は、警察と自衛隊、刑務官などだが、そこにもはいる。

   それだけに、彼らに対する池田大作の管理とスキンシップも行き届いており、職場の情報だけでなく、家庭や身上についても報告指導が必要とされる。結婚も多くは、池田大作の秘書の女性や創価学会本部勤務者、或いは組織幹部と、池田大作の指名、または斡旋で結ばれる。私の手元には、弁護士の結婚について池田大作の承認を求めた報告書のコピーがある。

   今では、池田大作も公明党も、彼らを通じて役所や企業、団体の機密情報をたやすく入手でき、先手を打てるのである。

   余談であるが、情報といえば、看護婦や教員、風俗関係者の組織からも、池田大作は種々な情報を手に入れることができる。従って、公明党書記長が変装して、腰巾着の千葉県出身代議士をお供につれてソプランドに出没していることなど、池田大作は先刻承知であろう。印刷所から雑誌のゲラや記事の情報が池田大作のもとに流出することも、再三どころではない。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p130-1

   

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      選挙に出て初めて学会員と知るケースも

   

   私が最近注目していることは、彼らエリートの代表で、池田大作にとりわけ覚えの目出度い面々が、昨年行われた総選挙で大挙して公明党代議士に進出していることである。

   彼らの中には、立候補によって初めて創価学会員であることが周囲に判明した例もある。長い雌伏の後、晴れて本音を出して行動できる嬉しさに、彼らは浮かれてボロを出す。そこから、創価学会から各界に送り込まれた人達が、どのような心構え、精神状態で職場にあるかを物語る資料が生じる。

   まずは、元外交官で、現通産事務次官・遠藤乙彦氏の本音を紹介しよう。

   平成二年二月の総選挙に東京二区から初めて立候補した際、二月一日、創価学会大田区馬込会館で行われた創価学会第二大田区中央本部衆議院選決起大会で、遠藤氏は次のように挨拶を行った。

  ……皆さんご覧の通り、このたび学会原点の地であり、はえある東京二区の公明党衆議院立候補者としてタスキを授与していただきました。

  (中略)

   必ずや、皆様の御期待に応え、皆様の手足となりきって、先生を守り、学会を守り、民衆を守る政治家として、力の限り戦い抜くことをお誓い致します。

   私も池田門下生の一人として先生より数多くのご指導、ご薫陶を賜ってまいりました。先生のご薫陶のおかげで、広布に生きる使命を自覚することができ、妙法の外交官となって二十年に亘り世界を舞台に充分に戦ってまいりました。私が何よりも感謝申し上げていることは、先生の限り無い御激励により広宣流布に生きる人生のすばらしさを教えていただいたことでございます。どこまでも、この師弟不二の原点だけは貫き通して、先生のご構想を実現してゆく弟子となりたい、先生の偉大さを社会に向かって、世界に向かって断じて証明しゆく弟子となりたいと、深い深い決意を致しております」

   これによると遠藤氏は、日本国の外交官の身分でありながら、実は妙法の外交官つまり池田大作に仕える気持ちで二十年間勤めていたのである。池田大作から候補者のタスキを授与され、池田大作と一体となり、池田大作を守り、学会を守るための目的で代議士になったのである。これを支援する創価学会は法戦として、宗教活動として選挙を行ったのである。

   政策や政治に関する抱負については、遠藤氏は一言も述べなかった。

   公明党議員は、このように、池田大作にすがって当選すると、今度は政教分離といって国民を欺き、池田大作隠しの嘘をつく。卑劣極まりない。

   次に、神崎武法郵政大臣の考えを紹介する。神崎氏は司法修習生の頃、創価学会学生部副部長の役職にあったが、その頃、学生部の文集に次のような一文を寄せている。

  いざ鎌倉の精神で

  (前略)

   私も大学を卒業し、研修所で毎日記録を渡され、判決文、訴状、準備書面等で起案講評というスケジュールを送っていると、果たして、自分の現在の勉強が……という疑いを生じたこともあった。

   同時に、本部職員として、先生のもと、先輩の厳しい指導を受けている友人が羨ましくなることもある。

   そういうときには『本部から派遣になっている気持で戦ってきなさい。刀折れ、矢つきたら、いつでも私の所へきなさい』との池田先生の激励を思い浮かべて戦うのである。

   常に池田先生のもと、本部職員として戦っているのだとの決意自覚をもって、仕事、学業、アルバイトにぶつかって行くことこそ大事なのである。

   池田先生は『どの世界でも同じだが、とくに仏法の世界に於いてはいざ鎌倉というときにはせ参じられる人が真の人材であり、信者の中の大信者なのである。いざ鎌倉という時には、自分が率先して学会を守り、学会を推進してゆくのだという幹部にならなければいけない(中略)』と指導されている。我々はいざ鎌倉の精神で戦うことを決意しようではないか」

   この文集は、池田大作に対する忠誠を誓う踏み絵として作られたものの一つである。

   神崎氏は、東大在学中、司法試験に合格し、法学委員会では草創期からの指導者であった。昭和五十一年当時は、委員会の参与の地位にあった。東大在学中から池田大作に目をかけられ、側近で育てられた。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p131-4

   

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     「広布基金」も不動産漁りやノーベル賞工作にばらまかれている

   

   ところで私の手元に、あるところから録音テープが届いた。元参議院議員・柏原ヤスが青森県で戦われた会合の席で会員に広布基金の捻出を呼びかけたのであるが、中身は「池田先生の世界広布には金がかかる。だから金を出せ、というのです。出せ、出せ。三ケタ、百万円出しなさい……」と絶叫しているものである。折から、創価学会は広布基金と称する金集めに必死である。

   創価学会の金集めは、宗教上の布施や供養のレベルを遙かに逸脱している。嘘だらけの功徳話やコントなどで会員を騙し、集団催眠にかけ、煽り、あげくの果ては脅迫まがいのノルマの強要を行う。宗教団体という肩書きがなかったら、豊田商事などと何ら変わるところのない、あくどくあこぎなものである。そうした金集めの陰に、夜逃げや倒産、犯罪行為に走る者など悲惨な道を巡る会員も少なくない。創価学会員の事件の多さは、私共の統計上も裏づけられる。私が二年余暮らしたところ(刑務所)にも、数人に一人の割合で会員がいた。金集めの号令は、まず池田大作から発せられる。そして、功名争いに支配された各地域の責任者の猛烈な煽りが始まる。何しろ、目覚ましい集金額を達成した幹部には出世と名誉が与えられ、そうでない者には池田大作の叱責と酷い仕打ちが待っているのである。

   平成五年度の金集めは、九月から十二月にかけて四ヶ月に渡るロングランだった。埼玉の支部では、一支部五千万円の目標が掲げられた。一世帯当たり三十万円である。全国で支部は一万二千あるから、単純計算で六千億円が全体目標になるが、地域差があるから、二千億くらいが目標かと思われる。

   それにしても、この不景気の下で三十万円の支出は、ボーナスが吹き飛ぶだけでは済まぬはずである。

   こうして集めた金は、東京の八王子や信濃町付近の土地を買い漁る他に、池田大作のノーベル賞取りのための宣伝、いわゆる世界広布とやらに使われると、創価学会では発表している。

  “世界広布とは本来、世界各国への布教ということであり、信者を増やすことであるはずである、しかし、アメリカ、ヨーロッパ、東南アジア等、この二十年間、横ばいであり、地域によっては内紛によって大幅に減少している。これら世界各国の信者団体は、できる限り自国信者からの寄付で運営されるべく自給自足体制をとっており、日本からの直接の援助は大したことはない。では、一体何に金を使うのか。池田大作は、世界広布の名の下に、数十億円の大金を投じて、海外の不動産を買い漁った。イギリスやフランスの城、大邸宅、アメリカの高級別荘や広大な土地。およそ現地の信者組織に比べれば貧乏人に馬どころか、猫に小判”“豚に真珠の如く、全く不釣り合いな買い物である。既に、海外資産はの台に乗ったという。

   さらに池田大作は、自らの名誉を買うために、会員から集めた金を惜しみなくばらまいた。ソ連圏、中南米、アフリカといった貧しい国で、池田大作はばらまいた金で、腐るほどの名誉称号や勲章を手に入れた。そして、それをその都度、聖教新聞で美々しく報道し、会員に「池田先生は偉い」「世界の指導者」との印象を植え付けた。国連からも多額の寄付の見返りに「平和賞」を手に入れた。金に目のくらんだ学者や文化人と、聖教新聞や誌上で対談し(内容はゴーストライターが作る。池田大作は、会って下らぬ雑談をするだけである)、あげくの果ては、小国の元首や、実情を知らぬ外国の皇室や外務省を引っ張り回して自己宣伝に利用するという抜け目のなさである。創価学会や池田大作が招いても皇室が創価学会関連のイベントに出席されることはあり得ないが、外国の王室関係者が来たとなると、儀礼上、皇室関係者が受けざるを得ない。巧妙な皇室利用のテクニックといわざるを得ない。

   こうしたやり方に、当然、諸外国内でも反発があるが、フランスでは、政府首脳の家族が関係する財団への寄付などの工作がマスコミに騒がれ、ドイツでは、大統領が池田大作と会ったことに対する世論の反発が表面化した。

   南米ブラジルでは、長い間、池田大作は入国を拒まれてきたが、ノリエガ将軍の斡旋などで入国できるようになった。しかし、マスコミはじめ各方面に大金を配ったことが、ある邦字紙にすっぱ抜かれた。

   池田大作は何としてもアメリカ大統領との会談を実現し、ノーベル賞へのステップにしたいとの考えを持っていたが、レーガン、ブッシュ、クリントン各大統領とも、池田大作との会談を拒んでいる。

   矢野絢也氏の手記(「文芸春秋」平成五年十二月号)に黒柳氏がアメリカで云々のくだりが何回か出てくる。公明党の外交部門担当者の黒柳明氏は、密かに渡米して、池田大作とレーガン大統領の会談実現の努力をしていたのだ。

   法学委員会出身の外交官や、金にあかせた大統領側近への工作も、ついに実を結ばなかった池田大作は、今年春訪米した際、アメリカの会員を集めた大会の席上、「クリントンは口がうまい男だ。口先だけで大統領になった」とクリントン大統領をこき下ろしてうっぷんを晴らした。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p134-8

   

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  第四章 これが池田大作の誤った信仰指導の結果だ

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     「助けて下さい」ーー学会員の悲鳴が聞こえる!

   

   少し前に行われた財務の直前、京都の学会員からある一通の手紙が届いた。

「助けてください。私は創価学会の会員です。今年も強制的に寄付させられるのです。今年も学会員の中から町内で二件は夜逃げ同然、何処かへ引っ越してゆきます。何とか取材して助けてください。これは社会問題です。豊田商事とか悪徳商法が有りますが、もっともっと酷いやり方です。内容は、度々会合に集めて催眠療法でかき立て、幹部は「私は三桁から四桁(百万から一千万)する、皆さんも出来る限り多くしてください。私は家を売ってでもしたいんです、と言ってかき立てます。いま一銭もなくなっても必ず福運が付くと言い切ります。助けて下さい。この時期になると夫婦ゲンカが耐えません。寄付金を出さないと、断り切れない顔見知りの幹部が夜遅くまで強要します。はい、出します、と言うまで帰りません。なんとか創価学会員を助けてください」

 たどたどしい手紙の中に「助けて下さい」との言葉が四カ所も出てくる。この悲痛な訴えをよそに、創価学会の金集めはエスカレートするばかりである。

 創価学会は、幼児に至まで広布部員(財務を出す人)にする。まず大口(百万円以上出す人)をどれだけ拡大するか。次に一口(一口は一万円)を二口、三口にする戦い。第三に、新規申込者を徹底して推進します。

 部員リスト、大口リストを作り、大口担当者、一口担当者が決められ、百万円以上する人を何人獲得するか競わせる。また、一口しかできない人もギュウギュウと責め立て、二口、三口にもっていく。そして、さらに金を出す人をより多く獲得していく。あげくの果ては金のない人には借金してまで出させようとする過酷さである。

 会員の多くは、サラ金に手を出して金を捻出する。驚いたことに、東京・大田区の婦人部の活動ノートには、あるサラ金業者からは借りてはいけないとの注意事項まで載っている。ということは、サラ金から借りて財務に応ずることは当たり前になっているのだ。兵庫県尼崎市の民主商工会に置かれた「阪神サラ金被害者の会」の相談コーナーには、月に五十件から六十件ものサラ金被害の相談が持ち込まれていますが、なんと、相談者の六割を創価学会員が占めていた。

 そのため、金策をめぐる犯罪、サラ金による自殺、夜逃げが頻発している。学会本部では「最近、新聞などで話題になっているサラ金の問題についても、借り易いので利用する人も多いが、家庭の崩壊などの悲劇を招いては、断じてならない」(昭和五十八年六月、本部幹部会、森田一哉理事長談話)などとしているが、問題が学会上層部に波及しないように、あらかじめ会員へ責任転嫁しているにすぎない。実際には池田のゴリ押しの金集めが幾多の家庭崩壊を招いているのであって、この談話もかえって、いかに多くの会員がサラ金地獄に陥っているかの証明である。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p140-2

   

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          驕りの極み、池田の大名生活

   

   こうした会員の悲惨な苦悩をよそに、池田大作の大名生活はひときわ豪華さを増している。

   全国の約700カ所の会館・研修道場には、いずれも池田専用施設がある。

   例えば本部横の白雲寮(第二別館)。約二十年前、都心の一等地に建設費約5億円をかけて造られた和風総ヒノキ造り、庭園つきの邸宅。池田が東京にいるときは、たいていここにいる。渋谷研修所も豪勢だ。また、創価大学近くの加住研修所はやはり十数年前、三、四億をかけた専用施設。熱海研修所に至っては、数万坪もある池田の別荘である。東北墓園、鎌倉、渋谷区等々の会館一覧にも載っていない秘密の池田専用施設はまだ他にたくさんある。さらに、池田が役員にもなってない「学校法人創価大学」や「学校法人創価学園」内にも専用施設がある。そのうえ、1989年、伊豆の温泉地にも、約一万坪の池田専用別荘が建てられた。

   フランスでは、東京ドームの五倍の広さを誇るアルニー城という古城を買収した。また、イギリス・ロンドン郊外の古城を600万ポンド(約18億円)で、実質的な池田の海外別荘とした。

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   創価学会幹部たちの所得(平成4年度四谷税務署公示)

   

  氏名     納税額

  池田大作  8715万円

  秋谷栄之助 1842万円

  森田一哉  1387万円

  上田雅一  1301万円

  青木 亨  1024万円

   

  (注)上記金額は、納税額。年間所得にするとこの約3倍。例えば池田大作は2億6145万円、月給にすると2179万円。また、秋谷会長の年間所得は5526万円。これは月給460万円となる。

  青木副会長さえも、月給258万円となる。

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  「イギリスには、ロンドン郊外に『タブロ・コート』という由緒ある建物が、イギリス日蓮正宗の中心会館として、またヨーロッパ世界総合文化センターとして活用されていくことになった。(中略)イタリアにも、新しい中心会館が購入されている。また、今後ドイツ・フランス・デンマーク、その他の各国においても、着々と世界の会館整備があわせて行われていく。皆様には、福運に満ち満ち、将来、これらの国々の交流等にも悠悠と行って頂きたい」(s63の「財務について」の本部通達)

   池田は、貧しい会員に幻想を抱かせる商人である。しかし、一部の人を除いて、どうして大多数の会員が「これらの国々と交流」できるであろうか。どうして、これらの施設を利用できるというのか。「会館を建ててあげる」という夢をばらまいて搾取するだけである。しかも、それらの海外の会館も池田の別荘となるのがオチである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p142-3

   

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         野望を記した機密文書

   

   創価学会には「水滸会遺誡置文二十六箇条」という機密文書がある。これは池田自身の構想を戸田二代会長の言行録として、昭和五十三年頃、密かに副教学部長の佐久間昇に命じて作らせたものであり、池田の隠された野心を示したものとみてよい。そのいくつかを紹介しよう。(括弧内は筆者注)

  総理大臣について

  今の総理大臣の権力は明治時代の天皇以上である。総理大臣になれば、日本を自由にすることができる権限を持つことができる。自衛隊を動かすことのできる権力を持っている。ある意味では広宣流布しやすくなったな」(池田は、自分が総理大臣になろうとしていた。今はそれが無理と見て、黒幕になろうとしている)

  官庁閥

  問 われわれが将来、一番取りにくい所はどこですか。

  先生(戸田のこと) 官庁だな。それには優秀な人を抜擢して先輩が自分より出世させ、出世したものが又後輩を引き立てて行くしかないな。警察などの場合、警部補、部課長クラスを占めてしまえば強いものだ。将来、二万の青年が各官庁や社会の重要ポストを占めるようになれば、その仲間同士で何でもできる。だから青年に国家改革を頼む以外にないのだ」(この考えが、後の法学委員会構想につながった)

  日本の広宣流布

   『政治家対策』

   一人の議員をつかんで、自由に動かすのは、買収費と小遣い銭を入れて、一年に四百万円(昭和三十一年当時)かかる。百人で四億円だ。それが一つのホシになる。

   四億円あれば日本を動かすことができる。広宣流布も最後は経済だ。だから、日銀総裁も、この中から出なければならない」(今は一兆円以上の金を持ち、新生党まで動かしている)

   その他「あらゆるところに星を撃つ」「諸君も、財務、外務、文部の実権を握ったときに、堂々と広宣流布をやりたまえ」(学会批判の新聞に対して)必ずつぶす自信がある。それには、青年部を使えばよい。金がかかるなあ」(マスコミを抑え、言論抑圧を目指す体質の原点)

   これらを整理すると

  1)総理大臣の座を奪い、日本を自由に動かす

  2)当然、自衛隊を動かす権力を持つ

  3)官庁や社会の重要ポストを青年部出身で押さえる。警察権力を占める

  4)百人ほどの国会議員を自由に動かすことができるようにする

  5)学会批判の言論については、青年部を使って潰す

  6)その他あらゆるところに星を打っておいて、一気に国家改革を行ってしまう

  7)これらを遂行するためには、なんとしても経済的基盤が必要である。「最後は経済」なのである

   

   ここに、池田が二十六歳で参謀室長になって以来、今日まで密かに抱き続けてきた謀略そのものが綴られている。そして、これらを何としても実現するための要が軍資金集めなのである。このことは、他の発言によっても裏付けられる。

  「広布の戦いで、政党、学校、文化、民音等も出来た。最後に残ったのは経済だ。これから、この社長会を中心に経済革命をする。一番最後で、一番大事で、又一番晴れがましい舞台だ」(S42/6/25、第一回社長会)

   この意向を受けて、東西哲学書院取締役社長で『人間革命』のゴーストライターの篠原善太郎氏は「自民党だけが政権を独占して二十数年も経っているということは何といっても天下の日本の経済界の基盤というものを握っている。その上に立っているということではないかと思うのであります。そうしてみますと、広宣流布という活動も、資本主義社会における広宣流布というものは、どうしてもやはり経済的基盤をもたなくてはならない」(S47、金剛会第二回総会)と語っている。

   すなわち、自民党が長期政権を維持しているのは財界の後ろ盾があるからで、創価学会が権力を維持していくには経済界を支配しなければならない、としたのである。

   ところが、「経済革命」の目論見が外れ、外郭企業は外に向かって発展することなく、創価学会を取り巻く衛星的存在としてとどまった。つまり、思い付きで始めた池田オーナーの外郭企業群は、学会員のみをマーケットの対象とするより他はなかった。しかも「経済革命」の失敗による天下盗りの構想の行き詰まりを、会員から直接金を搾り取る方向によって打開しようとした。

   これが、昭和四十九年から五十二年にかけての六百数十億円を集めた「特別財務」であり、また、昭和五十七年頃から暴走を開始した年間二千億にも及ぶ財務なのである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p144-7

   

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     あこぎな金集めの実態とトリック

   

   現在、創価学会の収入には次のようなものがある。

  1)年一回の通常財務

  2)年数回に亘る広布基金

  3)会館建設などを目的とする地域ごとの特別財務

  4)聖教新聞社を始めとする収益部門からの上納金

  5)墓苑事業の収入

   これらが表向きの収入であるが、それ以外にも外郭企業を使っての裏金、池田に直接収められる上納金(いわゆるP)などがある。5)の墓苑事業が裏金作りに一役買っていることも、私の裁判などで氷山の一角が明るみに出た。

   このうち、1)の通常財務は昭和五十六年までは150億ほどであった。昭和五十二年、三年頃の副会長会議では、財務150億円でも会員の相当の負担になることが報告されていた。

   ところが、昭和五十七年には一気に倍加し300億円に達し、五十八年には450億円、五十九年には1500億円、六十年、六十一年、六十二年にも同じく1500億円、六十三年にはなんと2000億円が集められたのである(平成元年は長年の過酷な財務がたたり、1000億円を割ったと伝えられる)。その大義名分として「昭和六十五年の大石寺開創七百年を慶祝する日蓮正宗200ヶ寺建立」と謳っているが、実際は毎年、宗門へ数億円(昭和五十七年には3億円)しかご供養されていないし、約束が履行されたためしがない。

   会館の建設も謳われているが、これにもトリックがある。というのは、ある地域に会館を造るときには特別財務として再びその地域の会員からの金集めが強行され、それで賄われる。そこで集められた金も、建設費に全部使うわけではない。つまり、会員は二重三重に搾取され、さらに誤魔化されている。通常財務のお金は、ほとんど手つかずにプールされる。こうしたことは池田の常套手段である。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p147-9

   

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       御供養金をごまかし財テクにまで利用

   

   昭和四十年に、正本堂建立のご供養が355億円集まった。後にこれについて池田は、「発表以外に100億はやった、また稼ぐよ」と発言したことは有名である。

   某有力銀行の調査として、昭和四十四年時の学会の銀行預金高が公表されている。それによると、三菱銀行=220億円、三菱信託銀行=50億円、富士銀行=60億円など総額553億円にのぼるという。当時、正本堂の募財以外に学会にはほとんど金が無く(大客殿、学会本部の建設等に使った)この553億円のほとんどは正本堂御供養金が銀行に預けられたと推定される。とすれば「公表以外の100億」だと、利息を含めて数字が符合する。つまり、355億円ではなく、460億円くらい集められた可能性が強い。その差額100億円は何処かに消えた。また、海外会員からの約8億円の金も、正本堂関係に全く使われていない。現地の銀行から先はその行方も不明である。

   全国都道府県に「広宣流布の碑」を建てて名前を刻印する時もそうだった。県単位で10億から20億の金を集めたが、たかだか500万円から1000万円の石碑で会員を騙し、巻き上げた金はそのままプールされていく。

   さて、昭和52年当時、聖教新聞社の余剰金は500億円ほどあった。これは、池田と中西治雄氏(池田の金庫番)の話を側近が聞いている。その後、民社党の「質問主意書」などで慌てふためいて、建造物の改造や取り壊しにこうした金が無駄に使われたが、昭和五十七年には、池田の復権によって、約300億円の余剰金となった。しかし、それは新しく設けられた「創価基金」として本部に計上された。加えてその年、250億円から300億円の隠し資金があったと内部告発されている。合計1000億円がプールされたと推定される。

   暴走財務が開始された昭和五十七年に、創価学会にいろいろな名目でプールされた金が1000億円とすれば、平成元年末までに、財務だけで1兆円以上、利息を加えれば1兆5000億円ぐらい。これに広布基金も正月だけで50億円、年間で100億円ぐらいになる。また、聖教新聞社の収益部門から毎年60億円以上が本部に寄付される。それに、後に述べる墓園事業で、1000億円の儲けがあったと見られる。さまざまなものを加えれば、約2兆円の金が既に貯められたのではないか。

   平成元年11月に起きた僧侶誘拐事件でも、6億円の金をポンと出すことができるなど、普通人では考えられない巨額な金が創価学会には唸っているのだ。

   それ以外に1000程の会館、約20カ所の研修道場等の土地・不動産、広大な墓苑、八王子などの大学の施設や外部の資金などを加えれば、近年の土地狂騰も含めて、その資金は計り知れないものがある。ちなみに、関西創価学会の中心である関西文化会館は平成元年の段階で土地だけで低く見積もり坪850万円で、1421坪、計120億7850万円である。

   しかもこれらが、池田がかつて「いざとなれば、学会の全施設を売却して日本全土を席巻してやる」と豪語したように、全てが池田の意のままになる点を見逃してはなるまい。

   摂取される側の創価学会員も、財務が総額がいくらか、会館建設にいくらかかったか知る人はいないし、知ろうとしない。同会の中枢部さえその全体像を知らず、創価学会の経理は闇に包まれている。なんのチェックも及ばない宗教法人を悪用し、良いように詐欺的な金集めが行われている。

   加えて、公明党約80人の国会議員、4千人近くの地方議員は、国民の税金で養っている。それらの議員や秘書たちは、池田の天下取りのために存在しているといって過言ではなく、その意味では、国民全体の税金で、このモンスターのような創価学会の財政を支えていることになる。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p149-51

   

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     不正行為にも学会員の金が洪水のように使われている

   

   先に紹介した「二十六箇条遺誡置文」には次のような記述もある。

  「今日の日本では、経済界でも教育界でも組織がガッチリできあがって、これから伸びて行く余地は少ない。ところが、宗教界だけは、ちょうど戦国時代のときのように乱戦状態である。法律で縛る何ものもない。縛を解いて、虎を野に放ったようなものである。今こそ広宣流布できるチャンスだ」

   まさしく、宗教界は法で縛られる何物もない。宗教法人法とてザル法であり、やりたい放題、言いたい放題を池田に許してしまったのである。

   それでは、このようにして集められた金が、どのように使われているのか。これまた闇の中である。その大部分はプールされているであろうが、一部(といっても何百億、何千億という金)は、池田大作の名誉欲、権勢欲、贅沢三昧の生活のために浪費されているのである。

   例えば、池田が富士宮市の名誉市民の称号を得るために使った金は、30億に上る。その他、池田に贈られた世界各地からのおびただしい名誉称号や勲章を取るためにも、相当の金がバラまかれた。

   月刊ペン裏工作、電話盗聴や謀略、他教団や学会批判勢力の分断工作、世論操作、買収に多額の金が使われていたことも、これまで述べてきた通りである。それとて、氷山の一角であろう。池田の豪華な海外旅行、著名人や文化人との対談に至る工作資金、海外マスコミへの金のバラまき、暴力団への裏工作など、洪水のように金が使われている。

   こうした金権工作に対して、数年前、ブラジルの新聞「週刊時報」が池田の渡伯を前にして彼の側近・鈴木琢郎副会長が現地マスコミの買収工作をした事実をすっぱ抜き、「『金の力』で世の中を思うように動かせる、と考えているように思われる日本の創価学会に、改めて批判の声が渦巻いてくるのも当然だろう」と指弾したことも記憶に新しい。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p151-3

 

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   ニセ美術品や豪華施設への建て替えにも浄財を浪費

   

   最近、各地に富士美術館を開設し、会員の教養を高める、というのが財務の趣旨に加えられている。

   ところが、富士宮市と八王子市にある富士美術館の所蔵品の七五%はニセ物だというのである。池田は、自分では鑑識眼に絶対の自信を持っているらしく、外国旅行の際など、よくギャラリーや骨董店をのぞくのであるが、壁面に掛かっている絵の端から端まで全部買ってしまうといったやり方をする。後で美術館の方に荷物がどっさりと届き、「支払いは館の方でやっておけ」と命ぜられる。ところが、これを専門家にこっそり見てもらうと「全部が全部ニセ物、でなければ二、三流品。かといって処分もできず、池田センセイに面と向かって報告もできず……」(富士美術館元職員)というていたらく。池田には美術品に対する鑑識眼はない。美術品の真贋の区別はプロでも難しいのである。それを、もともと知性も教養もない池田が大物気取りで「ここの品を全部」などと大名買いした物にロクな物があるはずがない。

   会員が財務納金のため、生活費を切り詰めるだけ切り詰めて、なけなしの金をはたいている一方、池田は贋物を金に任せて買いあさり、得意満面となっているのです。

   池田の気まぐれ的な金の浪費は「作っては壊し、壊しては作る」という建物の建て替えにも現れている。例えば、聖教新聞社の社屋の七階全フロア約三百坪は、昭和五十八年、池田大作専用フロアに改装するための工事に半年を掛け、九億円を費やしている。そして壮大なシャンデリア、ぶ厚い絨毯、皇室の調度品を遙かにしのぐ高価な物が揃えられた。

   また、関西戸田記念講堂は昭和五十一年にボーリング場を買収し、改修費約八億円を掛けてオープンしたが、その後十年そこそこで全面的に取り壊され、数十億円で新築された。

   昭和五十六年、聖教新聞社の前にあった第四代会長・北條浩邸(以前、第二青葉寮といって池田の専用施設だった)は、北條浩氏の死去に伴い、約一億円で改装。北条未亡人は、老母や子とともに追い立てられた。ついでながら、北条市の葬儀に集められた約二十億円の香典はすべて吸い上げるという銭ゲバぶり。しかも「暑い夏に死なれちゃ困る」などと周囲の幹部に平然と語った。池田に終生、忠誠を貫いた北条前会長にしてこの有様である。

   学会本部の周辺も、立て替えが進んでいる。本部別館は取り壊され、新しい建物が建つ。国際センターも同じである。こんな池田の気まぐれのために、会員は今日も明日も、犠牲に次ぐ犠牲を強いられていくのである。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p153-5

   

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      議員歳費の上前をもはねる

   

   池田が海外旅行に行くたびに、創価学会の幹部、公明党の議員、外郭企業は必ず現金の餞別を届ける。例えば潮出版社では、五百万円から一千万円を届ける。

   海外旅行の時ばかりではない。ある幹部の内部告発によると「池田は会長就任当時から現在に至るまで、事ある毎に大量の贈り物を献上させてきた。長い時間をかけてさまざまな工夫を重ねた末、競って贈らせるという悪習を定着させた。池田の出席する会合では『接遇』と呼ばれる贈り物専門の受付役員が置かれたほどで、学会本部には常時『接遇』担当者が置かれている」

   贈り物の代表的なパターンは、次の六種類である。

  1)各種記念日

   一月二日=池田の誕生日

   五月三日=池田の会長就任の日

   八月二十四日=池田の入信記念日

   十月十二日=正本堂建設記念日

   十一月十八日=創価学会創立記念日

   その他、各県・区・グループの記念日など

  2)各地の会合に池田が来る時

  3)池田が外遊する時

  4)池田に呼ばれたり会合で本部に行く時

  5)日常的に本部に持参する(信濃町詣で)

  6)御中元、御歳暮

   贈り物には現金、品物の両方があり、現金は池田の懐にそっくり入り、品物は高価な物のみを池田が取る。残りの品は貢ぎ物を献上した人へのお返しに使ったり「池田先生から00をいただきました」と会員にたらい回しをする。中でも公明党国会議員の場合は、予め歳費からの天引きが行われていた。

   これらの中で、とりわけ公明党国会議員からの天引きはゆるがせに出来ない。大橋敏夫元衆議院議員「控除額明細書」が存在し、その事実を証明している。それによるとーー

  S58/3 「一万六千円」(八王子の東京富士美術館開館祝い)

  S59/2 「餞別五万円」(池田の北米・南米旅行の時)

  S59/5 「六万五千円」(5/3 会長就任祝い)

  S62/4 「餞別四万五百円」(池田の北米・中米旅行の時)

  S62/6「餞別四万円」(池田のソ連・フランス訪問の時)

  S63/1 「祝金一万円」(池田の香港訪問の時)

   

   これらの明細書は何を物語るのか。事は国会議員の歳費に関している。その歳費は、国民の血税で支出されている。池田から引き立てられた公明党議員の弱い立場につけ込んで、有無を言わさず歳費の上前をはねている。これを国民が許して良いはずがない。

   また、これらの贈り物(P献金といわれる。Pはプレジデントの意)には、池田の脱税の疑惑が濃い。

   池田は各地の代表と頻繁に会食する。参加者はプレゼントを持参したうえ、食事代として一人三千円ないし五千円が徴収される。一カ所で九十万円から百五十万円になる。しかし、会場は学会の施設、料理は本部職員が作る。材料費は聖教新聞の食道会計で落とされ、まるまる一回の食事代・百五十万は池田の懐に入る仕組みになっている。池田は、ほとんど一年中と言って良いほど、各地域の代表と会食を行っている。それだけでも、年間数億円の個人収入になるはず。言ってみれば、池田の「会食」は集金旅行なのである。その他、これらの贈り物を本部職員に売りつけるバーゲンも馬鹿にならない。

   一方、池田が四谷税務署に申告しているのは、聖教新聞社の社主としての給料、著作物の印税、原稿料であり、昭和五十年代以降、三千万円〜八千万円台に留まっている。池田はP代、会食費など、贈与税は払っているのだろうか。加えて池田は、海外に隠し資産を持っていると言われる。今後の調査を待たなければならないが、事実とすれば、外為法違反などの刑事事件に問われる可能性もある。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p155-8

   

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     「墓は多くあった方が偉い」と一家でいくつも購入させる

   

   昭和五十年代以降、池田が目をつけた金の成る木は、何といっても墓苑である。

   土地が二束三文の北海道の厚田墓苑を例にとれば、一基四十万五千円で販売されたが、ある調査では、

  *石・加工代 50400円

  *字彫り代   4500円

  *カロート代  2500円

  *穴掘り代   1500円

  *取付料    2000円

       計 65900円

   土地、造成費を合計しても九万千九百円にしかならない。そこで単純計算で15万円としても、一区画差し引き25万円、四万区画で約100億円を儲けたことになる。

   同様にして調査を進めると、

  1)富士桜記念墓苑 一区画55万円で、四万七千基、約160億円の儲け。市から買い戻した分1500基、75万円で、11億2000万円の儲け。

  2)(財団法人)はるな墓苑(群馬・渋川) 一区画72万円、二万五千墓(当面一万八千墓) 

  3)

  4)

  5)

   その他、千葉、九州など全国至る所で、創価学会の墓苑計画が進められている。池田は「墓は多くあった方が偉い」と語り、一家でいくつも購入させている。聖教新聞の「多部数購読」の墓苑版である。これらの押しつけによって、会員が疲弊するばかりでなく、大規模開発で近隣の市町村は多大な迷惑を被るのである。

   このような創価学会による収奪が、社会に弊害をもたらさぬはずがない。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p158-9

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    犯罪の温床となる狂気の集団と仏法に背く池田の指導

   

   平成元年5月、千葉県船橋市の熱心な創価学会員・阿部アヤ子さんと長男の秀之ちゃんが、同じく学会員である夫の阿部隆に殺された。バラバラにされた死体が聖教新聞に包まれ、シキミとともに長野県の山中に捨てられていたこの事件は、社会に大きな衝撃を与えた。なぜ、いたいけな幼児が虐殺されなければならないのか。また、なぜ、その母親が無残にも切り刻まれなければならなかったのか。なんとも酷い、胸の痛む事件であった。日蓮大聖人の仏法を信奉するものとして、被害者の冥福を心より祈りたい。

   こういった悲しむべき家庭の崩壊を始め、創価学会員がらみの犯罪・事件・事故は、知られているものだけでも相当の数に上る。「創価学会の信心は、世界一、宇宙一に、大福運、大功徳がある」(s52/1/1、新年勤行会)と胸を張って力説した池田大作の指導とは裏腹に、近年とくに前述のような不幸な事件の多発する学会内の現状は、目を覆いたくなるものがある。私は傍観者としていたずらに不祥事をあげつらうものでは決してない。また、これらを掲載することは、被害者・加害者の心情を思うとためらいもあるが、敢えて具体的事実を挙げ、およそ「福運」「大功徳」とは雲泥の相違がある創価学会の現状を直視するならば、信仰者として、その原因はいったい何処にあるのか、追求すべき必要を痛切に感じる。そこで、以下に、池田指導と学会内の現状との落差に焦点を絞り、数百万会員を率いる池田創価学会の悪しき体質を検証する。

   まず、昭和五十二年1月1日、池田大作は学会本部・師弟会館の模刻本尊の前で催された新年勤行会の席上、次のように語った。

  「功徳が皆さんの上に、創価学会員の上に、燦々とこれまた雨の降るが如く功徳が湧かないわけがないんです。皆さん、功徳を頂いておりますね。まだまだ今までの何千倍何万倍何億倍も受ける資格があるんです。うけられる土壌があるんです。これは創価学会の信心には世界一、宇宙第一の功徳がある、とこう私は断言しておきます。いいですか。あるんですよ。この創価学会を馬鹿にしたり、金儲けの手段にしたり、また権威で抑えようとしたり、または中傷批判した場合には仏罰があります。全部、地獄へ行きます」(内部文書 聖教1/4に要旨)

   ここには創価学会の御利益信仰の根幹ともいうべき「功徳・罰」論が端的に示されている。すなわち学会に入信すれば利益があり、反対すれば不利益を被るというのである。池田はこれを「仏法の方程式」とも意義づけている。

  「私どもを誹謗し、私どもを馬鹿にした人たちは、一年、三年、七年、十四年と見てご覧なさい。その不幸な現証の姿をまざまざと私たちの眼前に顕すのが仏法の方程式でありますから、それを確信しきって頂きたいのであります」(s38/8/14、北陸総支部幹部会=会長講演集第十巻)

   だが、このような「功徳・罰」論は「仏法の方程式」ではないし、日蓮正宗の教義でもない。功徳とは本来「功能福徳・積功累徳」すなわち善因善行の結果得られる「六根清浄の果報」であり、棚ぼた式の現世利益ではないからである。

   もし、池田の言の如く現世利益を功徳と称するのであれば、王子として生まれ、財にも、健康にも、妻子にも恵まれ、何不自由のない暮らしを享受していた釈尊は、生・老・病・死の無常を感じて出離の道を歩まれる必要はなかったはずである。釈尊の捨てたものを「功徳」と称するのでは本末転倒も甚だしい。

   しかも学会には「大功徳」「大福運」「常勝」「広布の上げ潮」と喧伝する陰で、数多くの悲劇が生じている。また、損得、利害、毀誉褒貶に一喜一憂する現実相こそ「現証に過ぎず」ということになろう。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p160-2

   

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       会員の悲劇の実態とその背景にあるもの

 

   多くの犯罪や事故の仔細を検証するならば、そこには創価学会の思想や体質が大きく影を落としている。決して個人の責任にのみ帰せられない事例が、数多く散見されるのである。以下、そのような事例を挙げ、問題点を検証したい。

   創価学会では池田の「功徳・罰」論に影響されて物欲の充足が信心の結果と見なされるだけに、見栄や欲得に支配され、打算で行動し、自己利益や栄達のみ腐心し、他人を顧みない「頓・陣・痴」の三毒強盛な世界が現出している。

   昭和五十八年四月二十二日号の「週刊朝日」のグラビアには、東京都住宅局が管理する、都営住宅から夜逃げした人々が置き去りにしていった仏壇七個のうち四個までが、鶴丸付きの学会員のものであることが報じられている。

   同様に、同年九月二日号の「アサヒグラフ」の特集「サラ金地獄蒸発の現場」写真の大半にも鶴丸つき経本や仏具が写っている。

   いかに多くの学会員がサラ金苦に陥り、「夜逃げ」や「家庭崩壊」を招いているかを示す一つの証拠であろう。

   平成元年八月二十二日、総本山大石寺のある静岡県富士宮市の山林内で女性の自殺死体が発見されたが、所持品の中に正宗の数珠が含まれていた。

  「せめて大石寺のそばで死にたい、ということですかね。富士宮で発見される年に数人の自殺者の大半は学会員ですよ」(地元の警察関係者)

   サラ金に追われて夜逃げしていった人々がその後どうなったかは、分からない。また、自殺した人がどのような動機で自ら命を断ったのか、知る由もない。

   仮に財務が、戸田二代会長時代のように希望者のみ年二千円程度、あるいは、池田の指示によって暴走財務が始まる以前の年一万円程度であれば「家庭崩壊」や「夜逃げ」「自殺」は防げたのではなかろうか。

  ◎福家誠二郎愛知県議・借金夜逃げ事件

  ◎鹿児島県・徳之島ゾーン指導長・サラ金四千万円借金夜逃げ事件

  ◎「旭川一の功徳をもらった」と公言していた支部指導長夫婦・経営苦心中事件

  ◎佐賀市西村市議妻女・借金苦飛び降り自殺事件

  ◎聖教新聞販売店主・経営苦飛び降り自殺事件

   等々、夜逃げ、自殺は全国各地で頻発している。

   そしてまた、あくなき金銭欲や経営苦を因とする犯罪も多発している。

  ◎吉展ちゃん誘拐殺人事件

   昭和三十八年三月十一日、東京都台東区で建設業・村越繁雄さんの長男・吉展ちゃんが誘拐後、殺害され、身代金50万円が奪われた事件の犯人は、熱心な学会員だった小原保。小原は身代金を強奪した後、学会員仲間の愛人宅の仏壇に20万円を供え、二人して感謝の唱題を続けていた。

  ◎婦人部幹部(地区担)1730万円詐欺・窃盗事件

  ◎壮年部活動家(郵便局長)郵便貯金詐欺事件

  ◎男子部活動家・銀行強盗事件

  ◎サラ金侵入放火事件

   財務などの活動費によって生活苦に陥り、サラ金に手を出した千葉県市川市の熱心な活動家・宮島嘉治は、返済に窮し、借金していたサラ金「ローンズ日立」に押し入りガソリンをぶちまけ放火、自殺を図った。

  ◎大石寺売店主・手形詐欺事件

  ◎サラ金苦・友人母子殺害事件

  ◎沢地和夫・連続強盗殺人事件

   元警視庁警官の身でありながら二人の資産家を殺害、金品を強奪していた沢地和夫も熱心な学会員。沢地は殺人を犯していた最中の昭和五十八年十一月、千葉県船橋市の前原支部の支部総会で「入信したお陰で借金を返せた」と体験発表、場内を沸かせたが、実は、強盗殺人を犯して得た金を功徳と語っていたのである。

  ◎元仏壇店主(大B長)強盗致死事件

   三重県四日市で仏壇店を経営していた大B長の打田毅は、経営苦で仏壇店を閉じた後、健康器具の販売に従事していたが、昭和六十年五月十二日、顔見知りの婦人部Aさんが金を貯めていたのに目をつけ、強盗に押し入った。Aさんは、逃げようとして二階から転落死。

  ◎覚醒剤大量密輸事件

  ◎拳銃大量密輸事件

   

   そして、冒頭に紹介した船橋市の幼児殺し、バラバラ死体遺棄事件の原因も、経済苦だった。夫が交通事故で働けなくなったことが、その理由とされている。しかし、その背景に、この家族を経済的に極限まで追い込んだ学会の集金構造がなかったとは言えまい。

   もっとも、創価学会では、これらの不祥事が生じるたびに、当事者は「前から勤行していなかった」と抗弁、会員を切り捨てることで組織を守ろうとする。

   池田も、吉展ちゃん事件や地区担の詐欺・窃盗事件について「週刊新潮」のインタビューに対し「残念なことですが、吉展ちゃん事件の小原のような男や、会員の間を詐欺して回るような女が入ってきたことも事実です。ただ、こういう人物をよく見ますと、そのほとんどが、大切な座談会や、教学に参加していない」(S40/12/25)と語っている。

   だが、こうした欺瞞的な自己弁護は、社会の不信を招くとともに、会員相互の人間不信を助長する。

   結局、一人の人間を救済するための仏法の団体と称しながら、都合が悪くなると冷酷にもその人間を切り捨て、組織を優先しようとする学会の、なかんずく池田のご都合主義や組織至上主義が、人間疎外を生じ、犯罪や悲劇の温床ともなっているのである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p162-7

   

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       肉体的・精神的自由を奪う組織中心主義

   

   組織至上主義は、会員の個別的な家庭状況や社会関係、人間関係を無視し、組織の歯車となることを強要する。その結果「家庭崩壊」や、家庭を顧みないが故の子供の「非行」や「事故」を生じやすい。

  ◎妻刺傷、焼身無理心中未遂事件

   学会活動にのめり込み、家庭をないがしろにする妻に腹を立てた夫が、妻を刺し殺し、自らも焼身自殺を図ろうとしたが、殺しきれず、死にきれなかった。

  ◎夫放火による母子焼死事件

   昭和六十四年一月、茨城県鹿島市で夫が自宅に放火、妻子が焼死したが、事件の遠因は学会活動を巡る夫婦の諍いにあると見られている。

  ◎母子無理心中事件

   横浜で昭和五十七年二月に生じた、母親が娘を絞殺後、自らも首を吊って死亡したこの無理心中事件は、夫が学会に理解を示してくれないことを苦にしての悲劇だった。

  ◎シンナー遊び少年マンホール転落水死事件(平成元年初頭・札幌)

   組織至上主義は、教学上の独善的解釈とあいまって、学会イコール善・正、社会イコール悪・邪との考えを会員に植えつける。その結果、学会員以外を敵対視するようになり、排他的な選民意識に支えられ、学会員はさまざまの暴力事件や謀略活動、人間関係上のトラブル、果ては僧侶誘拐事件まで起こした。

  ◎入信強要殺人事件

  ◎練馬区投票所襲撃事件

  ◎共産党宮本委員長(当時)邸電話盗聴事件

  ◎創価学園カメラマン暴行事件

   昭和六十三年七月十七日、創価学園の栄光祭に出席した池田を撮影しようと集合したマスコミのカメラマンに対し、学園教師らが集団で暴行を加えた。

  ◎日蓮正宗僧侶吊し上げ事件

   昭和二十六年の立秋記念法要での小笠原慈聞師の吊り上げ暴行事件に始まり、的場正順師暴行事件、昭和五十二年には、原田稔氏や野崎勲氏らが、池田の命を受けて複数の日蓮正宗僧侶を吊し上げた。

  ◎別府寿福寺六億円身代金要求僧侶誘拐事件

   平成元年十一月七日、大分県別府市・寿福寺住職の玉沢研済師が、学会ブロック長の桝永康典らによって誘拐され、身代金六億円が学会・大石寺に要求された。現金六億円はただちに用意されて犯人は逮捕されて事なきを得たが、反面、一億七千万円金庫事件と同様に、学会の金権体質を浮き彫りにした。主犯の桝永は「学会なら金がある。身代金を出してくれると思った」と供述した。僧侶を誘拐するなど前代未聞であり、その背景には、学会の宗門を敵視する意識が見られる。

   さらに、組織至上主義は、無理な活動による事故や自殺を全国各地で頻発させている。

  ◎文化祭六段円塔転落死亡事故

  ◎世界平和文化祭練習死亡事故

  ◎中国青年部長・交通事故死

   昭和五十九年三月二十二日深夜、鳥取県内で、加藤雅寛中国青年部長が、運転していた転輪会の学生部員とともに交通事故死した。広島市から鳥取県倉吉市までの往復六百キロあまりの道のりを、日帰りで、しかも一人の運転でまかなおうとする、無理な強行日程の結果生じた惨事だった。

  ◎F活動ノイローゼ自殺事件

   愛知県豊田市の支部長は、昭和五十八年二月、F取りのノルマ達成と、地域外からの応援部隊の受け入れ態勢の準備に疲れ切り、灯油を頭から被り焼身自殺した。

   この他にも文化祭について言えば、昭和五十七年八月二十二日、第二回「世界平和文化祭」の総合練習が行われた西武球場では、炎暑のもと長時間の無理な特訓により、数百人もの学会員が日射病で倒れてもいる。また、長時間、深夜にまで及ぶ練習によって疲れ切り、職場を休むため解雇される者、練習に遅れまいと急ぐ余り交通事故に遭う者、そして過労の末の病気と、文化祭もまた、会員に多大の犠牲を強いている。

   無理な活動の結果、会内にあまりにも多くの事故が生じるため危惧を抱いたのか、昭和五十七年三月三十一日、池田は交通事故を例に挙げ次のような発言をした。

  「仏法に成仏の相がもっとも大切なことは当然である。しかし、かつて私は、戸田先生に、熱原の三烈士の刑死、鏡忍坊らの殺害について質問したことがあった。それに対し先生は妙法のためである。それは、はじめ、ちょっと何か夢を見たのであろうが、あとはぐっすり休めるようなものであるから、成仏は間違いない、という意味のことを聞いたことがある。

   と同じように純真にして強盛に信心しぬいた人が、かりに交通事故で亡くなられたとしても、その意義は同じであると考えたい」(聖教S57/4/12)

   そして、加藤や、文化祭の六段円筒の練習中、死亡した青年部員を殉教者と宣揚してもいる。

   だが、文字どおり、不自惜身命の姿勢で正法正義に殉じた熱原の三烈士と、無理な活動の結果、事故死した学会員を同一視するのは、暴論である。必要なのは、犠牲を出さないように無謀な組織活動を制限させることであり、甘談詐媚によって会員を欺き続けることではない。

   また、呪術的祈祷の顕応を「功徳」だとし、現世利益を全面的に肯定する池田の指導によって欲望を解放された結果、自らの快楽・利益を求めて欲望の赴くままに、さまざまな犯罪が生じている。特に愛欲に支配された痴情事件が多いが、これは池田大作に女性スキャンダルが多いことと無関係ではない。

  ◎連続ガムテープ暴行事件

   昭和五十七年一月まで、都内各地で三十二件もの強盗強姦を重ねていた高木光二は、現役大B長。

  ◎三角関係殺人事件

  ◎金の延べ板盗難事件

   昭和五十七年三月、秋田県の同和鉱業小板鉱業所から三千万円相当の金の延べ板を盗み出し、古物売買ルートに乗せて売りさばていた盗難グループは全員、学会員。

  ◎千葉判事補(創価大一期生)女子高生連れ込み事件

  ◎女子銀行員暴行殺人事件

  ◎中学教師ポルノ事件

  ◎大石寺売店花札賭博事件

  ◎不倫妻と愛人共謀殺人事件

   昭和六十三年二月、千葉県大原町で、不倫妻と愛人が共謀して夫を殺害、灯油をかけて焼いた事件の犯人は学会地区幹部の笠江良孝。

  ◎不倫誤認殺人事件

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p167-72

   

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       建前主義の犠牲・池田城久の死

   

   誤れる「功徳・罰」論に基づくため、学会内は常に「大功徳」「大福運」「勝利」に満ち満ちていなければならないとの建前論に支配される。その結果、病気にかかること、あるいは加療中であることをなるべく隠そうとする。

   例えば池田は、昭和六十年十月三十一日に東京女子医大病院に入院した。池田の動静を報道する聖教記事には次のようにある。

  「池田名誉会長は、広島、岡山の一切の行事を終え、帰郷したが、疲れと風邪気味であったので、十月三十一日、医師の勧めもあり、東京女子医大病院に精密検査のため入院した」(S60/11/6)

  「精密検査のため、東京・新宿区の東京女子医大病院に入院していた池田名誉会長は、検査の結果疾患は認められず、十日午前十一時半、退院した」(60/11/11)

   検査のために入院したが「疾患は認められず」、健康だというのである。ところが、平成元年八月二十四日に行われた「第一回東京総会」の席上、池田は次のようにスピーチしている。

  「五十七歳と言えば、このとし(昭和60年)に私も、病に襲われた」(聖教H1/8/26)

   生・老・病・死は世の常であり、さまざまに起こり来る種々の出来事を真摯に受け止め、乗り切って行くところに、信仰の真価がある。病にかかること自体は、決して恥ずべきことでも、隠すべきことでもない。だが、学会にあっては建前が優先し、病にかかることは「信心がない」ことの証しとなるため、こうした姑息な手段がとられるのである。

   もっとも、このような体質の犠牲となったのが、他ならぬ池田の次男・城久であった。

  ◎池田城久・胃穿孔急死事件

   池田大作の次男・城久は、昭和五十九年十月三日、二十九歳の若さで死亡した。

   聖教新聞の逝去記事には「九月中旬ごろ胃痛を訴え検査したところ胃潰瘍との診断で、九月二十五日から治療をしていた。三日午後、容体が急変して、東京・豊島区の癌研究会付属病院に緊急入院し、手術をしたが、出血のため死去した」(s59/10/5)とある。

   城久が九月中旬、胃痛を訴えるや、池田は、息子の病気を世間に知られることを恐れ、池田家出入りの産婦人科医で内科も兼ねているドクター部幹部の石川信子医師の経営する「新生クリニック」に入院させたのである。

   当初から内科と外科の専門医にかかっていれば最悪の事態は避けられたであろうが、いかんせん医師は産婦人科が専門。容体が悪化しても手術のすべもなく「石川信一」なる偽名で癌研病院に入院したものの手遅れとなり、偽名のままでこの世を去った。

   城久もまた、池田の誤れる指導の被害者の一人なのである。

   かつて池田は「未だかつて病気の人なんかで、僕の頭の中に入った人で、祈って死んだ人は一人もいないんだ。これは密かに自負している」(s51/8/21,内部文書)と豪語していたし、「医学的にどうしようもない人であっても再び信心に励んだ人は、更賜寿命できることは間違いない」(聖教S58/4/20)とも語っていたのだが……

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p172-4

   

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         御利益信仰とその挫折が惨劇の原因

   

   また、建前と本音のギャップからくる二重人格や、信仰してもよくならないための怨嗟、現実逃避、自暴自棄などが、悲劇的な事件を生んでいる。その代表的事例が、昭和五十七年七月十四日に生じた、深遠寺事件である。

  ◎日蓮正宗深遠寺・五人殺傷事件

   同事件は、七月十四日白昼、精神分裂病の病歴を持つ二十九歳の学会青年部員が佐賀県武雄市の深遠寺に乱入、高木当道住職の妻子やお手伝いさんを次々に刺し、住職の長女(五歳)と次女(三歳)、それに手伝いに来ていた二十一歳の女性が死亡するという、いたましいものだった。

   逮捕された青年は、昭和五十五年には広島市の日蓮正宗興福寺に投石を繰り返し、器物破損容疑で逮捕された前歴を持つ。

   青年が日蓮正宗の寺ばかりを執拗に敵視するのは、それなりの理由があった。創価学会に入れば、金儲けを始め、病気の治療など利益がいっぱいあると聞かされて入信、学会活動にも励んだが、逆に金を取られる始末。学会を、そして授戒を受けた日蓮正宗寺院を恨むようになったのである。

  ◎日蓮正宗連光寺・御本尊破却焼失事件

  ◎母親蹴殺事件

   勤行中、ノイローゼの長男から「自分にもお経のあげ方を教えろ」と迫られたものの、これを無視して読経を続けたため、激高した息子に蹴飛ばされ、柱に頭をぶつけて死亡した母親は、旭川市のB担。昭和五十九年三月二十七日のこと。

  ◎座談会場殺人事件

   昭和四十二年十月二日、愛媛県新居浜市の座談会場で、座談会開催中、青年部員・神野忠信に刺殺されたのは、西の土居地区部長。登山していた母親の連絡先を尋ねた際「後にしてくれ」と言われたことに腹を立て、近隣の学会員経営の食堂から包丁を持ち出し、地区部長を刺殺した。神野は十年ほど服役後出所、再び学会活動に従事したが、高知県の選挙の応援の帰途、車ごと谷に転落して死亡した。

  ◎川崎・連続放火事件

   昭和五十七年二月頃から五十八年一月にかけて三十件以上にのぼる連続放火を続けていたのは、本部壮年長の息子で、青年部員の尼野聖次。

  ◎浦和・連続放火事件

  ◎覚醒剤男・四人刺殺事件

  ◎覚醒剤男・ガソリンスタンド立てこもり事件

  ◎ブルートレイン酔っ払い運転手事故

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p174-6

   

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        池田の誤った信仰指導の恐ろしさ

   

   御本尊模刻や池田本仏論など数々の大謗法を犯した池田を信ずれば与同罪(共に受ける罪)を被る。その証拠に、池田流の誤った「仏法は勝負」「功徳・罰」論を信奉する会員の中に、結果として多くの悲劇が生じている。

  ◎母子焼死事件

   昭和五十六年十一月、大阪・北区〇〇町で串カツ店「梅ちゃん」を経営する小山梅子さんは、正信会から送付されてきたパンフレットに対し「迷惑です。以後、絶対送らないで下さい。私は御本尊様を最初に教えてくれた創価学会と共に自分の決めた道を進みます。仏法は勝負と決めています」と、抗議の返事を送りつけてきた。

   まことにお気の毒で忍びないが、小山さんは九ヶ月後の五十七年八月、調理場付近から出火した火事で、息子さんともども焼死した。

  ◎裁判所執行官眼前放火事件

   秋田県湯沢市で酒類販売業を営んでいた大B担の内藤アチは、経営難から借金五百万円余が返却できず、裁判沙汰になり、借金返済の代わりに土地家屋の明け渡しを命じられた。だが、内藤はこれに従わず、裁判所の執行官が強制執行しようとしたところ、突然、仏壇に灯してあった蝋燭の火を家中につけて回り、放火の現行犯で逮捕された。内藤もまた日頃、正信の僧俗に対し「創価学会や池田先生に間違いなどあるわけはない。もし謗法があるというなら、それなりの現証が出るはずだ」と公言している人物だった。

  ◎沼川代議士・家族焼死事件

  ◎娘四人焼死事件

   以上、さまざまな不祥事を列挙してきたが、これらは、ほんの氷山の一角に過ぎない。学会は組織をあげて不祥事の露見を防ごうとするので、なかなか表沙汰にはならないのである。ただ、学会内に犯罪が多発していることは、他ならぬ学会首脳が最もよく知っているはずである。

   なぜなら、昭和四十九年には妙信講対策の一環として「犯罪者リスト」が作成され、そこには、暴行、殺人、不法監禁、ひき逃げなどの各種の犯罪が昭和四十五年には三十九件、四十六年には二十三件、四十七年には六十九件、四十八年には六十四件生じたことが記されているからだ。このリストは、私の指示で創価学会連絡局が作ったのだ。

   中国地方のさる刑務所の教誨師を務めたM氏の話によると、同所に収容されていた強盗、強姦罪などを犯した重大犯の三十パーセントは学会員であったという。

   ジャーナリスト内藤国夫氏も、雑誌『諸君』の昭和五十七年六月号に次のように次のような興味深い情報を記している。

「例えば、重刑罪対象の千葉刑務所に収容されている、殺人や強盗殺人事件、強姦などの凶悪犯だけでも創価学会員が十人にも上り、それ以下の犯罪者まで含めると、全部で三十五、六人に達する。さながら、創価学会収容所といっていいほど、という情報が寄せられた。具体的な個人名まで記されているが、省略して紹介しよう。

★ ★★殺人・死体遺棄(多摩川バラバラ殺人事件) S(42)大阪出身、元大B長=無期

★ ★★強盗殺人 N(51)福島出身=無期

★ ★★殺人・強盗 H(56)=無期

★ ★★殺人 N(51)新潟出身の元十両=懲役十五年

★ ★★殺人・横領 I(30)銚子出身、漁師=懲役十八年

★ ★★強盗殺人 H(29)栃木県出身=無期

★ ★★強盗殺人 Y(38)江戸川区出身=無期

★ ★★横領・殺人・窃盗 G(21)札幌出身=懲役十二年

★ ★★殺人 M(54)静岡出身=無期」

 私が二年余を過ごした刑務所でも、学会員は数人に一人の割合でいたことは、第三章で述べた通りである。

(懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p176-9

 

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      「病理集団」から目覚めよ

   

   創価学会の世帯数は現在、実質二百万世帯、人数にして約三百五十万人と推定されるが、仮に学会側が発表した過去最大の会員数=790万世帯、1500万人を基準にしても、全人口の10パーセント強に過ぎない。実際はその三分の一もいないから、重大犯に占める学会員の率は異常なまでに高いのである。

   学会員はこうした現状を虚心に見つめ「大功徳」「大福運」を連発する池田の言がいかに空虚なものであるかを、正しく認識すべきである。そして、池田の天下盗りの野望が業火となって会員をさいなみ続けた結果、学会は「人間の内面の深化」や「他者への思いやり」「地道に生きることの尊さ」を教える仏教教団とは似ても似つかぬ病理集団へと変質していったのである。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p179-80

   

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   第五章 驕る者は久しからずー池田大作は必ず破滅する

   

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      出所と同時に張りついた学会の監視

   

   私に対する創価学会のマークも相変わらず厳しい。

   平成五年四月二十七日、仮出獄の日、身元引き受け人の東京・世田谷区善福寺の住職が栃木県黒羽刑務所の門で出迎えてくれた。だが、出迎え人はそれだけではなかった。写真誌「フォーカス」の一行に捕まったことは、後日、同誌に掲載された写真で分かったが、それ以外に、私達の一行を見え隠れに注視する目があった。獄中で、二十四時間、刑務官の目に気を配りながら生きてきたから、人の視線にはことの外、敏感になっていたので、勘違いのはずはない。果たして翌日、創価学会発行のベストセラー怪文書「地湧の友」に帰住地である善福寺に到着するまでの様子が載っていた。以来、私の身辺には、創価学会の監視が張りついた。

   住居にも仕事場にも、乗用車が最低二台は張りつき、数名の男が見張りについている。私が動けば、大挙して尾行する。一緒にエレベータに乗り込み、ホテルやサウナのフロント、料理店内までついて来る者もいる。私と会った友人達も家まで尾行され、身元を確かめられ、使用している車輌のナンバーを調べられる。公然と威圧的な尾行者を巻いても、さらにプロのような連中が、見え隠れに食い下がってくる。そのうち、私の住居や仕事場の付近にアジトを設けたらしい。

   近くに事務所を持つ知人が「自分が張り込まれているのかと思い、連日ナンバーを控えて警察に違法駐車撤去を求める電話をしたが、君に対するものだと分かって安心したよ」と連絡して来た。スネに傷を持つ連中は何処にでもいるようだが、私には、身辺調査を受けるようなトラブルはない。仕事場の斜め前には有名なラブホテルがあるが、張り込みはきっと営業妨害になっているに違いない。

   その後、聞いたところでは、私以外に、原島嵩氏、竜年光氏、矢野絢也氏らの他、学会批判の筆を執ったジャーナリスト達に対しても同じようなことが行われている。

   創価学会を破門処分にした日蓮正宗の寺院や僧侶、そして脱会者に対しては、全国各地で組織的に、創価学会員による集団暴行や脅迫、器物損壊などが行われている。池田大作が「脱会者を自殺に追い込め」「日顕宗を撲滅せよ」と檄を飛ばして煽っているのだ。そして、警察は何故か、これらの行為に対して煮え切らぬ態度をとり続けている。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p182-3

   

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          民主国家で平気で人権侵害をする唯一の例外

   

  「言論の自由」には、批判する自由が含まれている。権力者に対する批判を行って、見張りや尾行、威圧、嫌がらせといった、人権侵害行為を受ける社会は、ソ連圏が崩壊した今日、数えるほどしか存在しない。まして、先進国といわれ、民主政治を採用している国々に於いては皆無のはずである。

   だが、唯一つ、例外があった。他ならぬこの日本で、創価学会・公明党の批判をする人達には、例外なく、しつこい尾行、見張り、嫌がらせが行われ、暴行すら加えられるのである。

   また、ひとたび創価学会に入った者は、脱会の自由を否定されるのだ。

   創価学会は一方で、こうした見張りや尾行で得た情報とデマを織り交ぜて、怪文書による攻撃の材料にする。

  「地湧の友」その他、出所不明の出版物で、汚らしい言葉で下劣な個人攻撃を繰り返す。批判に正面から答えず、裏で卑劣な攻撃をするのが、池田大作流のやり方である。人格の卑しさ、下品さを自ら証明するもの以外の何物でもないが、このような行為に加わっている連中も同罪である。

   最近は、怪文書攻撃も手が込んできた。従来、一般宗教界誌として定着していた新聞を会社ごと手に入れ公平な第三者を装いながら、創価学会の批判者に対する攻撃や他宗派の内部混乱を図る、というやり方である。

   昭和四十五年の、いわゆる言論出版妨害事件の謝罪講演の中で、池田大作は「今後、言論の自由、信教の自由を最大限に尊重する」と宣言した。非常識な、排他的行動は以後行わず、国の法律を遵守することを誓った。だが、これらが世を欺くための嘘であったことが明らかになってきたのである。

   滑稽なことに、池田大作は最近、カナダを皮切りに「世界人権展」なるものの開催に力を入れているという。「潮」誌上では「人権ルネッサンスの世紀へ」と題する対談を行い「人権は、すべてに優先する課題です」と臆面もなく述べている。ノーベル賞欲しさのパフォーマンスだろうが、今、一番、人権教育が必要なのは、他ならぬ池田大作と創価学会員である。創価学会こそ、我が国最大の人権侵害団体なのだ。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p183-5

   

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     学会・公明党の93年、五大ニュースとその実態

   

   こうした中ではあるが、平成5年春、出獄祝いと忘年会をかねて、友人達と旧懐を暖める席が連日続いた。

   その中には、今なお創価学会・公明党幹部として本部に働く人達もいた。

   しゃぶしゃぶ鍋をつつきながら、ビール瓶を空にしているうちに、当然のことながら、話題は創価学会・公明党のことになった。

  「今、本部職員の間でいわれている今年の五大ニュースは……」と、学会本部職員氏は次の五項目をあげた。

  1)公明党の連立政権参画

  2)独自本尊の作成と下付

  3)牧口記念会館の完成

  4)都議会議員選挙での二十五名当選によるキャスチィングボード維持

  5)『日蓮世界宗』への布石

   それぞれについて、しかし彼は次のような解説を加えた。

  「どれも、『勝った、勝った』と池田大作が宣伝している事項だが、冷静に見ると、どれもが諸刃の剣”“窮余の策といわざるを得ない。

   まず1)だが、小沢新生党が飛び出したことと新党ブームのお陰でタナボタ式に連立政権に参画できたが、公明党から四人の官僚を出して、池田大作が『デージン、デージン』と浮かれた時までが絶頂期だった。その途端に創価学会・公明党の政教一致と天下盗りを警戒する国民世論が反発し、あっという間に、創価学会包囲網ができてしまった。旧悪が暴露され、池田大作、矢野絢也、山崎正友が国会で証人喚問要請されて、池田大作は異様に怯えている。

   頼みの綱の政治改革は暗礁に乗り上げ、与党の力で証人喚問を防ぐ代わりに、米や景気対策でお先棒担ぎをやらされ、農民や社会の反感を招いてしまった。新生党と組んで解散をちらつかせながら強行突破を図ろうとしているが、二つの選挙に死力を尽くし、あまつさえ財務で金を搾り取られた学会員は放電し尽くしたバッテリーの状態で、選挙を戦える状態ではない。連立与党が潰れたら、創価学会・公明党は最大のピンチに陥る。池田大作は、自分の年齢や宗門問題のため、焦りすぎたのではないか。まだその時ではないのに、熟れない果実をもいでしまった。連立に加わっても閣僚を出すべきではなかった。少なくとも、神崎氏は……

  「2」については教義の根本問題に関わるもので、何につけても学会員は、『御本尊様に題目をあげて祈りなさい何百万遍も唱題して難を乗り切りなさい』と指導されてきた。その本尊が変わる。これまで、法主が書写し(形木も含む)祈念したものを下付されてきたが、その法主から破門され、そして法主をメチャメチャにやっつけているのに、その法主が書写した本尊を拝んでいて果たして功徳があるのか。これまで人法一箇の本尊と指導してきたが、書写した人はダメで書かれた本尊だけ良いというのはおかしいではないか。それなら、誰が書いても同じ形式のものなら構わないということにならないか。

   今回、栃木の寺院(日蓮正宗から脱退)にあった二十六世日寛上人の本尊のお形木を作って配布したが、なぜ二十六世は良いのか。それなら、日蓮宗の他の宗派の寺院(見延、中山法華経寺、池上本門寺等)にある日蓮大聖人の御真筆を拝み、その形木を受けて拝んだらどうなるのか。かつて、日蓮正宗に帰一した保田妙本寺にある万年救護本尊の形木が出回ったことがあるが、これは謗法に当たるといって日蓮正宗は禁止し、創価学会もこれに従った。

   今回、創価学会のしたことは、法義上も論理上も筋が通っていない。『宗門、僧侶抜きで大聖人に直結する』と言いながら、なぜ日蓮大聖人、または日興上人の真筆でなくて、二十六世(僧侶であることに変わりないし、稚児相乗、回り相乗、大石寺無住といった他宗派から出された疑難の問題は、それ以前のことである)なのか。なぜ、いっそのこと、日蓮大聖人に直結しているはずの池田大作が自分で書かないのか、否、書けないのか。何百もある日蓮正宗の末寺には、歴代上人の御真筆はそれこそ数えきれぬほどあるが、その一つをなぜ取り上げたのか根拠がない。学会員の間には、次第に深刻な疑問と問題が拡がりつつある。一体、この学会製本尊を拝んで本当に功徳があるのか。何か身の上に不幸が起こったりすると、すぐに『罰ではないか』と疑いが生じる。間違った御本尊を拝まされて地獄に堕ちてはかなわないという思いが、熱心な信者ほど多い」

  「金にあかせて建設した牧口記念館は、まるで日本の宗教の感じがないし、使い心地も悪い。大体、池田大作は、見てくれと、自分が使う所だけに金をかけ、全体的な利用者の便宜、生活感を考えない建物ばかり作っている。その証拠に、何千人という人を集める施設を作りながら、駐車場がない。だから、会合のたびに路上駐車でバスも通れなくなる。食堂、トイレといった配慮も欠けている。

   同じく金にあかせて買い占めた信濃町、八王子の一角は、まるで治外法権、創価学会の領土化し、一般人が公道を歩いていても、学会の警備員に干渉される。彼らは、まるで警官気取りだ。バブル期の土地買い漁りで、裏筋の紳士達とも腐れ縁ができた。彼らは、儲かっている間は大人しいが、そうでないと牙をく。おまけに、富士宮市の百条委員会つぶし、大石寺攻撃などに彼らを使い、思うような報酬を与えなかったことから、最近、亀裂が生じている。政権与党になって、警察との関係もあり、暴力団、右翼への資金供与ができにくくなった。その分、彼らが敵対化してきているということだ。

   池田大作はいつも『預金が少なくなると、財界や政界になめられる。いつも土地を買ったり建物を建てたりしていないと、周囲の勢力が創価学会離れを起こす』と考えている。だから、どんな時も、会員からの金集めを止めるわけにはいかないんだ。全国各地に建設を約束して金を集めたが、まだ建てていない会館や研修道場がたくさんある。それだけ無駄遣いをしたということだ。

   また、土地建物に金を注ぎ込むのは、池田大作には将来、会員が激減しても資産があれば(既成宗教のように)何とか持ちこたえられる、というコンプレックス(無意識的精神屈折)があるからだが、宗教が建築にこり出したら峠の下り坂にかかったという証拠だよ」

  「今年の都議会選挙も、日本全国から手土産持参のオルグが百万以上も東京に殺到し、組織を上げての選挙を行った。その結果、やっとあれだけの結果を出せた。東京都の学会組織で戦ったら、あの半分も票が出なかったはずだ。それだけ組織は疲弊しているということで、その実態は創価学会首脳が一番よく知っている。毎回、総力を挙げて取り組まねばならぬ選挙は、創価学会にとっては大変な重荷だが、日蓮正宗から切れた以上、スタンスを社会寄り、政治寄りに移さざるを得ない。だから、早く新生党などと一緒になり、少しでも重荷を軽くしたいのが本音だ。しかし、創価学会の監督官庁が東京都である限り、都議会のキャスチィングボードだけは、直接握っていなくてはならない。警察庁予算を支配して、警察権力を握ることも重要だ。だから、市川雄一書記長は『党の一体化は国会レベルだけ。地方議会はこれまで通り』と言っているのだ」

  「日蓮世界宗という名の登録をしたが、これは、日蓮正宗に対するブラフである。創価学会は、まだ創価宗の旗印を上げることをためらっている。未だに『我々こそ日蓮正宗の正統』といっているのも、そのためだ。長い目で見た場合、池田大作が元気な数年間はともかく、次の代になって、たとえ長男の博正、三男の尊弘が継いでも、創価宗でやっていけるわけがない。当の本人が心の中で頑なにそう思っているはずだ。創価学会が生き延びるには、どんなことをしても日蓮正宗と撚りを戻すしかない。七百年続いた教団と、わずか五十年の教団の伝統の違いは如何ともしがたい。

   今、日蓮正宗攻撃の先頭に立たされているのは、和泉覚、柏原ヤス、山田徹一といったロートル幹部と秋谷栄之助会長だ。彼らは、和解の時、首を切って使い捨てにする捨て駒だ。次世代、そして池田ファミリーは将来に備えて、陰に隠されている。

   今は、会員の目先をそらすことがあるから良いが、やがて会員一人一人が自分の信仰の根本を考えるときが来る。友人葬などといっても学会員は過渡期のものだとしか思っていないが、これがずっと続くとなったら、考えを変える者が多く出る。その時が最大の危機だ。日蓮正宗が長期的にジワジワと腰を据えて攻め続けると、創価学会は持たなくなる。

   池田大作は歴史の流れの中で自分の生き方を考えるのではなくて、自分の寿命に合わせて歴史を考えようとしている。独裁志向者の共通の欠点だ。それに、創価学会首脳は驚くほど僧侶を知らない。今のように下劣極まりない攻撃がどれほど僧侶達に怒りと憎悪を蓄積したかを、事前に計ることができなかった。自分達のことばかり考えて、相手の立場を読めないのが、池田大作とその側近の共通の欠点だ。かつて、唯一の例外が山友さん(私のこと)で、相手(宗門)の立場を読んで仲裁を図った。そのために、裏切り者扱いされ、やがて本物の造反者に追いやってしまった。創価学会は敵を作るのは上手だが、味方を作るのは下手だ」

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p185-91

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       これが本当の五大ニュース

   

   ここで、公明党本部職員氏が口を開いた。

  「五大ニュースは、裏を返せば、こういう見出しになる。

  1)全国的な創価学会包囲網強化と、池田大作、矢野絢也、山崎正友の国会証人喚問要請

  2)神崎武法郵政大臣盗聴関与と、市川雄一書記長投票所襲撃、集団替え玉投票、集団住民登録移動、脱税もみ消しなど、旧悪の再燃

  3)名誉毀損罪による宗門側からの逆襲告訴と、本尊問題などによる会員の大量脱落、特に海外会員の集団脱会

  4)過渡の金集めと土地漁りに対する会員の反発と不信

  5)池田大作天下取り構想への風当たりと、金沢仁検事(創価大出身)の暴行事件

   つまり、池田大作と創価学会は、なまじ中途半端な段階で権力に色気を出したために、創立以来、最大のピンチを迎えている。会員の目先を何とか現実からそらそうと、池田大作は必死に海外の要人を呼んだりイベントを企画したりしているが、最近は思うように組織が乗ってくれない。

   自前の本尊など、誰も拝んで功徳があると信じていないし友人葬なるものも、一時的、過渡的なものならばと受け入れているが、これがずっと続くとなると、ちょっと考え直さなくてはならぬと、思い始めている。

   首脳のほとんどが、日蓮正宗と完全に別れてやってゆく自信がないから、日蓮正宗から離脱した寺院の中途半端な本尊を持ち出したりして目先をごまかすことしかやらない。

   あれだけ滅茶苦茶な宗門攻撃をやっておきながらいつの日にか何とか縒りを戻そうなどという未練が、池田大作の身辺にはまだあるのだ僧侶の体質、否、人間の心をまるで知らない連中だ。

   自民党に対してだって、別のパイプで、今さらのように撚りを戻すことも考えているなどとすり寄っているが、もちろん、今では自民党関係者は誰一人として池田大作を信用していない。

   連立政権がこけたら、その日から池田大作にとって恐怖の日々が始まるのだ。その予感で池田大作は怯えており、側近に当たり散らしている。

   右翼団体の宣伝カーが何台も毎日、30分おきに信濃町周辺を走り回ってがなり立てているが、住民達の声援も受けて大いに意気が上がっている。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p191-3

   

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       内部告発者、情報提供者は後を絶たない

   

   ところで、国税庁によると創価学会の経理調査は次のようなものだった(S氏は聖教新聞社の担当部長、T氏は学会本部勤務の部長である)。

  ——聖教新聞社に国税庁の調査が入ったようだが

  S氏 三人の調査官の来訪から始まりました。多いときには、毎日、十五〜十六人ぐらい、来ていました。

  ——この前の金庫問題(横浜市朝日区のゴミ捨て場に一億七千万円の入った金庫が捨てられていた事件)がきっかけだろうね。

  S氏 それは間違いないでしょう。二億円近い札束が入った金庫を捨ててしまう会社ですから。国税庁としても、調査したくなるのは当然です。

  ——調査の内容は

  T氏 学会本部も、部局によっては調査されている。

  ——調査の結果はどうだったのですか。

  S氏 すべて完璧でした。というのは、調査官に提出する書類は偽造の書類ですから。学会本部や聖教新聞社、池田名誉会長にとって都合の悪い書類は全部、作り直して提出したのです。

   八尋弁護士を中心として松村氏、安沢氏、林氏といった弁護士、会計士、税理士がアドバイスをするわけです。我々は、彼らを光伸グループと呼んでいます。皆、貴方が育てた後輩達ですよ。(笑い)

  ——相変わらず、あくどいやり方を続けているんだね。

  S氏 彼らには顧問料を払っていたのだから、もっと前からきちんとしておけば慌てなくても良かったといえますが。とにかく国税庁もなめられたものです。

  T氏 調査の主力は今後、学会本部へ移るでしょう。本部は、聖教新聞社より遙かに大変な調査になると思われます。財務はあるし、会員からの寄贈品は圧倒的に多い。大作個人の周辺は我々にも分からない。

  ——学会本部の金銭感覚はやはり乱れている?

  S氏 会館の建て替えなど、浪費がまた多い。

  T氏 金銭感覚の乱れは、本部ばかりではない。我々が地方へ行っても、過分な接待を受ける。接待を受けていてこんなことを言うのは変な話だが、こんな習慣は止めるべきだ。また、ここ数年、新宿区の幹部は会員や公明党の区会議員達からいろいろな名目でお金を集めては飲み食いしている、という話が伝わってきている。

  S氏 だから皆、若いのに腹が出て糖尿病になっている。(笑い)

  ——日蓮正宗と創価学会の関係はどうなって行くと思うか。

  T氏 日蓮正宗と創価学会は昔から、仲が良いという関係ではない。創価学会は日蓮正宗の名前を利用しながら日蓮正宗の広宣流布とは関係のない独自の活動をしてきた、といった方が正確です。

  ——日蓮正宗が創価学会と手を切った後、どうなると思うか。

  T氏 長期的には三分の一が日蓮正宗に付き、三分の一が創価学会に残り、あとの三分の一は信仰そのものから離れるでしょう。

  S氏 今でも、創価学会の信心のあり方に疑問を感じて来ている人は全体の三分の一ぐらいには増えている。ただ、学会から離れるきっかけがない。職員は生活もあるし

   

   新年に入って、別の人達(聖教新聞幹部、創価学園職員、法学委員会出身弁護士等)と相次いで旧交を暖めることとなった。彼らは次のように言う。

   聖教新聞社幹部=「池田大作が直接指図して聖教新聞に嘘を書かせ、宗門攻撃をやらせているが、最近、皆、嫌気が差している。先日、池田大作の面前でペンを投げつけ、反攻した記者がいたが、造反を恐れて何の処分も出来ないでいる。その結果、聖教の幹部達は『俺達には池田も手も足も出ない』とタカをくくり、態度に表し始めた」

   創価学園職員=「たれ込みに基づいて東京都学事課が創価学園の入試を監査した。その結果、学会幹部の情実入学が今年は出来なかった」

   弁護士=「ルノワール絵画事件では、画商が脱税を引っ被ったが、実際は裏金は池田大作のノーベル賞取りの運動資金として、当時のソ連首脳に流れた。一部は、側近弁護士の懐に入った。この件で側近弁護士はほされており、頭に来ていろいろリーク(情報提供)を始めているらしく、警戒されている」

   聖教新聞社幹部=「立正佼成会と接近を図り、暮れに広報室幹部が先方と会っている。言論問題の時、国民の批難をかわすため、民社党の指導者や他宗の幹部とこっそり会っていろいろ裏約束を交わしたが、すべて反故にした。そのため、後で民社党からしっぺ返しを受けた。今回も、当面の包囲網を逃れるためのパフォーマンスだ。他宗との協力など謗法厳戒を言って来た立場から、簡単にできるわけがない。創共協定と一緒で、すぐに消えてしまうだろう。それにしても立正佼成会は甘い教団だ」

   日頃、学会本部で池田先生、池田先生と言っている幹部達の中に、私の前で「大作」と呼び捨てにしながら、こうした情報を提供する人達がいることを、創価学会首脳は知らないわけではない。

   だから、機密情報が漏れ出るたびに犯人捜しをするが、私の友人達は巧みに網から逃げて今日も健在である。

   彼らが晴れて名乗り出るときには、池田大作は失墜しているか、或いは、創価学会は東・西本願寺のように真二つに割れているだろう。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p193-7

   

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      興から亡へのカウントダウンは始まっている

   

   今、公明党はまさに連立与党の中核として政権の中に入っているが、その公明党は実は創価学会の一部なのであり、その創価学会は池田大作の天下盗りのための組織である。細川連立政権は、池田大作によって作られ、動かされている、といって過言ではない。

   公明党が政権の中に入ったのは偶然ではなく、昭和三十年代から今日までの、用意周到なスケジュール闘争の結果であった。そのプロセスでは、誰も大して問題視せず、自民党の如きは問題になりかかったときに逆にそれを覆い隠すことに力を貸してきた。見て見ぬふりどころではなかったのである。

   今、自民党は、政権から蹴落とされて、初めて気付いた始末である。国民も、やっと事の重大さに騒ぎ始めた。しかし、今からでも遅くない。この国家を破壊から救うために、一人一人が意思表示し、行動していただきたい。

   二度と、目先の利益のために、妥協したり取引したりすることのないよう願いたい。

   ちょうど、自由世界からの厳しい経済封鎖が共産圏の崩壊をもたらしたように、創価学会は社会全体の厳しい批判の壁で包囲することによって、正常化される。さもなくば、崩壊するに違いない。この一冊が国民の方々の判断の足しになれば幸いである。

   得意絶頂に見えても、今、創価学会は大きな矛盾を抱えている。このことも事実である。

   日蓮正宗から絶縁された以上、行き着く所は解放か、さもなくば池田教化する以外ない。栃木県あたりの末寺の本尊のコピーを配ったりしてお茶を濁そうとしても、いつまでも会員を騙し続けてはいられない。結局、池田大作は、自らを本仏と宣言し、自分で書いた本尊を拝ませるしかないのだ。できるだけ目先を誤魔化しつつ、気付かれないように進め、気がついた時はもう戻れない、というやり方で会員を引っ張っていこうとしているようだが、いつかは、はっきりしなくてはならぬ時が来る。

   支持者減少傾向を隠したまま、見得を張って公明党の議席を増やし、巨額の金集めを続けてきたが、組織は疲弊しきっている。いつ雪崩現象を起こすか、カウントダウンに入りつつあるといってよい。

  “興から亡に移っていることは、紛れもない事実である。今、池田大作の心中は、針のむしろの上に座っているようなものだ。

   騙され続けてきた学会員は、もう、目覚めても良い頃だ。一日も早く気付いて、正しい信仰に帰依していただきたい。その一助になれば、との願う気持ちを込めて、筆を置く。

  (懺悔の告発:山崎正友;日新報道:1994:p198-9

   

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      あとがきにかえて

   

   私の人生で創価学会との関わりは三十五年になる。二十年は、池田大作に奉仕し、後の十五年は、池田大作に敵対し続けた。先の二十年は学会を守り、後の十五年は攻め続けた。

   一般のマスコミも、今、創価学会に対する関心を高めているように見える。しかし、時が経てば忘れることもできる。私は、いつもこの問題から逃れることは出来なかったし、今後も生きている限り、この問題から逃れることはできないだろう。逃れるつもりも、毛頭ない。注目を浴びていようと、ひっそりとしていようと、どのような立場にあろうと、常に創価学会と対面して行かなくてはならない。

   何のためかと言えば、つまるところ、自分自身の信ずるもののため、と答える他ないのである。

   今、創価学会問題も大きな転機を迎えた。多くの人達は、改めて「宗教」ということについて考え始めている。

  「宗教とは何か?」

  「宗教法人とはいかなる資格か?」

   より具体的に言えば、「創価学会は宗教なのか」「創価学会に宗教法人の資格はあるのか」ということである。

   この問題については、いずれ改めて、各分野の専門家の人達とともに、詳細な分析をしなくてはならないと考えている。その結果に基ずいて、法廷に宗教法人解散命令申し立てを行う準備も進めている。

   

   平成六年二月

                                        著者

   

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  http://sky.geocities.jp/mifune0008/

  vvv23274@yahoo.co.jp

   

   

   さまざまな文書

   

   

                         創価学会内部改革派憂創同盟残党

   

   

   

   

   

   

   

   

   

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   現在、創価学会では「戦争に反対し、平和主義を貫いた」から弾圧を受けたとしていますが、それは真っ赤な嘘です。当時の学会の機関誌「価値創造」を見ると、戦争を賛美した記事が多く出ており、ヒトラーさえ賞賛している記事もあります。ただ、御札を拒否し、燃やしたりしたため、「不敬罪」と「治安維持法」で摘発され、逮捕・拘禁されたのです。

  (絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007:p114

   

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   耐震偽装事件のとき、第一報を聞いたのは本部幹部会に参加して帰りの車の中でした。同僚議員の車に便乗させてもらっている時でした。

   ちょうど、同僚議員の秘書が創価大OBで、あちこちに連絡を取っているんです。

  「なに副本部長か? 国会内でもどう対応するか」などと話し合っているわけです。

   たちどころに姉歯秀次氏の素性や、家族の信仰状態をつかんでいたので、創価大OBのネットワーク力、連帯感というものは凄いものだと感心したものです。

  (創価学会・公明党「カネと品位」:福本潤一:講談社:2008:p106

   

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   宮本邸電話盗聴は創価学会攻撃の急先鋒である日本共産党対策の一環として行われた。始めは日本共産党本部を盗聴する予定であったが日本共産党の本部は警戒が強く盗聴不可能と判断し、急遽、宮本邸へ変更された。宮本宅は信じられないほど警備が手薄であった。

 池田大作の承認のもと、当時ナンバー2であった北條浩副会長の決済で、公明党の陣中見舞金(政治献金である)をごまかして造った裏資金(一千万円余り)の提供を受け、山崎正友が学生部幹部数名ほど(中心者は広野照夫と竹岡誠治だった。二人とも現在は創価学会大幹部である。竹岡誠治はNTTドコモ事件をも起こしたことで有名である。竹岡誠治が宮本邸の前の電柱に上り、盗聴器を仕掛け、また新しい盗聴器に交換することも彼が行い、盗聴器を取り外すことも彼が行った。彼はそのため創価学会に於いては非常に重用された)を動員して行った。昭和四十五年五月から約三ヶ月間にわたって行われたこの作戦では二、三の重要な会話の盗聴に成功したものの第二の盗聴器の不調によって発覚し、共産党は東京地検に告訴した。共産党は公安の仕業と考えていた。山崎正友の内部告発がなかったら事件は迷宮入りしていた。

 盗聴のアジトは学生アパートであった。新しい盗聴器に交換することを行わなかったなら、この電話盗聴は相手に気付かれることなく完全犯罪となっていた。新しい盗聴器の動作不良で相手に気付かれたのである。盗聴器を作成したのは学生部班長で松本篤であった。始めの盗聴器が良好に作動していたにも拘わらず雑音を異常に気にし、盗聴器を交換しないと雑音で気づかれてしまうと考え、新しい盗聴器に交換するというミスを犯す素人の盗聴軍団であった。山崎正友が雑音を異常に気にし、それを広野照夫も異常に気にし始め、盗聴器作りができる松本篤に盗聴器をもうひとつ造らせ、竹岡誠治を再び電柱に上らせて取り替え作業を行うという誤った判断をしてしまった。

   この刑事告訴は犯人不明のまま(おそらく公安の仕業と言うことで)迷宮入りとなったが五十五年八月、山崎正友氏の内部告発手記を契機に日本共産党は北條浩氏らを相手取り損害賠償請求を起こし事件は最高裁まで持ち込まれた。結果は、日本共産党側の完全勝利に終わり昭和六十年四月、東京地検裁判所は北條浩の遺族へ百万円の損害賠償、山崎正友、広野照夫、竹岡誠治には各百万円の支払いを命じた。創価学会側の被告は最高裁判所に上告したが途中で上告を取り下げ損害賠償を一方的に支払った。内部告発手記を発表した山崎正友は宮本氏側から損害金の支払いを免除された。

  (再び、盗聴教団の解明:山崎正友:日新報道:2005:p80-255

   

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   北条、秋谷ら首脳はいい機嫌で警視庁のSPの刑事らと一緒に食事を取り、それから酒を飲んだ頃に、原島嵩教学部長から山崎正友に館内電話が掛かってきた。

  「昨夜と、その前の夜、池田先生の様子がどうも変なんだ。はっきり言って異常に取り乱している。私たちとはろくに口も聞かないで泣くな妹よ、妹よ泣くなの歌のレコードを繰り返しかけては涙ぐんでいるんだ。なにかあったのですか?」

   山崎正友は思わず息をのんだ。

  「今月の『月刊ペン』のことを知っていますか?」

  「いや、知らない。今、忙しくて読む暇がない。読んでいない。何を書いているんですか?」

   山崎正友は持参していたカバンのなかから四月号のゲラ刷りを取り出して読んで聞かせた。

   電話の向こうで、今度は原島嵩が息をのんだ。

   

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p58

   

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   52年路線という言葉があるんですが、創価学会が宗門日蓮正宗から場合によっては独立も辞さずというような指導を池田大作さんがなさったようなんですね。

   それに対して非常に多くの幹部が危惧をもった。果たして日蓮正宗抜きに創価学会がありうるのか、と。

   で、池田さんの行動を非常にハラハラする思いで見ておったんですが、創価学会の悲しさというのは、そこで大幹部、会長、副会長といえどもそれを直接、諫言できないわけです。

   そして直言、諫言する代わりに私に情報を流して、そしてこれはあとでわかることですけれども、私が記事を書くことによってそういう池田大作さんに対するブレーキを果たす、そういうことで五十二年頃から池田大作さんの御乱行、奇行、女性問題、そういう情報が非常にたくさん入るようになりました。

   始めは私、そういうなかで、例えば煙草だとか水でもお茶でもうどんでもなんでも、ちょっと自分で口を付けては、お下げ渡しをして、その下げ渡されたものを、どういうふうに受け取るか、その受け取り方によって側近幹部の忠誠度を探る、そういうようなことを書いているわけです。

   それが色々な話を聞くうちに、女性関係をも創価学会の幹部の人心操縦に使っている、要するに、お手つきの女を幹部に払い下げて、そしてそれを素直に受け取るかどうか、それによっても忠勤度を試す。

   あるいはちょっと世間の常識から外れた、いわゆる単なる女性のスキャンダルではなくて、要するに閉鎖集団の中での非常に権力のある人が、その権力を笠に着て、女性をスパイに使ったり、あるいは今言った幹部の人心操縦に使ったりというような話が、だんだん私の方に入ってきまして、折しも、私が「現代」の七月号の記事を書いたのは……

   

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   私の義妹に当たる通子は周知の通り、世間を騒がせた「月刊ペン」裁判で、池田とのあらぬ仲を取り沙汰された当人だ。あの裁判が開かれた当時、多くのマスコミが真相を知るために我が家へやってきた。妻や義母は肉親の情から全ての事実に口をつぐんだ。それが結果的には、法廷に立たされた池田の嘘八百を庇うことになった。

   あの裁判に於ける池田の偽証工作の実態については、私の身内の証言だけで立証可能だが、ここで少し明かしておきたい事実がある。

   それはほかでもない。池田から通子に醜悪な誘いがあったのは本当だった。そして、もし誘いを受けた通子が池田をはねつけていたら、逆に池田のいやがらせを受けて、彼女が国会議員になる道は閉ざされていただろう、それだけは紛れもない事実なのである。

   大人の男と女だ。世間に良くあるような恋愛なら、第三者が口出しすべき筋合いのものではないと私も思う。しかし、池田大作は女性会員とのふしだらな関係は恋仲などと呼べる代物ではない。池田は創価学会会長という立場を利用して、人妻であれ、結婚前の独身女性であれ見境なし。女性を自分の権力誇示のために弄んできただけのことだ。

  (池田大作の素顔:藤原行正:講談社:1989:p43

   

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   つまり、告訴人である池田大作の証人出廷を阻止するためには、裁判所、検事、弁護人、そして告訴を担当した弁護士を、それぞれ山崎正友が書いたこのシナリオどおりに動かさなくてはならない。

  …………

   いかに巨大とはいえ、一宗教団体の中心者の「法廷に立つのは厭だ。法廷に立つのは厭だ。しかし、悪口を書いた奴は許せぬ」という我がままを通すために、検事や裁判官に協力させ、弁護士を買収し抱き込むという、前代未聞の陰謀をこれから行わなくてはならない。

  …………

   山崎正友は説明しながら、

  「果たして、このなかの何人が理解できただろうか」

  と、内心しらける思いだった。

   とにかく、池田大作の証人出廷がなくなって自分たちの首が繋がった、とひと安心するだけだろう!!

   

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p194-5

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   何しろ、銀座で働く女性の一割以上が学会員だから、隠しようがない。

   昭和五十二年六月ごろ、学会本部近くの料亭で会食したあと、何を思ったか池田大作は、山崎正友に五百万円の札束を渡して、

  「好きに使え」

  と言った。

   そして、同席していた首脳たちを見やりながら、

  「仕事のできる男は、女の一人や二人いたってどうということはなかろう。要は仕事ができるかどうかだ」

  と言って、山崎正友を振りかえり、意味ありげにニヤリと笑った。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p224

   

  ————————これをどう考えますか?

      私はここに池田大作の非人間性を垣間見てならない。

  もう一度書く。

      私はここに池田大作の非人間性を垣間見てならない。

   

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   広島文化会館の専用室は、豪華な檜風呂などがあって、税務署が調査した際、

  「とうてい宗教の用に供しているとは認められない」

  として、課税対象にした。そのことがマスコミに取り上げられたので、その文化遺産的お人好しだけ認めることで逃れようとしたのである。

  (法廷に立った池田大作——続「月刊ペン事件」:山崎正友:第三書館:2001:p213

   

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   池田大作は、検事の主尋問の最後に裁判長の方を向いて述べた。

  「私は裁判所を信頼しています」

   この裁判所をコロッとだます殺し文句は、池田大作が昭和32年、選挙違反で起訴され、有罪間違いなしと言われたときに、土壇場で池田大作が用い、奇跡的な効果をもたらした。

  …………

   ところが弁護人は、池田大作がこう言うだろうと予想していたのだ。

  「あなたは、昭和32年の選挙違反の裁判でも同じことを言いましたね」

  と質問されて、バレたか、というようにきまり悪げに、

  「はい言いました」

  と答えた。

   だが、池田大作は、例えば宮本邸電話盗聴事件のような不利な判決については、未だに認めようとしないし、裁判所を信頼など決してしていない。

   本心では自分以外の人間を、誰一人として信頼していないのだ。

  (法廷に立った池田大作——続「月刊ペン事件」:山崎正友:第三書館:2001:p215

   

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   質問趣意書の内容は、

  「創価学会が、巨額の金を集めて全国に建設している会館や研修道場について、法令や規則に違反して取得したり工事を行っているものがたくさんある。違法建築によって、自然環境を破壊している。また、全国各地に池田会長専用の豪華施設を造っているが、これらは宗教の用に供しているとは思われない。課税対象にすべきではないか」

  というような、手厳しいものであった。

   池田大作は、会員から集めた650億円の金で全国各地に施設を造り、それぞれに豪華な専用施設を造っていたが、それらはすべて池田大作の直接の指示によるものだった。他の首脳も、その全容を知らなかった。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p250

   

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   池田大作の暴走に急ブレーキが掛けられ、北條浩、中西治雄らは、違法行為の隠滅のために全国を駆け回った。せっかく造った施設や庭園、記念碑などを打ち壊し、あるいは地中に埋めた。池田専用豪華施設に、にわか造りの牧口常三郎・戸田城聖ら初代・二代会長の位牌やゆかりの品を並べて恩師記念碑に改装した。

   法学委員会出身の公認会計士たちを動員して、本部や地方本部の経理書類の改竄も行った。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p250-1

   

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  「創価学会は、日蓮大聖人の説かれた教義から逸脱している」

  と、公然と批判を開始し、

  「謗法に染まった創価学会をやめて、寺院直属の信者になりなさい」

  …………

   こうした状況の中で、日蓮正宗側の攻撃はますます勢いづいて、結局、創価学会は全国的に謝罪し、池田大作は会長職から名誉会長へと棚上げされ、「会の運営には一切タッチしない」と約束して、何とか日蓮正宗との間に休戦協定を結ぶことができた。それらの交渉は、日蓮正宗側に寝返った裏切り者だと承知の上で、山崎正友に依頼するしかなかった。

  …………

   日蓮正宗側から見れば、

  「創価学会とは手を切っても良いと思っていたが、山崎正友が仲介に立ったから、このへんで手を打ったのだ。創価学会が生き延びられるのは、山崎正友のおかげだ」

  というわけだが、創価学会の方はそうは言わない。

  「池田大作も創価学会も何も悪いことはしていない。すべて山崎正友が画策し、日蓮正宗と創価学会を喧嘩させ、その間に立ってうまい汁を吸おうとしたのだ」

  という解説をしなくては、池田大作の無謬性を守ることはできないからだ。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p251-3

   

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   山崎正友が、創価学会と決別する気になったのは、創価学会がもはや日蓮正宗の信徒団体ではなくなったと見定めたからであった。彼が忠誠を尽くしたのは、日蓮正宗信徒団体としての創価学会であり、つまるところ、御本尊と日蓮大聖人の心棒者として、守護に殉ずる心の故であった。

   その創価学会が、池田教になり果てようとし、そして日蓮正宗を攻撃し支配する対象とするようになったとき、山崎正友は、創価学会のなかにあって公然として日蓮正宗擁護に立った。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p260

   

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   だが、全国に、当時でも四百余(本人の証言。今日では千数百)あった会館や研修所に、それぞれ、特別豪華な、池田専用施設フロアーを造り、他に白雲寮”“加住研修所”“対山荘”“渋谷分室など、数億の建設費を投入して造った豪華専用施設を有していることは、広く世間に知れ渡っているのだ。その中の幾つかは、設計図や見積もり図、写真までが流出して再三マスコミ紙面やグラビアを賑わしてきた。

   その建設費から維持運営費まで、すべて創価学会が、会員から搾り取った金で賄っているのだ。会員から摂取した金で、石油成金のアラブの王族以上の、贅沢な暮らしをしている実態を隠して、一般サラリーマンに毛の生えたような生活ぶりを、ヌケヌケと協調しようと試みたのである。

  (法廷に立った池田大作——続「月刊ペン事件」:山崎正友:第三書館:2001:p212

   

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   池田大作は、さらに強硬な手段に及んだ。各地で、創価学会に批判的な僧侶をやり玉に上げ、集団で総括した。多勢で取り囲み、ののしり、脅迫した。

   その対象は、御法主上人の若い直弟子に的をしぼり、徹底的にしぼり上げた。抵抗すると、

  「大石寺に青年部が押し掛けて、お前の師匠の御法主をつるし上げるぞ!」

  と脅した。創価学会の狙いが、御法主上人の引き落としにあると知って、つるし上げられた僧侶たちは自分が我慢してすむのならと、土下座し、泣く泣く、詫び状を書いた。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p245

   

  —————こういうことが許されるのでしょうか?

   

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  池田大作の日蓮正宗乗っ取り作戦

   昭和四十九年三月頃、池田大作が、山崎正友らに日蓮正宗征服の計画案を作らせた。

   それは次のようなものである。

「山崎・八尋報告書、昭和四十九年四月十二日。

 本山の問題についてはほぼ全容をつかみましたが、今後どのように処理して行くかについて二通りの選択肢があります。

   一つは、本山とはいずれ関係を清算せざるを得ないから学会に火の粉が降りかからない範囲で、向こう三年間の安全確保を図り、その間、学会との関係ではいつでも精算をつけることができるようにしておくことであります。

   一つは、長期にわたる本山管理の仕掛けを今やっておいて背後を固めるという方法です。

   本山管理に介入することは火中の栗を拾う結果になりかねない危険が多分にあります。しかし私の考えでは本山、日蓮正宗は、党や大学、あるいは民音以上に学会にとっては存在価値のある外郭団体と思われ、これを安定的に引きつけておくことは広布戦略の上で欠かせない要素であると思われます。こうした観点から後者の路線で進むしかないように思われます」

   そして大石寺支配の方法として、

  一)本山事務機構(法人事務、経理事務)の実質的支配

  二)財政面の支配(学会依存度を高める)

  三)渉外面の支配

  四)信者に対する統率権の支配(宗制・宗規における法華講総講頭の権限の確立、海外布教権の確立など)

  五)墓地、典礼の執行権の委譲

  六)総代による末寺支配

  を上げている。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p235-6

   

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  (超強気になった池田大作、日蓮正宗攻撃に着手)

   昭和五十一年十二月中旬、北條浩から問題(民社党問題)は無事解決間違いなし。メデタシ、メデタシとの報告を受けた瞬間から、池田大作は、超強気を取り戻した。

   折から、十二月下旬に投票が行われた総選挙では、創価学会が言論問題の際の約束を反故にして、それ以前にも増してなりふりかまわぬ政教一致の選挙運動を行った。

   会館や研修所をフルに使い、候補者の激励会や集団戸別訪問をあおり立てる指導会が繰り返された。早朝五時ごろから本部や会館などに招集された会員たちは、勤行唱題のあと、幹部たちの最下級のアジ演説を浴びせられ、候補者が畳に頭をすりつけ、涙を流して哀願する姿を見せつけられ、

  「今、一票を獲得することは折伏を一人するのと同じ効果がある。いずれも同じ、末法の折伏業であり、広宣流布のための仏道修行である!」

  と、念を押されて、そのまま集団戸別訪問へと散っていく。

  (「月刊ペン」事件 埋もれていた真実:山崎正友:第三書館:2001:p230-231

   

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  『これは最近あったことですけども、法華講に入講した方の処に、学会員が複数でやって来て、「学会を辞めるなら退会届を書いてください」と言って書かせるんです。そして「もう一枚お願いします」と言って、続けて二枚書かせるのです。

  本人は「退会するには二枚書類が必要なのかな」と思って「退会届」を二枚書いたつもりなんですが、実はそのうちの一枚は「脱講届」だったというわけです。そういう事件がありました』

  (妙教 平成二十二年7月号 69頁)

   

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   釈迦の死後およそ百五十年後、マウリア王朝のアショーカ王(阿育王)は、仏塔を発掘して得た遺骨を細分して全インドにおびたたしい仏塔を建設した。

   これらの仏塔を管理したのは都市の資産家・地主・商人たちであった。

   この人たちはかつては比丘教団を供養し支えてきた人たちだったが、比丘たちが教理解釈の相違から二十の分派に別れ、経や律の研究書である論書を造るのに熱中したりして在家信者の宗教生活の指導などさっぱりしてくれないので比丘教団に見切りをつけ、「釈尊に帰れ」の旗印の下、仏塔のまわりに次々と集結するようになった。仏塔を拝むことは釈尊を拝むことと同じだった。 

  …………

   仏塔への憧れから比丘が仏塔信者の方へ走ったのでは堪らない。そこで比丘教団の各部派は競って仏塔を建設するようになる。

   こうなると比丘教団と仏塔信者団との格差が無くなってしまう。そうなると経や律を持っている比丘教団に敵うはずがない。

   仏塔信者団の中にさらに革新的な団体が生まれて来て、自分たち独自の経典を創作しようではないかという動きが活発になって来たのであった。私はこの団体を仮に「経典結集菩薩団」と呼んでいる。

   こうして創られ始めたのが、般若経、法華経、大無量寿経、華厳経、唯摩経、大日経などの、いわゆる大乗経典であった。

   これらの大乗教典は、原始仏教の経典がパーリ語で書かれたのに対して、サンスクリット語(梵語)で書かれた。そして、教訓的と言うよりは極めて芸術性の高い、文学的な経典であった。

  (「法華経」を読む:紀野一義:講談社:1982:p55-6

   

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  原島:山崎さんの事情とは何だったのですか。

  山崎:じつは、昭和五十一年秋、「東洋物産」の不始末に対処するよう命じられたことから、翌五十二年四月より、そのためシーホスという会社を使って、冷凍食品販売の運営を引き継いで面倒見る羽目になったのですが、それが、聞くと見るとでは大違いで、とんでもない赤字垂れ流し状態の会社の運営を背負わされたのです。

   昭和五十二年秋と五十三年秋、責任者の北条氏に、これ以上持ちこたえられないから、整理したいと申し入れたのですが、手がけてきたことが重荷になり、苦しんでいる私の足元を見られ、

  「今のような、学会が宗門と民社党に前後から攻撃され、いつマスコミが騒ぐか分からない状況下で、東洋物産がらみの思い切った始末はできない。まず、宗門問題を収めることに協力してくれ。そうしたら、必ずシーホースの整理に着手するから」

  と命じられて、シーホース整理を盾に、否応なく宗門問題に向かわされたのです。

  原島:シーホースというのは、山崎さんが恐喝を働いたという、三億円の授受の舞台になった会社ですね。

   私にも、未だに分からないところがあります。そう思っている人も少なくないと思います。

  …………

  山崎:ここでは、北条氏から、「宗門問題が解決したら」と、私に、猊下への取り次ぎを引き受けさせる条件として使われた、ということだけを述べるに止めます。

  原島:シーホースの原因となった「東洋物産」は、大蔵商事と並んで戸田城聖氏が経営していた会社で、池田大作は大蔵商事の営業部長、北条氏が、東洋物産の社長でした。

   大蔵商事は、学会員から月三分の高利で金を集め、これを月五分以上で貸し付けて運営していた会社で、東洋物産は、大蔵商事で担保に取り、流れた品物を学会員に売りさばく会社でした。そのうち、電化製品から鍋釜まで、何でも学会員に売りつける会社になり、昔の学会首脳は、この会社で食べさせてもらっていた人が多いのです。

  「東洋物産」は、北条氏の監督責任下にあった会社ですから、その不祥事は、北条氏の責任になります。

   当時、池田大作が「東洋物産」の件で嫌みったらしく北条氏を責めていましたよ。

  …………

  原島:その北条氏が、昭和五十二年に池田大作が熱海で山崎さんを総括しようとしたあと、山崎さんのことを「あんな奴は使うだけ使ってポイだ」などと口走っていたのですから、創価学会は異常なところでしたね。

  山崎:私に面と向かっては、ただオロオロと機嫌を取り、なだめるばかりの人でした。

   

  (懺悔滅罪のために!:原島嵩、山崎正友:慧妙編集室:2007、p148-50

   

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   現在、創価学会では「戦争に反対し、平和主義を貫いた」から弾圧を受けたとしていますが、それは真っ赤な嘘です。当時の学会の機関誌「価値創造」を見ると、戦争を賛美した記事が多く出ており、ヒトラーさえ賞賛している記事もあります。ただ、御札を拒否し、燃やしたりしたため、「不敬罪」と「治安維持法」で摘発され、逮捕・拘禁されたのです。

  (絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007:p114

   

   牧口常三郎は、「天皇以下、国民全てが日蓮大聖人に祈らないから戦争に負ける。大聖人が仰せの通り、他の宗教を禁じて、日蓮正宗の御本尊に戦勝を祈らなければ国が滅びる」と説き、また、当時の郡部の宗教政策であった「日蓮宗各派の統一」に反対したため、不敬罪で投獄されたのである。戦争に反対したのではなくて、戦争に勝つため自宗での祈りを国家に求めたが為に弾圧されたのである。

   当時、全ての宗教が戦勝祈願をしたのだから、そのことをどうこういうつもりはない。創価教育学会の実験証明座談会も、まず宮城遙拝、戦勝祈願から始められていたという、当時の記録もある。それを反戦平和の宗教などと作り事ですり替えることは、詐欺師の行為である。歴史の出発までこのようにねじ曲げる理由は、池田大作がノーベル平和賞を狙っていることと決して無関係ではない。

  (懺悔の告発:山崎正友:日新報道:1994:p74

   

   このように原島嵩氏と山崎正友氏の意見は共通しているところもあるが、少し食い違っているところもある。

   

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   池田大作のおごりは日に日に高まるばかりでした。口を開けば日達上人の悪口ばかりでした。「日蓮正宗の血脈は創価学会に移った」などと日蓮正宗の血脈否定の発言もあり、「創価の血脈」なる新語も生まれました。自分が日蓮大聖人の再誕あるいはそれ以上の存在であると誇示することさえありました。「池田本仏」の思想は池田大作の言葉にも表れ、側近幹部はあげて「池田礼賛」に余念がない風潮、雰囲気は、当時の趨勢となっていたのです。

  (絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007:p51

   

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   私は、せめて「先生をお守りしたいばっかりで」というのが精一杯でした。すると「私なんか守らなくていい。私は牢をも辞さない男なんだ」とののしり断言しました。その罵声の激しさは、数人のまわりの側近たちさえ震え上がるほど凄まじいものでした。その時、平成十八年十一月九日に選出された原田新会長がいましたが、私に「原島さんの言っていたことは正しい」とただ一人、私に同調して語っていました。

  (絶望の淵より甦る:原島嵩:日新報道:2007:p157

   

  —————池田大作は大阪事件の時、警察におびえて、二十一人の仲間を売った男です。私は牢をも辞さない男なんだとはとうてい言えない人間のはずです。

   

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   ここでもう一度、石田次男の『内外一致の妙法 この在るべからざるもの』を引用したいと思います。

  「池田氏は七月三日に府警へ出頭。その後、拘置所入りして、二十一日間の拘留満期まで頑張り通さず、全面自供をして十七日に出て来た。だからこの後しばらくは会内でも極めて低姿勢を貫いて『<全面自供をしないと戸田先生を引っ張る>と言われ、そうなっては大変だから自分が敢えて泥を被る形を取ることで決まりを付けて出て来ました。法廷闘争で頑張ります』と言い訳をしていた。だが、正義のはずの法廷闘争から約二十人の有罪者が出たことは、ちっとも正義ではなかったことを物語る。池田氏は自分の連帯の罪をこれら各個人の単発罪であるかのように、偽証で形を整えて、無罪判決を貰っただけだ。

   この事件で『戸田先生を引っ張る』と言った地検が戸田先生を引っ張らなかったのは何故か? 

   ……事件を担当した清原次席検事(地検ナンバー2)が断念したからに過ぎない。昔のことで、もう迷惑が及ぶこともないであろうから真相をここに明らかにしておく。

   …………(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p81-2

   

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   池田大作は「昭和五十二年路線」の初めから「日蓮正宗の信心」ではなく、「創価学会の信心」を強調し、宗門への攻撃を行っていました。

   一月十五日の「仏教史観を語る」では、一)会館は近代の寺院である 二)在家であっても供養を受けられる 三)学会員は、出家・在家の両義を兼ねる、等日蓮正宗否定の講演をしました。

   また、その翌日の第四回伸一会総会では、

  「大聖人の場合は人数も少なかった。時代も違う。弟子も少なかった。信者も少ない。そういう意味から言えば楽である。我々の場合には時代は激動である。そしてマスコミもある。陰険な人間ばかりである。大変なことである。しかし一代では終わらない。大聖人の場合は一代で一応終えられた」

  と発言しています。まことに恐るべき大謗法の発言です。自分は、大聖人以上の存在と発言しています。まことに恐るべき大謗法の発言です。自分は、大聖人以上の存在であると、伸一会(池田の後継者の集い)のメンバーに平然と語っているのです。

   同様の発言は「大聖人は七百年前に御出現なされた。しかし、全然広まらなかった。創価学会が正しいんです」(同年一月二十六日、インターナショナルの日)

   このように、大聖人を見下してまでも自らの絶対化を図る一方で、日達上人のお弟子方に対しては、次々に吊し上げをしていきました。これには、北条、秋谷副会長(当時)、原田稔青年部長、野崎男子部長(いずれも当時)等が関係していました。もちろん、池田が陣頭指揮をとったものです。僧侶を怒鳴りつけ、「創価学会に感謝しろ」「詫び状を書け!」等と迫り、居丈高に、僧侶の名を呼び捨てにし、一方的に吊し上げたのです。原田、野崎の二人は、僧侶に詫び状を書かせた後「これでは本当のお詫びにならない」と言って、詫び状を突き返したことがあり、北條浩副会長(当時)は「詫び状を返したなんていうのはとんでもない。昔の青年部の邪宗折伏はそんなものではなかった」と語っていました。日蓮正宗が邪宗と見立てた言辞です。

   ここに原田副会長に宛てた、昭和五十二年十月二十一日の「竹岡文書」があります。それには、「経過について」と題し、

  「本年一月より詫び状を取った坊主は以下の通りです。

  ………………

  …………

   まさしく昭和五十二年は、池田が狂気の路線を突っ走った年でもありました。創価学会は「慧光照無量」と書かれた用紙に個人の名前を連記させ、会館に「位牌」をしつらえて、学会幹部が導師となり青年部が給仕をして法要を営みました。そして「ただいまは池田大作のお力によって慧光照無量の功徳を先祖に回向しました」と、挨拶をしました。

   いったい御書のどこに「慧光照無量」の紙片をもって先祖回向をさせよという文証があるのでしょうか。歴代証人のいかなる文献に依ったのでしょうか。結局、池田の思いつきであり、日蓮正宗を衰微させようとする意図以外に考えられません。

   御書には「塔婆」に題目をしたためて先祖の回向をせよとあるだけです。しかも日蓮正宗においては、その題目は僧侶でなければ書写してはいけないという化儀があります。御書を軽視し、化儀をないがしろにして、しかも信徒の寺院参詣を妨げることは、取りも直さず、人々を成仏の道から遠ざけるの所業であると談ぜざるを得ません。特別財務も、昭和四十九年から千四百億円を集める予定でした。全てが学会の思い通りに行くかに思われました。そこへ降って湧いたような事件が持ち上がりました。

   昭和五十二年五月三日頃、学会はある重要文書を入手しました。それが民社党の「質問趣意書」でした。

   

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p141-8

   

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   フランス下院、創価学会に警告

   

   昭和六十年にフランスの下院は創価学会に対して次のような警告を発しました。

  「今日、私はフランスであなた方の組織の金銭に関する『いかがわしい』関係について、あなたに注意を喚起します。三つの点を取り上げましょう。

  会員に金を払わせるための圧力

  集めた資金の管理を要求する会員に対する暴力

  日蓮正宗欧州協会とフランス日蓮正宗の会計上の混同」

   フランス下院は創価学会を「エセ仏教」「セクト」と断定し、同国に於ける金集めに手厳しい批判を加え、池田に書簡を送り、議会で取り上げたのです。学会は「日本の恥」以外の何ものでもありません。

   

   池田の力の源泉は、なんといっても金脈です。しかも、その金の力で、日本国を乗っ取ろうとしているのです。もはや池田創価学会に宗教法人としての自浄作用はありません。日本政府は政党を実質支配し恒常的な政治を信仰の名目で営む同会から、無税の特典を排除すべきです。少なくとも巨大教団にはガラス張りの経理を求め、積立金の利子には課税すべきです。

   日大の北野弘久教授(税法学)も「アメリカでは、宗教団体でも営利団体の性格を強めたと認められれば、非課税の優遇処置は取り除かれる」と指摘しています。

  「信仰の自由」だからといって、その社会性の側面まで「治外法権」としてはなりません。しかも池田には脱税の疑惑はますます深まっています。「薄く、広く」などといって、一般大衆からのみ税を取るのではなく、甘い汁を吸う巨大教団にメスを加えるべきです。

   創価学会の会員も、「功徳」「福運」「罰」といったアメとムチの言葉に踊らされることなく、本当の信仰は利害を越えた人間の魂を磨くところにあることに気付いて欲しいものです。とりわけ創価学会の金集めが「供養」の名のもとに行われていることも教義上の誤りであり、会員は、勇気をもってこれを拒絶していただきたいものです。

      (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p183-5

   

   

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   金を集めないという嘘

   池田大作はつねづね「口巧く、天才でなければならない。口八丁、手八丁でゆけ」と私たちに指導していました。

   この「口八丁」の天才が池田大作です。

   かつて創価学会が急成長を遂げていた頃、他宗の信者を折伏し、入信させるときのうたい文句が「金のかからない宗教」でした。

   たしかに、日蓮正宗の寺院で御授戒を受け御本尊を御下付いただく際に、応分の御供養と数百円の数珠・お経本だけで、そのほかは寺院に賽銭箱がある訳ではなく、学会に寄付や会費を取られるということもありませんでした。

   戸田二代会長はつねづね「宗教で金儲けしようとするインチキ宗教どもを退治しようというのが私の根本精神」と語って、他教団の金権体質を攻撃することを、布教の最大の武器としてきました。

   その方式は池田にも受け継がれ、昭和三十年代はしばしば他宗を次のように批判しました。

  「今までの宗教はぜんぶ企業であります。法盗人、法を盗んで、そして信者を奴隷の如く扱い、金儲け専門であります。だから邪宗というのです」(聖教新聞:昭和38年8月17日、北陸総支部幹部会)

  「邪宗教はあくまで金儲けのための信心であります。金儲けのための企業が邪宗教であります。それに反して、日蓮正宗の信心は、私どもは誰人からも一銭も貰わず、——中略——人を救っているのが創価学会なのであります」(聖教新聞:昭和36年4月8日)

  「邪宗などは、みんな巧いことを言って金を巻き上げて、教祖のために、それから教団の勢力のために、それも、本当に人が救えるならば許せるけれども、ぜんぶ地獄に堕ち、民衆は教祖に騙されて、そして教祖は立派な家ばかり作り、民衆は最後には乞食みたいになってしまう。これは邪宗教の姿です。——中略——創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養願うようなことはいたしません」(聖教新聞:昭和37年6月16日)

   このように「他教団=金権腐敗」、「学会=清廉、無報酬の奉仕」というイメージを繰り返しアピールしてきたのです。そして、

  「日蓮正宗を守っていくことは私どもの役目です。——中略——創価学会としては、永久に皆さん方から、ただの一銭も寄付を願ったり、供養を願うようなことはありません」(聖教新聞:昭和37年6月9日、中部本部地区部長会)

  と語ってきたのです。

   ところが、いまでは毎年一千数百億円とも二千億円とも言われる財務集めが年中行事化し、自殺者まで出すような始末です。池田はこの一点だけでも、宗教者としての罪、万死に値するものがありましょう。

  「一、地区幹部は少なくとも十万円以上すべきである。

   一、現在もっている預貯金全部出すのは当たり前だ。それにどれほど上乗せするかが信心の戦いだ。

   一、各支部で十万円以上出す人を三十人以上作れ。

   一、支部内で百万円以上の大口を何人作るかが、支部長、婦人部長の戦いだ」(故福島源次郎氏『誠諫之書』)

  「永久に会員から寄付を取らない」と言っていたことは、今日、その嘘が青天白日の元にさらされています。かつて池田が攻撃した邪宗教の姿が、現在の創価学会そのものです。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p234-7

   

   

       大きな建物を造らないという嘘

   また、池田はかつて「学会は大きな建物は造らない」と言明していました。

  「学会は大きな戦艦のような建物は造らないよ。全国の小さな会館が飛行機の役目をするのだ」(「前進」:昭和40年8月)

  「この建物は小さいけれども、我々の拠点であります。私どもは喜んで小さな拠点を造っている訳なのです。他の教団などに於いては、すぐに信者から金を搾り取って、虚栄のため、商売のため、宗教企業のために大きな殿堂を造ります。私どもの会館建設に当たっては、会員の皆さんの負担とせず、新聞や雑誌の利潤を少しづつでも蓄積して造っていることを知っていただきたいのでございます。創価学会は形式的な大きな建物を、将来も排除していきます」(聖教新聞:昭和39年9月15日)

  「ほかの立正佼成会や天理教は、全部教祖が懐に入れて、さも立派そうな大聖堂だとか、やれ病院だとか、こんどは天理教あたりは七階建てとかで、地下四階の大きい本部を造って、東京進出のビルを造るとか、そんなことばかりやっている。悪い連中ですよ。

   実際、宗教に無知な人が多いですから、みんなに騙されて、金を取られている。それで教団の勢力を張っている訳です。

   私はこれから本部を造る。それからいろいろと東京や関西にも本部を造って、第一本部、第二本部と造ってきておりますし、これからも準備もしておりますけれども、一切、皆さん方から永久に一銭も取らない、これが私の精神です」(聖教新聞:昭和37年4月16日、埼玉総支部地区部長会)

   こう約束し、会館建設に当たっても永久に寄付集めをしないと繰り返し公言していました。これが大嘘であったことは記すまでもありません。池田自身『週刊朝日』のインタビューに答えて、

  「特別財務というのはね、各地の会館や研修道場などの総合整備計画に合わせて、その趣旨を会員にもご理解いただいて拠点をお願いしたものなんです。昭和49年から52年までの4年でーー中略ーー合計六百数十億円になったと思います。——中略——それに特別財務の状況や会館整備の進み具合などは各県ごとにきちんと報告しています」(昭和56年4月10日号)

  と述べています。会計報告のくだりはともかく、会館建築を名目として、当時、秘かに六百数十億円もの金を集めていたことを認めているのです。

   昭和50年6月16日、本部中央会議を開いたときにも、

  「会館建設のため各地域で特別財務をやっているが、みんなもやった方が良い。自分の功徳になるし、仏法のためにお金を使った方が裕福になる。自分の体験からも言える。心良く御供養するよう指導したことにも功徳がある」(内部文書)などと「供養」の名のもとに金集めを煽っているのだから、あきれた話です。こうした虚言は、こればかりではありません。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p237-9

   

   

     事業に手を出さないという嘘

   かつては、

  「班長さん、地区部長さんの中には、ずいぶん利口な幹部もおりまして、学会もこれだけ大きくなったのだから、やれ、ああいうバス会社を造ったら良いではないか。ああいう印刷工場を造ったら良いではないかと、いろいろなことを言ってくる人がいるのです。——中略——そういうように言ってくること自身、その人に信心がないし、学会利用の根性があるのです。我々も普通の人間です。いろいろなことは良く知っております。しかし、そういうことは全部厳禁して、あくまで世界でただ一つ信心根本に純粋のなかの純粋で、一切衆生を幸福にしようというのが、代々の会長の精神ではありませんか。——中略——悪い不純なことに対しては、いっさい戦っていく決心でありますから、一緒に協力してくださいね」(聖教新聞:昭和38年1月27日、関西第二・三本部結成式)

  などと庶民の味方を気取り、さも金銭には無縁で、純粋な宗教運動を目指しているかのように装ってきました。

   これも今では信濃町周辺を中心に、全国に書店、レストラン、寿司屋、パーマ屋、葬儀、結婚式場、中華料理、運送、保険、金融、旅行、バス会社、墓苑、建築、電気製品販売、マスメディア等多くの事業を展開しています。そして、お雇い社長連中を集めては「ユダヤ人は金を握っている。実業家になったんだからうんと金持ちになることだ」(昭和47年6月15日、社長会)などと親分よろしくハッパをかけています。

   また大学の建設にも「寄付など一銭も受けませんことをご承知していて下さい」(聖教新聞:昭和41年5月3日、本部総会)と言いながら、創価大学建設に当たっても、影の会長と言われた中西治雄などを使って学会員から約十億の寄付を集めています。

    (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p239-41

   

   

    墓苑を経営しないという嘘

   さらに墓苑事業についても、

  「本当のことをいえば墓地なんか全部、日蓮正宗でやってもらいたいです。しかし日蓮正宗はご存知の通り貧乏です。創価学会を代表して、私は御法主上人猊下に全部御供養申し上げております。創価学会としては、そういう墓地の問題になんか絶対に手をつけません。全てお寺の問題であります。本山のことであり、宗門のことでありますから、その点は、はっきりしていって、全部御供養してございます」(聖教新聞:昭和38年4月2日、高尾墓園完成式)

  と、宗門に忠実で、さも純真な信徒ぶってはみましたが、学会は現在八つの巨大墓園を経営し、売上一千数百億円を誇っています。何が「創価学会としては、そういう墓地の経営なんか絶対手をつけません」でしょうか。この事実からも、池田の言葉が虚言であったことが証明されます。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p241-2

   

   

    政界の浄化が目的という嘘

   池田の虚言はこうした金銭面だけでなく、政治面にも露呈しています。

  「わが創価学会は、他宗派の如く、企業でもなく、ただ、勢力の拡大を目的とするものでもない。また、決して政権を考えているものではない」(大白蓮華:昭和36年6月)

   かつて、このように公言した池田が、突然、前言を翻し、

  「公明党政治連盟をば、皆さんの賛成があるならば、王仏冥合の達成のために、また時代の要求、民衆の要望に応えて、政党にするも良し、衆議院に出すも良し、このようにしたいと思いますけれども、いかがでございましょうか。(大拍手)それでは全員の賛同を得ましたので、これをもって決定いたします」(昭和39年5月3日、本部総会)

  といって、衆院進出を図ったのは有名な話です。

   池田は公明党結成時に、

  「政界を浄化するのが役割の公明党に、将来、もしも万一、派閥が生じたり、汚職議員がでたりすれば、直ちに党を解散させる。国民の皆様にそうお誓い申し上げます」

  「公明党は反自民・反権力・反大資本・自民党連合はあり得ず」

  などと大見得を切り、政界浄化と革新のポーズを装いましたが、その後の公明党はどうだったでしょうか。汚職議員は続出し、右往左往の路線変更、結局、今では自民党と組み、創価学会が政権を陰で動かす現状ではないでしょうか。いまの公明党は、その結党当時の精神に照らし、もはや解党すべきであると思います。

   今日まで取ってきた公明党の右往左往の路線変更は、ほとんど池田の党私物化に起因するのであり、とくに池田大作の国会喚問が公明党変節のキーワードです。言論問題、民社党「質問趣意書」、糾す会国会請願、大橋問題など、国会喚問が話題に上るたびに公明党は振り回され続け、なりふり構わず池田を守るため犠牲を払ってきたのです。

   先の衆議院総選挙で、公明党は四十二議席から三十一議席に激減しました。これは自民党との選挙協力が巧く行かなかったことにも原因がありますが、何よりも創価学会=公明党の力が弱まったことに由来しています。そうは言っても油断は禁物です。自民党も勢力を激減し、ますます公明党の助けを得なければ成らなくなっているからです。それにしても、自民党が大幅に勢力を減退させたのは、公明党と組んだからであり、公明党の助けを借りれば借りるほど、ますますその傾向は顕著になっていくでしょう。いまの公明党は、国民の大多数から信用できない政党とされているからです。

   それにしても、池田の虚言癖の症例は枚挙にいとまがありません。政教分離にしても、

  「創価学会と公明党は同体異名の団体であります。永久に創価学会と公明党は一体不二の関係で進んでいこうではありませんか」(昭和40年7月、青年部最高幹部会)

  「創価学会と公明党の関係は、あくまでも、制度の上で、明確に分離していくという原則を、更に貫いていきたいのであります。——中略——学会員個人個人の政党の支持は従来通り自由であります。——中略——政党支持に就いては会員の自由意志に全く干渉するものではない」(昭和45年5月3日、本部総会)

  「竹入に今まで以上に王仏冥合政教一致で行け、と言おうか」(昭和45年5月5日、「社長会記録」)

  「政教一致——大きなお世話。不仲説——誰が言ったか。親として自分の手製の党、心配するのは当たり前」(昭和50年7月8日、婦人部長研修会)

  「政教一致は間違いです」(朝日新聞:昭和60年19月30日夕刊)などと、時と相手によって言うことがコロコロ変わるのが分かります。いま、学会員の中で、政党支持の自由があると思っている人は一人もいないでしょう。まったく池田は、数限りない虚言を持って、学会員を騙し、世間を騙し続けてきたのです。その挙げ句「ともかく私は、会員を政争の道具にしてはならない、と思っている」(読売新聞:昭和50年7月3日)などと述べていますが、いったい誰が公明党を作り、会員の政党支持を束縛し、組織票を状況次第で右へ左へ売りつけているのでしょうか。池田が政治的野心を捨てない限り、会員は政争の道具と成らざるを得ません。

   池田の得意技は、煽てたり、餌をちらつかせるラブコール戦法にあります。これには、政治家、財界人、文化人、マスコミ等が、ほとんど手もなくやられてきました。宮本顕治氏もその一人です。池田は、大森実氏との対談で、

  「十数年前から『この人(宮本氏)は屈指の指導者になるな』と思っておりました。——中略——現在の指導者で右に出るものはないでしょう」「私は一貫して共産党の言うことを理解しておりました……未来に於いて協調すべきだし、それしかないのです」(週刊現代:昭和48年4月12日)

  と述べて、宮本氏をおだて、これによって創共協定が結ばれたと言われています。昭和45年、創価学会は組織ぐるみで宮本宅の電話を盗聴し、その一方で友好的に接近し一杯くわしたのです。

   また池田は、昭和45年の言論妨害事件直後、当時の西村栄一民社党委員長に財界有力者を通じて「公明党を丸ごと受け取ってくれ」と心にもないことを働きかけました。

   昭和56年にも同じような手を使っています。北条前会長の通夜の晩、池田にこっそり会った民社党の佐々木良作元委員長は「『佐々木先生には今後、特別いろいろお世話にならんと思います。政権も担当して貰わなきゃ成らん筋になります』とささやかれた。『どきっ』とする話しぶりだった」(朝日新聞:昭和63年10月「一日生涯」)と証言しています。

   社会党の江田三郎氏はもっと悲劇でした。池田は、矢野らによって提唱された革新再編成の旗印のもと「公明党の看板はなくなってもいい」(昭和51年5月17日)と、公明党を解党して社公民新党を結成すると空手形をちらつかせ、江田氏を迎える構想で乗せたのです。その上で、翌年三月、党内から批判を浴びていた江田氏に離党を迫るとともに、マスコミにリークして、離党せざるを得ない状況にしたと言われます。

   もちろん、こうした画策と平行して、自民党田中派、田中・二階堂氏を中心にたえず選挙協力、国会対策でエサをまき、徐行連立の機を伺い続けたことは言うまでもありません。

   こうした心にもないラブコールの常套句が「学会が全力を挙げて先生をお守りします」「先生には将来00界の指導者として立って下さい。全面的に応援します」などというもので、池田と交渉のあった政治家、外交官、財界人、文化人、ジャーナリスト、学者、僧侶など、ほとんどの人がこれに類した言葉をささやかれたかと思います。

   要するに、創価学会という大組織の票、購買力、政治力、財力、人脈などをエサにちらつかせ、その気にさせるのです。会員数交称一千七百万人という大ボラ(実質約五百万人)や派手な文化祭は、このエサを誇大に見せかけて幻惑するための重要な仕掛けなのです。しかし、エサには必ずヒモが付いています。飛びつけば高いツケを払わされることを覚悟しなければ成りません。

    (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p242-8

   

   

    際限のない池田の嘘

   池田は一般人への虚言にあきたらず、日達上人に対しても両舌を振るっていたのです。池田は、

  「猊下より、僧侶より、我々が敬われるなどということは、とんでもないことです。私は聞いていまして恥ずかしくて恥ずかしくて、汗が出ました。——中略——……最近はお寺に行くと、非常に丁重にして下さる。以前はそうではなかったのですが、だがそういうことは、いっさい必要ありません。信者には信者の道があります。これは皆さんも忘れてはいけません」(昭和41年五月三日、本部総会)などと謙虚ぶっているが、その前年の十一月、品川・妙光寺で開かれた正本堂建設委員会で、自分の席が日達上人より下位であることに腹を立て、柿沼総監を罵倒して会合を流会させています。そのようななかで宗務院は宗内に対して総講頭(池田)の待遇につき、

  一、法要の席は特に設ける。

  一、法要以外は法主上人にならぶ。

  一、末寺に来たときは法衣をつけて門前まで出迎える。

  一、尊敬の誠を尽くして待遇すること。

  の各項目を通達されています。池田は、宗門について散々に悪態をついた挙げ句に、「謙虚」のポーズを取っているのです。このような馬鹿げた話はありません。

  「私の代に、米国にとどまらず、南米にも寺院の建立をし、日達上人猊下にご寄進申し上げたい。さらに、もっと働き、努力して、皆さん方にはいっさい負担をかけずに東南アジアにも、欧州にも寺院を建立し、ご寄進申し上げたい所存であります。——中略——中共にも、ソ連にも寺院を建立して、猊下にご寄進申し上げたいという覚悟でございます」(聖教新聞:昭和40年8月30日)

   このような寺院寄進計画も二百ヶ寺建立計画に代表されるように、途中で財務集めの名目に利用されましたが、反古になったり、数字のごまかしで帳尻を合わせ、まともに履行した試しはありません。

   また昭和四十五年前後、妙信講問題で窮地に陥った学会は、日達上人に守っていただいて切り抜けましたが、そのさい池田は「将来、学会を解散して、お寺につけます」などとリップサービスしています。これについても、昭和四十七年前後の広布第二章、創価学会万代路線によって反故にしてしまったのです。

   一方で妙信講問題を巧みに利用して「妙信講が命を狙っている」「学会がお守りします」と宗門に進言し、妙信講を引き合いに出して自らを正当化しています。また、日達上人には「今回の共産党との協定対談を行ったのは妙信講と共産党の結託を断ち切るためであった」(昭和50年8月10日、「北条報告書」)などと平然と虚偽の報告をしています。これについては、池田自身、裁判の証言で、嘘であることを認めています。まことに、池田の嘘と画策には際限がありません。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p248-50

   

  )仏教擁護で飾った池田の狂言

   

     数珠さすり 

   池田は創価学会の頂点にあって、会員を徹底的に無知愚鈍なものとしてさげすみ、自らは悟りきった仏のように振る舞いました。そのために、おびただしい仏教語が乱発されました。しかし、それらの言動は大いにうさん臭いものであり、言葉も無内容なものばかりでした。

   そこで、ここでは池田の信仰の根にあるものを洗い出してみることにいたします。

   霊感、マジナイ、感応、祈祷と書けば何やら連想ゲームじみてきますが、これは他でもない池田大作の体内を流れる血ともいうべきものです。

   池田大作の元の宗旨は祈祷の本家である真言宗でしたが、あたかも池田はその血筋を大切に守るかのようにマジナイじみたことを平気で行っていました。その方法は、数珠で病人の体中をさする、患部を数珠で叩く、頭を数珠でさすり祈念する、など多様でした。

   もちろん、これらの行為は、

  「法門を持て邪正を糺すべし。利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄)

  と示された大聖人の教えに反し、日蓮正宗の教義にも背くことですが、信仰心のない池田は、むしろそれらの行為を得意気に行っていたのです。

  「未だかつて、病気に人なんかで、僕の頭に入った人で、祈って死んだ人は一人もいないんだ。これはひそかに自負している」(昭和51年8月22日・内部文書)

   これは嘘です。たとえば私の父は、昭和39年12月に55歳の若さで急逝しました。北條浩第四代会長も、昭和57年7月に58歳で急逝しました。なによりも、自分の次男・池田城久が昭和59年10月に29歳で急逝しました。これらの人達は、池田の頭の中(意識)に入っていなかったとでも言うのでしょうか?

   池田は数珠さすりのマジナイを自分の母親にも行いました。

  「これは、ここだけの話にして欲しいのだが、私のお袋は81歳になるが、実は一度死んだんだ。葬式まんじゅうも用意して葬儀屋も手を打った。弔辞も全部用意した。私も久しぶりだったが足を運んだ。するとみんな泣いている。そこで私は初めて数珠を持って題目を唱えながら、もう死の寸前のおふくろの体中をさすってあげた。足も全部冷たくなっていた。——中略——すると6月末に死ぬのが、死ななくなってねー。2千個の葬式まんじゅうも腐っちゃたんだ。医者も、もう一度医学を初歩から始めると言っていた」(昭和51年8月22日、内部文書)

   町の祈祷師のような池田の姿が彷彿としてくるような話です。もっとも、いくら「死の寸前」とは言え、自分の母親の亡くなる前に弔辞を作ってしまったり、2千個の葬式まんじゅうを用意してしまうようなことは孝行息子のすることではありません。早手回しも、時と場合によっては人間性を疑われることになります。もっとも、これも話だけのこと(要するに嘘)に違いありません。

   池田の数珠による祈祷は、私にも向けられました。昭和54年の秋、私は心臓の具合が悪く、家(社宅)で休んでいましたが、突然、池田が我が家を訪れ、私を御本尊の前に座らせ、背中から心臓のあたりを、数珠で叩いたのです。池田は「これでお前の心臓は大丈夫」と語りましたが、私は却って気持ち悪くなりました。

   宗門僧侶への数珠さすりは二件ほど事実が上がっています。一つは、昭和51年11月に行われた宗門・学会の連絡会議の席上のことです。

  「吉田渉外、5時30分頃、貧血?顔面真っ青にて汗をかく。会長題目を唱えながら、背を数珠でさすり、やがて畳へ寝かせる」(昭和51年11月、記録)

   これは、東京・青山の博文系寿司店・満月で起こったことです。私も、この席にいましたから、一部始終を目撃しました。血圧の低い人が貧血を起こし気分を悪くされることはそれほど珍しいことではありませんが、どんなことでも自分の見せ場にしてしまう池田は、この時とばかり数珠を取り出して吉田渉外部長(当時)の体をさすったのです。貧血はしばらく安静にすれば自然に治るものですが、池田は、渉外部長が意識を取り戻したことを「どうだ、俺がお数珠でお数珠で体をさすってやったので治ったぞ」と自慢していました。

   もう一件は、昭和53年、本山妙蓮寺の漆畑日広御尊能化に行われたものです。漆畑師は当時、宗門の能化職にある高僧でしたが、入院中の御能化を見舞った池田は、例によって数珠を使い気味悪くマジナイをしたといいます。このことは、傍近くにいた僧侶が呆れて人に話されて次第に知れ渡り、宗門の問題となりました。

   この宗門の僧侶に対する数珠さすりは宗門を見下すための池田の示威行為でもありました。両師も心の中で、池田の行為を迷惑がられていたに違いありませんが、池田にとって、僧侶を、それも宗務役僧や能化といった高僧を、いささかマヤカシではあるが祈祷によって治癒せしめるということは、この上ない愉悦であったのです。

   大聖人は「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(立正安国論)と示されていますが、池田の祈祷好きは、自身の「一凶」であるマジナイ体質を一向に禁じられませんでした。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p251-5

   

   

         池田式感応

   彼が独特な目つきで人の顔をジッと見つめることは良く知られていますが、その時「知っているよ。何もかも全部分かっているんだよ」と呟かれれば苦労人の多い婦人などが感極まることはあり得ることです。いづれにせよ、会員を盲目的に服従させるために、すべてお見通しであるかのように振る舞うのです。そしてこのような霊能者気取りが、ただの気取りならまだしも、それが信仰の世界に持ち込まれると、途端に邪教的雰囲気を帯びてくるのです。

  「妙法の世界は感応妙の世界なんだよ」「信心の究極は感応妙だ」「学会員のあの人達の一念が私にはよく分かるんです。……感応妙だよ」(「前進」:昭和43年11月)

   感応妙とは、御本仏と衆生の感応が深妙であることを明かした語です。池田は、この「感応妙」を乱発して自分と感応する会員だけに福運がつくと説きました。

   池田は電波のように、題目を会員に送ると言い、それに会員は交感しなくては駄目だと言います。

  「私には全部分かっている。また、本部からいつも(会員に)会えないから、電波を発信しているのだけれども、いくら発信しても受信機が壊れていては何にもならない」(「前進」:昭和44年5月)

  「本当に苦しんだとき、百万遍の題目を唱えなさい。勇気ある実践をしていきなさい。皆さん方に題目を送ります。皆さん方もしっかり題目を上げて欲しい。送信機がいくら立派でも、受信機が壊れていては駄目だ」(「前進」:昭和44年10月)

   これは、その「感応妙」について自ら具体化して述べたものです。題目を電波に例えるなど非常に安易な思いつきですが、これがそのまま会員の信仰世界に移植されていることは間違いありません。

   本来、唱題の対境であるべき御本尊は、池田にとって池田と会員の仲立ちに過ぎないのです。つまり池田が発した題目を会員が受けてそれに感応するというのならば、御本尊は既に要らないのです。その証しとして、池田は「本尊は何も喋ってくれない、大聖人も何も言わない。だから自分が必要なのだ」と常々いっています。しかし、「常住此説法」といって、御本尊は常に私たち衆生に説法して下さっているのです。池田の発言はこのことを否定しているのです。

  「境地冥合」にしても、本来は御本尊と信仰者の関係を言うものですが(原義には更に深いものがありますが、ここでは略します)、池田にかかれば自分と池田の関係になってしまうのです。

  「私を離れて、いくら戦っても駄目だ。私と境地冥合していなければ、異体同心とは言えない」(「前進」:昭和40年7月)

   これでは、池田は完全に本尊に成り代わっています。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p255-7

   

   

      池田の師弟観

   また、しばしば池田は、不遜にも大聖人に成り代わりました。

   例えば、日蓮大聖人が一連の法難を受けて一切衆生の罪障を消滅したという代受苦を説明した上で

  「同じように、そういう方程式ですと、増上慢になりますけれども、私は、全学会人の罪を消すために、私は受けているんです。受けざるを得ないんです。代々の創価学会の会長というものは。だから、なかなか、厄介なんだ。重罪を消してこそ、ずーっと皆さんは、罰も少ないんです。罰も少ない。牢へ入ることも何もない。(私は)一人で受けている」(昭和50年3月16日、岡山最高協議会)

   全くの増上慢です。大聖人=池田の図式は、やがて大聖人をも超越して池田本仏への主張へと変わるのです。

   さらに池田の強引な自己宣揚と幹部の追従の結果、学会内には特異な師弟論が形成され、これが組織に大きな弊害をもたらす結果を招きました。

   池田の師弟論の根幹は、まず池田自らを絶対無謬の師匠という立場に置き、弟子である幹部や会員を無知暗愚の存在と規定することから始まります。

   池田が常に中心であり、本体であり、智慧のある人である。それに対して会員は末端などと呼ばれているように、枝葉であり、周辺であり、無知の人々である。つまり、上下の徹底した完全な差別の上に池田の師弟論は成り立っています。これは会員が「我々は『無智の者は此経を説く者に使われて功徳をうべし』の如く、先生の元で戦わせていただくこと自体に誇りと喜びを持って戦っていきたい」(「前進」:昭和41年10月)と奴卑となって池田に仕えるという信条を吐露していることからも伺えます。

   池田の方でも、表面ではさも学会員を守るかのようなポーズを取りながら、心では見下しており、外部の人間にはしばしば、学会員は無知で世間知らずであると公言しています。

   例えば昭和51年、創価大学図書館落成の折に開かれた文化祭で、池田は来賓に向かって「こんなものは昨日も埼玉で見て、見飽きました。この連中は歌を歌わせておけばいいんです」と言い、周囲の人を唖然とさせています。

   池田の師弟不二は、あからさまに言えば、かしこまって緊張した幹部を前にして、寝そべって女子部員に胸をさすらせたり、果物をくちゃくちゃ食べながら指導するような振る舞いに端的に表れています。

   あるいは宗門の役僧の前でも同じように、一人だけ寝そべり、それが会議の席上であるにも拘わらず「あんまさん、爪を」といってアンマに爪を切らせたりもしているのです。

   そうして池田は絶対者、他は服従者と規定された師弟論は、さまざまな仏教用語を悪用して形作られていきました。その中には「倶体倶用」「依正不二」という高尚な仏教用語も含まれています。しかし、それも池田の口から出たときには全く別の意味内容になっています。

   詳しいことは省略しますが、例えば、池田がよく使う「私は倶体、諸君は倶用」というのは「私は本体だから動かない、お前たち(学会員)は用だから動け、本体を守れ」というほどのものであり、全くの仏教音痴故に発言し得るものです。

   およそ、池田の無修正の内部指導と称するものの中には、仏教の初門を知るものに取ってさえ、実に幼稚で吹き出しかねないものが大半なのです。それは単なる思い付きであったり、恣意的にねじ曲げられていたり、こじつけの類です。

   時には、身なりの貧しい青年部員をつかまえて「もっとちゃんとしろ! 依正不二だ」などと言います。

   どんなに俗っぽい指導も仏教用語で煙に巻いて、さも奥深い意味ありげな指導であるかのように思わせるのです。教義は宗教上の生命線のはずであり、最も大切にされるべきものですが、どうみても池田の指導は無内容な詐欺師の語り口であり、日により時により

   

   

   

   

   

   

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   そのあと、下へ降りてから上田雅一現副会長が私に『おい、見たか、見たか』と非常に興奮して言うのです。私は『いったい、なんのこと?』と聞くと、『赤い紅が付いていたろう。あれは口紅なんだ』といいました。それで私も『あれは確かに血ではない紅だ』と思いました。私は当時結婚していましたが、そういうことにはうぶで、フェラチオも知りませんでした。上田さんは、不良出身で、『あれはフェラチオだ。前からあんなふうなことをやっているんだ』といい、私が『まさか』というと、『いや本当なんだ』といって、十数名の女性の名前をあげました。

   そして、第一庶務には、いわゆる第一庶務と、本当の第一庶務がある。本当の第一庶務とは池田大作と肉体関係のある人たち。いわゆる第一庶務は関係のない人たちで特別施設などへ池田が行く場合、本当の第一庶務の人に、いわゆる第一庶務の人を組み合わせてカムフラージュしているのだ、ということを言いました。第三に、池田大作はここ十年間、暴力団の襲撃を防ぐために家に帰らないと言っているが、本当は地方の各地にそれぞれの女性がいる。第四に、女性に胸のあたりをさすらせ、次いで腰をもませ、さらに男性の重要な部分を握らせて、そうして(心理的に)乗り越えさせるのだ、と、以上のことを上田は話しました」

  (池田大作の素顔:藤原行正:講談社:1989:p132-3

   

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   一般には知られていないが、公明党議員は資金集めのためのパーティひとつやるにも池田の顔色をうかがわねばならない。公明党の「党首」池田大作の発想からすると、公明党の都議、国会議員といえども自分の一兵卒に過ぎない。その一兵卒が自分の許可も得ずに都内の一流ホテルで派手なパーティをやるなどというのはあってはならない背信行為と移る。しかも、公明党の場合は国会議員なら千人から二千人程度、都議クラスなら二、三百人の規模が一つの不文律とされているのである。

   今回の私のように五千人を集めた派手なパーティは前代未聞であり、池田の神経をわざと逆なでするやり方だった。しかも私の手元からほかの議員連中へ資金が渡るのも池田は気に入らないだろう。

   私のパーティ当日、池田と秋谷は中国訪問の旅行中だった。ところが私のパーティにまぎれ込んでいたゴマスリ幹部が「一大事です!」とばかりに国際電話で現地の池田へご注進に及び、怒り心頭の池田はその旅先で秋谷に土下座を命じたのである。

  「藤原にあんなパーティを開かせやがって! おまえの監督不行届だ。ここで土下座して私に謝罪しろ」

   異国の地で、他人の目も憚らず、池田はこう怒鳴りつけたのである。さすがに秋谷も屈辱で顔が青ざめていたという。が、最後はホテルの床に這い、創価学会第五代会長が土下座した。池田の命令に従ったのである。それが影響したか、秋谷はこの旅先で体調を崩し、日程半ばで帰国。腸閉塞で緊急入院した。手術のあと転地療養へ出かける秋谷に池田は学会の会長専用車の使用さえ禁じた。おそらく秋谷の胸中には無念さが渦巻いていたことだろう。

  (池田大作の素顔:藤原行正:講談社:1989:p261-2

   

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   五十四、五年頃だから、まだ城久君は二十代半ばだったろう。池田は私たち幹部に向かって次男への「世襲」を匂わせ始めていたのである。

  「城久を衆議院へ出して公明党委員長にしたい。どうだ、みんな応援するか」

   それがやがて「城久は学会の後継者だ」という形で風向きが変わり、池田は次男への政権委譲に着々と手を打った。まず創価大学、創価学園出身者から息子と同世代の優秀な人材を選び「二十七人会」を結成。この集団は学会内部で「ご学友グループ」の異名で呼ばれ、城久君本人も次期後継者の意欲を強めていた矢先であった。

   創価学会は「世襲」を禁じた宗教団体である。ところが、池田は用意周到な根回しによって、創価学会は池田家のものであり、池田城久はその池田家の二代目、将来の会長だという既定路線を作り上げ、学会内で暗黙の了解事項となっていたのである。

   要するに息子への「会長世襲」は、池田が長年に亘って画策してきた学会私物化の総仕上げであった。学会内に池田崇拝の空気を行き渡らせ、創価学園、創価大学という私兵養成学校で池田家の親衛隊を育て、その現体制の延長線上に城久崇拝をおく。これが密かな池田大作の野心であった。城久君の死という不測の事態が起きなければ、池田の目論見は十中八九実現しただろう。

  ……

  ……

   池田の息子が死んで助かった、やっと気が楽になった。これまでずっと我慢してきたけど本当に辛かった。お前の子供が死んだのは信心を怠けた証拠だと顔を見る度に池田から説教されたり、皮肉られたり、怒られたりした。それが息子の死で嫌味を言われなくなったというのである。私自身、その現場に居合わせたこともあるが、子を死なせ、病気で苦しむ学会員の不幸を池田は笑いさえした。

  (池田大作の素顔:藤原行正:講談社:1989:p264-6

   

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  (弁護人・西川)「特別書籍部の関係なんですけれども、二十一世紀への対話というのでトインビー博士と池田さんの対話があったですね。これが代作であるというのは、どの部分が代作なのですか?」

  (原島嵩)「往復書簡の形を取っておりますが、その往復書簡は、池田さんの問いについての内容、それからまたトインビー博士から質問が来ます。それに対する答えの内容、それを全てまとめた人が桐村泰次さんです。そういう意味です」

  (弁護人・西川)「それから、キッシンジャーへの書簡、これについてはいかがですか。これも書簡の原稿を」

  (原島嵩)「それは全面的に松本和夫氏(新・人間革命の著者)がつくったということです」

   

  (法廷に立った池田大作——続「月刊ペン事件」:山崎正友:第三書館:2001:p151-2

   

   そして御義口伝講義は池田大作・著となっているのに驚いたが、あれは原島嵩氏が書いたものである。池田大作はあのような難しいものは全く何も書けない。

   

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  『中西氏は「あの人(池田)に諫言しても無駄である」と素直に語ってくれました。私は意を決して、五月中旬から、内部告発にふみきる決断をしました。私に同調してくれたのは中西氏ばかりではありません。かつては上田雅一も「原島が池田と対決するときは、私も一緒だ」と言っていました。桐村泰次も、昭和五十四年八月頃、私が本心を打ち明けたとき、「僕も一緒に立ち上がる」と語っていました。野崎至亮(当時、講義部長)も、池田に対する見解は私と同じであり、やがて、池田を告発するための手記の草案について、共に作成にあたってくれました。それ以外にも、私に「やれ、やれ」と言ってくれた人々は、少なからずいます。心ある人たちの本心は、みな私と同じ気持ちなのです。(池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:p34 )』

   

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    武闘班

   

   また、格闘技有段者を集めた特別行動班(武闘)として、暴力実行グループまで組織されていました。

   昭和四十九年に起きた、いわゆる妙信講学会本部乱入事件は、スパイを潜入させ、本部構内から妙信講を挑発するのに呼応する形で本部乱入をあおり立てました。本部構内に入った妙信講青年部を、逆に武闘で徹底的に打ちのめしたのです。

   この武闘グループを「アース隊」と呼び、この時とばかり活躍しました。この「アース隊」は、消化器を持った青年部が妙信講を殺虫剤で駆除するということになぞらえたものです。

   この時、創価学会側は被害者を装いましたが、実際にはスパイを潜入させて学会本部乱入を引き起こしたのであり、内部情報を逐一入手し、妙信講の動きも手に取るようにわかっていました。そして弁護士、宗門の首脳を待機させて、暴力を振るったのは、創価学会側の方であり、むしろ創価学会が加害者だったのです。しかもこれを機に妙信講を宗内から絶縁させたのですから、妙信講は創価学会の謀略にはめられたと言わざるを得ません。

   現在この武闘班の役割は、昭和六十三年七月に起きたマスコミ取材班に対する創価学会暴力事件に見られるように、特別警備に受け継がれ批判者を威圧しています。

  (池田大作・創価学会の真実:原島嵩:日新報道:2002:p270

   

  ♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦

   先日、脱会した、同じく池田家の家政婦をしていたAさんの話ですが、時たま、池田家の掃除を行い、めったに入れない部屋に入り、作業を行いました。その際に、非常にびっくりしてしまった場面がありました。

   当時は、Aさんは池田センセーのことを無条件で尊敬し、渇仰していたのですから、信仰面に関しては完璧に朝夕の勤行を始め、池田家のご本尊のまわりは荘厳されていると思い込んで、仏間の掃除を始めたのです。

   本来、家庭にあるご本尊のお給仕はその一家の中心者が真心から御本尊様をお守りして仏壇の埃を払い「おしきみ」「蝋燭」「線香」を整えて勤行を行うことが正しい信徒の姿なのです。

   Aさんがびっくりした場面とは、明らかに池田センセーをはじめ、家族が勤行を行っている気配が感じられなかったことと、仏壇の中が埃にまみれていたことで、大変なショックを受けたというのです。

  (池田大作の品格:小多仁伯:日新報道:2007:p184

   

  ♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦

   ガンジーやキング博士がいろいろな迫害を被り、最後は痛ましい暗殺という手段で葬り去られました。この二人は、毎日のように暗殺者が屯する会場や集会に生命をかけて出向き真実を叫び続けました。これを「闘う」というのであると思います。一方の池田大作は、五十数年、指導者として君臨していますが、常にマインドコントロールされている学会員の中だけにしか登場できない臆病者で、しかも過度の警備陣に守られながらの立ち居振る舞いだけです。なんで、この不甲斐ない指導者がガンジー・キングと同列に「世界の偉人」となるのか、嗤ってしまいます。

  (池田大作の品格 part2:小多仁伯、小川頼宣:日新報道:p15

   

  ♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦—————♦♥♦

   

   西日本のある県では、全員の県議会議員が創価大学OB生で固められています。それらの県議会議員には、それぞれ創価大学OB生の息子たちがいましたが、痛ましいことに、ある人は交通事故で亡くなり、ある人は難病で亡くなるなど、皆若くして早死にするという不幸な出来事に見舞われました。周囲の人たちは、この不幸に何か呪われているのではないかと語り合っているといいます。

  (池田大作の品格 part2:小多仁伯、小川頼宣:日新報道:2009:p38

   

 

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 最近あるところでは新しい本仏ができたようなことを宣伝しておる、ということをうすうす聞きました。大変に間違ったことであります。もしそうならば、正宗の信仰ではありません。正宗の信徒とは言えません。(中略)

 大聖人様以外に本仏があるなどと言ったならば、これは大変なことである。(中略)広宣流布はしなければならん、けれども教義の間違った広宣流布をしたら大変であります。

             (昭和四十九年四月二十五日)

 

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 蒲田支部の支部幹事や男子部部隊長などが、暴力団・池田の会長就任に纏わるすべてを「きたない」として「顕徳会」と名乗る分派を結成。この旗揚げは、名誉会長の蒲田での言動、大阪補欠選挙——いわゆる「大阪事件」に関する対応、青年部「池田派」すなわち暴力団「池田派」の秩序破壊の行動などを踏まえてのことだった。対する学会は、学会除名と、宗門に働きかけて、「顕徳会」の不認知・破門で抗した。正宗からの破門は、当時の信者にとって、何よりも堪え難い措置である。こうして造反運動は潰れた。

 学会再建に尽くした最高幹部達は、名誉会長や青年部のクーデターに不満を抱いても、反旗を翻すことは出来なかった。戸田先生の「譲る会長は一人でありますが、その時に、分裂があってはなりませんぞ」という言葉に縛られたのである。

 また、反乱に失敗して、生活を破綻させ、かつ、正宗から破門の怖れもあった。議員という栄誉や会員からの信望も惜しい、との打算もあったのであろう。それだけ、学会総体の躍進は凄まじいものがあった。めざましく発展してゆく学会を前にすれば、青年部「池田派」すなわち暴力団「池田派」の行いを認めざるを得なかったとも言えるのではないか。

  (池田創価学会の真実:戸口浩:日新報道:1992、p170

  (注;これは昭和36年頃のことになるだろう。このように暴力団・池田潰しの運動は彼方此方で起こっていたのである)

 

 

 

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 池田の最大の失敗は宗門と手を切ったことである。しかし、たしかに学術上、間違いなく富士大石寺の大御本尊は第9世日有上人の時代に造られた偽造本尊である。それなのに、あれだけ力があった。本物の保田妙本寺の末法万年救護の大本尊はもっと力がある。

   創価学会が保田妙本寺を新しく本山とするならば創価学会員は幸せになり、広宣流布も達成されると信じる。(1月3日2011年 午前648分) 

                                                

   

   

   

  【補記】

   なし

[8] 


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